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東京都・陸軍少年飛行兵学校の碑 [├場所]

   2015年7月訪問 2021/12更新  

「東京陸軍航空学校滑空場跡地」には2014年6月にお邪魔していたのですが、

碑のデータを失くしてしまったため、またお邪魔したのでした。

今回の記事は、「東京陸軍航空学校滑空場跡地」 に地図付きで追記してあります。

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飛行学校正門跡に建立された碑。

説明版(全文): 武蔵村山市指定旧跡 東京陸軍少年飛行兵学校跡地 指定第二十一号 平成十九年七月十日指定 この「東航正門跡」石碑の建っている場所には、かつて東京陸軍少年飛行兵学校の正門がありました。東京陸軍少年飛行兵学校は、陸軍航空兵養成のため、昭和十二年(一九三七)十月、熊谷陸軍飛行学校内に東京陸軍航空学校として開校しました。翌昭和十三年(一九三八)九月、村山村中藤(現在の武蔵村山市大南三・四丁目)の立川陸軍飛行第五連隊射爆場跡に二十万坪(約六十四万㎡)の敷地を得て移転してきました。その後、昭和十八年(一九四三)三月の陸軍少年飛行兵学校令公布により、東京陸軍航空学校は東京陸軍少年飛行兵学校と名称を改めました。当時の様子を留める建物は現在残っていませんが、かつての少年飛行兵学校の跡地には「東航正門跡」石碑と「揺籃之地」石碑が建てられています。武蔵村山市教育委員会では、市内に大きな軍事施設が存在したことと、少年飛行兵学校を卒業した多くの人たちが戦死したことを後世に伝え、世界恒久平和を祈るために、その記憶をとどめる二つの石碑が建立されている地を、「東京陸軍少年飛行兵学校跡地」として市の文化財(旧跡)に指定しました。平成二十一年三月 武蔵村山市教育委員会

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説明版の写真

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碑の裏側はこんな。

(全文)昭和十三年九月 東京陸軍航空学校(のち東京陸軍少年飛行兵学校)が開校されこの地が正門跡地である 陸軍航空の中核として活躍した陸軍少年飛行兵第六期生から第二十期生まで二万八千名が誠忠の志高く青春の全てを捧げ祖国の安泰と繁栄を念じて日夜心身を練磨した地である 平成十一年四月吉日 武蔵村山市

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碑のすぐ近くにある標識。

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手前から奥に向かう道が「東航通り」。

(暗くてよく分からないですけど)画面左端にあるのが、ここが学校正門跡に建立された碑。

先に進む方向が学校中心部です。

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正門跡から左クランクで奥に進んだ先にある碑。

飛行学校本部校舎の跡地。

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碑の下部(全文):建立の趣旨 ここを中心に二十万坪の地は、東京陸軍少年飛行兵学校の跡である。陸軍少年飛行兵制度は昭和九年二月、第一期生の所沢陸軍飛行学校入校にはじまる。次いで陸軍航空の拡充要請により、昭和十三年、この地に東京陸軍航空学校が創立され第六期生が入校した。終戦までに第二十期生、巣立った若鷲は四万六千。支那事変に続く大東亜戦争において大陸のまた南海の大空に活躍したが、祖国の安泰と繁栄を念じて悠久の大義に殉じた戦没者は四千五百余柱を数う。昭和三十八年、ここに陸軍少年飛行兵戦没者の慰霊碑を建立し慰霊の誠を捧げてきたが、このたび、永代の供養を念願して禅昌寺に遷座することとなった。若鷲揺籃のこの地に記念碑を建立し、これを長く後世に伝えるものである。平成二年十月十日 陸軍少年飛行兵出身者一同 少飛会

横に設置された説明版(全文): 武蔵村山市指定旧跡 東京陸軍少年飛行兵学校跡地 指定第二十一号 平成十九年七月十日指定 この「揺籃之地」石碑の建っている場所には、かつて東京陸軍少年飛行兵学校本部校舎がありました。東京陸軍少年飛行兵学校に入学するには小学校高等科卒業以上の学力を有する満十四歳から十七歳までの者とされていました。授業の科目は、午前中が国語・数学や兵器学など、午後は軍事教練などの術科と体操でした。また、学校北側の練兵場では、グライダーによる滑空訓練も行われていました。これら一年間の課程が修了すると、適性検査の後、操縦、整備、通信の各分野に分かれた二年間の上級学校に進み、その後全国の飛行隊に配属となりました。当時の様子をとどめる建物は現在残っていませんが、かつての少年飛行兵学校の跡地には「東航正門跡」石碑と「揺籃之地」石碑が建てられています。武蔵村山市教育委員会では、市内に大きな軍事施設が存在したことと、少年飛行兵学校を卒業した多くの人たちが戦死したことを後世に伝え、世界恒久平和を祈るために、その記憶をとどめる二つの石碑が建立されている地を、「東京陸軍少年飛行兵学校跡地」として市の文化財(旧跡)に指定しました。平成二十一年三月 武蔵村山市教育委員会


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コメント 7

鹿児島のこういち

正門の様子という写真がありますが、この門の形、鹿児島の万世飛行場の見つかった正門と似ています。陸軍の飛行場の正門は決まった型があったのでしょうか?ここは陸軍という見ただけでわかる様式だったのかもと、自分は考えてしまうのですが(^O^)知覧飛行場の正門とも似てると思います。
by 鹿児島のこういち (2015-11-03 00:13) 

an-kazu

ウチの近所には「キャベツの碑」があります。

宅地化がどんどん進むと、ホントの記念碑に
なり下がってしまうのでしょうか(;^ω^)
by an-kazu (2015-11-03 09:45) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございますm(_ _)m

■鹿児島のこういちさん
オイラは決まった形があるのかどうか残念ながら分かりませんが、
確かに似てますね。
規格があったのかも。

鹿児島のこういちさん、マレーシアGPのロッシxマルケス どう思いますか?

■an-kazuさん
>「キャベツの碑」
ググってみました。
こんな碑があるんですね~(@Д@)
以前もどこかに書いたかもしれませんが、オイラの親戚が石神井公園のすぐ近くに住んでいて、
時々遊びに行っていたのですが、確かに緑色のコロコロが畑にたくさんありました。
by とり (2015-11-03 19:10) 

鹿児島のこういち

お互いプロなんですもの、潰し合いをするのは当たり前なのかもですよ。ロッシが進路を妨害したりとか、蹴りを入れたとか、アマチュアのスポーツとは違って十分ありえると思います。F1で言うとセナとプロストみたいな関係じゃないでしょうか?ロッシから見たら、マルクスは目の上のたんこぶのようなものではないでしょうcか
by 鹿児島のこういち (2015-11-04 21:59) 

とり

■鹿児島のこういちさん
お考えを聞かせて下さりありがとうございます。
鹿児島のこういちさんは肯定派なんですね。
オイラはレースでこんなにえげつない行為を見たのは初めてだったので、ビックリでした。
ネットでいろいろ見てみると、賛否両論真っ二つですね。
目の上のたんこぶというのは確かにその通りと思います。
年齢差を考えると、一年の重みが違いますよね。
久々にワールドチャンピオン返り咲きできそうなロッシに対し、今シーズンマルケスは無関係。
偉大なる先輩に対し、少しは遠慮して引いてあげてもいいような気がしたのですが、
オランダアッセン、そして前戦でのロッシのコメント等が伏線になっていたのか、
マルケスも相当危ない走りでしたね。
こんな気持ちがないと、とてもワールドチャンピオンなんて成れないんでしょうね~。
次の最終戦、一体どんな結末になるのか、ハラハラです。
by とり (2015-11-05 18:31) 

鹿児島のこういち

とは言え、ルールを守らなければならないのは、プロも同じで危険行為はやっぱりダメですよ。しかし、そこを紙一重でかわすのもプロではないでしょうか。ヘタをうったら仕掛けたロッシも自爆ですから。あの行為でロッシはペナルティを受けてます。このレース、ロッシはマルケスを相手にするのではなく前の二人を猛追しなきゃならないのになにやってるんでしょうね。
by 鹿児島のこういち (2015-11-05 19:18) 

とり

■鹿児島のこういちさん
「危険行為はやっぱりダメ」と聞けて安心しました。
故意に相手を転倒させるのが容認されてしまうと、
競技の種類が変わっちゃいますよね。
「紙一重でかわすのもプロではないでしょうか。」
は、そういう見方もあるのかと思いました。

ロッシが主張する通り、マルケスがロッシ優勝を阻む走りをしていたのであれば、
マルケス転倒後、単独走行になったロッシはグンとペースを上げ、
前走の二台との差を詰めることが出来たはずです。
ところがマルケスがいなくなってもロッシのタイムは伸びず、
結局ゴールまでにロレンソのタイムを一度上回っただけで、ダニのタイムには一度も届いていません。
オイラはホンダファンなのですが、今シーズンに限っては、ロレンソが獲るくらいなら、
残りのレース人生を考えても、ロッシに久々に獲って欲しいと思ってました。
レースディレクションの決定も含め、せっかく年間チャンピオンまでもう一息だったロッシは、
このレースで本当に勿体ないことをしたと思います。
by とり (2015-11-06 19:03) 

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