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神奈川県・潮田の二飛行場考 [├国内の空港、飛行場]

   2016年3月訪問 2021/12更新  

二つの飛行場 

前記事:「神奈川県・玉井飛行場」では、羽田から生麦に移転した「玉井飛行場」のことを書きました。

この「玉井飛行場」の東3km程の辺り、神奈川県横浜市潮田末広町(当時)の埋め立てが行われ、

土地が安定するまでの間、ここにも二つの飛行場が開設されました。

「宗里飛行場(第一航空学校)」と、「片岡飛行場」です。

この2飛行場はまとめて「鶴見の飛行場」、「潮田の飛行場」等と呼ばれました。

この2飛行場について、例によって場所を探そうとしたのですが、なかなか資料が見つからず、

困り果てていたところ、鶴見歴史の会様、横浜市中央図書館レファレンスサービス様から貴重な資料を頂きました。

鶴見歴史の会様、歴史の会をご紹介頂き双方の窓口となって下さった鶴見区役所地域振興課様、

横浜市中央図書館レファレンスサービス様に心より感謝申し上げます。本当にありがとうございましたm(_ _)m

で、せっかく貴重な資料の数々を頂いたのですが、

残念ながらどちらの飛行場も正確な場所を特定することができておりません(;´Д⊂)

この記事は、ここまで知り得た情報からアレコレと憶測するものですのでご了承くださいませ。

玉井飛行場は1921年12月開設、1923年9月閉鎖

だったのに対し、

宗里飛行場は1923年5月開設、1926年2月閉鎖
片岡飛行場は1924年2月開設、1926年2月閉鎖

となっています。

玉井飛行場を追いかけるようにして二つの飛行場が開設されていますね。

この二つの飛行場、開設は9か月のズレがあるのですが、閉鎖は同時期です。

片岡飛行場の片岡氏は、千葉の伊藤飛行機研究所の卒業生。

宗里飛行場の最初の教官となった亀井氏も同じく伊藤飛行機研究所の門下生。

片岡氏は亀井氏の先輩に当たりました。

この2飛行場は隣接しており、人的にも繋がりがあったはずです。

拙ブログは、「1記事1飛行場」が基本なのですが、

この2飛行場は資料の中でしばしば「隣接する飛行場」として扱われているため、

どこにあったのか場所を推測するに当たり、二つの飛行場をセットで考える必要がありました。

それで、この記事では2飛行場について資料からいろいろと妄想考え、

次の2つの記事でそれぞれの飛行場についていつもの体でいきたいと思います。

 

二つの地図

先ず、横浜市中央図書館収蔵のマイクロフィルム:「実地踏測 鶴見町全図」小塩満/著 麻生大蔵 1925 という地図があり、

「この地図に両飛行場が記されている」と横浜市中央図書館レファレンスサービス様から教えていただきました。

前述の通り、宗里(第一航空学校)と片岡飛行場は、それぞれ1923年~1926年、1924年~1926年に存在していました。

表題の通りなら、両飛行場が現役だった年に測量した地図な訳です。

(飛行場現役時代の地図に明記されているんなら、もうそれで場所確定ジャン!)

ヨコハマだけに、図書館様からメールを頂いたオイラはそう思ったのですが、残念ながらそんなに甘くありませんでした。

Scan0002a.png横浜市中央図書館収蔵:「実地踏測 鶴見町全図」小塩満/著 麻生大蔵 1925

この地図は横浜市中央図書館様の許可を得て転載させて頂きました。

右端に飛行場名が出てますね。

いかにも飛行場っぽい広々とした地割のところに飛行場名が記してあれば、 もうそこが飛行場で確定なのですが、

残念ながらそうではありませんでした。

見ての通りで会社なのか工場なのか、明らかに敷地境界線と飛行場名が重なっており、

ここに飛行場が(しかも二つも)あったとは思えません。

後述しますが、更に二つの理由からここが飛行場とはやはり考え難いです。

地図はご覧の通りで東側が途切れていて、こうなるとどうしてもこの地図の東側が見てみたくなりますが、

あいにくマイクロフィルムに東側の地図は無し。

ということは、実際には見切れているすぐ東側に二つ飛行場があったのではないかと考えたのでした。

 

オイラの知る限り「両飛行場名が載っている地図」というのがもう一つだけあります。

無題9.png
鶴見歴史の会機関誌「郷土つるみ」第58号 3p

これがその地図です。

「鶴見歴史の会」様から許可を頂いて掲載させて頂きました。

前記事の玉井飛行場と共に、第一航空学校、片岡飛行学校の場所を示す○がついてますね。

この地図は、鶴見歴史の会機関誌「郷土つるみ」第58号に作家・民間航空史研究家の平木國夫氏が載せた

文章に挿入されているものなのですが、

この地図の作者がどなたか「鶴見歴史の会」様に問い合わせたところ、

「ハッキリしたことは不明ながら、『イカロス群像 神奈川民間航空事始』という、同じく平木圀夫氏が著した書籍にも同じ地図があり、地図について出典等の記述はないのですが、地図の脇に(作成・1998.2.26)とあることから、著者と同じ平木氏作成と考えられる」

とのことでした。

 

この○のついている場所、実は「実地踏測 鶴見~」1925年 で示されているのとピッタリ同じ場所です。

「実地踏測 鶴見~」1925年(最初に貼った地図) では、二つの飛行場名が1つの場所にまとめて列記してあり、

平木氏の記事に出てくる地図でも二つの飛行場が1つの○で示されています。

もしかしたら平木氏は、「実地踏測 鶴見~」1925年 を参考にしてこの地図を作製したのかもしれません。

ということで、二つの地図から「二飛行場はおおよそこの辺り」ということは分かりましたので、

他の資料からアレコレと推測して場所を絞り込んでいくことになるのでした。

 

三つの資料

鶴見区役所地域振興課様から紹介して頂いた鶴見歴史の会様、

そして横浜市中央図書館様を通して多数の資料をご紹介頂いたのですが、

飛行場の場所特定に関係する主な資料は、

①「鶴見町誌」1925年10月
②「鶴見区史」1982年
③「郷土つるみ」第58号 2003年10月15日

の三つでした。

それぞれ飛行場の位置情報に関係すると思われる部分を資料が発表された順番に抜き出してみました。

 

①「鶴見町誌」1925年10月
潮田末広町の海岸には第一航空学校(宗里飛行場)、片岡飛行場の大飛行練習場があって、
各数台の飛行機を備えて日々研究を続けて居る。

第一航空学校
 大正十二年五月五日の開港で東西三百五十間、南北三百間の広大なる飛行場を有して居る。
山口県人宗里悦太郎の経営で、宗里氏が苦心経営飛行士の養成に尽酔し、
我国航空界の発達に貢献せるは人の好く知る処である。
現在の練習生十五名七台の飛行機を備えられて居る。

片岡飛行場
 大正十三年二月一日の開港で、飛行場の面積は前者と殆ど同一である。
名古屋の片岡文三郎氏の経営で、理論に実際両方面の研究に努力されて居る。

両飛行場現役当時の資料です。

開設日、場所、大きさが記されていますね。

平木氏曰く、1980年に氏が当飛行場について神奈川新聞に記事(後述)を書くまで、

二飛行場について書かれた地元の資料は、この「鶴見町誌」が唯一のといっていい拠りどころでした。

 

②「鶴見区史」1982年 411p~414p
宗里飛行場
 大正十二年(一九二三)五月五日、潮田末広町、安善町付近(現在の日本ヒューム管辺り)
の埋立地に開設された飛行士の養成所で、第一航空学校といった。
飛行場の大きさは、東西の三百五十間(六三六.三メートル)、南北三百間(五四五.四メートル)であった。
飛行場名の「宗里」は、経営者が岸飛行場の機体制作技師長だった宗里悦太郎(山口県出身)だったからである。
練習生が十五名、飛行機は七機あった。
また一般の人も乗ることができ、横浜への一周飛行は、十五円だったということである。

片岡飛行場
 宗里飛行場が開設された翌年の大正十三年(一九二四)二月一日、
末広町の埋立地(現在の日本鋼管正門から入船橋にかけて)に開設した。
飛行場の大きさは、宗里飛行場とほぼ同じで、ここも飛行士の養成所であった。
経営は、名古屋の片岡文三郎(一等飛行操縦士)で(中略)
このように両飛行場は活動したが、第一航空学校の宗里飛行場は、
大正十五年(一九二六)二月「、千葉県船橋の干潟飛行場に移転し、
片岡飛行場もまた同じころ閉校してしまった。
いずれも埋立地が、しだいに工場地帯に変貌していったためである。

1925年の「鶴見町誌」と、1982年の「鶴見区史」は基本的に同じ内容ですが、

「鶴見区史」で新たに追加された情報も多々あります。

こちらの資料は飛行場閉鎖から半世紀程に発表されましたから、両飛行場が閉鎖した時期が記されています。

また、それぞれの飛行場があった場所が(1982年現在の)どこに当たるのか、具体的な情報が記されています。

 

③「郷土つるみ」第58号 2003年10月15日
第一航空学校(宗里悦太郎)
第一航空学校を開校したのは、大正十二年五月五日であった。
埋め立て工事が竣工してから七か月経っていた。
(横浜貿易新報からの引用として)「六万坪の敷地を卜し」

片岡飛行学校(片岡文三郎)
 第一航空学校に隣接して、殆ど同じ広さの土地を借りて飛行場をつくり
(中略)大正十五年二月、約束通り埋め立て地が工場地帯になり、
石油タンクが建設されるのを機に片岡飛行学校は閉鎖された。



「郷土つるみ」の飛行場記事はとりわけボリュームがありました。

こちらも特に場所特定に関係する部分だけ抜き出しましたが、

第一航空学校について、飛行場敷地の長さだけでなく、新聞からの引用として面積が「六万坪」と出ています。

また、第一航空学校開設のいきさつ、片岡飛行学校の閉鎖時の様子について記されています。

後述しますが、なにげない記述のようで(オイラ的には)これが場所類推の要となりました。

この資料は平木氏が執筆したものなのですが、

前述の1980年に氏が当飛行場について神奈川新聞に発表した記事の内容を包含するものとなっています。

 

六つの候補地

繰り返しになりますが、宗里、片岡の両飛行場敷地は、埋め立て地に開設されました。これには、

「埋め立て地は土地が安定するまで3年ほど時間をおかねば開発できない」。

という地主側の事情があり、そのため期限付きではありますが飛行場として無償で提供されたものです。

前述の通り「郷土つるみ」では宗里飛行場の開設時期について、「埋立地を竣工してから七か月経っていた」と記しています。

宗里飛行場の開設は大正12年(1923年)5月ですから、

埋め立て地が竣工したのは前年の大正11年(1922年)10月頃と考えられます。

 

少々余談になりますが、この周辺は元々江戸末期から埋め立て事業が続けられていた地域で、

すぐ下の地図の赤矢印を付した辺りもベルト状に埋め立てられた土地です。

この遠浅になっている潮田地先に目を付けたのが、 「日本の臨海工業地帯開発の父」、「京浜工業地帯の生みの親」

と称された浅野総一郎でした。

浅野氏はこれら江戸から続く埋め立て地の更に沖合に、イギリス製の機械を導入して一気に埋め立てを進めたのでした。

横浜の埋め立て事業は平成の現代に至るまで続くことになるのですが、

特に浅野氏による飛行場が開設された周辺の大規模な埋め立て工事が竣工した年について、

様々な資料は「1922年である」と記しており、これは、

「埋立地を竣工してから七か月後の1923年5月、宗里飛行場開設」という先の記述とも合致します。

「潮田の二飛行場」は、浅野氏による大規模埋め立て事業の狭間に生まれたものだったのですね。

無題6.png
1915年測量(5万地形図 76-8-22横濱) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)  

大規模埋め立て計画に許可が下りたのは1913年でした。

ですからこの地図は、埋め立て許可から2年後、そして埋立竣工7年前の地図です。

この地図の海岸線と埋め立て竣工後のものと比較してみると-

無題7.png
1922年測量(旧1万地形図 o453生麥、o448安善町) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 

こんな感じ。

1915年の地図で海岸線だった部分に赤線を引いてみました。

ちょうど埋立竣工した年の地図ですが、僅か7年前の地図と比較して一気に変わりましたね。

飛行場は1922年竣工の埋め立て地に開設されましたから、

両飛行場があったのは、この赤線以南ということになります。

埋め立て地の西側では既に開発が進んでいるのが分かります。一方で東側はまだ埋め立て途中ですね。

このことから、埋め立ては全域で同時進行だったのではなく、

まず西側のエリアから始まり、次いで東側に工事が移っていった。と考えられます。

飛行場として提供された場所は、

・埋め立て地として竣工したばかりでまだ建物等建設には向かない。
・そのため3年放置する

ということでしたから、ちょうど埋め立て地の竣工した1922年の地図上で飛行場のあった場所は、

既に(少なくともある程度は)地図上に存在しており、尚且つ更地であるはずです。

この周辺はその後も埋め立てが進むのですが、当然のことながら、この1922年の地図で海面の場所は、

2飛行場のあった可能性のある場所の候補から除外します。

無題2.png
1927,1928年測量(旧1万地形図リスト番号o454,o449 図名 生麥、安善町) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

両飛行場は1926年に廃止となり、その後当初の計画通り土地開発が始まりました。

上の地図は、飛行場廃止から1年後の地図(左)と、2年後の地図(右)を貼り合わせたものです。

この地図の赤線以南のどこかに二飛行場があったはずです。

(便宜上アルファベットを振りました)

飛行場開設前年の1922年の地図では、C,Fはまだ形がハッキリしないですが、その後キチンと造成されたことが分かります。

ほぼ正方形の埋め立て地が四つ、まるでタイルを並べたように造成されていますね。

この四つの他に、飛行場があった可能性のある場所として、一応地図に飛行場の表記のあったAも含め、

A~Fの6つを「飛行場候補地」として以下話を進めます。

 

三つの場所

前述の飛行場の場所として具体的な説明のあった資料について考えます。

先ず宗里飛行場についてなのですが、「鶴見区史」1982年 411p~414pの中で、

「現在の日本ヒューム管辺り」にあったと説明があります。

横浜市中央図書館レファレンスサービス様から教えて頂いたのですが、「鶴見区全図 昭和5年(1930年)10月」という地図に

この「日本ヒューム管株式会社工場」が記されています。

Scan0004a.png
横浜市中央図書館収蔵:「鶴見区全図 昭和5年(1930年)10月」

確かに「日本ヒューム管株式会社工場」と記されてますね。

でもこの地図だと寄り過ぎてて位置がよく分からないので-

無題3.png
1927,1928年測量(旧1万地形図リスト番号o454,o449 図名 生麥、安善町) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 

全体図で見るとこんな感じ。

「日本ヒューム管株式会社工場」は、Bの隅っこの青で囲った場所です。

(じゃあもう宗里飛行場はここで決定ジャン!)

ヨコハマ(以下省略)と思ったのですが、そう甘くはありませんでした。

「現在の日本ヒューム管辺りに開設された」という情報は「鶴見区史」1982年のものなのですが、

国土地理院1963,1966,1984,1990年の地図を見ても、

そして横浜市三千分一地形図(かなり詳しい)の1951年、1957年を見ても、

この場所に「日本ヒューム管」という表記は出てきません。

むしろここは「日本鋼管鶴見製作所」になっています。

そこでオイラは、(近隣に引っ越したかしらん)と考え、上図A~Fとその周辺を探してみました。

特に1980年代前後の地図に「日本ヒューム管」が見つかればビンゴです。

ところが「日本ヒューム管」はドコにもありませんでした。

そこで次に、(もしかして、日本ヒューム管は日本鋼管に吸収されたのかしらん)と考えました。

この「日本ヒューム管」という会社についてググってみたところ、

「日本ヒューム」という会社がヒットし、公式サイト内に沿革がありました。

関係する部分だけ抜き出させて頂きました。

1925年 日本ヒュームコンクリート株式会社創立。鶴見本社工場操業
1928年 本社を東京・銀座に移し、日本ヒューム管株式会社と改める

1925年に鶴見に本社工場ができ、1928年に本社が東京に移転、社名変更。ということのようですね。

社名が「日本ヒュームコンクリート株式会社」→「日本ヒューム管株式会社」となり、

鶴見から本社機能がなくなって工場のみとなりますから、

鶴見にあるのは、「日本ヒューム管株式会社・工場」となるはずです。

で、上の1930年の地図で確かにそう表記されていますから、これで辻褄合っています。

「鶴見区全図・1930年」に表記のある「日本ヒューム管株式会社工場」=現在の「日本ヒューム」

で間違いないでしょう(きっと)。

(吸収されちゃったかしらん)などと書きましたが、これは完全にオイラの失礼な憶測でしたm(_ _)m 

問題はここからで、この会社の沿革はこう続きます。

1940年 鶴見工場移転、川崎工場設置

「日本ヒューム管」は鶴見から移転してしまいましたΣ(゚Д゚;) 

そしてこれ以降、「日本ヒューム」の沿革と現在の事業所一覧には、もう「鶴見」は出てきません。

道理で1930年以降の地図に「日本ヒューム管」が登場しないはずです。

オイラ個人としては、「日本ヒューム管株式会社工場」=「宗里飛行場」と思いたいのですが、

1982年の区史で「現在の日本ヒューム管辺り」にあったと断言している一方、

「日本ヒューム管」が1930年の地図に1回だけ登場して、その後の地図に出てこないため、

「宗里飛行場はココ!」と断言する決定的な証拠とするには、残念ながら弱いように思います。

 

次に、片岡飛行場については同じ1982年の資料の中で、

「(現在の日本鋼管正門から入船橋にかけて)に開設した」とあります。

(上の2つの地図上で、入船橋がちょいちょいアピってます)

1930年の地図でも、そしてその後の地図でもしばしばハッキリ「入船橋」と記載されているこの場所は、

グーグルマップでも「入船橋交差点」になっています。

現在国土地理院でこの周辺を閲覧可能な最古の地図は1906年のものなのですが、

ここにも入船橋周辺の土地は既にあります。

上でもチラッと書きましたが、ここは江戸時代から続けられた埋め立て地に当たり、「添田新田」と「荒井新田」に挟まれた場所で、

浅野氏による埋め立て前には既にありました。

そして入船橋は、地図を見ての通りでその埋め立て地のかなり内側にあります。

つまり、

・片岡飛行場は埋め立て地の地盤が安定するまでの3年間という約束で無償提供された
・片岡飛行場は現在の日本鋼管正門から入船橋にかけて開設した

「入船橋にかけて」の「かけて」をどう解釈するか微妙な点は残るのですが、

この二つが両立するのはちょっと難しいと思われます。 

 

「日本鋼管正門」についてですが、日本鋼管はその後合併、社名変更を経て現在は「JFEエンジニアリング」になっています。

この会社は1922年当時から規模が非常に大きくて、現在この会社の「本社マップ」を見ても、

「JFE鶴見製作所正門」、「JFE鶴見製作所重工正門」と、正門が複数あって絞り込めないのですが、

いずれも上図Aの辺りにあります。

話が振り出しに戻ってしまうのですが、Aの辺りは、両飛行場名の表記がある場所でもあります。

で、現在の「入船橋交差点」からA周辺について、

1915年の地図(両飛行場が現役だった当時の地図)でどうだったかというと、

大きな池、浅野造船所、浅野製鉄部、日本鋳造株式会社が既に出来ており、

とても飛行場の入る余地があるようには見えません。

 

ということで、

1925年の地図上の飛行場名表記
日本ヒューム管
入船橋
日本鋼管正門

と、飛行場の場所特定につながりそうな具体的な情報が複数あるのですが、

飛行場があったとはちょっと考えにくい場所を指していたり、決定的な証拠とするにはいろいろと難があり、

オイラにはとてもこの情報を以って「飛行場はココ!」と断定することはできない。というのが現状です。

よそ者のオイラが重大な見落としをしているだけなのかもしれませんが。。。

 

飛行場の大きさ


 

「鶴見区史」411pでは宗里飛行場について、

「飛行場の大きさは、東西三百五十間(六三六・三メートル)、南北三百間(五四五・四メートル)であった。」

とあります。

飛行場のあった場所として資料にいろいろと記述があり、現時点で最も可能性の高いBの埋め立て地に、

その通りに線を引いてみました。

Bの埋め立て地の南東の角には短い水路的なもの切れ込んでますが、これは1922年の地図でも存在しています。

南側はこの水路的なものを避けて資料通りに線を引いていくと、北側は1915年の海岸線ギリギリになり、

資料にある飛行場の南北方向のサイズは、まるでこの埋め立て地にあつらえたかのようにピッタリです。

 

ここまで書いてきた通り、飛行場の場所を示すポイントはAとBに集中していますが、Aに飛行場があったとは考えにくいです。

ということで、残るBが最有力候補となるのですが、宗里飛行場と片岡飛行場は「隣接している」、「ほぼ同じ大きさである」

と資料にあるため、実はオイラは当初、Bの埋め立て地に飛行場が二つ並んでいるのではないかと考えていました。

しかし実際に埋め立て地に飛行場の大きさの線を引いてみると、一つの埋め立て地に一つの飛行場しか作れません。

また、飛行場の具体的な長さと共に、資料ではその面積が6万坪とも出てきます。

ところが、明示されている長さ(636.3mx545.4m)から面積を出すと、

636.3mx545.4m≒347,038.02㎡ で、これは坪に換算すると、

約10.5万坪です。

6万坪と10.5万坪で、数字が大きく異なり、どういうことなのかナゾです。

飛行場の形が単純な方形ではなく、部分的に曲がったり凹んだりしていれば両方の数値がどちらも成り立つ訳ですが、

造成したての埋め立て地で飛行場の敷地がそんなに複雑な形にしなければならないとは考えにくく、これまたナゾです。

 

Scan0002aa.png
横浜市中央図書館収蔵: 「実地踏測 鶴見町全図」小塩満/著 麻生大蔵 1925

「変則的な埋め立て地」ということで、1925年の地図でDの部分のアップ。

既に「芝浦製作所」として建物っぽいものが描かれていて、ちょっと飛行場じゃないっぽいです。

何より、仮にここが飛行場だとしたら、Aの位置にではなく、ここに直接「飛行場」と書くはず。

ということで、なかなか場所をハッキリ特定することができない現状です。

それでも続く二つの記事で、無理やり場所を絞り込んでみます。

(続きます)

 

この記事の資料:

「鶴見町史」1925年
「鶴見興隆誌」1930年
「鶴見区市」1982年
「航空情報」1986年12月号
「鶴見の百年」1987年
「郷土つるみ」鶴見歴史の会機関誌第58号 2003年
「実地踏測 鶴見町全図」小塩満/著 麻生大蔵 1925
「鶴見区全図」高塚工務所/著 高塚工務所 1930


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コメント 2

鹿児島のこういち

1番目の地図と2番目の地図から推測して、宗里飛行場跡地ライン辺りに片岡飛行場があったのではないかと想像します。1番目の地図で第一航空学校の建物が文字の下に並んでる以上、その右隣と考えるのは不自然ではないと思います。1922年の地図でも浅野造船所がある位置には飛行場は考えられないと思うので、やはり反対側である右側ではないかと思います。そうだったらいいなぁ(;^ω^)
by 鹿児島のこういち (2016-12-24 19:12) 

とり

■鹿児島のこういちさん
まずは、とりわけ長々とした記事にコメントありがとうございますm(_ _)m
>1番目の地図で第一航空学校の建物が文字の下に並んでる
鹿児島のこういちさんは、1番目の地図で飛行場名の下にある
黒いカクカクした建物群が、第一航空学校の建物と思っておられるのですか。
ということは、Aに宗里飛行場があり、Bに片岡飛行場があった。
ということでしょうか。
残念ながらオイラが考えているのとは違うのですが、
記事でも書いた通り、決定的な証拠不足のため、飽くまで現状は仮説止まりです。
続く記事についても、反対意見でも何でも、忌憚のないご意見いただければ、
こうしてオイラの恥ずかしい仮説を公開する意味があると思います(///∇///)
by とり (2016-12-25 07:16) 

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