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軽井沢の飛行場について [├雑談]



今でこそ「お洒落な高原リゾート」というイメージの軽井沢ですが、

軽井沢には戦前から戦後にかけて幾つもの飛行場が存在していました。

時系列で挙げますと、

①1925年に建設の始まった二十間道路西側の軽井沢飛行場(マップの赤ヒコーキ。後に米軍が再整備して使用)
②戦後、米軍が建設した旧軽井沢ゴルフクラブ6番コース飛行場(マップの黄色ヒコーキ)
③二十間道路に設定した臨時飛行場(マップの緑色ヒコーキ)

と、3つの飛行場がネット、町誌等、軽井沢関連の書籍に登場します。

今のところオイラが確認できている飛行場はこの3つが全てなんですがこれ以外にも、

④「昭和18年8月24日 軽井沢町滑空場使用条例を定む。」(軽井沢町誌 歴史編(近・現代編)」678p)
⑤「昭和21年3月 第一国民学校校舎東隣りに南原グライダー訓練所の建物を移築し」(同682p)(マップの黒ヒコーキ)

とあり、軽井沢には3つの飛行場に加えて2つの滑空場があったようです。

また軽井沢にあった飛行場について役場の方から話を伺っていた際、

⑥「追分の上の方にも飛行場があったらしい」という話が出てきました(マップ西側の黒ヒコーキ)

そして今年(2018年)に入り、地元土屋写真館で話を伺った際、

⑦1915年に東長倉小学校にて佐藤、岡両大尉による県下初飛来があったことが分かりました(マップの紫ヒコーキ)

更にここから先は「飛行場があったかも」という可能性の話になっちゃうんですが、

⑧戦争末期の時期、軽井沢競馬場跡地が陸軍の特攻訓練に使用されました(マップの灰色ヒコーキ)

また、「目で見る明治・大正・昭和 思い出のアルバム軽井沢」37pには、山をバックに飛ぶ複葉機の写真があり、

⑨「大正6年8月29日徳川大尉のプロペラ機がはじめて離山上空を飛行する」というキャプションがついています。

大正6年は1917年なので、1915年東長倉小学校の県下初飛来から2年後にも飛来があったことになります。

この徳川大尉の飛来の際に使用された飛行場は不明なのですが、

軽井沢最初の飛行場、そして臨時飛行場になりそうな場所として思い浮かぶ二十間道路の完成は大正14年ですから、

この時はまだありませんでした。

この時も東長倉小学校が使用されたかもしれないんですが、もしかしたら未知の飛行場が使用されたのかも。

これらの9例で使用された飛行場は、二重、三重に被っている可能性が大いにあるんですが、

最大で9つの飛行場(飛来地)があったかもしれず、もしかしたらまだまだ未知の飛行場があるかもしれません。


また、軽井沢への飛来機として、

昭和7年に愛国献納号が軽井沢上空を飛行したという記録がありますし、

「東京航空輸送も昭和10年から「エア・タキシー」と遊覧飛行の営業を開始し、翌年にはエア・ガール2人を採用している。飛行場上空一周(10分・10円)や京浜コースをはじめ、江ノ島、箱根、富士五湖、日光、軽井沢、銚子、水戸などの遊覧コースがあった。」("羽田の空"100年物語)

という情報もあります。

更に、これは飛行場と直接関係はないんですが、「軽井沢物語」338pによりますと、

戦時中に軽井沢ゴルフ倶楽部のアウトの九ホールは、

陸軍の飛行学校と食料増産のために陸軍航空本部軽井沢作業隊に貸していたのだそうです。

そして、

「1935年(昭和10年)軽井沢飛行場、蜂須賀正、箱根土地株式会社所有の馬越原四〇〇余町歩を臨時飛行機発着場として認可を受ける」

という非常に気になる情報もあります。

大正14年に完成した「軽井沢飛行場」とは別に、昭和10年に馬越原に「臨時軽井沢飛行場」があった。

と受け取れるのですが、これには少々疑問点が。

大正14年に完成した「軽井沢飛行場」と昭和10年の「臨時軽井沢飛行場」は、

名称、位置、広さ、所有者と、共通項が多々あるため、

オイラには、自信を持って「軽井沢飛行場は2つ存在した」と断言するには、ちょっと弱い気がするんですが、

仮にこれがオイラの大きな勘違いで、臨時飛行場が別に存在したのだとしたら、

軽井沢4つ目の飛行場、10番目のヒコーキ関連の場所となります。


軽井沢の飛行場については、2010年5月に(ヒコーキ目的としては)初めてお邪魔して以来、

地元軽井沢図書館、軽井沢町役場、熊谷の埼玉県立図書館、ネットの関連サイトから頂いた情報の他、

拙ブログのコメント欄でも大勢の方から非常に貴重な情報、ご意見を頂きました。

頂いた順ですが、さくさん、あさん、再生おじさん、あるくさん、asamaさん、藤沢オールドボーイさん、

M/Pさん、ジョルノ飛曹長さん、OLDMANさん、どうもありがとうございましたm(_ _)m


折角大勢の方から情報頂いたのですが、それでもまだまだ不明な点が多く、場所特定もなかなか進まず、

特に町史に登場する2つの滑空場、追分の飛行場については、

「あった」。という以外の情報がまっっったく集まらず、

その点も含めて軽井沢の飛行場関連で不明な点をまとめ、

軽井沢の歴史民俗資料館に長々とした質問を送ったのでした。

今になって改めて自分の書いた質問状を見返してみると、

(マ〇ア怖ェー! ~(・д・川)スス とドン引きするような文面なんですが、

ともかく資料館様はご親切にも県への問合せまでして下さり、8ヵ月もの調査期間を経て頂いた回答は、

「町誌にある以上の情報無し」というものでした。


また、山積する疑問点について文献資料に当ってもサッパリ埒が明かないため、

役場の担当者の方からは別角度からの調査方法として、

明治39年創業の地元写真館をご紹介頂いたのでした(そして東長倉小学校初飛来の件を教えて貰った)。


まだまだ不明な点が多く、場所一つとっても自信を持って「絶対ここにあった!」

と断言できる箇所が少ないというのが現状なんですが、「情報は公開してこそ、集まる情報もある」に期待しつつ、

この8年余でお寄せいただいた情報、集めた情報を整理し、「中間報告」という形で全て出したいと思います。

明日から場所のハッキリしている飛行場跡地、関連する場所を一カ所ずつアップします。

で、軽井沢の飛行場の主役とも言える「軽井沢飛行場」については、過去記事を大幅に書き直して既にアップ済みです。

興味のある方はご覧くださいませ(下記リンク参照)


これは余談なんですが、軽井沢の飛行場についての情報がなかなか出てこないせいで、

結果的に軽井沢関連の本を多分数十冊程(斜めに)読むことになったのですが、

その過程で、戦前から戦中にかけての軽井沢が如何に特異な地であったかについても垣間見ることができました。

例えば「軽井沢物語」には、パブリック・コート(テニスコート)は終戦の年まで一度も閉鎖されず、

プレーする人が絶えなかったこと、

現在のゴルフ俱楽部もアウトの9ホールは軍に貸したのですが、インの9ホールを閉鎖したのは、

昭和20年8月1日であったと記されています。

同書338pにはこう記されていました。

「華族、ブルジョアたちは戦争に関係なく、避暑をし、テニスやゴルフを楽しんでいたことがわかる。若い男性は招集されて徐々に姿を消していったが、政治状況を超越した特権階級が相変わらず何人ものお手伝いさんを従えて避暑を楽しんでいたのだ。」

「戦争末期」と聞いて想像するのとはかけ離れた世界が軽井沢にはあったのでした。



軽井沢のヒコーキ関連の出来事をまとめて載せておきます。

1915年    東長倉小学校にて佐藤、岡両大尉による県下初飛来
1917年08月 29日徳川大尉のプロペラ機がはじめて離山上空を飛行
1920年    箱根土地株式会社(現・プリンスホテル)、地蔵ヶ原の土地買収
1921年07月 6ホールとフェアウェーができあがる(旧ゴルフ)
1925年    夏、二十間道路ほぼ完成。秋、道路西側に軽井沢飛行場完成
1927年08月 16日、東京~軽井沢間定期飛行認可
1928年08月と9月1日~25日 浅間遊覧飛行(軽井沢飛行場)
1931年08月 1日、軽井沢競馬場開場式
1932年07月 17日、軽井沢上空を佐藤中尉が操縦する戦闘機(愛国号献納機)が飛ぶ
1933年    軽井沢ゴルフ倶楽部18ホール完成
1934年05月 21日、海軍機が軽井沢競馬場に不時着
1935年    蜂須賀正、箱根土地所有の馬越原四〇〇余町歩を臨時飛行機発着場として認可受ける
1936年    この年のレースを最後に競馬場閉鎖。東京航空輸送、軽井沢を遊覧コースに設定
1937年    南軽井沢一帯が軍事教練場となる
1943年08月 24日 軽井沢町滑空場使用条例制定
       この年軽井沢飛行場は整備され、熊谷飛行学校訓練所となる
1944年    軽井沢への疎開者増える。陸軍特別航空隊学徒が使用(軽井沢飛行場)
    09月~11月頃まで特攻隊の飛行訓練場として使用される(競馬場)
    12月~1945年1月頃、八丈島からの疎開者が元特攻隊訓練場の宿舎に入居(競馬場)
1945年04月 5日、競馬場跡をアパート式に改築した大観楼が八丈島の疎開者の生活の場となる
    09月 15日、進駐軍初来軽
1946年03月 第一国民学校校舎東隣りに南原グライダー訓練所の建物を移築
    04月 18日、第八軍司令官アイケルバーガー中将、軽井沢視察。
    11月 9日 千ヶ滝グリーンホテルをはじめ、三笠ホテル、新旧ゴルフ場を接収。旧ゴルフ飛行場化
1948年05月 二十間道路が進駐軍の臨時飛行場となる
1949年04月 この頃米軍が軽井沢飛行場を復旧させ使用するようになったと思われる(軽井沢~東京25分)
    06月 20日、旧ゴルフ場返還されプレー始まる
1952年04月 28日、サンフランシスコ講和条約発効。飛行場接収解除。民間機の利用に移る(軽井沢飛行場)
    09月 16日~1955年9月14日 この間におおとり号、軽井沢にて撮影される
1958年    軽井沢飛行場で遊覧飛行開始(アルバム年表情報)。(1957年という情報もあり)
1962年    夏にグライダー訓練実施(軽井沢飛行場)
1971年07月 72ゴルフ西ホール開業
1972年08月 同東ホール開業



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