東京都・戸山が原練兵場跡地 [├場所]
2020年12月訪問
1/20000「東京首都」明治42年測図「今昔マップ on the web」より作成
東京都新宿区、学習院女子大のある辺り一帯は、かつて尾張藩徳川家の下屋敷だったのですが、
明治維新で明治政府に明け渡され、跡地は陸軍戸山学校、練兵場となりました。
以前もどこかに書いた気がしますが、ココはヒコーキ的に歴史上のIFの場所です。
「飛行機の国内初飛行」は明治43年12月19日、フランス製のアンリ・ファルマン機によるもので、
「国産機による国内初飛行」は、それから遅れること4ヵ月と17日後の明治44年5月5日のことでした。
西洋文化を必死で模倣する当時のことですから、国産機のが遅れるのは当然で、
寧ろ、たった4ヵ月ちょいの遅れしかなかったのか。というのが個人的な印象でした。
ところが、実はフランス製のヒコーキよりもっと早く、国産機がこの場所で飛んでいたかもしれないのです。
「南国イカロス記 かごしま民間航空史」22~27pにかけて、その事を詳しく扱っていました。
この記事の主役である奈良原三次は、明治37年に飛行機の研究を始め(ライト兄弟初飛行は明治36年12月)、
翌明治38年には推力に花火を使った模型飛行機の飛行実験を行います。
同年東京帝国大学工学部造兵科入学。
明治41年3月に卒業すると、海軍中技士として横須賀海軍工廠造兵部に奉職。
飛行機の研究にのめり込みます。
同明治41年7月30日 日本軍部は臨時軍用気球研究会設立すると、奈良原もこの研究会委員に加えられました。
研究会の仕事もしつつ、自作機「奈良原式1号」の製作も行っており、
奈良原式1号機の主翼骨組みなどは、主として四谷の父・繁男爵邸の庭先や玄関前で行われていたようですが、
後に臨時軍用気球研究会御用・東京飛行機製作所を新宿角筈の十二社に設立しました。
奈良原式1号機はここで製作が続けられます。
開発は順調だったのですが…
フランスに発注したノーム五〇馬力エンジンがどこで間違ったのか、手元に届いたのはアンザニー二五馬力エンジンであった。半分の馬力ではどうしようもないと思ったが、ともかく1号機に装備して試乗してみるしかなかった。
奈良原三次が1号機を完成するのに、二千円の費用がかかった。はなはだ高価なようだが、二か月後の十二月、徳川好敏陸軍工兵大尉がフランスから持って帰ったアンリ・ファルマン複葉機は八千三百六十三円、日野大尉のドイツ製グラーデ単葉機が五千百九十六円であったのにくらべると、国産機だけに安く仕上がったといえるだろう。
奈良原1号機が完成したのは、明治43年10月下旬でした。
そして戸山が原練兵場にて完成した奈良原式1号機の試乗が行われたのは、同10月30日。
うわさを聞き伝え大勢の見物人が押し掛けてきた。
生前の田中良の証言(メモ書きをもとにした口頭)によると、その日アンザニー二五馬力エンジンの調子が悪く、まわってもすぐ停止してしまい、継続的に回転し出したときは夕暮れが迫っていた。
機上に上った奈良原三次は、真剣そのものの表情で全速滑走した。田中良は、はじめから終わりまで、1号機に寄り添ってでこぼこの練兵場を駆けまわったので、息切れがした。1号機の後ろから、大勢の見物人が一緒になって追いかけた。危険きわまりない。だれも飛行機が飛ぶのを見たことはないから、羽根のはえた珍奇な自動車程度の認識しか持っていないのだ。
しかしようやく勢いがつき、少なくとも三〇㌢は地面から離れた、と田中良は証言し「国産機が最初に飛行した歴史的なことである」といい「第1号機が飛行に失敗したと記すものがあるがこれは誤りである」というメモを残している。直接の関係者としては当然の気持ちに違いない。もし現在の飛行場のように平坦な場所だったら、あるいはもう少し高く浮揚したかも知れないが、三〇㌢程度の浮揚では、飛行というのは無理な気がする。とはいえ再発注したノーム五〇馬力が手にはいれば、絶対に飛べるという自信がついたようであった。
この奈良原式1号機、後に届いた50馬力エンジンに積み替え、奈良原の弟子がこれで練習飛行を重ねました。
注文通りのエンジンさえ届いていれば、やっぱりちゃんと飛べたのです。
前述の通り「飛行機の国内初飛行」は、明治43年12月19日、ここから4km程先の代々木練兵場のことで、
欧州まで出向いて操縦法を習得し、フランス製とドイツ製のヒコーキを購入して帰国したものによるのですが、
もしも、奈良原式1号機のエンジンが25馬力ではなく、発注通り50馬力のものがちゃんと届いていれば、
フランス製のヒコーキ初飛行より1ヵ月と20日早く国産機が飛んでおり、
代々木練兵場ではなく、ここ戸山が原練兵場が、「国内初飛行の地」として歴史に名を刻んだかもしれません。
因みに「国産機による国内初飛行」は、明治44年(1911年)5月5日、完成したばかりの所沢飛行場にて、
ノーム五〇馬力エンジン搭載の奈良原式2号機が達成したのでした。
…奈良原氏凄い。
明治維新で明治政府に明け渡され、跡地は陸軍戸山学校、練兵場となりました。
以前もどこかに書いた気がしますが、ココはヒコーキ的に歴史上のIFの場所です。
「飛行機の国内初飛行」は明治43年12月19日、フランス製のアンリ・ファルマン機によるもので、
「国産機による国内初飛行」は、それから遅れること4ヵ月と17日後の明治44年5月5日のことでした。
西洋文化を必死で模倣する当時のことですから、国産機のが遅れるのは当然で、
寧ろ、たった4ヵ月ちょいの遅れしかなかったのか。というのが個人的な印象でした。
ところが、実はフランス製のヒコーキよりもっと早く、国産機がこの場所で飛んでいたかもしれないのです。
「南国イカロス記 かごしま民間航空史」22~27pにかけて、その事を詳しく扱っていました。
この記事の主役である奈良原三次は、明治37年に飛行機の研究を始め(ライト兄弟初飛行は明治36年12月)、
翌明治38年には推力に花火を使った模型飛行機の飛行実験を行います。
同年東京帝国大学工学部造兵科入学。
明治41年3月に卒業すると、海軍中技士として横須賀海軍工廠造兵部に奉職。
飛行機の研究にのめり込みます。
同明治41年7月30日 日本軍部は臨時軍用気球研究会設立すると、奈良原もこの研究会委員に加えられました。
研究会の仕事もしつつ、自作機「奈良原式1号」の製作も行っており、
奈良原式1号機の主翼骨組みなどは、主として四谷の父・繁男爵邸の庭先や玄関前で行われていたようですが、
後に臨時軍用気球研究会御用・東京飛行機製作所を新宿角筈の十二社に設立しました。
奈良原式1号機はここで製作が続けられます。
開発は順調だったのですが…
フランスに発注したノーム五〇馬力エンジンがどこで間違ったのか、手元に届いたのはアンザニー二五馬力エンジンであった。半分の馬力ではどうしようもないと思ったが、ともかく1号機に装備して試乗してみるしかなかった。
奈良原三次が1号機を完成するのに、二千円の費用がかかった。はなはだ高価なようだが、二か月後の十二月、徳川好敏陸軍工兵大尉がフランスから持って帰ったアンリ・ファルマン複葉機は八千三百六十三円、日野大尉のドイツ製グラーデ単葉機が五千百九十六円であったのにくらべると、国産機だけに安く仕上がったといえるだろう。
奈良原1号機が完成したのは、明治43年10月下旬でした。
そして戸山が原練兵場にて完成した奈良原式1号機の試乗が行われたのは、同10月30日。
うわさを聞き伝え大勢の見物人が押し掛けてきた。
生前の田中良の証言(メモ書きをもとにした口頭)によると、その日アンザニー二五馬力エンジンの調子が悪く、まわってもすぐ停止してしまい、継続的に回転し出したときは夕暮れが迫っていた。
機上に上った奈良原三次は、真剣そのものの表情で全速滑走した。田中良は、はじめから終わりまで、1号機に寄り添ってでこぼこの練兵場を駆けまわったので、息切れがした。1号機の後ろから、大勢の見物人が一緒になって追いかけた。危険きわまりない。だれも飛行機が飛ぶのを見たことはないから、羽根のはえた珍奇な自動車程度の認識しか持っていないのだ。
しかしようやく勢いがつき、少なくとも三〇㌢は地面から離れた、と田中良は証言し「国産機が最初に飛行した歴史的なことである」といい「第1号機が飛行に失敗したと記すものがあるがこれは誤りである」というメモを残している。直接の関係者としては当然の気持ちに違いない。もし現在の飛行場のように平坦な場所だったら、あるいはもう少し高く浮揚したかも知れないが、三〇㌢程度の浮揚では、飛行というのは無理な気がする。とはいえ再発注したノーム五〇馬力が手にはいれば、絶対に飛べるという自信がついたようであった。
この奈良原式1号機、後に届いた50馬力エンジンに積み替え、奈良原の弟子がこれで練習飛行を重ねました。
注文通りのエンジンさえ届いていれば、やっぱりちゃんと飛べたのです。
前述の通り「飛行機の国内初飛行」は、明治43年12月19日、ここから4km程先の代々木練兵場のことで、
欧州まで出向いて操縦法を習得し、フランス製とドイツ製のヒコーキを購入して帰国したものによるのですが、
もしも、奈良原式1号機のエンジンが25馬力ではなく、発注通り50馬力のものがちゃんと届いていれば、
フランス製のヒコーキ初飛行より1ヵ月と20日早く国産機が飛んでおり、
代々木練兵場ではなく、ここ戸山が原練兵場が、「国内初飛行の地」として歴史に名を刻んだかもしれません。
因みに「国産機による国内初飛行」は、明治44年(1911年)5月5日、完成したばかりの所沢飛行場にて、
ノーム五〇馬力エンジン搭載の奈良原式2号機が達成したのでした。
…奈良原氏凄い。
赤マーカー地点(2枚とも)。
跡地南側の戸山公園から。
練兵場の飛行場適地は現在完全に学習院女子大学になっています。
オイラにとってはその学校名からして、高さ50mの(見えない)壁で囲まれているように感じてしまうのですが、
ご覧の通りで塀が巡らされ、入り口では内部を撮影する不審な輩が現れないか常に警備員が目を光らせており、
中を伺うことができませんでした。
戸山公園から当時の練兵場方向を撮ったものですが、せめてもの。ということで。
跡地南側の戸山公園から。
練兵場の飛行場適地は現在完全に学習院女子大学になっています。
オイラにとってはその学校名からして、高さ50mの(見えない)壁で囲まれているように感じてしまうのですが、
ご覧の通りで塀が巡らされ、入り口では内部を撮影する不審な輩が現れないか常に警備員が目を光らせており、
中を伺うことができませんでした。
戸山公園から当時の練兵場方向を撮ったものですが、せめてもの。ということで。
東京都・戸山が原練兵場跡地
戸山が原練兵場 データ
設置管理者:陸軍
所在地:東京都新宿区戸山3丁目
座 標:N35°42′23″E139°42′42″
標 高:28.4m
着陸帯:東西370m 南北205m(不定形)
面 積:5.58ha
(座標、標高は今昔マップ、着陸帯長さ、面積はグーグルマップから)
沿革
1910年10月30日 奈良原式1号機試乗
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この記事の資料:
「南国イカロス記 かごしま民間航空史」
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