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硫黄島について補足 [├雑談]



一連の硫黄島記事の最後に、付随する情報をまとめて記しておきます。


作図の話

硫黄島がどんな島なのか、オイラが強烈に思い知るきっかけとなった作図について触れさせていただきます。

例によって資料を集めてまずは飛行場の地図を作ったのですが、

繰り返し述べた通り、一連のグーグルマップは「昭和19年6月29日 水路部調製」の縮尺1万分の1硫黄島全図」

から作図しました。

当時の地図、写真に写っている滑走路を現在の地図上に描く場合、まずは両者の同じ地形を探すところから始めます。

道路、線路、畑等の地割、海岸線、山、川(用水路みたいな細い川は意外と流れが変わらないことがある)等の自然から、

当時と現在で同じ部分を探すのです。

同じ部分を複数個所見つけて基準点とし、縮尺を取り、作図します。

ところがこの硫黄島の場合、昭和19年6月29日作成のこの地図が出来上がった後、

「島の形が変わる」と形容される激しい爆撃が加えられました。

そのせいなのか、70年という歳月も関係するのか、はたまた現在尚活動する火山島であるからなのか

(滑走路がどんどん凸凹になっていくらしい)、

硫黄島は、軍令部が地図を作った当時と現在では島の形が全体的に変化しています。

極端な例では、西側のカブトムシの角みたいに突き出した部分、当時はありません。

おおまかに当時と似た海岸線の部分でも、線を引き、角度を測ってみると、微妙に異なっています。

1時間地図を睨めっこしたのですが、どうしても基準となる地形を見つけることが出来なかったため、

大坂山と摺鉢山の頂上を線で結び、この線を基準に定規と分度器で作図しました。

擂鉢山も「爆撃で山の形が変わった」と言われており、頂上の位置が変化してやしないかと心配なのですが、

他に基準点が見つからないので致し方なし。

これまで散々こうした作図をしてきたんですが、こんなこと初めてです。

これまで古い写真や地図を元にあちこちの滑走路跡をグーグルマップ上に描きましたが、

なかなか基準点が見つからなくても、ずっと見ていると必ず何かしら見つかるものなのですが。。。

…というのは、20214年にこの記事を作った当時の話で、

現在は paint.net という素晴らしいフリーソフト様のおかげで、島全体の形からレイヤが作れるようになり、

作図作業が劇的に正確に、そして楽になりました。


無題.png

こんな感じ。

赤線が「昭和19年6月29日 水路部調製」の縮尺1万分の1硫黄島全図」から作ったレイヤです。

島の形がどれだけ変わったかよく分かりますね。

まあこれでも多少のズレは生じてしまうのですが、おおよそこんな感じだと思います。

 
両軍と硫黄島

日米双方に多数の犠牲者を出したことであまりに有名な硫黄島。

昭和20年2月16日、米軍が硫黄島上陸作戦を開始するのですが、

そもそも米軍が硫黄島占領を目論んだ目的は、前年の昭和19年11月から始まっていた

マリアナ諸島からのB-29による日本本土空襲をより効果的にするためでした。



 

日本本土を爆撃するB-29はマリアナ諸島のサイパン、テニアン、グアムから発進しました。

マリアナ諸島を離陸したB-29は、それこそ(北海道以外の)全土を爆撃した訳ですが、

「B29は富士山を目標に北上し、東に折れて京浜方面へ、西に進んで中京方面へ向かうという進路を取るようになり」

とする資料があったため、上図では一例としてグアムと富士山を結んでみました。

富士山~硫黄島 1,200km
硫黄島~グアム 1,300km

硫黄島が本土爆撃のための進路のほぼ中間、そしてほぼ直下に位置しています。

 

硫黄島占領前

・日本軍は硫黄島からの観測により、B-29の本土到着2時間前に警報を発することが出来ました。
・日本軍はB-29の往路、復路共に硫黄島から離陸した戦闘機で攻撃を加えることが出来ました。
・日本軍は硫黄島からマリアナに駐機するB-29を攻撃出来ました。

B-29は「超空の要塞」という愛称も相まって、「日本軍機も高射砲も届かない高空を悠々と」


としばしば表現されますが、

この革新的な新兵器は当初故障が多く、また爆撃精度優先のため、焼夷弾投下のため、高度を下げるようになり、

迎撃機、高射砲により多くの損傷を受け、撃墜されました。

なんとか撃墜は免れ、傷だらけの状態で帰途に着けても、マリアナまでもたずに墜落したり、

再び硫黄島からの迎撃を受ける事になり、多くのB-29が墜落したため、

第二十航空軍の司令官カーティスルメイ将軍は、


「これ以上こんな損失をこうむらせる事は出来ない」 と通告を出す程でした。

B-29の被害が大きかったのは、本土まで長距離のため、直掩機を付けることが出来ないという点も大きいです。

また、硫黄島を基地とする日本軍機がテニアンとサイパンを急襲したことによる、駐機中のB-29への被害も大きく、

こうして破壊されたB-29の数は、東京への全爆撃飛行で失われた数より多いのだそうです。

 

こうした切実な状況から、米軍は日本本土爆撃を効果的に実施するために硫黄島を占領することにしたのですが、

日本軍の激しい抵抗は当初から予想され、米側に多数の死傷者が出るであろうことは分かっていました。

そのため米軍内部では、果たして犠牲に見合うだけの価値がこの作戦にあるのかという強い反対意見が出ました。

そうした懸念を抱えつつ、 昭和20年2月16日、米軍は硫黄島上陸作戦を開始しました。

2月20日、「第一」を制圧。激しい攻防戦の最中、米軍は即座に「第一」の整備に取り掛かりました。

2月26日、「第一」で観測機の使用が可能に。

3月初めには飛行場の機能が殆ど完成しました。

3月4日、東京空襲で損傷したB-29「ダイナ・マイト」号が「第一」に緊急着陸。

補修と燃料の補給を受けました。

日本軍との戦闘はまだまだ続いており、激しい戦闘の最中でしたが、早くも硫黄島占領の目的を果たしたことになります。

そして3月26日、アメリカは硫黄島を占領します。

 

硫黄島占領後

・日本軍は硫黄島からの監視も航空攻撃も出来なくなりました。
・米軍はB-29に硫黄島から発進した直掩機をつける事が出来るようになりました。
・米軍は復路、硫黄島に緊急着陸することが出来るようになりました。

緊急着陸場として硫黄島を使用できるようになった事の効果は絶大で、

4月7日には、出撃したB-29 100余機のうち70機が損傷、負傷者の手当て、燃料補給のために硫黄島に着陸しました。

終戦までの間に延べ2,251機のB-29が硫黄島に不時着し、

アメリカ軍は自国の死者6,821名と負傷者22,000名の代償として、

延べ25,000の航空機乗員が硫黄島の恩恵を受けたとしています。

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