長野県・臨時飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]
2015年3月訪問 2022/1更新
撮影年月日1948/09/14(USA M1161 18)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
■6番コースから二十間道路へ
前記事からの続きです。
南軽井沢開発史を語る上で決して外せない「二十間道路」ですが、
この道路誕生のいきさつについて、次のように記されていました。
「五、南軽井沢の開発-二十間道路が地蔵ヶ原を変えた-
南軽井沢は軽井沢駅の南に広がる平地をさすが、明治初期には泥川のつくった湿地が多く、その間をぬうように離山下から境新田を通って入山峠へのぼる道と借宿から馬越原(地蔵ヶ原)をぬけて和美峠へ通じるいわゆる女街道が通っていた。湿地にはたくさんのヨシが生えしげり、ヨシキリが巣をかけてけたたましい声をあげてとびかっていた。その南には馬越と馬取萱の二つの集落があったがさびしい所であった。(中略)
この広い草原に着目したのが堤康次郎であった。堤は千ヶ滝の別荘開発が一段落すると、南軽井沢の開発に着手した。大正九年、箱根土地株式会社(現国土計画株式会社)は、地蔵ヶ原一帯の発地の共有地約四二一ヘクタールを買収した。ところが馬越に通じる道は狭く曲がりくねっており、車が通れるような道がなかった。堤は大正一三年に新軽井沢から南軽井沢に向けて、幅二〇間(約三六メートル)長さ二〇町(約二一八〇メートル)の道路建設に取りかかった。この道路は南の押立山の麓まで、翌十四年夏にはほぼ完成し、道路の両側には別荘を建築して売り出した。」(避暑地軽井沢108p)
南軽井沢開発のため、先ず道路から。ということだったんですね。
終戦とともに長野県軽井沢町をレストセンターとした米軍。
将校以上はヒコーキで軽井沢にやって来たのですが、旧軽井沢ゴルフクラブの6番コースを飛行場としたところ、
事故が起きたため、二十間道路を臨時飛行場としたのでした。
そして戦後、この二十間道路を臨時飛行場として使用したことについては、幾つもの史料に出てきます。
「昭和23年5月 二十間道路が進駐軍の臨時飛行場となる。」(軽井沢町誌 歴史編(近・現代編)」684p(年表)
「米軍兵士たちは三日から一週間の休暇を与えられて、軽井沢にやって来る。常時三百名ほどが交代で滞在したようだ。将校たちは、家族を連れて週末ごとにやって来た。アイケルバーガー中将など幹部はセスナ機でやって来るため、堤康次郎が造った二十間道路を滑走路として使用し」(軽井沢物語364p)
二十間道路をどのように使用したのか、具体的な記述もありました。
「二十間道路(現プリンス通り)の南半分を"臨時飛行場"とし、セスナ機着陸の連絡が入ると警察が道路を一時遮断して、飛行機の離発着を助けていた。」(軽井沢という聖地102p)
「セスナ機がゴルフ場に突込み、引き出すという事故もあった(旧ゴルフ場は昭和二四年四月接収解除となる)。この事故が契機となって昭和二十三年、軽井沢駅から南へ延びる"二十間道路"が臨時飛行場にされた。MPからセスナ機着陸の連絡が入ると、軽井沢事務所から警察へ連絡、飛行場(道路)の両側を遮断、着陸後は警察官が離陸までセスナ機を警備した。」(軽井沢町誌 歴史編(近・現代編)354p)
二十間道路は公道ですから、飛行場とする時は交通を一時遮断する必要がある訳ですが、警察が担当したんですね。
着陸した機体を離陸まで警備するのも警察の担当とあります。
このことから、進駐軍の本拠地である軽井沢駅北側まで飛来機を延々タキシングさせたのではなく、
恐らくは着陸した二十間道路の脇とか、近くに駐機させていたのではないかと思います。
将校は週末ごとに軽井沢にやって来ました。
駐留軍の将校の"週末"って、何日間なんでしょう?
週休二日制だったんでしょうか?
日曜日は軽井沢の教会に行ったんでしょうか?
将校を軽井沢まで運んだヒコーキは、即東京にトンボ返りだったんでしょうか。
それとも有事即応で将校の帰京までそのまま駐機していたんでしょうか。
疑問は尽きないんですが、仮に将校の帰京まで駐機だったとすれば、
それまでの間、地元警察が機体の警備を担当することになりました。
6番コースを使用していた時は、旧ゴルフ場全体が米軍の騎兵師団用の放牧場として接収されていましたから、
機体の警備を地元警察が担当することはなかったはずで、手間が増えましたね。
■二十間道路のどこを使用したか
町誌の中に二十間道路のどの箇所を臨時飛行場としていたのか図が添付してあり、
軽井沢町図書館デジタルアーカイブ/南軽井沢飛行場■ の一番最後にもこの図が出てました。
その通りの位置を示したのが上のグーグルマップ、航空写真です。
後述しますが、二十間道路は1948年5月~1949年4月頃まで使用していたと考えられます。
上の航空写真は、1948年9月撮影ですから、まさに「臨時飛行場」だった頃のものです。
図によりますと、滑走路に設定された南端部分、ちょっと折れ曲がった先まで滑走路の一部として示されていて、
なんでこんな部分まで範囲になっているのか不思議なんですが、
もしかしたら、到着機の将校様をすぐお乗せできるようジープを待機させたり、
続けざまに複数の飛来機がある時を想定したエプロン代わりとかなんでしょうか(現在でもアラスカでは結構こういう形状ある)。
滑走路の長さは直線部分のみで約470mあり、高低差は5m程度。
6番コースは長さ450m、高低差は(飽くまでグーグルアースの現在の数値ですが)8m程度でしたから、
こちらの方が幾らかマシです。
町誌の図によって初めて二十間道路のドコが臨時飛行場だったのか知った訳なんですが、
図を見てまず思ったのは、(なんでよりによってこの部分??)ということでした。
先頭のグーグルマップを引いて見ていただけれぱ明らかなんですが、
米軍が臨時飛行場に設定した箇所の南側にも北側にも、もっと直線の長い箇所が幾らでもあるのです。
臨時飛行場のすぐ北には1,000mの直線になっていますし、南側には1,900mの直線があります。
但し、南側1,900mの直線の真正面には、押立山がそびえ立っております。
■所要時間問題再び
「占領軍は地蔵ヶ原の国土計画の飛行場をつかって、将校以上は東京から25分で飛んできた」(避暑地 軽井沢155p)
具体的な所要時間が出ていますね。
昭和2年に始まった定期便と比べると、所要時間が半分になっています(@Д@)
「軽井沢(馬越、南軽井沢)飛行場跡地」記事■ でも書いたんですが、
「地蔵ヶ原の国土計画の飛行場をつかって」と、ちゃんとどの飛行場を使ったか明記してあるのに、
実はオイラ、一時期「二十間道路」を使用していた時も所用25分と思い込んでました(///∇///)
そのため「二十間道路のどの箇所を滑走路に使ったか、町誌に図示されてますよ」と教えて頂いたのに、
「こんな標高が高く、しかも短い距離で離着陸するヒコーキがたった25分で東京まで飛ぶなんてあり得ない!」
とその情報を否定し、コメント欄が非常に険悪な雰囲気になってしまったのでした。
この時占領軍がどの機種を使用していたか不明なんですが、以下分からないなりにアレコレ書いてみます。
東京~軽井沢間、直線距離で100kmとすると、平均速度240km/h出せば、25分で到達できる計算になります。
但しこれは単純計算の数字です。
離陸→上昇→増速→巡航→下降→減速→着陸という速度の変化や、飛行距離のロスが計算に入っていません。
恐らく巡航中300km/h弱を維持しないと、25分は達成できません。
これは一例なんですが、1998年式のセスナ172Sは、最大巡航速度233km/h。
これは172の多くの派生型の中でもかなり速い部類に入るんですが、
例えセスナ172Sが最大巡航速度を出し続けたとしても、とても東京まで25分では着けません。
こう考えると、25分というのはそうお気軽に出せるタイムではないことが分かります。
まあ、「速ければヨシ」という話なら、戦闘機等、いくらでも早いヒコーキは当然あるんですが、
史料には「将校たちは家族を連れて」やって来たとあるので、将校とその家族の乗り込みます。
パイロット以外に座席が少なくとも更に数席ある機体でなければならず、当時は恐らく双発機を使用したはずです。
速度と共に、軽井沢特有の問題もあります。
標高が高くなるごとに空気は薄くなってゆくわけですが、
そうなるとヒコーキはエンジンとプロペラと翼の性能が落ちます。
現在国内で最も標高の高い空港は同じく長野県の松本空港の658mで、
その標高からヒコーキの運用には制限がついています。
658mでも運用制限がつくのに、軽井沢の標高はそれを遥かにしのぐ1,000m!Σ(゚Д゚;)
これではエンジンの馬力は上がらず、プロペラ、翼の効率もガタ落ちで、
長く滑走しないと離陸できず、結果として長い滑走路が必要となります。
「東京まで25分」を実現するための性能を備えた(恐らく双発の)機体なら、それだけ余計に長い滑走路が必要で、
とすると二十間道路の「ここが滑走路」と示されている箇所では短すぎて、
「離陸できるはずがなーい!」と思っていたのでした。
でも後になってよくよくいろんな資料を見返してみてたら、
「所用時間25分」と書かれているのは軽井沢飛行場についてのみでした。
6番ホール、二十間道路使用時の所要時間は(オイラの知る限り)どの史料にも出てきません。
それで、6番ホール、二十間道路使用時は短距離離着陸性能の優れた(ちょっと遅い)機体、
軽井沢飛行場に移ってからは、滑走距離長くなるけど快速機に変更したとすれば説明がつきます。
■軽井沢飛行場へ
ということで二十間道路を使用することになったんですが、
町誌には、「このように公道を飛行場として使用することは本来無理なことで」とあり、
占領軍の飛行場は、またまたお引越しすることになります。
「アイケルバーガー中将など幹部はセスナ機でやって来るため、堤康次郎が造った二十間道路を滑走路として使用し、次には戦前に堤が造った南軽井沢飛行場を再建している。」(軽井沢物語364p)
「旧ゴルフ場はホテル、大別荘と共に接収され、乗馬用の放牧場になった。敷地内には馬小屋も建てられていた。また、現在の六番コースには、東京と軽井沢を結ぶセスナ機の滑走路まで造られた。
やがて、この飛行場で、事故が起こったため、軽井沢から南に伸びる二十間道路(現プリンス通り)の南半分を"臨時飛行場"とし、セスナ機着陸の連絡が入ると警察が道路を一時遮断して、飛行場の離発着を助けていた。現在の軽井沢ではとても信じられないような出来事が当時は普通に行われていたのである。
ところが、臨時飛行場のままでは占領軍も不便なため、当時、地蔵ヶ原と呼ばれていた南軽井沢の湿地帯を飛行場用地に選び、所有者の箱根土地株式会社(現国土計画)の社長だった堤康次郎と交渉した。(軽井沢という聖地102p)
こうして、6番コース→二十間道路ときた飛行場は、戦前に建設された飛行場に移るのでした。
詳しくは「軽井沢飛行場跡地」記事に書きましたが、
米軍は恐らく1949年4月頃に軽井沢飛行場を復旧させたと思われます。
そのため二十間道路を使用していたのは、1948年5月~1949年4月頃までの1年位だったかと。
赤マーカー地点。
滑走路南端側から
長野県・臨時飛行場跡地
臨時飛行場 データ
種 別:臨時陸上飛行場
所在地:長野県北佐久郡軽井沢町長倉
座 標:N36°19′17″E138°37′47″
標 高:936m
滑走路:470m
方 位:15/33
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)
沿革
1925年夏 二十間道路ほぼ完成
1948年05月 進駐軍が臨時飛行場として使用
1949年04月 この頃米軍が軽井沢飛行場を復旧させ使用するようになったと思われる
関連サイト:
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この記事の資料:
軽井沢物語
軽井沢町誌
避暑地軽井沢
軽井沢という聖地
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