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硫黄島飛行場 [├国内の空港、飛行場]

   (訪問不可) 2021/11更新  


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撮影年月日1968/11/21(昭43)(KT685YZ C1 3) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
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測量年1969(昭44)(2.5万地形図 145-4-3-1 硫黄島) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
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SkyVector.com

東京都小笠原村硫黄島にある「硫黄島飛行場」。

飛行場は現在海上自衛隊厚木基地隷下にあり、海上自衛隊「硫黄島航空基地隊」と、

航空自衛隊「硫黄島基地隊」が使用しています。

上に貼りましたが、硫黄島が日本に返還された1968年の航空写真と現在とで最も目立つ違いは、

滑走路北側にある並行誘導路が新設されたことです。

この並行誘導路は主滑走路閉鎖時の緊急滑走路として整備されているのだそうです。

 

ネットでは、本土からの所要時間について、厚木からYS-11で3時間、

入間からC-130で3時間、C-1で2時間10分等書かれていました。

先の3つの記事で書きましたが、日本海軍は硫黄島に、「第一」、「第二」、「第三」と3つの飛行場を建設しました。

昭和20年2月から3月にかけての米軍の猛攻撃に先立ち、日本軍は天然の洞窟も利用した広範の坑道を掘ったのでした。

長さ8.5kmの島に対し、日本軍は約18kmもの坑道を掘り(計画では全長28km)、徹底抗戦を行ったため、

元山飛行場へ向けての米軍の前進速度は1時間に10mだったのだそうです。

「最短24時間で」、「5日間で」としていた米軍の上陸作戦は一か月余に及び、

結果として双方多数の死傷者が出たのですが、

米軍はこうした坑道を埋め、火炎放射器、ガソリンで焼き払う作戦をとったため、

多くの日本兵が坑道内で戦死する結果となりました。

硫黄島の占領後、米軍は日本兵の遺体が多数残っているであろう坑道のある元山飛行場と

その東側エリアの上にコンクリートを流し、飛行場を建設し、それは自衛隊に引き継がれて現在に至っています。

このことから硫黄島は、「島全体が墓」とされています。

2万を超える日本軍の戦死者のうち、現在でも約1万2千柱の遺骨が見つかっておらず、

その多くはこうした坑道内にあると見られており、

防衛省の調査では滑走路下の約1,800カ所で遺骨が埋まっている可能性があるとしています。

 

2009年1月23日付の朝日新聞によりますと、

硫黄島周辺はもともと火山活動が激しいため、防衛省では現飛行場について、

1993年に大規模な改修をしたのだそうです。

その後、滑走路の中央部や東端が沈下する一方、西端が隆起し、凹凸の差は最大80cmに。

そのため今年度から数カ年かけて、アスファルトで滑走路をかさ上げする大規模な改修を予定し、

工事費の一部11億円の予算を今年度分として確保していました。

ところが、戦没者遺族らから滑走路下の遺骨収集への強い要望があり、方針を転換。

現滑走路は応急的な改修にとどめることとしました。

本格改修をしてしまうと、今後何十年も滑走路を掘り返すことができなくなり、

遺骨収集ができなくなるためなのだそうです。

2013年12月、政府は、当面は滑走路を移設せずに部分的な収容と調査を並行して実施する方針を示しました。

遺骨の埋まっている可能性が高い滑走路周辺の場所を選定し、収容作業の早期着手を優先。

作業の進捗や地下の詳しい調査状況を見極めながら、将来的に滑走路の移設・改修を検討する事としました。

資料「平成 26 年度以降の硫黄島に係る遺骨収集帰還の取組方針」(下記リンク参照)によれば、

令和2年度も引き続き、調査、調査方法の検討、遺骨の収容と送還等進めるとしています。

 

元硫黄島の島民たちは、この島の事を「いおうとう」と呼んでいたのですが、

この呼び方は必ずしも全国的に統一されたものではなく、

海軍の一部と明治時代作成の海図では「いおうじま」になっていました。

アメリカはこの海図の表記に従い、戦後の統治時代にも同様に「いおうじま」としていました。

2007年、小笠原村からの名称変更の要望を受けた国土地理院がそれに応じたため、

正式に「いおうとう」となったのでした(前年の映画「硫黄島(いおうじま)からの手紙」が契機になったらしい)。

この名称変更に伴い硫黄島飛行場も、飛行場名:Iwoto、呼び名:Iwoに名称変更したのでした。

余談ですが、鹿児島県の硫黄島は「いおうじま」で、二つの島は読み方で正式に区別する事が出来るようになりました。


      東京都・硫黄島飛行場     

硫黄島飛行場 データ

設置管理者:旧海軍→米軍→防衛省
3レター:IWO
4レター:RJAW
種 別:軍用飛行場
所在地:東京都小笠原村硫黄島字元山
座 標:N24°47′12″E141°19′27″
標 高:113m
滑走路:2,650m×60m
磁方位:07/25

沿革
1933年     着工
1937年     完成
1945年03月 米軍に占領される
1968年06月 返還。 自衛隊による飛行場の運用を開始。海上自衛隊硫黄島航空基地分遣隊設置
1970年05月 9日 飛行場につき、硫黄島飛行場として運用を開始
1984年01月 航空自衛隊、硫黄島基地隊新編
1992年04月 海上自衛隊硫黄島航空基地隊に改編
2007年11月 21日 硫黄島の名称変更に伴い、飛行場名:Iwoto、呼び名:Iwoに名称変更

関連サイト:
「平成 26 年度以降の硫黄島に係る遺骨収集帰還の取組方針」 


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コメント 7

takkun

硫黄島の記事、興味深く拝見させていただきました。
ご存知かもしれませんが…
http://press.jal.co.jp/ja/release/200702/000231.html

MD90だと羽田から2時間5分ほどで行けるんですね。
最近は738で行ってるみたいです。我々も空港視察名目で787チャーターしますかね(笑)
by takkun (2014-08-04 19:18) 

an-kazu

既に退役した米海軍強襲揚陸艦USS Iwo Jimaは、
本来ならIwo toだったかもしれないのですね!
by an-kazu (2014-08-04 23:17) 

とり

■takkunさん
JALがこんなフライトをしてたんですね(@Д@)
介護者も同乗とされていますが、
高齢のご遺族の方にとっては旅客機だから行けるということなんでしょうね。
>787チャーター
いいですね~。
事前にタラップ車送ってもらわないと(o ̄∇ ̄o)

■an-kazuさん
そうなんですよ~。
アメリカでもこの呼び方変更に追従する動きがあるそうです。
by とり (2014-08-05 06:50) 

ジョルノ飛曹長

元山には零戦の基地があったんですよねー。千鳥の方は一式陸攻が使っていたそうです。零戦部隊は決戦に備えて本土へ戻ってしまったので、航空戦力を失った硫黄島の結末はだれもが想像する通りになってしまいました。
by ジョルノ飛曹長 (2014-08-05 12:43) 

とり

■ジョルノ飛曹長さん
>戻ってしまった
そうだったのですか。。。
そういえば一時期坂井三郎氏が硫黄島に来ていたという資料がありました。
きっとこの時のことですね。
by とり (2014-08-06 06:17) 

Buruno

こんにちは
ふと、羽田空港に行くと
JALによる、祝「硫黄島線開設」の証拠写真を撮ることができましたw
一般の人は行けない空港w
その場で、現金払えば乗れるんじゃないかと思いましたw

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:From_Haneda_to_Iwo_Jima1.jpg

カウンター後部のモニター全てに映し出されるくらい、気合が入っています。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Flight_4901_from_Haneda.jpg

便名も既に設定されていますw
by Buruno (2024-04-01 18:45) 

とり

■Burunoさん
いいですね~。
この便名を使うのも素晴らしい。

先日は別の硫黄島飛行場の情報ありがとうございました。
現在超絶忙しくて、なかなか担当様に連絡とれずにおります(XДX)

by とり (2024-04-02 05:48) 

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