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旧軽井沢ゴルフクラブ6番コース(米八軍飛行場跡地) [├国内の空港、飛行場]

   2015年3月訪問 2022/1更新   

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撮影年月日1947/08/13(USA M407 176)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

名門ゴルフ場建設

長野県の軽井沢駅北西約2kmにある「旧軽井沢ゴルフクラブ」。

このゴルフ場建設のいきさつについて、次のように記されていました。

 「大正八年にゴルフ場建設の気運がもり上がり、徳川慶久・田中寛・西巴清・ライフスナイダーなどによって建設計画とクラブ規則の原案がつくられた。場所は大隈別荘付近の離山中腹からふもとが候補にあがったが、野沢源次郎が敷地を提供することになって、離山北側の一帯に決まった。(中略)
マニラのプロゴルファーであったニコルスを招いて現地調査をして、赤旗をグリーンに立て、白旗をティーに立てて大体の設計を行った」(田中寛氏の文より) 大正十年七月にサント・グリーンの六ホールと野芝のフェアウェーができあがり、十一年に九ホールが完成した。(中略)
十三年にはクラブハウスが完成しゴルフを楽しむ人が増え、それまでのテニスと野球が中心であった軽井沢のスポーツに新しい時代をもたらした。昭和八年に鉄道の南に十八ホールのゴルフ場ができても、いまでも旧ゴルフ場として多くの会員に親しまれている。」(避暑地軽井沢84p)

今でこそ軽井沢にはたくさんのゴルフ場がありますが、このゴルフ場がルーツだったんですね。

GOLF CORSE RANKING CLUBというサイト によりますと、

当ゴルフ場は「大正8年(1919年)開場の旧軽井沢にある名門会員制ゴルフ場」と紹介されており、

「歴史と伝統のある長野県名門ゴルフ場ランキング」で堂々第一位に輝いています。

因みに2位は、上の史料で「昭和八年に鉄道の南に十八ホールのゴルフ場」として登場する新軽井沢ゴルフ倶楽部。

1位が1919年、2位が1933年の開場であるのに対し、3位以降は1960年代~の開場です。

「当ゴルフ場は軽井沢のゴルフ場のルーツ」とか書いちゃいましたが、

軽井沢のゴルフ場のルーツどころか、長野県内でも突出して歴史のあるゴルフ場でした(@Д@)

新軽井沢ゴルフ倶楽部も「新」がつきますけど、非常に古いんですね。
 

飛行場化

そんな非常に歴史のあるゴルフ場を2つも擁する軽井沢ですが、

戦後進駐した中将の一言でこの町の情勢が大きく動くことになります。

 「昭和二十一年四月十八日に、県知事の案内で第八軍司令官アイケルバーガー中将が軽井沢視察に来たのです。町内をあちこち案内した後、前田利為別荘で会食。この席上でアイケルバーガー中将が、ここはいいところだ、占領軍のレストセンターにしようと言ったのです。
 日本を占領した連合軍の主力は、そもそも戦闘部隊であった。長期間にわたって実戦部隊を第一線に送っておくと兵士の士気が低下する。この頃の飛行機はプロペラ機なので米国本土まで時間がかかるし、その輸送経費も高くつく。そのために、将兵を休養させるレストセンターを軽井沢に作ったのだろう。」(軽井沢物語362~363p)

軽井沢が日本駐留米軍の保養地とされたのですね。

こうして軽井沢には常時200~300名の米兵が滞在したのだそうです。

一般の兵士は軽井沢まで列車でやって来たため、軽井沢駅には占領軍専用のRTO(鉄道輸送事務所)が設置され、

改札口も一般乗客とは区別されました。

そしてこの「軽井沢のレストセンター化」は、

軽井沢にあった2つの名門ゴルフ場の運命にも大きな影響を与えることになります。

 
 「アメリカ軍は十一月九日の千ヶ滝グリーンホテルをはじめ、三笠ホテル、新旧ゴルフ場を接収し」(避暑地軽井沢154p)

ここで「新旧ゴルフ場を接収」とあります。

これは先程から出ている新軽井沢ゴルフ倶楽部と旧軽井沢ゴルフクラブを指します。
新ゴルフ倶楽部は軽井沢駅の南側に、そして旧ゴルフクラブは駅の北側にありました。

どちらも米軍に接収されてしまったんですが、両者の扱いには大きな差が生じました。

 「新ゴルフ(軽井沢ゴルフ倶楽部)は、昭和二十六年十月三十日に米軍の接収が解除となり、翌年四月一日より同倶楽部に引き継がれた。「コースは六年間の接収中、進駐軍において相当の手入をなし居たため、引き継ぎの際は戦争直前に比するも満足なものでありました」と会員総会で報告している。米軍が管理、維持をきちんと保ってくれていたので一流のゴルフコースとなっていたのである。」(軽井沢物語403p)

新ゴルフ倶楽部の方は接収中に米軍が一流のゴルフコースとして管理していたんですね。

では旧軽井沢ゴルフクラブはというと-

 「旧ゴルフ場は放牧場として利用された。旧ゴルフ場六番コースには飛行場がつくられ、週末には東京から将校がセスナ機でゴルフにやってきた。」(避暑地軽井沢154p)

なんと非常に歴史のある名門ゴルフ場が放牧場となり、しかも6番コースが飛行場になったのです(@Д@)

 「この旧ゴルフ場は米軍が接収して、第一騎兵師団の放牧地となっていた。クラブハウスは馬小屋として使用され、グリーンは荒れ果てている。」(軽井沢物語391p)

「旧ゴルフ場はホテル、大別荘と共に接収され、乗馬用の放牧場になった。敷地内には馬小屋も建てられていた。また、現在の六番コースには、東京と軽井沢を結ぶセスナ機の滑走路まで造られた。」(軽井沢という聖地102p)

新ゴルフ場とは極めて対照的に、旧ゴルフ場の方は散々な使われ方をしたのですね。

創立当初のメンバーには貴族、政財界等、当時の上流階級の人々が名を連ね、後の昭和天皇もプレーされました。

そうした方々もきっとご利用になられたであろう超名門ゴルフ場のクラブハウスが、

こともあろうに馬小屋って。。。(;´Д⊂)

 
余談ですが「思い出のアルバム軽井沢」95pには、

商店等がずらりと並ぶ軽井沢本通りを馬に乗って闊歩する騎兵将校の写真が掲載されています。

6万坪の旧軽井沢ゴルフクラブに対し、新ゴルフ倶楽部は30万坪もありました。

米兵さんにとって格式は関係なくて、広々としてる方でプレーしたかった。ということなんでしょうか。


飛行場としての6番コース

旧軽井沢ゴルフクラブが飛行場になるまでのいきさつを概観したところで、

当ブログ的本題である6番コースの飛行場化についてアレコレ考えます。

すっかり長くなってしまいましたが、ここまでは前フリです(キッパリ)。


前述の通り複数の史料の中で、「6番コースが飛行場となった」と繰り返し出てくるんですが、

実は旧軽井沢ゴルフクラブはコースレイアウトの大幅な変更を経ています。

現在は全12ホールで、6番は敷地の最も南東に位置しており、コースは東西方向なんですが、

18ホールだった時代があり、その頃の6番は敷地のずっと北側にあり、コースはほぼ南北方向でした。

また国土地理院の航空写真で年代を追ってコースレイアウトを見てみると、

その後も細かいレイアウトの変更があったように見えます。

一体ドコの6番コースなの?(゚Д゚;≡;゚Д゚) 

という話になっちゃうんですが、

軽井沢町誌 歴史編(近・現代編)1988年3月31日 394pには六番コース」とあり、

2012年5月1日発行の軽井沢という聖地102pにも現在の六番コース」とあります。

2つの史料にわざわざ「現在の」と付け足されているのは、過去に変更があったという背景を含んでいるんでしょうね。

国土地理院の航空写真で1988年以降のコースレイアウトを見ていくと、現在と大きな変更は見られません。

ということで、文字通り現在様々なサイトで紹介されているコースレイアウトをそのまま使えるのだと思います。


旧軽井沢ゴルフクラブが戦後飛行場になったことは、検索すると幾つかのサイト様がヒットするんですが、

「なんでわざわざここのゴルフ場を飛行場にしたの??」という尤もな疑問が見られます。

旧軽井沢ゴルフクラブは離山の麓にあり、

地形図で確認するとすぐ分かるのですが、三方を山に囲まれており、

素人目にも飛行場にするには窮屈なエリアに見えます。

新軽井沢ゴルフ倶楽部の方がまだ周辺が開けていて、敷地も広々しており、こっちの方がよっぽど飛行場っぽいです。

町誌は「旧ゴルフ場を飛行場とした」ことについては記しているんですが、

「なんでわざわざこっちを??」という素朴な疑問については特に記していません。

ここから先は全くの憶測なんですが、こんな一文があります。

 「アメリカ軍は十一月九日の千ヶ滝グリーンホテルをはじめ、三笠ホテル、新旧ゴルフ場を接収し、万平ホテルは第八軍が接収して、専用ホテルとして使用を始めた。別荘も三六軒接収してアメリカ兵が使用した。」(避暑地軽井沢154p)

地元の方にとっては言わずもがななんでしょうが、軽井沢の中心は古くから旧ゴルフ場のあった軽井沢駅の北側であり、

そのため将校や一般兵が接収した別荘やホテル、その他諸施設はいずれも駅の北側に集中していました。

上の史料に登場するホテルも、いずれも駅の北側にあります。

特に進駐軍の使用した重要施設としてしばしば史料に登場する万平ホテルは、

旧軽井沢ゴルフクラブから僅か1.5kmに位置していますから、

東京からヒコーキでやって来た将校は、到着後すぐに最寄りの施設に入ることができました。

ということで、「諸施設のすぐ近くだから」という利便性から旧ゴルフクラブが選ばれたのではないでしょうか

(個人の感想です)。


6番コースがいつ飛行場になり、いつまで飛行場だったのかについて、明記している史料は見当たらないんですが、

「軽井沢をレストセンターにしよう」という話があったのが1946年4月18日。

千ヶ滝グリーンホテルをはじめ、三笠ホテル、新旧ゴルフ場を接収したのが1946年11月9日。

ということで、6番コースを飛行場化したのは、早くても1946年11月か12月ではないかと。

いつまで飛行場だったかについては、有力な情報があります。

「昭和23年5月 二十間道路が進駐軍の臨時飛行場となる。」(軽井沢町誌 歴史編(近・現代編)684p(年表)

後述しますが、6番コースでヒコーキ事故が起きてしまったため、

米軍は6番コースの使用を止め、代わりに二十間道路を飛行場として使用します。

昭和23年5月から二十間道路を使用していますから、6番コースの使用はそこまでということに。

ということで、米軍が6番コースを飛行場として使用していたのは、最大でも

1946年11月~1948年5月までの1年6ヵ月間ではないかと思います。


上の写真は1947年8月13日撮影で、おおよそ米軍が飛行場として使用していた頃ではないかと思います。

先頭のグーグルマップは、この航空写真を元に6番コースを作図したものです。

現在とほぼ変わらないですが、当時の6番コースは東端がホテル鹿島の森の敷地まできていたんですね。

端から端まで目いっぱいで約450mの直線がとれる大きさです。

当時のコースにどの程度の勾配があったかは不明なんですが、

グーグルアースで確認してみたところ、現在は西端から東端にかけて、約8mの下り勾配になっております。

因みに18ホール当時の6番コースだと、20~30mもの高低差があり、

この点からもやっぱり現在の6番コースを使用するのが妥当ではないかと思います。


ところで「旧ゴルフ場」の各コースレイアウトを見ると、

6番よりもっと飛行場向きに思えるコース(直線的でより長いコース)があります。

そのため、「どうしてもっとマシなコースを使わなかったんだろう?」

という、これまた素朴な疑問がネット上でも散見されます。

これもオイラの推測なんですが、そもそも旧ゴルフ場は米騎兵師団の放牧場とされ、その一部が飛行場となりました。

放牧場ですから、かつてのゴルフ場では、馬たちが自由に走ったり草を食べたりと、

敷地内の思い思いの場所でのびのび過ごすはずです。

6番コースはゴルフ場全体の敷地の中では、南東の端っこに位置しています。

「ゴルフ場を放牧場とし、その一部を飛行場にしよう」と計画した場合、

ゴルフ場敷地の一角に飛行場施設を押し込めるというのは、安全管理上、理に適っていると言えるのかも。


セスナ問題

東京から飛来してきた将校が使用した機体は「セスナ」であったと、史料にはしばしば「セスナ」が登場します。

「セスナ」といえば、誰しも高翼、単発のいかにも軽快なプロペラ機を連想すると思います。

あの誰しも思い浮かべるであろうプロペラ機、

厳密にはセスナ社が製造した「セスナ172」(現・スカイホーク)のことです。

「空のファミリーカー」をコンセプトに開発したモデル172が爆発的なヒットを飛ばし(ヒコーキだけに)、

これが余りにも有名になり過ぎたが故に、社名の由来は創業者(クライド・セスナ)であるにもかかわらず、

どのメーカーだろうが、高翼単発機全体の代名詞として(なんなら小型機全部ひっくるめて)、

猫も杓子も「セスナ」と呼ばれるようになってしまいました。


「セスナ172」の販売が始まったのは1956年なので、

小型機を見ると、「あ、セスナ!」という現象が始まったのは、特に日本ではこれよりも後ということになります。

軽井沢で進駐軍が飛び回っていたのは1940年代なので、

当時軽井沢の方々が小型機を見ても「あ、セスナ!」現象は起こらなかったはずなんですが、

オイラが軽井沢記事を作るために参考にさせて頂いた書籍のうち、

「セスナ」に触れている本の発行年は全て1970年代以降であり、「あ、セスナ!」以降です。

各書籍の中では、軽井沢進駐軍関連の記述で盛んに「セスナ」が登場します。

米兵が「これはセスナ社のヒコーキだYO!」と教えてくれたのを受けて

「セスナ」と記されているなら間違いないんですが、

資料が何を根拠に米軍機を「セスナ」と称しているのか不明のため、

史料に「将校はセスナで飛来した」と記してあっても、「ソレ、ホントにセスナなん?」

と疑ってかかってしまうという、ちょっと困った問題が生じます(o ̄∇ ̄o)

地元写真店にお邪魔した際、占領当時の米軍機が映っている写真が是非とも見たかったんですが、

残念ながらそういう写真はないそうです。


ヒコーキは標高が高くなるごとにエンジン、プロペラ、翼の性能が落ちてしまい、

結果としてより長い滑走路が必要となります。

当時の6番コース、最大でも長さが約450mしかないので、この滑走路の短さから運用機は、

必然的に大型機ではなく、連絡機等の小型機になるはず(大型になるほど長い滑走路必要)。

セスナ社は1920年代、1930年代には既に現在の「セスナ」に似た高翼、単発機(モデルAとかDC-6とか)

を開発しており、軍用機も数多く制作していました。

それで、軽井沢に将校を運んだヒコーキが本当に「セスナ」であった可能性は大いにあると思います。

ということで、6番コースを飛行場にして将校を運んでいたんですが、

前述の通りそれも長くは続きませんでした。

 
 「セスナ機がゴルフ場に突込み、引き出すという事故もあった(旧ゴルフ場は昭和二四年四月接収解除となる)。」(軽井沢町誌 歴史編(近・現代編)354p)

 「旧ゴルフ場六番コースには飛行場がつくられ、週末には東京から将校がセスナ機でゴルフにやってきた。セスナ機がゴルフ場に突っこむという事故があってから、南軽井沢の二〇間道路が臨時飛行場となった。」(避暑地軽井沢154p)

セスナ機がゴルフ場に突っこむという事故が発生してしまい、

代わりに南軽井沢の二〇間道路が臨時飛行場として使用されることになったため、

具体的な日付は不明なんですが、ゴルフ場の飛行場は短命に終わることとなります。

この臨時飛行場については次の記事で取り上げます。


6番コースを飛行場にしていたのは、最大でも1年6カ月だったんですが、

6番コースを飛行場として使用するのを止めてから、旧ゴルフ場そのものが程なく接収解除となました。

では返還後の旧軽井沢ゴルフクラブはどうなったのでしょうか。

史料にこうありました。

 「放牧場だった旧ゴルフは、いつから再開できたか。二十三年九月に接収解除となった。(中略)このゴルフコースでプレーしだしたのは二十四年六月二十日。敗戦から四年目の夏に、早くもゴルフを楽しむ一握りの人たちがいたのだ。」(軽井沢物語392p)

 「昭和24年4月1日、 旧ゴルフ場、接収解除(米八軍飛行場)百名の有志によって株式会社旧軽井沢ゴルフ倶楽部として再発足30年から再建に着手し、現在一二ホール。」(軽井沢町誌 歴史編(近・現代編)685p(年表)

接収解除となった旧軽井沢ゴルフクラブは、再びゴルフ場になりました。

接収解除からプレー再開まで半年以上を要しているのはもしかしたら、

放牧場として荒れ果てた状態からの復旧に時間がかかったからかも。


実は旧軽井沢ゴルフクラブの接収解除時期について、

「軽井沢町誌 歴史編(近・現代編)」354pと、685p(年表)では、
「昭和二四年四月」、「昭和24年4月1日」とあるのに対し、

「軽井沢物語」392pでは、
「二十三年九月」とあり、食い違いが生じています。

但し、「軽井沢物語」の方は、二十三年九月に接収解除したことに続けて、時期は記されていないんですが、

地主がゴルフ場を株式会社として発足させ、次いでプレー再開の運びとなったことを記しています。

改めて町誌685p(年表)を見てみれば、

「昭和24年4月1日、 旧ゴルフ場、接収解除(米八軍飛行場)百名の有志によって株式会社旧軽井沢ゴルフ倶楽部として再発足」

とあり、4月1日は接収解除後、再発足した日とも受け取れます。

そんな訳で、オイラとしましては、

昭和23年9月 接収解除→昭和24年4月1日 株式会社旧軽井沢ゴルフ倶楽部発足→同6月20日 プレー再開

ということなのではないかと。

余談なんですが、進駐軍の軽井沢についての印象が記されていました。

「九月末には日本の地方の農民生活を報道するためにアメリカ陸軍写真班(報道班員)二〇人余が万平ホテルに宿泊した。この時対応した外務省軽井沢出張所の鶴見領事は、アメリカ軍人の軽井沢の印象について
「写真班に与えた印象はすこぶるよい。雄大な浅間高原の風景はカナダによく似ている。まして六〇年来イギリス・アメリカの先輩たちによって開かれた国際都市軽井沢の伝統が現在も清らかに保たれ、知有の外人の多いこと、町民が外国人にすっかり慣れている等、長い戦歴から急転して美しい郷里へ帰った喜びがある」
とアメリカ軍人たちの印象をまとめている。とくに国民学校児童たちの「ジープの兵隊さん」という可愛い歓迎がアメリカ兵を喜ばせた。(避暑地軽井沢154p)

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     長野県・旧軽井沢ゴルフクラブ6番コース         

旧軽井沢ゴルフクラブ6番コース データ
設置管理者:米軍
種 別:陸上飛行場
所在地:長野県北佐久郡軽井沢町旧道
座 標:N36°21′30″E138°37′22″
標 高:963m
滑走路:450mx45m
方 位:10/28
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)

沿革
1919年    ゴルフ場建設の気運がもり上がり、建設計画、クラブ規則原案がつくられる
1921年07月 6ホールとフェアウェーができあがる
1922年    9ホール完成
1924年    クラブハウス完成
1946年04月 18日、第八軍司令官アイケルバーガー中将、軽井沢視察。
    11月 9日、千ヶ滝グリーンホテルをはじめ、三笠ホテル、新旧ゴルフ場を接収。その後6コースの飛行場化
1948年05月 二十間道路が進駐軍の臨時飛行場となる
    09月 接収解除?
1949年04月 1日 株式会社旧軽井沢ゴルフ倶楽部発足?
    06月 20日、ゴルフ場でプレー始まる

関連サイト:
ブログ内関連記事■       

この記事の資料:
軽井沢物語
避暑地軽井沢
軽井沢という聖地
軽井沢町誌 歴史編(近・現代編)
思い出のアルバム軽井沢


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コメント 2

鹿児島のこういち

中将の一言で物事が決定できたんですね。
軍の会議にかけたのかなぁ?
by 鹿児島のこういち (2018-10-03 13:47) 

とり

■鹿児島のこういちさん
これは結構な規模の案件と思うんですが、
どんな経緯を経て正式決定に至ったんでしょうね。
Wiki先生によりますと、アイケルバーガーは最高司令官マッカーサーのすぐ下の位ですが、
この位偉くなると、個人の一存で通っちゃったりするのかしらん。
by とり (2018-10-04 08:00) 

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