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台湾・台北飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]

   (未訪問)2022/6更新  




台湾台北市松山区にある「台北松山空港」。

約30km西に新設された台湾桃園国際空港に主役の座を譲るまで、長く台湾の空の玄関口でしたが、

元々は日本統治時代に建設された「台北飛行場」でした。


「盟軍記載的二戰臺灣機場」(下記リンク参照)によれば、

当飛行場は連合軍によりMAD(Medium Bomber Airfield:中爆撃機飛行場)に分類されています。

「建設の施工企画 ’12.6 日本統治時代台湾における台北飛行場建設」というサイト様に、

当飛行場の図と情報があり(下記リンク参照)、先頭のグーグルマップは、この図から作図しました。

精度にあまり自信がないのですが、おおよそこんな感じと思います。

同サイト内の情報を以下引用させて頂きます。

(3)台北飛行場
 台湾本島では軍部によって屏東・鹿港・花蓮港・台東の諸地方に着陸場が開設された。しかしながらいずれの着陸場も,単に航空機の着陸に供するための最低限の設備しか有していなかった。そのため本島には軍部によって整備されたもの以外に 「飛行場と稱するものがない狀態」 であった。そこで台湾総督府は台北に空港を設置することとし,1932 年に予算を計上,翌年には台北市東部の約 14 万坪の敷地を整備し台北飛行場とすることを決定した。その後同飛行場は1935 年同面積全部の整地を完了し,翌 1936 年に第一期工事が竣工している。そして内台間定期航路が開始したことで同飛行場は空港として使用されるに至った。

現行の空港と比較するとかなり小さいのですが、当時の公共用飛行場としては、福岡第一、羽田に次いで、

第三位の規模であったと同サイト様にありました。

こうして臺灣総督府により、台北市東部に建設された飛行場だったのですが、

その後拡張が続けられることになります。




■防衛研究所収蔵資料「航空路資料第10 台湾地方飛行場及不時着陸場 昭和15年4月刊行 水路部」

に昭和14年(1939年)の資料と図があり、このグーグルマップはこの図から作図しました。

1936年に建設された飛行場の敷地をスッポリと覆うように着陸地域

(上のグーグルマップ・グレーのシェイプ)となっています。

また、斜めに2本の赤線が引いてありますが、北の赤線の北側、南の赤線の南側がそれぞれ「工事中」と

図に書かれており、大幅な拡張が計画されている様子が分かります。

同資料の情報を以下引用させて頂きます。

臺北飛行場(昭和14年2月調)
臺北州臺北市頂東勢(臺北市街の北東方約5粁)

所管 臺灣総督府
着陸場の状況
高さ 平均水面上約6米
廣さ及形状 本飛行場は東西の長さ北部に於て約1,350米、中央部に於て
約700米、南部に於て約250米の略三角形地(総面積119萬平方米)なり・着
陸地域は長さ西南西-東北東約1,200米、南西-北東約900米(但し西南西端
中央部は建築物敷地に因り二分され其の各々の幅約170米なり)、北西-南東
約550米(敷地全面)の略V字型地なり(付図参照)。
地表の土質 砂を混ずる硬質粘土。
地面の状況 着陸地域(旧飛行場地区)は堅硬なり場の南北に目下整地工
事中の新拡張区域あるも未だ一帯に軟弱なり・場は概ね凸凹起伏なき平坦地な
るも中央部に於て略北方に向け極めて緩徐なる下り傾斜を成す・場内の排水設
備は完備し略東西に走る4條の暗渠と之と直行する数條の排水暗渠あり其の表
面は「コンクリート」造の蓋石を以て覆はる(付近地表と同一面を成す)又其
の中間に地表水集道路(約100米等間隔に南北方向に舗装し空中より視認し
得)を設け場内の水を周縁を繞る排水溝に導く・降雨及季節に因る影響なく
日射のため乾燥せば幾分の亀裂を生ずるも離着陸上の支障とならず。
場内の障害物 着陸地域内にはなし・着陸可能区域と新拡張区域との境界
に高さ約0.7米の仮場周表示燈(200ボルト、100ワツト)あり。
適当なる離着陸方向 西南西-東北東、南西-北東。
離着陸上注意すべき點 北方及南東方に山岳近接す・着陸可能区域を示す
仮場周表示燈あり。
本飛行場規定中特に注意すべき諸項(抜粋)概ね次の如し。
第一條 離陸の際は風向きに正対するを原則とす。
但し静穏の際は吹流の下に次の区別に依り旗を掲げ離陸法を指示するものと
す。
色別 風向
白  東
青  南
赤  西
黄  北
旗の中央の文字は着陸方向を示すものとす。
第2條 着陸の際の方向指示其の他空地連絡は次の如き空地連絡布板信号
に依る。
臺北飛行場使用規定別表
 空地連絡布板信号
  信号        意味
  T          着陸差支なし。
  Tの上にカタカナのハ 直ちに着陸せよ。
  Tの上に横棒1(〒)  注意し着陸せよ。
  Tの上に横棒2    着陸装置に異常あり注意せよ。
  Tの上に×      着陸待て。
摘要 1.布板設置場所は吹き流し信号柱付近とす。
   2.T字布板と補助布板との間隔は約2米を置くものとす。
   発煙 着陸待て。
摘要 状況に応じ布板信号と併用するものとす。
備考 降雪時は赤色若は黒色を用ふるものとす。
第3條 離着陸のための旋回は北北東方より南南東方の間の風向に対しては
右回りとし其の他の風向きの際は左回りとす。
施設 場の南西側建物敷地内に大日本航空株式会社臺北支所(高さ約10
米)、飛行場事務所、大日本航空株式会社格納庫(高さ約20米)(西側に格納庫建
築中)、計量器格納庫、信号(吹流)柱(高さ約20米)、油庫、海軍兵舎数棟(高
さ約8米)、発動機工場自動車庫、国防義会航空部格納庫、気象臺飛行場出張
所(高さ約10米)あり・場の南西方周縁に長波無線方位測定所、短波無線方
位測定所及磁気測定所(高さ約6米)等あり・夜間着陸可能区域表示の為其の
周縁に約200米等間隔を以て仮場周表示燈(高さ約0.7米)設置しあり又新拡
張区域に場周表示燈(高さ約1米)設置工事中なり・新区域の各隅6箇所に着
陸場照明燈(高さ約0.5米)あり。

周囲の状況
山脈丘陵及水田 付近一帯は淡水河及基隆河流域の平野にして周囲は水田
多く開豁なり・場の北西方より右回りに南東方に至る間は西流する基隆河あり
之を隔てて場端より外方約2粁乃至4粁付近より山麓となり直ちに標高を増し
山岳重畳連互する地帯となる。
建築物 場の外周北西方東勢付近の民家は高さ約6米にして夫れより右回
りに北東方上塔悠警察官吏派出所付近民家は高さ約6乃至10米あり南方のも
のは高さ約6米あり・飛行場建物敷地付近のものは施設蘭参照。
河川 東方より北方を隔てて西流する基隆河あり又場の外周處々に小渓存在
す。
煙突 場の北西端より北西方約1粁に高さ約40米の圓山煉瓦工場煙突及
場の東端より東方約1粁に臺灣煉瓦株式会社松山工場の煙突(高さ約20米1
基、約40米3基)あり頂上に紅色障碍燈を設置す。
電線 飛行場建物敷地内より南西方及場の南方を松山変電所に至る高さ約
8米の電線あり。
着目表 基隆河、縦貫道、臺北市街、松山市街。

地方の状況
軍隊 臺灣軍司令部(臺北市書院町)南西方約6粁・臺灣歩兵第1連隊、
臺灣山砲兵連隊(臺北市旭町)南西方約5.5粁。
憲兵 臺北憲兵隊臺北憲兵分隊(臺北市及木町)南西方約6粁。
警察署 南警察署(臺北市大和町)南西方約4粁。
派出所 上塔悠警察官吏派出所(臺北市上塔悠)北東方約0.2粁。
役場 臺北市役所(臺北市樺山町)南西方約4.5粁。
医療 臺北医院(臺北市明石町)南西方約5粁・日本赤十字病院(臺北市
東門町)南西方約5粁・臺北衛戊病院(臺北市南門町)南西方約6.5粁。
宿泊 場の西側に接し士官宿舎及兵舎数棟あり相当の人員を収容し得・近
くに臺北市街を控ふるを以て宿泊至便なり。
清水 場内に上水道の設備あり。
応急修理 場内に発動機手入工場、器材庫などの一般修理施設あり・臺北市
街に完備せる修理工場あり。
航空需品 場内に油庫数棟あり・日本石油株式会社臺北販売店(臺北市本
町4丁目)(南西方約5粁)に於て「ガソリン」類を需むることを得。

交通運輸及通信
鉄道 臺北駅(縦貫線)南西方約5粁・松山駅(縦貫線)南東方約4粁。
乗合自動車 臺北市街より松山に至る市営「バス」の便あり、最寄停留所
は飛行場入口(約1.7粁)なり・臺北市を基點とし基隆市を終點とする臺灣総
督府交通局鉄道部の局営「バス」の便あり。
道路 南方約1.5粁を東西に走る縦貫道あり之に連絡する飛行場専用道路
は場の南西隅より延長す幅約10乃至13米にして自動車類の運航可能なり・場
の北側より東方は梶頭に四方は臺北市に至る道路あり。
運航 北方及東方を流るる基隆河は傳馬船の運航可能なり。
車馬 臺北市に自動車(乗用車614、貨物888、特殊46)荷馬車13、牛車
109あり。
運送店 臺北市内に日東商船組臺北支店、日本通運株式会社臺北支店、臺
灣運輸業組合、臺灣海運株式会社其の他約50あり。
電信及電話 場内外に海軍臨時特設に係るものあり(付図参照)・場内に
電信及無線局に通ずる直通電話あり・臺北郵便局(臺北市京町)南西方約5粁、
電信及電話を取扱ふ。

気象
測候所 臺灣総督府気象臺飛行場出張所(場内)、航空気象を主とする気象
観測を実施す・臺北観測所(臺北市文武町)南西方約5.5粁、普通気象を観測
す。
地方風 東風・夏季は南北及西風吹くことあり。
大正15年至昭和10年10箇年間の統計に拠る月別(1)最多風向、(2)平均風速
次の如し。(以下月毎のデータ省略)
統計に拠れば暴風期は7,8月頃にして雷電は6,7及8月頃多し。
颱風 本島は颱風進路に当るを以て概ね毎年其の襲来を受くること多く其
の襲来を月別として示せば8月に於て最も多く38%を示しその進行方向より
見るに一は比律賓群島呂宋の北東若は其の東部の洋上に起り北西に進みて本島
を横断するか又は南端或は北端を掠めて通過し支那大陸に入るものにして其の
回数最も多く其の勢力亦最も猛烈なり此の外東部海上を北進するものあるも孰
れも前者に比すれば回数少なく概して勢力微弱なり。
天候 12月より翌年3月中旬までは雨期にして6月より8月の間は「スコ
ール」多く雷雨を伴ふ豪雨あり。
大正15年至昭和10年10箇年間の統計に拠る月別(1)快晴日数(2)曇天日数
(3)降水日数次の如し。(以下データ省略)
霧は12月至翌年3月多し。
地方特殊の気象及天気予察の俚諺 1.冬季 北東季節風季中は臺灣北部は陰
雲なる天候なるも稍規則的に1週間目位に太陽を見る日あり・季節風は約4,5
日の週期にて風向順転す、即ち北風より始まりて北東、東風となり此の時風勢及
雨量共最大にして南東風にて晴間を見、南風にて晴るるも南西となりて曇り爾
後雨となるときは北部海上に低気圧発生せる兆候なり、而して此の低気圧が東
北東に動き出すや約5,6時間晴れ次で偏北の季節風吹始め小雨となる・季節
風期には午前10時及午後10時頃気圧の最高を示す時刻に天候一般に良好とな
り始め午後2時及午前2時頃は雲量急激に増加する特徴あり。
2.夏季 颱風襲来前の天候は颱風南洋に発生し沖縄、南部洋上に来襲する
迄は風向東上して疾風程度となり終日快晴にして日射強く高温なり、上層風は
東南東又は編東風にして熱雷雨は全く消滅し視界最大となる・颱風本島北部洋
上を西行するときは北西、西、南西の風向は強風以上颱風程度に達し豪雨とな
り、北東又は北風は疾風程度にして時々驟雨となることあり(南部洋上を西行
するときは南東風強く概して雨なく晴天多し・颱風臺灣付近を去り上層風南西
風5%程度の時は午後熱雷の発生多し。
3.其の他 臺北は四季を通じ南又は北風弱く東又は西風強し・上海方面よ
り東方に進む低気圧九州に接近するときは降雨となり揚子江より上海方面に来
る間は天気は一般に快晴となること多し・低気圧九州方面に存在し不連続線本
島北部を通過するときは降雨となり雷(界雷)を伴ふ此の種の雷は6月に最も
強く3,4月頃及10月頃発生す・熱雷の発生する前兆は午前11時頃より周囲
山地に積雲発生し次で平地の上空に薄雲発生漸次発達し優勢なる積乱雲に進展
す但し単に山地の積雲のみにては雷雨とならざることあり、熱雷発生のときは
約3日間連続し第1日は午後1-2時頃より始まり、翌日及翌々日は約1時間位づ
つ発現時刻遅る。

其の他
本飛行場は昭和10年9月25日公共用陸上飛行場として設置を許可せられたる
ものなり・臺灣島内循環線定期航空路の起点終点飛行場にして大日本航空株式
会社の輸送機発着し旅客及郵便物の輸送を行ひつつあり目下毎日東西廻各1囘
発着す・新拡張区域は昭和14年4月整地完成せるも裸地にして着陸不可能な
りと謂ふ。

この資料によれば、昭和14年2月の時点では、飛行場の北側、南側はそれぞれに拡張工事中であり、

先頭のグーグルマップに赤線で示しましたが、かなり細い三角形の形状でした。

付属施設の位置は変わらずなので、着陸地域はこの付属施設の北側から東北東方向1,200m、

もしくは付属施設の南側から北東方向900mとするか、

これは明記していないのですが、付属施設の東側の開けた場所で北西から南東方向に550m

とあります。

大日本航空が島内循環線定期航空路を運行しており、その起点終点飛行場だったんですね。


■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行
の中で、「本邦定期航空現況(昭和十三年十二月現在)」として以下記されていました(6,7コマ) 

経営者 大日本航空株式会社
航空線路 福岡-臺北
区間 福岡-那覇間 毎日一往復
   那覇-臺北間 毎日一往復
線路開設年月 昭和十年十月


経営者 大日本航空株式会社
航空線路 台湾島内循環
区間 台北-台中間 毎日一往復
   台中-台南間 毎日一往復
   台南-屏東間 毎日一往復
   屛東-台東間 毎日一往復
   台東-花蓮港間 毎日一往復
   花蓮港-宜蘭間 毎日一往復
   宜蘭-台北間 毎日一往復
線路開設年月 昭和十一年十月


■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行

の中で、「本邦飛行場一覧(昭和十三年十月現在)」として以下記されていました(8コマ) 

名 称  臺北飛行場
経営者  國
所在地  臺灣臺北州七星郡松山庄
水陸の別 陸
滑走区域 東西九〇〇米 南北七〇〇米
備 考  (記載無し)




■防衛研究所収蔵資料「飛行場記録 内地(千島、樺太、北海道、朝鮮、台湾を含む) 昭和十九、四、二〇調製 第一航空軍司令部」

に当飛行場の要図があり、このグーグルマップはこの要図から作図しました。

恒風は、夏期が西風、冬期が東風とありました。

また飛行場敷地について、東西1,400m、南北1,360m、滑走路1,000x100m と書き込みがありました。

要図自体がアバウトなもののため、「当時はこの辺りにこんな大きさの飛行場があった」。

程度のものですのでご了承ください。

1つ上の1939年のマップでは、敷地の北側と南側が工事中で、着陸不可能のため、

中央部分が飛行地区として広く使用されていました。

1944年資料のマップでは、工事もすっかり完了し、

滑走地区は敷地北側の一か所のみに集約されたようです。

同資料にあった情報を以下引用させて頂きます。

位置
臺北市頂東勢(基北市東方約四粁)
滑走地区
滑走地区 東西一、〇〇〇米 南北一〇〇米
地表面は概ね平坦にして堅硬芝密生しあり
付属施設
格納庫四棟 兵員収容 八〇〇名(陸軍) 六〇〇名(海軍)なる庁舎あり
水道整備あり
大日本航空会社(修理工場)(小修理可能)あり
飛行場
四周水田にして北方約二,五〇〇米に高さ三十米の
煙突四本あり注意を要す
気象
冬季天候不良視度十分ならざること多し
但し淡水河又は基隆-基北間の隘路口よ
り進出せは概ね飛行に支障なし
交通通信 航法施設
台北-基隆道に飛行場専用道路連絡す
縦貫線基北駅東北方約五粁松山駅西
北約三粁
対空無線電信所あり
其の他
(記載無し)

飛行地区が大きく変化したことについては、特にコメント無しですね。




U.S. Army Map Service, 1944-1945 Taihoku-Matsuyama

から作図しました(下記リンク参照)。

■「地図で読み解く台湾」によれば、この地図は戦争末期の時期に、

台湾の爆撃を目的に米軍が偵察写真を撮り、これに基づいて作成された地図とのことです。

恐らくこれが日本統治時代の飛行場の最終形態ではないかと。

滑走路のレイアウトだけ見ると、1936年飛行場発足当初のものに近く、

こうして見ると、台北飛行場は非常に目まぐるしく変化を続けたのですね。

東西方向の滑走路延長のためと思われますが、飛行場敷地北西部分が拡張されています。

戦後の台北飛行場について、Wiki/台北松山空港によれば、

1945年、日本の敗戦による台湾統治終了とともに国民政府(中国国民党)の管轄下となり、台湾の国際・国内航空路線の中心的な空港となった。のちには日本航空とチャイナエアラインによる羽田空港、伊丹空港、福岡空港などを結ぶ路線が設定されている。1979年に国際空港として中正国際空港(現・台湾桃園国際空港)が開港されてからは、国内線専用となった。

とありました。




     台湾・台北飛行場跡地         
・臺北飛行場(昭和11年) データ
所 管:臺灣総督府
種 別:公共用陸上飛行場
所在地:中華民国臺北州臺北市頂東勢
標 高:6m
面 積:46.86ha
飛行場:950mx850m略三角形地
滑走路:第一号線900m(08/26)、第二号線700m(15/33)
(飛行場長さ、方位はグーグルアースから。他は資料から)

・臺北飛行場(昭和14年2月調) データ
所 管:臺灣総督府
種 別:公共用陸上飛行場
所在地:中華民国臺北州臺北市頂東勢
標 高:6m
面 積:119ha
飛行場:東西1,350m~250mの略三角形地
着陸地域:1,200mx170m(07/25)、900mx170m(05/23)、550m(14/32)
(方位はグーグルアースから)

・台北飛行場(1944年当時) データ
種 別:陸上飛行場
所在地:臺北市頂東勢
面 積:128ha?
滑走路:1,000mx100m
方 位:10/28?
(面積、方位はグーグルアースから。他は防衛研究所資料から)

・台北松山空港(現在) データ
運営者:民用航空局、空軍
種 別:軍民共用
3レター:TSA
4レター:RCSS
所在地:中華民国台北市松山区
座 標:N25°04′10″E120°33′06″
標 高:5m
面 積:182ha(民間航空エリア:83ha)
滑走路:2,605m×60m(アスファルト)
磁方位:10/28
運用時間:0600-2300(台湾標準時)
(座標、面積は公式サイトから。他はWikiから)

沿革
1932年     飛行場建設のため予算計上
1933年     台北市東部約14万坪の敷地を整備し飛行場とすることを決定
1935年09月 25日 公共用陸上飛行場として設置許可
1936年     第一期工事竣工
     03月 台北飛行場開港
1939年04月 新拡張区域整地完成
1945年08月 終戦。国民党政府の管轄となる
1950年04月 16日 民間空港として開港

関連サイト:
空港公式サイト 
建設の施工企画 ’12. 6 
盟軍記載的二戰臺灣機場(21コマ) 
U.S. Army Map Service, 1944-1945 Taihoku-Matsuyama 
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
「地図で読み解く台湾」
防衛研究所収蔵資料「航空路資料第10 台湾地方飛行場及不時着陸場 昭和15年4月刊行 水路部」
防衛研究所収蔵資料「飛行場記録 内地(千島、樺太、北海道、朝鮮、台湾を含む) 昭和十九、四、二〇調製 第一航空軍司令部」


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