鹿児島県・奄美大島水上基地(古仁屋基地)跡地 [├国内の空港、飛行場]
2024年1月訪問
鹿児島県奄美大島の南端に海軍の「奄美大島水上基地(古仁屋基地)」がありました。
この記事作成に当たって、鹿児島のこういちさん、地元図書館の学芸員さんに大変お世話になりました。
どうもありがとうございましたm(_ _)m
先頭のグーグルマップは、「せとうちなんでも探検隊/須手」■ から作図させて頂きました(これが一番詳細だった)。
■戦史叢書「沖縄方面海軍作戦」p100
十九年一月八日、佐鎮命令による航空基地整備要領は次のとおりで、従来と違って明らかに作戦基地として整備が進められた。
施設名 奄美大島
工事要領等 古仁屋基地現工事を極力促進す
(滑走台新設を含む)
記事 昭和一八年官房機密第二八三三号訓令に依り施行
防衛庁防衛研修所戦史室 編『沖縄方面海軍作戦』,朝雲新聞社,1968. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9581812 (参照 2024-05-15)
■防衛研究所収蔵資料:「海軍航空基地現状表(内地の部)」(昭和二十年八月調)
位置 鹿児島県大島郡古仁屋
基地名 奄美大島水上基地
建設ノ年 1940
飛行場 80x40 60x15 混木
格納庫 1,800㎡
収容施設 士官 50 兵員 150
工場倉庫 〇(施設あるも数量不明)
主要機隊数 小型機
主任務 作戦
隧道並に地下施設 〇(施設あるも数量不明)
掩体 〇(施設あるも数量不明)
■名瀬市史 下巻
62p
大島の要塞とその重要性 日本海軍の戦略からいって、南西諸島の役割として、二つのことが考えられていた。その一つは、艦隊の前進基地としての役割、すなわち迎撃戦の場合、主力の前進基地として、大島の薩川湾が考えられていた。これはのちには、トラック島に変わることになる。今一つの役割は、海上交通上の要地という考え方である。南西諸島は、南方からの重要物資の輸入や、補給作戦などにおいて、南方航路の哨戒や護衛のための中間基地として、重要であると考えられていた。
63p
十九年十月十日、空母十七隻を基幹とした米機動部隊の延一四◯◯機による南西諸島の空襲は、空の威力をまざまざとみせつけられた。海軍は、古仁屋の須手の航空基地の滑走台新設、喜界に小型機約五◯機分の秘匿所工事を、二十年二月完成をメドに、指令した。陸軍も、十八年、徳之島に機動用飛行場の建設に着手した。
66p
近海における戦闘は、昭和二十年(一九四五)3月ごろ米機動部隊が接近してきてから、航空隊による索敵および攻撃がなされている。三月二十五日には、喜界空港から天山五機が発進し、米戦艦二隻に夜間雷撃を加えている。二十六日、第一機動(中継)基地航空部隊指揮官は、喜界基地使用を有利と認め薄暮、七◯一空司令を基地司令官として、彗星一八機・天山五機を率い、同島に進出させている。そのうち、天山五機は二十七日◯時発進し(未帰還二)、彗星一二機は五時三◯分発(未帰還九)となっている。4月十一日には、本島南方にある機動部隊へ、爆戦五◯機・彗星九機が攻撃を加え、空母二隻・艦船三隻に被害を与えたが、二五機が未帰還となっている。4月二十五日には、古仁屋からも、瑞雲三機が沖縄周辺艦船攻撃に飛び立っている。このように奄美諸島近海では、終戦まで毎日のように、米機動部隊と日本特攻隊との激戦が展開されていたのである。
施設跡・1
ということで現地にお邪魔してきました。
現在は埋立が進んでいますが、当時は道路隔ててすぐ浜辺でした。
山を削って平地を確保したんでしょうね。
当時は基地の施設が立ち並んでいた場所ですが、現在はガス会社等の敷地になっています。
紫マーカー地点。
海軍航空隊古仁屋基地跡碑。
須手二本松公園の道路側にあります。
平成三年九月 海軍航空隊古仁屋基地跡 瀬戸内町大正会之建
碑文 この須手地内は大東亜戦中旧日本海軍航空隊唯一の南進中継基地として前線に匹敵する役割を果した戦跡の地である 平成三年九月
施設跡・2
ここも基地当時、諸施設があった場所です。
ここで海側を振り返ると、
こんな感じ。
海沿いの脇道がありますね。
入り口の形状はなだらかに変わりましたが、この脇道は当時からありました。
この脇道を進んでみます。
施設跡・3
この建物は当時の詳細な地図に描かれた地割と一致しています。
施設跡・4
このスベリは、基地当時の地図には無いので、戦後に建設されたと思うのですが、
防波堤?の沖に向って伸びる部分は、一部が当時の地図に出ています。
画面右側、「立入禁止」「遊泳禁止」2枚看板が並んでます。
ここでカメラを右に振ると、
こんな感じ。
砂浜は、「立入禁止」の看板のあるコンクリが立ち塞がる向こう側があり、
この場所からこれ以上西に進めないっぽいので、施設跡(と思われるもの)を撮りつつ、県道に出ることに。
施設跡・5
県道に出て、一気に150m位西に進みました。
先頭のグーグルマップで見た方が早いのですが、ここから山奥に向って、
かなりの数の施設が立ち並んでいました。
が、山の方へは行かず、ここで左折して海の方に向います。
例によって施設跡(と思われるもの)を撮りつつ進みます。
東京大学医科学研究所 奄美病害動物研究施設
ハブ実験飼育中に付ききけんですから入ってはいけません
「古仁屋基地跡地は現在東大の施設になっている」的な説明をしばしば目にしました。
いよいよ中枢に踏み込みます!<(`・ω・´)(入ってないけど)。
これは先程の東大施設内を外側から撮ったのですが、
第四塁
品名 第二石油類(JIS2号軽油)
最大数量 三九〇立
少量危険物貯蔵取扱所
火気厳禁
とあります。
灯油貯めてあるみたいですが、コンクリのこの質感からすると、基地当時の施設を流用しているような…
施設跡・7
中枢の西の端っこに来ました。
基地当時の地図からすると、ここは中枢の敷地外のため、このスベリは当時からあったとしても、
水上機が使用したものではないはず。幅も狭いですし。
以下この周辺をずらずらと。
中枢側。
水上機用の滑走台跡です。
施設跡・8
赤マーカー地点。
当時はここに滑走台があり、日常的に水上機が使用していました。
鹿児島県・奄美大島水上基地(古仁屋基地)跡地
奄美大島水上基地(古仁屋基地) データ
設置管理者:海軍
種 別:水上機基地
所在地:鹿児島県大島郡瀬戸内町手安
座 標:28°09'00.3"N 129°18'01.7"E
滑走台:80x40 60x15 混木
(座標はグーグルアースから。滑走台長さは防衛研究所収蔵資料から)
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この記事の資料:
現地の碑文
戦史叢書「沖縄方面海軍作戦」
名瀬市史 下巻
防衛研究所収蔵資料:「海軍航空基地現状表(内地の部)」(昭和二十年八月調)
奄美瀬戸崎灯台から見下ろせそうですね〜
ストリートビュー(青年がひとりぼっちでくつろいでいる)からの
想像ですが・・・
by an-kazu (2024-05-17 11:07)
■an-kazuさん
ホントだ!!
なんでオイラが行く前に教えてくれないんですか!!(逆切れ)
なんかスポーツマンな青年ですね。
ここまで走って来たんでしょうね。すごいな~。
完全に「お、グーグルカーじゃん」て気が付いてる感じですね。
by とり (2024-05-18 08:01)