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新屋の飛行学校跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2018年6月訪問 2022/1更新   


無題2.png
測量年1925(25000 61-14-4-3 秋田)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

2017年に「美郷町民」さんから、

「秋田魁新報 大正十五年九月十四日付に、新屋の新開地へ飛行学校」という記事が出ているとコメント頂き、

教えて頂いた通り国会図書館から記事のコピーを送って頂きました。

以下関係する部分を抜粋させて頂きます。

秋田魁新報
大正十五年九月十四日(火曜日)
新屋の新開地へ飛行学校
両飛行士町民の後縁で大いに意気込む
川辺郡新屋町出身にして今や飛行界にその技を見止められた加々谷飛行士並に全日本飛行界の花形として高等飛行の第一人者としてやんやとその技をほめたへられて居る大場一等飛行士の両氏はこの度新屋海水浴場の程近き同町西新開地に飛行学校を設け大いに航空思想の宣伝をなし又大いに飛行家を養成すべく愈々これが創立後援方の請願書を提出することゝなり十日午後七時より町会議員及び各団体集会しその具体的方法の協議をなしたが今回の壮途は真に国家的に意義ある事業として全町民は必死の後援をなして居り両飛行士は「決して一時的に騒ぐのではなく永久的に必死の努力を払ふから何分の後援を乞う」との旨に全町民は今や盛に奔走して居が請願書は左の如きものである

請願書
今般航空思想普及発達及び航空路の開拓を目的とし御町西新開地に飛行学校建設を企画仕候処元より之れが壮行にはあくまでも誠意献身の労は深く覚悟する所なるも如何にせん薄弱なる資力を以て到底事業の進行に伴ふ経費の■■に耐え難く自ら頼る難澁致居申候今更省みて難く大■なるに驚かざるを得ざるの次第にて候されと一旦企画一歩を進めたる上はこの儘中絶断念するには忍びざるもの有之候此の上は希くは御町の厚き御同情に訴へ如何にもして其遂行に努むべく更に決意を深め申候就ては何卒右事情御酌量の上御後援方御取計ひ相成度別紙校則並に計画概要書添付此段請願候也

大正十五年九月八日
一等飛行士 大場 藤治郎印
二等飛行士 加賀谷雄太郎印
新屋町長代理助役笹森重厚殿
一、飛行士の養成
二、都市連絡定期飛行
三、商工其他宣伝飛行
四、一般人飛行機の研究機関設置
五、飛行機の実用化を計ること
六、飛行機と共に活動写真講演会を催す各地巡業
七、自動車運転手及び技術員の養成
八、自動車修理工場設置
九、交通機関の助長を計る事
その外事業開始設立費第一次予算五千五百円を初め各支出収入の予算の表数通及び飛行学校規則書等請願書に添へてある

この「新屋の新開地に設置を目指す飛行学校」の場所特定につながる情報として、

「新屋海水浴場の程近き同町西新開地」と記されています。

「新屋」、「新開地」、「新屋海水浴場」、「西新開地」と、出てきましたが、

「新屋」は現在の住所でも日本海沿いに南北約5kmと非常に範囲が広く、

それ以外の「新開地」、「新屋海水浴場」、「西新開地」についてはググってもなかなか場所が分からず、

自力ではどうしても、「旧秋田空港跡地の辺り(かも)」というところまでしか絞り込めません。

上に貼った地図はおおよそ「新屋」の範囲なんですが、

当時の地図では日本海に沿って非常に広大な平地がどこまでも広がっていて、

ドコでもすぐ飛行場にできてしまいそうな地形がずーーーっと続いています。

すっかり困ったオイラは、地元新屋図書館レファレンスサービスを利用して、この飛行学校がドコにあったのか、

問合せをしたのでした。

後日図書館様から連絡を頂き、いろいろ調べて頂いたのですが、正確な場所は不明とのことでした。

但し、新屋郷土史(誌?)の中に、

加々谷飛行士が「新屋浜」にて朝から夕刻まで飛行を実施し、11月迄練習場として使用したいと要望している旨、

秋田魁新報大正15年8月1日の記事からの引用がある

と教えて頂きました。

この「新屋浜」は、ググってみたところ、古来海水浴場としても使用されてきた場所として、

ピンポイントで特定できる場所であることが分かりました。

 
ここまで時系列にまとめますと、

新屋町出身の加々谷飛行士は、恐らく大正15年7月に新屋浜で朝から夕刻まで飛行します。

そして、「11月まで練習場として使用したい」と要望を出します

次いで同年9月10日、加賀谷氏、大場氏両名は、新屋に飛行学校開設の請願書を提出すべく、

関連諸団体と協議を行いました。

飛行学校を開設する場所について、「新屋海水浴場の程近き同町西新開地」とあります。

加賀谷氏が日中飛び回っていた新屋浜は海水浴場でもありましたから、

この新屋海水浴場とは、新屋浜のことかもしれません。

ともかく今のところこれ以上の絞り込みができないため、

加賀谷氏が実際に飛び回っていた新屋浜の近隣に飛行学校を開設しようとしたのではないか。

ということにしておきます。


これは新屋の飛行学校についてググっている時に偶然見つけたものなんですが、

あきた(通巻56号)1967年(昭和42年)1月1日発行 53pにこんな記述がありました(下記リンク参照)。

秋田にも飛行学校はあった。昭和二年に新屋に開校した秋田飛行学校で、相沢という飛行家が校長だった。
 同校の飛行機が、開校した年の七月二十四日、灼けるような炎天下での練習中翼を松の枝に触れ墜落した。この時九つになる坊やがプロペラに打たれて死亡、もう一人の女児が重傷を負うという惨事を起した。秋田としては初の悲惨事で、このため学校も閉鎖されてしまった。

加賀谷飛行士が飛び回り、飛行学校設立のため動いていたのが大正15年(1926年)、

秋田飛行学校が開校したのが昭和2年(1927年)ですから、なんと翌年の話です。

秋田の新屋ということで、地名は同一なんですが、秋田飛行学校の校長は、

なぜか加賀谷でも大場でもなく、相沢という飛行家。

この秋田飛行学校は、開校した年に痛ましい事故を起こしたため、閉鎖したとあります。

そしてこれはアギラさんから以前いただいていた情報なんですが、

「民間飛行學校練習所其他」(航空年鑑昭和六年)の中に当時の全国の飛行学校が列記してあり、

この中で秋田では唯一の飛行学校として、秋田飛行學校(秋田縣河邊郡新屋町)とあります。

痛ましい事故を起こし、その年に閉鎖したかと思いきや、4年後にも名前が出ているという。。。

様々な可能性が考えられますが推測は避け、今後真相が明らかになることを期待したいと思います。

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「新屋浜」。

大正15年(1926年)夏、加賀谷飛行士が一日中飛び回り、「11月まで練習場にしたい」と要望したのは恐らくここ。

彼が大場氏と二人で設立を希望した飛行学校の「西新開地」もこの周辺だったのでしょうか。

風車が回っている方が旧秋田空港跡地。

住所的にはあちら側にも「新屋」がずーっと続いています。




     秋田県・新屋の飛行学校跡地         
新屋の飛行学校 データ
所在地:秋田県秋田市新屋町西新開地(秋田魁新報大正十五年九月十四日より)
座 標:N39°41′18″E140°03′47″(新屋浜の位置)
標 高:5m(新屋浜の位置)
(座標、標高はグーグルアースから)

沿革
1926年07月? 加賀谷飛行士、新屋浜で朝から夕刻まで飛行。11月まで練習場として使用したいと要望
     09月 10日、加賀谷氏、大場氏両名は、新屋に飛行学校開設の請願書を提出すべく関連諸団体と協議
1927年    新屋に秋田飛行学校開校。校長は相沢飛行士。同年事故発生し、学校閉鎖
1931年   「民間飛行學校練習所其他」に秋田飛行學校(秋田縣河邊郡新屋町)と記載あり

関連サイト:
あきた(通巻56号)1967年(昭和42年)1月1日発行 53p  
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この記事の資料:
秋田魁新報 大正十五年九月十四日付
新屋郷土史(誌?)
「民間飛行學校練習所其他」(航空年鑑昭和六年)


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