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関西、中国、四国・5 [■旅行記]

Ⓐ高梁SA→Ⓑ鳥取第四十連隊練兵場跡地→Ⓒ鳥取県立博物館→Ⓓ鳥取砂丘滑空場→Ⓔ湖山飛行場跡地→Ⓕ豊岡(円山川)滑空場跡地→Ⓖ二十連隊練兵場跡地→Ⓗ舞鶴の防空監視哨跡→Ⓘ敦賀練兵場跡地→Ⓐ賤ヶ岳SA→Ⓑ長篠設楽原PA(車中泊)


5日目

4:50 起床

5:25 高梁SA出発

7:30 鳥取のファミマで幕の内弁当

その後鳥取県内の見学をして回ったのでした。

上の地図だと、鳥取県内ではさも最後に湖山飛行場に行ったようになっているのですが、

移動距離の効率的な意味で、実は最初に湖山飛行場に行きました。

ここには水上機用桟橋の跡が残っているのです。

湖山池駐車場に車を停め、(この辺かも)と思っていた周辺を歩き回るも見つからず(;´Д⊂)

すぐ近くに「湖山池情報プラザ」があり、ここで聞けば分かるかも。

と思ったのですが、開館前だったため、他から回ることにしたのでした。

10:20 他の見学を終え、再び「湖山池情報プラザ」に戻ってきました。

中に入ってみると…ありました! しかも水上機のの情報がすごい充実してる!

ということで、無事鳥取県内の見学ポイントを全て回ることができました。

次のポイントである兵庫県豊岡市へ移動。

12:00 余部で昼食の天丼。

。。。美味しいんだけど、疲労してるオイラの胃には重過ぎた。うえぇ。

DSC_0100.jpg

京都某所にて。

なんかやけに見慣れたマークを発見しすかさず撮る(o ̄∇ ̄o)

夕方になるにつれて予報通り雲行きが怪しくなってきて、やがてかなりの勢いで降り始めました。

敦賀市内で本日最後の撮影終了。

18:45 敦賀のファミマで冷やし中華

断続的に雨が降り続いています。

自宅方面で見学ポイントの残っている箇所の明日の天気を調べたのですが、

明日はどこも結構な雨足のようです。

中部地方が結構残ってしまっているけど、今回の旅行の見学はもう終わりにすることに。

高速使って埼玉へ。

19:30 賤ヶ岳SAで給油。35.0l

ここからだと南下せずに済む分、中央道経由の方が近い感じなのですが、

夜の豪雨で中央道は怖いので、新東名ルートで戻ることに。

…と思ったけど、後から地図を見返したら、山間部区間に入るはるか手前で寝てしまったので、

中央道で帰っても良かったかも。

21:25 長篠設楽原PA着

22:00 寝る

おやすみなさい

(続きます)

本日の走行距離:658.2km


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愛媛県・松山城北練兵場着陸場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2016年6月訪問 2021/12更新  


1.png
1/25000「松山北部」昭和3年測図「今昔マップ on the web」より作成

無題3.png
1947/04/05(USA M220 141)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


愛媛県松山市にあった「松山城北練兵場」。

この練兵場内に着陸場が設定されていました。

■防衛研究所収蔵資料:「昭和10年11月 刊行 中国及四国地方不時着陸場 水路部」

の中に着陸場の地図があり、先頭のグーグルマップはそこから作図しました。

伊予鉄城北線の「赤十字病院前駅」、地図では「れんぺいじょうまへ」とありました。

同資料の情報を以下引用させて頂きます。

松山城北練兵場(昭和10年6月調)
愛媛県松山市北東部

着陸場の状況
高さ 平均水面上約30米。
広さ及形状 本練兵場は長さ東西約600米、幅南北約350米の略短形地な
り・着陸地域は図示の長さ東西約400米、幅南北約150米の東西に長き短形地
なり(付図参照)。
地表の土質 粘土。
地面の状況 若干の小凸凹あるも概ね平坦にして堅硬なり・殆ど全面に芝
及雑草を生ず・着陸地域は排水概ね良好なる平坦且堅硬地なり・芝及雑草を生
ずるを以て降雨等に因る地面の状況には大なる変化なし。
場内の障碍物 着陸地域内にはなし・場の西部地域に散兵壕等を構築し其
の東及南の両側に高さ約1.5米の鉄条網を繞らす歩兵作業場あり・場の南西部
に高さ約5米の記念樹(松)あり。
適当なる着陸方向及着陸上注意すべき点 東又は西・着陸地域の東方を南
北に通ずる高さ約13米の普通電線並に歩兵作業場の東端に在る高さ約1.5米
の鉄条網に注意を要す。
 

■「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、

 縣立松山中學校滑空部、縣立松山商業學校グライダー部、愛媛縣師範學校滑空部が「松山市城北練兵場」

を滑空場として使用していた」とありました。

また、松山高等商業學校が松山練兵場を使用していたとあり、松山城北練兵場とは記されていないのですが、

松山高等商業學校は現在の松山大学で、練兵場の西隣にあったと思われます。

それでここも「松山市城北練兵場」を使用していたのではないかと思いました。

この情報はアギラさんから頂きました。アギラさんありがとうございましたm(_ _)m

DSC_0028.jpg

赤マーカー地点

現在は学校、病院になっている練兵場跡地。


 

      愛媛県・松山城北練兵場着陸場跡地     

松山城北練兵場着陸場 データ

設置管理者:陸軍
所在地:愛媛県松山市文京町
座 標:N33°50′58″E132°46′21″
標 高:30m
着陸帯:400mx150m
方 位:09/27
(座標はグーグルアースから)

沿革
1940年10月 この頃縣立松山中學校、縣立松山商業學校、愛媛縣師範學校、松山高等商業學校が滑空場として使用

関連サイト:
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(アギラさんから)
防衛研究所収蔵資料:「昭和10年11月 刊行 中国及四国地方不時着陸場 水路部」


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新居飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2016年6月訪問 2021/12更新  

無題2.png
撮影年月日 1947/10/13(昭22)(USA M553-A-2 102)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


高知県土佐市仁淀川河口付近にあった「新居飛行場」。

上のマップの撮影地点のマーカーの辺りに

「大日本飛行協会・地方滑空訓練所 新居飛行場」のグライダー格納庫があったはずです。

■「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)

の中で、「高知縣立高知工業學校(当時)にグライダー部があり、高知郡新居村新居滑空場を使用していた」

とありました。

この情報はアギラさんから頂きました。アギラさんありがとうございましたm(_ _)m

DSC_0016.jpg

赤マーカー地点。

この方向に飛行場があったはずです。

DSC_0018.jpg

上から見下ろすとこんな感じ。

画面左側の広場の先に格納庫、そしてその先にグライダー発射場があったはずです。 


      高知県・新居飛行場跡地    

新居飛行場 データ

設置管理者:大日本飛行協会?
種 別:滑空場
所在地:高知県土佐市新居
座 標:N33°27′23″E133°28′15″
標 高:7m
着陸帯:800m?
方 位:07/25
(座標、標高、着陸帯長さ、方位はグーグルアースから)

沿革
1940年10月 この頃高知縣立高知工業學校が使用

関連サイト:
ブログ内関連記事  

この記事の資料:
「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(アギラさんから)


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仁淀川原飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2016年6月訪問 2021/12更新  


無題1.png
1933年測量(リスト番号111-12-1-1 図名 土佐髙岡)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成。2枚とも) 

高知県を流れる仁淀川の川原に「仁淀川原飛行場」がありました。

■「高知空港史」28pの中で当飛行場について触れられていて、大正11年10月21日付土陽新聞記事が紹介されています。

「仁淀川原飛行場、県より許可 鬼頭良之助経営に係る仁淀川中島川原飛行練習場は、長さ一千五百メートル、幅三百メートルの地域を県当局に使用方出願中であったが、去月27日付を以て知事より許可された。」

「高知空港史」では続けて鬼頭氏について、航空に関心があり、フランク・チャンピオンを招いたり、

安岡駒好を伊藤飛行機研究所へ紹介したり、郷土訪問飛行を援助したりした人物として紹介しています。

実はこの鬼頭良之助についてググってみたところ、土佐随一の大親分だったのですね。

「大親分が県に許可をとった飛行場」なんてあるんですね~(@Д@)

「高知空港史」の中で当飛行場についての記述はこれだけで、場所についてハッキリしているのは、

「仁淀川の川原にあった」。ということだけなのですが、

「仁淀川中島川原飛行練習場」とあるので、「高知県 中島」でググってみたところ、

ちょうど土佐市の仁淀川沿いに(非常に狭い範囲なのですが)、「中島」という地名がありました。

上に貼った1933年の地図で中島のあった場所を示しました。

「仁淀川中島川原飛行練習場」という記述から、土佐市中島に飛行場があったということを前提に以下話を進めます。

飛行場開設は大正11年(1922年)なのですが、

土佐市中島周辺の地図は現在のところ1933年~閲覧可能になっています。

この最古の地図で、①中島周辺、②仁淀川原、③1,500mx300mという条件で、

飛行場っぽい場所を探してみました。

無題1a.png

上の地図の赤線はどちらも長さ1,500mです。

一応AとB、二か所に1,500mx300mの線が引けるのですが、いずれも一長一短あります。

A:
○長さも幅もあり、飛行場としてはBより適している
×中島の対岸にあり、住所が土佐市ではなく高知市である

B:
○中島ではないが、土佐市内にある
×両端(特に南側)の幅が極端に狭く、滑走路の実質有効長が短い

飛行場適地は圧倒的にAだと思うのですが、 鬼頭氏が土佐の大親分であることを考えると、Bなのかもしれません。

でも先頭のグーグルマップはAで作図してあります。

DSC_0004.jpg

赤マーカー地点。

仁淀川大橋より。


      高知県・仁淀川原飛行場跡地    

仁淀川原飛行場(A) データ

設置管理者:鬼頭良之助
種 別:陸上飛行場
所在地:高知県高知市春野町森山
座 標:N33°29′32″E133°27′27″
標 高:7m
滑走路:1,500mx300m
方 位:13/31
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)

沿革
1922年09月 27日 知事より使用許可

関連サイト:
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
「高知空港史」


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高知練兵場着陸場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2016年6月訪問 2021/12更新  

無題0.png
1947/10/11(USA R518-4 25)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


高知県高知市にあった「高知練兵場(第四十四連隊練兵場)」。

この練兵場内に着陸場が設定されていました。

■防衛研究所収蔵資料:「昭和10年11月 刊行 中国及四国地方不時着陸場 水路部」

の中に当着陸場の地図があり、先頭のグーグルマップはそこから作図しました。

同資料の情報を以下引用させて頂きます

高知練兵場(昭和10年6月調)
高知県土佐郡朝倉村(高知市西南西方約5粁)

着陸場の状況
高さ 平均水面上約7.5米。
広さ及形状 本練兵場は長さ東西約400米、幅南北約300米の略方形地に
して着陸地域は図示の長さ東西約350米、幅南北約50米の細長き長方形地区
なり(付図参照)。
地表の土質 尋常土。
地面の状況 練兵場は元水田地なりしを尋常土を以て積土の上地均せし地
域にして傾斜なき概して堅硬地なり・全面に芝を生ず・着陸地域及其の付近一
帯は平坦且堅硬地なり・平坦地なると地表土質との関係上排水稍不良なるを以
て降雨長期に亙るか或は大雨の際は水溜を生じ又霜解け期には諸処稍泥濘と為
ることあるも大なる支障なしと言う。
場内の障碍物 着陸地域内にはなし・場の北側西半部に高さ約1.7米の體
操用障碍物あり・南側東部に高さ約0.8米の堆土あり・南西隅地域一帯は高さ
0.7乃至7米の丘陵性堆土等を構築しある歩兵既設陣地なり・西側北部に高さ
約0.8米の堆土あり。
適当なる着陸方向及着陸上注意すべき点 西・着陸地域狭小且其の北西至
近に高地を控ゆるを以て着陸方向は西、離陸方向は東のみとす・着陸地域の東
方場の東端に在りし白楊樹並木は伐採しあり。
其の他
嘗て本練兵場にて軽飛行機の観覧興行飛行作業行われたることあり又甲式四型
戦闘機及民間機「アンリオ」の着陸せしことありと言う。
(終)
  

■「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)

の中で、「高知縣立高知工業學校(当時)にグライダー部があり、第四十四聯隊練兵場を滑空場として使用していた」

とありました。

この情報はアギラさんから頂きました。アギラさんありがとうございましたm(_ _)m

DSC_0003.jpg

赤マーカー地点

現在はすっかり住宅、店舗が立ち並んでいます。


 

      高知県・高知練兵場着陸場跡地     

高知練兵場着陸場 データ

設置管理者:陸軍
所在地:高知県土佐郡朝倉村(現・高知市若草町)
座 標:N33°32′38″E133°29′17″
標 高:7.5m
着陸場:350mx50m
方 位:09/27
(座標、方位はグーグルアースから)

沿革
1940年10月現在 滑空練習場として使用

関連サイト:
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この記事の資料:
「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(アギラさんから)
防衛研究所収蔵資料:「昭和10年11月 刊行 中国及四国地方不時着陸場 水路部」


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高知県・日章飛行場の防空監視哨跡 [├場所]

   2016年6月訪問 2021/12更新  

 
高知空港R/W32エンド東側の土手沿いの田んぼのところにポツンとある防空監視哨跡(トーチカという説もあり)。

DSC_0175.jpg
DSC_0181.jpg
DSC_0184.jpg

 


      高知県・日章飛行場の防空監視哨跡     

日章飛行場の防空監視哨 データ

所在地:高知県南国市久枝乙
座 標:N33°32′43″E133°40′56″
標 高:7m
(座標、標高はグーグルアースから)

関連サイト:
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関西、中国、四国・4 [■旅行記]

ⒼFさん宅→Ⓑ日章飛行場の防空監視哨跡→Ⓒ第四十四連隊練兵場跡地→Ⓓ仁淀川原飛行場跡地→Ⓔ新居飛行場跡地→Ⓕ松山城北練兵場跡地→ⒼFさん宅→Ⓗ高梁SA(車中泊)

四日目

5:40 起床

DSC_0161.jpg

6:00 Fさん宅発

本日はFさんと日帰りで四国に行くのでした。

「朝食は途中で」ということで即出発。

広島の三原から高知空港を目指しました。

ルートはてっきりすぐに南下するしまなみ海道ルートだろうと思っていたのですが、倉敷経由の方が若干安くて速いです。

DSCN0016.jpg

8:30 与島SAで朝食

エッジが立ってます。流石本場。

一気に高知まで行きあちこち一緒に周ったのですが、時間が経つのが早い早い。

すっかりおしゃべりに夢中になっていて、「あ、もう目的地ついたΣ(゚Д゚;)」ということを繰り返したのでした。

はー喉痛い。 

12:30 高知県内でお昼になり、「何か高知らしいものを食べたいね」などと話しながら、良さげなお店に入りました。

DSCN0020.jpg

DSCN0019.jpg

このお皿が高知。

DSCN0025.jpg

普段独りで周ってるのと比べて食環境が劇的に変化しました。

なんとデザート付。

16:40 松山練兵場で撮影終わったところで、本日の見学終了。

見学ポイントが市街地なことが多く、Fさんに車内で待っていてもらうパターンを多用しました。

広島に戻る事に。

戻りはしまなみ海道ルート。

17:00 給油 38.58l

DSCN0029.jpg

なんか広島ならではの良さげな店を探したのですが、結局Fさん宅近くの行きつけの店に入りました。

土曜日の夜ということで店内はごった返しておりました。

21:20 シャワーを貸してもらい、Fさん宅出発

明日以降の動き方をいろいろ考えていたのですが、

広島~兵庫まで、瀬戸内海沿いに見学ポイントがポツンポツンと4つ残っています。

その4つを周っても良かったのですが、それが終わると太平洋側はもう1カ所も見学ポイントがなくて中途半端なため、

明日は日本海側を周りつつ自宅方向に向かうことに。

最寄りのICから鳥取を目指しました。

22:50  高梁SA着

23:15 寝る

おやすみなさい

(続きます)

本日の走行距離:724.0km


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京都府・JUIDA・ATR けいはんな試験飛行場跡地 [├場所]

   2016年6月訪問 2024/3更新  

 
京都府のけいはんな学研都市 ATRにあった「JUIDA・ATR けいはんな試験飛行場」。

2022年3月31日に営業終了しました。

電動マルチコプター(いわゆるドローン)の試験飛行、操縦訓練用飛行場で、

利用時間帯は、9:00-12:00、13:00-16:00

利用料金はそれぞれ、Juida会員:30,000円、一般:40,000円でした(税別・アカデミック価格は半額)。

DSC_0147.jpg

赤マーカー地点。

DSC_0152.jpg

青マーカー地点。


      京都府・JUIDA・ATR けいはんな試験飛行場跡地      

JUIDA・ATR けいはんな試験飛行場(運用当時) データ

管理者:JUIDA、ブルーイノベーション、ATR
種 別:電動マルチコプター用飛行場
所在地:京都府相楽郡精華町光台二丁目2番地2(けいはんな学研都市)
座 標:N34°44′34″E135°46′02″
標 高:98m
着陸帯:120mx45m
方 位:09/27
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

関連サイト:
公式サイト  
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大阪府・藤井寺の無蓋掩体壕群跡地 [├場所]

   2016年6月訪問 2021/12更新  

無題2.png
撮影年月日 1946/06/06(昭21)(USA M157-A-6 171)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


大阪府藤井寺市古室2丁目にある大鳥山古墳。

この古墳を掘削し、無蓋掩体壕が3基造られました。

後円部頂部には機関砲陣地もありました。

前記事の通り、大正飛行場の南3~5kmには機体、機体関連を秘匿する諸施設があり、

後にここから直接機体の運用が可能なようにと、予備滑走路が設定されました。

ここに機体と施設を秘匿しておき、その傍に後から滑走路ができたわけです。

当記事の3つの無蓋掩体壕については完成時期が不明なため、他の諸施設同様にこちらが先にあり、

後から滑走路ができたのか、はたまた滑走路完成後に掩体壕を造ったのか不明です。

先頭の航空写真、古墳から西の伸びる道は、そのまま南北予備滑走路の真ん中に続いています。

以下、西側から時計回りに3つの掩体壕跡地の写真です。

上手に撮れてなくて様子が伝わりません。申し訳ないです(汗)

DSC_0130.jpg

DSC_0129.jpg

DSC_0128.jpg


      大阪府・藤井寺の無蓋掩体壕群跡地     

藤井寺の無蓋掩体壕群 データ

所在地:大阪府藤井寺市古室2丁目
座 標:N34°34′00″E135°36′32″
標 高:24m
(座標、標高はグーグルアースから)

沿革
1941年    大正飛行場、軍用飛行場となる
1945年07月 藤井寺の府道が予備滑走路となる

関連サイト:
盡忠報國さんのブログ/大正陸軍飛行場 予備滑走路・掩体壕    
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
「河内どんこう」


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藤井寺南北滑走路跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2016年6月訪問 2021/12更新  

無題1.png
撮影年月日 1946/06/06(昭21)(USA M157-A-6 173)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

大阪府藤井寺市にあった「藤井寺南北滑走路」。

「河内どんこう」によれば、

大正飛行場(現在の八尾空港) の南3~5km(上のマップ周辺)には、陵墓の小山、森等起伏に富んだ地形を生かし、

青山2丁目付近の三か所には2~3機の飛行機が隠されていたのをはじめ、

機材を隠匿し、臨時の機体修理場、高射機関砲陣地が分散配備されていました。

機体は大正飛行場から四輪の台車に載せて牽引して来たのだそうです。

これらの機体は空襲が過ぎれば本来は大正飛行場に戻されるはずなのですが、

末期の時期は敵の小型機によって低空で絶えず攻撃を受ける可能性があり、

長距離の機体の牽引移動は危険でした。

このため、避難待機地からすぐ発進できるように。ということで、府道を滑走路に改良することになりました。

以下、当滑走路の正式名称不明のため、便宜上の名称で話を進めます。

ご了承くださいませ。

 

この目的で大阪府藤井寺市の府道186号線(府道大阪羽曳野線)が「藤井寺代用滑走路」として設定されました。

この府道は昭和13年に開通し、昭和20年7月に「大正飛行場の予備滑走路」として改良されました。

これは藤ヶ丘2丁目を中心に北方向600m、南方向500mをそれぞれ滑走路にするというもので、

幅11mの府道周辺は大部分が農地だったのですが、南の野中方面にあった沿道住居を含め、

府道両側10mずつ離着陸に支障となる工作物が強制撤去されました。

線形は直線に変更し、重量に耐えるように地盤改良工事が施されました。

これは大正飛行場の予備滑走路として計画されたもので、大正飛行場の約3kmに位置していました。

一方、大正飛行場の約5kmには、昭和12年に開通した軍用道路があり、

こちらも「大正飛行場予備滑走路」 として設定されていました(現・府道八尾枚方線 穴太交差点~新家東口付近)。

これにより、大正飛行場は南北に予備滑走路が設定されたことになります。

 

余談なのですが、大正飛行場の北東約3.8kmも離れた所に忽然と掩体壕 があります。

「なんでこんなに離れた所に??」とずっと不思議だったのですが、

大正飛行場は温存秘匿に本気だったのですね。

以上、情報は盡忠報國さんから頂きました。盡忠報國さんありがとうございましたm(_ _)m 

DSC_0126.jpg

赤マーカー地点。

北滑走路

DSC_0122.jpg

青マーカー地点。

南滑走路


 

      大阪府・藤井寺南北滑走路跡地     
現在のところ離着陸の目撃情報は確認されていないのだそうです

・藤井寺北滑走路 データ
設置管理者:陸軍
種 別:予備滑走路
所在地:大阪府藤井寺市藤井寺2丁目、さくら町他
座 標:N34°34′01″E135°36′01″
標 高:27m
滑走路:600mx11m
方 位:17/35

・藤井寺南北滑走路 データ
設置管理者:陸軍
種 別:予備滑走路
所在地:大阪府藤井寺市藤ケ丘3丁目、野中1丁目、野中5丁目他
座 標:N34°33′42″E135°36′02″
標 高:30m
滑走路:500mx11m
方 位:18/36
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)

沿革
1938年    府道大阪羽曳野線開通
1945年07月 同府道を予備滑走路に改良

関連サイト:
盡忠報國さんのブログ:大正陸軍飛行場 予備滑走路・掩体壕  
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
『河内どんこう 82~各号「戦争遺跡を訪ねて」』


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日東航空堺営業所跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2016年6月訪問 2021/12更新  

無題.png
撮影年月日 1960/12/11(昭35)(KK605YZ C3 135)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


大阪府堺市塩浜の岸壁に「日東航空堺営業所」がありました。

■「新居浜の航空路回顧」(下記リンク参照)の中で当飛行場について当時の様子が詳しく扱われています。

それによりますと、当地と愛媛県新居浜市を結ぶ水上機による民間航路が開設されました。

開設は1959年10月。

運航は,運賃は,大人片道3,600円でした。

タイムスケジュールは、

大阪(堺)11:00発→新居浜12:20着
新居浜13:00発→大阪(堺)14:20着

週3往復(月・水・金)というものでした。

当営業所が使用されたのは、 1959年10月1日から1960年4月7日までの半年ほどの間だけで、

その翌日からは、伊丹空港が使用されました。

資料によりますと、伊丹に移った1960年4月8日から1日1往復になったとあります。

使用機はデ・ハビランド・オッター(DHC-3・つばめ号)でしたが、

日東航空は1960年2月に、水陸両用飛行艇グラマン・マラード(G-73・くろしお号)も就航させています。

移転まであと2か月程という時期なのですが、もしかしたらこちらが飛来したことがあったかもしれません。

DSC_0112.jpg

赤マーカー地点(2枚とも)。

営業所があったのはこの辺りだと思うのですが。。。

DSC_0116.jpg

当時より更に埋め立ての進んだ塩浜。

水上機は画面奥からやって来たはず。


      大阪府・日東航空堺営業所跡地     

日東航空堺営業所 データ

設置管理者:日東空港
種 別:水上飛行場
所在地:大阪府堺市堺区塩浜町
座 標:N34°35′16″E135°27′48″
標 高:2m
(座標、標高はグーグルアースから)

沿革
1959年10月 1日 新居浜線開設
1960年04月 7日 営業所閉鎖。翌日から伊丹空港使用

関連サイト:
新居浜の航空路回顧(pdf)  
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関西、中国、四国・3 [■旅行記]

Ⓐ道の駅吉野路黒滝→Ⓑ(和歌山陸軍練兵場着陸場跡地)→Ⓒ日東航空堺営業所跡地→Ⓓ藤井寺南北滑走路跡地→Ⓔ藤井寺の無蓋掩体壕群跡地→Ⓕ(大阪陸軍航空廠跡地)→Ⓖ(大和飛行場跡地)→ⒽJUIDA・ATR けいはんな試験飛行場→Ⓘ(飛行場予定地)→Ⓐ(京都練兵場着陸場跡地)→Ⓑ(掩体壕跡)→ⒸFさん宅 


3日目

3:20 起床

3:50 道の駅吉野路黒滝出発

5:40 無事紀伊半島を縦断して、和歌山市の練兵場撮影

和歌山県はこれで終わり。

北上して大阪を目指しました。

6:00 和歌山市の松屋で朝食

8:00 大阪府堺市着。ここから大阪で4ヵ所のポイントを周りました。

9:15 セブンでトイレを借りたついでに昼食用のり巻き購入。

nanacoに3,000円チャージすると、タマゴ6コプレゼントという(確か大阪南部?のみの)キャンペーン中とのことで、

早速ノっかる^^

なんか結構よさげなタマゴでした(包装が)。

今晩Fさん宅に行くから丁度良かった。お土産はもうコレでいいや(o ̄∇ ̄o)ニヤ

10:30 大阪府の見学終了。

次の奈良県に移動中に仕事の発注業務、メール、電話など済ませる。

オイラの仕事の性格上、事務仕事は割と電話、メールだけで済んでしまうものも多いのですが、

旅行を中止して即座に会社に向わないといけないリスクが常につきまといます。

金曜日の19時を過ぎても何事もなければ、取り敢えず月曜日の朝までは大丈夫。

本日はその金曜日。

何日も出歩く時は毎回そうなのですが、「あと〇時間連絡なければ月曜まで大丈夫」とカウントダウンします。

その後奈良県1ヵ所、京都3ヵ所見学終了したところで15:50でした。

今晩Fさん宅に泊めてもらうため、広島に移動するのですが、

ここから最寄りのICに移動して、Fさん宅まで4時間位かかるはず。

大分迷ったのですが、大阪に1つだけ残ったポイントに寄ってから広島に移動することに。

17:55 その大阪の見学ポイント終了。

ここは掩体壕があるはずの場所だったのですが、元々情報の精度が怪しくて、

実際に行ってみたら、案の定何も見つかりませんでした。

実は本日の後半は、奈良の大和飛行場跡地は遺構がいくつかあるはずだったのですが見つからず、

京都の飛行場建設予定地も3度目の正直だったのですが、アタリを付けた場所ではありませんでした。

とほほ_| ̄|○ il||li

こういうことは、ままあるのですが、それでも実際に来たからこそ、「ココにはない」ということがハッキリした訳で、

決して無意味ということにはなりません(と、自分に言い聞かせる)。

即広島に移動。 =(⊃゜Д゜)⊃

ガスが結構ギリギリだ。

阪神高速に乗る前に給油しなきゃ。

18:00 給油。37.16l

途中、19時を回りました。

これでよほどのことがない限り、三日後の月曜の朝まで業務連絡が入ることはありません。

Fさんに「到着は22:30頃かも」とメールしてあったのですが、わりと順調に進み、結局21:20 に到着したのでした。

妹さんの家に身を寄せて入退院を繰り返していたFさんだったのですが、現在は近くで一人暮らしを始めています。

自宅に到着すると、すぐ入れるように風呂沸かしてくれてました。

ありがたや。

それから近くのジョイフルへ。

24:00 寝る

おやすみなさい。

(続きます)

本日の走行距離:627.7km

本日お邪魔した場所で、過去記事の追記のみで済ませたもの:
和歌山陸軍練兵場着陸場跡地  
大阪陸軍航空廠跡地
  
京都練兵場着陸場跡地
   

DSC_0156.jpg

京都府の某公園にて。


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滋賀県・滋賀県平和祈念館 [├場所]

   2016年6月訪問 2021/12更新   


滋賀県東近江市にある「滋賀県平和祈念館」。

館内にはオイラの知りたかったマニアックな情報があり、職員さんにも丁寧に対応して頂きました。

近隣の掩体壕の行き方のマップも頂けました。

DSC_0086.jpg


      滋賀県・滋賀県平和祈念館    

滋賀県平和祈念館 データ
所在地:滋賀県東近江市下中野町431番地
開館時間:9時30分~17時
休館日:月曜日・火曜日(祝日にあたる場合は開館)年末年始(12月28日~1月4日)

関連サイト:
公式サイト    
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愛知県・名古屋城北練兵場着陸場跡地 [├場所]

   2016年6月訪問 2021/12更新  


0.png無題.png
Translation No. 29, 20 February 1945, Airways data: Chubu Chiho. Report No. 3-d(27), USSBS Index Section 6 (国立国会図書館ウェブサイトから転載)

愛知県名古屋市。

名古屋城の北側が練兵場になっており、着陸場が設定されていました。

先頭のグーグルマップは、上に貼ったアジ歴の「航空路資料 第4 昭10-1 中部地方不時著陸場」

から作図しました。

この情報は、tuka@北海道さんから情報頂きました。tuka@北海道さんありがとうございましたm(_ _)m

DSC_0069.jpg

赤マーカー地点。

この方向に着陸場があったはずです。

ん~全然城成っぽくない。。。


      愛知県・名古屋城北練兵場着陸場跡地     

名古屋城北練兵場着陸場 データ

設置管理者:陸軍
種 別:着陸場
所在地:愛知県名古屋市北区名城1丁目
座 標:N35°11′20″E136°54′11″
標 高:6m
滑走路:520mx160m
方 位:06/24
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)

関連サイト:
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各務原飛行第二連隊飛行場(各務原東飛行場)跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2016年6月訪問 2022/4更新  


8.png9.png
Translation No. 29, 20 February 1945, Airways data: Chubu Chiho. Report No. 3-d(27), USSBS Index Section 6 (国立国会図書館ウェブサイトから転載。上2枚とも)


岐阜県各務原市にあった「各務原飛行第二連隊飛行場(各務原東飛行場)」。

グーグルマップをご覧の通りで、現在の各務原飛行場のすぐ東側に位置していました。

先頭のグーグルマップ、西側の薄黄色のシェイプは上に貼った地図(1934年頃のもの)から作図しました。

■防衛研究所収蔵資料「飛行場記録(内地の一部) 陸空-本土周辺-110」に「東飛行場要図」があり、

これは1941年頃のものではないかと思うのですが、この要図の地図も重ねてみました。

西側に拡張したんですね。

同資料に「各務原東飛行場記録」がありました。

以下引用させて頂きます。

判決 自重一五屯以下の飛行機の使用に適す
飛行地区
滑走地区 一,〇〇〇x一〇〇米コメ張芝転圧
舗装路 なし
土質 粘土質土砂交り
地表面の状況 表面張芝にして地耐力可なり
周辺の障碍物の有無 なし

付属地区
誘導路 なし
宿営 (木造兵舎)←二重線で消され、横に「なし」と訂正
夜間着陸設備 なし
動力線 なし
電灯線 なし
給水 なし

其他
風向 西風

 


■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」

に 1/25,000 各務原東飛行場があり、上のグーグルマップはここから作図しました。

特に西側は地割がハッキリ残っていない部分が多く、かなり主観で線を引いていますが、

地図に書き込まれた長さの数字にきキチンと従っています。

恐らくこんな感じではないかと。

位置
 岐阜縣稲葉郡鵜沼村□幅新内七七一番地の内及各務原岩
 出巾下地内
積量
 五四九四二一坪
地表の状況
 昭和十六年度拡張地域は地盤未だ固定せず雨後は相当の水溜りを
 生じ排水不良と共に地盤軟弱にして大型機の使用に適せず
 尚西北隅共に地盤軟弱排水不良にして使用不能にあり
周囲の状況
 東南方□四〇〇米に比高一七三米及北方一四〇〇米に比高一七〇米の高地あ
 る外周囲闊にして障害物なきも当飛行場西方には各務原航空
 廠のため中飛行場並中一三三部隊のため西飛行場隣接しありて空域に
 於ては相当の制限あり
将来拡張の能否
 東方に現在の飛行場幅(九〇〇米)長さ約一〇〇〇米拡張可能地域あり 何れも土
 地平坦にして大なる工事を要せず 尚北方には所属地帯として利用し得べき
 巾三〇〇長二〇〇〇米の地域あり 但国民学校一及民家約五軒の移転を要す
 現況要図に視る如く当校改変の為南方地区に於て一五〇米の付属地
 帯線を飛行場内に接地するの止むなきと西北方に於て飛行場としての使
 用地域を有せざるを以て将来是非之が拡張を要するものと認む
天候気象の交感
 当地の経緯度及地勢上より所謂温帯多雨気候にして一年を
 通じ温和にして多湿雨量比較的多し 即ち年平均気温一三、七
 度なり 主風は西及北西なるも夏季の南寄りの風弱し
格納施設
 現在格納庫十一棟あるも当校学生々徒の増加と当校の性質に鑑
 み将来を明察する時之が施設は増加の一途あるを予想す
飛行機掩体
 現在なきも将来を計画しあり
居住施設
 現在約二五〇名の収容及工員収容所にて約三〇〇名の収容施設を
 有しあるも当校改変に伴ひ本年度内に於て約一〇〇〇名、来年
 度に於て約一〇〇〇名の居住施設を実施せらるヽ予定
交通連絡の状況
 岐阜市より国鉄高山線及名古屋電鉄あり 道路は中仙道なる
 も未だ舗装道に至らず 自動車の運航には稍不便なる感あり
 将来是が舗装を是非必要とす尚当校は僻地にありて何等
 交通の便なく時局業務上支障の点甚だしきものあり
其の他
 1.将来拡張欄に注記せる如く東方乃至東北方に飛行場を拡張
  せざるべからず
 2.当校改変に伴ひ西南方地区を工場地帯として拡張せられ度
 3.西校舎(元第一航空教育隊跡)に関しては管理飛行場なきを以
  て省略す
  但し今次改変に伴ひ可及的に敷地拡張を必要とす

■各務原市のサイト戦時資料3(下記リンク参照)によれば、「大正7(西暦1918)年に所沢より「鵜沼(現鵜沼朝日町)に移駐してきた航空第二大隊は、その後大正11年には飛行第二大隊、大正14年には飛行第二連隊、昭和13年には飛行第二戦隊と名称を変え、昭和17年に満州に移動した。」

DSC_0068.jpg

赤マーカー地点。


      岐阜県・各務原飛行第二連隊飛行場(各務原東飛行場)跡地     

各務原飛行第二連隊飛行場(各務原東飛行場) データ

設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:岐阜県各務原市鵜沼朝日町
座 標:N35°23′32″E136°53′56″
標 高:50m
着陸帯:780mx310~500m
方 位:09/27
(座標、標高、着陸帯長さ、方位はグーグルアースから)

関連サイト:
各務原市/戦時資料3   
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「飛行場記録(内地の一部) 陸空-本土周辺-110」
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」


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関飛行場(関牧場)跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2016年6月訪問 2021/12更新  

無題1.png
撮影年月日 1947/12/20(昭22)(USA R703 12)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


岐阜県美濃加茂市にあった「関飛行場(関牧場)」。

アギラさんから情報頂きました。アギラさんどうもありがとうございましたm(_ _)m 

当飛行場については場所がハッキリしておらず、「この辺りにあったんじゃないかなあ」という程度のものですので

ご了承くださいませ。

■関市史664-665pに関連記事がありましたので、以下抜粋させて頂きます。

(関牧場)

 (全文)この昭和十九年、食糧増産のため西田原字佐賀理の原野十三-十四ヘクタールを開墾して耕地整理が行われたが、

陸軍において飛行場の爆撃を避けるための分散化が図られ、同年暮れより関町周辺の町村から弁当持ちの勤労奉仕隊

が毎日千人以上動員され、ここに双発飛行機の陸軍飛行場造りが行われた。字佐賀理の南、大杉字カナクズ山の北

部に百八十有余の横穴をつくり司令部・無線局・兵舎・各種倉庫がこれに考えられて、山麓の墓地の開墾は数日前の

死者も掘り返して作るというありさまで、昭和二十年四月に飛行場の完成を見たが、軍事上「関牧場」と称され、雑草

の種を播いたため付近の農作物に大被害を受けた。ここに双発飛行機が発着し始めたが、空腹にあえぐ兵隊の付近

農家への食糧乞いも頻繁で批判が高かった。

 

陸軍の秘匿飛行場だったのですね。

この市史から飛行場の場所特定に役立ちそうな部分を箇条書きしてみますと、

・住所は西田原字佐賀理の原野
・字佐賀理の南、大杉字カナクズ山の北部に基地施設
・雑草の種まき→転圧式と考えられる
・双発機が発着→ある程度の規模の滑走路(1,500m~2,000m)が必要

この条件で当時の航空写真で周辺を見回した結果、オイラとしましては、「ここ以外に考えられない」

という場所が上のマップです。

この場所なら2,200m滑走路のスペースがとれます。

ということで、関飛行場はここだと思うのですが、正確な位置をご存知の方からの情報お待ちしておりますm(_ _)m 

DSC_0059.jpg

赤マーカー地点。

DSC_0066.jpg

青マーカー地点。

平坦な畑が続いています。


      岐阜県・関飛行場(関牧場)跡地     

関飛行場(関牧場) データ

設置管理者:陸軍
種 別:秘匿双発機飛行場
所在地:岐阜県美濃加茂市加茂野町稲辺?
座 標:N35°26′52″E136°57′52″?
標 高:78m?
滑走路:2,200m?
方 位:12/20?
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)

沿革
1944年    暮れから飛行場建設
1945年04月 完成

関連サイト:
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
関市史1967年


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上伊保付近着陸場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2016年6月訪問 2021/12更新  


7.png
6.png
Translation No. 29, 20 February 1945, Airways data: Chubu Chiho. Report No. 3-d(27), USSBS Index Section 6 (国立国会図書館ウェブサイトから転載。上2枚)

無題3.png
撮影年月日 1945/04/06(昭20)(97I9 C4 84)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

愛知県‎豊田市‎にあった「上伊保付近着陸場」。

先頭のグーグルマップは、上に貼った 「航空路資料 第4 昭10-1 中部地方不時著陸場」から作図しました。

この情報はtuka@北海道さんから情報頂きました。tuka@北海道さんありがとうございましたm(_ _)m 

この資料では当着陸場について、

「昭和9年3月調査」として、400m、350mのL字型滑走路を持つ着陸場として説明されています。

更に、当着陸場でしばしば飛行が行われていたこと、

地元の方からは「飛行場」と呼ばれていたと説明されています。

 

で、少々ややこしいのですが当着陸場のあった場所は、

後に建設された「名古屋航空基地(伊保原、挙母飛行場)」と重なって見えます。

先頭の航空写真の白っぽい部分は三本の滑走路を有する「名古屋航空基地」なのですが、

当着陸場は赤丸の辺りに位置します。

「名古屋航空基地(伊保原、挙母飛行場)」については様々な資料の中で、

「昭和15年に愛知時計電機の試験飛行場として誕生した」

的な扱いになっています。

今までオイラも、何もなかったところに先ず愛知時計の1,000m滑走路が建設され、

後に軍民共用飛行場となり、拡充されたという認識でしたし、該当記事にもそうまとめました。

 

今回ネットでザッと検索してみた範囲では、「名古屋航空基地は昭和15年の愛知時計から飛行場としての歴史が始まった」

とするものばかりで、昭和9年の着陸場ついて触れたものは見つけることができませんでした。

こうなると、この着陸場の素性と後の「名古屋航空基地」との関係性が非常に気になります。

 残念ながらこの小さな着陸場を誰が作ったのか不明なのですが、

「航空路資料 第4 昭10-1 中部地方不時著陸場」では、当着陸場について、

「第一、第二航空連隊はこの着陸場をしばしば飛行操縦に使用している」と記しています。

この「第一、第二航空連隊」についてはそれ以上の説明がないのですが、

同じ「航空路資料 第4 昭10-1 中部地方不時著陸場」の後の方のページでは、

ここから約37km離れた場所にある各務原の第一、第二航空連隊飛行場について扱っています。

「第一、第二航空連隊」というのが仮にここのことを指しているのだとすると、陸軍系の着陸場なのかしらん。

とすると、元々着陸場のある(あった)場所に愛知時計電機が目を付けたか、陸軍から紹介されて、

1,000m滑走路を建設し、終戦時には大規模な飛行場になったのかもしれません。

 

「同じ敷地内にある飛行場」ということで、一旦「名古屋航空基地」の記事内に含めたのですが、

当着陸場と「名古屋航空基地」の関係性が非常に気になるため、敢えて一つの飛行場跡地として独立させました。

この辺の経緯をご存知の方からの情報お待ちしておりますm(_ _)m

DSC_0045.jpg

赤マーカー地点。

滑走路方向。

DSC_0047.jpg

青マーカー地点。

滑走路方向


      愛知県・上伊保付近着陸場跡地     

上伊保付近着陸場 データ

設置管理者:陸軍?
種 別:着陸場
所在地:愛知県‎豊田市‎浄水町‎原山‎
座 標:N35°07′30″E137°08′24″
滑走路:400mx150m(08/26)、350mx100m(17/35)
標 高:92m
(座標、滑走路長さ、方位、標高はグーグルアースから)

沿革
1934年 この頃当地に着陸場があり、使用される
1939年 愛知時計電機の試験飛行場として造成

関連サイト:
ブログ内関連記事       

この記事の資料:

「日本海軍航空史」


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関西、中国、四国・2 [■旅行記]

Ⓐ道の駅デンパーク安城→Ⓑ衣ヶ原飛行場跡地→Ⓒ上伊保付近着陸場→Ⓓ本地ヶ原演習場跡地→Ⓔ小幡ヶ原演習場跡地→Ⓕ関飛行場(関牧場)跡地→Ⓖ各務原飛行第二連隊飛行場跡地→Ⓗ名古屋城北練兵場着陸場跡地→Ⓘ三菱重工(株)名古屋航空機製作所飛行場跡地→Ⓐ滋賀県平和祈念館→Ⓑ八日市飛行場跡地→Ⓒ志摩水上機飛行場跡地(中日本航空)→Ⓓ道の駅吉野路黒滝(車中泊)

2日目

3:50 起床

4:20 道の駅デンパーク安城 出発

朝食は途中のサークルKで幕の内弁当とヨーグルト

DSC_0039.jpg

DSC_0044.jpg

衣ヶ原飛行場跡地に戦後建設されたトヨタ元町工場。

国内初の乗用車専門工場として設計され、ここでクラウンと新型コロナの生産が計画されました。

それまでクラウンは月販2千台だったのですが、

この工場は月産5千台(将来的に月産1万台を見据えていた)の巨大工場として建設されました。

「失敗すれば経営不振に陥る一か八かの賭け」だったのだそうですが、

生産開始した年の12月には早くも生産台数10,453台を叩き出し、

それまで「ドングリの背比べ状態だった国内自動車会社の中で、頭一つ抜け出した」という、

トヨタ大躍進の礎となった工場なのだそうです。

 

昼食は途中でカロリーメイト的なもの。

本日は1か所目から早速名古屋市内で、途中最寄りの岐阜県の2か所を含め、

名古屋市内に6か所見学ポイントがありました。

週中の午前だし、相当混雑してるんだろうな~と覚悟していたのですが、拍子抜けするほどスイスイで、

11:40 愛知県内の見学ポイント終了

すぐ高速に乗ってお隣の滋賀県八日市市に向かいました。

途中給油。 37.0l

滋賀県の平和祈念館に行きました。

ここに多賀飛行場の場所についての資料があるのです。

職員の方から「おおよそこの辺りにあったと考えられる」という丁寧な説明を頂き、

展示されている飛行場の位置図の撮影もさせていただきました。

これは自宅に戻ってからきちんと作図して、予定通りなら秋にまた来よう。

ここで八日市飛行場の未知の掩体壕の位置情報も頂いたのですが、秋に多賀飛行場と合わせて行くことに。

ここから三重県のサミットが行われた志摩市まで高速で移動。

DSC_0095.jpg

わかたの島に行く船に乗りました。

船着き場で待っていると、小舟がやって来たので船長さんにお金を渡そうとすると、「違う」と言われましたΣ(゚Д゚;)エッ?

一般客が利用できる渡船は、ちゃんと赤旗がついているので、それを利用しないと駄目なのでした。

DSC_0091.jpg

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DSC_0093.jpg

DSC_0099.jpg

DSC_0094.jpg

ほどなく赤旗をつけた船がやって来ました。

DSC_0100.jpg

客はオイラ1人だったのですが、船は島を目指しました。

所要時間は3,4分程であっという間に到着。

せっかくなので港近くを歩き回ってみることに。

大きな旅館の裏口で、着物姿の女将?が一服していました。

「こんにちは」と軽く会釈して通り過ぎたのですが、

無言でこちらをジロリと見ているような感じ。

他にも談笑中の年配者の横を通過したのですが、なんだか物凄く独特で濃い雰囲気の島でした。

水上機が利用したであろう桟橋の写真を撮り、早々に退散することに。

港に向かうと、先に中年の男女が待っていました。

二人ともなんだかけだるげな雰囲気です。

ほどなくやって来た船にその男女とオイラの3人が無言で乗り込んだのでした。

船長にお金を払ったのはなぜかオイラだけ。

うーむ。どういうシステムになっているのか。。。

DSC_0104.jpg

無事車に戻り、出発前にお得意先に一件電話。

近くのサークルKで冷やし中華の夕食。

次の目的地は和歌山県の和歌山市。

紀伊半島を大きく横断しなければなりません。

ナビに目的地を打ち込むと、240km先と出ました。

それではとナビに従って進んでいくと、間もなく小道に入って行ったのですが、これが未舗装で車一台もやっとの道!

ナビをスクロールすると、なんか延々この道を走るっぽいです。

これから暗くなるのに、こんな道を延々走るなんて絶対ヤダ!

なんとかUターンして、ナビの案内を無視して目的地方向の

大きな道を走っていると、やがて広い道でのナビが始まったのでした

やれやれ。。。

21:45 道の駅吉野路黒滝着。

22:05 寝る

おやすみなさい

(続きます)

 

本日の走行距離:585.1km

本日お邪魔した場所で、過去記事の追記のみで済ませたもの:
愛知県・衣ヶ原飛行場跡地
  
愛知県・本地ヶ原演習場跡地  
愛知県・小幡ヶ原演習場跡地  
愛知県・三菱重工(株)名古屋航空機製作所飛行場跡地  
滋賀県・八日市飛行場跡地  
志摩水上機飛行場跡地(中日本航空)  


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