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厚岸飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2016年7月訪問 2021/12更新  

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撮影年月日 1947/09/20(昭22)(USA M509 78)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


北海道厚岸郡厚岸町。

前記事の水上機基地のことを地元図書館の方にお聞きしていたら、

「戦時中小学校、中学校のところにも飛行場があった(らしい)」とのことでした。

当時の航空写真で見ると、確かにポッカリとスペースが空いていますが、300m程度しかありません。

滑空訓練程度なら十分なのですが。。。

当飛行場についてご存知の方からの情報お待ちしておりますm(_ _)m 

DSC_0120.jpg

      北海道・厚岸飛行場跡地     

厚岸飛行場 データ

種 別:陸上飛行場
所在地:北海道厚岸郡厚岸町梅香1丁目
座 標:N43°02′06″E144°50′59″
標 高:3m
着陸帯:300mx220m
(座標、標高、着陸帯長さはグーグルアースから)

関連サイト:
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厚岸水上機基地跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2016年7月訪問 2021/12更新  

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撮影年月日 1947/09/20(昭22)(USA M509 78)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


北海道厚岸湖西岸に「厚岸水上機基地」がありました。

この情報はPUTINさん、再生おじさん、地元図書館様から頂きましたm(_ _)m

滑り台は確認できず、敷地のハッキリした地割も不明なのですが、おおよそこんな感じだったのではないかと。

DSC_0116.jpg

      北海道・厚岸水上機基地跡地     

厚岸水上機基地 データ

設置管理者:海軍
種 別:水上機用
所在地: 北海道厚岸郡厚岸町奔渡1丁目
座 標:N43°02′35″E144°51′12″
(座標はグーグルアースから)

関連サイト:
アジ歴/昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 厚岸防備隊戦時日誌(1)10コマ目    
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能取水上基地跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2016年7月訪問 2021/12更新  

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1947年10月当時の写真(USA M574 152)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


北海道網走市美岬。

能取湖にあった「能取水上基地」。

ここも長いこと場所が不明だったのですが、テキサス大学ライブラリー米陸軍地図に出ていました(下記リンク参照)。

この情報は再生おじさんから頂きましたm(_ _)m

恐らく上の地図の場所だと思うのですが。。。

DSC_0107.jpg

DSC_0106.jpg

赤マーカー地点。


      北海道・能取水上基地跡地     

能取水上基地 データ

設置管理者:海軍
種 別:水上機用
所在地:北海道網走市美岬
座 標:N44°04′23″E144°11′47″
(座標はグーグルアースから)

関連サイト:
テキサス大学ライブラリー米陸軍地図    
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愛別飛行場(廃止後) [├国内の空港、飛行場]

 2016年7月 訪問 




愛別飛行場は2013年12月31日廃止してしまいました。

廃止からおおよそ2年半後にお邪魔したのでした。

DSC_0091.jpg

まだ案内が残っていました。

DSC_0102.jpg

DSC_0093.jpg

DSC_0095.jpg

建物の色が変わりましたね。

DSC_0098.jpg

DSC_0099.jpg
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小樽航空水上基地(小樽海軍飛行場)跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2016年7月訪問 2023/7更新  


 

無題a.png
撮影年月日1947/09/10(USA M516 38) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

北海道小樽港にあった「小樽航空水上基地(小樽海軍飛行場)」。

■防衛研究所収蔵:⑤航空部隊-航空基地-91航空基地図(本土関係)

に手書きの地図と資料があり、ようやく場所を特定することができました。

先頭のグーグルマップはこの地図から作図しました。

上に貼った航空写真だと滑台は見当たらないんですが、地図には海に突き出す形で滑台が描かれています。

以下、資料を引用させて頂きます。

無題7.png

滑台の作図の際、寸法についての記載がなかったため、資料にある通り面積が40㎡になるように、

しかも手書きの地図と同じ形になるようにしました。

おおよそこんな感じだったのではないかと。

手書きの地図では滑台の陸側に建物が描かれていて、「居住施設」等説明書きがあるのですが、

先頭の航空写真の赤矢印の辺り、地図にある建物の形と似ているように見えます。

 

以下、コブラボールさんから頂いた資料からなのですが、

戦前・戦後の稚内 -稚内に残る歴史的建造物から-

・昭和18年10月11日 潜水艦「ワフー」発見・攻撃・撃沈
  本日、天気快晴。06:30オミ:20号(九四式)海峡西口へ向け発進。7:55 オミ19号(零式)
 海峡東口へ向け発進。9:20 宗谷岬45度12浬に敵潜水艦発見、無電と同時に攻撃開始。19号機の無
 電を傍受した、20号機も燃料補給のため帰投。稚内基地土井部隊の3機の水偵が反復攻撃し、宗谷防
 備部隊司令より海峡哨戒中や在泊中の艦船4隻出撃命令(15号・43号駆潜艇、17号・18号掃海特務
 艇)。水上偵察機(稚内基地3機+小樽基地2機)延べ15回出撃し6番(60キロ対潜爆弾)40発。
 艦船から、95式爆雷63発投下して撃沈した。 

対潜攻撃に小樽基地から2機の水偵が出撃したのですね。

DSC_0051.jpg

赤マーカー地点。

当時の海から陸側に向けて撮ってます。

この先に滑台があったはずです。

DSC_0053.jpg

青マーカー地点。

陸から海方向


      北海道・小樽航空水上基地(小樽海軍飛行場)跡地     

小樽航空水上基地(小樽海軍飛行場) データ

設置管理者:海軍
種 別:水上機用
所在地:北海道小樽市築港3丁目
座 標:N43°10′57″E141°01′53″
滑 台:26mx15m?
(座標、滑台長さはグーグルアースから)

沿革
1943年08月 28日 開設?
     10月 11日 潜水艦「ワフー」攻撃に参加

関連サイト:
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」
防衛研究所収蔵:⑤航空部隊-航空基地-91航空基地図(本土関係)
戦前・戦後の稚内 -稚内に残る歴史的建造物から-


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北海道、東北・2 [■旅行記]

Ⓐ小樽港→Ⓑ小樽航空水上基地跡地→Ⓒ丘珠空港→Ⓓ愛別飛行場跡地→Ⓔ能取水上基地跡地→Ⓕ厚岸水上機基地跡地→Ⓖ厚岸飛行場跡地→Ⓗ北斗場外離着陸場跡地→Ⓘ道の駅しかおい(車中泊)

(航跡は適当です)

 

2日目

3:50 起床

昨日ヘリの緊急搬送があったため、昨晩の時点では入港は20分遅れの4:50 のはずだったのですが、

朝客室の照明が灯り、「4:35 入港」とアナウンス。

オイラがぐーぐー寝ている間に5分遅れまで戻したんですね。

DSC_0041.jpg

4:12 後部甲板でカシャカシャ。

DSC_0042.jpg

車両甲板への案内があり、自分の車に戻りました。

4:40 まずはトラックから下船開始。

その後乗用車、バイクの順。

オイラは乗船がかなり最後のほうだったので下船も後からとなり、

実際に試される大地を踏みしめたのは、結局 4:50でした。

すぐに最寄りの小樽水上機基地跡地に向かったのでした。

その後、丘珠空港へ。

6:15 丘珠空港前のセイコーマートでのり弁とヨーグルトの朝食。

普段埼玉では、セイコーマートは月に1回仕事中に利用しているため、

会員カードはグローブボックスに入れっぱなのですが、

折角セイコマ王国に来ているので、カードを財布に装着し、 極力セイコマを利用することに。

余談なのですが、セイコーマートは今年(2016年)の2月に社名が「セコマ」に変更されたんだそうですねΣ(゚Д゚;)

オイラの中では、ずっと勝手に「セイコマ」と呼んでいたんですが、これからは「セコマ」が正式になるのかしらん。

取り敢えず当記事内では、「セイコマ」でいきます。

 

「急いで連絡されたし」という会社からのメッセージが気になるのですが、オイラの会社は 8:30に朝礼が始まるので、

朝礼が終わるまでは連絡できません。

連絡が可能になる時間まで構わずどんどん東に進み続け、8:40 になったところで移動中に会社に電話してみると、

結局単なる事務員さんの勘違いから発生した問題でした。

お客様に4件電話して無事解決。

ふう。これで埼玉に戻らずに済む(〃´o`)=3

11:00 セイコマで昼食おにぎり

2個で364円とかなりいいお値段だけど、何かヤバイものが入ってるんじゃないかと疑いたくなる程のウマさ!

セイコマのおにぎりって初めて食べたけど、こんなに美味しかったのか!

13:00 給油

DSC_0114.jpg

17:20 セイコマで豚丼。

埼玉のセイコマでもたまに食べるけど、ホントに同じものかと思ってしまう程マジうまい。

これまた何かヤバいものが(略)。

今日は全国的に暑い1日で、道内でも日中は最高30℃まで上がり、エアコンかけっぱでした。

ところが厚岸に入った辺りで、26℃から一気に14℃まで下がりました。

さ、寒い!(゚Д゚;) 

DSC_0121.jpg

DSC_0124.jpg 

局地的に海からの濃霧で真っ白。

青森出身のtakkunさんから教えてもらったのですが、「やませ」という現象だそうです。

オイラの地元でも霧の日は時々あるけれど、キリは朝だけ発生するのが当たり前。

昼を過ぎての濃霧というのがものすごい違和感でした。

21:10 道の駅しかおい着

21:35 寝る

おやすみなさい

(続きます)

 

本日の走行距離:760.6km

本日お邪魔した場所で、過去記事の追記のみで済ませたもの:
丘珠空港  


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北海道、東北・1 [■旅行記]

Ⓐ圏央鶴ヶ島IC→Ⓑ中越飛行場跡地→Ⓒたわら屋→Ⓓ新潟港→小樽港へ(航路の線は適当です)

 

1日目

7月上旬、3年ぶりに北海道に行ってきたのでした。

今回は旅行前日にお隣の親しくさせていただいているおじいさんと、留守中回覧板を回す相手先の方に、

「明日から来週月曜日まで留守にします」と事前にちゃんと伝えることができたので安心です。

3:40 出発

即圏央鶴ヶ島ICから新潟へ。

新潟港から新日本海フェリーで小樽入りという恒例のルートなのですが、

途中で新潟県小千谷市内の飛行場跡地に立ち寄ったのでした。

小千谷の飛行場跡地に到着したのは午前6時半ちょい前。

ICからぐーっと上った先の一帯が飛行場跡地なのですが、見渡す限りの田んぼになってました。流石新潟。

田んぼの脇に車を止めて早速写真を撮ろうとしたら、おじいさんからジッと見られてしまいましたΣ(゚Д゚;)

朝の6時半に他県ナンバーの車が止まってて、カメラ持ったオッサンがなんか田んぼ撮り始めたら、

そりゃ怪しいよな~^^;

(当「小千谷飛行場跡地」は新規記事を作らず、過去記事に追記しました)

フェリーの出航は10:30。

出港1時間前には着かないといけないので、あと3時間あります。

ここから新潟港までは80km。

新潟市内手前辺りから朝は結構混雑するのですが、

この周辺はまだまだ田舎で下道でも距離稼げるので、時間を見ながら取り敢えず下道で港に向かうことに。

信号待ちの時間を利用して、ナビに道内の見学ポイント打ち込み。

結局港まで下道で行けたのでした。

港に向かう途中、断続的にスコールのような激しい雨。

時間に余裕があるので、新潟空港近くのたわら屋で本日分の食糧を調達することに。

たわら屋に着いたのは9時過ぎ。

もっと早く着いたらここで朝食をとろうと思っていたけど、ここで朝昼晩と三食分の弁当購入。

9:22 新潟港にてゆうかり乗船の車列へ。

既に乗船を待つ車が何列にもなってました。

ちょっとずつ乗船が始まっていたけど、オイラの列はまだまだ後だったので、乗船の荷物準備を終えた後、

ハラ減ってもー我慢できないので車内で朝食。

弁当を食べ終わって程なくオイラの列も動き出し、乗船開始。

さあ、ツーリストJ(二等船室)にオイラの居場所を確保しなければ=(⊃゜Д゜)⊃

乗船の列に並ぶのが遅れたので、客室はどこも既に出来上がった状態でした。

厳ついオッサンたちで緊張感漂う部屋、グループらしき仲間で既に一体感溢れる世界を作り上げている部屋、

満室に近い部屋などなど。。。(゚Д゚;≡;゚Д゚)

通路には同じく焦りの色を隠せずに部屋を覗き込んで回る同業者が数人(・∀・)人(・∀・)ナカーマ!!

壁側から席が埋まっていくので、後から入ると、どうしても人と人の間に割り込む状態になります(つД⊂;)

一つだけ割と空いている部屋があったけど、その部屋には小さい子連れの一家族がおられました。

一角に場所を確保し、カメラを持って早々に後部甲板へ。

後部甲板にはプロムナードを通って行くのですが、大窓から海原が見渡せ、テーブルとイスが並んでいるので、

特に航海中は人気の場所です。

ここのテーブルとイスの一角を陣取って、クーラーボックス持参で海を眺めながら、

テーブルにワイングラスと肴を並べているおぢさんが。

まあオシャレ。

甲板には出港前でたくさん人が出ていました。

スナック菓子をつまんで高く掲げてジッとしている人が数人いて、

カモメが器用に飛び去り際についばんでました。

DSC_0012.jpg

出港。

DSC_0008.jpg

その後、このところ連日激務で睡眠時間が限られていたので、船室に戻って仮眠をとることに。

横になって毛布をかぶったところで、幾つか並んでいる2等船室の中で、どうしてこの部屋だけやけに空いているか、

判明しました。

幼いお子さんが結構騒いで煩いのですが、母親の話し声がそれに輪をかけて煩いのです。_| ̄|○ il||li

オイラの居た船室には、他に老夫婦、ライダーらしき人が2人、おじさんが1人で、

皆さんひそひそ声だったので、この母子の声が一層引き立つデカさなのです。

若いお父さんは結構声潜めてたんですが。。。

その後その親子も昼寝を始めたけど、子供が騒いでなかなか寝静まらず、

お母さんが「ウルサイ!  いい加減にしないと怒るよっ!」と大声で怒鳴る声が船室に響き渡るのでした。

工エエェェ(´д`)ェェエエ工

 

朝食が遅かったので、13:30頃後部甲板で昼食の弁当。

例によってプロムナードを通って向かったのですが、肴をつまみつつワイングラス片手にちびちびやっている

おじさんはまだそこにいたのでした。

きっとこの状況をずっと楽しみにしてたんでしょうね~。

無人の後部甲板で海を眺めつつ、昨日までの激務を思い出しながらゆっくりと昼食。

そのまま1時間ほどぼーっと後部甲板のテーブルから海を眺めて過ごしたのでした。

いつしか濃霧で船の周囲は真っ白に。

真っ白な空と黒い海を眺めていると、今回のスケジュール、それから今北海道に向かっているところだというのに、

北海道から戻った後の旅行スケジュールが頭をよぎります。

こうして飛行場/跡地を見るために北海道に行くのはこれで5回目なのですが、

これまで北海道に行ったときは、毎回30前後の見学ポイントを4日間アホのように走り回って、

日曜日の夕方再び小樽からフェリーで新潟に戻る。というのがお決まりのパターンでした。

ところが今回は、道内の見学ポイントが13しかなく、しかも旭川(の近くの愛別町)より北には行きません。

これは3日もあれば全部回れるはず。

(仕事のスケジュール的に)北海道に4日間滞在できるので、残った1日で道内の空港でゆっくりヒコーキ眺める。

というプランも非常に心惹かれたのですが、道内を木、金、土の3日間で終わらせた後、

日曜日は函館から青函フェリーで青森に渡り、青森、秋田、岩手の見学をしようと考えました。

新潟~小樽で往復すれば、復路のフェリー料金は1割引きになった上に1クラス上のチケットになるのですが、

今回は新潟→小樽の片道チケットだけ購入し、

青函フェリーの函館→青森便は2:00~23:30まで毎日8便も出ているので、

事前予約をせずに成り行きで乗れる船に乗ることに。

シーズン前だし、まあ大丈夫でしょ。

 

今回はノートPCを持って来ているので、カフェでビールを飲みつつここまでの記録つけ。

部屋に戻って再び昼寝しようとしたのですが、相変わらず件の母親と娘の声が耳に障る(-"-;) 

入浴、夕食、就寝等、この家族の船内での今後の予定について、別に知りたくもないのに強制的に耳に入ってきます。

たまらずラウンジに退去し、本日付の新潟日報等見て過ごしたのでした。

それによれば、新潟県内は今年は小雪暖冬で深刻な水不足。

田植えの出来ない田んぼがあったらしい。

ラウンジでいろいろ読んでいると、急病人が発生したとアナウンス。

医者、医療関係従事者の呼びかけをしていました。

大した事なければ良いのですが。。。(とこの時は思っていた)

途中から風が強くなり、甲板に出られなくなる。

18時前、湯につかりながらぼーっと海を眺めていると、再び船内アナウンスが。

「急病人が発生したため、海上保安庁のヘリで緊急搬送を行います。

現在のところヘリの搬送は18:50を予定しています。

これに伴い、小樽入港が遅れることが予想されます。

入港時間がはっきりしましたら、お知らせ致します。

ヘリによる搬送が行われる18:50 頃は、危険防止のため、後部甲板、レストランへの出入りをストップさせていただきます。」

DSC_0018.jpg

入浴を終えて撮ったモニター。

あと24分でヘリが来るはず。

行けるうちに後部甲板に行ってみることに。

DSC_0019.jpg

DSC_0023.jpg

日没が迫ってますね。

DSC_0024.jpg

Ⓗマークのところに立って撮影。

ライトが点いてますね。

奥に窓が並んでますが、ここが緊急搬送中閉鎖されるレストラン。

レストランと後部甲板が閉鎖されるため、恐らくですがヘリ搬送中は肉眼で搬送の様子を眺めることはできないはず。

DSC_0027.jpg

しかし改めて見ると、ヘリパッドはフェンスにも囲まれ、物凄く狭いです。

今日はメガネ飛ばされそうなくらい風も強くて、

本当にこんな場所に降りられるのかしらん。と心配になります。

DSC_0029.jpg

DSC_0033.jpg

18:35 右舷(ヘリが来るであろう陸側)の窓に張り付き、待ち構えていると、みるみる速力が落ちてきました。

18:44 「申し訳ありません! 通路を開けてください!」という大きな声。

オイラのいる窓からは反対側の通路になり、直接見ていないのですが、患者さんを後部甲板に移動させているっぽいです。

18:47 「バタバタバタ……」というヘリの音が聞こえてきた。

ずっと周囲を見回していたのですが、結局オイラはヘリを視認できなかったので、6時方向から接近したっぽいです。

その後ずっとヘリのバタバタ音が続き、殆ど停船している位の微速が続きました。

完全に停船はしないんですね。

風や波に漂うより、微速で真っ直ぐ進んでいた方がいいのかしらん。

19:00 相変わらず続いていたヘリのエンジン音がかなり小さくなる。

19:15 相変わらずヘリの音が続いている。

最初に音がしてからもう30分近い。

こんなに時間かかるものなのかしらん。

ホイストしてるのでしょうか。

DSC_0035.jpg 19:17 速力が戻り、完全にヘリの音が消える。後部甲板に通じる通路に行ってみると、

ちょうど3人の男性が後部甲板から出てきたところで、

普段着の男性2人が、ヘルメットを被った職員に深々と礼をしていました。

結局ヘリ視認できず。

19:20 船内放送

「皆様のご協力で無事ヘリで函館の病院に搬送することができました。

船長以下船員一同感謝致します。

本船の小樽入港時刻は、20分遅くなりまして、4:50 を予定しております。

お急ぎのところご迷惑をおかけして申し訳ありません。」

DSC_0034.jpg

 

DSC_0037.jpg

19:26 の現在位置。

すっかり暗くなった海を眺めながら、お弁当の夕食。

19:40頃、「姉妹船ライラックとの行き違いは、緊急搬送のため中止とさせていただきます。あらかじめご了承くださいませ」

とアナウンス。

そういえば船内放送で、

「現在緊急搬送に向け、本船は既定の航路を外れて合流地点に向かっております」的なことも言ってたっけ。

 

航海中、オイラのガラケーは時々電波が入るのですが、19:20 にauお留守番サービスから着信がありました。

何事かとメッセージを確認してみると、会社からです(@Д@)

「急ぎで確認したいことがあるので、すぐ連絡ください」という内容でした。

折り返し電話したのですが、オイラの会社は通常18時までなので、当然事務所は無人で留守電対応。

急ぎの確認って、一体なんだろう。。。

オイラの仕事の性格上、場合によっては旅行を中止して即会社に戻らないといけない可能性が常にあります。

最悪明朝小樽に入港したら即新千歳空港に向かうということだってあり得るのだ。

そんな内容じゃありませんように~。(゚Д゚;≡;゚Д゚)

まあ余程の内容だったら、夜中でもなんでも店長から直接連絡あるでしょ。

22:00消灯時間になり寝る。

おやすみなさい。

 

本日の走行距離:315.6km

(続きます)


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ボーイングのデリバリー数 [├雑談]

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2012年に「ボーイング旅客機 年別デリバリー数」という記事で作成したデータを久々に更新しました  

せっかくなのでこちらにも載せておきます。

数字は全てボーイング公式サイト 2016/10/16現在のものです。

以下、このデータでぐだぐだと。

 

表をご覧いただいての通りで、

年別で最も多くデリバリーされたのは、2015年にB737が叩き出した、495機となっております。

1日1機を優に超えるペースですね(@Д@)

1967年のデリバリー開始以来、既に半世紀が経過しているというのに、

その勢いは衰えるどころか、ここ4年連続で記録更新中です。

現在のところ総デリバリー数は、9,213機なのですが、バックログはなんと4,350機!(☆Д☆)

1万機を遥かに超え、更にデリバリー数を伸ばしていくであろう737。

2014年のプレスリリースでは、737の生産レートを2018年に月産52機にすると発表しており、

計画通りなら、年産数はナント624機に!

1日で2機弱ペースですね。

この驚異的な生産数でも、バックログを消化するのに7年を要する計算です。

ライバルであるエアバスA320NEOの存在があり、ボーイングとしては何としてもこの計画を遂行したいところでしょう。

 

一方、ワイドボディ機の年間デリバリー数についてですが、

こちらは1970年にジャンボが記録した92機が長いことずっと最多数でした。

2013年になって777が98機でやっとこの記録を塗り替えたのですが、

787が2014年に114機、2015年には135機で、立て続けに記録を更新しており、

これが現在のところボーイングワイドボディの年間最多記録となっています。

受注開始以降、民間航空機史上最速ペースで受注を伸ばしていった787。

いつだったかの記事で、「787は計画通り月産10機達成できるのかしらん」なんてこと書いたような気がするんですが、

2015年に135機ですから、達成したんですねヽ(*´ヮ`)ノ

ボーイング最新モデルの787ですが、もう500号機に手が届きそうなんですね。

早いものです。

こちらも737と同様A350というライバル機の存在があります。

一時期、度重なる開発の遅れから、受注が一部A350に流れるという出来事がありました。

このため2012年にノースチャールストンの第二工場でも787のデリバリーが始まりました。

北米大陸の西海岸と東海岸に分かれての生産体制ということで、大丈夫なのかしらん。と思っていたのですが、

2016年2月、この第二工場から100機目の787デリバリーがありました。

787の現在の生産レートは月12機なのですが、ボーイングは2020年までにこれを14機に引き上げるとしており、

日本の787関連企業でもこの増産に向けた工事が既に始まっています。

787は894機ものバックログを抱えており、順調に生産レートを伸ばしても、これを全て消化するのに約6年かかります。

787の総受注数は1,361機に達しており、これで(生粋の)ボーイング旅客機は全モデル1,000機超え確定です。

 

現在ボーイング機の主な生産は、737、777、787の3機種にほぼ収斂していますが、

747と767の生産もまだ続いており、

747は、-8が9機、-8Fが6機のバックログ、

767は、-2Cが23機、-300Fが73機のバックログを抱えています。

787の生産が軌道に乗ったら、767は早々に生産終了かと思ってたんですけど、まだしばらく767の生産続くんですね~。


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関西、中国、四国・6 [■旅行記]

Ⓐ長篠設楽原PA→Ⓑ駿河湾沼津SA→Ⓒ狭山SA→Ⓓ圏央鶴ヶ島IC


6日目

3:50 起床

4:20 長篠設楽原PA出発

DSCN0032.jpg

5:50 駿河湾沼津SAで温玉とろろうどん

ここで各所へのお土産購入

8:25 狭山SA

8:35 圏央鶴ヶ島IC

9:40 給油 22.79l

9:45 自宅着

この後ガッツリ仕事が待ち構えているのでした。

やっぱり早く戻って良かった。

これで旅行記はおしまいです。

長々とお付き合い、ありがとうございました。

(もう続かない)

本日の走行距離:298.2km

総走行距離:3,423.5km

総燃費:20.08km/l


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福井県・敦賀練兵場跡地 [├場所]

   2016年6月訪問 2022/1更新  


4.png
8.png
(昭和8年10月撮影)高度1,000米 方位NNW 距離1,200米
Translation No. 29, 20 February 1945, Airways data: Chubu Chiho. Report No. 3-d(27),USSBS Index Section 6 (国立国会図書館ウェブサイトから転載。上2枚とも)無題9.png
撮影年月日 1948/03/31(昭23)(USA R1226 42)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


福井県敦賀市にあった「敦賀練兵場」。

当練兵場内に着陸場が設定されていました。

上に貼りましたが、「航空路資料 第4 昭10-1 中部地方不時著陸場」に「敦賀練兵場」の資料があり、

先頭のグーグルマップはここから作図しました。

この情報はtuka@北海道さんから頂きました。tuka@北海道さんありがとうございましたm(_ _)m  

先頭の航空写真で見ると練兵場敷地南東の角から、

着陸場がポコンと飛び出しているのがうっすらと見える(右下の赤矢印部分)のですが、

この飛び出した部分は、「1933年9月に付け足されたものである」と上記資料で説明されています。

DSC_0103.jpg

赤マーカー地点。

現在はすっかり住宅密集地になっています。


      福井県・敦賀練兵場跡地     

敦賀練兵場 データ

設置管理者:陸軍
所在地:福井県敦賀市ひばりケ丘町
座 標:N35°37′17″E136°02′36″
標 高:20m
着陸帯:500mx150m
方 位:13/31
(座標、方位はグーグルアースから)

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京都府・舞鶴の防空監視哨跡 [├場所]

   2016年6月訪問 2021/12更新   


京都府舞鶴市にある「舞鶴旧鎮守府倉庫施設(通称・舞鶴赤レンガ倉庫群)」。

国道挟んで向かい側の小高い場所に防空監視哨が残っています。

DSC_0094.jpg

赤マーカー地点。

DSC_0095.jpg

向かい側にある赤レンガ倉庫。


      京都府・舞鶴の防空監視哨跡     

舞鶴の防空監視哨 データ

所在地:京都府舞鶴市北吸
座 標:N35°28′27″E135°22′58″
標 高:8m
(座標、標高はグーグルアースから)

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京都府・二十連隊練兵場跡地 [├場所]

   2016年6月訪問 2021/12更新  

無題8.png
撮影年月日 1947/11/03(昭22)(USA R524-2 41)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


京都府福知山市にあった「二十連隊練兵場」。

■「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)

の中で「京都府立福知山中學校(当時)にグライダー部があり、歩兵第二十聯隊練兵場を滑空場として使用していた」

とありました。

この情報はアギラさんから頂きました。アギラさんありがとうございましたm(_ _)m

DSC_0089.jpg

赤マーカー地点。


      京都府・二十連隊練兵場跡地     

二十連隊練兵場 データ

設置管理者:陸軍
所在地:京都府福知山市堀
座 標:N35°17′09″E135°07′49″
標 高:28m
着陸帯:470mx400m
面 積:16.0ha
(座標、標高、着陸帯長さ、面積はグーグルアースから)

沿革
1940年10月 この頃滑空場として使用

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この記事の資料:
「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(アギラさんから)


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豊岡(円山川)滑空場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2016年6月訪問 2021/12更新  

無題7.png
1932年(リスト番号103-3-12 図名 城崎)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


兵庫県豊岡市にあった「豊岡(円山川)滑空場」。

■「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)

の中で、「豐岡中學校グライダー部、豐岡商業學校學友會(当時)が豐岡滑空場を使用していた」とありました。

この情報はアギラさんから頂きました。アギラさんありがとうございましたm(_ _)m

で、この「豊岡滑空場」なのですが、現在のところ場所が絞り込めておりません。

上のマップは現時点で「ここか、あそこが怪しい」という程度のものですのでご了承くださいませ。

 

別資料なのですが、「S13(1938) 円山川河川敷にグライダー豊岡滑空場」という記録があり、

この記録から、「豊岡滑空場は円山川河川敷にあった」ことが判明しました。

また、更に別の資料では「豊岡の円山川滑空場」という記載があり、

「豊岡滑空場」と「円山川滑空場」という、二つの滑空場が存在したとも考えられるのですが、

どちらも「豊岡」で「円山川」という限定的な場所であることから、

狭い範囲に二つの滑空場があった。というよりは、

「豊岡滑空場」=「円山川滑空場」の可能性が強いのではないかと(オイラ個人は)考えます。

前述の通り、豐岡中學校と豐岡商業學校が当滑空場を使用していた訳ですが、

豐岡中學校は現・兵庫県立豊岡高等学校のことで、上の地図で黄色マーカーの位置にあります。

1938年の資料に当滑空場が出てくるので、

最も近い1932年の地図で豊岡高校近くの丸山川をアップにしたのが先頭の地図です。

この地図で見る限り、立野大橋の右岸北側、左岸南側の二か所が滑空場適地に見えます。

ということで、この二か所を南北推定位置としました。

正確な場所をご存知の方からの情報お待ちしておりますm(_ _)m 

DSC_0083.jpg

赤マーカー地点。

立野大橋の右岸北側。

DSC_0086.jpg

青マーカー地点。

立野大橋の左岸南側。

このどちらかの河川敷でグライダーが飛んでいたと思うのですが。。。


      兵庫県・豊岡(円山川)滑空場跡地     

豊岡(円山川)滑空場 データ

設置管理者:大日本飛行協会?
種 別:滑空場
・北側推定位置
所在地:兵庫県豊岡市梶原
座 標:N35°32′51″E134°49′46″
標 高:3m
着陸帯:900m
方 位:16/34

・南側推定位置
所在地:兵庫県豊岡市大磯町
座 標:N35°32′14″E134°49′49″
標 高:3m
着陸帯:1,250m
方 位:02/17
(座標、標高、着陸帯長さ、方位はグーグルアースから)

沿革
1938年    円山川河川敷にグライダー豊岡滑空場という記録あり
1940年10月 この頃滑空場として使用

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この記事の資料:
「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(アギラさんから)


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湖山飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2016年6月訪問 2021/12更新  

無題6.png
撮影年月日 1947/09/23(昭22)(USA R507-4 20)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


鳥取県鳥取市にある湖山池。

かつでここに湖山飛行場があり、昭和初期に水上機で兵庫県の城崎、島根県の松江と結んでいました。

この飛行場のことは情報が非常に限られていて、特に場所をピンポイントで絞り込むことがなかなかできませんでした。

湖山池南岸にある「湖山池情報プラザ」(青マーカー)の展示物でやっと場所が判明したのでした。

 

現在の鳥取空港は1967年に開港しました。

それ以前は、現空港のすぐ南側に市営飛行場があり、1957年~1964年まで使用していました。

湖山飛行場の歴史はそれよりずっと早く、1932年から城崎便を運航していましたから、

現在の鳥取空港の南約3kmにあるここ湖山飛行場から、鳥取県の民間航空輸送の歴史は始まったことになります。

 

昭和6年6月、日本海航空社長が着水地を求めて鳥取にやって来ました。

当初は千代川河口と湖山池の二か所が候補地だったのだそうです。

そして昭和7年、日本海航空株式会社により、兵庫県城崎~湖山池間の水上飛行機が運航されるようになり、

昭和8年より城崎~鳥取間に定期便を開始しました。

更にその後 城崎→鳥取→松江→鳥取→城崎のコースで飛ぶようになり、「空のタクシー」と称されたのだそうです。

日本海航空はその後も路線を広げていったのですが、昭和11年に逓信省から「松江~大阪定期航空路放棄」要請を受け、

国策統制が強くなり、この年から業績が落ち込みました。

そして昭和14年の末、一切の現品を大日本航空輸送に引き渡し、翌年の1月臨時株主総会により解散が決議され、

こうして日本海航空はその短い歴史を閉じたのでした。

DSC_0064.jpg

湖山湖東岸に残る飛行場桟橋跡。

定期便の就航にあたり、湖山飛行場の位置は、湖山池北岸から東岸のこの場所へと移動したのだそうです。

先頭の航空写真は、日本海航空解散から7年後のものですが、既に桟橋は跡形もなく、

道路のようなものが認められるのみで、桟橋は早々に撤去されてしまったようです。




      鳥取県・湖山飛行場跡地     
米子でも海岸部への飛行機誘致の動きがあったのですが、叶わなかったのだそうです 

湖山飛行場 データ
種 別:水上飛行場
所在地:鳥取県鳥取市桂見
座 標:N35°30′10″E134°10′12″
(座標はグーグルアースから)

沿革
1931年06月 日本海航空社長、鳥取へ。市役所にて航空座談会
     09月 遊覧飛行実施
1932年    兵庫県の城崎便開設

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この記事の資料:
湖山池情報プラザ展示物


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鳥取砂丘滑空場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2016年6月訪問 2021/12更新  

無題3.png
1947年9月当時の写真(USA M497 17)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


鳥取県鳥取市の鳥取砂丘。

ここは戦前からグライダー初心者の養成地として全国でも有名な滑空場でした。

戦時中は大日本飛行協会の支部が設置され多くの人が滑空訓練を行ったのだそうです。

■「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)

の中で、「鳥取第二中學校校友會滑空部、京立第一工業學校グライダー研究部が鳥取砂丘を滑空場として使用していた」

とありました。

この情報はアギラさんから頂きました。アギラさんありがとうございましたm(_ _)m

鳥取砂丘は東西16kmにも及ぶ広大な場所で、末恒、湖山、浜坂、福部の4エリアに分かれています。

そして特に浜崎砂丘に昭和十七年、中国地方唯一の滑空訓練所が設けられました。

鳥打山の護国神社附近がグライダーの発射地点になったのだそうです。

DSC_0045.jpg

赤マーカー地点。

護国神社附近。

海抜85m。

ちょうど砂丘を見下ろせる場所です。

この辺りからグライダーを打ち出していたんですね~。

DSC_0047.jpg


      鳥取県・鳥取砂丘滑空場跡地     

鳥取砂丘滑空場 データ

種 別:滑空場
所在地:鳥取県鳥取市浜坂
座 標:N35°32′25″E134°13′21″
標 高:1~60m
着陸帯:3,000m?
(座標、標高、着陸帯長さはグーグルアースから)

沿革
1933年    岡山の山本勲氏が自作セコンダリーで4分間滞空
1940年10月 現在 鳥取第二中學校校友會滑空部、京立第一工業學校グライダー研究部が滑空訓練
        鳥取クライダークラブが発足し、訓練を開始
1942年   浜坂砂丘に中国地方唯一の滑空訓練所。大日本飛行協会の鳥取支部格納庫

関連サイト:
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この記事の資料:
「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(アギラさんから)


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鳥取県・鳥取県立博物館 [├場所]

   2016年6月訪問 2021/12更新  


3.png
1/25000「鳥取北部」昭和7年測図「今昔マップ on the web」より作成

無題5.png
1947年9月当時の写真(USA R507-4 23)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


鳥取県鳥取市にある「鳥取県立博物館」。

ここはかつて「米子公設グラウンド」でした。

■「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)

の中で、「縣立米子中學校(当時)にグライダー部があり、米子公設グラウンドを滑空場として使用していた」

とありました。

この情報はアギラさんから頂きました。アギラさんありがとうございましたm(_ _)m

DSC_0040.jpg


      鳥取県・鳥取県立博物館     

鳥取県立博物館 データ

所在地:鳥取県鳥取市東町2丁目124
座 標:N35°30′29″E134°14′10″
標 高:12m
(座標、標高はグーグルアースから)

沿革
1940年10月 この頃滑空場として使用

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「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(アギラさんから)


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鳥取練兵場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2016年6月訪問 2021/12更新  


2.png
1/20000「鳥取市」明治30年測図「今昔マップ on the web」より作成
無題6.png
撮影年月日1947/09/28(USA R511-1 116) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


鳥取県鳥取市にかつて「鳥取第四十連隊練兵場」がありました。

■防衛研究所収蔵資料:「昭和10年11月 刊行 中国及四国地方不時着陸場 水路部」

の中に、当練兵場の地図が出ていました。

先頭のグーグルマップは、そこから作図しました。

昭和10年当時、当練兵場は南西側が飛び出す形で、着陸場が設けられていたんですね。

同資料の情報を一部引用させて頂きます。

鳥取練兵場(昭和10年2月調)
鳥取県鳥取市立川村(鳥取市南東部)

着陸場の状況
高さ 平均水面上約10米。
広さ及形状 本練兵場は元北西-南東約450米、北東-南西約380米の略
短形地なりしが其の後西隅付近より西方に昭和9年10月拡張工事完成せる長
さ約150米、幅約100米の地域あり・着陸地域は図示の長さ東西約550米、幅
南北約75米の長方形地区なり(付図参照)。
地表の土質 粘土。
地面の状況 傾斜及起伏なき平坦地にして堅硬なり・全面に芝及丈低き雑
草類を生ず・降雨降雪共に山陰地方特有の状態を呈するも芝密生しあるを以て
地面破壊の所なし・場内に幅約1米、深さ約1米の3條の排水暗渠を設けあ
り、此の上面は厚さ約15糎の花崗岩の蓋石を以て覆われ地表と略同一面にし
て此の蓋石は空中より白色に視認し得・排水は概して良好にして豪雨に際し急
速に排水し得ざる箇所あるも車輪没入の所なし・排水暗渠の両側に雨水の為小
なる溝を生ずることあり。
場内の障碍物 着陸地域内にはなし・場内北西隅付近に障碍通過場及鉄条
網等を構築しある歩兵用陣地あり・此の東側に講堂及高さ約6米の記念樹(松)
あり・中央排水暗渠は稍障碍と為るべし・南東隅に長さ約60米、幅約30米の
露天馬場あり。
適当なる着陸方向 東又は西。
着陸上注意すべき点 空中より白色に視認し得る中央排水暗渠の北側に之
に沿い着陸するを適当とす。
其の他
本練兵場は軍用機及民間機等屡使用す。
 

資料の地図は昭和10年のもの、上の航空写真はそれから12年後のもので、

着陸場の真ん中にトラックらしきものが設けられる等、昭和10年の時とは様子が異なっているようなんですが、

引用部分によりますと、昭和9年10月の拡張工事により、方形から飛び出す形になったんですね。

また、「排水暗渠が白い石蓋で覆われているため視認可能」とのことですが、

地図にもこの暗渠が描かれていました(上の航空写真の赤矢印)。

平行する2つは、丁度着陸場に沿って設けられています。

そのため航空写真でも、この排水暗渠の白線を目安に、滑走路がどんな風に伸びていたのか、

ある程度想像がつくようになってます。

其の他の項目には、軍用機、民間機が屡(しばしば)使用す。とあります。

■「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、

「鳥取第二中學校(当時)に校友會滑空部があり、鳥取第四十聯隊練兵場を滑空場として使用していた」とありました。

この情報はアギラさんから頂きました。アギラさんありがとうございましたm(_ _)m

また1917年、当練兵場でアート・スミスによる曲芸飛行も行われたのだそうです。

DSC_0037.jpg

赤マーカー地点。


      鳥取県・鳥取練兵場跡地     

鳥取練兵場 データ

設置管理者:陸軍
所在地:鳥取県鳥取市立川村(現・鳥取市立川町6丁目)
座 標:N35°29′09″E134°15′00″
標 高:10m
着陸帯:550mx75m
(座標はグーグルアースから)

沿革
1917年    アート・スミスによる曲芸飛行
1934年10月 拡張工事により、550mx75mの着陸場設置
1940年10月 この頃滑空場として使用 

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この記事の資料:
「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(アギラさんから)
防衛研究所収蔵資料:「昭和10年11月 刊行 中国及四国地方不時着陸場 水路部」


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