アメリカ・マジックバレーリージョナル空港 [├海外の空港、飛行場]
2017年1月作成(データは作成時のものです)

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アイダホ州ツインフォールにある「マジックバレーリージョナル空港」。
2,653mと983m、二本の滑走路を有する空港です。
空港のサイト自体はわりと充実しているのですが、独立した空港公式サイトは存在しないようで、
ツインフォール市公式サイト内に空港のページがあります。
(この時はまだ(空港は専用サイトを持つのが当たり前)と思っていた)
アメリカ・マジックバレーリージョナル空港
マジックバレーリージョナル空港 データ
設置管理者:City & County of Twin Falls
種 別:公共用
3レター:TWF
4レター:KTWF
標 高:4,154 ft / 1,266 m
標 点:42°28′54″N 114°29′16″W
滑走路:
8,703ft(08/26) アスファルト
3,224ft(12/30) アスファルト
関連サイト:
City of TWIN FALLS/Airport■
Wiki/Magic Valley Regional Airport■
1月・高萩飛行場跡地へ。 [■旅行記]
1947年の航空写真で、高萩飛行場の格納庫、格納庫前のコンクリ舗装面がクッキリと写っているため、
きっちり測ってグーグルマップに作図してみました。
先入観に惑わされないように、グーグルの地図上に線を引き、完成したところで航空写真モードに切り替えてみると…
7組ある格納庫とコンクリ舗装面のうち、4番目と5番目の地割の一部が完全に一致したのでした(@Д@)オオ
ここは自宅から30分程の所なので、行こうと思えばいつでもサッと行けるんですが、
方向的に普段向かわない場所なこともあって、なんとなくズルズルと先延ばししてしまい、
1月下旬にやっと(いろいろ用事を済ませつつ途中で)、現地にお邪魔してきたのでした。
新たに記事は作らず、過去記事「旧陸軍高萩飛行場跡地」に追記の形でまとめましたので、
興味のある方はご覧くださいませ■
いいお天気でした☆
(おわり)
アメリカ・ポカテッロリージョナル空港 [├海外の空港、飛行場]
2017年1月作成(データは作成時のものです)

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アイダホ州ポカテッロにある「ポカテッロリージョナル空港」。
第二次大戦時、陸軍飛行場だったものを使用している空港です。
二本の滑走路と、滑走路と見紛う誘導路一本で巨大な三角形を形成しており、
空港諸施設は三角形の外側にあります。
一辺の長さ2~3kmの三角形の内側はほとんど使用せず、ただ平地が広がるだけ。
そして周辺に広がる無数の緑丸。
日本ではおよそ考えられない土地の使い方ですね~。
公式サイトによれば、
乗客は、月曜日から金曜日の朝、正午便(祝日を除く)の保安検査場内で、
トレジャー・バレーのコーヒー無料サービスが受けられます。
更に、無料WiFi、無料靴磨きスタンド、ウォーターステーション、無料貸出図書館までそろっており、
主要旅行ウェブサイトで2015年に6番目に優れた空港に選ばれたのだそうです。
まあ、快適!
アメリカ・ポカテッロリージョナル空港
ポカテッロリージョナル空港 データ
設置管理者:City of Pocatello
種 別:公共用
3レター:PIH
4レター:KPIH
標 高:4,452 ft / 1,357 m
標 点:42°54′35″N 112°35′45″W
滑走路:
9,060ft(03/21) アスファルト
7,150ft(17/35) アスファルト
沿革
1943年 空軍爆撃機(B-17、B-24)訓練基地として建設
1949年 ポカテッロ市、空港建設のため取得
関連サイト:
公式サイト■
Wiki/Pocatello Regional Airport■
アメリカ・マウンテンホーム空軍基地 [├海外の空港、飛行場]
2017年1月作成(データは作成時のものです)

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アイダホ州マウンテンホームにある「マウンテンホーム空軍基地」。
4,117mという非常に長い滑走路を擁しています。
2016年1月現在のグーグルマップには、エプロンに9機のF-15が映っている他、
6機収容(と思われる)の細長いシェルターが9棟あります(@Д@)
1943年8月開設され、空軍の訓練基地となり、
1945年8月の日本降伏により、任務変更となりました。
アメリカ・マウンテンホーム空軍基地
マウンテンホーム空軍基地 データ
設置管理者:United States Air Force
種 別:軍用
3レター:MUO
4レター:KMUO
標 高:2,996 ft / 913 m
標 点:43°02′37″N 115°52′21″W
滑走路:
13,508ft(12/30) アスコン
沿革
1942年11月 着工
1943年08月 7日 開設
関連サイト:
Wiki/Mountain Home Air Force Base■
アイダホ・アイダホフォールズリージョナル空港 [├海外の空港、飛行場]
2017年1月作成(データは作成時のものです)

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アイダホ州アイダホフォールズにある「アイダホフォールズリージョナル空港」。
アイダホ州では前記事の「ボイジー空港」に続き、2番目に忙しい空港です。
ロッキー山脈の麓(という表現でいいのか知りませんけど)にある標高の非常に高い空港です。
日本で最も標高の高い空港は、長野県の松本空港(657.5m)なのですが、
当空港の標高はナント1,446 mもあります(XДX)
松本空港の標高でも、離陸に制限が付き運用にいろいろ苦労があるのですが。。。
空港東側には、広い庭付きの住宅が整然と、まるでゲーム画面のように広がっています。
これがアメリカの「住宅街」なんですかね~。
アイダホフォールズリージョナル空港
アイダホフォールズリージョナル空港 データ
設置管理者:City of Idaho Falls
種 別:公共用
3レター:IDA
4レター:KIDA
標 高:4,744 ft / 1,446 m
標 点:43°30′49″N 112°04′15″W
滑走路:
9,002ft(02/20) アスファルト
4,051ft(17/35) アスファルト
関連サイト:
公式サイト■
Wiki/Idaho Falls Regional Airport■
アメリカ・ボイシ空港 [├海外の空港、飛行場]
2017年1月作成(データは作成時のものです)

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アイダホ州ボイシの「ボイシ空港」。
軍民共用空港で、アイダホ州にある他のすべての空港より多くの利用客があるのだそうです。
米国森林局の空中消防用エアタンカーの拠点でもあります。
1938年当時、ボイジー空港の8,800ft(2,682m)滑走路は全米最長のものでした。
第二次世界大戦中は、B-17、B-24爆撃機の訓練基地となった空港でもあります。
・訓練用B727-100(N275FE)について
RWY28Lの南東約3kmに滑走路らしきものがあり(Wikiによれば、空港の第三滑走路)、
滑走路東側エンドにエンジンのついていない奇妙な旅客機が映っています。
フェデックス寄贈のB727で、様々な機関により訓練用に使用されているのだそうです。
アメリカ・ボイシ空港
ボイシ空港 データ
設置管理者:City of Boise
種 別:公共用
3レター:BOI
4レター:KBOI
標 高:2,871 ft / 875 m
標 点:43°33′52″N 116°13′22″W
滑走路:
10,000(10L/28R) アスファルト
9,763(10R/28L) アスファルト
沿革
1926年 現ボイジー州立大学キャンパスに初の市営空港建設
1936年 現在の場所に空港用地購入
関連サイト:
公式サイト■
Wiki/Boise Airport■
アメリカ・レウィストン・ネッズパースカウンティ空港 [├海外の空港、飛行場]
2017年1月作成(データは作成時のものです)

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アイダホ州レウィストンにある「レウィストン・ネッズパースカウンティ空港」。
約2,000mと1,500m、二本の角度の異なる滑走路がクロスせずに設置されています。
流石アメリカ。
公式サイトトップページには、
「高度が低く乾燥した気候のため気象条件に恵まれており、
2013年にアメリカ全空港の中で第2位のオンタイム記録を出した」
とありました。
Wikiによれば当空港の標高は440mで、これを「低い」と言って良いのかどうか、個人的には微妙な気がするのですが、
周辺空港との相対的な標高なのかもしれません。
同HPでは、「1944年の設立以来」とあり、歴史ある空港のようです。
アメリカ・レウィストン・ネッズパースカウンティ空港
レウィストン・ネッズパースカウンティ空港 データ
設置管理者:City of Lewiston &Nez Perce County
種 別:公共用
3レター:LWS
4レター:KLWS
標 高:1,442 ft / 440 m
標 点:46°22′28″N 117°00′55″W
滑走路:
6,511ft(08/26) アスファルト
5,002ft(12/30) アスファルト
沿革
1944年 設立
関連サイト:
公式サイト■
Wiki/Lewiston–Nez Perce County Airport■
アメリカ・ウォータールーリージョナル空港 [├海外の空港、飛行場]
2017年1月作成(データは作成時のものです)

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アイオワ州ウォータールーにある「ウォータールーリージョナル空港」。
約2,500m~1,600mの3本の滑走路、誘導路、ターミナルが非常に独特な配置の空港です。
公式サイトHPには、「アメリカン航空のシカゴ発着便を毎日2回運航しています」とあり、
定期便はこれだけのようです。
3本の立派な滑走路を有する空港としては非常に意外な気がします。
HPでは続けて、当空港はアクセスが簡単で、安全性が高く、快適な乗客待機エリアを提供していることが記されています。
「物は言いよう」のような気もしますが。。。
オイラはローカルな雰囲気大好きですけどね。
アメリカ・ウォータールーリージョナル空港
ウォータールーリージョナル空港 データ
設置管理者:City of Waterloo
種 別:公共用
3レター:ALO
4レター:KALO
標 高:873 ft / 266 m
標 点:42°33′25″N 092°24′01″W
滑走路:
8,400ft(12/30) アスファルト
6,002ft(18/36) アスファルト
5,403ft(06/24) アスファルト
関連サイト:
公式サイト■
Wiki/Waterloo Regional Airport■
アメリカ・スーゲートウェイ空港コロネル・バッド・デイ・フィールド [├海外の空港、飛行場]
2017年1月作成(データは作成時のものです)

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アイオワ州スーシティにある「スーゲートウェイ空港コロネル・バッド・デイ・フィールド」。
軍民共用の空港です。
2017年1月現在、グーグルマップには、
KC-135(フライングブームの影が見えてる)が2機、駐機しているのが映ってます。
Wiki/Sioux Gateway Airport の History によれば、
「スーシティ軍基地の建設は、1942年3月、日本の真珠湾攻撃の約3カ月後に始まった。ここはB-24、B-17の乗組員のための主要な訓練センターになった。」
とあります。
両機は太平洋戦線で使用されましたから、Wkiki英語版がわざわざ真珠湾に触れている通り、
対日開戦が建設の発端になった空港なのかもしれません。
戦後は一旦閉鎖されたものの、空軍準備基地として使用されたと説明があります。
ただ、いつから民間機も乗り入れるようになったのか、「スーゲートウェイ空港」の後に続く「コロネル・バッド・デイ・フィールド」
とは一体何なのか、ナゾな空港です。
スーゲートウェイ空港コロネル・バッド・デイ・フィールド
スーゲートウェイ空港コロネル・バッド・デイ・フィールド データ
設置管理者:Sioux Gateway Airport Authority
種 別:公共用
3レター:SUX
4レター:KSUX
標 高:1,098 ft / 335 m
標 点:42°24′09″N 096°23′04″W
滑走路:
9,002(13/31) コンクリート
6,600(17/35) アスファルト
沿革
1942年03月 スーシティ軍基地着工
1942年07月 5日 完成
1945年12月 スーシティ軍基地閉鎖
1946年09月 空軍準備基地として開設
関連サイト:
公式サイト■
Wiki/Sioux Gateway Airport■
アメリカ・メーソンシティ市営空港 [├海外の空港、飛行場]
2017年1月作成(データは作成時のものです)

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アイオワ州メーソンシティにある「メーソンシティ市営空港」。
約2,000m、1,700m 2本の滑走路を有する市営空港です。
沿革にもまとめましたが、当空港は1945年3月に供用開始しました。
一方その頃日本では。。。
1945年に市で立派な空港作っちゃうんだからすごいですね。。。
アメリカ・メーソンシティ市営空港
メーソンシティ市営空港 データ
設置管理者:City of Mason City
種 別:公共用
3レター:MCW
4レター:KMCW
標 高:1,214 ft / 370 m
標 点:43°09′28″N 093°19′52″W
滑走路:
6,501ft(18/36) アスファルト
5,502ft(12/30) アスファルト
沿革
1942年 2月2日 メーソン市、新規空港建設を決議
1945年 3月29日 供用開始
関連サイト:
公式サイト■
Wiki/Mason City Municipal Airport■
アメリカ・フォート・ダッジ・リージョナル空港 [├海外の空港、飛行場]
2017年1月作成(データは作成時のものです)

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アイオワ州フォート・ドッヂにある「フォート・ダッジ・リージョナル空港」。
1,996mと1,616m 2本の滑走路を持つフォート・ドッヂ市営の公共空港です。
2010年の統計では、運航数:19,700、当空港を定置場としている航空機:24 でした。
アメリカ・フォート・ダッジ・リージョナル空港
フォート・ダッジ・リージョナル空港 データ
設置管理者:City of Fort Dodge
種 別:公共用
3レター:FOD
4レター:KFOD
標 高:1,156 ft / 352 m
標 点:42°33′04″N 094°11′31″W
滑走路:
6,547(06/24) アスファルト
5,301(12/30) アスファルト
関連サイト:
公式サイト■
Wiki/Fort Dodge Regional Airport■
アメリカ・ダビュークリージョナル空港 [├海外の空港、飛行場]
2017年1月作成(データは作成時のものです)

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アイオワ州ダビュークにある「ダビュークリージョナル空港」。
2本の2,000m滑走路を有する市営地域空港です。
アメリカ・ダビュークリージョナル空港
ダビュークリージョナル空港 データ
設置管理者:City of Dubuque
種 別:公共用
3レター:DBQ
4レター:KDBQ
標 高:1,077 ft / 328 m
標 点:42°24′07″N 090°42′34″W
滑走路:
6,327ft(18/36) コンクリート
6,502ft(13/31) コンクリート
関連サイト:
公式サイト■
Wiki/Dubuque Regional Airport■
アメリカ・デモイン国際空港 [├海外の空港、飛行場]
2017年1月作成(データは作成時のものです)

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アイオワ州デモインにある「デモイン国際空港」。
2本の2,700m滑走路を持つ市営空港です。
アメリカ・デモイン国際空港
デモイン国際空港 データ
設置管理者:City of Des Moines
種 別:公共用
3レター:DSM
4レター:KDSM
標 高:958 ft / 292 m
標 点:41°32′02″N 093°39′47″W
滑走路:
9,003ft(05/23) アスファルト/コンクリート
9,002ft(13/31) アスファルト
沿革
1932年 着工
1933年 完成
関連サイト:
公式サイト■
Wiki/Des Moines International Airport■
アメリカ・ダベンポート市営空港 [├海外の空港、飛行場]
2017年1月作成(データは作成時のものです)

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アイオワ州ダベンポートにある「ダベンポート市営空港」。
毎年6月の最後の週末にエアショーが実施されています。
アメリカ・ダベンポート市営空港
ダベンポート市営空港 データ
設置管理者:City of Davenport
種 別:公共用
3レター:DVN
4レター:KDVN
標 高:753 ft / 230 m
滑走路:
5,500ft(15/33) コンクリート
4,000ft(03/21) コンクリート
沿革
1948年 開設
1987年 この年から「クアドシティエアショー」の拠点となる
関連サイト:
公式サイト■
Wiki/Davenport Municipal Airport■
アメリカ・イースタン・アイオワ空港 [├海外の空港、飛行場]
2017年1月作成(データは作成時のものです)

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アイオワ州シーダーラピッズにある市営空港「イースタン・アイオワ空港」。
沿革にもまとめましたが、公式サイトによれば、当空港は1920年代初期に設立された私有飛行場から始まっており、
気象条件の問題から1947年に現在地に移転したのだそうです。
イースタン・アイオワ空港
イースタン・アイオワ空港 データ
設置管理者:City of Cedar Rapids
種 別:公共用
3レター:CID
4レター:KCID
所在地:Cedar Rapids, Iowa,US
標 点:41°53′04.9″N 91°42′38.9″W
標 高:869.4ft/264.9m
滑走路:
8,600ft(09/27) Concrete
6,200ft(13/31) Asphalt/Concrete
沿革
1920年代初期 私有飛行場設立
1928年 航空便開始
1947年 現在地に移転
関連サイト:
公式サイト■
Wiki/Eastern Iowa Airport■
アメリカ・サウスイースト・アイオワ・リージョナル空港 [├海外の空港、飛行場]
2017年1月作成(データは作成時のものです)

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アイオワ州バーリントンにある「サウスイースト・アイオワ・リージョナル空港」。
2,000mと1,600m の滑走路を擁する地域空港です。
2009年には20,172機の航空機が運航しました。
2016年11月現在、単発機38機、双発機1機、ジェット機2機、ウルトラライト1機の計42機が当空港を定置場にしています。
サウスイースト・アイオワ・リージョナル空港
サウスイースト・アイオワ・リージョナル空港 データ
設置管理者: Southeast Iowa Regional Airport Authority
種 別:公共用
3レター:BRL
4レター:KBRL
所在地:Des Moines County, Iowa, United States
標 点:40°46′59″N 091°07′32″W
標 高:698ft/213m
滑走路:
6,701ft(18/36) Asphalt
5,351ft(12/30) Concrete
沿革
1931年 開港
関連サイト:
公式サイト■
Wiki/Southeast Iowa Regional Airport■
アメリカ・アンドルーズ空軍基地 [├海外の空港、飛行場]
2017年1月作成(データは作成時のものです)

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メリーランド州キャンプスプリングスにある「アンドルーズ空軍基地(アンドルーズ統合基地)」。
ワシントンD.C.に最も近い空軍基地であり、大統領専用機(Boeing VC-25)の本拠地です。
また日本国政府専用機をはじめとする他国要人の専用機もお立ち寄りの際はこの基地を利用するのだそうです。
「大統領専用機」ということで、うっかり「エアフォース・ワンの本拠地です」とか書きそうになるのですが、
こういう王道ネタはマ○ア様がツッコミを入れようと手ぐすね引いて待ってますので要注意です(o ̄∇ ̄o)フフ
アンドルーズ空軍基地
アンドルーズ空軍基地 データ
設置管理者:米空軍
種 別:空軍飛行場
3レター:ADW
4レター:KADW
所在地:メリーランド州キャンプスプリングス
標 点:38°48′39″N 076°52′01″W
標 高:280ft/85m
滑走路:
9,300ft(01L/19R) Concrete
9,755ft(01R/19L) Asphalt/Concrete
沿革
1945年 開設
関連サイト:
Wiki/Joint Base Andrews■
アメリカ・ワシントン・ダレス国際空港 [├海外の空港、飛行場]
2017年1月作成(データは作成時のものです)

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ヴァージニア州ダレスにある「ワシントン・ダレス国際空港」。
Southern Airways Express 、United Airlines のハブ空港です。
9,400ft~11,500ftの滑走路を4本も擁しており、しかもそのうちの3本は 01/19の平行滑走路のため、
この3本の滑走路の両端には、ランウェイナンバーと共に、L,C,R がペイントされています。
上のグーグルマップ、センターの滑走路にポイントしてあります。
興味のある方は是非、滑走路に沿って上か下にスクロールしてみて下さい。
エンド部分に、"1C" 若しくは、"19C" とペイントしてあります(これ見よがしに)。
…流石航空大国アメリカ。。。
ワシントン・ダレス国際空港
ワシントン・ダレス国際空港 データ
設置管理者:Metropolitan Washington Airports Authority
種 別:公共用
3レター:IAD
4レター:KIAD
所在地:Dulles and Chantilly, Virginia, U.S.
標 点:38°56′40″N 077°27′21″W
標 高:313 ft / 95 m
滑走路:
9,400 feet(1L/19R)
11,500 feet(1C/19C)
11,500 feet(1R/19L)
10,500 feet(12/30)
沿革
1962年11月17日 開港
関連サイト:
公式サイト■
Wiki/Washington Dulles International Airport■
アメリカ・ロナルド・レーガン・ワシントン・ナショナル空港 [├海外の空港、飛行場]
2017年1月作成(データは作成時のものです)

SkyVector.com
バージニア州アーリントンにある「ロナルド・レーガン・ワシントン・ナショナル空港」。
首都に最も近い空港で、アメリカン航空が拠点にしています。
空港公式サイト内の Runways によれば、当初は、
N-S 6,855ft NW-SE 5,210ft NE-SW 4,892ft E-W 4,100ft
の4本の滑走路があったのですが、1956年に E-W 4,100ft滑走路が閉鎖され、誘導路、駐機場になりました。
その後工事が行われ、現在では、
01/19 6,869ft 15/33 5,204ft 04/22 4,911ft の3本の滑走路で運用されています。
とのことです。
各滑走路の長さについては、英語版Wikiと微妙に異なるのですが、ここでは公式サイト内の数字を使用させて頂きました。
ロナルド・レーガン・ワシントン・ナショナル空港
ロナルド・レーガン・ワシントン・ナショナル空港 データ
設置管理者:Metropolitan Washington Airports Authority
種 別:公共用
3レター:DCA
4レター:KDCA
標 点:38°51′08″N 077°02′16″W
標 高:5m
滑走路:
(01/19)6,869ft Asphalt
(15/33)5,204ft Asphalt
(04/22)4,911ft Asphalt
沿革
1941年 開設
関連サイト:
公式サイト■
Wiki/Ronald Reagan Washington National Airport■
朝霞訓練場離着陸場跡地 [├国内の空港、飛行場]
2016年12月訪問 2022/2更新

①撮影年月日1946/02/13(昭21)(USA M44-A-5VT 37)■ 接収から5ヵ月後。まだ滑走路無し
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成。以下5枚とも)

②撮影年月日1947/12/29(昭22)(USA R741 132)■ 滑走路出現
②白矢印部分拡大
③撮影年月日1979/11/14(昭54)(CKT794 C4A 12)■ 細長い舗装滑走路になる。
埼玉県朝霞市膝折と新座市新座市新塚にまたがる「陸上自衛隊朝霞訓練場」。
ここに戦後~1980年代半ばまで小さな滑走路がありました。
現在の朝霞駐屯地、元々は日本陸軍予科士官学校であり、朝霞訓練場はこの士官学校の演習場でした。
そして終戦の年早々、士官学校、演習場とその周辺、川越街道の反対側も含めて接収を受け、
「キャンプ・ドレイク」 となりました。
①の航空写真(1946年2月撮影)にはまだ滑走路はないですが、次に閲覧可能な1947年5月撮影の写真
(USA M300 8)から滑走路が写ってます(この写真は鮮明でないので使いませんでした)。
ということでこの小さな滑走路は、1946年3月~1947年5月の間に建設されたことになります。
先頭のグーグルマップ水色のシェイプ(435mx34m)は、②の航空写真から作図しました。
■板橋ハ晴天ナリ。様から頂いた情報
・キャンプ・ドレイクで撮影された輸送機の写真がある
・ベトナム戦争当時、傷病兵や戦死兵がベトナムから輸送され、ここからヘリで米軍野戦病院のある王子まで送られた
との情報を頂きました。
ということで③の航空写真で見ると、一気に見違えましたね。
ベトナム戦争(~1975年)当時の航空写真だと分割したものになってしまうため、
便宜的に1979年の航空写真を貼っていますが、滑走路、周辺の地割は基本的に1975年のままです。
白矢印~白矢印までで545mx12mなのですが、赤矢印まで目一杯直線部分を使うと、650mになります。
余談ですが、軽井沢では、終戦後に米軍将校とその家族がセスナ機で東京から訪れました。
軽井沢に設けられた滑走路は標高1,000m近くにあり、
標高が高いとエンジン出力と揚力が低下するため余分に長い滑走路が必要なんですが、
それでも使用されたのは450m滑走路でした(下記リンク参照)。
それからすると、545mあれば大きな輸送機はムリでも小さい輸送機なら運用できたんじゃないでしょうか。
④撮影年月日1979/11/14(昭54)(CKT794 C4A 13)■
■佐藤様から頂いた情報頂
航空路図誌・低高度版(防衛庁 1980年1月発行)に以下情報あり
北緯35度47分00秒、東経139度35分57秒。
長さ1148ft幅39ft。方位04/22。L-19型機オンリーの条件付き
との情報を頂きました。
赤矢印はこの資料通りの座標位置なのですが、この周辺に滑走路らしきものは見当たりません。
この座標情報のうち、経度の秒の部分を、57→13 とし、
北緯35度47分00秒、東経139度35分57秒。
北緯35度47分00秒、東経139度35分13秒。
とすると、白矢印部分になります。
長さ1148ft幅39ft は、メートルに換算すると、350mx12m となり、
これは白矢印の直線部分と比較すると、長さは余裕で範囲内に収まり(545mx12m)、幅はピッタリ一致します。
方位も同じ。
ということで、同資料が示しているのはここのことで、秒の部分は誤植ではないか。
というのがオイラの個人的な意見です。
また佐藤様からは、
同誌1988年7月発行版には当該滑走路が登場しないこと、
L-19型機は1986年に退役していることから、1980年半ばごろに目的替えとなったのではないか。
と情報頂きました。
Wiki:朝霞駐屯地 にも、
かつては「朝霞訓練場離着陸場」の名称で小型の連絡機(L-21 パイパーなど)の発着に用いられていた
周辺住民には「朝霞の飛行場」等と呼ばれていた
現在は中央観閲式会場として使用
とありました。
ということで、戦後早々の時期~1980年代半ばまで、米軍、自衛隊の小型機に使用されていたのでした。
板橋ハ晴天ナリ。様、佐藤正孝様、貴重な情報ありがとうございましたm(_ _)m
(敷地外からですが)一応滑走路南側
埼玉県・朝霞訓練場離着陸場跡地
朝霞訓練場離着陸場 データ
設置管理者: 防衛庁
種 別:陸上飛行場
所在地:埼玉県朝霞市、新座市
座 標:N35°47′00″E139°35′13″?
標 高:40m
滑走路:350mx12m(佐藤さんより情報:L-19型機オンリーの条件付)
方 位:04/22
(標高はグーグルアースから)
沿革
1945年 終戦。接収され、キャンプ・ドレイクとして整備される
1946年 この頃滑走路建設される(435mx34m)
1970年 この頃拡張工事(最大650mx12m)
1980年代半ばに廃止
浦和(埼玉第一)飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]
2016年12月訪問 2022/7更新
撮影年月日1944/09/28(891 C2 66)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
埼玉県さいたま市、志木市にあった「浦和(埼玉第一)飛行場」。
■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行
の中で、「本邦飛行場一覧(昭和十三年十月現在)」非公共用飛行場 として以下記されていました(9コマ)■
名 称 埼玉第一飛行場
経営者 埼玉義勇飛行會
所在地 埼玉縣入間郡宗岡村荒川河川敷
水陸の別 陸
滑走区域 東西四〇〇米 南北八〇〇米
備 考 (記載無し)
■防衛研究所収蔵資料:「S14.10 航空路資料 第3 其の3 関東地方飛行場及不時着陸場 水路部」
の中に、当飛行場の情報がありました。
以下一部引用させて頂きます。
浦和飛行場
埼玉県入間郡宗岡村荒川河川敷(志木町の北東方約2.5粁)
着陸場の状況
高さ 平均水面上約3米。
広さ及形状 本飛行場は長さ南北約600米、幅東西約300米の不規則なる
半円形地区(総面積約15,8萬平方米)なり・着陸地域は荒川右岸概ね図示の
如き長さ約400米、幅約200米の台形地区なり(付図参照)。
地表の土質 砂混り粘土。
地面の状況 本場は秋ヶ瀬と称する河原に在り荒川右岸砂洲の発達せる河
川敷にして昭和12年4月重さ約4屯の「ローラー」を以て転圧整地し飛行場
とせしものなり・場内の滑走路は舗装を施しあらざるも一帯に堅硬平坦にして
起伏なし但し東方部に稍軟弱なる箇所あり・大出水氾濫の際は場全面浸水し之
が為土砂堆積又は陥凹地を生ずることあり・場内一面に芝、雑草類密生す・排
水施設としては西側道路に沿い南北に簡単なる粗朶式暗渠を埋没し場内の雨水
を排水する設備あるも地表は多少東側に下り傾斜あり却って西側の水田の水浸
透し地盤低き西側部分は常に湿地又は凸凹地をなす場内の傾斜少く排水良好な
らず・炎天続くときは地表乾燥し粘土部分は高度を増し却って好結果を興う・
降雨後は地表軟弱と為り多少凸凹をなす箇所あるも着陸には支障を来たす程度
にあらず又冬季霜解の際は稍泥濘と為るも砂地は土質の関係上変化せず・毎年
二三回荒川出水氾濫し本河原一帯浸水することあるも減水後地面の状況は大な
る変化なし。
場内の障碍物 着陸区域内の東方に凸凹あり。
適当なる離着陸方向 北北西又は南東。
着陸上注意すべき点 場内の東側及西側道路付近は不整地なり又降雨に際
しては場内処々に水溜りを生ずることあり・付近に護岸堤防の設けあるを以て
着陸の際注意を要す。
施設 格納庫1(高さ約8米、間口約7米、奥行約14米)、宿舎(高さ約
8米、間口約4米、奥行約14米)、事務室兼休息室(高さ約2米、間口約6米、
奥行約4米)、国旗掲揚柱兼吹流柱(高さ約13米)・場の略中央付近東より西
に向い地名標識「サイタマ1」(白色コンクリート文字板)と記名標示す。
其の他
本飛行場は昭和12年7月非公共用陸上飛行場として設置せられたるものにし
て埼玉県北足立郡志木町埼玉義勇飛行会(役場内)の経営なるも近く帝国飛行
協会に移管せられ諸施設の整備に努むる計画あり・設置期間は昭和12年2月
至同17年2月5箇年間となり・目下埼玉県中等学校総合「グライダー」練習
場にして格納庫内に滑空機3機あり・埼玉県当局は飛行場設置の際施設費とし
て金2,000円を補助せり・昭和13年6月所沢陸軍飛行連隊此地に於て演習を
行い飛行機本場に着陸せしも損傷なかりしと言う。
■防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料 関東地方飛行場及不時着場 昭和18.8 」
にも当飛行場の情報がありました。
以下引用させて頂きます。
第9 浦和飛行場 (昭和17年12月調)
管理者 大日本飛行協会埼玉支部(埼玉県庁内)。
位置 埼玉県入間郡宗岡村字秋ヶ瀬、荒川右岸河川敷。
(浦和市南西方4.8粁、北緯35°50′2、東経139°36′2)。
種別 非公共用陸上飛行場。
着陸場の状況
高さ
平均水面上約3米。
広さ及形状
本場は総面積15.6萬平方米にして長さ北西-南東最大750米及長さ南北
650米、幅東西最大350米の半円形地域なり・着陸地域は概ね図示の長さ
北西-南東最大550米、幅東西250米の梯形地区なり(付図参照)。
地表の土質
砂混り粘土。
地面の状況
着陸地域内は約4噸の「ローラー」を以て転圧せる堅硬地なり・地表は極
めて平坦なるも全般的に東方河岸に向け極めて緩除なる下り片勾配を有す
・一面に良好なる芝及雑草密生す・降雨後は処々に水溜を生じ地盤稍軟弱
となる箇所あるも排水良好なるを以て乾燥速なり・晴天続きの際は硬度を
増し好結果となる・冬季霜柱の発生を見るも離着陸上支障となる程度なら
ず・毎年夏秋の候2-3回荒川河水の場内に浸水することあるも減水後の
地面の状況は大なる変化なしと言う。
場内の障碍物
なし。
適当なる離着陸方向
冬季は北北西、夏季は南南東。
離着陸上注意すべき点
場の東側河岸及北西方に護岸堤防(4-7)米、南方400米に高さ50米の
高圧送電線鉄塔あり、何れも障碍となるを以て注意を要す。
施設
格納庫(間口15米、奥行15米、高さ8米、現在大小滑空機13収容)1・
二階建宿舎(事務所及講堂を含む)1・倉庫1棟あり。
昼間標識 吹流(高さ13米)1あり。
夜間標識 なし。
周囲の状況
堤防
付近に山岳、丘陵等の障碍物なく地貌極めて平坦にして河岸を除き四周は
広濶なる水田地帯なるも場の東側河岸及北西端付近に高さ4-7米の堤防
存在し東西方向は稍狭隘を感ず、北方は開闊なり。
樹林
場の西端及東方荒川対岸処々に高さ約5米の樹林点在するも特に障碍とな
らず。
電線
場端より南方約160米に高さ8米の普通電線、南方600米に略東西に架設
せる高さ50米の高圧送電線鉄塔あり、何れも障碍となるを以て特に注意
を要す。
河川
場の東側に沿い河幅約80-90米、深さ1-1.5米内外の荒川あり、南東流
して東京湾に注ぐ、本河は小型蒸気船程度の運航可能にして本場付近に常
時砂利採取船輻輳す・西方約2.3粁に南流する新河岸川と称する荒川支流
あり。
橋梁
南方約300米に高さ10米の荒川秋ヶ瀬橋(コンクリート造)あり。
建築物
北西端付近に格納庫(高さ8米)、宿舎(高さ約10米)、吹流柱(高さ13
米)等の飛行場付属建物あり、其の他付近に障碍となる建築物なし。
着目標
荒川、志貴町、荒川秋ヶ瀬橋(コンクリート造)、格納庫、吹流。
地方の状況
警察署及役場
浦和警察署(浦和市仲町)北東方約5粁、宗岡村駐在所(宗岡村字下の谷)
西方約2粁・宗岡村役場(宗岡村字下の谷)西方約2粁。
医療
志木町に医院5、浦和市に病院8及医院34あり。
宿泊
場内に宿舎の設備あり、志木町に旅館1(収容員数計10)、浦和市に同5
(収容員数計100)あり。
清水
場外格納庫付近に井戸あり・付近の民家に水質良好なる井戸多数あり。
応急修理
志木町に三枝自動車修理店、浦和市に鈴木自動車電機工業所、佐藤鉄工所
及鈴木鉄工場等あり、何れも一時的応急修理程度ならば可能なり。
航空需品
志木町、浦和市より少量の自動車用「ガソリン」を需むることを得・浦和
市に関東瓦斯会社あり、液化燃料を研究中なりと言う。
交通、運輸及通信
鐡道及電車
浦和駅(省線電車)北東方約6粁、志木駅(東上線)南西方約4粁。
乗合自動車
浦和駅-志木駅間に定期乗合自動車便あり、最寄停留所は秋ヶ瀬橋(南方
400米)なり。
道路
場の南方約400米を東西に通ずる浦和、調布線(幅5米)と称する県道あ
り、東は秋ヶ瀬橋を経て浦和市方面へ、西は志木町を経て所沢町方面に通
ず・本道路を乗合自動車運行す。
舟艇
荒川は東京港と埼玉県とを結ぶ水路にして常時小蒸気船及50噸程度の砂
利取船運航す。
運送店
志木町に東上通運株式会社志木支店(貨物自動車3、三輪自動車5)、及
志木駅付近に朝霞合同運輸有限会社(貨物自動車30)等あり・浦和市に日
本通運株式会社浦和支店(貨物30、乗用車5)あり。
電信及電話
付近になし・志木郵便局(西方約2.6粁)、浦和郵便局(北東方約6粁)、
何れも電信及電話を取扱う。
気象
測候所
浦和観測所(浦和市)北東方約4.5粁。
地方風
流行風は冬季は北風、夏季は南風なり。
天候
浦和測候所に於ける昭和6-10年5箇年間の月別統計次の如し。(以下月別データ省略)
地方特殊の気象
7,8月頃雷雨多く進行方向は北西-南東に進む傾向多し・5月頃降雹あり
・12月より翌年3月間降雪あり。
低気圧の発達せるもの日本海にあるときは南風一般に強し・冬季北寄りの
風は特に猛烈にして気流不良なり。
夏季南風の際は所沢地方一帯は層雲に蔽わるること多きも山口貯水池、入
間川流域及川越市上空は切間多し。
荒川、入間川に河霧発生し局地的に視界を害することあり。
其の他
1. 昭和13年6月所沢陸軍飛行隊此の地に於て演習の際本場を使用し又昭和
17年秋陸軍航空士官学校練習機1機及民間機夫々本場を使用の際何等の支
障なく離着陸せりと言う。
2. 本場は昭和12年7月非公共用飛行場として設置を許可せられたるものに
して目下埼玉県下中等学校滑空練習場として主用せられつつあり。
3. 大出水氾濫の際は場内に土砂堆積し且処々に陥没地を生ずることありと言
う。
同資料に「浦和飛行場」の付図がありました。
それによれば、現存する「宗岡第二号横提」の丁度上に吹き流し(A:青マーカー)が、
そして横提の下流側(B:黄マーカー)に格納庫、宿舎、事務所兼休息所、炊事場がありました。
「横提」とは耳慣れない言葉ですが、川の流れに対して、通常とは異なり直角に築く堤防のことです。
この上に諸施設が建設されましたので、余程の洪水にならない限り、流されることはなかったはず。
沿革にもまとめましたが、
昭和12年に埼玉義勇飛行会の「埼玉第一飛行場」として設置許可、
後に帝国飛行協会に経営者変更となり、その後「浦和飛行場」に名称変更しました。
水路部作成の地図には、三日月型の河川敷内が飛行場として示されています。
そして河川敷内に特に「飛行適地」の線が引かれており、上のマップはその通りの線を引きました。
川の流れが変わってしまい、現在飛行場跡地はほとんど川底ですね。
飛行場の敷地は最大でも500m程度で、ここを拡張して首都北部の防空用飛行場とする構想があったのですが、
戦局の悪化により実現しませんでした。
■志木市発行の資料、「Shiki ity 2015.8 戦後 70周年 平和への願い」の中で当飛行場のことが取り上げられており、
「秋ヶ瀬飛行場で細田学園生徒による勤労奉仕(昭和19年)」という写真と共に、
「現在の秋ヶ瀬取水堰近くに秋ヶ瀬飛行場があり、主に入隊前の訓練生がグライダーの訓練を行っていました。今も残されている荒川の横提を背に、格納庫などが作られ、その南側に飛行場が広がっていたといいます。」
と記されていました。
記事中にある通り、地元では「秋ヶ瀬飛行場」、「秋ヶ瀬浦和飛行場」とも呼ばれていたようです。
右岸側(赤マーカー)から。
最初は飛行場敷地で現在も河川敷が残っている左岸から撮ろうと思ったのですが、
造成中でダンプが行き交っており、近づけませんでした。
埼玉県・浦和(埼玉第一)飛行場跡地
浦和(埼玉第一)飛行場 データ
管理者:埼玉義勇飛行会→帝国飛行協会→大日本飛行協会埼玉支部(埼玉県庁内)に改組
種 別:非公共用陸上飛行場
飛行場:600mx300m半円形地区
面 積:15.8ha(昭和18年8月水路部資料では15.6)
着陸地域:400mx200m台形地区(昭和18年8月水路部資料では550mx250m)
所在地:埼玉県入間郡宗岡村字秋ヶ瀬荒川河川敷(現・埼玉県志木市宗岡、さいたま市桜区下大久保)
座 標:N139°36′02″E35°50′02″
標 高:3m
沿革
1937年04月 4屯ローラーで転圧整地し飛行場とする
07月 30日 埼玉義勇飛行会の埼玉第一飛行場として逓信省より設置許可(非公共用)
1938年06月 所沢陸軍飛行連隊の演習で当飛行場を使用
1939年03月 15日 財団法人帝国飛行協会に経営者変更
1940年01月 12日 浦和飛行場に名称変更
1942年秋 陸軍航空士官学校練習機1機、民間機が当飛行場を使用
関連サイト:
首都圏における飛行場と都市計画(pdf)■
Wiki/浦和飛行場■
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
「Shiki ity 2015.8 戦後 70周年 平和への願い」
防衛研究所収蔵資料:「S14.10 航空路資料 第3 其の3 関東地方飛行場及不時着陸場 水路部」
防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料 関東地方飛行場及不時着場 昭和18.8 」
戸田橋滑空場跡地 [├国内の空港、飛行場]
2016年12月訪問 2022/1更新
撮影年月日 1944/11/07(昭19)(8921 C5 105)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
東京都板橋区荒川河川敷にあった「戸田橋滑空場」。
■「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、
「東京府立第一商業學校々友會滑空部、東京府立第六中學校校友會滑空部、東京府立電気工業學校航空部、大成中學校航空部、帝國商業學校航空部、明治中學校々友會航空部、城西學園中學校グライダー部、杉並工業學校航空部(当時)が、滑空場として使用していた」とありました。
この情報はアギラさんから頂きました。アギラさんありがとうございましたm(_ _)m
たくさんの学校が使用していたのですね(@Д@)
沿革にもまとめましたが、ネット上でも昭和14年~17年まで当滑空場に関する記録があり、
「…文部省の通牒にもとづき、昭和14年7月25日から27日まで第三、四、五学年生徒358名が戸田橋滑空場において抜根作業に従事…」とありました。
実は当滑空場の位置につきましては、名称から「戸田橋の近くにあったんだろう」。ということしか手がかりがありません。
橋の上流下流、右岸左岸で4か所が候補となりますが、当時の航空写真で見る限り、まとまった更地になっているのが
上のグーグルマップに作図した通り、戸田橋の下流右岸側のみのため、
恐らくここだったのではないかと。
そして地表面の色が周囲と異なっている場所を囲ってみました。
赤マーカー地点(2枚とも)。
東京都・戸田橋滑空場跡地
戸田橋滑空場 データ
種 別:滑空場
所在地:東京都板橋区舟渡2丁目荒川右岸
座 標:N35°47′54″E139°41′27″?
標 高:2m?
面 積:43.4ha?
着陸帯:1,200mx400m
(座標、標高、面積、着陸帯長さはグーグルアースから)
沿革
1939年07月 抜根作業
1940年 各学校が使用
1942年02月 格納庫から出火
関連サイト:
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)
東京国際空港(1952~) [├国内の空港、飛行場]
2016年3月訪問 2022/2更新
撮影年月日 1956/03/06(昭31)(USA M288 66)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
前記事の続きです。
先頭のグーグルマップは比較のため日本海軍当時の飛行場敷地を重ねてみました。
終戦と共に接収された「ハネダエアベース」でしたが、
1952年に米軍から運営移管を受け、運輸省所管の「東京国際空港」に名称変更を果たします。
羽田は1958年に全面返還されるので、上の写真はその2年前のものです。
「閲覧可能な返還前の羽田の写真」としては、現在最古のものです。
(リスト番号 o205 測量年 1957)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
全面返還の前年、1957年測量の地図。
「東京国際空港」と表題がついており、北西~南東方向の大きな滑走路は「主滑走路」、
小さい滑走路は、「副滑走路」、滑走路がクロスした南側の赤い部分は「空港ビル」と記されています。
1947年の写真と1956年の写真を比較すると、「主滑走路」の両端が延長しています。
ご存知の通り、1984年から始まった「沖展」で羽田空港は大きく変貌を遂げた訳ですが、
それでもこうして見てみると、
1945年以降米軍が拡張した滑走路、誘導路の痕跡がビックリするほど色濃く残っていました。
特に T-6 から F-TWY にかけての辺り。
コンパスエリアから、スポット956~951 にかけてもそうですね。
「沖展」により、1988年7月に新A滑走路が、そして2000年3月に新B滑走路が供用開始し、
こうして1946年以来拡張工事を続けつつ使用して来たに「ハネダエアベース」当時の滑走路は全て閉鎖されました。
現在は全て沖合方向に移動した新規滑走路を運用している訳ですが、
それでも滑走路の方向は、AとC滑走路が騒音対策で若干の変更をした(15/33→16/34)ものの、
B滑走路はハネダエアベース当時と同じ。
管理する国が変わっても、時代が変わっても、風向きは変わらないんですね。
「沖展」については以前記事にまとめましたので、興味のある方はご覧くださいませ■
一連の「羽田空港生誕100周年記念記事」はこれにて終了です(2017年に入っちゃったけど)。
東京都・東京国際空港
設置管理者:運輸省
種 別:公共用
所在地:東京都大田区
座 標:N35°33′19″E139°45′43″
A滑走路:2,133m×45m(15/33)
B滑走路:1,676m×45m(04/22)
(座標はグーグルアースから)
沿革
1952年07月 米軍より運営移管。滑走路2,133m、1,676m。東京国際空港に名称変更。運輸省所管となる
10月 日本航空、DC-4 3機で自主運行を開始(札幌線、大阪線、東京~大阪~福岡線)
11月 エールフランス、スーパーコンステレーションで南回り欧州線乗り入れ
1953年12月 日ペリと極東航空の大阪定期便(貨物)開始
1954年01月 極東航空、DH.104ダブで大阪線旅客、貨物便開設。
日本航空初の国際定期便サンフランシスコ線開設。日ペリ、大阪定期便開設
06月 A滑走路 2,500mに延長
1955年06月 空港ターミナルビルとハイランド給油施設完成
1956年03月 航空管制業務を米軍より移管
1957年03月 敷地約1万坪、日本側に返還
1958年07月 航空交通菅政権を米軍から移管
1959年05月 拡張工事。北側第一工区
1960年12月 東京国際空港騒音対策委員会初会合
1961年 A滑走路 3,000mに延長
02月 ILS稼働
1963年07月 国際線ターミナルビル拡張工事落成式
1964年02月 C滑走路3,150mx60m新設
08月 首都高1号線(羽田線)開通
09月 国内線到着専用ターミナル完成。浜松町~羽田空港間にモノレール開通
関連サイト:
「序 調査の目的と範囲-大田区ホームページ」(pdf)■
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
「日本民間航空史話」
「全国空港ウォッチングガイド」
「東京100km圏の戦時飛行場 関東飛行場の地歴図集」
ハネダエアベース(1945~1952) [├国内の空港、飛行場]
2016年3月訪問 2022/1更新
撮影年月日 1946/04/09(昭21)(USA M99-A-5 35)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
前記事の続きです。
前述の通り、日本飛行学校(と対岸に建設された「三本葭飛行場」)が開設された羽田の地は、
10年の空白期を経て再び日の目を見ることとなり、1931年に「東京羽田飛行場」として再スタートを切りました。
その後拡張、名称の変更を遂げるのですが、終戦と共に米軍に接収されてしまいます。
米軍は海老取川以東を強制立ち退きにしました。
大田区のサイトによれば、約3,000人が強制退去させられたのだそうです。
上の写真、終戦の翌年1946年のものですが、大規模な造成工事を行っている様子がよく分かりますね。
「東京飛行場」時代の十字型滑走路の痕跡が辛うじて残るのみで、
「東京羽田飛行場」時代の300m滑走路は、もうすっかり塗り潰されてしまいました(;´Д⊂)
それでも、格納庫等関連施設群、鴨猟場の辺りはほとんどそのまま残っています。
うんと内陸部である群馬県の帝国飛行協会所有の小さな小さな飛行場でさえ、
わざわざ飛んで行って機銃掃射で徹底的に壊滅させたのからすると、
帝都海軍飛行場の建物群がキレイな状態で終戦を迎えたのは、非常に不思議です。
初めから占領後に使用するつもりだったのでしょうか。
撮影年月日 1947/07/24(昭22)(USA M376-No2 7)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
そして終戦から2年後。こんなことになっておりますΣ(゚Д゚;)
滑走路右下が見切れてますが、この年は羽田の写真が沢山撮られているものの、全体を映したものがないんですよね^^;
日本海軍の「東京飛行場」は、当時の国内の他の飛行場と比較しても特別大きなものではなかったのですが、
一気に大規模化したのもさることながら、どこまでも続く細長い滑走路、平行誘導路、
滑走路端にペイントされたランウェイナンバー等、
すっかり現代の飛行場かと見紛うばかりの変貌ぶりです。
戦勝国主導の"グローバルスタンダード"ってヤツですね。
蛇足ですが、欧米列強は戦後の航空界の覇権を握るべく、
時に協調し、時に相手を出し抜こうと極秘裏に事を進め、
既に終戦前の早い時期から、あらゆる分野で猛烈な勢いで次々手を打っていました。
この写真で見る限り、建物群は戦時中のものをそのまま流用しているケースが多いようですが、
三角形の鴨猟場は潰されて駐機場になってしまいました。
日本海軍当時の滑走路はもう跡形もありません。
鴨猟場の南側の地区もすっかりエアペース化してしまいましたね。
■「全国空港ウォッチングガイド」によれば1946年6月にはもう工事が完了しており、
工事内容としては、2,100mと1,650mという、2本のアスファルト舗装滑走路新設、
エプロン、駐機場、管制塔、事務所、宿舎等の建設が含まれています。
一部完全に海面だった部分を埋め立てての飛行場造成ですから凄いです(@Д@)
…なんだか、まざまざと見せつけられる思いです。
■「羽田空港 D 滑走路建設に込め られた 地盤工学の知恵と技術」
というサイトに非常に興味深い記事がありました(下記リンク参照)。
要約しますと、終戦まで羽田飛行場は「京浜運河計画」の関係で拡張ができず、東京の空の玄関たる国際空港は、
現在の夢の島に建設予定の「東京飛行場」が大本命であった、というものです。
「京浜運河計画」は1911年8月に初めて認可され、紆余曲折を経た後、
1939年に東京府は工費4,500万円をもって京浜運河開削と892haの臨海工業地帯用の埋め立て造成を着工しました。
計画の全体についてはググって頂くとして、この「京浜運河」は、
できたばかりの羽田飛行場の沖をグルリと取り囲むように計画されていたため、これ以上の拡張に制約がついていました。
羽田の飛行場の東側に島がありましたが、羽田飛行場とこの島を隔てた東貫澪も、
「京浜運河計画」の運河として設定されていました。
また、この島の更に東側も「京浜運河計画」の太い運河として設定されています。
この 「京浜運河計画」は、羽田空港沖合展開後の現在のABCの3滑走路全てを包含し、
D滑走路だけが運河の範囲外という規模のものでした(一部引っかかってるけど)。
要するに、羽田飛行場には海側に拡張の余地が全くと言って良い程ありませんでした。
飛行場などよりも、運河と臨海工業用地の埋め立て事業が優先された訳で、これについて同サイトでは、
「当時は工業の発展が強く求められた時代背景がある」と解説されています。
この運河計画のせいで羽田は拡張の余地がなく、一方で航空機の大型化は飛行場の面積の拡大を必要としました。
加えて羽田は都心から15kmもあったことから、
より都心に近接した砂町(現・夢の島)に大規模な飛行場が計画されました。
「15km(も)離れている」という感覚が、「…エ?」という感じなんですが、
羽田から15kmだと、皇居の北側の辺りになります。
この場所まで砂町からだと9kmなので、確かに近いです。
ところが連合軍は羽田を接収してこの 「京浜運河計画」の制限をいとも簡単にとりはらい、
上の航空写真にある通り、羽田と東側の島を隔てた東貫澪をあっさりと埋立てて滑走路を建設してしまいました。
これにより計画されていた運河計画は崩れてしまい、羽田の飛行場面積は一挙に3.5倍に拡張したのでした。
終戦と共に即接収され、大規模拡張を受けた「ハネダエアベース」は、1958年に全面返還されます。
それでも、それまでの間米軍の軍用機で飛行場が占拠されていたのかというとそんなことはなく、沿革にまとめましたが、
早くも1947年にあのパンナムが世界一周路線を開設し、コンステレーションが飛来したのを皮切りに、
ノースウエスト、フィリピン航空、カナダ太平洋航空、英国海外航空、スカンジナビア航空、
タイ太平洋航空等の航空会社が、コニーの他、DC-4、DC-6等で続々と飛来し、路線開設してゆきます。
日本も徐々に制限が解除され、1951年に日本航空がチャーター機運用を開始、
その後定期便運航路線を徐々に開設してゆき、
ついに1952年には米軍より運営移管を受け、運輸省所管の「東京国際空港」に名称変更することになります。
「東京国際空港」については、次の記事で。
東京都・ハネダエアベース
設置管理者:米軍
種 別:軍用
所在地:東京都大田区
座 標:N35°33′19″E139°45′43″
面 積:257.4ha
A滑走路:2,100m×45m(15/33)
B滑走路:1,650m×45m(04/22)
(座標はグーグルアースから)
沿革
1945年09月 接収。拡張工事。
1946年06月 工事完了。2,100m、1,650m滑走路新設、エプロン、駐機場、管制塔、事務所、宿舎等。米1307部隊駐屯
1947年06月 パンナム、世界一周路線開設。コンステレーション到着
07月 ノースウエスト航空、DC-4で乗り入れ
1949年01月 フィリピン航空、DC-6で乗り入れ
09月 カナダ太平洋航空、DC-4で乗り入れ
10月 パンナム、サンフランシスコ線開設
11月 英国海外航空、乗り入れ
1951年04月 スカンジナビア航空、DC-6Bで乗り入れ
05月 タイ太平洋航空、DC-4で乗り入れ
08月 日本航空がフィリピン航空からチャーターしたDC-3「金星」到着
10月 日本航空、ノースウエスト委託運航で戦後初の定期運航開始
1番機はマーチン202。東京~大阪~福岡線就航
11月 日本航空、札幌線、大阪線開設
12月 KLM、コンステレーションで南回り欧州線開設。国内旅客用ターミナル完成。
民航空運公司(台湾)、DC-4で乗り入れ
1952年06月 カンタス航空、DC-4で乗り入れ
07月 米軍より運営移管。滑走路2,133m、1,676m。東京国際空港に名称変更。運輸省所管となる。
関連サイト:
「序 調査の目的と範囲-大田区ホームページ」(pdf)■
羽田空港 D 滑走路建設に込め られた 地盤工学の知恵と技術■
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
「日本民間航空史話」
「全国空港ウォッチングガイド」
「東京100km圏の戦時飛行場 関東飛行場の地歴図集」
東京飛行場(1940~1945) [├国内の空港、飛行場]
2016年4月訪問 2022/4更新
撮影年月日 1944/11/14(昭19)(8926 C2 13)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
前記事の通り、1931年に約300mの滑走路1本で開場した「東京羽田飛行場」でしたが、
■「序 調査の目的と範囲-大田区ホームページ」(下記リンク参照)によれば、
1940年に拡張工事を行い、名称が「東京羽田飛行場」→「東京飛行場」に変更となりました。
■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」
に 東京飛行場がありました。
同資料の情報を以下記させて頂きます。
所在地及位置
東京市蒲田区羽田江戸見町
東経一三九度四五分
北緯 三五度三三分
管理者及経営者住所氏名
國
地形
面積、滑走路並に滑走区域
二一万坪 東西八〇〇米南北八〇〇米混合式乳剤簡易舗装にしてL字型滑走区域
は滑走路に添ふ東西一〇〇〇米芝草地域にして平時全面使用し得
土質、高低差並に地表面状態
砂地の上に真土と砂を混合せるものを敷き転圧す 中心に於て千
分の二「テーバー」を有す 滑走区域の地表面は概ね平均にし
て舗装せる滑走路以外の地表面には芝草密生す
付近状況並に使用上の注意其の他
東北は海に西側は川を隔て南及西南側は直接工場及民家密
集す
排水不十分の為降雨直後に於ては滑走路以外の離着陸を禁ずることあり
気象
恒風
真北より五度東寄り
晴雨日数
晴六二日 曇一四八日 霧六四日 雨九一日
雨期並に暴風期
六、七月
一、八、九月
地方特殊の気象状況其の他
一日中風向の変化著しく朝北、十時頃東、午後南となる又冬期
北西、北西の微風の時霧の発生すること多し
周囲の地理
市街村落
南側は川を隔て、西南及南側には工場並に民家密集す
煙突、鉄塔並高建築物
煙突街工物多々あり但し高度制限法公布後は同法の規定により
制限しあり
山岳森林
周囲に山岳、森林なし場周北及東側に高さ一米長さ四〇〇米宛の防波堤あり
河湖 沼小流
南側に接して沼二個あり西側に接して海老取り川(川幅約二七
〇)ありて之に合流する小川三本あり
電線、高圧線
三三〇〇ボルト用高圧線及高さニ〇米と一〇米の無線アンテナあり
保安施設
気象観測設備
風信儀(平均風速の測定)風向指示器
詳細は中央気象台東京飛行場気象観測所に委託す
有線無線設備
一、羽田無線電信局(場内)
一、檢見川送信所(千葉市檢見川町)
一、岩槻受信所(埼玉縣岩月町大字岩槻)
一、東京航空無線標 局(千葉縣印幡郡臼井町)
照明設備
夜間照明施設完備
救護設備
乗用自動車(平時業務も含む)
救急箱 一個
自転車 二台(平時業務用)
其の他航空に関する重要設備並能力
飛行場草刈機 二台
浮標 二
錨 四
■「海軍航空基地現状表(内地の部)」でも1940年建設、滑走路(1,000mx75m)x2とあり、
■日本海軍航空史:「終戦時の内地航空隊、航空基地」でも滑走路(1,000mx75m)x2の海軍飛行場として図示されています。
羽田空港は一時期、海軍の飛行場だった時代があるのですね。
「全国空港ウォッチングガイド」には「滑走路は800x80mの2本を十字型に配置」とありました。
上の写真は拡張工事から4年後のもの。
最初の細い滑走路がまだ残ってますね。
■防衛研究所収蔵資料「関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18年8月刊行 水路部」の中に、
当飛行場の付図があり、上に貼った航空写真に赤字で情報を加えました。
先頭のグーグルマップもこの資料の付図から作図しました。
上述の通り、滑走路の長さは資料により、(1,000mx75m)x2とも、(800x80m)x2とも記されているのですが、
先頭の航空写真の通りに作図してターニングパッドを含めると、(830mx70m)x2でした。
飛行場敷地が南側に拡張した結果、 「三本葭飛行場」時代の飛行学校まであと150mのところまで迫っています。
また、敷地南東部分は、B滑走路、誘導路T-3,T-4,T-5まで達しています。
同水路部資料に当飛行場の情報がありました。
以下引用させて頂きます。
第13 東京〔羽田〕飛行場 (昭和18年4月調)
管理者 航空局東京支局長。
位置 東京市蒲田区羽田江戸見町。
(六郷川河口の北方1.8粁、北緯35°33′0、東経139°45′6)。
種別 公共用陸上飛行場。
着陸場の状況
高さ
平均水面上約2.6米。
広さ及形状
本場は総面積69.4萬平方米にして長さ東西970米、幅南北350米及長さ
南北980米、幅東西400米のL字型地域なり・着陸地域は概ね図示の長さ
東西800米及南北800米、幅各60米の互に直交する2条の滑走路を最適
と認むるも風向等に依りては場端より各20乃至50米内方の全地域を使用
するも支障なし(付図参照)。
地表の土質
砂地に尋常土を混ず。
地面の状況
地表は極めて平坦なるも中央部稍高く各周辺に向け1/500の下り勾配を有す
・滑走路を除き一面に良好なる芝及雑草密生す・地盤は概ね堅硬なるも降
雨直後は排水稍不良なるを以て滑走路以外の地域は離着陸を禁止すること
あり。
滑走路は乳剤簡易舗装にして日射及季節に因る影響なき堅硬地なり・場の
東側格納庫の前面に長さ南北350米、幅100米の「コンクリート」舗装の
整備場あり之より滑走路に至る誘導滑走路1條あり・場周に着陸照明燈
(高さ4米)、場周燈及着陸進入燈等の夜間照明設備あり。
場内の障碍物
なし。
適当なる離着陸方向
滑走路方向。
離着陸上注意すべき点
南南東方約1粁に在る高さ60米の煙突2基は極めて障碍となるを以て注
意を要す。
施設
場の南西隅に在る飛行場建物敷地内に霞ヶ浦海軍航空隊東京分遣隊本部、
兵舎・海軍格納庫3・航空局東京支局・大日本航空株式会社支所、同会社
格納庫5・各新聞社格納庫3及其の他の格納庫3・大日本航空株式会社修
理工場1・日立航空機株式会社工場・油庫・発動機試運転場・羅針儀修正
盤1・飛行機計量器1・雲高測定器・航空無線電信局・中央気象台羽田気
象観測所等あり。
昼間標識 吹流(移動式)・空陸連絡信号(布板)・地名標識「トウキヤ
ウ」あり。
夜間標識 航空燈台・着陸照明燈4・場周燈(橙色)・着陸進入燈(緑
色)・障碍物標示燈・岸壁投光器・丁型風向燈・風速燈・夜
間空陸連絡信号(手提燈又は白燈に依る「モールス」信号)等
あり。
周囲の状況
樹林
場の南西方に隣接する鴨猟場の池の周囲に高さ10米、南方穴守神社の境
内に高さ16米内外の各松樹林あり。
堤防
場の北西突角より東方へ350米及南東隅より北方へ300米に亙る場端岸壁
上に高さ1米の「コンクリート」造防波堤あり。
建築物
場の南西隅の飛行場付属建物及格納庫、之に隣接する日立航空機製作所及
東京飛行機製作所工場又南側の道路を隔てて日本夜光塗料会社工場、西方
海老取川対岸の鉄工場等高層建物密集す。
煙突
場内航空局東京支局構内に高さ18米の煙突1基、南西方約700米に高さ
33米の工場煙突3基、南南東方約1粁に高さ60米の煙突2基あり・遥か
西方一帯は密集せる工場地帯にして大小煙突林立す。
着目標
六郷川河口、穴守町、京浜電気鉄道穴守線、格納庫。
地方の状況
軍隊
場内に霞ヶ浦海軍航空隊東京分遣隊本部及兵舎あり。
医療
場内に霞ヶ浦海軍航空隊東京分遣隊医務科あり。
宿泊
場内の霞ヶ浦海軍航空隊東京分遣隊内に約500名収容し得る宿営設備あり。
修理設備
霞ヶ浦海軍航空隊東京分遣隊に地上整備員駐屯す・場内に修理工場及日立
航空機製作所工場等の完備せる修理施設あり。
航空需品
霞ヶ浦海軍航空隊東京分遣隊内に航空用燃料及潤滑油あり。
交通、運輸及通信
電車
稲荷橋駅(京浜電気軌道、品川-穴守間)南西方約1.6粁、穴守駅(同前)
南方約1粁。
乗合自動車
省線蒲田駅(京浜線)より本場正門前(終点)に至る乗合自動車便あり約20
分間隔に運転す。
道路
本場より蒲田町を経て京浜国道に連絡する良好なる舗装道路あり。
航空無線通信所
場内の航空局東京支局内に航空無線通信所あり、気象通報及飛行中の航空
機と交信し気象状況竝に実況報等専ら飛行実用通信を取扱う。
電信及電話
場内に東京中央郵便局分室あり、郵便、電信及電話を取扱う・霞ヶ浦海軍
航空隊東京分遣隊及航空局東京支局に各電話あり。
気象
測候所
場内に中央気象台羽田航空気象観測所あり、地上及航空気象を観測す。
地方風
冬季は北風にして、夏季は南風多きも1日中の風向の変化著しく朝は北風
午前10時前後より東風となり午後南風となる・春及秋季は日中南風にし
て朝夕は北又は北東風なり・一年を通じ西風なし。
中央気象台羽田航空気象観測所に於ける昭和7-16年10箇年間の月別統
計次の如し。(以下月ごとのデータ省略)
天候
雨季は6月中旬より7月中旬に亙る梅雨季と9月中旬の颱風季節の2回な
り・統計に拠れば初雪は12月24日頃にして終雪は3月20日頃なり、
中央気象台羽田航空気象観測所に於ける昭和7-16年10箇年間の月別統
計次の如し。(以下月ごとのデータ省略)
地方特殊の気象
霧は比較的夏及秋季に多く両季を通じ約20日なり・海上煙霧多し・冬季
気温上昇し且北西乃至北北西の微風の時霧の発生すること多し・雷雨は5
月至7月に多し。
気象予察法
気圧配置が雨の型式に非ざる場合にても房総沖に不連続線発生するときは
雨と為る。
其の他
1. 本場は昭和6年8月航空局の設置に係り現在大日本航空株式会社経営の東
京-福岡(福岡を中継地として各線に分岐す)間定期航空路及海陸軍用定
期航空路の起終点飛行場として又帝都各新聞社通信機の発着場として使用
されつつあり。
2. 昭和16年10月本場に霞ヶ浦海軍航空隊東京分遣隊開設せられ目下実用機
の飛行訓練に主用されつつあるも前記民間機の発着頻繁なると且場内稍狭
隘なる為使用上多大の不便を感じつつありと言う。
■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。
基地名:東京 建設ノ年:1940 飛行場
長x幅
米:1000x75x2アスファルト 主要機隊数:小型練2.0 主任務:教育 隧道竝ニ地下施設:指通?土中式燃爆場?分解 掩体:施設アルモ数量不明 其ノ他記事:飛行場ハ逓信省陸軍ト共有建物ハ□□(判別できず)海軍施設
こうして徐々に拡張していった「東京飛行場」だったのですが、終戦と共に米軍に接収されてしまいます。
■「日本民間航空史話」ではその時のことを、ここに飛行場が出現するきっかけとなった相羽氏本人がこう記しています。
「昭和二十年、終戦とともに、米軍命令で、えびとり川以東の穴守一帯は、稲荷神社、数百戸の住居全部が一夜にして立ち退きを強制された。弁天橋と稲荷橋も交通を遮断された。この前代未聞の不測の運命に泣いた方々に、ここに半世紀前に飛行場を創始したことに発端することを顧み、申しわけないと思っている。 」
米軍に接収された「東京飛行場」は「ハネダエアベース」となり、大変貌を遂げることになります。
続きは次の記事で。
東京都・東京飛行場
管理者:航空局東京支局長→海軍
種 別:公共用陸上飛行場
所在地:東京市蒲田区羽田江戸見町(現・大田区羽田空港1丁目)
座 標:N35°33′0″E139°45′6″
標 高:2.6m
面 積:69.4ha
着陸地域:(800mx60m)x2
方 位:09/27,18/36
(方位はグーグルアースから)
沿革
1939年 隣接地を買収して拡張。滑走路十字型に2本新設
1941年10月 霞ヶ浦海軍航空隊東京分遣隊開設
1945年03月 1日 海軍は陸上機の発着に使用(「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」より)
09月 米軍による接収を受け、拡張開始
関連サイト:
「序 調査の目的と範囲-大田区ホームページ」(pdf)■
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
「日本民間航空史話」
「全国空港ウォッチングガイド」
「東京100km圏の戦時飛行場 関東飛行場の地歴図集」
「海軍航空基地現状表(内地の部)」
「終戦時の内地航空隊、航空基地」
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」
防衛研究所収蔵資料「関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18年8月刊行 水路部」
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」
年始のご挨拶 [■ブログ]
前記事で書いた通り、訪問が残っている飛行場/跡地はあと44でして、
実は2016年1月時点では、2017年3月にすべての見学を終えるという計画を立てていました。
ところが昨年7月頃に状況が変わり、
2017年いっぱいまで遠出が難しくなってしまいました。
種子島以南に残っているポイントが18あるのですが、
何かあったとき、即座に自宅に戻る必要があるため、
少なくとも2018年以降でないと、鹿児島、沖縄の離島には行けません(;´Д⊂)
ということで、2017年は「行ってみた」系の記事が激減するのですが、
代わりに「世界の空港」をグーグルマップに頼って記事作ってみようと考えています。
これなら当分ネタに困らないし。
かなりお手軽に記事が作れるのですが、
そのウラで、グーグルマップの不正使用になってしまっている記事の差し替え、
2016年2月に防衛研究所でゲットした資料を記事に反映させたり、
やることはいくらでもありますのだ。
ということで、今年もどうぞよろしくお願い致しますm(_ _)m
とり。