朝鮮・裡里飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]
2017年7月作成 2022/7更新
朝鮮全羅北道金堤郡にあった「裡里飛行場」。
朝鮮総督府管理の昭和17年7月に設置された公共用飛行場で、
朝鮮航空事業社の京城-裡里線の定期航空路の発着場として使用されていました。
なんか左上のヒコーキのマーカーがやけに目立ってますが、これは昭和16年に廃止になった
「旧裡里飛行場」の推定位置で、当記事の主役は右下の三角です。
■朝鮮交通史 1041p
昭和14年現在の飛行場 として、以下記されていました。
飛行場名 裡里(不時着場)
所在地 全羅北道益山郡五山面南山里
滑走地帯(東西・南北)m 375 315
昭和14年現在の飛行場 として、以下記されていました。
飛行場名 裡里(不時着場)
所在地 全羅北道益山郡五山面南山里
滑走地帯(東西・南北)m 375 315
年代、(不時着場)とあることから、これは「旧裡里飛行場」のようですね。
■朝鮮交通史 1041p
日本国内では航空機の進展に順応して、行政機構の設置、関連法令の制定と航空保安施設の整
備が行われていたが、朝鮮では昭和4年の日鮮満を結ぶ定期航空路の開設に伴いようやくこれに
取組むようになったが、しかも急速に整備する必要に追われた。(中略)
定期航空開始に間に合うようこれの寄航地は次のように準備されたが、朝鮮の飛行場建設に当
たり特に留意しなければならぬ要点は
(1)冬期に土壌の凍結がひどいこと
(2)梅雨季には豪雨により地盤が軟弱となったり、飛行場が冠水するおそれがあること
等があったが朝鮮内では適当な候補地を得られないので、これが選定に当たっては相当苦慮させ
られ、施工に当たっても予想以上の困難が伴った。(中略)
終戦までに整備した飛行場の概況は次の通りである。
裡里飛行場 1046p
栄山江河畔に不時着場として設置されていたのを、京城-光州線定期開設に伴い昭和16年6
万坪に拡張し、さらに45万円をかけて拡張整備を行った。同所は上海線、青島線の寄港地と
して一時使用したこともあった。
■防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」
の中で当飛行場について資料があり、地図もあったのですが、
現在とは周辺の様子が大きく変わっており、場所特定に非常に苦労しました。
後述しますが、資料内には飛行場周辺にある大きな湖までの方向と距離もあったのですが、
現在の地図で周辺にそれらしいものは、どんなに探しても見当たりませんでした。
同資料内に出てくる緯度経度情報は、秒が全て0なんですよね。
そのため、(大体この辺)ということしか分からず、地図上に出てくる地名(龍池面、長新里、新井里)と併せ、
おおよその絞り込みしか出来なかったのですが、
上の地図上で滑走路の所に線を引いている紫の道路の線形が資料の地図とグーグルマップでピッタリ重なり、
これが決め手となりました。
資料の地図ではこの道路が「飛行場専用道路」と記されていました。
「至裡里」と記されているこの道路が資料の地図で実線で引かれているほぼ唯一の道路。
この道路を基準に資料地図に描かれている滑走路を重ねてみると、
(ここに、こんな形で滑走路があった。ということが分かっていないと見分けられないレベルなんですが)
グーグルマップ上にある集落の形が三角形に浮かびか上がったのでした。
話は変わりますが、今回一連の朝鮮の飛行場を記事化する過程で、
当時の飛行場を随分と検索したのですが、情報が非常に少ないです。
今はネット上でページ丸ごと翻訳も簡単にできるので、飛行場名をハングル文字で入力すれば、
地元韓国のサイトも簡単に日本語で閲覧できるのですが、日本統治下の飛行場についてはほとんど出てきません。
系統立てた情報もなく、せいぜい朝鮮戦争時の米軍が作成した飛行場符号一覧と、
朝鮮の地図にその符号をプロットしたものがある程度でした(調べ方が悪いのかもですが)。
そんな中、「京城飛行場小史」というサイト様(下記リンク参照)に当飛行場について記されていました。
このサイトはすごいです。
それによれば、
1936年1月13日より京城・裡里(イリ)間にて、週1往復の試験運航を開始したこと、
1938年5月からは週2往復に増便して定期運行を開始し、1939年からは月水金の週3往復になったこと、
京城~裡里 所要時間は1時間、運賃は12円であること
等記されていました(このサイト様は今後も登場します)。
日本国内では航空機の進展に順応して、行政機構の設置、関連法令の制定と航空保安施設の整
備が行われていたが、朝鮮では昭和4年の日鮮満を結ぶ定期航空路の開設に伴いようやくこれに
取組むようになったが、しかも急速に整備する必要に追われた。(中略)
定期航空開始に間に合うようこれの寄航地は次のように準備されたが、朝鮮の飛行場建設に当
たり特に留意しなければならぬ要点は
(1)冬期に土壌の凍結がひどいこと
(2)梅雨季には豪雨により地盤が軟弱となったり、飛行場が冠水するおそれがあること
等があったが朝鮮内では適当な候補地を得られないので、これが選定に当たっては相当苦慮させ
られ、施工に当たっても予想以上の困難が伴った。(中略)
終戦までに整備した飛行場の概況は次の通りである。
裡里飛行場 1046p
栄山江河畔に不時着場として設置されていたのを、京城-光州線定期開設に伴い昭和16年6
万坪に拡張し、さらに45万円をかけて拡張整備を行った。同所は上海線、青島線の寄港地と
して一時使用したこともあった。
■防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」
の中で当飛行場について資料があり、地図もあったのですが、
現在とは周辺の様子が大きく変わっており、場所特定に非常に苦労しました。
後述しますが、資料内には飛行場周辺にある大きな湖までの方向と距離もあったのですが、
現在の地図で周辺にそれらしいものは、どんなに探しても見当たりませんでした。
同資料内に出てくる緯度経度情報は、秒が全て0なんですよね。
そのため、(大体この辺)ということしか分からず、地図上に出てくる地名(龍池面、長新里、新井里)と併せ、
おおよその絞り込みしか出来なかったのですが、
上の地図上で滑走路の所に線を引いている紫の道路の線形が資料の地図とグーグルマップでピッタリ重なり、
これが決め手となりました。
資料の地図ではこの道路が「飛行場専用道路」と記されていました。
「至裡里」と記されているこの道路が資料の地図で実線で引かれているほぼ唯一の道路。
この道路を基準に資料地図に描かれている滑走路を重ねてみると、
(ここに、こんな形で滑走路があった。ということが分かっていないと見分けられないレベルなんですが)
グーグルマップ上にある集落の形が三角形に浮かびか上がったのでした。
話は変わりますが、今回一連の朝鮮の飛行場を記事化する過程で、
当時の飛行場を随分と検索したのですが、情報が非常に少ないです。
今はネット上でページ丸ごと翻訳も簡単にできるので、飛行場名をハングル文字で入力すれば、
地元韓国のサイトも簡単に日本語で閲覧できるのですが、日本統治下の飛行場についてはほとんど出てきません。
系統立てた情報もなく、せいぜい朝鮮戦争時の米軍が作成した飛行場符号一覧と、
朝鮮の地図にその符号をプロットしたものがある程度でした(調べ方が悪いのかもですが)。
そんな中、「京城飛行場小史」というサイト様(下記リンク参照)に当飛行場について記されていました。
このサイトはすごいです。
それによれば、
1936年1月13日より京城・裡里(イリ)間にて、週1往復の試験運航を開始したこと、
1938年5月からは週2往復に増便して定期運行を開始し、1939年からは月水金の週3往復になったこと、
京城~裡里 所要時間は1時間、運賃は12円であること
等記されていました(このサイト様は今後も登場します)。
■朝鮮交通史 1035p
京城-光州線 朝鮮独自のローカル定期航空路としては朝鮮航空事業社による京城-光州線があ
った。
全南、全北地方は朝鮮の穀倉地帯といわれ人口密度も比較的多い地区であったが交通の便が悪
かった。同地方出身の慎鏞項氏の希望もあり同氏の経営する朝鮮航空事業社をして京城-裡里-
光州間の定期航空を開発することとした。
昭和11年10月13日より京城-裡里間の試験飛行を行ない、昭和13年5月より京城-裡里-
光州間週2往復(後に3往復)の定期航空を開始した。使用機は帝国飛行協会より無償貸与を受
けた瓦斯電千鳥号で、乗員1名、乗客2名搭乗できる小型機であった。本路線には試験飛行時代
から奨励金を支給していたが、定期航空になってからは次の奨励金が支給された。本定期航空は
昭和17年まで続いた。
京城-光州線 朝鮮独自のローカル定期航空路としては朝鮮航空事業社による京城-光州線があ
った。
全南、全北地方は朝鮮の穀倉地帯といわれ人口密度も比較的多い地区であったが交通の便が悪
かった。同地方出身の慎鏞項氏の希望もあり同氏の経営する朝鮮航空事業社をして京城-裡里-
光州間の定期航空を開発することとした。
昭和11年10月13日より京城-裡里間の試験飛行を行ない、昭和13年5月より京城-裡里-
光州間週2往復(後に3往復)の定期航空を開始した。使用機は帝国飛行協会より無償貸与を受
けた瓦斯電千鳥号で、乗員1名、乗客2名搭乗できる小型機であった。本路線には試験飛行時代
から奨励金を支給していたが、定期航空になってからは次の奨励金が支給された。本定期航空は
昭和17年まで続いた。
防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」
にあった当飛行場の情報を以下記させて頂きます。
第2 裡里飛行場(昭和18年4月調)
管理者 朝鮮総督府逓信局。
位置 朝鮮全羅北道金堤郡龍池面。
(裡里邑の南南東方約9.5粁、北緯35°51′0、東経126°59′0)。
種別 公共用陸上飛行場。
着陸場の状況
高さ
平均水面上約30米。
広さ及形状
本場は長さ南北700米、東西700米の二等辺三角形地域なり。
着陸地域は概ね図示の長さ南北575米、東西600米及北西-南東700米、
幅各60米の芝敷滑走路を最適とす(付図参照)。
地表の土質
主として眞砂土。
地面の状況
滑走路は植芝密生せる平坦且堅硬地なり・排水設備は地下に盲暗渠を設くるを以て降雨後の乾燥速なり
・其の他の地域は整地せる平坦地なるも降雨後は泥濘と為る
・冬季は地表凍結し解氷期は軟弱と為る・場周に排水開渠あり。
場内の障碍物
なし。
適当なる離着陸方向
恒風の関係上夏季は西、冬季は北。
離着陸上注意すべき点
東端より東方約80米に高さ約1米の台地あり。
施設
格納庫なし・芝敷滑走路3條・事務所(朝鮮総督府逓信局所属)1・転圧機庫1あり。
昼間標識 吹流柱1・場周に境界標識あり。
夜間標識 なし。
周囲の状況
地勢
本場は付近一帯より稍高き丘陵上に在り周囲は概ね本場と同程度の台地なるを以て障碍と為る山岳及丘陵なし。
樹林
周囲に針葉樹林あるも何れも丈低く障碍と為るものなし。
湖沼
本場の周囲に大小湖沼多数あり、最大なるは北西及北東方各約1.4粁に在る南北500米幅約200米の湖水なり。
著目標
裡里邑、道路(郡山-全州間)、鐡道(湖南本線)。北西方付近の沼。
(中略)
其の他
1. 本場は昭和17年7月朝鮮総督府の設置に係る公共用飛行場にして設置後日尚浅く従って諸施設等も完備せざるも目下朝鮮航空事業社の経営する京城-裡里線の定期航空路の発着場として使用中なり。
2. 本場の北西方約10.5粁に在る萬頃江岸の旧裡里飛行場は昭和16年廃止となれり。
朝鮮・裡里飛行場跡地
裡里飛行場 データ
設置管理者:朝鮮総督府逓信局
種 別:公共用陸上飛行場
所在地:朝鮮全羅北道金堤郡龍池面
座 標:N35°51′23″E126°59′17″
標 高:30m
滑走路:575mx60m(18/36)、600mx60m(09/27)、700mx60m(13/21)
(座標はグーグルアースから)
沿革:
1936年10月 13日 慎鏞項氏経営の朝鮮航空事業社、京城-裡里間にて週1往復の試験飛行実施
1938年05月 朝鮮航空事業社、京城-裡里-光州間週2往復の定期航空を開始
1939年 朝鮮航空事業社、京城-裡里-光州間定期航空が月水金の週3往復になる
1942年 定期航空はこの年まで続いた
関連サイト:
京城飛行場小史■(リンク切れ)
この記事の資料:
朝鮮交通史
防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」