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朝鮮・京城第2(汝矣島、京城)飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]

   2017年7月作成 2022/7更新  





ソウル特別市汝矣島。

政治、経済の中心であり、諸施設が整然と並び、大規模な公園が整備されたこの島は、

かつてはポプラやアカシヤといった樹林地帯で、度々水害に悩まされる場所で、

大戦前にはここに「京城第2飛行場」がありました。

汝矣島にあることから「汝矣島飛行場」とも呼ばれました。

「第2」の名の通り「第1」もあるのですが、当飛行場が元祖「京城飛行場」であり、後述しますが、

後に京城の別の場所に完成した「東洋一」とも謳われる規模の飛行場が「京城第1飛行場」となり、

当飛行場は「京城第2飛行場」となりました。

戦後は国際空港、空軍基地となったのですが、1971年には飛行場が閉鎖され、開発が始まりました。

いろいろ当時の島の画像を検索すると、島を東西に方向に大きく滑走路が横たわっており、その南側に誘導路、

諸施設のエリアが見えます。

韓国語版Wiki:「汝矣島空港」によりますと、飛行場跡地開発の際、

「既存の滑走路の位置に5・16広場(ヨイド広場)を作ったのは、有事の際に滑走路に書き込むことができようにするためだったという」

とありました。

加えて概要の項目では、

「汝矣島は、元の不毛の地であり、軍事訓練場で使われたりもした。日本は表面上、民間航路開設に使用するという名分を掲げたが、実際には中国大陸侵略の橋頭堡として、韓半島に有事の際に使用飛行場が必要だったので、汝矣島に飛行場を作った。」

のだそうです(Google翻訳)。

島の中央を貫く公園には「空軍創軍60年記念塔」があり、

グーグルアースで見ると、滑走路のミニチュアと共にC-47が展示してあるのが見えます

(2018年6月16日までの展示らしい)。

韓国のサイトを見てみると、「歴史の中に消えた空港」とか、「韓国初の空港は、なんと汝矣島にあったのです!!」

的なサイトが散見されました。

島から飛行場としての機能がなくなって50年近い歳月が流れ、

冒頭にも記しましたが現在は国の政治、経済の中心地として大きく変貌を遂げましたから、

地元の方にとってもそんな感覚なんですね。

「実は丸の内にはかつて国際空港があった」。みたいな感じなんでしょうか。
 

この飛行場については、ここまでしばしば引用させて頂いているサイト「京城飛行場」(下記リンク参照)の中で、

非常に詳細な資料がありますので、興味のある方はそちらをご覧くださいませ。

以下、同サイト様にある内容を抜粋させていただきます。

元々汝矣島は陸軍の練兵場として使用されており、1916年からその一画を簡易着陸場として使い始めました。


また、1925年にはこんな出来事もありました。


■朝鮮交通史 1038p

 飛行第6連隊にいた西尾三郎大尉は大正14年12月汝矣島に資本金3万円で朝鮮航空研究所を
創設、格納庫を建設、サルムソン1機で飛行訓練や清津沖での魚群探見飛行等を実施し、昭和4
年3月に株式会社に改組し躍進を期したが、当時の奨励金程度の援助では経営を維持することが
できず、ついに閉鎖した。


■朝鮮交通史 1039p
朝鮮航空事業社
 日本で1等操縦士になっていた慎鏞項は藤田武明、金東栄と計り、昭和3年5月5日朝鮮飛行学
校を創設、京城飛行場に格納庫及び事務所を建設、アンリヨ1機、サルムソン2機で乗員養成と
各地への試験飛行を開始し、次第に航空産業へと手を伸ばし、昭和11年9月には朝鮮航空事業
(株)に改組、魚群探見飛行に大成功し、昭和13年には京城←→光州線の定期航空を開始し、他方
航空機製造業にも乗り出す等、朝鮮航空開発のために大活躍した。主な業績は、次の通り。
 (イ)昭和4年京城-咸興-羅南、京城-郡山-木浦、新義州-中江鎮間。昭和6年京城-大邱、
京城-中江鎮、京城-清津間。昭和8年京城-咸興、新義州-中江鎮、京城-木浦間。昭和9年
新義州-中江鎮間の試験飛行をサルムソン機で各地の気象状況調査を主目的とする試験飛行を行
なった。
 (ロ)昭和9年10月、5日間に亙る期間定期航空開発のための試験飛行をサルムソン機により
実施した。京城-新義州-羅南-咸興間、咸興-蔚山-光州間、光州-大邱-京城間、であった
が冬期であり、特に北朝鮮地区の悪気流に悩まされたが、総距離2,200粁を無事翔破した。
 (ハ)昭和13年京城-裡里-光州間定期航空を開始した。
 (ニ)昭和11年より清津付近の魚群探見飛行を開始した。当時北朝鮮沿岸には鰯の大群を発見
するため、清津、咸興、江陵各漁業組合より魚群探見飛行の実施方の要望があったので、当局と
しては飛行機離着陸場を整備する一方、朝鮮飛行学校に白羽の矢を立てた。飛行学校では当初サ
ルムソン機に魚視を乗せ飛行し、魚群を発見すると通信筒で付近の漁船に連絡する方法をとった
が、さらに効果を上げるため後年では瓦斯電機を使用したが、これは大成功で、一時清津付近の
海岸は鰯で埋めつくされるような盛況を示した。

そして1929年、京城飛行場が開場。

日本航空輸送株式会社が週3往復の定期郵便輸送を開始しました。


■朝鮮交通史 1041p
 日本国内では航空機の進展に順応して、行政機構の設置、関連法令の制定と航空保安施設の整
備が行われていたが、朝鮮では昭和4年の日鮮満を結ぶ定期航空路の開設に伴いようやくこれに
取組むようになったが、しかも急速に整備する必要に追われた。(中略)
 定期航空開始に間に合うようこれの寄航地は次のように準備されたが、朝鮮の飛行場建設に当
たり特に留意しなければならぬ要点は
 (1)冬期に土壌の凍結がひどいこと
 (2)梅雨季には豪雨により地盤が軟弱となったり、飛行場が冠水するおそれがあること
等があったが朝鮮内では適当な候補地を得られないので、これが選定に当たっては相当苦慮させ
られ、施工に当たっても予想以上の困難が伴った。(中略)
 終戦までに整備した飛行場の概況は次の通りである。

京城(汝矣島)飛行場 1044p
 漢江の河川敷地で陸軍練兵場となっていた汝矣島の一部を、昭和3年より飛行場として使用し
た。
 汝矣島は平坦な草原地であるが750m対600mを滑走地域として整地し、中央に幅25m長さ
600mのコンクリート滑走路を作り周辺には航空照明灯を取付けた。建物としては逓信局事務所
(飛行場、税関、気象、通信関係同居)1棟、日航事務所、格納庫、小修理工場各1棟、朝鮮航
空研究場格納庫1棟、朝鮮航空事業者事務所、格納庫各1棟があった。
 同所は漢江の中州であり、いったん増水すると洪水の真中に取残され、離れ小島となってしま
い、年に数回はこの洪水に見舞われた。数年に1回は長期間使用不能となることがあった。同飛
行場の欠陥としてはこのほかに漢江に架設されていた人道橋、鉄道橋が2,000mの近くにあり飛
行機の離着陸に障害となっていた。飛行機が大型化、高速化するに従い、他の適地に移転せざる
を得なくなり、金浦飛行場が新設されたが、終戦時まで第2京城飛行場として小型機の離着陸及
び防空用として使用された。

当時の雑誌、新聞が盛大な開場式の様子を伝えています。

こうして定期路線の運用が始まったのですが、

汝矣島は漢江の氾濫によって年に数回の水害が発生し、漢江にかかる鉄道橋が離発着の障害となりました。

この障害物のせいで滑走路の延長もできないため、

朝鮮総督府は京城付近に将来の拡張も可能な飛行場を新たに建設することにしました。

こうして1938年に金浦の地が選定され、この頃から金浦飛行場を「第一京城飛行場」、

汝矣島飛行場を「第二京城飛行場」とも呼ぶようになりました。

当初の計画では、1,500m滑走路2本、1,200m滑走路2本、1,000m滑走路2本の、計6本を予定していおり、

民間用飛行場としては、東洋一の規模で、当時の関係者は「夢の金浦飛行場」と呼んでいたのだそうです。


■朝鮮交通史 1041p
昭和14年現在の飛行場 として、以下記されていました。

滑走地帯(東西・南北)m 750  600


■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行
の中で、「本邦定期航空現況(昭和十三年十二月現在)」として以下記されていました(6コマ) 

経営者 大日本航空株式会社
航空線路 東京-大連
区間 東京-名古屋間 毎日三往復
   名古屋-大阪間 毎日三往復
   大阪-福岡間  毎日二往復
   福岡-大邱間  毎日一往復
   大邱-京城間  毎日一往復
   京城-平壌間  毎日一往復
   平壌-新義州間 毎日一往復
   新義州-大連間 毎日一往復
線路開設年月 昭和四年四月


経営者 大日本航空株式会社
航空線路 東京-新京
区間 東京-大阪間 毎日一往復
   大阪-福岡間 毎日一往復
   福岡-京城間 毎日一往復
   京城-奉天間 毎日一往復
   奉天-新京間 毎日一往復
線路開設年月 昭和十ニ年六月


経営者 大日本航空株式会社
航空線路 京城-大連
区間 京城-大連間 毎日一往復
線路開設年月 昭和十ニ年六月


経営者 大日本航空株式会社
航空線路 京城-清津
区間 京城-咸興間 毎日一往復
   咸興-清津間 毎日一往復
線路開設年月 昭和十三年十月


■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行

の中で、「本邦飛行場一覧(昭和十三年十月現在)」として以下記されていました(8コマ) 

名 称  京城飛行場
経営者  國
所在地  朝鮮京畿道□□郡□江面汝矣島
水陸の別 陸
滑走区域 東西六〇〇米 南北六〇〇米
備 考  (記載無し)



1943年金浦飛行場開場。

陸軍、大日本航空は金浦飛行場に移り、朝鮮航空事業社は汝矣島飛行場に留まりました。

そして終戦。

GHQによって飛行が一切禁止されたのは日本国内だけの話かと思っていたのですが、朝鮮もそうでした。

ところがこのGHQの命令を知らなかったらしく、朝鮮航空事業社の整備士が練習機の胴体に赤と青の大極旗を描き入れ、

祖国解放を祝福する意味で永登浦の上空を一周しました。

直後に駆け付けた米軍のMPから散々怒られた挙句、練習機の焼却を命られてしまったのですが、

同サイト内の「京城飛行場小史」は次のように結ばれています。

それでも、大極旗が朝鮮の空に飛び立ったことには違いはない。
朝鮮の航空は1913年から始まった。日本が朝鮮を併合してからの出来事である。
しかしこの時を以って、朝鮮の空は朝鮮の人々の手に戻ったと言えるのかも知れない。

Wikiによれば、戦後の1953年、当飛行場は国際空港となりました。

1958年に民間便は金浦国際空港に移転し、

1971年にソウル空軍基地が設置されるまで空軍基地として利用されたのだそうです。


■防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」の中で、

当飛行場についての詳細な資料と図がありました。

先頭のグーグルマップは、同資料の図を元に作成したものですが、明確な起点となるものがほとんどなくて、

「こんな感じかなあ」という程度のものです。

ご了承くださいませ。

サイト「京城飛行場」には、昭和十二年四月の同飛行場の地図が添付されているのですが、

滑走路は同じに見えるのですが、飛行場敷地は滑走路ギリギリまで迫っており、ほぼ正方形です。

昭和18年の水路部の地図では正方形からいろいろはみ出ていますから、

元々正方形だった敷地がその後拡張していったようです。

以下水路部資料を一部引用させて頂きます。

第6 京城第2飛行場(昭和18年4月調)
管理者 朝鮮総督府逓信局。
位置 朝鮮京畿道京城府汝矣島町。
   (京城府の南西方7粁、北緯37°31′0、東経126°55′0)。
種別 公共用陸上飛行場。

着陸場の状況
高さ
 平均水面上約10米。
広さ及形状
 本場は長さ東西900米、幅北東-南西730米の略四辺形地域なり
 着陸地域は概ね図示の東西及北東-南西方向の滑走路を適当と認むるも風向等に依りては
 場端より内方50米以内の全地域を使用するも支障なし(付図参照)。
地表の土質
 泥及粘土を混ずる砂礫。
地面の状況
 滑走路は「コンクリート」舗装にして長さ東西540米及北東-南西400米、幅各15米の2條あり・
 両滑走路の交会部に羅針儀修正盤あり・
 東西方向滑走路の西端より格納庫前に至る誘導滑走路(「コンクリート」舗装)あり・
 滑走路以外の地域は殆ど全面に芝及雑草密生す・
 排水概ね良好にして乾燥速なるも降雨直後又は解氷期には地表稍軟弱と為る・
 漢江氾濫の際は河水侵入し地表泥濘と為り且処々に不整地を生ず。
場内の障碍物
 なし。
適当なる離着陸方向
 東又は西及北東又は南西。
施設
格納庫
(1)大日本航空株式会社所属3(間口30米、奥行35米、高さ6米、間口30米、奥行25米、
 高さ6米及間口40米、奥行50米、高さ8米各1)あるも逐次取設第1飛行場に移動中なり。
(2)朝鮮航空事業社所属2(間口18米、奥行26米、高さ4米及間口18米、奥行15米、高さ4米各1)。
(3)大日本飛行協会所属1(間口15米、奥行15米、高さ5米)
 朝鮮航空事業社事務所・油庫・発動機試運転場・修理工場、羅針盤修正台及飛行機計量機等あり。
昼間標識 吹流信号柱1・境界標識等あり。
夜間標識 着陸照明燈1あり。

周囲の状況
高地
 本場の所在地たる汝矣島は京城府の南西部即ち漢江南岸の沖積土にして地貌概ね広濶なるも
 北西方約1.2粁に場面よりの高さ約30米の丘陵性高地(汝矣山)あり。
樹林
 北方約600米に高さ10米、東方700米に高さ10米の「ポプラ」樹林地帯あり・
 旧飛行場事務所北方一帯は高さ約6-10米の「アカシヤ」樹林地帯なり。
(中略)
其の他
本場は昭和4年朝鮮総督府の設置に係る公共用飛行場にして
爾來大日本航空株式会社経営の定期航空路(東京-大連及新京線)の寄航地として使用し来れる
も昭和17年9月本場の北西方約12粁に京城第1飛行場新設後は同場を定期航
空路の発着場として使用し本場は其の補助施設として使用せられつつあり。



■朝鮮交通史 1032p

昭和4年、発足した日本航空輸送株式会社による定期輸送開始

この頃の朝鮮関係旅客運賃表が載せられていました。

京城-東京 90円 (急行)105円
京城-名古屋 73円
京城-大阪 63円
京城-福岡 35円
京城-大邱 14円
京城-平壌 12円
京城-新義州 22円
京城-大連 40円 (急行)45円
京城-奉天 (急行)44円
京城-新京 (急行)65円
京城-咸興 18円
京城-清津 36円


■朝鮮交通史 1033p
表2 鮮内飛行場利用状況より:京城飛行場

    昭和4年度 昭和5年度 昭和6年度 昭和7年度 昭和8年度
航空機
到 着
出 発
235
239
558
552
604
604
612
617
598
596
旅 客
到 着
通 過
出 発
239
42
235
1,057
133
1,009
 819
243
746
 992
499
965
 1,080
699
1,005
貨 物
  kg
到 着
通 過
出 発
175.20
97.70
314.20
594.73
44.13
453.48
 5,158.28
424.21
2,223.48
 1,344.54
2,319.37
1,436.22
 463.76
2,514.96
685.45
郵便物
  kg
到 着
通 過
出 発
304.60
550.90
246.70
2,893.18
722.09
2,467.25
 5,017.50
1,651.15
3,587.17
 10,993.79
3,676.07
8,589.44
 21,635.93
22,248.42
15,435.60
不定期
航空機
到 着
出 発
338
337
397
390
 141
135
 78
72
 75
80

 

■朝鮮交通史 1034p

昭和6年鮮満間航空乗り入れ協定が締結され、
昭和12年満航の新京-新義州、新京-京城乗入れが開始された。
(満航=満洲航空株式会社)

京城-北京 京城-青島線
これより先、日本と大陸を結ぶ緊急連絡航空路の一環として
総督府では昭和12年6月より京城-大連-北京線、昭和13年には京城-青島
線を予算外契約の命令航路を開始した予算額は、次の通りであった。

京城-大連-北京線 補助金

年度 補助金(円)
12 125,000
13 135,000
14 130,000
15 120,000
16 120,000
17 73,000
703,000



京城-青島線 補助金

年度 補助金(円)
13 175,000
14 280,000
15 275,000
16 265,000
17 255,000
18 250,000
19 225,000
1,625,000


大邱-福岡線
朝鮮海峡が敵潜水艦に蹂躙され、海上航行が不安となったので、
航空機に依る連絡の必要性を認め朝鮮と日本を最短距離である
大邱-福岡間に定期航空便を開設することとなり
昭和19年4月より毎日2往復の運航を開始したがさらに毎日3往復に
増便した。補助金は、次の通り要求してある。

京城(ママ)-福岡線 補助金
19年度補助金 1,305,000円
20年度補助金 1,417,000円

■朝鮮交通史 1035p

京城-光州線 朝鮮独自のローカル定期航空路としては朝鮮航空事業者による京城-光州線があ
った。
 全南、全北地方は朝鮮の穀倉地帯といわれ人口密度も比較的多い地区であったが交通の便が悪
かった。同地方出身の慎鏞項氏の希望もあり同氏の経営する朝鮮航空事業者をして京城-裡里-
光州間の定期航空を開発することとした。
 昭和11年10月13日より京城-裡里間の試験飛行を行ない、昭和13年5月より京城-裡里-
光州間週2往復(後に3往復)の定期航空を開始した。使用機は帝国飛行協会より無償貸与を受
けた瓦斯電千鳥号で、乗員1名、乗客2名搭乗できる小型機であった。本路線には試験飛行時代
から奨励金を支給していたが、定期航空になってからは次の奨励金が支給された。本定期航空は
昭和17年まで続いた。


     朝鮮・京城第2(汝矣島、京城)飛行場跡地     

京城第2(汝矣島、京城)飛行場 データ
設置管理者:朝鮮総督府逓信局
種 別:公共用陸上飛行場
所在地:ソウル特別市 永登浦区 汝矣島洞
座 標:N37°31′21″E126°55′24″(Wiki:汝矣島空港によれば、北緯37°31 '33 "東経126°55' 19")
標 高:38m
滑走路:540mx15m(09/27)、400mx15m(04/22)
     (Wiki:汝矣島空港によれば、1,969mx600m)
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
1916年03月 陸軍練兵場一画を簡易着陸場として使用し始める
1917年05月 アート・スミスによる曲芸飛行。ソウル市民20万人のうち約5万人が汝矣島飛行場に集まる
1922年12月 10日 韓国初の飛行士安昌男が試験飛行
1925年12月 西尾三郎大尉、朝鮮航空研究所創設。飛行訓練や清津沖での魚群探見飛行等を実施
1927年06月 内地・朝鮮・台湾を同一法域とする航空法施行
1928年05月 5日 慎鏞項、朝鮮飛行学校創設
1929年03月 西尾三郎大尉の朝鮮航空研究所、株式会社に改組するも経営を維持できず、その後閉鎖
     04月 1日 京城飛行場開場。定期輸送開始
     09月 10日 東京・大連間、週3往復の定期旅客輸送開始
1931年    夜間照明、無線電信設備、滑走路構築、連絡道路改築、航空気象観測所等整備
1931年    日本航空輸送株式会社と朝日新聞社、京城-龍井村間の試験飛行
1931年    鮮満間航空乗り入れ協定締結
1936年03月 7日 格納庫、海軍機6機、日本航空輸送会社所有2機焼失
     10月 13日 慎鏞項氏経営の朝鮮航空事業社、京城-裡里間にて週1往復の試験飛行実施
       同年、慎鏞瑣氏、京城-裡里郵便連絡飛行実施(上の試験飛行と区別つかず…)
1937年    日本航空輸送株式会社、京城-大連間開設。満航、新京-京城乗入れ開始
1938年夏   金浦が京城の新たな飛行場適地として選定される
     05月 朝鮮航空事業社、京城-裡里-光州間週2往復の定期航空を開始
     10月 京城-咸興-清津線を開設
       総督府、日本と大陸を結ぶ緊急連絡航空路の一環として京城-青島線の命令航路開始
1939年    満州航空会社、京城-新京間開設
       朝鮮航空事業社、京城-裡里-光州間定期航空が月水金の週3往復になる
1940年    工事着手。1941年完成の予定だったが、対米開戦により資材が不足し計画が遅れる
1941年    民間航空機の座席が軍に借り上げられ、一般乗客向けには休航となる
1942年    朝鮮航空事業社の京城-裡里-光州間定期航空はこの年まで続いた
1943年10月 金浦飛行場開場
1944年04月 海上航行が不安となったため、福岡との定期航空便開設。毎日2往復、後に毎日3往復
1945年08月 15日 終戦。25日、GHQによる飛行禁止令
     09月 25日 胴体に赤と青の大極旗を描き入れた練習機が永登浦の上空を飛ぶ
19535年   国際空港となる
1958年01月 民間便は金浦国際空港に移転。空軍基地として利用
1971年02月 空軍は新設のソウル空軍基地に移管。飛行場閉鎖

関連サイト:
京城飛行場(リンク切れ)  
Wiki/여의도공항  

この記事の資料:
朝鮮交通史
防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」  


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