アメリカ・サボオンガ空港 [├海外の空港、飛行場]
2017年8月作成(情報は作成時のものです)
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アラスカ州サボオンガ集落の南西約700mにある「サボオンガ空港」。
ベーリング海のセントローレンス島北岸にあります。
1965年8月開設の州立の公共用空港で、砂利の滑走路1本を有しています。
2014年には月平均22便の運航があり、内訳は商用98%、軍用2%でした。
■航空会社 / 行先
Bering Air / Gambell, Nome
Ravn Alaska / Gambell, Nome
アメリカ・サボオンガ空港
設置管理者:Alaska DOT&PF - Northern Region
種 別:公共用
3レター:SVA
4レター:PASA
標 高:53 ft / 16 m
標 点:63°41′11″N 170°29′33″W
滑走路:4,400ft/1,341m
磁方位:5/23
表 面:砂利/good condition
関連サイト:
Wiki/Savoonga Airport■
アメリカ・サンドポイント空港 [├海外の空港、飛行場]
2017年8月作成(情報は作成時のものです)
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アラスカ州ポポプ島サンドポイント集落の南西約3kmにある「サンドポイント空港」。
1958年6月開設の州立の公共用空港で、舗装滑走路1本を有しています。
実は、当空港は英語表記だと"Sand Point Airport"なのですが、
アイダホ州に"Sandpoint Airport"があります。
間にスペースが入るか入らないかだけの違いでナンとも紛らわしいですが両空港の4レターは、
Sand Point Airport:PASD
Sandpoint Airport:KSZT
で全然違います(アイダホ州の空港は3レターがなく、4レターのみ)。
アイダホ州の「サンドポイント」も地名から来ているのですが、
位置がまったく異なるので地元の航空関係者は勘違いしたりしないんでしょうね。
(アイダホ州の空港には、「デイブウォールフィールド」という別名もある)
「オウ、アイダホ意外と寒いデース!」なんて乗客はいないでしょうね。大丈夫なんでしょうね。
2013年には週平均39便の運航がありました。
2008年に4,296名、2009年に3,957名、2010年に4,281名の搭乗がありました。
■航空会社 / 行先
PenAir / Anchorage
アメリカ・サンドポイント空港
設置管理者:Alaska DOT&PF - Central Region
種 別:公共用
3レター:SDP
4レター:PASD
標 高:21 ft / 6 m
標 点:55°18′49″N 160°31′17″W
滑走路:5,213ft/1,589m
磁方位:13/31
表 面:アスファルト/good condition
関連サイト:
Wiki/Sand Point Airport■
アメリカ・セントマイケル空港 [├海外の空港、飛行場]
2017年8月作成(情報は作成時のものです)
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アラスカ州セントマイケル集落にある「セントマイケル空港」。
1995年8月開設の州立の公共用空港で、未舗装滑走路1本を有しています。
空港は集落の西北西約4kmにあるのですが、集落の中心にいかにも滑走路跡的なものがあり、
これと並行して走る道路には、「エアポートロード」と名前が付いています。
セントマイケル湾に突き出す半島にこの滑走路的なものがあり、両端に海が迫っているため、
これ以上の拡張は出来ず、内陸側に新設したのではないかと思います。
滑走路的なもののほぼ中央東側にいかにもエプロン的なものがあり、そこに公共施設的な何かが建っています。
■航空会社 / 行先
Ravn Alaska / Unalakleet
Bering Air / Nome, Stebbins, Unalaklee
アメリカ・セントマイケル空港
設置管理者:State of Alaska DOT&PF - Northern Region
種 別:公共用
3レター:SMK
4レター:PAMK
標 高:98 ft / 30 m
標 点:63°29′24″N 162°06′37″W
滑走路:4,001ft/1,220m
磁方位:2/20
表 面:砂利/good condition
Wiki/St. Michael Airport■
アメリカ・ロシアンミッション空港 [├海外の空港、飛行場]
2017年8月作成(情報は作成時のものです)
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アラスカ州ロシアンミッション集落にある「ロシアンミッション空港」。
1963年6月開設の州立の公共用空港で、
1本の未舗装滑走路と、隣を流れるユーコン川に水上機用離着水エリアが設定されています。
ロシア国境にそこそこ近い位置にあることと「ロシアンミッション」という地名から、これまた冷戦時代の名残だろうか。
なんて考えたのですが、当地の地名のいきさつについて英語版Wikiによりますと、
「1842年にロシア・アメリカン・カンパニーの毛皮取引所の所在地であった。ロシア・アメリカ財産を米国に売却した後、ロシア・ミッションと名づけられた。」(グーグル翻訳)
とあり、その地名は冷戦的なものではなく、平和的な意味合いのようです。
■航空会社 / 行先
Ravn Alaska / Bethel, Aniak
Yute Air / Kalskag
アメリカ・ロシアンミッション空港
設置管理者:Alaska DOT&PF - Northern Region
種 別:公共用
3レター:RSH
4レター:PARS
標 高:51 ft / 16 m
標 点:61°46′30″N 161°19′10″W
滑走路:(磁方位、長さ フィート、メートル、表面、状態)
17/35 3,600 1,097 砂利 good condition
18W/36W 3,000 914 水
関連サイト:
Wiki/Russian Mission Airport■
アメリカ・リュービー空港 [├海外の空港、飛行場]
2017年8月作成(情報は作成時のものです)
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アラスカ州リュービー集落に隣接する「リュービー空港」。
1947年9月開設の州立の公共用空港で、砂利の滑走路1本を有しています。
単発機が2機、当空港を定置場にしています。
2008年に1,915人、2009年に1,634人、2010年に1,809人の搭乗がありました。
2014年には月平均58機の運航があり、内訳はエアタクシー100%でした。
■航空会社 / 行先
Wright Air Service / Fairbanks
アメリカ・リュービー空港
設置管理者:State of Alaska DOT&PF
種 別:公共用
3レター:RBY
4レター:PARY
標 高:658 ft / 201 m
標 点:64°43′38″N 155°28′12″W
滑走路:4,000ft/1,219m
磁方位:3/21
表 面:砂利/good condition
関連サイト:
Wiki/Ruby Airport■
アメリカ・レッドデビル空港 [├海外の空港、飛行場]
2017年8月作成(情報は作成時のものです)
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アラスカ州レッドデビルにある「レッドデビル空港」。
1954年11月設立の州立の公共用空港です。
カスコクウィム川沿いに小さな集落があり、その集落の為の砂利敷き滑走路1本の小さな空港です。
■航空会社
Hageland Aviation Services
アメリカ・レッドデビル空港
設置管理者:Alaska DOT&PF - Central Region
種 別:公共用
3レター:RDV
標 高:174 ft / 53 m
標 点:61°47′17″N 157°21′01″W
滑走路:4,801ft/1,463m
磁方位:10/28
表 面:砂利/fair condition
関連サイト:
Wiki/Red Devil Airport■
アメリカ・ランパート空港 [├海外の空港、飛行場]
2017年8月作成(情報は作成時のものです)
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アラスカ州ランパートにある「ランパート空港」。
1949年11月開設の州立公共用空港です。
連邦航空局の記録によると、2008年は224名、2009年は159名、2010年は224名の搭乗がありました。
2005年の運航数は350で、内訳は、エアタクシー71%、ゼネアビ29%でした。
■航空会社 / 行先
Warbelow's Air Ventures / Fairbanks
アメリカ・ランパート空港
設置管理者:Alaska DOT&PF - Northern Region
種 別:公共用
3レター:RMP
標 高:307 ft / 94 m
標 点:65°30′28″N 150°08′27″W
滑走路:3,520ft/1,073m
磁方位:11/29
表 面:砂利/good condition
関連サイト:
Wiki/Rampart Airport■
アメリカ・クインハガック空港 [├海外の空港、飛行場]
2017年8月作成(情報は作成時のものです)
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アラスカ州クインハガックにある「クインハガック空港」。
Quinhagak Airport
Kwinhagak Airport
どちらのスペルもアリみたいです(@Д@)
1963年6月開設の村立の公共用空港です。
2017年8月現在、グーグルマップで"Quinhagak Airport"と検索すると、
クインハガック村の東北東約700mにある旧空港跡地に連れていかれるのですが、
ここは既に閉鎖していて、現在は村の東約3kmに新しい空港ができています。
元の滑走路は、792m×18m でしたが、現在の滑走路は、1,219 x 23 m で、大きくなっています。
■航空会社 / 行先
Yute Air / Bethel, Eek
アメリカ・クインハガック空港
設置管理者:Native Village of Kwinhagak
種 別:公共用
3レター:KWN
4レター:PAQH
標 高:42 ft / 13 m
標 点:59°45′18″N 161°50′43″W
滑走路:4,000ft/1,219m
磁方位:12/30
表 面:砂利
関連サイト:
Wiki/Quinhagak Airport■
アメリカ・ポートモラー空港 [├海外の空港、飛行場]
2017年8月作成(情報は作成時のものです)
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アラスカ州ポートモラーにある「ポートモラー空港」。
2001年2月開設の野趣溢れる感じがステキなプライベート空港です。
当空港は、元々冷戦期の1958年に米空軍遠隔警戒線レーダー基地を支援するために建設されました。
レーダー局はその後1969年9月に使用停止となり、空港の軍事利用が終了しました。
現在は米国内務省土地管理局所有の空港となっています。
連邦航空局の記録によれば、2008年に487名の搭乗がありました。
■航空会社 / 行先
Grant Aviation / Cold Bay, Nelson Lagoon
Seasonal: King Salmon
アメリカ・ポートモラー空港
ポートモラー空港 データ
設置管理者:米国内務省土地管理局
種 別:非公共用
3レター:PML
4レター:PAAL
標 高:20 ft / 6 m
標 点:56°00′22″N 160°33′39″W
滑走路:3,500ft/1,067m
磁方位:1/19
表 面:砂利
関連サイト:
Wiki/Port Moller Airport■
アメリカ・ポートヘイデン空港 [├海外の空港、飛行場]
2017年8月作成(情報は作成時のものです)
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アラスカ州ポートヘイデンにある「ポートヘイデン空港」。
1949年1月開設の州立の公共用空港です。
砂利敷きで角度の異なる滑走路が2本あるのですが、土地の使い方が流石アラスカ。
当空港は、元々「フォートモロー陸軍飛行場」として建設されたもので、第二次世界大戦後に閉鎖しました。
1958年からこの空港は、冷戦期の米国空軍遠隔警戒線レーダー基地支援のため使用されました。
このレーダー基地は1969年9月に運用停止しました。
2008年に919人、2009年に964人、2010年に1,037人の搭乗がありました。
2005年の運行は1,000回で、その内訳は、エアタクシー50%、ゼネアビ50%でした。
■航空会社 / 行先
PenAir / King Salmon
アメリカ・ポートヘイデン空港
設置管理者:State of Alaska DOT&PF - Central Region
種 別:公共用
3レター:PTH
4レター:PAPH
標 高:95 ft / 29 m
標 点:56°57′33″N 158°38′00″W
滑走路:(磁方位、長さ フィート、メートル、表面、状態)
05/23 5,000 1,524 砂利 good condition
13/31 4,000 1,219 砂利 good condition
関連サイト:
Wiki/Port Heiden Airport■
アメリカ・ポートグラハム空港 [├海外の空港、飛行場]
2017年8月作成(情報は作成時のものです)
skyvector.com
アラスカ州ポートグラハムにある「ポートグラハム空港」。
1959年6月開設の州立の公共用空港です。
2005年には950便の運航があり、その内訳は、エアタクシー79%、ゼネアビ21%でした。
アメリカ・ポートグラハム空港
ポートグラハム空港 データ
設置管理者:Alaska DOT&PF - Central Region
種 別:公共用
3レター:PGM
標 高:93 ft / 28 m
標 点:59°20′54″N 151°49′54″W
滑走路:1,975ft/602m
磁方位:12/30
表 面:砂利、土/fair condition
関連サイト:
Wiki/Port Graham Airport■
アメリカ・ワイルダー/ナットウィックLLC空港 [├海外の空港、飛行場]
2017年8月作成(情報は作成時のものです)
skyvector.com(二つあるのうち、下の方)
アラスカ州にある「ワイルダー/ナットウィックLLC空港」。
前記事の「ポートアルズワース空港」から僅か400m南側にあり、こちらもプライベート空港です。
まるで2本の平行滑走路を有している1つの空港のように見えるのですが、れっきとした別の空港です。
2002年11月開設なので、こちらが後輩です。
「ポートアルズワース空港」がWikiに記事があり、グーグルマップでも検索すれば一発で連れていってくれるのに対し、
こちらはどちらもなくて、超マイナーな空港。
滑走路の磁方位はどちらも5/23で同じですが、長さと幅は若干こちらのが大きいです。
10機の単発機が当空港を定置場にしており、年間31機の運航がありました。
なんでわざわざ二つ作るのか。。。
アメリカ・ワイルダー/ナットウィックLLC空港
ワイルダー/ナットウィックLLC空港 データ
種 別:非公共用
標 高:288 ft (87.8 m)
標 点:N60°11.92' / W154°19.48'
滑走路:4200 x 100 ft. / 1280 x 30 m?
磁方位:5/23?
表 面:砂利
関連サイト:
AirNav/Wilder/Natwick LLC Airport■
アメリカ・ポートアルズワース空港 [├海外の空港、飛行場]
2017年8月作成(情報は作成時のものです)
skyvector.com(が二つありますが、上の方)
アラスカ州ポートアルズワースにある「ポートアルズワース空港 」。
1947年8月開設の私有空港です。
2008年に1,938人の搭乗がありました。
アメリカ・ポートアルズワース空港
ポートアルズワース空港 データ
設置管理者:Glen Alsworth, Sr.
種 別:非公共用
3レター:PTA
4レター:PALJ
標 高:280 ft / 85 m
標 点:60°12′16″N 154°19′08″W
滑走路:3000 x 100 ft. / 914 x 30 m
磁方位:6L/24R
表 面:土/砂利
関連サイト:
Wiki/Port Alsworth Airport■
アメリカ・ポイントレイLRRS空港 [├海外の空港、飛行場]
2017年8月作成(情報は作成時のものです)
skyvector.com
アラスカ州ノーススロープボロー、ポイントレイにある「ポイントレイLRRS空港」。
1960年3月開設の国立の軍民共用空港です。
2005年の運行は120機で、内訳は、エアタクシー42%、軍用42%、ゼネアビ16%でした。
この空港は元々、当地のレーダーステーションを支援するため、1957年に建設されたものです。
■航空会社 / 行先
Ravn Alaska / Barrow, Point Hope
アメリカ・ポイントレイLRRS空港
ポイントレイLRRS空港 データ
設置管理者:U.S. Government 11 TCW/LGO Elmendorf
種 別:共用
3レター:PIZ
4レター:PPIZ
標 高:25 ft / 8 m
標 点:69°43′56″N 163°00′40″W
滑走路:3,519ft/1,073m
磁方位:5/23
表 面:砂利/good condition
関連サイト:
Wiki/Point Lay LRRS Airport■
アメリカ・ポイントホープ空港 [├海外の空港、飛行場]
2017年8月作成(情報は作成時のものです)
skyvector.com
アラスカ州ポイントホープにある「ポイントホープ空港」。
リスバーン半島にある州立の公共用空港で、1958年7月に開設しました。
2005年に4,580名の搭乗があり、2006年には4,900便の運航がありました。
■航空会社 / 行先
Bering Air / Cape Lisburne, Kotzebue
Ravn Alaska / Kivalina, Kotzebue, Point Lay
アメリカ・アラスカ州ポイントホープ空港
ポイントホープ空港 データ
設置管理者:State of Alaska DOT&PF - Northern Region
種 別:公共用
3レター:PHO
4レター:PAPO
標 高:12 ft / 4 m
標 点:68°20′56″N 166°47′58″W
滑走路:4,000ft/1,219m
磁方位:1/19
表 面:アスファルト/fair condition
関連サイト:
Wiki/Point Hope Airport■
那覇空港第二滑走路 [├雑談]
それも沖縄総合事務局と大阪航空局の予測を遥かに上回るペースで。
2010年度に那覇空港の利用者数は約1,423万人でした。
この年度を起点として、利用者数は2030年に1,605万~1,928万人と予測していたのですが、
なんと2016年度に2,003万人と、早々に2,000万人を突破してしまいました。
1本の滑走路で運用する国内の空港として利用者数一位は、超過密の福岡空港で、
那覇空港はそれに次ぐ数字になっております。
LCCの就航拡大と観光客数の増加、そして国際線利用客が大幅に伸びたことが、
予測を遥かに上回る増加につながりました。
貨物も順調です。
(ただし那覇を貨物ハブに設定しているANAは、今後効率化を図り、那覇を縮小する意向と最近発表しています)
福岡空港は2024年に第二滑走路完成予定であり、
拙ブログでも以前ちょっと書きましたが、那覇空港は現在沖合にもう一本滑走路を建設中です。
2020年3月供用開始予定の第二滑走路で、2,700mx60mの平行滑走路です。
2本の滑走路は1,310m離れており、独立して運用可能な「オープンパラレル方式」となっています。
琉球新報2017年7月2日付によれば、15年度の発着回数は約157,000回でした。
国土交通省大阪航空局の算定によれば、第2滑走路完成後の処理容量は年間で約185,000回。
倍増どころか、それに遠く及ばないたった17.8%しか増えません。
独立して運用可能な滑走路がもう一本増えるのに、なんでこんな微増に留まるのかについて航空局曰く、
(1)那覇空港の北側に米軍嘉手納飛行場への進入経路が重なる空域の問題でオープンパラレルが採用できない
(2)旅客ターミナルと第2滑走路を行き来するには、陸側滑走路の離着陸を止めて横断しなければならない
(3)自衛隊機の使用が増えている
なのだそうです。
これではせっかくの海上滑走路が完成しても、空港の過密状態は解消できません。
「アジアの貨物ハブ」等、那覇空港の立地故の活用プランも現在の過密状態が解消されてこそなんですが。。。
なんとかならないものなんでしょうか。
現行滑走路の東側(陸側)には陸自、空自の広大な用地があり、民間空港用地がウナギの寝床みたいになってるんですが、
ここまできたら、いっそ両方の滑走路の間も埋立ててしまって、自衛隊の機能はそちらに移す。
なんてダメですかね~。
あちこちから怒られちゃうかしらん。
朝鮮強化月間終了 [├雑談]
朝鮮交通史1036pから。太線:朝鮮総督府命令航路
面積 | 人口 | 定期航路 | 飛行場 | |
朝鮮 | 220,741坪 | 20,791,000人 | 670km | 軍用:2 民間:5 |
台湾 | 35,974坪 | 5,061,000人 | 464km | 軍用:2 民間:5 |
航空の実情はまったくお粗末で、遺憾の極みである。としています。
続けて、今後どうすべきかについて氏の提言が熱く語られていました。
こんな記事が紙面に載る時代があった。
今からでは考えられないことですが、統治時代の一面ですね。
今後どうすれば良いかについての氏の提言は要約すれば、
「朝鮮内の定期航空網、飛行場、諸施設を直ちに充実させよ!」 ということで、
定期航空網の運航に当たるのは、幹線は我が日本航空輸送、
そしてローカル線に関しては総督直轄の義勇飛行隊を組織し、これに当たらせるべし。
としています。
この神津氏の提言が掲載されたのが前述の通り1937年(昭和12年)のことで、話が前後してしまうのですが、
1925(大正14)年に朝鮮で最初に登録された民間航空事業団体である「朝鮮航空研究所」が設立されました。
創立者は日本陸軍予備役大尉の西尾三郎氏で、朝鮮内の航空路開設を模索する動きもあったのですが、
残念ながら経営が成り立たず、この研究所は事業中止となってしまいます。
1929年(昭和4年)、慎鏞頊(シン・ヨングウク)氏が「朝鮮飛行学校」を設立し、西尾氏の後を引き継ぎます。
慎氏は千葉県の東亜飛行専門学校で操縦を学んでおり、
朝鮮の航空を発展させたいという願いを持つ人物だったのだそうです。
紙面に熱い提言を記した神津氏の思惑とは少々異なるのですが、
この慎鏞頊氏の「朝鮮飛行学校」は後に「朝鮮航空事業社」と改称し、
1936年(昭和11年)1月に京城~裡里間の週1往復の試験運航を開始。
1938年(昭和13年)5月からは週2往復で京城・裡里・光州間の定期運行を開始、
1939年(昭和14年)からは週3往復となり、朝鮮内の民間定期航空が運航されていたのでした。
一連の朝鮮内の14の飛行場記事の大元となった1943年(昭和18年)4月調べの水路部資料にも、
慎氏の「朝鮮航空事業社」がしばしば登場しており、当時実際に朝鮮内で運航していた様子を垣間見ることができます。
一方、翻って戦時中の内地の民間航空事情はといいますと-
1.大阪の日本航空輸送研究所
1922年(大正11年)開設。国内初の定期航空輸送開始するも、
1939年(昭和14年)、戦争遂行のため国策の大日本航空株式会社に吸収され閉鎖。
2.愛知の安藤飛行機研究所
1924年(大正13年)地元知多市海岸に安藤飛行機研究所を開設。民間パイロット養成に乗り出す。
1926年(大正15年)、名古屋―新宮、昭和3年名古屋―二見―蒲郡間に定期航路を始める。
Wikiによれば、大日本航空設立に合わせ、航空輸送停止。
3.東京航空輸送社
1928年(昭和3年)設立。1929年(昭和4年)から東京-下田間の定期航空営業をおこなった。
1931年(昭和6年)にはエア・ガールの採用も実施した。
1939年(昭和14年)3月27日、国の方針により大日本航空に吸収合併。
4.兵庫の日本海航空株式会社
1931年(昭和6年)、兵庫県城崎町の町長が震災復興を目的としてに発足。
中国、関西方面に定期航空便を次々開設、5機の飛行機を運用するまでになったのですが、
国策統制が強くなった1936年(昭和11年)以降業績がかなり落ち込み、
1939年(昭和14年)末に一切の現品を大日本航空輸送株式会社に引渡し、翌年解散。
このように、国内で航空輸送を実施していた民間会社はいずれも同時期に運航停止を余儀なくされています。
前述の熱い提言をした神津氏は、「日本航空輸送」京城支店長だった訳ですが、
氏の提言が紙面に載った翌年の1938年(昭和13年)、
この「日本航空輸送」は、国策の「大日本航空」に改組されます。
そして内地、外地、および国際線の運航は、この「大日本航空」が一手に引き受けることとなり、
当時内地で航空輸送を行っていた四社は、航空輸送を停止したのでした。
また、定期航空輸送ではないのですが、滋賀の天虎水上飛行場のように、
逓信省から委託を受けてパイロット育成を行う民間飛行学校でさえ、
やはりすべての施設を大日本飛行協会に"寄付"したり、
民間の飛行場が末期には事実上軍のものになったという例はいくらでもあります。
慎氏の「朝鮮航空事業社」が終戦時にどうなっていたかは資料がみつからず不明なのですが、
内地では昭和14年に民間の航空輸送会社が消滅している一方で、
少なくとも昭和18年4月の水路部の資料では、一連の14の飛行場の中に、
逓信局、大日本航空等と並んで仲良く(?)慎氏の「朝鮮航空事業社」格納庫が建っている様子が示されています。
内地では、民間経営の航空会社、飛行学校、飛行場の運営が許されず、
次々と国策航空会社や軍に取りあげられてゆく一方、
朝鮮では、朝鮮人による国内定期航空会社が運航していたのです。
表面的にみればその政策は、内地の経営者には容赦なく、朝鮮の経営者には優しく見えます。
この事実を知ったオイラにとっては、内地と正反対のこの政策に一体どんな思惑があったか。というナゾが残りました。
昭和12年の神津氏の提言の中では、朝鮮内のローカル線は義勇飛行隊に当たらせるべし。
としていますから、少なくとも当時の神津氏には、日本航空輸送が運航するのは鮮内の幹線のみで、
ローカル線を運航する意図はなかった。
手を出すつもりのないローカル線を運航するのが「義勇飛行隊」か、「朝鮮航空事業社」か、という違いでしかなかったのか、
それとも傀儡に任せて鮮内の民衆の不満を抑えた方が日本にとって得策だという意図もあったんでしょうか。
尤も、この「朝鮮航空事業社」も終盤は座席の半分が軍に取りあげられ、
民間人の利用はほとんどできなくなっていたらしいのですが。
それでも、内地で戦時中国策により閉鎖を余儀なくされてしまった航空会社、飛行場の経営者が、
以後航空界からすっかり足を洗ってしまった例が多いのに対し(戦後日本を代表する航空会社の礎を築いた人もいる)、
慎氏は戦後の1946年に大韓国民航空社を設立し、変遷を経てこれが現在の大韓航空となります。
内地で自ら育てた航空会社、飛行場が取り上げられた人たちは当時このことをご存知だったでしょうか。
疑問は尽きません。
一連の朝鮮関連の記事を作る途中、県立図書館に立ち寄る機会があり、朝鮮コーナーに行きました。
そこには題名からして日本に対する怨嗟渦巻く本がたくさん並んでいます。
日本統治時代、そこで実際にどんなことが行われていたのか、
ネット掲示板の書き込み程度の情報しか知らぬオイラにとっては、
恨まれても仕方ない部分もあったのだろう。となんとなく考える程度でしかないのですが、
そんなオイラにとって、内地では民間航空会社、飛行学校、飛行場が次々取りあげられてゆく中、
「朝鮮人による朝鮮人の為の航空会社が末期の時期存在していた」という、
ちょっと考えるとアベコベのような現象は衝撃の事実だったのでした。
「朝鮮強化月間」はこれにて終了です(一ヶ月もたなかったけど)。
お付き合いいただきまして、ありがとうございましたm(_ _)m
韓国、北朝鮮の飛行場 [├雑談]
北朝鮮の満浦飛行場
北朝鮮の清津空港
北朝鮮のカンダリ飛行場
朝鮮の飛行場と識別符号 [├資料]
民間 | 軍用/共用 | 代替 | 廃止 | 合計 | |
北朝鮮 | 2 | 53 | 18 | 13 | 86 |
韓 国 | 9 | 22 | 2 | 18 | 51 |
K-1 - 釜山飛行場(現・金海国際空港) (Gimhae Int'l Airport)
K-2 - 大邱国際空港 (Daegu Int'l Airport)
K-3 - 浦項空港 (Pohang Airport)
K-4 - 泗川空港 (Sachon Airport)
K-5 - 大田飛行場(Daejon Airdrome)
K-6 - 平沢飛行場 (Pyeong taek Airdrome)
K-7 - 光州飛行場(Gwangju Airdrome)
K-8 - 群山空港 (Gunsan Airport)
K-9 - 東釜山空軍基地 (East Busan Base)
K-10 - 鎮海空軍基地(Jinhae Air Base)
K-11 - 蔚山飛行場(Ulsan Airdrome)
K-12 - Marigun Airdrome
K-13 - 水原空軍基地 (Suwon Air Base)
K-14 - 金浦国際空港 (Gimpo Int'l Airport)
K-15 - 木浦空港 (Mokpo Airdrome)
K-16 - 汝矣島飛行場 (Yeouido Airport)
K-17 - 甕津飛行場(Ongjin Airdrome)
K-18 - 江陵飛行場 (Gangnung Air Base)
K-19 - 海州飛行場(Haeju Airdrome)
K-20 - 新幕飛行場(Sinmak Airdrome)
K-21 - 平安飛行場(Pyonggang Airdrome)
K-22 - オンジョンニ飛行場(Onjong Ni Airdrome)
K-23 - 平壌飛行場 (Pyongyang Airdrome)
K-24 - 東平壌飛行場(East Pyoungyang Airdrome)
K-25 - 元山空軍基地(Wonsan Air base)
K-26 - 宣徳飛行場(Songdok Airdrome)
K-27 - ヨンポ飛行場(Yonpo Airdrome)
K-28 - 咸興西?飛行場(Hamhung West Airdrome)
K-29 - Sinanju Airdome
K-30 - 新義州飛行場(Sinuiju Airdrome)
K-31 - 吉州飛行場(Gilju Airdrome)
K-32 - Oesichon Dong Airdrome(現・満浦飛行場)
K-33 - Hoemun Airdrome(現・清津空港。別名・漁郎飛行場)
K-34 - 清津飛行場(Cheongjin Airdrome)
K-35 - 会寧飛行場(Hoeryong Airdrome)
K-36 - 江界#2飛行場(Kanggye#2 Airdrome)
K-37 - 西大邱空軍基地(現・米陸軍キャンプウオーカーヘリポート)
K-38 - 原州飛行場(Wonju Airdrome)
K-39 - 済州国際空港 (Jeju Int'l Airport)
K-40 - 済州島不時着陸場 (Altr Airfield)
K-41 - 全州飛行場(Jeonju Airdrome)
K-42 - 醴泉飛行場 (Andong Airdrome)
K-43 - 慶州飛行場(Gyongju Airdrome)
K-44 - ジャンホウォンリ飛行場(Changhowon-Ni Airdrome)
K-45 - 驪州飛行場(Yoju Airdrome)
K-46 - 原州空港 (Wonju Airport)
K-47 - 春川飛行場(Chuncheon Airdrome)
K-48 - 裡里飛行場(Iksan Airdrome)
K-49 - 楊州里飛行場(East Seoul Airdrome)
K-50 - 束草市飛行場(Sokcho Ri Airdrome)
K-51 - 麟蹄飛行場(Inje Airdrome)
K-52 - 楊口飛行場(Yanggu Airdrome)
K-53 - 滑走路が存在しないか造られていない飛行場
K-54 - 滑走路が存在しないか造られていない飛行場
K-55 - 烏山空軍基地 (Osan Air Base)
K-56 - 滑走路が存在しないか造られていない飛行場
K-57 - 光州空港 (Gwangju Airport)
朝鮮・清津飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]
2017年7月作成 2022/7更新
北朝鮮咸鏡北道清津(せいしん)市。
Wikiによれば、ここは朝鮮北部の重要な港湾工業都市なのだそうです。
ここに「清津飛行場」がありました。
先頭のグーグルマップは水路部の地図から作図しました。
最大で100m程度の誤差があるかもしれません。
■サイト:「韓国・朝鮮の飛行場」の中で、当飛行場について、
清津市から北西10kmの水田地帯に、昭和11年建設。場所は海霧を避けるため、内陸方向に選定された。
滑走路:北西-南東 長1200m X 幅30m 13~16年に建設、マガタム舗装
北-南 長1500m X 幅50m 19年4月追加滑走路として工事着手、未完成
設備 :格納庫約1200平方m、浸水防止用の外堀と排水用の内堀あり
とありました(下記リンク参照)。
昭和14年現在の飛行場 として、以下記されていました。
滑走地帯(東西・南北)m 750 600
■アジ歴「清津飛行場一部使用禁止に関する件」という資料があります(下記リンク参照)。
この資料は昭和17年10月のものなんですが、それによれば、「飛行場整備工事の為、一部使用禁止」とあり、
添付地図を見ると、水路部昭和18年の地図では1,000mになっている14/32滑走路の北端がまだ短くて、
900m滑走路だったり、そのすぐ西側に「水締簡易マカダム滑走路」があったり、
18/36滑走路が描かれておらず、ちょうどその部分が立入禁止になっていたりします。
僅か半年の間にいろいろあったんですね。
■アジ歴「清津府西松御町地図・清津附近一般図・清津飛行場・その他 昭和20年5月」
という資料の飛行場地図では、
水路部昭和18年4月の地図で「未整地」と記されている箇所もすっかり飛行場の敷地になっており、
飛行場敷地はL字型になっています(下記リンク参照)。
(この資料では、当飛行場のすぐ南側、海岸近くにナゾの飛行場が描かれてる)
ややこしい話になってしまうのですが、
■アジ歴「飛行場記録 朝鮮の部」(年代不明)には、朝鮮内各飛行場の図が載せられており(下記リンク参照)、
当飛行場の図は、滑走路が1本のみ、それも上のマップの交差滑走路がまだなくて、
飛行場敷地内西側に南北方向にありました。
資料には滑走路の長さの記載がないのですが、敷地、着陸帯の長さは記されています。
その縮尺からすると、滑走路の長さは534mでした。
ということで、各資料からしますと清津飛行場は、まず飛行場敷地西端に534mの滑走路が造られ、
次いで北西~南東方向の滑走路が造られて、この2本が共存する期間があり、
最終的には初代の西端の滑走路が廃止となり、南北滑走路が新たに造られて、上のマップの交差滑走路となり、
更に延長計画があったものの、終戦。
という流れだと思います。
■防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」
から、当飛行場の資料の一部を引用させて頂きます。
第14 清津飛行場(昭和18年4月調)
管理者 朝鮮総督府逓信局。
位置 朝鮮咸境北道清津府西松鄕洞。
(清津府の西方7粁、北緯41°47′0、東経129°45′0)。
種別 公共用陸上飛行場。
着陸場の状況
高さ
平均水面上約4米。
広さ及形状
本場は長さ北西-南東1,200米、幅北東-南西580米の略長方形地域(整地面積68.8萬平方米)なり。
着陸地域は概ね図示の長さ北西-南東1,000米及南北900米、幅各50米の2條の舗装滑走路を最適と認むるも
風向等に依りては場端より各50米内方の地域を除く砂利敷整地地区を使用するも支障なし(付図参照)。
地表の土質
砂を混ずる黒色土なるも地表は砂利敷地なり。
地面の状況
場内の略中央に互に斜交する滑走路2條あり、何れも水締「マカダム」舗装にして平坦且堅硬なり・
滑走路交差部より東側格納庫前に連絡する「アスファルト」舗装の誘導路(幅40米)1條あり。
滑走路以外の地域は殆ど一面に細き砂利敷地にして地表は傾斜及起伏なき平坦地なり・
排水施設は地下に盲暗渠、場周に排水溝あるも降雨後の排水状況概して良好ならず・
11月-翌年3月頃迄地表凍結し極めて堅硬なるも解氷期(3月下旬-4月中旬)は地表泥濘と為る・
乾燥期には風塵立ち易し・冬季積雪30糎に達するは稀なりと言う。
場内の障碍物
なし。
適当なる離着陸方向
北西又は北(主として冬季)、南東又は南(主として夏季)。
離着陸上注意すべき点
降雨後又は解氷期に於ては滑走路を主用するを可とす。
施設
大日本航空株式会社格納庫1(間口20米、奥行20米、高さ4米)、其の他1棟建設中・
総合庁舎(逓信局事務所、大日本航空株式会社事務所)2階建1棟・気象観測所・油庫・倉庫・航空無線電信局等あり・
尚場外南東隅に旧庁舎及其の他の建物4棟残存す。
昼間標識 吹流信号柱1・境界標識あり。
夜間標識 障害物指示燈・着陸照明燈・T型風向指示標・場周燈雲照燈・溢光燈・着陸進入燈等あり。
周囲の状況
山岳及樹林
本場は輸城平野の略中央を南流する輸城川本流の西方約1粁に在り周囲一帯は広濶なる水田地なるも
西方は約2粁付近より地勢次第に隆起し山地と為る・四周概ね開濶にして至近に障碍と為る樹林なし。
■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」
にも当飛行場の要図があるのですが、こちらは滑走路1本のみの図です
(先頭のグーグルマップの斜めの滑走路だけ描かれている)。
恒風は北西、南東(斜めの滑走路方向)とありました。
同資料に当飛行場の情報がありました。
以下引用させていただきます。
位置 朝鮮咸鏡北道松鄕洞
積量 八五六,七○○平米
地表の状況 稍踈なる雑草ありて若干起伏
あり 解氷期、積雪のため使用し
得ざることあり
周囲の状況 西方東南端に村落あるも支障なし
天候気象の交感 四月~八月海霧のため特に使
用を制限せらるヽことあり
格納施設 記載無し
居住施設 記載無し
交通連絡 記載無し
其の他 記載無し
朝鮮総督府でも鮮内航空路の確保が行政上必要と認められたので、
総督府独自の命令航空路として昭和13年10月より京城-咸興-清津線を
開設したが、同線は清津より満航機に依り新京まで結ばれた。
の中で、「本邦定期航空現況(昭和十三年十二月現在)」として以下記されていました(7コマ)■
経営者 大日本航空株式会社
航空線路 京城-清津
区間 京城-咸興間 毎日一往復
咸興-清津間 毎日一往復
線路開設年月 昭和十三年十月
日本国内では航空機の進展に順応して、行政機構の設置、関連法令の制定と航空保安施設の整
備が行われていたが、朝鮮では昭和4年の日鮮満を結ぶ定期航空路の開設に伴いようやくこれに
取組むようになったが、しかも急速に整備する必要に追われた。(中略)
定期航空開始に間に合うようこれの寄航地は次のように準備されたが、朝鮮の飛行場建設に当
たり特に留意しなければならぬ要点は
(1)冬期に土壌の凍結がひどいこと
(2)梅雨季には豪雨により地盤が軟弱となったり、飛行場が冠水するおそれがあること
等があったが朝鮮内では適当な候補地を得られないので、これが選定に当たっては相当苦慮させ
られ、施工に当たっても予想以上の困難が伴った。(中略)
終戦までに整備した飛行場の概況は次の通りである。
清津飛行場 1045p
昭和11年清津市北西10kmの水田地帯に建設された。建設に当たっては
(1)海霧発生地帯であるので、濃霧の影響を最小限度にするため内陸10kmの地点を選んだ。
(2)水田地帯であるので冠水と地盤軟弱を防ぐため飛行場周辺に内堀と外堀を設け、場外の浸
水は外堀で防ぎ、場内の雨水は暗渠で内堀に注ぐよう施工された。
昭和13年から昭和16年にかけ1,200mx30mのマガダム舗装滑走路を造ったが、不十分な
ので、さらに1,500mx50mの滑走路を追加することとし、昭和19年4月着工したが物資、人
夫等不足のため遅延し、未完成のまま終戦を迎えた。
この工事には清津駅より物資輸送のため2,000mの引込線まで作り熱をあげたのであるが、む
なしい結果に終わってしまった。
朝鮮・清津飛行場跡地
設置管理者:朝鮮総督府逓信局
種 別:公共用陸上飛行場
所在地:朝鮮咸境北道清津府西松鄕洞(清津府の西方7km)
座 標:N41°47′11″E129°44′34″
標 高:5m
滑走路:1,000mx50m(14/32)、900mx50m(18/36)
(座標、標高、方位はグーグルアースから)
沿革
1936年 飛行場建設
1938年10月 京城-咸興-清津線開設
北西-南東滑走路建設。1941年まで
1942年10月 清津飛行場整備工事の為、一部使用禁止となる(10月1日~12月31日)
1944年04月 南北1,500m滑走路工事着手、未完成
関連サイト:
韓国・朝鮮の飛行場■
アジ歴/清津飛行場一部使用禁止に関する件■
アジ歴/清津府西松御町地図・清津附近一般図・清津飛行場・その他■
アジ歴/飛行場記録 朝鮮の部(30コマ目)■
この記事の資料:
朝鮮交通史
防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」
朝鮮・吉州飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]
2017年7月作成 2022/7更新
北朝鮮咸鏡北道吉州(きるちゅ)郡。
ここに「吉州飛行場」がありました。
先頭のグーグルマップは水路部の地図を参考に作図しました。
咸鏡本線、道路、川等、位置決めのポイントになりそうなものが多いように思っていたのですが、
ピッタリの起点が見つからず、
水路部資料地図で作ったレイヤーをああでもないこうでもないと、モニターとにらめっこでグリグリ動かしたのですが、
最終的に飛行場敷地すぐ北側にある十字路(グーグルマップでは五差路)の道路の形が大体重なったため、
ここに合わせました。
ひょっとすると、壮大に1km位ズレてるかもしれませんのでご了承くださいませ。
当飛行場もネット上での情報が非常に限られており、
識別符号がK-31である。ということを除けば、WarBirdsの中で、
「吉州飛行場(咸鏡北道)
当初は、滑空機用兼簡易飛行場として平坦な高台に設置。
19年に約25万平方米を整備し、1000m級滑走路の建設に着手するが、未完成。」
と記されているのが、ハングル、英語も含めて検索した中でこれが唯一と言っていい情報でした。
余談ですが、上のグーグルマップにヒコーキのマーカーがあります。
グーグルアースの同じ位置にもヒコーキのマーカーがあり、"Kilch Highway Strip"とありました。
他サイトではこれを「吉州緊急滑走路」としているものもあります。
2km以上の長さがありますので、緊急滑走路には十分と思います。
■防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」
の中から当飛行場についての資料の一部を引用させて頂きます。
第13 吉州飛行場(昭和18年4月調)
管理者 朝鮮総督府逓信局。
位置 朝鮮咸境北道吉州郡徳山面。
(吉州邑の南南西方約5粁、北緯40°55′0、東経129°19′0)。
種別 公共用陸上飛行場。
着陸場の状況
高さ
平均水面上約90米。
広さ及形状
本場は長さ南北700米、幅東西約400米の略長方形地域なり
着陸地域は概ね図示の長さ南北600米、幅東西60米の砂利敷滑走地区を最適とす (付図参照)。
地表の土質
粘土。
地面の状況
滑走地区は整地の上砂利敷せる平坦且堅硬地なり・其の他の地域は一面に雑草密生せる平坦地なるも
降雨後及解氷期には排水稍不良の為地表軟弱と為る・乾燥時は硬度中等程度なるを以て
風向等に依りて草地の全地域を使用するも支障なし・場周に排水開渠あり。
場内の障碍物
なし。
適当なる離着陸方向
南又は北(恒風)。
離着陸上注意すべき点
南北両端に在る排水溝を飛越えざる様注意を要す。
施設
格納庫なし・常駐員なし。
昼間標識 吹流1・場周境界標識あり。
夜間標識 なし。
周囲の状況
山岳
周囲は概ね平坦なる耕作地にして特に南北方向は開濶なるも東及西方は山地なり
即ち東方は南大川の対岸より直に山地と為り漸次東走するに従い標高を増し
約7粁にして高さ500米内外の山岳南北に縦走す・
西方は約2.3粁にして山麓に達し約10粁にして高さ800米の山岳重畳し更に西方は標高2,200米の長白山脈と為る。
河川
東方約300米に小河流あり更に東方1.5粁に南大川南流す、
本河は北西方約60粁の高頭山付近に源を発し大小河川を合流して日本海に注ぐ。
建築物
場の西端中央部に高さ15米の吹流柱1基ある外周囲に障碍となる建築物
なし。
電線
場の西方約100米に略南北に架設せる高さ7米の電灯線あり。
■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」
にも、当飛行場の1/10,000の要図がありましたが、飛行場の地割は水路部資料と同様でした。
要図には書き込みがあり、
判決 本飛行場は吹雪、霧の為吉州東北方高地帯(気象悪し)を通過
し得ざる場合不時着に使用するを可とす
恒風:北
とありました。
同資料に当飛行場の情報がありました。
以下引用させていただきます。
位置 咸鏡北道吉州郡
積量 記載無し
地表の状況 土質砂混粘土にして堅硬なるも雨期及解
氷期に於ては表面軟弱となることあり
周囲の状況 記載無し
天候気象の交感 記載無し
其の他 記載無し
日本国内では航空機の進展に順応して、行政機構の設置、関連法令の制定と航空保安施設の整
備が行われていたが、朝鮮では昭和4年の日鮮満を結ぶ定期航空路の開設に伴いようやくこれに
取組むようになったが、しかも急速に整備する必要に追われた。(中略)
定期航空開始に間に合うようこれの寄航地は次のように準備されたが、朝鮮の飛行場建設に当
たり特に留意しなければならぬ要点は
(1)冬期に土壌の凍結がひどいこと
(2)梅雨季には豪雨により地盤が軟弱となったり、飛行場が冠水するおそれがあること
等があったが朝鮮内では適当な候補地を得られないので、これが選定に当たっては相当苦慮させ
られ、施工に当たっても予想以上の困難が伴った。(中略)
終戦までに整備した飛行場の概況は次の通りである。
吉州飛行場 1046p
最初は滑空機訓練兼補助飛行場として平坦な高台に作られたが、昭和19年約25万平方米を整
備、1,000mの滑走路を作るべく着手したが未完成に終わった。
朝鮮・吉州飛行場跡地
吉州飛行場 データ(昭和18年4月調)
設置管理者:朝鮮総督府逓信局
種 別:公共用陸上飛行場
所在地:朝鮮咸境北道吉州郡徳山面(吉州邑の南南西方約5km)
座 標:N40°55′13″E129°18′47″
標 高:98m
滑走路:600mx60m
着陸帯:700mx400m
方 位:18/36
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)
関連サイト:
過去ログ - WarBirds■
この記事の資料:
朝鮮交通史
防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」
朝鮮・中江鎮飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]
2017年7月作成 2022/1更新
北朝鮮の中江郡中江(ちゅうこう)鎮。
ここに「中江鎮飛行場」がありました。
北朝鮮の中でも北部に位置し、しかも標高330mという高地にあります。
Wikiによれば、中江鎮は朝鮮半島最寒の地で、1月の平均気温は-16.5℃、1933年に-43°Cを記録したのだそうです。
後述しますが、水路部資料の中でも、
「毎年11月上旬より翌年4月上旬に至る間は積雪30糎に達し且地下約1.5米迄凍結す。」
という一文があり、極寒の地であることを窺わせます。
中国との国境であり、上のマップにも出てますが、飛行場敷地から最短400m足らず、鴨緑江を渡った先はもう中国です。
前記事の「江界飛行場」に引き続き、ここも平安北道警察部管理の警備用陸上飛行場です。
当飛行場は、米軍が付した識別コード表にも登録がないので、
朝鮮戦争では(少なくとも飛行場としては)使用されなかったのではないかと思います。
そのせいもあってか、この飛行場についてはネット上の情報が非常に少なくて、
■「京城飛行場小史」(下記リンク参照)の中で、
「朝鮮航空研究所は1930年(昭和5年)9月、新義州・中江鎭間試験飛行を実施した」とあり、
■「京城飛行場」(下記リンク参照)の中で、
「昭和6年に京城-中江鎮の試験飛行が朝鮮航空研究所によって行われた」とありました。
このことから、遅くとも昭和5年には飛行場として開設しており、
日本による統治終了と共に閉鎖したのかもしれません。
■防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」
の中から、当飛行場についての資料を以下引用させて頂きました。
第12 中江鎭飛行場(昭和18年4月調)
管理者 平安北道警察部。
位置 朝鮮平安北道慈城郡中江面中坪洞中江鎮。
(中江鎮の北東方0.8粁、北緯41°42′0、東経126°55′0)。
種別 警備用陸上飛行場。
着陸場の状況
高さ
平均水面上約330米。
広さ及形状
本場は長さ北東-南西880米、幅北西-南東平均150米の中央に於て彎曲せる略長方形地域なり。
着陸地域は概ね図示の長さ北東-南西800米幅50米の舗装滑走路を最適と認むるも
風向等に依りては場内の全地域を使用するも支障なし(付図参照)。
地表の土質
砂混り尋常土。
地面の状況
滑走路は砂及尋常土を以て転圧舗装し平坦且堅硬なり・其の他の整地地区は凸凹起伏なき平坦地にして概ね堅硬なり・
殆ど一面に芝及雑草を生ず・排水良好なるも降雨後及解氷期(4月上旬)には地表軟弱と為る・
毎年11月上旬より翌年4月上旬に至る間は積雪30糎に達し且地下約1.5米迄凍結す。
場内の障碍物
場内南西側に高さ4米の格納庫1棟あり。
適当なる離着陸方向
夏季は南西、冬季は北東(恒風)を可とす。
離着陸上注意すべき点
冬季積雪の為着陸地域は稍狭隘となり又解氷期には地表泥濘となるを以て可及的舗装滑走路を使用するを可とす。
施設
木造格納庫1(間口14.6米、奥行14.6米、高さ4米)平安北道警察部所属・満州航空株式会社中江鎮出張所・
油庫1・倉庫・気象観測所等あり。
昼間標識 吹流信号柱(西端中央部)1あり。
夜間標識 なし。
周囲の状況
山岳
本場は鴨緑江の左岸に位し北方は畑地にして南東方は水田多し・付近は蓋馬高台と称する台地の北縁に在り
東方約700米付近より山地と為り次第に標高を増し2.4粁にして高さ900米の烏徳山あり・
西方は約300米にして鴨緑江に臨み対岸は直に1,121米山の山麓となり東西両方向は極めて狭隘なるも
北東及南西方の河流方向は地貌稍開濶なり。
樹林
北東方約300米の鴨緑江河岸に卑低なる柳林ある外付近に障碍となるものなし。
朝鮮・中江鎮飛行場跡地
中江鎮飛行場 データ(昭和18年4月調)
設置管理者:平安北道警察部
種 別:警備用陸上飛行場
所在地:朝鮮平安北道慈城郡中江面中坪洞中江鎮(中江鎮の北東方0.8km)
座 標:N41°46′55″E126°52′51″
標 高:330m
滑走路:800mx50m
方 位:04/22
(座標、標高、方位はグーグルアースから)
沿革
1930年09月 朝鮮航空研究所、新義州・中江鎭間航空路の試験飛行実施
1931年 朝鮮航空研究所、京城・中江鎮間試験飛行実施
関連サイト:
京城飛行場■
京城飛行場小史■(リンク切れ)
この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」
朝鮮・江界飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]
2017年7月作成 2022/1更新
北朝鮮北部にある江界(こうかい)市。
中国との国境まで40kmのこの場所に「江界飛行場」がありました。
水路部の資料に載っている朝鮮半島の飛行場を順番に記事化しているのですが、
ここまでずっと「朝鮮総督府逓信局管理の公共用陸上飛行場」ばかりでした。
11番目にして管理者は、平安北道警察部、そして種別は警備用陸上飛行場です。
ここは滑走路の形は単純なんですが、位置決めに手間取りました。
飛行場西隣に飛行場と並走するように満裏本線が走っています。
滑走路の長さは650mで、水路部の地図では滑走路の北端から300m弱南下した辺りに駅が描かれております。
つまり、滑走路のほぼ真ん中らへんの西隣に駅があります。
で、最初はこの駅の位置に合わせて作図しようとしました。
一方、満裏本線は飛行場の北側で西に曲がり、南側の方でも河に合わせて大きく蛇行していて、
どちらの線形を基準とするかで、滑走路と駅との位置関係が大きくズレてしまいます。
河の形は時代と共に大きく変わるからそこまで厳密にならなくてもいいとして、川の対岸の地形もどうもしっくりきません。
「アチラを立てればコチラが立たず」で、結局全体を見ながら最大公約数的な位置にしてあります。
線路と川に挟まれているので、東西方向はほとんどズレてないと思いますが、
南北方向は最大で数百メートルのズレが生じていると思います。
ご了承くださいませ。
結局駅との位置関係は大きくズレてしまいました。
もしかして駅の位置が変わったのかも(と自分に言い聞かせる)。
現地の方がこのマップ見たら怒らないかしらん。
ご覧の通りで現在はすっかり畑地になっていて、地割も滑走路方向とズレています。
資料には、11月~翌年3月までの冬季は地表凍結し、河面も結氷し通行可能とあるなど、
寒さが非常に厳しい土地のようです。
当「江界飛行場」については、日本語でググっても全然引っかからず、
英語(Kanggye Airfield)、ハングル(강계 비행장)でググってやっと出てきたのは、
K-36 - 江界#2飛行場(Kanggye#2 Airdrome)という米空軍識別コードのみ。
ということで、当江界飛行場は K-36ということのようなんですが、"#2" というのが私気になります。
#2が「第二飛行場」ということなら、#1 の「第一飛行場」がありそうなものですが、
ズラリと並ぶコード表に「江界」が登場するのはK-36のみ。
別サイトでは、
K-36について、Kanggye No. 1 とありました。
ナゾです。
■防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」
から当飛行場の資料の一部を引用させて頂きました。
第11 江界飛行場(昭和18年4月調)
管理者 平安北道警察部。
位置 朝鮮平安北道江界郡公北面公仁洞。
(公仁駅の東方約100米、北緯40°55′0、東経126°36′0)。
種別 警備用陸上飛行場。
着陸場の状況
高さ
平均水面上約295米。
広さ及形状
本場は長さ南北630米、幅東西145米総面積9.9萬平方米の略長方形地域なり。
着陸地域は概ね図示の長さ南北630米、幅50米の滑走路を最適と認むるも
風向等に依りては滑走路を含む幅東西145米の整地地区を使用するも支障なし(付図参照)。
地表の土質
砂混り粘土質。
地面の状況
滑走路は砂混り粘土質の転圧舗装にして日射及降雨に因る影響なく平坦且堅硬なり・
滑走路の東西両側の整地地区は処々に凸凹せる箇所あるも概ね平坦にして夏季雑草繁茂す・
全般的に西方に向け1/200の下り片勾配を為す・排水概ね良好なるも滑走路以外の地域は降雨後処々に水溜を生ず・
11月至翌年3月間は積雪30糎に達し此の期間中は地表凍結し離着陸上好都合なりと言う。
場内の障碍物
なし。
適当なる離着陸方向
恒風の関係上夏季は南、冬季は北を適当とす。
離着陸上注意すべき点
東及び西方は山地にして低空旋回飛行は危険なり。
施設
舗装滑走路1條・平安北道警察部所属油庫1棟(高さ4米)あり。
周囲の状況
山岳及丘陵
本場は鴨緑江の支流秀魯江右岸河原に在り南北河流方向は稍開濶なる平坦地なるも
東、西方向は何れも山岳迫り東方約1粁に584米山、西方約2.5粁に820米山聳立す、
之より更に外方は本場を略中心とし標高1,100米内外の山岳重疊す。
樹林
至近に障碍となる樹林なきも東西両方向の山麓より山地一帯は高さ20米内外の森林を以て蔽わる。
河川
東方約300米に北流する秀魯江あり北方約8粁の江界村落付近より西流し幾多の支流を合し
東來江となり西方約50粁にして鴨緑江に合流す・南方約1粁に人馬用の渡船場あり・
冬季(12月至翌年3月間)は河面結氷し通行可能と為る。
(中略)
其の他
本場は嘗て仁可站飛行場と称する不時着陸場に過ぎざりしも昭和7年国境事變当時陸軍機の前進基地として使用せられ
其の後拡張整地工事を施し昭和14年11月警察機の離着陸場として設置せられ
目下平安北道警察部に於て主用中なり。
朝鮮・江界飛行場跡地
設置管理者:平安北道警察部
種 別:警備用陸上飛行場
所在地:朝鮮平安北道江界郡公北面公仁洞(公仁駅の東方約100m)
座 標:N40°55′09″E126°36′24″
標 高:295m
滑走路:630mx50m(整地地区:630mx145m)
方 位:18/36
(座標、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)
沿革
1932年 陸軍機の前進基地として使用(それまでは不時着陸場「仁可站飛行場」だった)
1939年11月 拡張して警察機の離着陸場となる
この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」
朝鮮・咸興飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]
2017年7月作成 2022/7更新
北朝鮮咸鏡南道咸興市。
ここに朝鮮総督府逓信局の「咸興飛行場」がありました。
ここは東西に伸びる飛行場専用道路、飛行場敷地境界線、滑走路、ターニングパッドが
(部分的にですが)非常にいい感じに残っています。
ここまで朝鮮の飛行場に関しては、現地の地割に痕跡がほとんど残っていなかったので、
水路部の地図優先で作図したのですが、ここは地割に痕跡が余りにステキに残っているので、
数十メートルの誤差が出てしまうのですが、現地の地割優先で線を引きました。
■「WarBirds/咸興飛行場」によりますと、
昭和13年、新宮飛行場を仮使用して、京城-咸興-清津定期航空を開始。
14年、清津と同様に海霧を避けて、城川江の堤防沿いの内陸に飛行場を新設。
水田地帯のため洪水に悩まされる。
後に軍でも西飛行場の名前で使用。
とありました(下記リンク参照)。
またこれを裏付けるように、「京城飛行場 時刻表」では、
大日本航空が月水金運航で、京城-咸興-清津 路線を開設していたと記されています(下記リンク参照)。
■朝鮮交通史 1041p
昭和14年現在の飛行場 として、以下記されていました。
滑走地帯(東西・南北)m 600 600
■朝鮮交通史 1041p
日本国内では航空機の進展に順応して、行政機構の設置、関連法令の制定と航空保安施設の整
備が行われていたが、朝鮮では昭和4年の日鮮満を結ぶ定期航空路の開設に伴いようやくこれに
取組むようになったが、しかも急速に整備する必要に追われた。(中略)
定期航空開始に間に合うようこれの寄航地は次のように準備されたが、朝鮮の飛行場建設に当
たり特に留意しなければならぬ要点は
(1)冬期に土壌の凍結がひどいこと
(2)梅雨季には豪雨により地盤が軟弱となったり、飛行場が冠水するおそれがあること
等があったが朝鮮内では適当な候補地を得られないので、これが選定に当たっては相当苦慮させ
られ、施工に当たっても予想以上の困難が伴った。(中略)
終戦までに整備した飛行場の概況は次の通りである。
咸興飛行場 1046p
昭和13年定期航空が開発されたが適当な候補地がなかったので仮に新宮飛行場を応急に使用
し、昭和14年城川江の奥に飛行場を新設した。清津同様に霧の被害を除けるため城川江の堤防
に沿って内陸に作ったが、水田地帯であったので洪水に悩まされた。
後年軍も使用するようになったが、この飛行場は西飛行場と称せられた。
■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行
の中で、「本邦定期航空現況(昭和十三年十二月現在)」として以下記されていました(7コマ)■
経営者 大日本航空株式会社
航空線路 京城-清津
区間 京城-咸興間 毎日一往復
咸興-清津間 毎日一往復
線路開設年月 昭和十三年十月
■「滑翔の灯 昭和16年」には、
(朝鮮咸興滑空訓練場の開設)咸興道では咸興飛行場を滑空訓練場にすることになり整備を進めているが、
8月下旬から訓練を始める予定である。
とありました(下記リンク参照)。
また、アジ歴で飛行場名で検索したところ、
■「咸興飛行場設置に関する件」がヒットしました(下記リンク参照)。
昭和十五年十一月十二日 朝鮮総督府逓信局長から陸軍次官に宛てたもので、
「昭和十五年十一月三日付を以て咸興飛行場を別紙の通設置せられたるに付通知す」
と記されており、飛行場図面も添付してありました。
それによれば、滑走路は、南北570mと、北西-南東560mの2本のみです。
水路部の昭和18年資料と比較すると、滑走路は2本少なく、しかも少し短いです。
昭和15年の設置通知から昭和18年までの間に滑走路延長し、更に2本追加したのですね。
■防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」から、
当飛行場関連資料の一部を引用させて頂きました。
第10 咸興飛行場(昭和18年4月調)
管理者 朝鮮総督府逓信局。
位置 朝鮮咸鏡南道咸州郡川原面。
(咸興府の北西方約8粁、北緯39°58′0、東経127°28′0)。
種別 公共用陸上飛行場。
着陸場の状況
高さ
平均水面上約20米。
広さ及形状
本場は長さ南北1,000米及東西1,000米の略凸字形地域なり。
着陸地域は概ね図示の長さ南北800米、東西750米、北西-南東800米、
及北東-南西750米、幅各40米の舗装滑走路を最適とす(付図参照)。
地表の土質
芝地は砂混り尋常土。
地面の状況
滑走路は主として「アスファルト」舗装なるも北東-南西滑走路のみは砕石「マカダム」舗装なり・
東端に在る飛行場事務所前面の整備場より各滑走路に連絡する東西600米、幅20米の誘導舗装路1條あり・
滑走路以外の地区は概ね平坦地にして一面に芝及雑草を生じ夏季は相当に伸長す・
地盤は処々に軟弱なる箇所あるを以て滑走路以外の地区は使用せざるを可とす。
場内の障碍物
なし。
適当なる離着陸方向
各滑走路方向を可とするも恒風の関係上夏季は南、冬季は北を可とす。
離着陸上注意すべき点
可及的滑走路を主用するを要す・冬季北又は北西の季節風卓越せる際は高度500米以下の旋回飛行に注意を要す。
施設
格納庫なし・舗装滑走路4條・朝鮮総督府逓信局事務所及大日本航空株式会社事務所・器材庫1・気象観測場・
無線電信局・郵便局分室・他に陸軍関係諸建物多数あり。
昼間標識 吹流1・境界標識等あり。
夜間標識 着陸照明燈1・飛行場標識灯1・T型風向標示燈1・場周燈19・進入燈8・障碍燈5・溢光燈1・接地燈2・雲照燈1・
「ネオン」信号灯(圓錐形、モールス信号発信可能)等あり。
周囲の状況
山岳
本場は咸興平野の北部に位し付近一帯は城川江の河洲又は水田にして河流 方向の南北方向は極めて広濶なり、
然れども東西方向は各約3粁乃至4粁にして山地と為り且西方は約3粁にして烏岳峰(385米)の山麓に達し、
東方約4粁に咸興府北方の山峰連互す。
堤防
場の東方約500米の城川江支流に高さ約6米の堤防あり。
■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」
にも1/10,000の同様の要図がありました。
朝鮮・咸興飛行場跡地
咸興飛行場 データ
設置管理者:朝鮮総督府逓信局
種 別:公共用陸上飛行場
所在地:朝鮮咸鏡南道咸州郡川原面(咸興府の北西方約8km)
座 標:N39°58′22″E127°27′51″
標 高:20m
滑走路:800mx40m(18/36)、750mx40m(09/27)、800mx40m(13/31)、750mx40m(04/22)
(座標、標高、方位はグーグルアースから)
沿革
1938年 大日本航空、京城-咸興-清津定期便開設
1941年 咸興飛行場を滑空訓練場として整備
関連サイト:
咸興飛行場 - WarBirds■
京城飛行場 時刻表■(リンク切れ)
滑翔の灯 昭和16年■(リンク切れ)
アジ歴/「咸興飛行場設置に関する件」■
この記事の資料:
朝鮮交通史
防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」
朝鮮・新義州飛行場 [└日本統治時代の飛行場]
2017年7月作成 2024/11更新(未訪問)
北朝鮮北西部、中国との国境新義州市にある「新義州飛行場」。
元々河川敷地の簡易飛行場だったものを、朝鮮総督府逓信局が昭和8年に正式に飛行場として設置したのでした。
西﨑キク(埼玉県児玉郡七本木村現・上里町)が昭和9年に満州訪問飛行のため、
羽田を離陸して、途中寄港した飛行場でもあります。
上のグーグルマップは、水路部資料の地図から作図しました。
当時は2本の滑走路が交差していましたが、現在は北北東~南南西方向の990mx65m滑走路1本のみになっております。
当時とは滑走路方向が微妙に異なり、位置が90m南にズレている様子が分かります。
オイラは昭和18年4月調の資料に添付の地図から作図したのですが、
当時は格納庫等飛行場の諸施設がほぼ一列に並んでエプロン前に並んでいました(マップの青マーカーの所)。
現在でもここには、角度がズレ、距離も最大50m弱異なるのですが、
資料に描かれているのと建物の形がやけに似たものが映っています。
日本統治当時のものなのかどうか、現地で確かめてみたいのですが。。。
他にも、個人的には「これは当時の地割と一致しているのでは?」と思わせる箇所が幾つか残っています。
はー。直接見てみたい。
グーグルアースで見ると、滑走路は未舗装だし、土を盛って作った無蓋掩体壕がポコポコ並んでるし、
なんだかとってもノスタルジックでのんびりした飛行場に見えるのですが、
れっきとした「北朝鮮の軍用飛行場」なので、日本人のオイラがアチコチ立ち入ってヘラヘラ写真でも撮り始めようものなら、
きっと10秒後には北朝鮮ソルジャーに両側からガシッと掴まれてどこかに連れていかれて〇されそうです。
話を戻します。
当時のエプロン前の諸施設が集まっていた場所から、新義州府に至る2等道路が伸びていました。
飛行場敷地から直接連絡している道路はこれが唯一のもので、上のマップの北側に伸びる紫色の線がそれです。
角度、位置共にピッタリ重なる結構目立つ道がありますので、これがそうだと思います。
韓国版Wikiでは当飛行場については非常に簡単な情報しかないのですが、
英語版Wikiではわりと詳しく扱われていました(下記リンク参照)。
それによれば、「日本が建設した」的なことは一切扱っておらず、
高麗航空が平壌への旅客便、貨物便を運航していることが記されており、
飛行場の歴史はイキナリ朝鮮戦争から始まります。
…流石英語版(o ̄∇ ̄o)フフ
朝鮮戦争当時、米軍からK-30の識別符号が与えられました。
現在のところ、当飛行場はグーグルアースで2002年4月撮影分からかなり細かく閲覧できるのですが、
2015年3月までは何もなかった滑走路東側に、9月の写真で一挙に無蓋掩体壕が設置されています。
■朝鮮交通史 1041p
昭和14年現在の飛行場 として、以下記されていました。
滑走地帯(東西・南北)m 650 500
■朝鮮交通史 1041p
日本国内では航空機の進展に順応して、行政機構の設置、関連法令の制定と航空保安施設の整
備が行われていたが、朝鮮では昭和4年の日鮮満を結ぶ定期航空路の開設に伴いようやくこれに
取組むようになったが、しかも急速に整備する必要に追われた。(中略)
定期航空開始に間に合うようこれの寄航地は次のように準備されたが、朝鮮の飛行場建設に当
たり特に留意しなければならぬ要点は
(1)冬期に土壌の凍結がひどいこと
(2)梅雨季には豪雨により地盤が軟弱となったり、飛行場が冠水するおそれがあること
等があったが朝鮮内では適当な候補地を得られないので、これが選定に当たっては相当苦慮させ
られ、施工に当たっても予想以上の困難が伴った。(中略)
終戦までに整備した飛行場の概況は次の通りである。
新義州飛行場 1045p
河川敷地を簡易飛行場として使用していたが、昭和8年飛行場を建設した。
敷地は600mx500mで恒風は河に沿って吹いていたので使用には支障なかったが、洪水によ
る被害で、1ヵ月も使用できないこともあった。
同地は国境飛行場であるので税関も常駐し国境警備飛行も同所を基地にしていたので格納庫等
が建設されていた。
■防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」の中から、
当飛行場についての部分を一部引用させて頂きます。
第9 新義州飛行場(昭和18年4月調)
管理者 朝鮮総督府逓信局。
位置 朝鮮平安北道新義州豊西洞。
(新義州府の南東方約2粁、北緯40°5′0、東経124°24′0)。
種別 公共用陸上飛行場。
着陸場の状況
高さ
平均水面上約6米。
広さ及形状
本場は長さ北東-南西830米、幅北西-南東平均300米及長さ北北西-南南東730米、
幅北東-南西380米の略L字形地域なり
着陸地域は長さ北北東-南南西630米、幅45米及長さ北北西-南南東620米、
幅40米の2條の舗装滑走路を最適と認むるも前記滑走路を含む概ね図示の整地地区を使用するも支障なし(付図参照)。
地表の土質
砂礫を混ずる尋常土。
地面の状況
場内の略中央に互に斜交する滑走路2條あり(1)滑走路は幅45米にして
中央部15米は「アスファルト」舗装にして此の両側各15米は水締「マカダム」舗装なり又
(2)滑走路は「マカダム」舗装にして何れも降雨及季節に因る影響なく平坦且堅硬なり・
格納庫前の整備場より(1)滑走路に連絡する長さ100米、幅15米の誘導路1條あり・
滑走路以外の地域は概ね平坦なるも中央部稍高く略南東方に向け極めて緩除なる下り傾斜を為す・
殆ど一面に雑草発生し夏季は刈取手入を施す・地盤は概ね中等程度の硬度なるも雨期及解氷期は軟弱又は泥濘と為る・
冬季(12月至翌年4月間)は地表凍結し強風の際は砂塵を飛揚す・
排水は盲暗渠に依る滲透式と場周溝とに依るを以て概して良好なり・
整地地区の周縁表示の為場周燈及境界標識を設けあり。
場内の障碍物
なし。
適当なる離着陸方向
北東(主として冬季)又は南西(主として夏季)、北北西又は南南東。
施設
大日本航空株式会社格納庫1(間口18米、奥行20米、高さ8.8米)、
平安北道警察部所属格納庫1(間口18米、奥行12米、高さ9.5米)・
総合庁舎1(朝鮮総督府逓信局事務所、大日本航空株式会社事務所、満州航空株式会社事務所)・
新義州郵便局分室・税関出張所・気象観測所・器材庫・油庫・転圧機庫・倉庫等あり。
昼間標識 吹流1・場周標識あり。
夜間標識 着陸照明燈2(移動式500「キロワット」1、孤立型10「キロワット」1)・(1「キロワット」2連閃光・中型)・
T型風向標示燈1(4米、青、赤2囘路)・場周燈19(橙色)・進入燈(青色)8・障碍物標示燈・溢光燈1・
雲照燈・航空灯台(2連閃光)等あり。
(中略)
其の他
本場は昭和8年3月朝鮮総督府の設置に係る公共用飛行場にして目下大日本航空株式会社定期航空路東京-大連及新京線の寄港地なり・昭和14年度拡張計画に依る場内南東部地区は同15年3月整地工事完成せり。
■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」
にも1/10,000の同様の要図がありました。
同資料に当飛行場の情報がありました。
以下引用させていただきます。
位置 平安北道龍川郡新義州
積量 記載無し
地表の状況 記載無し
周囲の状況 記載無し
天候気象の交感 記載無し
格納施設 記載無し
居住施設 記載無し
交通連絡 記載無し
其の他 一、本飛行場濃霧の為止むを得ざれば安東飛
行場に着陸するを可とせん
二、アは無線アンテナ フは吹流信号柱とす
三、施設「通信観測、夜間照明」
■朝鮮交通史 1033p
表2 鮮内飛行場利用状況より:新義州飛行場
昭和4年度 | 昭和5年度 | 昭和6年度 | 昭和7年度 | 昭和8年度 | ||
航空機 |
到 着
出 発
|
- | - |
156
157
|
601
595
|
600
594
|
旅 客 |
到 着
通 過
出 発
|
- | - |
81
313
112
|
564
1,267
710
|
683
1,169
856
|
貨 物
kg
|
到 着
通 過
出 発 |
- | - |
51.00
433.31
59.03
|
548.64
1,910.59
210.74
|
625.31
1,185.70
420.33
|
郵便物 kg |
到 着
通 過
出 発 |
- | - |
34.77
1,310.13
192.63
|
2,909.85
6,702.79
2,614.72
|
20,183.73
10,097.51
4,965.09
|
不定期
航空機
|
到 着
出 発 |
- | - |
54
54
|
151
154
|
249
248
|
昭和6年鮮満間航空乗り入れ協定が締結され、
昭和12年満航の新京-新義州、新京-京城乗入れが開始された。
(満航=満洲航空株式会社)
の中で、「本邦定期航空現況(昭和十三年十二月現在)」として以下記されていました(6コマ)■
経営者 大日本航空株式会社
航空線路 東京-大連
区間 東京-名古屋間 毎日三往復
名古屋-大阪間 毎日三往復
大阪-福岡間 毎日二往復
福岡-大邱間 毎日一往復
大邱-京城間 毎日一往復
京城-平壌間 毎日一往復
平壌-新義州間 毎日一往復
新義州-大連間 毎日一往復
線路開設年月 昭和四年四月
の中で、「本邦飛行場一覧(昭和十三年十月現在)」として以下記されていました(8コマ)■
名 称 新義州飛行場
経営者 國
所在地 朝鮮平安北道義州郡光□面豊西洞
水陸の別 陸
滑走区域 長六〇〇米 幅二〇〇米
備 考 (記載無し)

本土航空作戦記録 (文書名: Japanese Monographs = 日本軍戦史 ; Monograph No. 23) (ボックス番号: 3)■
本土決戦の際、米軍が郡山付近に上陸した想定の飛行部隊展開配置図。
新義州飛行場も作戦に組み入れられていました。
詳しくは潭陽飛行場記事をご覧ください■
朝鮮・新義州飛行場
・新義州飛行場 データ(昭和18年4月調)
設置管理者:朝鮮総督府逓信局
種 別:公共用陸上飛行場
所在地:朝鮮平安北道新義州豊西洞(新義州府の南東方約2km)
座 標:N40°05′20″E124°24′30″
標 高:6m
滑走路:630mx45m(02/20)マカダム(中央15mはアスファルト)、 620mx40m(16/34)マカダム
(座標、方位はグーグルアースから)
・名 称:新義州飛行場
設置管理者:北朝鮮新義州
種 別:軍用
座 標:N40°05′11″E124°24′20″
標 高:7m
滑走路:991m草
方 位:03/21
(Wiki/Sinuiju Airportより)
沿革
1928年 航空標識設置
1931年 鮮満間航空乗り入れ協定締結
1933年 3月 朝鮮総督府、飛行場設置(元、河川敷地の簡易飛行場だった)
1934年 10月31日、西﨑キク、満州訪問飛行の途中当飛行場に着陸。11月3日離陸
1937年 満航、新京-新義州乗入れ開始
1940年 3月 場内南東部地区整地工事完成
1950年 朝鮮戦争でも軍用飛行場として使用される
関連サイト:
Wiki/Sinuiju Airport■
この記事の資料:
朝鮮交通史
防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」
朝鮮・汗浦飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]
2017年7月作成 2022/1更新
北朝鮮黄海北道にあった「汗浦飛行場」。
韓国との国境から40km地点、禮成江右岸に位置しています。
上の地図は例によって水路部資料の地図から作図したのですが、
ここもとっかかりがなくて、線路、川、集落との位置関係から位置決めしました。
かなりアバウトで、「誤差50m以内に収まってれば御の字」というレベルです。
ご了承くださいませ。
現在当地には整然とした畑地が広がっており、
作図した滑走路は畦道と微妙に角度が異なっております。
作図がアバウトなので、もしかしたら、この畦道は当時の飛行場の地割に沿っている可能性があります。
特に、地図には飛行場敷地に沿って排水溝が設けられていたことが描かれており、
資料にある通り、飛行場外周寸法である790mx200mの地割があったら非常に怪しいのですが、
そういう地割は無いようです。
一連の「朝鮮の飛行場」の中で、初の北朝鮮の飛行場なのですが、
「汗浦飛行場」で検索しても、まったく引っかかりません。
한포비행장(汗浦飛行場)で検索してやっと1つだけ、それらしいものがヒットしました。
管理者がどういった方なのか不明なのですが、
Facebook上にこの頃の朝鮮の航空事情と日本との関わりが非常に詳しくまとめられており、その中で、
「1939年にはハンポ補助飛行場(汗浦補助飛行場)を、1940年には大田補助飛行場を設置した。」
とありました。
水路部の資料の中では、汗浦飛行場が「補助」とは記されていないのですが、
飛行場施設は吹流しのみで格納庫もなく、滑走路も500mx40mと小規模なもの1本のみであることから、
「補助飛行場」というのは、妥当な評価と思います。
■防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」
から当飛行場の情報を一部引用させて頂きます。
第8 汗浦飛行場(昭和18年4月調)
管理者 朝鮮総督府逓信局。
位置 朝鮮黄海道平山郡金岩面汗浦里。
(汗浦里の北東方約1.4粁、北緯38°13′0、東経126°29′0)。
種別 公共用陸上飛行場。
着陸場の状況
高さ
平均水面上約20米。
広さ及形状
本場は長さ北東-南西790米、幅北西-南東200米の長方形地域なり
着陸地域は概ね図示の場の略中央に於て長さ北東-南西500米、幅40米の砂利敷滑走地区を最適とす(付図参照)。
地面の状況
概ね凸凹起伏なき平坦地なり・滑走地区は深さ約10糎に砂利敷地の上転圧せるを以て
地盤は概ね堅硬且降雨後の排水極めて良好なり・
其の他の地域は丈低き雑草生じ降雨後及解氷期は地盤軟弱と為る・
場周に境界標識及排水開渠あり。
場内の障碍物
なし。
適当なる離着陸方向
着陸は南西に、離陸は北東を可とす。
離着陸上注意すべき点
場の南方約200米に北西-南東方向に架設せる高さ15米の高圧送電線は離着陸上障碍物となるを以て注意を要す。
施設
格納庫なし。
昼間標識 西側中央部に吹流1(高さ15米)・場周境界標識あり。
夜間標識 なし。
周囲の状況
山岳
本場は禮成江右岸流域に位し南北河流方向は地勢概ね開濶なるも東西方向は山岳地帯にして
西方は約2.3粁にして標高100米の山地と為り更に西方約11粁に高さ509米の鉄峰山聳立す・
東方は禮成江の対岸より直に高さ50米内外の丘陵連互し東走するに従い次第に発達せる山岳地帯と為る。
森林
付近に障碍となる森林なし。
河川
本場の東側を南流する禮成江は平常場面より約2米低く河幅80米あるも水面は平常約40米内外なり、
下流よりする舟運の便なきも対岸とは渡船連絡す。
建築物
場の南西方約300米付近より人家密集せる汗浦里村落あり。
電線
南方約200米を北西-南東方向に架設せる高さ15米の高圧電線あり。
着目標
禮成江、鉄橋(南西方約1.3粁)、汗浦里村落。
■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」
にも1/10,000の要図と、情報がありました。
以下引用させていただきます。
位置 朝鮮■道平山郡金岩面汗浦里
積量 記載無し
地表の状況 記載無し
周囲の状況 西南側に近く高圧線あるを以て不時着陸に
際し特に注意を要す
天候気象の交感 雨期解氷期には当分軟弱となれる處あり
大出水の場合は浸水することあり
格納施設 記載無し
居住施設 記載無し
交通連絡 記載無し
其の他 記載無し
朝鮮・汗浦飛行場跡地
汗浦飛行場 データ
設置管理者:朝鮮総督府逓信局
種 別:公共用陸上飛行場
所在地:朝鮮黄海道平山郡金岩面汗浦里(汗浦里の北東方約1.4km)
座 標:N38°13′47″E126°28′05″
標 高:20m
滑走路:500mx40m
方 位:03/21
(座標、方位はグーグルアースから)
沿革
1939年 設置
この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」