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朝鮮・吉州飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]

   2017年7月作成 2022/7更新  




北朝鮮咸鏡北道吉州(きるちゅ)郡。

ここに「吉州飛行場」がありました。

先頭のグーグルマップは水路部の地図を参考に作図しました。

咸鏡本線、道路、川等、位置決めのポイントになりそうなものが多いように思っていたのですが、

ピッタリの起点が見つからず、

水路部資料地図で作ったレイヤーをああでもないこうでもないと、モニターとにらめっこでグリグリ動かしたのですが、

最終的に飛行場敷地すぐ北側にある十字路(グーグルマップでは五差路)の道路の形が大体重なったため、

ここに合わせました。

ひょっとすると、壮大に1km位ズレてるかもしれませんのでご了承くださいませ。

当飛行場もネット上での情報が非常に限られており、

識別符号がK-31である。ということを除けば、WarBirdsの中で、

「吉州飛行場(咸鏡北道)
 当初は、滑空機用兼簡易飛行場として平坦な高台に設置。
 19年に約25万平方米を整備し、1000m級滑走路の建設に着手するが、未完成。」

と記されているのが、ハングル、英語も含めて検索した中でこれが唯一と言っていい情報でした。

余談ですが、上のグーグルマップにヒコーキのマーカーがあります。

グーグルアースの同じ位置にもヒコーキのマーカーがあり、"Kilch Highway Strip"とありました。

他サイトではこれを「吉州緊急滑走路」としているものもあります。

2km以上の長さがありますので、緊急滑走路には十分と思います。


■防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」 

の中から当飛行場についての資料の一部を引用させて頂きます。

第13 吉州飛行場(昭和18年4月調)
管理者 朝鮮総督府逓信局。
位置 朝鮮咸境北道吉州郡徳山面。
   (吉州邑の南南西方約5粁、北緯40°55′0、東経129°19′0)。
種別 公共用陸上飛行場。
着陸場の状況
高さ
 平均水面上約90米。
広さ及形状
 本場は長さ南北700米、幅東西約400米の略長方形地域なり
 着陸地域は概ね図示の長さ南北600米、幅東西60米の砂利敷滑走地区を最適とす (付図参照)。
地表の土質
 粘土。
地面の状況
 滑走地区は整地の上砂利敷せる平坦且堅硬地なり・其の他の地域は一面に雑草密生せる平坦地なるも
 降雨後及解氷期には排水稍不良の為地表軟弱と為る・乾燥時は硬度中等程度なるを以て
 風向等に依りて草地の全地域を使用するも支障なし・場周に排水開渠あり。
場内の障碍物
 なし。
適当なる離着陸方向
 南又は北(恒風)。
離着陸上注意すべき点
 南北両端に在る排水溝を飛越えざる様注意を要す。
施設
格納庫なし・常駐員なし。
 昼間標識 吹流1・場周境界標識あり。
 夜間標識 なし。

周囲の状況
山岳
 周囲は概ね平坦なる耕作地にして特に南北方向は開濶なるも東及西方は山地なり
 即ち東方は南大川の対岸より直に山地と為り漸次東走するに従い標高を増し
 約7粁にして高さ500米内外の山岳南北に縦走す・
 西方は約2.3粁にして山麓に達し約10粁にして高さ800米の山岳重畳し更に西方は標高2,200米の長白山脈と為る。
河川
 東方約300米に小河流あり更に東方1.5粁に南大川南流す、
 本河は北西方約60粁の高頭山付近に源を発し大小河川を合流して日本海に注ぐ。
建築物
 場の西端中央部に高さ15米の吹流柱1基ある外周囲に障碍となる建築物
 なし。
電線 
 場の西方約100米に略南北に架設せる高さ7米の電灯線あり。

■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」

にも、当飛行場の1/10,000の要図がありましたが、飛行場の地割は水路部資料と同様でした。

要図には書き込みがあり、

判決 本飛行場は吹雪、霧の為吉州東北方高地帯(気象悪し)を通過
   し得ざる場合不時着に使用するを可とす
恒風:北

とありました。

同資料に当飛行場の情報がありました。

以下引用させていただきます。

位置 咸鏡北道吉州郡
積量 記載無し
地表の状況 土質砂混粘土にして堅硬なるも雨期及解
      氷期に於ては表面軟弱となることあり
周囲の状況 記載無し
天候気象の交感 記載無し
其の他 記載無し


■朝鮮交通史 1041p
 日本国内では航空機の進展に順応して、行政機構の設置、関連法令の制定と航空保安施設の整
備が行われていたが、朝鮮では昭和4年の日鮮満を結ぶ定期航空路の開設に伴いようやくこれに
取組むようになったが、しかも急速に整備する必要に追われた。(中略)
 定期航空開始に間に合うようこれの寄航地は次のように準備されたが、朝鮮の飛行場建設に当
たり特に留意しなければならぬ要点は
 (1)冬期に土壌の凍結がひどいこと
 (2)梅雨季には豪雨により地盤が軟弱となったり、飛行場が冠水するおそれがあること
等があったが朝鮮内では適当な候補地を得られないので、これが選定に当たっては相当苦慮させ
られ、施工に当たっても予想以上の困難が伴った。(中略)
 終戦までに整備した飛行場の概況は次の通りである。

吉州飛行場 1046p
 最初は滑空機訓練兼補助飛行場として平坦な高台に作られたが、昭和19年約25万平方米を整
備、1,000mの滑走路を作るべく着手したが未完成に終わった。




     朝鮮・吉州飛行場跡地       


吉州飛行場 データ(昭和18年4月調)
設置管理者:朝鮮総督府逓信局
種 別:公共用陸上飛行場
所在地:朝鮮咸境北道吉州郡徳山面(吉州邑の南南西方約5km)
座 標:N40°55′13″E129°18′47″
標 高:98m
滑走路:600mx60m
着陸帯:700mx400m
方 位:18/36
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)

関連サイト:
過去ログ - WarBirds   

この記事の資料:
朝鮮交通史
防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」 
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」


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朝鮮・中江鎮飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]

   2017年7月作成 2022/1更新  




北朝鮮の中江郡中江(ちゅうこう)鎮。

ここに「中江鎮飛行場」がありました。

北朝鮮の中でも北部に位置し、しかも標高330mという高地にあります。

Wikiによれば、中江鎮は朝鮮半島最寒の地で、1月の平均気温は-16.5℃、1933年に-43°Cを記録したのだそうです。

後述しますが、水路部資料の中でも、

「毎年11月上旬より翌年4月上旬に至る間は積雪30糎に達し且地下約1.5米迄凍結す。」

という一文があり、極寒の地であることを窺わせます。

中国との国境であり、上のマップにも出てますが、飛行場敷地から最短400m足らず、鴨緑江を渡った先はもう中国です。

前記事の「江界飛行場」に引き続き、ここも平安北道警察部管理の警備用陸上飛行場です。

当飛行場は、米軍が付した識別コード表にも登録がないので、

朝鮮戦争では(少なくとも飛行場としては)使用されなかったのではないかと思います。

そのせいもあってか、この飛行場についてはネット上の情報が非常に少なくて、

■「京城飛行場小史」(下記リンク参照)の中で、

「朝鮮航空研究所は1930年(昭和5年)9月、新義州・中江鎭間試験飛行を実施した」とあり、

■「京城飛行場」(下記リンク参照)の中で、

「昭和6年に京城-中江鎮の試験飛行が朝鮮航空研究所によって行われた」とありました。

このことから、遅くとも昭和5年には飛行場として開設しており、

日本による統治終了と共に閉鎖したのかもしれません。

■防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」 

の中から、当飛行場についての資料を以下引用させて頂きました。

第12 中江鎭飛行場(昭和18年4月調)
管理者 平安北道警察部。
位置 朝鮮平安北道慈城郡中江面中坪洞中江鎮。
   (中江鎮の北東方0.8粁、北緯41°42′0、東経126°55′0)。
種別 警備用陸上飛行場。

着陸場の状況
高さ
 平均水面上約330米。
広さ及形状
 本場は長さ北東-南西880米、幅北西-南東平均150米の中央に於て彎曲せる略長方形地域なり。
 着陸地域は概ね図示の長さ北東-南西800米幅50米の舗装滑走路を最適と認むるも
 風向等に依りては場内の全地域を使用するも支障なし(付図参照)。
地表の土質
 砂混り尋常土。
地面の状況
 滑走路は砂及尋常土を以て転圧舗装し平坦且堅硬なり・其の他の整地地区は凸凹起伏なき平坦地にして概ね堅硬なり・
 殆ど一面に芝及雑草を生ず・排水良好なるも降雨後及解氷期(4月上旬)には地表軟弱と為る・
 毎年11月上旬より翌年4月上旬に至る間は積雪30糎に達し且地下約1.5米迄凍結す。
場内の障碍物
 場内南西側に高さ4米の格納庫1棟あり。
適当なる離着陸方向
 夏季は南西、冬季は北東(恒風)を可とす。
離着陸上注意すべき点
 冬季積雪の為着陸地域は稍狭隘となり又解氷期には地表泥濘となるを以て可及的舗装滑走路を使用するを可とす。
施設
木造格納庫1(間口14.6米、奥行14.6米、高さ4米)平安北道警察部所属・満州航空株式会社中江鎮出張所・
油庫1・倉庫・気象観測所等あり。
 昼間標識 吹流信号柱(西端中央部)1あり。
 夜間標識 なし。

周囲の状況
山岳
 本場は鴨緑江の左岸に位し北方は畑地にして南東方は水田多し・付近は蓋馬高台と称する台地の北縁に在り
 東方約700米付近より山地と為り次第に標高を増し2.4粁にして高さ900米の烏徳山あり・
 西方は約300米にして鴨緑江に臨み対岸は直に1,121米山の山麓となり東西両方向は極めて狭隘なるも
 北東及南西方の河流方向は地貌稍開濶なり。
樹林
 北東方約300米の鴨緑江河岸に卑低なる柳林ある外付近に障碍となるものなし。



     朝鮮・中江鎮飛行場跡地      
中江鎮飛行場 データ(昭和18年4月調)
設置管理者:平安北道警察部
種 別:警備用陸上飛行場
所在地:朝鮮平安北道慈城郡中江面中坪洞中江鎮(中江鎮の北東方0.8km)
座 標:N41°46′55″E126°52′51″
標 高:330m
滑走路:800mx50m
方 位:04/22
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
1930年09月 朝鮮航空研究所、新義州・中江鎭間航空路の試験飛行実施
1931年    朝鮮航空研究所、京城・中江鎮間試験飛行実施

関連サイト:
京城飛行場  
京城飛行場小史(リンク切れ)  

この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」 


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朝鮮・江界飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]

   2017年7月作成 2022/1更新  



北朝鮮北部にある江界(こうかい)市。

中国との国境まで40kmのこの場所に「江界飛行場」がありました。

水路部の資料に載っている朝鮮半島の飛行場を順番に記事化しているのですが、

ここまでずっと「朝鮮総督府逓信局管理の公共用陸上飛行場」ばかりでした。

11番目にして管理者は、平安北道警察部、そして種別は警備用陸上飛行場です。
 

ここは滑走路の形は単純なんですが、位置決めに手間取りました。

飛行場西隣に飛行場と並走するように満裏本線が走っています。

滑走路の長さは650mで、水路部の地図では滑走路の北端から300m弱南下した辺りに駅が描かれております。

つまり、滑走路のほぼ真ん中らへんの西隣に駅があります。

で、最初はこの駅の位置に合わせて作図しようとしました。

一方、満裏本線は飛行場の北側で西に曲がり、南側の方でも河に合わせて大きく蛇行していて、

どちらの線形を基準とするかで、滑走路と駅との位置関係が大きくズレてしまいます。

河の形は時代と共に大きく変わるからそこまで厳密にならなくてもいいとして、川の対岸の地形もどうもしっくりきません。

「アチラを立てればコチラが立たず」で、結局全体を見ながら最大公約数的な位置にしてあります。

線路と川に挟まれているので、東西方向はほとんどズレてないと思いますが、

南北方向は最大で数百メートルのズレが生じていると思います。

ご了承くださいませ。

結局駅との位置関係は大きくズレてしまいました。

もしかして駅の位置が変わったのかも(と自分に言い聞かせる)。

現地の方がこのマップ見たら怒らないかしらん。

ご覧の通りで現在はすっかり畑地になっていて、地割も滑走路方向とズレています。

資料には、11月~翌年3月までの冬季は地表凍結し、河面も結氷し通行可能とあるなど、

寒さが非常に厳しい土地のようです。


当「江界飛行場」については、日本語でググっても全然引っかからず、

英語(Kanggye Airfield)、ハングル(강계 비행장)でググってやっと出てきたのは、

K-36 - 江界#2飛行場(Kanggye#2 Airdrome)という米空軍識別コードのみ。

ということで、当江界飛行場は K-36ということのようなんですが、"#2" というのが私気になります。

#2が「第二飛行場」ということなら、#1 の「第一飛行場」がありそうなものですが、

ズラリと並ぶコード表に「江界」が登場するのはK-36のみ。

別サイトでは、

K-36について、Kanggye No. 1  とありました。

ナゾです。


■防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」 

から当飛行場の資料の一部を引用させて頂きました。

第11 江界飛行場(昭和18年4月調)
管理者 平安北道警察部。
位置 朝鮮平安北道江界郡公北面公仁洞。
   (公仁駅の東方約100米、北緯40°55′0、東経126°36′0)。
種別 警備用陸上飛行場。

着陸場の状況
高さ
 平均水面上約295米。
広さ及形状
 本場は長さ南北630米、幅東西145米総面積9.9萬平方米の略長方形地域なり。
 着陸地域は概ね図示の長さ南北630米、幅50米の滑走路を最適と認むるも
 風向等に依りては滑走路を含む幅東西145米の整地地区を使用するも支障なし(付図参照)。
地表の土質
 砂混り粘土質。
地面の状況
 滑走路は砂混り粘土質の転圧舗装にして日射及降雨に因る影響なく平坦且堅硬なり・
 滑走路の東西両側の整地地区は処々に凸凹せる箇所あるも概ね平坦にして夏季雑草繁茂す・
 全般的に西方に向け1/200の下り片勾配を為す・排水概ね良好なるも滑走路以外の地域は降雨後処々に水溜を生ず・
 11月至翌年3月間は積雪30糎に達し此の期間中は地表凍結し離着陸上好都合なりと言う。
場内の障碍物
 なし。
適当なる離着陸方向
 恒風の関係上夏季は南、冬季は北を適当とす。
離着陸上注意すべき点
 東及び西方は山地にして低空旋回飛行は危険なり。
施設
舗装滑走路1條・平安北道警察部所属油庫1棟(高さ4米)あり。

周囲の状況
山岳及丘陵
 本場は鴨緑江の支流秀魯江右岸河原に在り南北河流方向は稍開濶なる平坦地なるも
 東、西方向は何れも山岳迫り東方約1粁に584米山、西方約2.5粁に820米山聳立す、
 之より更に外方は本場を略中心とし標高1,100米内外の山岳重疊す。
樹林
 至近に障碍となる樹林なきも東西両方向の山麓より山地一帯は高さ20米内外の森林を以て蔽わる。
河川
 東方約300米に北流する秀魯江あり北方約8粁の江界村落付近より西流し幾多の支流を合し
 東來江となり西方約50粁にして鴨緑江に合流す・南方約1粁に人馬用の渡船場あり・
 冬季(12月至翌年3月間)は河面結氷し通行可能と為る。
 (中略)
其の他
本場は嘗て仁可站飛行場と称する不時着陸場に過ぎざりしも昭和7年国境事變当時陸軍機の前進基地として使用せられ
其の後拡張整地工事を施し昭和14年11月警察機の離着陸場として設置せられ
目下平安北道警察部に於て主用中なり。




     朝鮮・江界飛行場跡地      


江界飛行場 データ(昭和18年4月調)
設置管理者:平安北道警察部
種 別:警備用陸上飛行場
所在地:朝鮮平安北道江界郡公北面公仁洞(公仁駅の東方約100m)
座 標:N40°55′09″E126°36′24″
標 高:295m
滑走路:630mx50m(整地地区:630mx145m)
方 位:18/36
(座標、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)

沿革
1932年    陸軍機の前進基地として使用(それまでは不時着陸場「仁可站飛行場」だった)
1939年11月 拡張して警察機の離着陸場となる

この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」 

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朝鮮・咸興飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]

   2017年7月作成 2022/7更新  



北朝鮮咸鏡南道咸興市。

ここに朝鮮総督府逓信局の「咸興飛行場」がありました。

ここは東西に伸びる飛行場専用道路、飛行場敷地境界線、滑走路、ターニングパッドが

(部分的にですが)非常にいい感じに残っています。

ここまで朝鮮の飛行場に関しては、現地の地割に痕跡がほとんど残っていなかったので、

水路部の地図優先で作図したのですが、ここは地割に痕跡が余りにステキに残っているので、

数十メートルの誤差が出てしまうのですが、現地の地割優先で線を引きました。

■「WarBirds/咸興飛行場」によりますと、
昭和13年、新宮飛行場を仮使用して、京城-咸興-清津定期航空を開始。
14年、清津と同様に海霧を避けて、城川江の堤防沿いの内陸に飛行場を新設。
水田地帯のため洪水に悩まされる。
後に軍でも西飛行場の名前で使用。

とありました(下記リンク参照)。

またこれを裏付けるように、「京城飛行場 時刻表」では、

大日本航空が月水金運航で、京城-咸興-清津 路線を開設していたと記されています(下記リンク参照)。


■朝鮮交通史 1041p
昭和14年現在の飛行場 として、以下記されていました。

滑走地帯(東西・南北)m 600  600


■朝鮮交通史 1041p
 日本国内では航空機の進展に順応して、行政機構の設置、関連法令の制定と航空保安施設の整
備が行われていたが、朝鮮では昭和4年の日鮮満を結ぶ定期航空路の開設に伴いようやくこれに
取組むようになったが、しかも急速に整備する必要に追われた。(中略)
 定期航空開始に間に合うようこれの寄航地は次のように準備されたが、朝鮮の飛行場建設に当
たり特に留意しなければならぬ要点は
 (1)冬期に土壌の凍結がひどいこと
 (2)梅雨季には豪雨により地盤が軟弱となったり、飛行場が冠水するおそれがあること
等があったが朝鮮内では適当な候補地を得られないので、これが選定に当たっては相当苦慮させ
られ、施工に当たっても予想以上の困難が伴った。(中略)
 終戦までに整備した飛行場の概況は次の通りである。

咸興飛行場 1046p
 昭和13年定期航空が開発されたが適当な候補地がなかったので仮に新宮飛行場を応急に使用
し、昭和14年城川江の奥に飛行場を新設した。清津同様に霧の被害を除けるため城川江の堤防
に沿って内陸に作ったが、水田地帯であったので洪水に悩まされた。
 後年軍も使用するようになったが、この飛行場は西飛行場と称せられた。


■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行
の中で、「本邦定期航空現況(昭和十三年十二月現在)」として以下記されていました(7コマ) 

経営者 大日本航空株式会社
航空線路 京城-清津
区間 京城-咸興間 毎日一往復
   咸興-清津間 毎日一往復
線路開設年月 昭和十三年十月

■「滑翔の灯 昭和16年」には、
(朝鮮咸興滑空訓練場の開設)咸興道では咸興飛行場を滑空訓練場にすることになり整備を進めているが、
8月下旬から訓練を始める予定である。
とありました(下記リンク参照)。


また、アジ歴で飛行場名で検索したところ、

■「咸興飛行場設置に関する件」がヒットしました(下記リンク参照)。

昭和十五年十一月十二日 朝鮮総督府逓信局長から陸軍次官に宛てたもので、

「昭和十五年十一月三日付を以て咸興飛行場を別紙の通設置せられたるに付通知す」

と記されており、飛行場図面も添付してありました。

それによれば、滑走路は、南北570mと、北西-南東560mの2本のみです。

水路部の昭和18年資料と比較すると、滑走路は2本少なく、しかも少し短いです。

昭和15年の設置通知から昭和18年までの間に滑走路延長し、更に2本追加したのですね。


■防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」から、
当飛行場関連資料の一部を引用させて頂きました。 

第10 咸興飛行場(昭和18年4月調)
管理者 朝鮮総督府逓信局。
位置 朝鮮咸鏡南道咸州郡川原面。
   (咸興府の北西方約8粁、北緯39°58′0、東経127°28′0)。
種別 公共用陸上飛行場。
着陸場の状況
高さ
 平均水面上約20米。
広さ及形状
 本場は長さ南北1,000米及東西1,000米の略凸字形地域なり。
 着陸地域は概ね図示の長さ南北800米、東西750米、北西-南東800米、
 及北東-南西750米、幅各40米の舗装滑走路を最適とす(付図参照)。
地表の土質
 芝地は砂混り尋常土。
地面の状況
 滑走路は主として「アスファルト」舗装なるも北東-南西滑走路のみは砕石「マカダム」舗装なり・
 東端に在る飛行場事務所前面の整備場より各滑走路に連絡する東西600米、幅20米の誘導舗装路1條あり・
 滑走路以外の地区は概ね平坦地にして一面に芝及雑草を生じ夏季は相当に伸長す・
 地盤は処々に軟弱なる箇所あるを以て滑走路以外の地区は使用せざるを可とす。
場内の障碍物
 なし。
適当なる離着陸方向
 各滑走路方向を可とするも恒風の関係上夏季は南、冬季は北を可とす。
離着陸上注意すべき点
 可及的滑走路を主用するを要す・冬季北又は北西の季節風卓越せる際は高度500米以下の旋回飛行に注意を要す。
施設
格納庫なし・舗装滑走路4條・朝鮮総督府逓信局事務所及大日本航空株式会社事務所・器材庫1・気象観測場・
無線電信局・郵便局分室・他に陸軍関係諸建物多数あり。
昼間標識 吹流1・境界標識等あり。
夜間標識 着陸照明燈1・飛行場標識灯1・T型風向標示燈1・場周燈19・進入燈8・障碍燈5・溢光燈1・接地燈2・雲照燈1・
「ネオン」信号灯(圓錐形、モールス信号発信可能)等あり。

周囲の状況
山岳
 本場は咸興平野の北部に位し付近一帯は城川江の河洲又は水田にして河流 方向の南北方向は極めて広濶なり、
 然れども東西方向は各約3粁乃至4粁にして山地と為り且西方は約3粁にして烏岳峰(385米)の山麓に達し、
 東方約4粁に咸興府北方の山峰連互す。
堤防
 場の東方約500米の城川江支流に高さ約6米の堤防あり。


■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」

にも1/10,000の同様の要図がありました。




     朝鮮・咸興飛行場跡地     

咸興飛行場 データ
設置管理者:朝鮮総督府逓信局
種 別:公共用陸上飛行場
所在地:朝鮮咸鏡南道咸州郡川原面(咸興府の北西方約8km)
座 標:N39°58′22″E127°27′51″
標 高:20m
滑走路:800mx40m(18/36)、750mx40m(09/27)、800mx40m(13/31)、750mx40m(04/22)
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
1938年 大日本航空、京城-咸興-清津定期便開設
1941年 咸興飛行場を滑空訓練場として整備

関連サイト:
咸興飛行場 - WarBirds  
京城飛行場 時刻表(リンク切れ) 
滑翔の灯 昭和16年(リンク切れ) 
アジ歴/「咸興飛行場設置に関する件」  


この記事の資料:
朝鮮交通史
防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」 
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」


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朝鮮・新義州飛行場 [└日本統治時代の飛行場]

   2017年7月作成 2022/7更新   



北朝鮮北西部、中国との国境新義州市にある「新義州飛行場」。

元々河川敷地の簡易飛行場だったものを、朝鮮総督府逓信局が昭和8年に正式に飛行場として設置したのでした。

西﨑キク(埼玉県児玉郡七本木村現・上里町)が昭和9年に満州訪問飛行のため、

羽田を離陸して、途中寄港した飛行場でもあります。

上のグーグルマップは、水路部資料の地図から作図しました。

当時は2本の滑走路が交差していましたが、現在は北北東~南南西方向の990mx65m滑走路1本のみになっております。

当時とは滑走路方向が微妙に異なり、位置が90m南にズレている様子が分かります。

オイラは昭和18年4月調の資料に添付の地図から作図したのですが、

当時は格納庫等飛行場の諸施設がほぼ一列に並んでエプロン前に並んでいました(マップの青マーカーの所)。

現在でもここには、角度がズレ、距離も最大50m弱異なるのですが、

資料に描かれているのと建物の形がやけに似たものが映っています。

日本統治当時のものなのかどうか、現地で確かめてみたいのですが。。。

他にも、個人的には「これは当時の地割と一致しているのでは?」と思わせる箇所が幾つか残っています。

はー。直接見てみたい。

グーグルアースで見ると、滑走路は未舗装だし、土を盛って作った無蓋掩体壕がポコポコ並んでるし、

なんだかとってもノスタルジックでのんびりした飛行場に見えるのですが、

れっきとした「北朝鮮の軍用飛行場」なので、日本人のオイラがアチコチ立ち入ってヘラヘラ写真でも撮り始めようものなら、

きっと10秒後には北朝鮮ソルジャーに両側からガシッと掴まれてどこかに連れていかれて〇されそうです。

話を戻します。

当時のエプロン前の諸施設が集まっていた場所から、新義州府に至る2等道路が伸びていました。

飛行場敷地から直接連絡している道路はこれが唯一のもので、上のマップの北側に伸びる紫色の線がそれです。

角度、位置共にピッタリ重なる結構目立つ道がありますので、これがそうだと思います。

韓国版Wikiでは当飛行場については非常に簡単な情報しかないのですが、

英語版Wikiではわりと詳しく扱われていました(下記リンク参照)。

それによれば、「日本が建設した」的なことは一切扱っておらず、

高麗航空が平壌への旅客便、貨物便を運航していることが記されており、

飛行場の歴史はイキナリ朝鮮戦争から始まります。

…流石英語版(o ̄∇ ̄o)フフ

朝鮮戦争当時、米軍からK-30の識別符号が与えられました。

現在のところ、当飛行場はグーグルアースで2002年4月撮影分からかなり細かく閲覧できるのですが、

2015年3月までは何もなかった滑走路東側に、9月の写真で一挙に無蓋掩体壕が設置されています。


■朝鮮交通史 1041p
昭和14年現在の飛行場 として、以下記されていました。

滑走地帯(東西・南北)m 650  500


■朝鮮交通史 1041p
 日本国内では航空機の進展に順応して、行政機構の設置、関連法令の制定と航空保安施設の整
備が行われていたが、朝鮮では昭和4年の日鮮満を結ぶ定期航空路の開設に伴いようやくこれに
取組むようになったが、しかも急速に整備する必要に追われた。(中略)
 定期航空開始に間に合うようこれの寄航地は次のように準備されたが、朝鮮の飛行場建設に当
たり特に留意しなければならぬ要点は
 (1)冬期に土壌の凍結がひどいこと
 (2)梅雨季には豪雨により地盤が軟弱となったり、飛行場が冠水するおそれがあること
等があったが朝鮮内では適当な候補地を得られないので、これが選定に当たっては相当苦慮させ
られ、施工に当たっても予想以上の困難が伴った。(中略)
 終戦までに整備した飛行場の概況は次の通りである。

新義州飛行場 1045p
 河川敷地を簡易飛行場として使用していたが、昭和8年飛行場を建設した。
 敷地は600mx500mで恒風は河に沿って吹いていたので使用には支障なかったが、洪水によ
る被害で、1ヵ月も使用できないこともあった。
 同地は国境飛行場であるので税関も常駐し国境警備飛行も同所を基地にしていたので格納庫等
が建設されていた。

■防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」の中から、

当飛行場についての部分を一部引用させて頂きます。 

第9 新義州飛行場(昭和18年4月調)
管理者 朝鮮総督府逓信局。
位置 朝鮮平安北道新義州豊西洞。
   (新義州府の南東方約2粁、北緯40°5′0、東経124°24′0)。
種別 公共用陸上飛行場。

着陸場の状況
高さ
 平均水面上約6米。
広さ及形状
 本場は長さ北東-南西830米、幅北西-南東平均300米及長さ北北西-南南東730米、
 幅北東-南西380米の略L字形地域なり
 着陸地域は長さ北北東-南南西630米、幅45米及長さ北北西-南南東620米、
 幅40米の2條の舗装滑走路を最適と認むるも前記滑走路を含む概ね図示の整地地区を使用するも支障なし(付図参照)。
地表の土質
 砂礫を混ずる尋常土。
地面の状況
 場内の略中央に互に斜交する滑走路2條あり(1)滑走路は幅45米にして
 中央部15米は「アスファルト」舗装にして此の両側各15米は水締「マカダム」舗装なり又
 (2)滑走路は「マカダム」舗装にして何れも降雨及季節に因る影響なく平坦且堅硬なり・
 格納庫前の整備場より(1)滑走路に連絡する長さ100米、幅15米の誘導路1條あり・
 滑走路以外の地域は概ね平坦なるも中央部稍高く略南東方に向け極めて緩除なる下り傾斜を為す・
 殆ど一面に雑草発生し夏季は刈取手入を施す・地盤は概ね中等程度の硬度なるも雨期及解氷期は軟弱又は泥濘と為る・
 冬季(12月至翌年4月間)は地表凍結し強風の際は砂塵を飛揚す・
 排水は盲暗渠に依る滲透式と場周溝とに依るを以て概して良好なり・
 整地地区の周縁表示の為場周燈及境界標識を設けあり。
場内の障碍物
 なし。
適当なる離着陸方向
 北東(主として冬季)又は南西(主として夏季)、北北西又は南南東。
施設
大日本航空株式会社格納庫1(間口18米、奥行20米、高さ8.8米)、
平安北道警察部所属格納庫1(間口18米、奥行12米、高さ9.5米)・
総合庁舎1(朝鮮総督府逓信局事務所、大日本航空株式会社事務所、満州航空株式会社事務所)・
新義州郵便局分室・税関出張所・気象観測所・器材庫・油庫・転圧機庫・倉庫等あり。
昼間標識 吹流1・場周標識あり。
夜間標識 着陸照明燈2(移動式500「キロワット」1、孤立型10「キロワット」1)・(1「キロワット」2連閃光・中型)・
T型風向標示燈1(4米、青、赤2囘路)・場周燈19(橙色)・進入燈(青色)8・障碍物標示燈・溢光燈1・
雲照燈・航空灯台(2連閃光)等あり。
(中略)
其の他
本場は昭和8年3月朝鮮総督府の設置に係る公共用飛行場にして目下大日本航空株式会社定期航空路東京-大連及新京線の寄港地なり・昭和14年度拡張計画に依る場内南東部地区は同15年3月整地工事完成せり。


■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」

にも1/10,000の同様の要図がありました。

同資料に当飛行場の情報がありました。

以下引用させていただきます。

位置 平安北道龍川郡新義州
積量 記載無し
地表の状況 記載無し
周囲の状況 記載無し
天候気象の交感 記載無し
格納施設 記載無し
居住施設 記載無し
交通連絡 記載無し
其の他 一、本飛行場濃霧の為止むを得ざれば安東飛
      行場に着陸するを可とせん
    二、アは無線アンテナ フは吹流信号柱とす
    三、施設「通信観測、夜間照明」


■朝鮮交通史 1033p
表2 鮮内飛行場利用状況より:新義州飛行場


    昭和4年度 昭和5年度 昭和6年度 昭和7年度 昭和8年度
航空機
到 着
出 発
- -
156
157
601
595
600
594
旅 客
到 着
通 過
出 発
- -
81
313
112
564
1,267
710
683
1,169
856
貨 物
  kg
到 着
通 過
出 発
- -
51.00
433.31
59.03
548.64
1,910.59
210.74
625.31
1,185.70
420.33
郵便物
  kg
到 着
通 過
出 発
- -
34.77
1,310.13
192.63
2,909.85
6,702.79
2,614.72
20,183.73
10,097.51
4,965.09
不定期
航空機
到 着
出 発
- -
54
54
151
154
249
248

 


■朝鮮交通史 1034p

昭和6年鮮満間航空乗り入れ協定が締結され、
昭和12年満航の新京-新義州、新京-京城乗入れが開始された。
(満航=満洲航空株式会社)


■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行
の中で、「本邦定期航空現況(昭和十三年十二月現在)」として以下記されていました(6コマ) 

経営者 大日本航空株式会社
航空線路 東京-大連
区間 東京-名古屋間 毎日三往復
   名古屋-大阪間 毎日三往復
   大阪-福岡間  毎日二往復
   福岡-大邱間  毎日一往復
   大邱-京城間  毎日一往復
   京城-平壌間  毎日一往復
   平壌-新義州間 毎日一往復
   新義州-大連間 毎日一往復
線路開設年月 昭和四年四月 


■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行

の中で、「本邦飛行場一覧(昭和十三年十月現在)」として以下記されていました(8コマ) 

名 称  新義州飛行場
経営者  國
所在地  朝鮮平安北道義州郡光□面豊西洞
水陸の別 陸
滑走区域 長六〇〇米 幅二〇〇米
備 考  (記載無し)




      朝鮮・新義州飛行場       


・新義州飛行場 データ(昭和18年4月調)
設置管理者:朝鮮総督府逓信局
種 別:公共用陸上飛行場
所在地:朝鮮平安北道新義州豊西洞(新義州府の南東方約2km)
座 標:N40°05′20″E124°24′30″
標 高:6m
滑走路:630mx45m(02/20)マカダム(中央15mはアスファルト)、 620mx40m(16/34)マカダム
(座標、方位はグーグルアースから)

・名 称:新義州飛行場
設置管理者:北朝鮮新義州
種 別:軍用
座 標:N40°05′11″E124°24′20″
標 高:7m
滑走路:991m草
方 位:03/21
(Wiki/Sinuiju Airportより)

沿革
1928年 航空標識設置
1931年 鮮満間航空乗り入れ協定締結
1933年 3月 朝鮮総督府、飛行場設置(元、河川敷地の簡易飛行場だった)
1934年 10月31日、西﨑キク、満州訪問飛行の途中当飛行場に着陸。11月3日離陸

1937年 満航、新京-新義州乗入れ開始
1940年 3月 場内南東部地区整地工事完成
1950年 朝鮮戦争でも軍用飛行場として使用される

関連サイト:
Wiki/Sinuiju Airport  

この記事の資料:
朝鮮交通史
防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」 
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」


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朝鮮・汗浦飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]

   2017年7月作成 2022/1更新  



北朝鮮黄海北道にあった「汗浦飛行場」。

韓国との国境から40km地点、禮成江右岸に位置しています。

上の地図は例によって水路部資料の地図から作図したのですが、

ここもとっかかりがなくて、線路、川、集落との位置関係から位置決めしました。

かなりアバウトで、「誤差50m以内に収まってれば御の字」というレベルです。

ご了承くださいませ。

現在当地には整然とした畑地が広がっており、

作図した滑走路は畦道と微妙に角度が異なっております。

作図がアバウトなので、もしかしたら、この畦道は当時の飛行場の地割に沿っている可能性があります。

特に、地図には飛行場敷地に沿って排水溝が設けられていたことが描かれており、

資料にある通り、飛行場外周寸法である790mx200mの地割があったら非常に怪しいのですが、

そういう地割は無いようです。


一連の「朝鮮の飛行場」の中で、初の北朝鮮の飛行場なのですが、

「汗浦飛行場」で検索しても、まったく引っかかりません。

한포비행장(汗浦飛行場)で検索してやっと1つだけ、それらしいものがヒットしました。

管理者がどういった方なのか不明なのですが、

Facebook上にこの頃の朝鮮の航空事情と日本との関わりが非常に詳しくまとめられており、その中で、

「1939年にはハンポ補助飛行場(汗浦補助飛行場)を、1940年には大田補助飛行場を設置した。」

とありました。

水路部の資料の中では、汗浦飛行場が「補助」とは記されていないのですが、

飛行場施設は吹流しのみで格納庫もなく、滑走路も500mx40mと小規模なもの1本のみであることから、

「補助飛行場」というのは、妥当な評価と思います。


■防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」 

から当飛行場の情報を一部引用させて頂きます。

第8 汗浦飛行場(昭和18年4月調)
管理者 朝鮮総督府逓信局。
位置 朝鮮黄海道平山郡金岩面汗浦里。
   (汗浦里の北東方約1.4粁、北緯38°13′0、東経126°29′0)。
種別 公共用陸上飛行場。

着陸場の状況
高さ
 平均水面上約20米。
広さ及形状
 本場は長さ北東-南西790米、幅北西-南東200米の長方形地域なり 
 着陸地域は概ね図示の場の略中央に於て長さ北東-南西500米、幅40米の砂利敷滑走地区を最適とす(付図参照)。
地面の状況
 概ね凸凹起伏なき平坦地なり・滑走地区は深さ約10糎に砂利敷地の上転圧せるを以て
 地盤は概ね堅硬且降雨後の排水極めて良好なり・
 其の他の地域は丈低き雑草生じ降雨後及解氷期は地盤軟弱と為る・
 場周に境界標識及排水開渠あり。
場内の障碍物
 なし。
適当なる離着陸方向
 着陸は南西に、離陸は北東を可とす。
離着陸上注意すべき点
 場の南方約200米に北西-南東方向に架設せる高さ15米の高圧送電線は離着陸上障碍物となるを以て注意を要す。
施設
格納庫なし。
昼間標識 西側中央部に吹流1(高さ15米)・場周境界標識あり。
夜間標識 なし。

周囲の状況
山岳
 本場は禮成江右岸流域に位し南北河流方向は地勢概ね開濶なるも東西方向は山岳地帯にして
 西方は約2.3粁にして標高100米の山地と為り更に西方約11粁に高さ509米の鉄峰山聳立す・
 東方は禮成江の対岸より直に高さ50米内外の丘陵連互し東走するに従い次第に発達せる山岳地帯と為る。
森林
 付近に障碍となる森林なし。
河川
 本場の東側を南流する禮成江は平常場面より約2米低く河幅80米あるも水面は平常約40米内外なり、
 下流よりする舟運の便なきも対岸とは渡船連絡す。
建築物
 場の南西方約300米付近より人家密集せる汗浦里村落あり。
電線
 南方約200米を北西-南東方向に架設せる高さ15米の高圧電線あり。
着目標
 禮成江、鉄橋(南西方約1.3粁)、汗浦里村落。


■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」

にも1/10,000の要図と、情報がありました。

以下引用させていただきます。

位置 朝鮮■道平山郡金岩面汗浦里
積量 記載無し
地表の状況 記載無し
周囲の状況 西南側に近く高圧線あるを以て不時着陸に
      際し特に注意を要す
天候気象の交感 雨期解氷期には当分軟弱となれる處あり
        大出水の場合は浸水することあり
格納施設 記載無し
居住施設 記載無し
交通連絡 記載無し
其の他 記載無し




     朝鮮・汗浦飛行場跡地      
汗浦飛行場 データ
設置管理者:朝鮮総督府逓信局
種 別:公共用陸上飛行場
所在地:朝鮮黄海道平山郡金岩面汗浦里(汗浦里の北東方約1.4km)
座 標:N38°13′47″E126°28′05″
標 高:20m
滑走路:500mx40m
方 位:03/21
(座標、方位はグーグルアースから)

沿革
1939年 設置

この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」 
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」


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