朝鮮・清津飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]
2017年7月作成 2022/7更新
北朝鮮咸鏡北道清津(せいしん)市。
Wikiによれば、ここは朝鮮北部の重要な港湾工業都市なのだそうです。
ここに「清津飛行場」がありました。
先頭のグーグルマップは水路部の地図から作図しました。
最大で100m程度の誤差があるかもしれません。
■サイト:「韓国・朝鮮の飛行場」の中で、当飛行場について、
清津市から北西10kmの水田地帯に、昭和11年建設。場所は海霧を避けるため、内陸方向に選定された。
滑走路:北西-南東 長1200m X 幅30m 13~16年に建設、マガタム舗装
北-南 長1500m X 幅50m 19年4月追加滑走路として工事着手、未完成
設備 :格納庫約1200平方m、浸水防止用の外堀と排水用の内堀あり
とありました(下記リンク参照)。
■朝鮮交通史 1041p
昭和14年現在の飛行場 として、以下記されていました。
滑走地帯(東西・南北)m 750 600
■アジ歴「清津飛行場一部使用禁止に関する件」という資料があります(下記リンク参照)。
この資料は昭和17年10月のものなんですが、それによれば、「飛行場整備工事の為、一部使用禁止」とあり、
添付地図を見ると、水路部昭和18年の地図では1,000mになっている14/32滑走路の北端がまだ短くて、
900m滑走路だったり、そのすぐ西側に「水締簡易マカダム滑走路」があったり、
18/36滑走路が描かれておらず、ちょうどその部分が立入禁止になっていたりします。
僅か半年の間にいろいろあったんですね。
■アジ歴「清津府西松御町地図・清津附近一般図・清津飛行場・その他 昭和20年5月」
という資料の飛行場地図では、
水路部昭和18年4月の地図で「未整地」と記されている箇所もすっかり飛行場の敷地になっており、
飛行場敷地はL字型になっています(下記リンク参照)。
(この資料では、当飛行場のすぐ南側、海岸近くにナゾの飛行場が描かれてる)
ややこしい話になってしまうのですが、
■アジ歴「飛行場記録 朝鮮の部」(年代不明)には、朝鮮内各飛行場の図が載せられており(下記リンク参照)、
当飛行場の図は、滑走路が1本のみ、それも上のマップの交差滑走路がまだなくて、
飛行場敷地内西側に南北方向にありました。
資料には滑走路の長さの記載がないのですが、敷地、着陸帯の長さは記されています。
その縮尺からすると、滑走路の長さは534mでした。
ということで、各資料からしますと清津飛行場は、まず飛行場敷地西端に534mの滑走路が造られ、
次いで北西~南東方向の滑走路が造られて、この2本が共存する期間があり、
最終的には初代の西端の滑走路が廃止となり、南北滑走路が新たに造られて、上のマップの交差滑走路となり、
更に延長計画があったものの、終戦。
という流れだと思います。
■防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」
から、当飛行場の資料の一部を引用させて頂きます。
第14 清津飛行場(昭和18年4月調)
管理者 朝鮮総督府逓信局。
位置 朝鮮咸境北道清津府西松鄕洞。
(清津府の西方7粁、北緯41°47′0、東経129°45′0)。
種別 公共用陸上飛行場。
着陸場の状況
高さ
平均水面上約4米。
広さ及形状
本場は長さ北西-南東1,200米、幅北東-南西580米の略長方形地域(整地面積68.8萬平方米)なり。
着陸地域は概ね図示の長さ北西-南東1,000米及南北900米、幅各50米の2條の舗装滑走路を最適と認むるも
風向等に依りては場端より各50米内方の地域を除く砂利敷整地地区を使用するも支障なし(付図参照)。
地表の土質
砂を混ずる黒色土なるも地表は砂利敷地なり。
地面の状況
場内の略中央に互に斜交する滑走路2條あり、何れも水締「マカダム」舗装にして平坦且堅硬なり・
滑走路交差部より東側格納庫前に連絡する「アスファルト」舗装の誘導路(幅40米)1條あり。
滑走路以外の地域は殆ど一面に細き砂利敷地にして地表は傾斜及起伏なき平坦地なり・
排水施設は地下に盲暗渠、場周に排水溝あるも降雨後の排水状況概して良好ならず・
11月-翌年3月頃迄地表凍結し極めて堅硬なるも解氷期(3月下旬-4月中旬)は地表泥濘と為る・
乾燥期には風塵立ち易し・冬季積雪30糎に達するは稀なりと言う。
場内の障碍物
なし。
適当なる離着陸方向
北西又は北(主として冬季)、南東又は南(主として夏季)。
離着陸上注意すべき点
降雨後又は解氷期に於ては滑走路を主用するを可とす。
施設
大日本航空株式会社格納庫1(間口20米、奥行20米、高さ4米)、其の他1棟建設中・
総合庁舎(逓信局事務所、大日本航空株式会社事務所)2階建1棟・気象観測所・油庫・倉庫・航空無線電信局等あり・
尚場外南東隅に旧庁舎及其の他の建物4棟残存す。
昼間標識 吹流信号柱1・境界標識あり。
夜間標識 障害物指示燈・着陸照明燈・T型風向指示標・場周燈雲照燈・溢光燈・着陸進入燈等あり。
周囲の状況
山岳及樹林
本場は輸城平野の略中央を南流する輸城川本流の西方約1粁に在り周囲一帯は広濶なる水田地なるも
西方は約2粁付近より地勢次第に隆起し山地と為る・四周概ね開濶にして至近に障碍と為る樹林なし。
■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」
にも当飛行場の要図があるのですが、こちらは滑走路1本のみの図です
(先頭のグーグルマップの斜めの滑走路だけ描かれている)。
恒風は北西、南東(斜めの滑走路方向)とありました。
同資料に当飛行場の情報がありました。
以下引用させていただきます。
位置 朝鮮咸鏡北道松鄕洞
積量 八五六,七○○平米
地表の状況 稍踈なる雑草ありて若干起伏
あり 解氷期、積雪のため使用し
得ざることあり
周囲の状況 西方東南端に村落あるも支障なし
天候気象の交感 四月~八月海霧のため特に使
用を制限せらるヽことあり
格納施設 記載無し
居住施設 記載無し
交通連絡 記載無し
其の他 記載無し
昭和14年現在の飛行場 として、以下記されていました。
滑走地帯(東西・南北)m 750 600
■アジ歴「清津飛行場一部使用禁止に関する件」という資料があります(下記リンク参照)。
この資料は昭和17年10月のものなんですが、それによれば、「飛行場整備工事の為、一部使用禁止」とあり、
添付地図を見ると、水路部昭和18年の地図では1,000mになっている14/32滑走路の北端がまだ短くて、
900m滑走路だったり、そのすぐ西側に「水締簡易マカダム滑走路」があったり、
18/36滑走路が描かれておらず、ちょうどその部分が立入禁止になっていたりします。
僅か半年の間にいろいろあったんですね。
■アジ歴「清津府西松御町地図・清津附近一般図・清津飛行場・その他 昭和20年5月」
という資料の飛行場地図では、
水路部昭和18年4月の地図で「未整地」と記されている箇所もすっかり飛行場の敷地になっており、
飛行場敷地はL字型になっています(下記リンク参照)。
(この資料では、当飛行場のすぐ南側、海岸近くにナゾの飛行場が描かれてる)
ややこしい話になってしまうのですが、
■アジ歴「飛行場記録 朝鮮の部」(年代不明)には、朝鮮内各飛行場の図が載せられており(下記リンク参照)、
当飛行場の図は、滑走路が1本のみ、それも上のマップの交差滑走路がまだなくて、
飛行場敷地内西側に南北方向にありました。
資料には滑走路の長さの記載がないのですが、敷地、着陸帯の長さは記されています。
その縮尺からすると、滑走路の長さは534mでした。
ということで、各資料からしますと清津飛行場は、まず飛行場敷地西端に534mの滑走路が造られ、
次いで北西~南東方向の滑走路が造られて、この2本が共存する期間があり、
最終的には初代の西端の滑走路が廃止となり、南北滑走路が新たに造られて、上のマップの交差滑走路となり、
更に延長計画があったものの、終戦。
という流れだと思います。
■防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」
から、当飛行場の資料の一部を引用させて頂きます。
第14 清津飛行場(昭和18年4月調)
管理者 朝鮮総督府逓信局。
位置 朝鮮咸境北道清津府西松鄕洞。
(清津府の西方7粁、北緯41°47′0、東経129°45′0)。
種別 公共用陸上飛行場。
着陸場の状況
高さ
平均水面上約4米。
広さ及形状
本場は長さ北西-南東1,200米、幅北東-南西580米の略長方形地域(整地面積68.8萬平方米)なり。
着陸地域は概ね図示の長さ北西-南東1,000米及南北900米、幅各50米の2條の舗装滑走路を最適と認むるも
風向等に依りては場端より各50米内方の地域を除く砂利敷整地地区を使用するも支障なし(付図参照)。
地表の土質
砂を混ずる黒色土なるも地表は砂利敷地なり。
地面の状況
場内の略中央に互に斜交する滑走路2條あり、何れも水締「マカダム」舗装にして平坦且堅硬なり・
滑走路交差部より東側格納庫前に連絡する「アスファルト」舗装の誘導路(幅40米)1條あり。
滑走路以外の地域は殆ど一面に細き砂利敷地にして地表は傾斜及起伏なき平坦地なり・
排水施設は地下に盲暗渠、場周に排水溝あるも降雨後の排水状況概して良好ならず・
11月-翌年3月頃迄地表凍結し極めて堅硬なるも解氷期(3月下旬-4月中旬)は地表泥濘と為る・
乾燥期には風塵立ち易し・冬季積雪30糎に達するは稀なりと言う。
場内の障碍物
なし。
適当なる離着陸方向
北西又は北(主として冬季)、南東又は南(主として夏季)。
離着陸上注意すべき点
降雨後又は解氷期に於ては滑走路を主用するを可とす。
施設
大日本航空株式会社格納庫1(間口20米、奥行20米、高さ4米)、其の他1棟建設中・
総合庁舎(逓信局事務所、大日本航空株式会社事務所)2階建1棟・気象観測所・油庫・倉庫・航空無線電信局等あり・
尚場外南東隅に旧庁舎及其の他の建物4棟残存す。
昼間標識 吹流信号柱1・境界標識あり。
夜間標識 障害物指示燈・着陸照明燈・T型風向指示標・場周燈雲照燈・溢光燈・着陸進入燈等あり。
周囲の状況
山岳及樹林
本場は輸城平野の略中央を南流する輸城川本流の西方約1粁に在り周囲一帯は広濶なる水田地なるも
西方は約2粁付近より地勢次第に隆起し山地と為る・四周概ね開濶にして至近に障碍と為る樹林なし。
■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」
にも当飛行場の要図があるのですが、こちらは滑走路1本のみの図です
(先頭のグーグルマップの斜めの滑走路だけ描かれている)。
恒風は北西、南東(斜めの滑走路方向)とありました。
同資料に当飛行場の情報がありました。
以下引用させていただきます。
位置 朝鮮咸鏡北道松鄕洞
積量 八五六,七○○平米
地表の状況 稍踈なる雑草ありて若干起伏
あり 解氷期、積雪のため使用し
得ざることあり
周囲の状況 西方東南端に村落あるも支障なし
天候気象の交感 四月~八月海霧のため特に使
用を制限せらるヽことあり
格納施設 記載無し
居住施設 記載無し
交通連絡 記載無し
其の他 記載無し
■朝鮮交通史 1034p
京城-清津線
朝鮮総督府でも鮮内航空路の確保が行政上必要と認められたので、
総督府独自の命令航空路として昭和13年10月より京城-咸興-清津線を
開設したが、同線は清津より満航機に依り新京まで結ばれた。
朝鮮総督府でも鮮内航空路の確保が行政上必要と認められたので、
総督府独自の命令航空路として昭和13年10月より京城-咸興-清津線を
開設したが、同線は清津より満航機に依り新京まで結ばれた。
■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行
の中で、「本邦定期航空現況(昭和十三年十二月現在)」として以下記されていました(7コマ)■
経営者 大日本航空株式会社
航空線路 京城-清津
区間 京城-咸興間 毎日一往復
咸興-清津間 毎日一往復
線路開設年月 昭和十三年十月
の中で、「本邦定期航空現況(昭和十三年十二月現在)」として以下記されていました(7コマ)■
経営者 大日本航空株式会社
航空線路 京城-清津
区間 京城-咸興間 毎日一往復
咸興-清津間 毎日一往復
線路開設年月 昭和十三年十月
最後に一つ資料を記しておきます。
■朝鮮交通史 1041p
日本国内では航空機の進展に順応して、行政機構の設置、関連法令の制定と航空保安施設の整
備が行われていたが、朝鮮では昭和4年の日鮮満を結ぶ定期航空路の開設に伴いようやくこれに
取組むようになったが、しかも急速に整備する必要に追われた。(中略)
定期航空開始に間に合うようこれの寄航地は次のように準備されたが、朝鮮の飛行場建設に当
たり特に留意しなければならぬ要点は
(1)冬期に土壌の凍結がひどいこと
(2)梅雨季には豪雨により地盤が軟弱となったり、飛行場が冠水するおそれがあること
等があったが朝鮮内では適当な候補地を得られないので、これが選定に当たっては相当苦慮させ
られ、施工に当たっても予想以上の困難が伴った。(中略)
終戦までに整備した飛行場の概況は次の通りである。
清津飛行場 1045p
昭和11年清津市北西10kmの水田地帯に建設された。建設に当たっては
(1)海霧発生地帯であるので、濃霧の影響を最小限度にするため内陸10kmの地点を選んだ。
(2)水田地帯であるので冠水と地盤軟弱を防ぐため飛行場周辺に内堀と外堀を設け、場外の浸
水は外堀で防ぎ、場内の雨水は暗渠で内堀に注ぐよう施工された。
昭和13年から昭和16年にかけ1,200mx30mのマガダム舗装滑走路を造ったが、不十分な
ので、さらに1,500mx50mの滑走路を追加することとし、昭和19年4月着工したが物資、人
夫等不足のため遅延し、未完成のまま終戦を迎えた。
この工事には清津駅より物資輸送のため2,000mの引込線まで作り熱をあげたのであるが、む
なしい結果に終わってしまった。
日本国内では航空機の進展に順応して、行政機構の設置、関連法令の制定と航空保安施設の整
備が行われていたが、朝鮮では昭和4年の日鮮満を結ぶ定期航空路の開設に伴いようやくこれに
取組むようになったが、しかも急速に整備する必要に追われた。(中略)
定期航空開始に間に合うようこれの寄航地は次のように準備されたが、朝鮮の飛行場建設に当
たり特に留意しなければならぬ要点は
(1)冬期に土壌の凍結がひどいこと
(2)梅雨季には豪雨により地盤が軟弱となったり、飛行場が冠水するおそれがあること
等があったが朝鮮内では適当な候補地を得られないので、これが選定に当たっては相当苦慮させ
られ、施工に当たっても予想以上の困難が伴った。(中略)
終戦までに整備した飛行場の概況は次の通りである。
清津飛行場 1045p
昭和11年清津市北西10kmの水田地帯に建設された。建設に当たっては
(1)海霧発生地帯であるので、濃霧の影響を最小限度にするため内陸10kmの地点を選んだ。
(2)水田地帯であるので冠水と地盤軟弱を防ぐため飛行場周辺に内堀と外堀を設け、場外の浸
水は外堀で防ぎ、場内の雨水は暗渠で内堀に注ぐよう施工された。
昭和13年から昭和16年にかけ1,200mx30mのマガダム舗装滑走路を造ったが、不十分な
ので、さらに1,500mx50mの滑走路を追加することとし、昭和19年4月着工したが物資、人
夫等不足のため遅延し、未完成のまま終戦を迎えた。
この工事には清津駅より物資輸送のため2,000mの引込線まで作り熱をあげたのであるが、む
なしい結果に終わってしまった。
とのことで、同ページには「清津飛行場略図」が載っています。
きちんとノースアップであることが示されたその図には、
1,200mと1,500m 2本の滑走路が描かれていて、1,500m滑走路には「工事中止」とあります。
上記資料では1,500m滑走路について、「昭和19年4月着工したが(中略)未完成のまま終戦を迎えた」とあります。
このため、この「清津飛行場略図」は、昭和19年4月着工以降のものと思われます。
この図では、飛行場のすぐ北に清津駅が描かれています。
実は当時、清津駅は移転、駅名変更があってややこしいのですが、
旧駅は海が目の前、新駅は海岸線から2km足らずの場所にあります。
上記資料には、「海霧発生地帯であるので、濃霧の影響を最小限度にするため内陸10kmの地点を選んだ」
とあり、辻褄が合いません。
線形も図とグーグルマップではまるで異なっています。
どういうことか不明なのですが、両論併記として記しておきます。
真相をご存じの方いらっしゃいましたら、ご教授いただければ幸いです。
朝鮮・清津飛行場跡地
清津飛行場 データ(昭和18年4月調)
設置管理者:朝鮮総督府逓信局
種 別:公共用陸上飛行場
所在地:朝鮮咸境北道清津府西松鄕洞(清津府の西方7km)
座 標:N41°47′11″E129°44′34″
標 高:5m
滑走路:1,000mx50m(14/32)、900mx50m(18/36)
(座標、標高、方位はグーグルアースから)
沿革
1936年 飛行場建設
1938年10月 京城-咸興-清津線開設
北西-南東滑走路建設。1941年まで
1942年10月 清津飛行場整備工事の為、一部使用禁止となる(10月1日~12月31日)
1944年04月 南北1,500m滑走路工事着手、未完成
関連サイト:
韓国・朝鮮の飛行場■
アジ歴/清津飛行場一部使用禁止に関する件■
アジ歴/清津府西松御町地図・清津附近一般図・清津飛行場・その他■
アジ歴/飛行場記録 朝鮮の部(30コマ目)■
この記事の資料:
朝鮮交通史
防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」
設置管理者:朝鮮総督府逓信局
種 別:公共用陸上飛行場
所在地:朝鮮咸境北道清津府西松鄕洞(清津府の西方7km)
座 標:N41°47′11″E129°44′34″
標 高:5m
滑走路:1,000mx50m(14/32)、900mx50m(18/36)
(座標、標高、方位はグーグルアースから)
沿革
1936年 飛行場建設
1938年10月 京城-咸興-清津線開設
北西-南東滑走路建設。1941年まで
1942年10月 清津飛行場整備工事の為、一部使用禁止となる(10月1日~12月31日)
1944年04月 南北1,500m滑走路工事着手、未完成
関連サイト:
韓国・朝鮮の飛行場■
アジ歴/清津飛行場一部使用禁止に関する件■
アジ歴/清津府西松御町地図・清津附近一般図・清津飛行場・その他■
アジ歴/飛行場記録 朝鮮の部(30コマ目)■
この記事の資料:
朝鮮交通史
防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」