アメリカ・シャジェラック空港 [├海外の空港、飛行場]
2017年8月作成(情報は作成時のものです)
skyvector.com
アラスカ州の本当に小さなシャジェラック集落の北約700mにある「シャジェラック空港」。
空港西側に隣接するイノコ川に離着水エリアが設定されています。
■航空会社
Frontier Flying Service
Hageland Aviation Services
アメリカ・シャジェラック空港
設置管理者:Alaska DOT&PF - Northern Region
種 別:公共用
3レター:SHX
4レター:PAHX
標 高:79 ft / 24 m
標 点:62°41′32″N 159°34′09″W
滑走路:(磁方位、長さ フィート、メートル、表面、状態)
16/34 3,400 1,036 砂利 good condition
18W/36W 5,000 1,524 水
関連サイト:
Wiki/Shageluk Airport■
アメリカ・セルダビア空港 [├海外の空港、飛行場]
2017年8月作成(情報は作成時のものです)
skyvector.com(中央の〇)
アラスカ州セルダビアにある「セルダビア(セルドビア)空港」。
1947年8月開設の州立の公共用空港で、砂利敷き滑走路1本を有しています。
3機の単発機が当空港を定置場にしています。
2013年には週平均108便の運航があり、その内訳は、エアタクシー38%、残りはゼネアビでした。
アメリカ・セルダビア空港
設置管理者:State of Alaska DOT&PF
種 別:公共用
3レター:SOV
4レター:PASO
標 高:29 ft / 9 m
標 点:59°26′33″N 151°42′15″W
滑走路:1,845ft/562m
磁方位:16/34
表 面:砂利/good condition
関連サイト:
Wiki/Seldovia Airport■
第三郡山航空基地(大槻飛行場)跡地 [├国内の空港、飛行場]
2017年8月訪問 2022/1更新

撮影年月日 1947/10/24(昭22)(USA R357 36)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
福島県郡山市にある「郡山駐屯地」。
この駐屯地を串刺しするような形で、かつてここに「第三郡山航空基地」がありました。
地名から「大槻飛行場」とも呼ばれていました。
第一、第二航空基地は下記リンクご参照下さい。
ここも長年明確な位置を特定することができなかったのですが、
■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表(内地の部)」(昭和二十年八月調)では、
当航空基地について、「2,000x200未完 掩体 工事中 其ノ他記事:未使用」とありました。
■更に防衛研究所に「第1~3郡山海軍航空隊図面」という資料が収蔵されていました。
閲覧室にて拝見したその資料中には、当航空基地の大きめの手書きの図面、地図が含まれていました。
図面によれば第三郡山航空基地は、1,500mx200mの着陸帯の中に幅70mの滑走路として示されており、
さらに東側に延長して2,000mx200mの着陸帯、その中に幅70mの滑走路。として描かれていました。
滑走路を縁取るように着陸帯があるため、滑走路は着陸帯と比べて幅だけでなく長さもやや短く描かれているのですが、
具体的に何メートルになるのかについては示されていませんでした。
地図には地名、道路が細かく書き記され、そこに着陸帯、滑走路の線が引かれています。
残念ながら現在の地図で見ても滑走路跡っぽい地割は一切残っておらず、
1947年の航空写真を見ても、フェイクの地割がたくさんあって、(少なくともオイラには)判別がつきませんでした。
そこで手書きの地図に記されている道路と共に、地名を一つ一つグーグルマップ上で突き合わせ、
滑走路位置について(だいたいこの辺にこんな感じ)とおおよそのアタリがついたところで、
1947年の航空写真でその部分を改めて詳しく見たところ、
滑走路方向にうっすらと着陸帯っぽい地割が浮かび上がりました。
その通りに線を引いたのが上のグーグルマップです。
1947年の航空写真では着陸帯の両端の位置が読み取れず、
特に東側に延長した500m分の滑走路については、地割も残っていません。
それで、「資料通り500m延長したら、こんな感じ」ということで線を引きました。
また前述の通り、資料では着陸帯幅:200m、滑走路幅:70mとあるのですが、
航空写真の通りに作図したところ、幅は約110mとなり、資料にある200mとは大幅に異なっています。
もしかして作図の際、着陸帯の線を拾うべきところを、どっちか一辺は滑走路の線を拾っちゃったかも。
滑走路の位置はこれで合っているはずなので、この位置に無理やり幅200mで作図しようか(たまにやる)。
とも考えたのですが、航空写真にしっかり線が残っているので、残っている線を活かし、小細工はしないことに。
「おおよそこんな感じ」ということでご了承くださいませ。

郡山駐屯地。
当時はこの方向に滑走路が伸びていたはずです。

県道55号線信号交差点にある「開拓之碑」。


裏面に碑文が刻まれていました。
「遺業開拓を賛う」と題する格調高い文面は、
「廃墟と化し秋草の茂る旧郡山第三海軍航空隊跡百余町歩の荒地に開拓の鍬を打ち下したのは」
という出だしで始まっています。
福島県・第三郡山航空基地(大槻飛行場)跡地
設置管理者:海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:福島県郡山市大槻町
座 標:N37°23′47″E140°19′41
標 高:257m
着陸帯:1,500mx200m(そのうち滑走路幅は70m、2,000mに延長工事)
方 位:11/29
(座標、標高、方位はグーグルアースから)
沿革
1944年11月 起工式
1945年05月 1,500m部分完成。戦後は開拓地となる
関連サイト:
ブログ内関連記事■■
この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表(内地の部)」(昭和二十年八月調)
防衛研究所収蔵資料「第1~3郡山海軍航空隊図面」
浅川航空基地跡地 [├国内の空港、飛行場]
2017年8月訪問 2022/1更新

撮影年月日 1947/10/28(昭22)(USA M607 19)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成・3枚とも)
福島県石川郡浅川町、東白川郡棚倉町にあった海軍の「浅川航空基地」跡地。
当飛行場跡地については、長いこと(本当にあったの??)というレベルで位置特定できなかったのですが、
2014年4月に佐藤正孝さんから貴重な情報を頂いたのでした。
頂いた情報によりますと、
■地元郷土史科家の衣山氏による当飛行場の調査資料が棚倉町役場発行の「お知らせ版」2010年7/15号に掲載され、
直接衣山氏と共に現地を訪れ、場所を確認したとのことでした。
飛行場のあった場所は、「浅川町役場の西方で浅川町大字浅川字背戸谷地の西端と棚倉町一色に跨いだところ」
と教えて頂きました。
「浅川町大字浅川字背戸谷地の西端と棚倉町一色に跨いだところ」を1947年の航空写真で確認してみると、
確かにありました!
南北方向に滑走路跡がクッキリと写っており、グーグルマップにその通り線を引いて場所を確定したのでした。
佐藤さんどうもありがとうございましたm(_ _)m
めでたしめでたし。
…と思っていたのですが、その後2016年2月に防衛研究所にお邪魔して入手した資料に
■「海軍航空基地現状表(内地の部)」(昭和二十年八月調)があり、
その中に当浅川飛行場も出ていました。
以下引用させて頂きます。
位置:福島県西白河郡浅川町
基地名:浅川
最寄り駅よりの方位 距離粁:水郡線磐城浅川駅駅前
飛行場 長x幅 米:800x70E-W 600x60N-S
収容施設:150名
工場倉庫:施設あるも数量不明
主要機隊数:小型
主任務:退避場
隧道並に地下施設:工事中
其の他記事:未使用
当飛行場の用途は「退避」だったんですね。
終戦の年の8月調べの時点で、「諸施設等工事中」とあります。
そして非常に気になる項目が「飛行場」で、そこには「600x60N-S」とあり、
確かに航空写真に写っている跡はピッタリその通りの寸法だったのですが、
続けて「800x70E-W」とも記されています。
オイラは、浅川飛行場はてっきり南北滑走路1本だと思い込んでいたのですが、
東西方向のもう少し大きい滑走路もあり、全部で2本だったのです。
■「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」という書籍の中でも、
浅川海軍飛行場
石川郡浅川町 東西800x70 南北600x60 未使用のまま終戦を迎えた。
という情報があり、ここでもやはり滑走路は2本と出ています。
方面 横須賀
牧場 浅川
滑走路 EW SN(かすれて読み取れず)
縣郡村 水郡線(磐城浅川)
記事 既成
改めて浅川飛行場についてネットで検索してみたのですが、
当飛行場について扱っているサイトが非常に少ないうえに、
辛うじて出ていても、南北滑走路についてしか触れられていません。
…これは自力でナントカするしか。
そう思って改めて1947年の航空写真を眺めたのでした。

南北滑走路のアップ。
この滑走路からそれ程離れていない位置にもう一つ東西方向の滑走路があったはずなのですが、
改めて南北滑走路跡を見てみると、
地元の方が滑走路を横断するために設けたのではないかと思われる線が幾つもあります(白矢印の箇所)。
終戦間もない頃の滑走路跡には時折見られるものなのですが、
似たようなものがすぐ下側にも東西方向に幾つもあることに気が付きました。

コレです。
ここが資料に出てくる東西方向の滑走路跡と仮定して作図してみたところ、800mx70mでサイズもピッタリ。
周辺は濃い植生、建物、畑地が広がっており、滑走路跡地の候補地は限られています。
というか、オイラにはここ以外に東西方向800mx70mの適地は見当たりません。
それでここが浅川飛行場のもう1本の滑走路跡なのだと思います。
そして2018年8月にやっとのことで現地にお邪魔して撮影してきたのでした。

南北滑走路跡。
ここから奥に向かって真っすぐ滑走路だったはずです。
佐藤さんから頂いたコメントにあった通り、画面右端の道路をはじめとして、滑走路の地割が結構残っています。
真正面に林が前方を塞ぐように見えていますが、1947年の航空写真ではあの部分も滑走路跡で更地でしたので、
アレは戦後のものです。

東西滑走路跡。
もう少し背後から画面奥に向かって滑走路が伸びていたはずです。
こちらは1947年の写真でも滑走路の地割がハッキリせず、横断路痕のみでしたので、
現在も滑走路跡を思わせる地割は見当たりませんでした。
ということで、佐藤さんから情報頂いてから3年半も経過してしまったのですが、
やっとのことでアップの運びとなったのでした。
改めて佐藤さん、そしてオイラは直接お目にかかっていないのですが、
地元郷土史科家の衣山さん、ありがとうございましたm(_ _)m
福島県・浅川航空基地跡地
設置管理者:海軍
種 別:軍用飛行場
所在地:福島県石川郡浅川町背戸谷地、福島県東白川郡棚倉町一色
座 標:N37°04′41″E140°24′15″
標 高:311m
滑走路:800mx70m(10/28)、600mx60m(01/19)
(座標、標高、方位はグーグルアースから)
沿革
1945年8月 隧道等工事中。未使用
関連サイト:
「航空特攻戦備」第2期(21コマ)■
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
棚倉町役場発行の「お知らせ版」2010年7/15号(地元郷土史科家の衣山さん。佐藤さんから)
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表(内地の部)」(昭和二十年八月調)
福島県 [■旅行記]
毎朝8:30にホテルを出発することになっていたので、 早朝抜け出して跡地等見て回り、
何食わぬ顔でホテルに戻ることに(o ̄∇ ̄o)
上のマップの通りで、行きたい場所は、 福島県の浪江飛行場候補地、郡山第三飛行場跡地、
浅川飛行場跡地、 栃木県の黒磯滑空場の計4カ所でした。
このうち、浪江飛行場候補地のあった場所は、 事故を起こしてしまった原発一号機の北約8kmにあり、
立入り不可の「避難指示」地区に指定されていたのですが、
公式サイトによれば、2017年3月31日に「解除準備地区」に変更になり、 日中の立入りが可能になりました■
ということでここも行ってみたかったのですが、
時間の関係で結局実際に行けたのは、浅川、郡山の二か所のみでした。
続く記事でお邪魔した二か所の記事を順にアップします。
9,000,000pvありがとうございます。 [■ブログ]
お越し下さった皆様、本当にありがとうございます。
今後ともどうぞよろしくお願い致しますm(_ _)m
とり。
九州、中国・6 [■旅行記]
6日目
4:00 起床
4:40 長篠設楽原PA発
6:10 駿河湾沼津SA

8:05 狭山PA
その後、Fさんから預かったお土産を3軒に運び、自宅に戻って荷物を降ろし、直ちに仕事だったのでした。
これで旅行記はおしまいです。
長々とお付き合い、どうもありがとうございました。
(もう続かない)
本日の走行距離:299km
総走行距離:2,996km
総燃費:22.2km/l
勢力河原の陸軍飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]
2017年5月訪問 2022/1更新

撮影年月日 1948/03/29(昭23)(USA R32-1 74)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
岡山県赤磐市勢力。
吉井川の河原に陸軍飛行場が建設されました。
現在のところ正式名称が不明のため、「勢力河原の陸軍飛行場」というのは便宜的なものです。
ご了承くださいませ。
■熊山町史通史編(下巻)で、
勢力河原にグライダー滑空場設置の計画があったこと、
その場所に今度は陸軍戦闘機の本土決戦用特攻準備基地が建設されたこと、
吉井川の岸辺に沿うて幅約一〇〇メートル、長さ約一〇〇〇メートルであったこと、
地元の方も大勢作業に従事し、米軍に察知されないようにしながらの作業は大変な苦労であったこと、
等記されています。
8月上旬飛行場はほぼ完成し、状況観察のため陸軍小型戦闘機が飛来して着陸し、
飛行士(少佐)が降りて周囲の地形・山形をながめ、滑走路・掩体壕を確認して飛び去りました。
「ここの飛行場は安全で有効」というのがそのときの判定だったのだそうです。
結局それからすぐ終戦を迎えた訳ですが、
終戦直後、1機の零戦が着陸し、パイロットは持って来たガソリンで機体を焼却し、
熊山駅から汽車で立ち去るという一幕があったのだそうです。
以上、情報は再生おじさんから頂きました。
再生おじさんありがとうございましたm(_ _)m
上のマップは町史にある情報を元に作図しました。
おおよそこんな感じだったのではないかと。

岡山県・勢力河原の陸軍飛行場跡地
設置管理者:陸軍
種 別:秘匿飛行場
所在地:岡山県赤磐市勢力
座 標:N34°46′05″E134°05′40″
標 高:15m
滑走路:1,000mx100m?
方 位:03/21?
(座標、標高、方位はグーグルアースから)
沿革
1945年05月 松山の航空整備隊分遣隊を熊山村に置く
08月 上旬 飛行場ほぼ完成
関連サイト:
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
熊山町史 通史編(下巻)
岡山市内の滑走路跡地 [├国内の空港、飛行場]
2017年5月訪問 2022/1更新

撮影年月日 1947/10/08(昭22)(USA R517-3 142)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
岡山県岡山市内を走る国道250号線。
戦争末期の時期、ここが滑走路として設定されていました。
前記事「京橋不時着場」の南西300m足らずの所にあります。
正式名称不明のため、便宜的に「岡山市内の滑走路」としました。
ご了承くださいませ。
これまた前記事と全く同じ資料なんですが、岡山県史近代Ⅲ677pの中で、
「軍部は焦土となった岡山市の道路を利用して本土決戦のため軍用機の発着場を計画した。瓦町から大雲寺町に至る道路の北側を拡張して滑走路とし、別に京橋を戦闘機の不時着陸場にする計画である。七月一日から岡山県戦時緊急建設団の仕事として突貫作業が行われた。このとき、京橋の南側の石の欄干は柱頭をもがれてしまった。」
とあります。
この情報も盡忠報國さんから頂きました。
盡忠報國さんありがとうございましたm(_ _)m
「瓦町から大雲寺町に至る道路」
とあるのですが、どちらも現在の町名としては残っていません。
瓦町は、中央町(昭和39年)、南中央町(昭和44年)に編入され、
大雲寺町の方は、昭和39,44,45年に中央町、南中央町、表町三丁目、東中央町に分割編入されました。
ということで、明確な滑走路の範囲は不明なのですが、
それぞれの住所から当時の航空写真と比較すると、「瓦町から大雲寺町に至る道路」とは、
上のグーグルマップ、航空写真に示した部分ではないかと思います。
「道路の北側を拡張して滑走路とし」とありますが、
航空写真で見ると、滑走路と思われる東端の部分、ここから東側の道幅が狭くなっているので、ここまでが
拡幅した部分と思います。
この部分、記述通り確かに道路の北側を拡張しているように見えます。
滑走路の西端については、実は上に示したのよりずっと先の方まで幅広の真っ直ぐな道が続いており、
囲った部分よりも先に伸びていた可能性がありますが、
町名から推測される範囲内でも690mあります。
以上、末期の時期に本土決戦に備え、急遽建設された岡山市内の2つの飛行場なのですが、
県史の中では、
瓦町から大雲寺町に至る道路→滑走路
京橋→不時着陸場
となっていて表現には微妙に差があり、本土決戦時にはこちらがメインで、
京橋はサブということなのだろうか。と思いました。
(個人の感想です)

岡山県・岡山市内の滑走路跡地
種 別:軍用滑走路
所在地:岡山県岡山市中央町、南中央町、東中央町、表町
座 標:N34°39′22″E133°55′35″
標 高:4m
滑走路:690m?
方 位:09/27
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)
沿革
1945年7月1日 着工
関連サイト:
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
岡山県史近代Ⅲ(平成元年6月16日発行)
京橋不時着場跡地 [├国内の空港、飛行場]
2017年5月訪問 2022/1更新

撮影年月日 1947/10/08(昭22)(USA R517-3 142)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
岡山県岡山市。
路面電車の走る風情ある街並みと、南北に流れる旭川。
その川には県庁ほど近くに京橋が架かっています。
戦争末期の時期、この橋は戦闘機の不時着場として整備されていました。
■岡山県史近代Ⅲ677pに、
「軍部は焦土となった岡山市の道路を利用して本土決戦のため軍用機の発着場を計画した。瓦町から大雲寺町に至る道路の北側を拡張して滑走路とし、別に京橋を戦闘機の不時着陸場にする計画である。七月一日から岡山県戦時緊急建設団の仕事として突貫作業が行われた。このとき、京橋の南側の石の欄干は柱頭をもがれてしまった。」
とありました。
この情報は盡忠報國さんから頂きました。
盡忠報國さんありがとうございましたm(_ _)m
上のグーグルマップは橋の部分を紫で囲ってみたものですが、これだと370m弱しかありません。
これだと短過ぎと思うんですが、その下の航空写真を見ての通りで、橋の両端は幅広の道が真っ直ぐ続いています。
真っ直ぐの部分いっぱいに使うと、約770mあります(ちょっと曲がってるけど)。
これだけあれば、なんとかなったのではないかと。




岡山県・京橋不時着場跡地
種 別:不時着場
所在地:岡山県岡山市中区西中島町
座 標:N34°39′28″E133°56′03″
標 高:5m
滑走路:370m?
方 位:10/28
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)
沿革
1945年7月1日 着工
関連サイト:
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
岡山県史近代Ⅲ(平成元年6月16日発行)
広島県・福山練兵場着陸場跡地 [├国内の空港、飛行場]
2017年5月訪問 2022/1更新

撮影年月日 1948/03/03(昭23)(USA M816 75)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
広島県福山市緑町。
緑町公園と、隣接する商業施設の広がるこの場所にかつて歩兵第四十一連隊兵営と福山陸軍練兵場がありました。
■防衛研究所収蔵資料:「昭和10年11月 刊行 中国及四国地方不時着陸場 水路部」の中に地図があり、
先頭のグーグルマップはそこから作図しました。
同資料の情報を以下引用させて頂きます。
福山練兵場(昭和10年6月調)
広島県福山市野上町
着陸場の状況
高さ 平均水面上約1.5米。
広さ及形状 着陸地域は練兵場内に在る東方排水溝の北東側に隣接する図
示の長さ北西-南東約350米、幅北東-南西約50米の細長き地区なり(付図
参照)。
地表の土質 尋常土。
地面の状況 練兵場略中央部に間隔約150米を以て北西-南東方向に設け
ある幅約1米、深さ約0.3米の並行せる2條の排水溝ありて排水一般に良好な
り・殆ど全面に芝を生ず・着陸地域は概ね平坦なる堅硬地なり・場の南西側よ
り内方付近一帯図示の地域は鉄條網及陣地等を構築しある歩兵用既設陣地及障
碍物地帯なり。
場内の障碍物 着陸地域内にはなし・場の北東部諸処に針葉樹林、南西部
に歩兵用既設陣地等あり・場内に2條の排水溝あり・南東部略中央に相撲用土
俵あり。
適当なる着陸方向 南東又は北西・従来不時着陸の際は主として南東方向
なりしと言う。
着陸上注意すべき点 本練兵場は狭小なる上着陸地域も亦狭小なるを以て
特に注意を要す・排水溝は空中より視認容易なり。
■『平和を求めて』福山市人権平和資料館発行
の中でもこの練兵場が不時着場に指定されていることが載せられているそうです。
この情報は盡忠報國さんから頂きました。盡忠報國さんありがとうございましたm(_ _)m

不時着場に設定されていた福山練兵場跡。
現在一部がハローズになっています。

第四十一連隊跡碑。
跡地は現在緑町公園と商業施設として整備されています。

西門(上)と説明版(下)



記念碑
許可を頂いてJA敷地内側から撮らせて頂きました。
広島県・福山練兵場着陸場跡地
設置管理者:陸軍
種 別:不時着陸場
所在地:広島県福山市野上町(現・福山市緑町1丁目)
座 標:N34°28′32″E133°22′19″
着陸場:350mx50m
方 位:14/32
標 高:1.5m
(座標、標高はグーグルアースから)
関連サイト:
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
『平和を求めて』福山市人権平和資料館発行
防衛研究所収蔵資料:「昭和10年11月 刊行 中国及四国地方不時着陸場 水路部」
オノミチフローティングポート跡地 [├国内の空港、飛行場]
2017年5月訪問 2024/5更新
広島県尾道市、瀬戸内海にあった「オノミチフローティングポート」。
「せとうちSEAPLANES」が水陸両用機を運用していました。
追記:2022年会社解散・清算しました。
もちろん国内唯一の、そして半世紀ぶりの水陸両用機の営業運航が、
広島市と岡山市のほぼ中間地点にある風光明媚な尾道市で行われていました。
遊覧飛行、チャーター等に利用可。
50分間の遊覧飛行(SETOUCHI Discovery Flight)が設定されており、
10:20発の1便から16:00発の7便まであり、大人32,000円(税込)。
また9月からは、日曜日のみの30分間(ショートコース)も設定されました。
10:00発 大人運賃 25,000円(税込)
(2017年9月現在・平日料金・WEB割あり)
公式サイト内に注意点として、
「※出発は旅客桟橋を離れる時刻、帰着は遊覧を終えて旅客桟橋に戻る時刻を指します。 」
とちゃんと書いてありました。
琵琶湖、関空での運航という構想もあり、2016年8月に運航が始まったばかりだったのですが…。


超クール!
以下現地にお邪魔した際の様子。
到着したのが6時前と早い時間帯だったため、近寄ることができず外側から眺めるだけでした^^;





最大巡航速度 300km/h
最大10座席
離陸水距離(高度15mに達するまで):水上710m/陸上460m
着陸水距離(高度15mから停止まで):水上930m/陸上620m
広島県・オノミチフローティングポート
設置管理者:せとうちSEAPLANES
種 別:水上機用飛行場
所在地:広島県尾道市浦崎町1364番地6
座 標:N34°23′27″E133°16′56″
標 高:0m
(座標、標高はグーグルアースから)
沿革
2014年11月 設立
2016年01月 15日 事業許可取得
08月 1日 遊覧飛行予約開始
10日 航空運送事業開始
2017年02月 9日 広島空港に専用ラウンジ開設
03月 24日 日赤と「災害時等における教護活動への相互協力に関する協定」を締結
28日 大分県別府市沖にて離水滑走中機体損傷
広島県・広島県立尾道北高等学校 [├場所]
2017年5月訪問 2022/1更新
撮影年月日 1948/03/29(昭23)(USA R32-2 4)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
広島県尾道市にある「広島県立尾道北高等学校」。
かわぐちかいじ氏の母校なんだそうです。
■「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、
尾道中學校(当時)に校友會滑空機部があり、本校運動場を滑空場として使用していたとありました。
この情報はアギラさんから頂きました。アギラさんありがとうございましたm(_ _)m
Wikiによれば、1941年にグライダー部発足とあります。

広島県・広島県立尾道北高等学校
所在地:広島県尾道市長江3丁目7−1
座 標:N34°25′11″E133°11′36″
標 高:58m
着陸帯:130mx60m?
(座標、標高、着陸帯長さはグーグルアースから)
沿革
1941年 校友會滑空機部発足
関連サイト:
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)
九州、中国・5 [■旅行記]
5日目
4:30 起床
4:50 Fさん宅静かに静かに出発
まずは広島県内の三か所を周ることに。
5:25 尾道北高校

今の日本で現役の水上飛行場を目にする日がこようとは夢にも思いませんでした。
7:00 広島練兵場跡地のハローズで四割引きの調理パン、菓子パン等6コ購入。
食欲がなくて、1コ食べただけでお腹いっぱい。
結局翌日までパンを食べ続けたのでした。
7:55 広島練兵場跡地見学終了。
下道でお隣の岡山県へ。
10:10 岡山市内の「京橋不時着場」、「市内滑走路」見学
11:00 勢力飛行場
下道でお隣の兵庫県へ。
12:55 姫路市の城北練兵場跡地。ここは前も来たけど、アジ歴で離着陸エリアがハッキリしたのでまた来たのでした。
以前の記事を更新しましたので、興味のある方はご覧ください(以下同様)■
16:20 鳴尾飛行場跡地■
距離は大したことないのに、移動に4時間以上かかってしまった。
流石兵庫。
まだ陽があるので、更にお隣の大阪府へ。
17:45 大阪陸軍飛行場跡地■
ここも前来たけど、アジ歴でエリアがハッキリしたのでまた来ました。
今回の見学はここまで。
近くのセブンで冷やし中華の夕食(パン飽きた。暑いし)。
18:00 出発
18:45 草津SA
21:00 上郷SA にて給油
21:50 長篠設楽原PA着
本日はここで車中泊することに。
夜に強い人なら、ここまでくれば一気に埼玉まで帰っちゃうんだろうな~。
オイラはホントにもうムリでした。
22:15 寝る
おやすみなさい
本日の走行距離:566km
(続きます)
宇部航空輸送研究所跡地 [├国内の空港、飛行場]
2017年5月訪問 2022/1更新
国土地理院 1927年測量の地図(図名:宇部東部 図名(ひらがな):うべとうぶ リスト番号:120-9-3-1)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
1928年に宇部市草江に開設し、1929年に海岸に格納庫を作ったという記録が残っています。
水上機の飛行場でした。
宇部市史には昭和4年(1929年)に出来た格納庫に入った複葉機と
昭和5年(1930年)の水上機宇部号(翌年墜落)の写真がありました。
上の地図は1927年のものなので、研究所開設前年のものです。
研究所がドコにあったのか、正確な位置は不明なのですが、
グーグルマップの青マーカーの間、地図の赤矢印の間が住所的に草江の範囲なので、
恐らくこの辺りに格納庫があり、ここの海岸から水上機が離着水していたのではないかと思います。
実は逓信省が計画していた東京・大阪・福岡・上海・大連線の航空本線下に宇部が位置していたことから、
研究所は不時着場所の1つという側面もあったようです。
また、航空年鑑昭和6年にも当研究所が登場するそうです。
当時の「宇部市全図」には、「航空灯台」が記されていました。
上の地図の同じ位置に灯台を入れました。
この情報はアギラさんから頂きました。
アギラさんありがとうございましたm(_ _)m
山口宇部空港前を走るこの県道220号線が当時の海岸線でした。
どちらの写真も交差点の空港側(海側)から撮っています。
この辺りに砂浜が続いていて、水上機が飛んでいたはずです。
当研究所は1938年、開設から僅か10年で閉鎖してしまいましたが、
それから30年足らずで立派な空港が沖を埋め立てて完成することになろうとは。。。
山口県・宇部航空輸送研究所跡地
設置管理者:宇部航空輸送研究所
種 別:水上機飛行場
所在地:山口県宇部市草江
座 標:N33°56′07″E131°16′26″
(座標はグーグルアースから)
沿革
1928年11月 草江に研究所開設
1929年 草江の海岸に格納庫建設
1930年 翌年にかけて体験飛行実施
1938年 研究所閉鎖
関連サイト:
ブログ内関連記事■
宇部市史
航空年鑑昭和6年(アギラさんから)
山口県・藤曲の飛行場(計画) [├場所]
2017年5月訪問 2022/1更新
(リスト番号120-13-1-5 図名 宇部 測量年 1947)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
山口県宇部市を流れる厚東川の河口近くには、「昭和十五年度版宇部市全圖」の中で、
山口県による埋め立て工事中の箇所がありました。
地図ではそこだけ点線になっていて、凡例欄の説明には「宇部ゴルフコース兼飛行場」と書いて有ります。
次の記事で登場しますが、ここの東南東約5.3kmのところに「宇部航空輸送研究所」(現在の「山口宇部空港」の辺り)
がありました。
「宇部航空輸送研究所」は昭和13年に閉鎖しているため、
もしかしたら山口市の新たな飛行場計画ということなのかもしれません。
この情報はアギラさんから頂きました。
アギラさんありがとうございましたm(_ _)m
ということで、遅くとも昭和十五年(1940年)にはあった飛行場埋立計画なのですが、
上の地図の通りで、1947年の地図ではまだ埋め立て地は形になっていません。
実はこの年の航空写真を見ると、うっすらと埋め立て地の輪郭が出来上がっており、
着工はしていたようです。
その後年を追ってこの位置を見ても、なかなか埋め立て工事が完了しません。
(図葉番号3-RB-58 図名 測量年1974(昭49))■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
それでも埋め立て地の北側の一部で宇部製鋼等が建設されたのみで、南側の大部分は未だ「埋立中」のままです。
埋め立て工事そのものは当初の計画通りの形に進んでいますが、
埋立地を「宇部ゴルフコース兼飛行場」とする。という計画は終戦の5年前の地図に出ています。
ところが終戦から約30年を経て工事は完了しておらず、飛行場どころか工場が建設されている-
はっきりしたことは不明ですが、埋め立て地の用途が途中で変更になり、
「ここに飛行場を!」という計画は幻と消えてしまったように思います。
情報お待ちしておりますm(_ _)m

山口県・藤曲の飛行場(計画)
設置管理者:山口市?
種 別:陸上飛行場
所在地:山口県宇部市藤曲
座 標:N33°57′14″E131°13′17″
標 高:6m
着陸帯:1,300mx580m?
(座標、標高、着陸帯長さはグーグルアースから)
関連サイト:
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
昭和十五年度版宇部市全圖
直方飛行場(知古民間飛行場、直方滑空場)跡地 [├国内の空港、飛行場]
2017年5月訪問 2024/5更新
1/25000「木屋瀬」大正11年測図「今昔マップ on the web」から作成
撮影年月日 1947/04/26(昭22)(USA M279 59)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成・2枚とも)
直方飛行場(知古民間飛行場)で、遠賀川の河川敷にありました。

筑豊石炭礦業史年表編纂委員会 編『筑豊石炭礦業史年表』,田川郷土研究会,1973. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12026261/1/185 (参照 2024-05-29)
これは1924年(大正13年)4月13日の出来事です。
ここから、直方飛行場は大正13年4月に検査合格し、9月に発会式をしたことが分かりますね。

報知新聞社 編『報知年鑑』大正15年,報知新聞社,大正13-15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/976133 (参照 2024-05-29)
これは、「報知年鑑 大正15年版 本邦民間飛行場調〔大正14・8調〕」の関係部分です。
管理人:岡 正美
種類:陸上
位置:福岡県クラテ郡頓野村遠賀川
面積:40,000坪
めでたく民間飛行場の1つとして数えられています。

報知新聞社 編『報知年鑑』大正16年,報知新聞社,大正13-15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/976134 (参照 2024-05-29)
こちらも同じく「報知年鑑 大正16年版 本邦民間飛行場調〔大正15・8調〕」の関係部分です。
管理人:岡 正美
種類:陸上
位置:福岡県鞍手郡頓野村遠賀川洪水敷
面積:40,800坪
位置と面積の記載がちょっと変わりましたね。
直方市立図書館様から3つの書籍を教えて頂きました。
以下、該当部分を引用させて頂きます。
■直方市史下巻
1924年、大正13年、直方飛行場検査に合格。5ヶ年間の正式使用許可。9月7日開場式、後援会発会式 直方号初飛行
■ふるさとの思い出写真集 直方83p
164 直方飛行場
直方に伊藤音二郎のヒコーキ恵美号が中島公園彦山川河川敷の東側に飛来したのが大正五年八月。直方にも知古民間飛行場が開場された。大正十三年(一九二四)九月七日、「訪れた秋天に飛行機自在に快翔、太刀洗より二機、祝賀飛行来」と新聞にかきたてられた。
■直鞍こぼればなしp126,127
第6話 直方飛行場
直方に飛行場があった、と言っても、信じてもらえないかもしれないが、正真正銘、民間飛行場があったのだ。場所は知古、堀農園(現在の直方三中)の東側、遠賀川の洪水敷である。話は七十数年前に遡る。病院通りの久保という人が、直方にも是非飛行場を、と思い立ち、町内の有志に呼びかけたところ、賛成者が多く、直ぐに直方飛行場後援会が出来た。後援会が中心になって、場所の選定、造成工事が進められ、使用許可の申請が出され、大正十三年四月十三日に正式の認可が下りた。
名称は直方飛行場、使用期間は五年、経営責任者は久保茂、飛行士は志鶴忠夫となっていた。(志鶴さんは、当時、旧制鞍手中学校の五年生で、後に、グライダーの世界に入り、数々の日本記録を樹立、毎日新聞航空部長などを歴任、日本滑空会の重鎮となった。)直ちに、ニューポールという双発の二人乗りの飛行機が購入され、直方号と命名された。
飛行場開場式は、同年の九月七日に行われた。直方号の初飛行である。太刀洗飛行場からも二機が応援に飛来し祝賀飛行に花を添えた。「堤防には溢れるばかりの人出で、大変な騒ぎだった。双発の飛行機が、屋根もすれすれに飛んだ」という記事も残っている。同十四年一月には、航空思想の宣伝と技術員の養成を目的とした直方飛行協会が結成され、町民の航空熱は弥が上にも高まった。会員は四百名、会長は町長の秦伝次郎氏であった。
この飛行場が、飛行場として何時まで使用されたかは、残念ながら記録として残っていないが、昭和十三年には、グライダー練習場として蘇ることになる。その経緯はこうだ。昭和十二年、日中戦争が勃発、防空意識の向上が叫ばれ、翌十三年三月には、直方でも、各小学校で防空展覧会が開かれた。また防空に関する講演会・映画界なども開かれた。飛行機に対する関心が高まる中、県の奨励もあって、同年九月に、旧制鞍手中学にグライダー部が新設されたのである。知古の旧飛行場が、大日本青年航空団の支部第二次訓練道場として整備され、航空団より貸与されたグライダーと、県から譲り受けたプライマリー型グライダーの二機が揃った。そして、すでに滑空会の中堅として活躍していた卒業生の志鶴さんの支援のもとに、三十名の部員が練習に励んだのである。
飛行場のあった場所として書籍から、「知古」、「直方三中の東」、「遠賀川の洪水敷」が出てきます。
「洪水敷」とは、河川敷のうち、増水時に水の流れる部分を指すようです。
河川敷内のドコからドコまでを飛行場としていたかについては資料がないため、
飛行場として使用可能(に見える)部分をグーグルマップで囲ってみました。
直方三中から北側に向かって幅もしっかりある適地がずっと続いてますね。
最大で長さ1,400m、幅200mはとれそうです。
資料では、「知古、堀農園(現在の直方三中)の東側」とあることから、
更に、アギラさんからも情報頂いていました。
■「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、
直方商業學校滑空部・福岡縣直方市大字新入・「直方市大字新入大日本飛行協會直方滑空場」という記録があります。
「新入」とは、知古のすぐ西側にある地名であること、
知古の飛行場も「直方滑空場」も、学生の滑空訓練に使用した飛行場であることから、
こちらは同一である可能性が高いと思います。
アギラさん情報ありがとうございましたm(_ _)m


福岡県・直方飛行場(知古民間飛行場)跡地
経営責任者:久保茂(後に大日本青年航空団?)
種 別:民間飛行場→滑空場
所在地:福岡県直方市知古 遠賀川左岸河川敷内
座 標:N33°46′08″E130°43′14″
標 高:4m
滑走路:1,400mx200m?
方 位:16/34
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)
沿革
1924年04月 13日 正式認可
09月 7日 飛行場開場式
1925年01月 直方飛行協会結成(その後いつの頃からか使用されなくなる)
1938年03月 直方の各小学校で防空展覧会、防空に関する講演会・映画界が開かれる
09月 旧制鞍手中学にグライダー部新設。旧飛行場を大日本青年航空団の支部第二次訓練道場として整備
関連サイト:
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
直方市史下巻
直鞍こぼればなし
ふるさとの思い出写真集 直方
九州、中国・4 [■旅行記]
4日目
5:00 起床
5:40 道の駅吉野ヶ里出発
目達原飛行場跡地の碑を撮って後、熊本県Y市にFさんを迎えに。
(目達原飛行場は既存記事に碑等追記しました■)
途中のジョイフルで幕の内朝食。
二日目と同じなので写真は撮らなかった。
朝食セットはパン食のオシャレなメニューもあるので、ブログ的にはパンもアリなのですが、コメが食べたかった。

高速で福岡県直方市へ。

実は戦争末期に建設された直方飛行場跡地の位置がイマイチ絞り込めていません。
それで先ずは直方市の図書館にて、何か資料はないかと探したのですが自力では見つからず、
リファレンスコーナーでお尋ねしてみたところ、大正時代に建設された民間の直方飛行場について教えてもらいました。
場所もおおよそ分かったので、両方の飛行場跡地と思われる所に向かったのでした。
(その後の調査で戦争末期に建設された直方飛行場は明後日方向を撮ってしまったことが判明したため、
後日行き直しとなり、記事はお蔵入りに)
13:35 直方市発
再び高速に乗り、山口宇部空港へ。
空港周辺の二か所の飛行場跡地に行く。
ここは二か所とも、以前明後日方向を撮ってしまったため、撮り直しに来ました。
山口宇部空港を徘徊して後、山口県東部にあった和佐飛行場跡地に行こうとしたのですが、
ここはICからかなり距離が離れているため、ここに行くと広島のFさん宅到着が明日になりそうな位遅くなってしまう。
ということで、ここと一緒に行く予定にしていた広島県西部の防空監視哨は積み残しにして、
このまま高速で真っ直ぐFさん宅に向かうことに。

16:30 山口宇部空港発。
「ん~、今回の旅行で九州と中国はキレイに終わらせたかったんだよな~。また明日山口の和佐まで戻るべきか。。。」
なんてことも考えたのですが、Fさんから「また九州行こう」と言われたため、
次九州に行くのは多分再来年になると思うのですが、その機会まで持ち越しとすることに。
途中のSAでシースーの夕食。
21:00 酒やらつまみやら買い込んで、Fさん宅着。
23:00 寝る。
おやすみなさい
本日の走行距離:550km
(続きます)
春日原飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]
2017年5月訪問 2022/1更新
撮影年月日 1947/04/16(昭22)(USA M271 46)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
福岡県春日市春日原にあった「春日原飛行場」。
当飛行場についてデータベースであるサイト様に春日市史からの引用がありました。
以下そのまま引用させて頂きます(下記リンク参照)。
海軍春日原航空特別攻撃基地は一般には秘密の飛行場でした。
秘匿航空基地「牧場」として佐世保鎮守府内に11箇所新設されたもの のひとつです
当時 春日村の運動場の400mトラックと隣の野球場の一部をつぶして作られました。
現在は痕跡も残っていません。場所は龍神池(埋め立て前はもっと大きかった)の東側と西鉄春日原駅の間になります。
地番は 春日市春日原北町から 春日原東町にかけての住宅街です。
九三式中間練習機や 二式中練 に150kg爆弾を、 機上作業練習機「白菊」 には250Kg爆弾をつけて体当たりをするための特攻基地でした。
基地の概要
所管:佐世保鎮守府
所在地:春日村
基地名:春日原
牧場名:春日野
建設年月:昭和20年7月
主要機体:小型機
主任務:発進
掩体:分散
その他:離着陸1方向
引用:春日市史
(引用おわり)
地名として、「西鉄春日原駅」、「春日市春日原北町」、「春日原東町」が、
そしてランドマークとして、「400mトラック」、「野球場」、「龍神池」が出てきます。
上の航空写真の通りで、確かにこの地名の場所には、市史にある通りのランドマークが並んでいます。
更に場所について、「龍神池の東側と西鉄春日原駅の間」、「春日市春日原北町から 春日原東町にかけて」
とあります。
市史に出てくる「春日原東町」は線路をまたいで南北に広がっているため、
線路の北側も飛行場の範囲だった可能性があるのですが、
ここを走る「西鉄天神大牟田線」は、Wikiによれば1939年に全通しています。
当飛行場の建設年は市史によれば1945年ですから、まず線路ができて、少なくともその6年後に飛行場が建設されました。
線路を跨ぐように滑走路を造ったとは流石に考えにくいので、
滑走路があったのは「西鉄天神大牟田線」以南の範囲と思います。
西鉄春日原駅は龍神池のすぐ北側にあります。
ということで市史にある説明からすると、飛行場があったのは、
「龍神池の東側と西鉄春日原駅の間」から始まり、そのまま線路に沿う辺りにあったのだと考えられるのですが、
上の1947年の航空写真で確認すると、そうはなっていないんですよね。
市史の通りだとすると、龍神池の東から線路に沿って、
ちょうど野球場、トラックを潰すように滑走路があったはずなのですが、野球場もトラックも(ほぼ)そのまま残っています。
可能性としては、野球場、トラックを潰して線路沿いに滑走路を建設し、
戦後再び滑走路跡地に野球場とトラックを造ったと考えられるのですが、
周辺の地割からして、オイラには終戦から2年で滑走路からここまで復興させたとは考えにくいです。
戦後食糧難のこの時代、飛行場建設で潰された場所を畑ではなく、
わざわざ元通り野球場とトラックに作り直すというのも考えにくいです。
引用させて頂いたサイト様でもこの点に疑問が呈されていて、
オイラとしては何年もの間、ここで完全に手詰まりになっていました。
ところが最近になって、PUTINさんから当飛行場について有力な情報を頂きました。
■『海軍施設系技術官の記録』刊行委員会編『海軍施設系技術官の記録』(私家版、1972年)の中で、
当春日原海軍飛行場の設営に携わった方の回想が数行だけですが載っていて、それによれば、
「野球場を滑走路に造成」する設営作業が行なわれた。
のだそうです。
建設に従事したご本人が「野球場を滑走路に造成」したと記しておられるので、
これは非常に信ぴょう性の高い情報です。
更にPUTIN様より報頂きました。
佐世保施設部担当の各飛行場について
件名:佐世保施設部管区航空基地緊急整備推進隊報告
春日原基地
概位:現春日原運動場
工事概要:在来地盤ヲ整地 (ママ)圧シ飛行機隠匿場及組立場新設
■「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」によれば、
当基地は「福岡航空基地」という名称でもあると記されていました。
以前「あ」さんから、「競技場トラックは北東側に比べて南西側は線が見られないまたは曖昧」というご指摘もいただいており、
「1945年5月 球場南側に飛行場建設」という別資料もあり、
そういう目で改めて1947年の航空写真を見てみれば、龍神池の東側から球場、トラックの南側をかすめるようにして、
ぼやっと白い滑走路のような跡があります(上の航空写真赤矢印)。
これは、春日市史にある「400mトラックと隣の野球場の一部をつぶして作られました」とも一致します。
で、このぼやっと見えるものの通りに線を引いたのが先頭のグーグルマップです。
別の資料の中では当飛行場について、600mx30mとあるのですが、
作図してから長さを測ってみたら、(一番長い辺で)600mx67mでした。
この通りだったとすると、滑走路は龍神池から南東方向に伸びていたことになります。
春日市史の基地の概要に出てくる「その他:離着陸1方向」とは、
もしかしたら離着陸に失敗すると龍神池に即水没という事態を避けるため、
「離着陸は西側から(龍神池側から)開始すること」という意味なのかもしれません。
■防衛研究所収蔵資料:航空基地 4 「海軍航空基地現状表(内地の部)」
に当飛行場について出ていました。以下引用させて頂きます。
基地名 春日原
最寄駅よりの方位 距離 筑豊本線雑餉隈駅SW4
建設の年1945-7
主要機隊数 小型機
主要任務 発進
隧道並に地下施設 工事中
掩体 分散
春日市史にある「基地の概要」とほぼ同じですが、互いに補完し合っている感じですね。
テツ話になってしまうのですが、この資料の中で、最寄り駅について、「筑豊本線雑餉隈駅SW4」とあります。
この周辺の土地勘がある方からすれば、この段階で「? あり得ない!」と思われたはずです。
オイラはテツでもなんでもない一般人なので、一からだったのですが、
筑豊本線は、当飛行場のあった春日原の南東約10kmの原田駅から北東方向(春日飛行場から遠ざかる方向)
に伸びており、しかも「雑餉隈駅」はありません。
ここから少しややこしい話になってしまうんですが、「雑餉隈駅」はこの当時、国鉄鹿児島本線にあり、
現在は「南福岡駅」に名称変更になっています。
で、この「南福岡駅」の北北東約600mには現在、「西鉄天神大牟田線」の「雑餉隈駅」があるのですが、
この駅は飛行場当時は「西鉄雑餉隈駅」でした。
結論としましては、「海軍航空基地現状表(内地の部)」の中で、
「最寄駅よりの方位 距離 筑豊本線雑餉隈駅SW4」と記された当時の「雑餉隈駅」は、
現在のJR鹿児島本線「南福岡駅」を指していると思います。
春日原飛行場は、この「南福岡駅」の南東約1.5kmに位置しています。
そして「海軍航空基地現状表(内地の部)」にある通り、この駅から「SW4」だと、
春日原飛行場からは遠ざかる方向になってしまい、九州新幹線博多南駅の向こう側にいってしまいます。
長々と書きましたが、結局のところこの「最寄駅よりの方位 距離 筑豊本線雑餉隈駅SW4」という情報は、
路線と駅の矛盾も含め、正確ではないと思われます。
せめて、「SW4」ではなく、「SE4」だと良かったんですけど。。。
ということで、長々と書きましたが、
現時点でオイラは当飛行場の位置は先頭のグーグルマップの辺りにあったのではないかと考えています。
地元市史に出てくる詳細な場所情報と少々違ってしまうのが非常に気になるのですが。。。
情報お待ちしておりますm(_ _)m

瑞穂町三丁目交差点。
信号の先から画面奥に向かって真っすぐ滑走路が伸びていたと思うのですが。。。
福岡県・春日原飛行場跡地
設置管理者: 旧海軍
種 別:秘匿飛行場
所在地:福岡県春日市春日原南町、東町
座 標:N33°32′01″E130°28′28″
標 高:24m
滑走路:600mx67m?
方 位:13/31
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)
沿革
1945年7月 建設
関連サイト:
春日原海軍飛行場■
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
春日市史
「海軍施設系技術官の記録」
防衛研究所収蔵資料:航空基地 4 「海軍航空基地現状表(内地の部)」
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」
百道水上機飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]
2017年5月訪問 2022/1更新
1/25000「福岡西部」大正15年測図「今昔マップ on the web」より作成
先頭のグーグルマップは当時の海岸線に(おおよその)線を引いたものです。
「よかトピア通り」はほぼ当時の海岸線なんですね。
ヤフオク!ドームも福岡タワーも、当時は海底でした(@Д@)
で、1918年(大正7年)7月7日、福岡日日新聞(現・西日本新聞)はここに百道海水浴場を開設しました。
充実した施設、交通の便も良く、昭和30年代まで大勢の海水浴客で賑わったのだそうです。
そしてこの海水浴場には、極めて短期間ではあるのですが、「百道水上機飛行場」があったのでした。
大阪の木津川にあった日本航空は、大阪-別府間の路線を延長して、大阪-福岡路線を開設するため、
1924年(大正13年)、当海水浴場に出張所を設けました。
同年4月11日、水上機が飛来。
以降、路線運用の他、曲芸飛行、遊覧飛行等行いましたが、
同年9月2日、日本航空は水上機の発着場を西公園東側の入船町の海岸に移転してしまいました。
なんと、百道は入船町水上機基地■ の前身だったんですね。
「大阪の木津川にあった日本航空」ということで、すぐに木津川飛行場■ を連想するのですが、
日本航空が大阪~福岡線を開設したのは1924年。
木津川飛行場が着工するのは1927年ですから、当時はまだ飛行場はありませんでした。
木津川飛行場跡地碑の隣に説明版があり、そこには、
「大正一一年からは空の定期貨物輸送も始まり、大阪から東京、徳島、高松、別府などへの路線が次々と開設されましたが、当時はまだ木津川河口や堺の水上飛行場を利用していました。」
とあります。
木津川に飛行場が建設されるまでは、説明版にある通り、木津川河口を利用して福岡便を飛ばしていたのだと思います。
尤も当時の地図で確認すると、木津川飛行場そのものが河口に位置していますので、
そんなに離れていない場所で運用していたのではないかと思います。
「別府の水上機飛行場」■ の方は、1923年から運用開始していますので、こちらは計算合ってます。
僅か4か月余の運用で終わってしまった百道水上機飛行場でしたが、
現在では一角に、かつてここが海水浴場であったことを示す碑が建っています。
飛行場のことを示すものは特にありませんでした。




こちらが内陸側。
当時はこの橋の向こう側が海でした。
現在の浜はここから700m以上先になるんですが、橋の名前にちゃんと当時を留めてますね。
写真の道路、橋にぶつかって左に曲がると碑があります。
福岡県・百道水上機飛行場跡地
設置管理者:日本航空
種 別:水上機飛行場
所在地:福岡県福岡市早良区西新2丁目
座 標:N33°35′21″E130°21′35″
標 高:0m
(座標はグーグルアースから)
沿革
1918年07月 7日 福岡日日新聞、百道海水浴場開設
1924年04月 11日 日本航空の水上機が百道海水浴場に飛来
15日 曲芸飛行実施
18日 大阪線週1便の試験運行開始
07月 26日 遊覧飛行実施
08月 15分間の博多湾一周飛行
09月 2日 日本航空、発着場を入船町に移転
関連サイト:
福岡市史/百道(ももち)海水浴場に水上機の飛行場があった!■
ブログ内関連記事■
筒城浜飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]
2017年5月訪問 2022/1更新
撮影年月日 1948/01/19(昭23)(USA M741-A 150)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
長崎県壱岐島の筒城浜(つつきはま)にあった「筒城浜飛行場」。
■石田町史(産業、経済、教育、福祉偏)平成4年11月3日発行 1100p
の中に関連記事がありましたので、以下引用させて頂きます。(原文ママ)
「壱岐空港の沿革を記す前に、飛行機が壱岐に着陸したのはいつごろか、壱岐の上空を飛んだのはいつごろかを調べてみよう。
大正十三年(一九二四)七月、石田村筒城浜に始めて着陸す(着陸機数不明)とある。昭和三年(一九二八)二月二十一日、佐世海軍航空隊では、F飛行艇と十四偵察機六機をもって、朝鮮の鎮海と佐世保間の往復に成功した。このとき壱岐の上空を通過した。その後昭和六年(一九三一)五月二十六日、石田村筒城浜に陸軍の飛行機が着陸するため、筒城部落(地元)民が着陸地点の整地奉仕作業を行っている(着陸機数不明)。また第二次世界大戦の昭和十八、九年(一九四三、一九四四)、陸軍航空隊のヘリコプター(当時オートジャイロとも呼んでいた)十数機が石田村筒城浜に飛来し基地を作り離着陸の猛訓練が行われた。」
佐世保航空隊が開隊したのは大正9年12月なので計算合ってます。
■芦辺町史689pにもほぼ同様の内容がもっと簡潔に記されていました。
(1928年に朝鮮の鎮海と佐世保間の往復を行ったF飛行艇は3機と記している)
「朝鮮の鎮海と佐世保間の往復」はこんな感じ。
「佐世保から真っ直ぐ鎮海に進路をとると、眼下に壱岐島」ということではなく、
壱岐島上空を通過するため、わざわざ進路を東寄りにしていたんですね。
昭和3年の話ですから、これは長距離洋上飛行する際の機体の信頼性とか航法とか、そういう関係かもしれません。
壱岐島経由にすれば、必然的に対馬上空も通過しますし。
「佐世保を離水したら進路を真北にとり、壱岐島上空に達したら〇°左旋回、対馬を目指し~」
みたいな感じだったんでしょうか。
大戦中のオートジャイロ、「陸軍カ号観測機」の運用に関しては、
「滑走路は作らず、筒城浜の原っぱをそのまま利用し、風向きにより四方八方に離陸した。兵舎も新設せず、付近の民家に宿営した」
という手記が残っていおり、ここで具体的に「筒城浜の原っぱ」とあることから、
砂浜の背後にある平坦地を使用したのではないかと思われます。
一方、御当人が当時を振り返り、綴っておられるサイトがあります。
それによれば、
滑走路は 長さ約200㍍足らず、幅も40㍍程度の小規模だった。
場所は現在の筒城浜公園内のオートバイ練習場辺りから、
白沙八幡宮の大鳥居と筒城浜の中間点辺り迄 であった。
滑走路は舗装もされず、草地を平坦にしただけの簡単ものであった。
滑走路の横には吹き流しが1本立てられていた。
筒城浜基地に実戦配備された船舶飛行第2中隊は、
搭乗員と整備兵を併せて約200名、オートジャイロ機は約20機で あった。
海上輸送されたオートジャイロを、浜より引き上げた
とあります。
説明にある「オートバイ練習場」と「白沙八幡宮の大鳥居」、先頭のグーグルマップに赤マーカーで示してあります。
これでおおよその滑走路の位置が分かりますね。
戦争を知らぬ世代の者が見ても、これだけ具体的且つ簡明なサイトは本当に珍しいです。
芦辺町史164,165pで戦時中の町の様子が記されていましたので、一部記させて頂きます。
町歳出面でも昭和十二年より戦争費が新設され、防空監視哨への支出があったこと、
昭和18年4月6日には島内に警戒警報が初めて発令され、緊急配備についたこと、
そして八幡港の船舶への銃撃は村民を震撼させたが、
昭和19年8月の初山上空での米爆撃機撃墜は、島民の士気を奮い起こさせたこと
等記されていました。
筒城浜の平坦地は現在では「筒城浜キャンプ場」として、砂浜は「筒城浜海水浴場」として使用されています。
以下、キャンプ場と海水浴場の様子です。



長崎県・筒城浜飛行場跡地
設置管理者:旧陸軍
種 別:軍用飛行場
所在地:長崎県壱岐市石田町筒城仲触
座 標:N33°45′25″E129°47′13″
標 高:2m
滑走路:200mx40m
(座標、標高はグーグルアースから)
関連サイト:
筒城浜基地実戦配備のオートジャイロ部隊物語■(リンク切れ)
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
石田町史
芦辺町史
九州、中国・3 [■旅行記]
3日目
5:00 起床
5:45 道の駅伊万里出発
唐津東フェリーターミナルに向かう。

なんかデジャブな気もするけど、昨日食べたのは幕の内朝食。

乗船するのが人のみの場合は事前予約ができず、出港1時間前からの先着順です。










本日は壱岐島に渡り、港から約4km先の戦時中の飛行場に行きます。
港から見学ポイントまでそんなに離れていないので、
事前に港ターミナル内にある観光案内所のレンタサイクルを予約してあります。
昨晩の予報では、壱岐は午後から天気が崩れる。とのことでした。
壱岐到着が10:25で、13:20の船で唐津に戻るので、まあ降り始めても大したことはなかろうと、カサも車内に残したまま。
余計なところに寄らずに真っ先に跡地見学をしてしまえば、12時前には余裕で港に戻ってこれるはず。
船内は老人会御一行様的な団体で溢れかえっていました。
皆さん本当にお元気でテンションMAXです。
会話からすると、本日は島で一泊するみたいで、帰りも一緒になることはなさそう。
10:25 壱岐島印通寺港入港
「昼過ぎから雨」の予報だったのに、港に着いたら力いっぱいの土砂降りですた。。。つД`)・゚・。・゚゚・*:.。
団体さんは待ち構えていた数台のバスに次々乗り込んでゆきます。
ターミナル前のタクシー乗り場で1台だけ客待ちしているタクシーを横目に、
まずはレンタサイクルの予約をキャンセルしなくては。
観光案内所のスタッフさんはお一人で、先客の応対中。
10分位案内所の外で待っていたのですが、雨は途切れることなくザーザー降りだし、タクシーも居なくなっちゃうし、
せめてカサを持って来るんだったと後悔してもあとの祭り。
「申し訳ないですけどこの雨なのでキャンセルしたいんですが。。。」とお伝えしたところ、
キャンセル料なしで快く予約取り消して頂けました。
図書館があるかどうか尋ねてみると、「あの建物の二階にありますよ」。と教えてもらいました。
ターミナル内の売店に寄ったのですが、買いたかったカサはなく、タクシーは呼ばなければ来ない。とのことで、
タクシーの番号をお聞きしました。
程なくやって来たタクシーに乗り込むと、なんとさっきのタクシーでした。
ご年配の運転手さん曰く、この雨なので、誰か乗る人がいるんじゃないかとしばらく待っていたのだそうです。
一声かけておけばヨカッタ。。。
こちらでは朝の7時には既に土砂降りだったそうです工エエェェ(´д`)ェェエエ工
朝も天気予報チェックしとけばよかったよ。。。
筒城浜キャンプ場に向かいました。
このキャンプ場は砂浜のすぐ傍にあります。
キャンプ場を一望できる駐車場の東屋に横着してもらい、無事撮影。
運転手さんによれば、島の西側、壇ノ浦町の半城湾(はんせいわん)は、非常に奥まった湾になっているため、
戦時中軍艦の停泊場所になっていたのだそうです。
図書館まで送ってくださいとお願いすると、せっかくここまできたのだから、キャンプ場の砂浜側を是非見た方がいい。
と言われました。
勧められるまま砂浜に移動すると、海の色がサンゴでエメラルドグリーンになっており、確かに一見の価値ありでした。
日本の快水浴場100選、日本の渚100選にも選ばれており、
流されてきたゴミや海草を地元の方がせっせと片づけて、景観を保っているのだそうです。
図書館へ。
運転手さんの息子さんは浦和在住なのだそうです。
途中、田植えから既に結構な日数が経っているであろう水田が広がっていました。
オイラの地元埼玉より明らかにずっと生育が早いです。
聞けばこれは台風被害を避けるための早米なのだそうで、
全滅を避けるため島では昔からずっと早米、遅米でタイミングをずらすことが続けられてきたのだそうですが、
ここ15,16年台風被害は出ておらず、助かっているのだそうです。
図書館に横付けしてもらうと、一階は地元のものがいろいろ売っているから見ていったらいいですよ。
と教えてもらいました。
一階は確かに地元野菜、お土産、それに、こんなにたくさん! と驚く程多種多様なお弁当がずらりと並んでいました。
隣にテーブルの並んだスペースがあり、ここで飲食しても構わないとのことだったので、
お昼には少し早いけどここで腹ごしらえ。
その後二階に上がり、戦時中の筒城浜飛行場、壱岐空港についての資料コピー。
唐津に戻る船のチケット購入可能な出港1時間前になったので、建物の外へ。
相変わらずバケツ級なのですが、時々雨足が弱まる瞬間があります。
その切れ目を狙ってフェリーターミナルまで400m弱をダッシュ!
(イメージ) =========(⊃゜Д゜)⊃オリャー!
(現☆実) ~~~(⊃゜Д゜)⊃
桟橋には幾つか建物があるのですが、フェリーターミナルが一番奥にあります。
あー、こんなに走ったのはいつ以来だろうか(´Д`;)ハアハア
すっかりびしょ濡れで荒い息が収まらず、このまま窓口に直行したら通報されそうなので、
息を整えてから何食わぬ顔で窓口へ。
これで1時間後に唐津に戻れます。
往路の船内は老人会?の団体様御一行で大変賑やかだったのですが、
復路は島の老人スポーツ関係の団体様御一行でターミナル二階の乗船待合所が溢れかえっており、
これまた大賑わいでした。

15:00 唐津東港入港
こちらも小雨混りで空が少し暗いけど、日没までまだ時間があるので、
福岡県福岡市の百道飛行場跡地と、同じく福岡県の春日市の春日原飛行場跡地へ。
百道飛行場は出発の数日前に福岡の別の跡地を探していてたまたま見つけたのでした。
自宅で調べて場所がハッキリしてから、実際に現地にお邪魔するのは数年後になるのがほとんどなので、
これは(オイラにしては)驚異的な早さです。
18:05 見学終了。
18:15 近くのセブンで夕食。
明日の目的地手前の道の駅に向かいました。
ところでオイラ、出発前日の晩に入浴してから三日間風呂に入ってません。
風呂を探しながら走っていると、道沿いに風呂発見。
金曜日夕方の時間帯ですが、駐車場に車はほとんどありません。
「家族風呂」と書かれているのが気になりながらドアが開くと、
カウンターには着物姿の女性が二人。
一人でも入れるけど、入浴料1,800円とのことで、早々に退散。トホホ。
19:40 少し進んだところにあった銭湯へ。
こちらは250円(+脱衣ロッカー10円)でした。
20:30 道の駅吉野ヶ里着
21:00 寝る。結局壱岐島からずっと雨降りの1日でした。
おやすみなさい
本日の走行距離:135km
(続きます)
富江(福江、小濱)水上機基地跡地 [├国内の空港、飛行場]
2017年5月訪問 2022/1更新
撮影年月日 1948/02/26(昭23)(USA M804-1 34)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
前記事の「富江航空基地(野々切飛行場)」の西南西約5.5kmにあった「富江水上機基地」。
当記事作成にあたり、PUTINさんに大変お世話になりましたm(_ _)m
■防衛研究所収蔵資料:「海軍航空基地現状表(内地の部)」(昭和二十年八月調)
に当基地の資料がありましたので以下引用させて頂きます。
位置 長崎県南松浦郡福江町
基地名 福江水上基地
最寄駅よりの方位 距離 粁 福江島東部
建設の年 1943
飛行場 75x30木
格納庫 施設あるも数量不明
収容施設 士官200 兵員900
工場倉庫 施設あるも数量不明
主要機隊数 水偵0,5
主任務 作戦
隧道竝に地下施設 施設あるも数量不明
掩体 分散
■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調
には、「福江(水上基地)(昭18建)」とありました。
他資料では、当基地は「富江」なのですが、同資料によりますと、「福江町にある福江基地」とあります。
Wikiによりますと、福江町は1919年~1954年まで存在した町とあるので辻褄は合っております。
この名称は同資料でしか確認できないため、今のところ「こんな資料もありますよ」ということにしておきます。








■「日本海軍航空史」(終戦時)によれば、富江水上機地:滑走台30x60 とありました。
水面下の先端部分から防波堤までがほぼ60mです。

現在は豚舎が並んでいますが、水上機基地当時はこの谷間の部分に居住施設、自家発電機、水場があり、
山中に爆弾庫、燃料庫、無線電信所、戦闘指揮所の諸施設がありました。
長崎県・富江水上機基地跡地
設置管理者:旧海軍
種 別:水上機基地
所在地:長崎県五島市富江町田尾
座 標:N32°37′59″E128°45′57″
標 高:0m
スリップ:75mx30m
(座標はグーグルアースから)
沿革
1943年 建設
関連サイト:
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
「日本海軍航空史」
防衛研究所収蔵資料:「海軍航空基地現状表(内地の部)」(昭和二十年八月調)
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調
長崎県・富江航空基地(野々切飛行場)跡地 [├国内の空港、飛行場]
2017年5月訪問 2022/1更新
撮影年月日 1947/08/18(昭22)(USA M415-2 68)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
長崎県福江島にあった「富江航空基地(野々切飛行場)」。
先頭のグーグルマップは上に貼った航空写真から作図しました。
上のマップの通りで、第一滑走路、第二滑走路が逆V字にクロスしています。
当記事作成にあたり、再生おじさん、PUTINさんに大変お世話になりました。
どうもありがとうございました。m(_ _)m
当航空基地跡地には自家発電所と無線電信所が現存しているのですが、
自家発電所の写真は諸般の事情からブログ掲載見送り、
無線電信所はオイラの準備不足のせいで正確な位置が分からず、キチンと撮ることができませんでした。
■PUTINさん情報ですが、
OHAMAの東南東0.5マイル、Fukaeの南南東3マイル、N32-39,E128-50 3,000ftx1,000ft 撮影日1944.6/18
として米軍からもバッチリマークされていました。
■防衛研究所収蔵資料:「海軍航空基地現状表(内地の部)」(昭和二十年八月調)
に当航空基地について以下の情報がありました。
位置 長崎県南松浦郡富江町
基地名 富江
最寄駅よりの方位 距離 粁 福江島東南部
建設の年 1943
飛行場 1,500x150
1,200x150芝張
格納庫 施設あるも数量不明
収容施設 士官20
兵員150
工場倉庫 施設あるも数量不明
船溜 民施設利用
送信所 方位測定所 施設あるも数量不明
主用機隊数 小型0.5
主任務 作戦
隧道竝に地下施設 居住、指揮所、電信所、燃料庫、爆弾庫、工業場、倉庫
掩体 中型28
には、「昭18建」とありました。
撮影地点A(野々切町・前原橋北側)
滑走路交差部。
この道路は第一滑走路を浅く斜めに突っ切る方向に伸びています。
取り敢えずこの写真で真っ直ぐ見えている部分は全部滑走路跡地です。
撮影地点B(野々切町・若草保育園)
この先、おおよそこの方向に第二滑走路が伸びていました。
撮影地点C(小泊町・以下3枚とも)
第二滑走路跡地の南側部分は、長さ約550mに渡り、滑走路の形が舗装道路として残っています。
当飛行場で滑走路の地割がしっかり残っているのは、オイラの見る限り、この部分のみです。
実は資料によれば、滑走路の幅は150mとあるのですが、1947年の航空写真の通りに作図すると、
115m程度になり、ここの舗装道路の地割とピッタリ一致します。
上の写真は第二滑走路南端部分。
車一台がやっとの細道の右側が滑走路跡地部分。
写真奥に向かって真っすぐ滑走路。
カメラの向きを固定したまま右横に移動すると、
こんな感じ。
細道の左側が奥に向かって真っすぐ滑走路。
撮影地点D(野々切町・野々切住民センター)
当時はこの場所に土中耐弾式の戦闘指揮所(11mx3m)があったのだそうです。
実はこの写真、住民センター裏手側を撮ったものなんですが、方向的にこの背後に格納庫がありました。
撮影地点F(野々切町)
誘導路跡。
幅30m、総延長4,600mもあり、誘導路に沿って無蓋掩体壕があったのだそうです。
長崎県・富江航空基地(野々切飛行場)跡地
富江航空基地(野々切飛行場) データ
設置管理者: 旧海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:長崎県五島市野々切町他
座 標:N32°39′24″E128°49′26″
標 高:39m
第一滑走路:1,300mx150m(15/33)
第二滑走路:1,200mx150m(03/21)
(座標、標高、方位はグーグルアースから)
関連サイト:
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料:「海軍航空基地現状表(内地の部)」(昭和二十年八月調)
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調
「日本海軍航空史」(終戦時)
九州、中国・2 [■旅行記]
2日目
6:00 起床
6:40 道の駅鹿島出発

7:40 空港手前のジョイフルで幕の内朝食 530円
8:20 長崎空港着

先月は所用で沖縄に行ったので、二ヶ月続けてヒコーキに乗ることに。
普段ヒコーキに乗るのは数年に一度レベルのオイラにとっては非常に珍しいことです。

窓席は目の前に巨大なエンジンナセルと車輪のある席(7E)しか取れなかった。
まあこれはこれで。











到着口で予約したレンタカー屋さんが待っていてくれた。
営業所に向かう車中、「観光なんですか。ドコに行くか決まってますか?」と問われ、
おずおずと、「戦争中にあった飛行場を見に来ました」と言ったら、
「飛行場? 福江空港ではなく??」と問われ、
「そんな話、これまで一度も聞いたことがないですよ」と驚かれました。
その後も島内滞在中、何度か島民の方に戦時中の飛行場のことを切り出してみたのですが、
見事にどなたもご存じなくて、
「それは本当にココの島のこと? 別の島と勘違いしてない?」と真顔で心配されてしまい、
もしかしてオイラ、ホントに間違えちゃった??(゚Д゚;≡;゚Д゚) と不安になっちゃったのでした。
(福江島の飛行場のことは、後日別記事でアップ致します)

見学ポイントが多くて、途中地元のコンビニ駐車場で弁当をかっこんだ以外は、
戦時中の二つの飛行場跡地、現行の福江空港、図書館など回っているうちに時間はみるみる無くなっていきました。
ん~1日じゃ足りないな~。
レンタカーを営業所に返却し、空港に送ってもらう。
運転してくれた三十代位の方から「ドコ周ったんですか?」と尋ねられ、
この方にも戦時中の飛行場のことを話してみたのですが、
オイラの話し方が悪かったせいか、一切興味ございませんという感じでした^^;
結局、戦時中この島に飛行場があったことを認識しておられる方には一人もお会いできませんでした。
お聞きしたのが若い方中心で、せいぜい初老の方までだったので、
古老の方ならまったく違う展開になっていたのだと思います。
要因は様々と思いますが、「戦時中の飛行場についての地元の方の認識」というのは、
場所によって本当に天と地ほど違うんですよね~。
広島長崎に注目するのもいいんですが、
地元に多少なりとも目を向けるのは意味のあることだとオイラ個人は思うのですが。
まあこれがきっかけで、飲み会か何かの時に、
「なあなあ、こないださあ、なんか変なオッサンから尋ねられたんだけど知ってる?」
的な流れになってないかしらん。
「そのなんか変なオッサンの勘違いだよー」的なオチで片づけられ、マッハで別の話に移りそうですけども(o ̄∇ ̄o)フフ

これまた予約がギリギリだったため選択肢がなくて、往路の一つ前の座席(6E)。




18:25 長崎空港着
18:50 長崎空港発
明日は唐津東フェリーターミナルから壱岐島に渡るので、その手前の道の駅に向かうことに。
20:30 道の駅伊万里着
すっかり真っ暗になった道の駅でホタルが一匹飛んでいた。
おお、ホタルなんていつ以来だろう。
20:55 寝る
おやすみなさい
本日の走行距離:103km(福江島でのレンタカー含まず)
(続きます)
九州、中国・1 [■旅行記]
いつもなら自宅から一気に九州に向かうのですが、
今回はいつもとちょっと動き方が変わっていて、
本日は広島でFさんを乗せて、熊本の実家に送り届けます。
熊本到着があまり遅い時間にならないように、いつもより出発時間を早めることに。
2:00 起床
3:00 自宅出発
圏央道→東名→新東名 のルートで広島に向かったのでした。
5:20 藤枝PA
7:10 尾張一宮PA
9:25 西宮名塩SAにて給油
11:05 瀬戸PA
12:35 三原久井IC
12:55 Fさん宅着
後部座席はオイラの車中泊用道具、Fさんの荷物でスゴイことに!
(オイラも人のこと言えないけど)Fさん荷物大杉だよ! 女子か!(XДX)
13:30 コンビニで道中の食料を調達して後、広島出発
16:15 壇ノ浦PAにて休憩
18時頃、Fさんの実家がある熊本県Y市着。
地元の食堂でチャンポンの夕食。
一時は余命数ヶ月と宣告されたけど、そこから回復し、復職したFさんに奢ってもらった。
「ここの沼でボートで立ち上がったら、バランス崩して落ちた」という、
昭和の漫画ネタのような話を聞きつつ、Fさんの実家に向かう。
そこは山の奥の更に奥。
退避所以外ではすれ違いなどとてもできないぐねぐね道を上って行く。
対向車が来ませんようにと願いながら、山深く薄暗い細道を進んでいくと、夕陽に染まる青葉の山々。
日本昔話に出てきそうな美しい山里でした。
公道から自宅の敷地に入る道がこれまたギリギリで、路肩から転落しやしないかとヒヤヒヤしながら玄関前到着。
やれやれと車から降りると、一雨降った後の山の甘い匂い。
7:20 手短に挨拶を済ませ、Fさんを残してオイラは退散。
明日に備えて長崎空港手前の道の駅へ。
19:40 給油。ここのスタンド、営業時間が20時まででした。
ふぅ。危なかった。
熊本県Y市から長崎空港を目指し、有明湾に沿って大きく北側に大回りしたのですが、
実は有明湾をショートカットできるフェリーが出ているんですよね。
ただし、朝の第一便を使えたとしても、ヒコーキの時間がちょっと厳しいため、
安全策をとって陸路大回りルートを使ったのでした。
これも今となっては超どうでもいい余談なんですが、
今回九州では特に長崎県の壱岐島と福江島の二島がずっと積み残しになっていて、
ここにどうしても行きたかったのです。
広島でFさんを拾った後、この二島を含めてどういう回り方をするか、いろんなパターンを考えていたのですが、
昼過ぎに広島でFさんと合流した後、広島県~北九州の跡地等周り、0:05 博多港を出る船で二人で壱岐に渡ろうか。
なんてプランも考えてました。
ただしこれだと、壱岐には2:15 という時間に着いてしまいます。
島の観光課にお聞きしたところ、
「その時間についても港には朝まで過ごす施設というものは特にないけど、
近くにコンビニ併設のカラオケボックスならありますよ」。
とのことでした。
おお、ソレいいじゃん!
と思ったのですが、カラオケの深夜料金がとてもお高く、Fさんの都合も合わなかったため、
結局広島で合流した後、ドコにもよらずに真っ直ぐ熊本の実家に向かうことになったのでした。
22:00 道の駅鹿島着。
22:30 寝る
おやすみなさい。
本日の走行距離:1,343.6km
(続きます)