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広島県・福山練兵場着陸場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2017年5月訪問 2022/1更新   


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撮影年月日 1948/03/03(昭23)(USA M816 75) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

広島県福山市緑町。

緑町公園と、隣接する商業施設の広がるこの場所にかつて歩兵第四十一連隊兵営と福山陸軍練兵場がありました。

■防衛研究所収蔵資料:「昭和10年11月 刊行 中国及四国地方不時着陸場 水路部」の中に地図があり、

先頭のグーグルマップはそこから作図しました。

同資料の情報を以下引用させて頂きます。

福山練兵場(昭和10年6月調)
広島県福山市野上町

着陸場の状況
高さ 平均水面上約1.5米。
広さ及形状 着陸地域は練兵場内に在る東方排水溝の北東側に隣接する図
示の長さ北西-南東約350米、幅北東-南西約50米の細長き地区なり(付図
参照)。
地表の土質 尋常土。
地面の状況 練兵場略中央部に間隔約150米を以て北西-南東方向に設け
ある幅約1米、深さ約0.3米の並行せる2條の排水溝ありて排水一般に良好な
り・殆ど全面に芝を生ず・着陸地域は概ね平坦なる堅硬地なり・場の南西側よ
り内方付近一帯図示の地域は鉄條網及陣地等を構築しある歩兵用既設陣地及障
碍物地帯なり。
場内の障碍物 着陸地域内にはなし・場の北東部諸処に針葉樹林、南西部
に歩兵用既設陣地等あり・場内に2條の排水溝あり・南東部略中央に相撲用土
俵あり。
適当なる着陸方向 南東又は北西・従来不時着陸の際は主として南東方向
なりしと言う。
着陸上注意すべき点 本練兵場は狭小なる上着陸地域も亦狭小なるを以て
特に注意を要す・排水溝は空中より視認容易なり。 

■『平和を求めて』福山市人権平和資料館発行

の中でもこの練兵場が不時着場に指定されていることが載せられているそうです。

この情報は盡忠報國さんから頂きました。盡忠報國さんありがとうございましたm(_ _)m


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赤マーカー地点

不時着場に設定されていた福山練兵場跡。

現在一部がハローズになっています。


DSC_0032.jpg

青マーカー地点

第四十一連隊跡碑。

跡地は現在緑町公園と商業施設として整備されています。


DSC_0008.jpg

黄色マーカー地点

西門(上)と説明版(下)


DSC_0003.jpg


DSC_0049.jpg

陸軍病院跡地は現在JAになっています。


DSC_0026.jpg

青マーカー地点

記念碑

許可を頂いてJA敷地内側から撮らせて頂きました。




     広島県・福山練兵場着陸場跡地      


福山練兵場着陸場 データ
設置管理者:陸軍
種 別:不時着陸場
所在地:広島県福山市野上町(現・福山市緑町1丁目)
座 標:N34°28′32″E133°22′19″
着陸場:350mx50m
方 位:14/32
標 高:1.5m
(座標、標高はグーグルアースから)

関連サイト:
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
『平和を求めて』福山市人権平和資料館発行
防衛研究所収蔵資料:「昭和10年11月 刊行 中国及四国地方不時着陸場 水路部」

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オノミチフローティングポート [├国内の空港、飛行場]

   2017年5月訪問 2022/1更新  



広島県尾道市、瀬戸内海にある「オノミチフローティングポート」。

「せとうちSEAPLANES」が水陸両用機を運用しています。


追記:新型コロナの影響で2021年1月いっぱいで運休しています。

もちろん国内唯一の、そして半世紀ぶりの水陸両用機の営業運航が、

広島市と岡山市のほぼ中間地点にある風光明媚な尾道市で行われています。

遊覧飛行、チャーター等に利用可。

50分間の遊覧飛行(SETOUCHI Discovery Flight)が設定されており、 

10:20発の1便から16:00発の7便まであり、大人32,000円(税込)。

また9月からは、日曜日のみの30分間(ショートコース)も設定されました。

10:00発 大人運賃 25,000円(税込) 

(2017年9月現在・平日料金・WEB割あり)

公式サイト内に注意点として、

「※出発は旅客桟橋を離れる時刻、帰着は遊覧を終えて旅客桟橋に戻る時刻を指します。 」

とちゃんと書いてありました。

今後の展開として、琵琶湖、関空での運航という構想があるのだそうです。

2016年8月に運航が始まったばかりですが、水陸両用機ならではの可能性を見せて欲しいです。


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ブログ「(有)オールドマンの旅行代理店」 OLDMAN様からの頂きもの。

ありがとうございます!!m(_ _)m


裏面は「REMOVE BEFORE FLIHT」フラッグになってます。

超クール!

以下現地にお邪魔した際の様子。

到着したのが6時前と早い時間帯だったため、近寄ることができず外側から眺めるだけでした^^;


DSC_0269.jpg

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DSC_0280.jpg

DSC_0274.jpg

DSC_0277.jpg

米国Quest社 KODIAK100
最大巡航速度 300km/h
最大10座席
離陸水距離(高度15mに達するまで):水上710m/陸上460m
着陸水距離(高度15mから停止まで):水上930m/陸上620m



     広島県・オノミチフローティングポート      


オノミチフローティングポート データ
設置管理者:せとうちSEAPLANES
種 別:水上機用飛行場
所在地:広島県尾道市浦崎町1364番地6
座 標:N34°23′27″E133°16′56″
標 高:0m
(座標、標高はグーグルアースから)

沿革
2014年11月 設立
2016年01月 15日 事業許可取得
     08月 1日 遊覧飛行予約開始
        10日 航空運送事業開始 
2017年02月 9日 広島空港に専用ラウンジ開設
     03月 24日 日赤と「災害時等における教護活動への相互協力に関する協定」を締結
       28日 大分県別府市沖にて離水滑走中機体損傷 

2021年01月 31日 運休

関連サイト:
公式サイト  
ブログ内関連記事       

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広島県・広島県立尾道北高等学校 [├場所]

   2017年5月訪問 2022/1更新  




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撮影年月日 1948/03/29(昭23)(USA R32-2 4) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

広島県尾道市にある「広島県立尾道北高等学校」。

かわぐちかいじ氏の母校なんだそうです。

■「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、

尾道中學校(当時)に校友會滑空機部があり、本校運動場を滑空場として使用していたとありました。

この情報はアギラさんから頂きました。アギラさんありがとうございましたm(_ _)m

Wikiによれば、1941年にグライダー部発足とあります。


DSC_0267.jpg




     広島県・広島県立尾道北高等学校      


広島県立尾道北高等学校 データ
所在地:広島県尾道市長江3丁目7−1
座 標:N34°25′11″E133°11′36″
標 高:58m
着陸帯:130mx60m?
(座標、標高、着陸帯長さはグーグルアースから)

沿革
1941年 校友會滑空機部発足

関連サイト:
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)

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九州、中国・5 [■旅行記]

ⒶFさん宅→Ⓑ尾道北高→Ⓒオノミチフローティングポート→Ⓓ福山練兵場不時着場跡地→Ⓔ京橋不時着場跡地→Ⓕ岡山市内の滑走路跡地→Ⓖ勢力河原の陸軍飛行場跡地→Ⓗ城北練兵場跡地→Ⓘ鳴尾飛行場跡地→Ⓐ大阪防空飛行場跡地→Ⓑ草津SA→Ⓒ上郷SA→Ⓓ長篠設楽原PA(車中泊)


5日目

4:30 起床

4:50 Fさん宅静かに静かに出発

まずは広島県内の三か所を周ることに。

5:25 尾道北高校
DSC_0272.jpg
6:05 SETOUCHI SEAPLANS 飛行場(上の写真は隣接する造船所)

今の日本で現役の水上飛行場を目にする日がこようとは夢にも思いませんでした。

7:00 広島練兵場跡地のハローズで四割引きの調理パン、菓子パン等6コ購入。

食欲がなくて、1コ食べただけでお腹いっぱい。

結局翌日までパンを食べ続けたのでした。

7:55 広島練兵場跡地見学終了。

下道でお隣の岡山県へ。

10:10 岡山市内の「京橋不時着場」、「市内滑走路」見学

11:00 勢力飛行場

下道でお隣の兵庫県へ。

12:55 姫路市の城北練兵場跡地。ここは前も来たけど、アジ歴で離着陸エリアがハッキリしたのでまた来たのでした。

以前の記事を更新しましたので、興味のある方はご覧ください(以下同様)  

16:20 鳴尾飛行場跡地  

距離は大したことないのに、移動に4時間以上かかってしまった。

流石兵庫。

まだ陽があるので、更にお隣の大阪府へ。

17:45 大阪陸軍飛行場跡地  

ここも前来たけど、アジ歴でエリアがハッキリしたのでまた来ました。

今回の見学はここまで。

近くのセブンで冷やし中華の夕食(パン飽きた。暑いし)。

18:00 出発

18:45 草津SA

21:00 上郷SA にて給油

21:50 長篠設楽原PA着

本日はここで車中泊することに。

夜に強い人なら、ここまでくれば一気に埼玉まで帰っちゃうんだろうな~。

オイラはホントにもうムリでした。

22:15 寝る

おやすみなさい


本日の走行距離:566km

(続きます)

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宇部航空輸送研究所跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2017年5月訪問 2022/1更新  


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国土地理院 1927年測量の地図(図名:宇部東部 図名(ひらがな):うべとうぶ リスト番号:120-9-3-1) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


山口県宇部市にあった「宇部航空輸送研究所」。

1928年に宇部市草江に開設し、1929年に海岸に格納庫を作ったという記録が残っています。

水上機の飛行場でした。

宇部市史には昭和4年(1929年)に出来た格納庫に入った複葉機と

昭和5年(1930年)の水上機宇部号(翌年墜落)の写真がありました。

上の地図は1927年のものなので、研究所開設前年のものです。

研究所がドコにあったのか、正確な位置は不明なのですが、

グーグルマップの青マーカーの間、地図の赤矢印の間が住所的に草江の範囲なので、

恐らくこの辺りに格納庫があり、ここの海岸から水上機が離着水していたのではないかと思います。


実は逓信省が計画していた東京・大阪・福岡・上海・大連線の航空本線下に宇部が位置していたことから、

研究所は不時着場所の1つという側面もあったようです。

また、航空年鑑昭和6年にも当研究所が登場するそうです。

当時の「宇部市全図」には、「航空灯台」が記されていました。

上の地図の同じ位置に灯台を入れました。

この情報はアギラさんから頂きました。

アギラさんありがとうございましたm(_ _)m


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DSC_0241.jpg


赤マーカー地点。


「空港入り口」交差点から。

山口宇部空港前を走るこの県道220号線が当時の海岸線でした。

どちらの写真も交差点の空港側(海側)から撮っています。

この辺りに砂浜が続いていて、水上機が飛んでいたはずです。

当研究所は1938年、開設から僅か10年で閉鎖してしまいましたが、

それから30年足らずで立派な空港が沖を埋め立てて完成することになろうとは。。。



      山口県・宇部航空輸送研究所跡地     


宇部航空輸送研究所 データ
設置管理者:宇部航空輸送研究所
種 別:水上機飛行場
所在地:山口県宇部市草江
座 標:N33°56′07″E131°16′26″
(座標はグーグルアースから)

沿革
1928年11月 草江に研究所開設
1929年    草江の海岸に格納庫建設
1930年    翌年にかけて体験飛行実施
1938年    研究所閉鎖

関連サイト:
ブログ内関連記事     


この記事の資料:
宇部市史
航空年鑑昭和6年(アギラさんから)



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山口県・藤曲の飛行場(計画) [├場所]

   2017年5月訪問 2022/1更新  


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(リスト番号120-13-1-5 図名 宇部 測量年 1947) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


山口県宇部市を流れる厚東川の河口近くには、「昭和十五年度版宇部市全圖」の中で、

山口県による埋め立て工事中の箇所がありました。

地図ではそこだけ点線になっていて、凡例欄の説明には「宇部ゴルフコース兼飛行場」と書いて有ります。

次の記事で登場しますが、ここの東南東約5.3kmのところに「宇部航空輸送研究所」(現在の「山口宇部空港」の辺り)

がありました。

「宇部航空輸送研究所」は昭和13年に閉鎖しているため、

もしかしたら山口市の新たな飛行場計画ということなのかもしれません。

この情報はアギラさんから頂きました。

アギラさんありがとうございましたm(_ _)m    
 

ということで、遅くとも昭和十五年(1940年)にはあった飛行場埋立計画なのですが、

上の地図の通りで、1947年の地図ではまだ埋め立て地は形になっていません。

実はこの年の航空写真を見ると、うっすらと埋め立て地の輪郭が出来上がっており、

着工はしていたようです。

その後年を追ってこの位置を見ても、なかなか埋め立て工事が完了しません。


無題4.png(図葉番号3-RB-58 図名   測量年1974(昭49)) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


1974年の地図でようやっと現れました。

それでも埋め立て地の北側の一部で宇部製鋼等が建設されたのみで、南側の大部分は未だ「埋立中」のままです。

埋め立て工事そのものは当初の計画通りの形に進んでいますが、

埋立地を「宇部ゴルフコース兼飛行場」とする。という計画は終戦の5年前の地図に出ています。

ところが終戦から約30年を経て工事は完了しておらず、飛行場どころか工場が建設されている-

はっきりしたことは不明ですが、埋め立て地の用途が途中で変更になり、

「ここに飛行場を!」という計画は幻と消えてしまったように思います。

情報お待ちしておりますm(_ _)m


DSC_0235.jpg




     山口県・藤曲の飛行場(計画)      


藤曲の飛行場(計画) データ
設置管理者:山口市?
種 別:陸上飛行場
所在地:山口県宇部市藤曲
座 標:N33°57′14″E131°13′17″
標 高:6m
着陸帯:1,300mx580m?
(座標、標高、着陸帯長さはグーグルアースから)

関連サイト:
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
昭和十五年度版宇部市全圖

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直方飛行場(知古民間飛行場、直方滑空場)跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2017年5月訪問 2022/1更新  


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測量年 1938(昭13)(リスト番号125-6-1-2 図名 木屋瀬) 無題1.png
撮影年月日 1947/04/26(昭22)(USA M279 59) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成・2枚とも)


福岡県直方市に大正時代、民間の飛行場がありました。

直方飛行場(知古民間飛行場)で、遠賀川の河川敷にありました。

地元図書館で3つの書籍を教えて頂きました。

以下、該当部分を引用させて頂きます。

■直方市史下巻
1924年、大正13年、直方飛行場検査に合格。5ヶ年間の正式使用許可。9月7日開場式、後援会発会式 直方号初飛行

■ふるさとの思い出写真集 直方83p
164 直方飛行場
 直方に伊藤音二郎のヒコーキ恵美号が中島公園彦山川河川敷の東側に飛来したのが大正五年八月。直方にも知古民間飛行場が開場された。大正十三年(一九二四)九月七日、「訪れた秋天に飛行機自在に快翔、太刀洗より二機、祝賀飛行来」と新聞にかきたてられた。

■直鞍こぼればなしp126,127
第6話 直方飛行場
 直方に飛行場があった、と言っても、信じてもらえないかもしれないが、正真正銘、民間飛行場があったのだ。場所は知古、堀農園(現在の直方三中)の東側、遠賀川の洪水敷である。話は七十数年前に遡る。病院通りの久保という人が、直方にも是非飛行場を、と思い立ち、町内の有志に呼びかけたところ、賛成者が多く、直ぐに直方飛行場後援会が出来た。後援会が中心になって、場所の選定、造成工事が進められ、使用許可の申請が出され、大正十三年四月十三日に正式の認可が下りた。
名称は直方飛行場、使用期間は五年、経営責任者は久保茂、飛行士は志鶴忠夫となっていた。(志鶴さんは、当時、旧制鞍手中学校の五年生で、後に、グライダーの世界に入り、数々の日本記録を樹立、毎日新聞航空部長などを歴任、日本滑空会の重鎮となった。)直ちに、ニューポールという双発の二人乗りの飛行機が購入され、直方号と命名された。
飛行場開場式は、同年の九月七日に行われた。直方号の初飛行である。太刀洗飛行場からも二機が応援に飛来し祝賀飛行に花を添えた。「堤防には溢れるばかりの人出で、大変な騒ぎだった。双発の飛行機が、屋根もすれすれに飛んだ」という記事も残っている。同十四年一月には、航空思想の宣伝と技術員の養成を目的とした直方飛行協会が結成され、町民の航空熱は弥が上にも高まった。会員は四百名、会長は町長の秦伝次郎氏であった。
 この飛行場が、飛行場として何時まで使用されたかは、残念ながら記録として残っていないが、昭和十三年には、グライダー練習場として蘇ることになる。その経緯はこうだ。昭和十二年、日中戦争が勃発、防空意識の向上が叫ばれ、翌十三年三月には、直方でも、各小学校で防空展覧会が開かれた。また防空に関する講演会・映画界なども開かれた。飛行機に対する関心が高まる中、県の奨励もあって、同年九月に、旧制鞍手中学にグライダー部が新設されたのである。知古の旧飛行場が、大日本青年航空団の支部第二次訓練道場として整備され、航空団より貸与されたグライダーと、県から譲り受けたプライマリー型グライダーの二機が揃った。そして、すでに滑空会の中堅として活躍していた卒業生の志鶴さんの支援のもとに、三十名の部員が練習に励んだのである。


飛行場のあった場所として書籍から、「知古」、「直方三中の東」、「遠賀川の洪水敷」が出てきます。

「洪水敷」とは、河川敷のうち、増水時に水の流れる部分を指すようです。

上の地図と航空写真は、使用再開した1938年と戦後の1947年のものです。

一応開場式の2年前の1922年の地図も閲覧できるので見比べてみたのですが、

河川敷の形に大きな変化はないものの、1922年の方が南側がやや太くて使いやすそうです。

河川敷内のドコからドコまでを飛行場としていたかについては資料がないため、

飛行場として使用可能(に見える)部分をグーグルマップで囲ってみました。

直方三中から北側に向かって幅もしっかりある適地がずっと続いてますね。

最大で長さ1,400m、幅200mはとれそうです。

河川敷内の適地全面を飛行場として使用していたのかもしれませんし、

わざわざ「直方三中の東側」とあり、「知古」という地区は、「直方三中の東側」周辺に限られていることから、

河川敷の南側部分しか使用しなかったか、南側部分を中心として使用していたのかもしれません。

地図でも航空写真でも、河川敷内の直方三中のちょい上の辺りに、斜めの線が走っています。

航空写真で拡大して見る限り、これは水路ではなく河川敷を横切る道のようです。

飛行場としての使用に支障はないかと。


更に、アギラさんからも情報頂いていました。

■「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、

直方商業學校滑空部・福岡縣直方市大字新入・「直方市大字新入大日本飛行協會直方滑空場」という記録があります。

「新入」とは、知古のすぐ西側にある地名であること、

知古の飛行場も「直方滑空場」も、学生の滑空訓練に使用した飛行場であることから、

こちらは同一である可能性が高いと思います。

アギラさん情報ありがとうございましたm(_ _)m


実は直方にはこの民間の飛行場の他に、戦争末期の時期、海軍の秘匿飛行場が建設されました。

事前にPUTINさんから有力な位置情報を頂いており、今回(多分ここ)と考えられる場所で写真も撮ったのですが、

自宅に戻ってから更にレファレンスサービスを利用したところ、オイラが考えていた場所が全く違うことが判明したのでした。

海軍の直方飛行場については、またいつか改めてお邪魔する予定です。


DSC_0227.jpg

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     福岡県・直方飛行場(知古民間飛行場)跡地      


直方飛行場(知古民間飛行場) データ
経営責任者:久保茂(後に大日本青年航空団?)
種 別:民間飛行場→滑空場
所在地:福岡県直方市知古 遠賀川左岸河川敷内
座 標:N33°46′08″E130°43′14″
標 高:4m
滑走路:1,400mx200m?
方 位:16/34
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)

沿革
1924年04月 13日 正式認可
     09月 7日 飛行場開場式
1925年01月 直方飛行協会結成(その後いつの頃からか使用されなくなる)
1938年03月 直方の各小学校で防空展覧会、防空に関する講演会・映画界が開かれる
     09月 旧制鞍手中学にグライダー部新設。旧飛行場を大日本青年航空団の支部第二次訓練道場として整備

関連サイト:
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
直方市史下巻
直鞍こぼればなし
ふるさとの思い出写真集 直方

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九州、中国・4 [■旅行記]

Ⓐ道の駅吉野ヶ里→Ⓑ目達原飛行場→ⒸFさん実家→Ⓓ図書館→Ⓔ(直方飛行場跡地)→Ⓕ直方飛行場(知古民間飛行場)跡地→Ⓖ藤曲の飛行場(計画)→Ⓗ宇部航空輸送研究所跡地→Ⓘ山口宇部空港→ⒿFさん宅(泊)

4日目

5:00 起床

5:40 道の駅吉野ヶ里出発

目達原飛行場跡地の碑を撮って後、熊本県Y市にFさんを迎えに。

(目達原飛行場は既存記事に碑等追記しました)

途中のジョイフルで幕の内朝食。

二日目と同じなので写真は撮らなかった。

朝食セットはパン食のオシャレなメニューもあるので、ブログ的にはパンもアリなのですが、コメが食べたかった。
DSC_0223.jpg
9:30 Fさんの実家出発。

高速で福岡県直方市へ。
DSCN0040.jpg
直方市内のリンガーハットで昼食。

実は戦争末期に建設された直方飛行場跡地の位置がイマイチ絞り込めていません。

それで先ずは直方市の図書館にて、何か資料はないかと探したのですが自力では見つからず、

リファレンスコーナーでお尋ねしてみたところ、大正時代に建設された民間の直方飛行場について教えてもらいました。

場所もおおよそ分かったので、両方の飛行場跡地と思われる所に向かったのでした。

(その後の調査で戦争末期に建設された直方飛行場は明後日方向を撮ってしまったことが判明したため、
後日行き直しとなり、記事はお蔵入りに)

13:35 直方市発

再び高速に乗り、山口宇部空港へ。

空港周辺の二か所の飛行場跡地に行く。

ここは二か所とも、以前明後日方向を撮ってしまったため、撮り直しに来ました。

山口宇部空港を徘徊して後、山口県東部にあった和佐飛行場跡地に行こうとしたのですが、

ここはICからかなり距離が離れているため、ここに行くと広島のFさん宅到着が明日になりそうな位遅くなってしまう。

ということで、ここと一緒に行く予定にしていた広島県西部の防空監視哨は積み残しにして、

このまま高速で真っ直ぐFさん宅に向かうことに。
DSC_0259.jpg
(空港にて)

16:30 山口宇部空港発。

「ん~、今回の旅行で九州と中国はキレイに終わらせたかったんだよな~。また明日山口の和佐まで戻るべきか。。。」

なんてことも考えたのですが、Fさんから「また九州行こう」と言われたため、

次九州に行くのは多分再来年になると思うのですが、その機会まで持ち越しとすることに。

途中のSAでシースーの夕食。

21:00 酒やらつまみやら買い込んで、Fさん宅着。

23:00 寝る。

おやすみなさい


本日の走行距離:550km

(続きます)

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春日原飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2017年5月訪問 2022/1更新  


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撮影年月日 1947/04/16(昭22)(USA M271 46) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

福岡県春日市春日原にあった「春日原飛行場」。

当飛行場についてデータベースであるサイト様に春日市史からの引用がありました。

以下そのまま引用させて頂きます(下記リンク参照)。

海軍春日原航空特別攻撃基地は一般には秘密の飛行場でした。
秘匿航空基地「牧場」として佐世保鎮守府内に11箇所新設されたもの のひとつです
当時 春日村の運動場の400mトラックと隣の野球場の一部をつぶして作られました。
現在は痕跡も残っていません。場所は龍神池(埋め立て前はもっと大きかった)の東側と西鉄春日原駅の間になります。
地番は 春日市春日原北町から 春日原東町にかけての住宅街です。
九三式中間練習機や 二式中練 に150kg爆弾を、 機上作業練習機「白菊」 には250Kg爆弾をつけて体当たりをするための特攻基地でした。

基地の概要
所管:佐世保鎮守府
所在地:春日村
基地名:春日原
牧場名:春日野
建設年月:昭和20年7月
主要機体:小型機
主任務:発進
掩体:分散
その他:離着陸1方向
引用:春日市史

(引用おわり)

地名として、「西鉄春日原駅」、「春日市春日原北町」、「春日原東町」が、

そしてランドマークとして、「400mトラック」、「野球場」、「龍神池」が出てきます。

上の航空写真の通りで、確かにこの地名の場所には、市史にある通りのランドマークが並んでいます。

更に場所について、「龍神池の東側と西鉄春日原駅の間」「春日市春日原北町から 春日原東町にかけて」

とあります。

市史に出てくる「春日原東町」は線路をまたいで南北に広がっているため、

線路の北側も飛行場の範囲だった可能性があるのですが、

ここを走る「西鉄天神大牟田線」は、Wikiによれば1939年に全通しています。

当飛行場の建設年は市史によれば1945年ですから、まず線路ができて、少なくともその6年後に飛行場が建設されました。

線路を跨ぐように滑走路を造ったとは流石に考えにくいので、

滑走路があったのは「西鉄天神大牟田線」以南の範囲と思います。

西鉄春日原駅は龍神池のすぐ北側にあります。

ということで市史にある説明からすると、飛行場があったのは、

「龍神池の東側と西鉄春日原駅の間」から始まり、そのまま線路に沿う辺りにあったのだと考えられるのですが、

上の1947年の航空写真で確認すると、そうはなっていないんですよね。

市史の通りだとすると、龍神池の東から線路に沿って、

ちょうど野球場、トラックを潰すように滑走路があったはずなのですが、野球場もトラックも(ほぼ)そのまま残っています。

可能性としては、野球場、トラックを潰して線路沿いに滑走路を建設し、

戦後再び滑走路跡地に野球場とトラックを造ったと考えられるのですが、

周辺の地割からして、オイラには終戦から2年で滑走路からここまで復興させたとは考えにくいです。

戦後食糧難のこの時代、飛行場建設で潰された場所を畑ではなく、

わざわざ元通り野球場とトラックに作り直すというのも考えにくいです。

引用させて頂いたサイト様でもこの点に疑問が呈されていて、

オイラとしては何年もの間、ここで完全に手詰まりになっていました。


ところが最近になって、PUTINさんから当飛行場について有力な情報を頂きました。

■『海軍施設系技術官の記録』刊行委員会編『海軍施設系技術官の記録』(私家版、1972年)の中で、

当春日原海軍飛行場の設営に携わった方の回想が数行だけですが載っていて、それによれば、

「野球場を滑走路に造成」する設営作業が行なわれた。

のだそうです。

建設に従事したご本人が「野球場を滑走路に造成」したと記しておられるので、

これは非常に信ぴょう性の高い情報です。

更にPUTIN様より報頂きました。

佐世保施設部担当の各飛行場について
件名:佐世保施設部管区航空基地緊急整備推進隊報告
春日原基地
概位:現春日原運動場
工事概要:在来地盤ヲ整地 (ママ)圧シ飛行機隠匿場及組立場新設

■「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」によれば、

当基地は「福岡航空基地」という名称でもあると記されていました。

以前「あ」さんから、「競技場トラックは北東側に比べて南西側は線が見られないまたは曖昧」というご指摘もいただいており、

「1945年5月 球場南側に飛行場建設」という別資料もあり、

そういう目で改めて1947年の航空写真を見てみれば、龍神池の東側から球場、トラックの南側をかすめるようにして、

ぼやっと白い滑走路のような跡があります(上の航空写真赤矢印)。

これは、春日市史にある「400mトラックと隣の野球場の一部をつぶして作られました」とも一致します。

で、このぼやっと見えるものの通りに線を引いたのが先頭のグーグルマップです。

別の資料の中では当飛行場について、600mx30mとあるのですが、

作図してから長さを測ってみたら、(一番長い辺で)600mx67mでした。

この通りだったとすると、滑走路は龍神池から南東方向に伸びていたことになります。

春日市史の基地の概要に出てくる「その他:離着陸1方向」とは、

もしかしたら離着陸に失敗すると龍神池に即水没という事態を避けるため、

「離着陸は西側から(龍神池側から)開始すること」という意味なのかもしれません。


■防衛研究所収蔵資料:航空基地 4 「海軍航空基地現状表(内地の部)」

に当飛行場について出ていました。以下引用させて頂きます。

基地名 春日原
最寄駅よりの方位 距離 筑豊本線雑餉隈駅SW4
建設の年1945-7
主要機隊数 小型機
主要任務 発進
隧道並に地下施設 工事中
掩体 分散

春日市史にある「基地の概要」とほぼ同じですが、互いに補完し合っている感じですね。

テツ話になってしまうのですが、この資料の中で、最寄り駅について、「筑豊本線雑餉隈駅SW4」とあります。

この周辺の土地勘がある方からすれば、この段階で「? あり得ない!」と思われたはずです。

オイラはテツでもなんでもない一般人なので、一からだったのですが、

筑豊本線は、当飛行場のあった春日原の南東約10kmの原田駅から北東方向(春日飛行場から遠ざかる方向)

に伸びており、しかも「雑餉隈駅」はありません。

ここから少しややこしい話になってしまうんですが、「雑餉隈駅」はこの当時、国鉄鹿児島本線にあり、

現在は「南福岡駅」に名称変更になっています。

で、この「南福岡駅」の北北東約600mには現在、「西鉄天神大牟田線」の「雑餉隈駅」があるのですが、

この駅は飛行場当時は「西鉄雑餉隈駅」でした。

結論としましては、「海軍航空基地現状表(内地の部)」の中で、

「最寄駅よりの方位 距離 筑豊本線雑餉隈駅SW4」と記された当時の「雑餉隈駅」は、

現在のJR鹿児島本線「南福岡駅」を指していると思います。

春日原飛行場は、この「南福岡駅」の南東約1.5kmに位置しています。

そして「海軍航空基地現状表(内地の部)」にある通り、この駅から「SW4」だと、

春日原飛行場からは遠ざかる方向になってしまい、九州新幹線博多南駅の向こう側にいってしまいます。

長々と書きましたが、結局のところこの「最寄駅よりの方位 距離 筑豊本線雑餉隈駅SW4」という情報は、

路線と駅の矛盾も含め、正確ではないと思われます。

せめて、「SW4」ではなく、「SE4」だと良かったんですけど。。。


ということで、長々と書きましたが、

現時点でオイラは当飛行場の位置は先頭のグーグルマップの辺りにあったのではないかと考えています。

地元市史に出てくる詳細な場所情報と少々違ってしまうのが非常に気になるのですが。。。

情報お待ちしておりますm(_ _)m


DSC_0203.jpg


赤マーカー地点。

瑞穂町三丁目交差点。

信号の先から画面奥に向かって真っすぐ滑走路が伸びていたと思うのですが。。。




     福岡県・春日原飛行場跡地      


春日原飛行場 データ
設置管理者: 旧海軍
種 別:秘匿飛行場
所在地:福岡県春日市春日原南町、東町
座 標:N33°32′01″E130°28′28″
標 高:24m
滑走路:600mx67m?
方 位:13/31
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)

沿革
1945年7月 建設

関連サイト:
春日原海軍飛行場 
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この記事の資料:
春日市史
「海軍施設系技術官の記録」
防衛研究所収蔵資料:航空基地 4 「海軍航空基地現状表(内地の部)」
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」

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百道水上機飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2017年5月訪問 2022/1更新  



9.png
1/25000「福岡西部」大正15年測図「今昔マップ on the web」より作成 

先頭のグーグルマップは当時の海岸線に(おおよその)線を引いたものです。

「よかトピア通り」はほぼ当時の海岸線なんですね。

ヤフオク!ドームも福岡タワーも、当時は海底でした(@Д@)

で、1918年(大正7年)7月7日、福岡日日新聞(現・西日本新聞)はここに百道海水浴場を開設しました。

充実した施設、交通の便も良く、昭和30年代まで大勢の海水浴客で賑わったのだそうです。


そしてこの海水浴場には、極めて短期間ではあるのですが、「百道水上機飛行場」があったのでした。

大阪の木津川にあった日本航空は、大阪-別府間の路線を延長して、大阪-福岡路線を開設するため、

1924年(大正13年)、当海水浴場に出張所を設けました。

同年4月11日、水上機が飛来。

以降、路線運用の他、曲芸飛行、遊覧飛行等行いましたが、

同年9月2日、日本航空は水上機の発着場を西公園東側の入船町の海岸に移転してしまいました。

なんと、百道は入船町水上機基地 の前身だったんですね。


「大阪の木津川にあった日本航空」ということで、すぐに木津川飛行場 を連想するのですが、

日本航空が大阪~福岡線を開設したのは1924年。

木津川飛行場が着工するのは1927年ですから、当時はまだ飛行場はありませんでした。

木津川飛行場跡地碑の隣に説明版があり、そこには、

「大正一一年からは空の定期貨物輸送も始まり、大阪から東京、徳島、高松、別府などへの路線が次々と開設されましたが、当時はまだ木津川河口や堺の水上飛行場を利用していました。」
とあります。

木津川に飛行場が建設されるまでは、説明版にある通り、木津川河口を利用して福岡便を飛ばしていたのだと思います。

尤も当時の地図で確認すると、木津川飛行場そのものが河口に位置していますので、

そんなに離れていない場所で運用していたのではないかと思います。

「別府の水上機飛行場」 の方は、1923年から運用開始していますので、こちらは計算合ってます。

僅か4か月余の運用で終わってしまった百道水上機飛行場でしたが、

現在では一角に、かつてここが海水浴場であったことを示す碑が建っています。

飛行場のことを示すものは特にありませんでした。


DSC_0196.jpg

DSC_0197.jpg

DSC_0198.jpg

DSC_0200.jpg

樋井川に架かる「百道浜橋」。

こちらが内陸側。

当時はこの橋の向こう側が海でした。

現在の浜はここから700m以上先になるんですが、橋の名前にちゃんと当時を留めてますね。

写真の道路、橋にぶつかって左に曲がると碑があります。




     福岡県・百道水上機飛行場跡地      


百道水上機飛行場 データ
設置管理者:日本航空
種 別:水上機飛行場
所在地:福岡県福岡市早良区西新2丁目
座 標:N33°35′21″E130°21′35″
標 高:0m
(座標はグーグルアースから)

沿革
1918年07月 7日 福岡日日新聞、百道海水浴場開設
1924年04月 11日 日本航空の水上機が百道海水浴場に飛来
       15日 曲芸飛行実施
       18日 大阪線週1便の試験運行開始
     07月 26日 遊覧飛行実施
     08月 15分間の博多湾一周飛行
     09月 2日 日本航空、発着場を入船町に移転

関連サイト:
福岡市史/百道(ももち)海水浴場に水上機の飛行場があった!  
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