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第三郡山航空基地(大槻飛行場)跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2017年8月訪問 2022/1更新  


無題7.png
撮影年月日 1947/10/24(昭22)(USA R357 36) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

福島県郡山市にある「郡山駐屯地」。

この駐屯地を串刺しするような形で、かつてここに「第三郡山航空基地」がありました。

地名から「大槻飛行場」とも呼ばれていました。

第一、第二航空基地は下記リンクご参照下さい。

ここも長年明確な位置を特定することができなかったのですが、

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表(内地の部)」(昭和二十年八月調)では、

当航空基地について、「2,000x200未完 掩体 工事中 其ノ他記事:未使用」とありました。

■更に防衛研究所に「第1~3郡山海軍航空隊図面」という資料が収蔵されていました。

閲覧室にて拝見したその資料中には、当航空基地の大きめの手書きの図面、地図が含まれていました。

図面によれば第三郡山航空基地は、1,500mx200mの着陸帯の中に幅70mの滑走路として示されており、

さらに東側に延長して2,000mx200mの着陸帯、その中に幅70mの滑走路。として描かれていました。

滑走路を縁取るように着陸帯があるため、滑走路は着陸帯と比べて幅だけでなく長さもやや短く描かれているのですが、

具体的に何メートルになるのかについては示されていませんでした。

地図には地名、道路が細かく書き記され、そこに着陸帯、滑走路の線が引かれています。

残念ながら現在の地図で見ても滑走路跡っぽい地割は一切残っておらず、

1947年の航空写真を見ても、フェイクの地割がたくさんあって、(少なくともオイラには)判別がつきませんでした。

そこで手書きの地図に記されている道路と共に、地名を一つ一つグーグルマップ上で突き合わせ、

滑走路位置について(だいたいこの辺にこんな感じ)とおおよそのアタリがついたところで、

1947年の航空写真でその部分を改めて詳しく見たところ、

滑走路方向にうっすらと着陸帯っぽい地割が浮かび上がりました。

その通りに線を引いたのが上のグーグルマップです。

1947年の航空写真では着陸帯の両端の位置が読み取れず、

特に東側に延長した500m分の滑走路については、地割も残っていません。

それで、「資料通り500m延長したら、こんな感じ」ということで線を引きました。

また前述の通り、資料では着陸帯幅:200m、滑走路幅:70mとあるのですが、

航空写真の通りに作図したところ、幅は約110mとなり、資料にある200mとは大幅に異なっています。

もしかして作図の際、着陸帯の線を拾うべきところを、どっちか一辺は滑走路の線を拾っちゃったかも。

滑走路の位置はこれで合っているはずなので、この位置に無理やり幅200mで作図しようか(たまにやる)。

とも考えたのですが、航空写真にしっかり線が残っているので、残っている線を活かし、小細工はしないことに。

「おおよそこんな感じ」ということでご了承くださいませ。


DSC_0011.jpg


赤マーカー地点。

郡山駐屯地。

当時はこの方向に滑走路が伸びていたはずです。


DSC_0018.jpg


青マーカー地点。

県道55号線信号交差点にある「開拓之碑」。


DSC_0030.jpg


DSC_0031.jpg

裏面に碑文が刻まれていました。

「遺業開拓を賛う」と題する格調高い文面は、

「廃墟と化し秋草の茂る旧郡山第三海軍航空隊跡百余町歩の荒地に開拓の鍬を打ち下したのは」

という出だしで始まっています。



     福島県・第三郡山航空基地(大槻飛行場)跡地      


第三郡山航空基地(大槻飛行場) データ
設置管理者:海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:福島県郡山市大槻町
座 標:N37°23′47″E140°19′41
標 高:257m
着陸帯:1,500mx200m(そのうち滑走路幅は70m、2,000mに延長工事)
方 位:11/29
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
1944年11月 起工式
1945年05月 1,500m部分完成。戦後は開拓地となる

関連サイト:
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この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表(内地の部)」(昭和二十年八月調)
防衛研究所収蔵資料「第1~3郡山海軍航空隊図面」

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