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那覇空港・2 [├雑談]

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前記事の続きです。

那覇空港の第二滑走路が供用開始しても発着枠が微増に留まる「3つの制約」の1番目、

「那覇空港の北側に米軍嘉手納飛行場への進入経路が重なる空域の問題でオープンパラレルが採用できない」

とはどういうことなのか、関係するところを色々と書いてみます。

で、前記事でも書きましたが、オイラは全容を未だ理解していませんので、

このシリーズ記事を最後まで読んでも、

結局のところ「よく分からない」感じで終わりますのでご了承くださいませm(_ _)m

今回の記事では、件の「嘉手納ラプコン」について、そのスジの方には分かり切った話をグダグダと。

一応確認しつつ記事作ったつもりですが、オイラ航空管制のこと(も)詳しくないので、

話半分程度に読んで頂けるとありがたいです。ツッコミ大歓迎!



「ラプコン」とは

国交省のサイトによりますと、「ラプコン」(RAPCON:RADAR APPROACH CONTROL)とは、

「レーダー進入管制所の呼称で、離陸後の上昇飛行、又は着陸のための降下飛行を行う航空機に対して、レーダーを使用して行う管制業務。」

と説明されています。

例外もあり、大雑把になってしまうんですが、一例として那覇空港から羽田空港に向かう旅客機があったとして、

那覇空港のスポットを離れ、離陸後羽田のスポットに到着するまでの間、

パイロットはずっと航空管制官のお世話になるのですが、それぞれの管制官が担当する空域が決まっています。

スポットを離れ、離陸するまではその空港の管制官が担当(那覇空港の場合、担当管制空域は那覇空港の半径8km)。

離陸後、上昇し、航空路に乗るまでは「嘉手納ラプコン」の管制官が担当。

航空路に乗ったら、航空路専門の管制官が担当。

という感じです。

交信を傍受聞いているとしばしば、

「〇〇と交信してください。周波数は△△です」というお定まりのフレーズがよく出てきます。

パイロットは次々周波数を切り替えてゆき、

現在飛行している空域を担当する管制官と交信しながら目的の空港を目指します。

「航空路」とは、上空に定められたヒコーキの通り道のことで、管制官はしばしばこれを「空の高速道路」に例えます。

自宅を出発して高速道に乗るまでには、下道をごちゃごちゃ走りますよね?

え? 自宅前の国道にすぐインターがある?

そうですか…。

(無視して)で、冒頭の国交省の説明にある通り、ラプコンは「離陸後上昇し、航空路に乗るまでの管制を担当する」

ので、車に例えるならば、自宅出発後、高速道路に乗るまでの案内役に当たると思います。



「嘉手納ラプコン」とは

「嘉手納ラプコン」の担当範囲は、嘉手納基地(嘉手納飛行場)を中心に、

半径50海里(92.6km)以内で高度20,000ft(6,096km)以下、

及び久米島空港を中心に半径30海里(55.5km)以内で高度5,000ft(1.5km)以下の空域です。

こうやって文字だけではイメージし辛いですが、大きな円筒と小さな円筒がくっついたような形です(ググればいくらでも分かりやすい図がヒットします)。

「嘉手納ラプコン」は、嘉手納基地から半径92.6kmの空域を担当していますが、

サンゴのように細長い沖縄本島は、端から端まで約107kmなので、

沖縄本島をすっぽりと覆う広さがあります。

このエリア内にある飛行場から離陸/着陸するヒコーキを管制するのが「嘉手納ラプコン」の役割です。

冒頭でご紹介しましたが、「ラプコン」とは、「レーダー進入管制所の呼称」です。

オイラは漠然と、「特定の空域の名称」だと思っていたのですが、「管制所の呼称」なんですね。

「嘉手納ラプコン」の場合はその名の通り、米軍嘉手納基地の中に航空管制をするための施設があり、

当然のことながら米国軍人の管制官が管制を担当していました。

後述しますが、「嘉手納ラプコン」の管制業務は2010年に日本に移管されました。

空域の設定範囲はそのままで、施設は嘉手納基地内から那覇空港内に移り、

管制官もアメリカ軍人から、国交省の日本人に代わりました。

また、元々「ラプコン」はアメリカの航空管制用語なので、

移管に合わせて名称も「嘉手納ラプコン」から、「那覇進入管制空域」(通称・那覇アプローチ)に変更されました。

というわけで、今はもう「嘉手納ラプコン」はありません。




「嘉手納ラプコン」がないと危険

上のグーグルマップのヒコーキマーカーは、上から順に嘉手納飛行場、普天間飛行場、那覇空港です。

嘉手納飛行場から那覇空港までは直線距離で約20kmしかなく、この狭い範囲に3つも飛行場があります。

しかも滑走路の向きが問題で、上のグーグルマップの赤線、青線は、それぞれの飛行場の滑走路延長軸を示しています。

これを見るだけでいかにも危ない感じですよね。

例として那覇空港主観で話を進めますが、滑走路北端から僅か6,400mで嘉手納の滑走路延長線と交錯します。

ANAのサイト によりますと、一般に旅客機の離陸速度は200~240km/h、

上昇速度は高度3,000mまでは500km/h程度なのだそうで、

ざっくり400km/hとすると、那覇空港R/W36から離陸(嘉手納に向かって離陸・風向き的にこの方向が多い)した旅客機は、

滑走路北端通過後、57.6秒後に嘉手納飛行場の延長線と交錯する計算に。

そして普天間飛行場に至っては、その延長線は那覇空港の上を通っています(@Д@)

那覇空港から離陸した旅客機は、一路航空路を目指して上昇したい(安全面でも燃費的にもさっさと高度上げたい)ですし、

逆に那覇空港に着陸する旅客機は、都合の良いポイントで航空路から外れて降下したいです(安全面でも燃費的にも、ココ!といういい感じのタイミングがある)。

一方、嘉手納飛行場や普天間飛行場から離陸するヒコーキがどんな動きをするのか、調べられなかったのですが、

周辺には米軍の訓練空域がたくさんあります。

きっと訓練空域に行って、いろいろ訓練してるんじゃないでしょうか(適当)。

ひたすら航空路と滑走路を行き来する旅客機と軍用機とでは、性能も飛行目的もかなり異なっているはずで、

こんなに飛行場が密集し、滑走路延長線が交錯している状況で、

それぞれの飛行場から離陸したヒコーキが各々の都合で自分の行きたい場所に飛んでしまうと、

1日に何度重大事故が起きても不思議ではありません。

以前瀬長島で航空無線聞いていた時は、いろんな旅客機と共に、ヘリとの交信も随分入ってました。

そこで、こんなゴチャゴチャな状況で危険な状態に陥らないように、

「嘉手納ラプコン」が担当すると定められている空域(嘉手納基地を中心に半径50海里~)

の巨大な円筒の範囲に含まれる飛行場(本島の嘉手納、普天間、那覇、本島西に位置する久米島、粟国)

に離着陸する飛行機を、嘉手納基地内の施設からのレーダー管制で一元管理することにしました。

これなら全体の動きを把握してメタ管制ができますから、安全です。



「嘉手納ラプコン」があると危険

「近接する複数の飛行場の航空管制を一元管理する」

これは安全な航空交通のため理にかなった管制方式と思うのですが、

嘉手納ラプコンの場合問題だったのは、その運用があまりにも米軍優先であること。

那覇空港発着機が延々1,000ft(300m)での低空飛行を強いられるのはコレのせいです。

そしてこの問題はこれまで国会でもたびたび取り上げられてきました。

衆議院の質問本文情報がネット上に公開されており、「嘉手納ラプコン」問題が幾つもヒットします。

その中の1つ(ラプコン返還前のもの)には一部こうあります。

「那覇空港の進入管制業務が米軍によって行われているために、これまでもニアミス等が発生しており、しかも、民間の航空機は、米軍機の飛行経路を避けるために、同空港の離発着の際に、海上約五、六〇キロを、高度三〇〇メートルの低空で飛行しなければならない。このために乱気流などが発生した場合には、大惨事につながる可能性もあるとして、嘉手納ラプコンの米軍優先の航空管制が、国会で何度となく議論がなされてきたところである。今日もなお、沖縄の空は、実質的に米軍の「管轄」下にあり、空の主権が侵害されていると言わざるを得ない。」

ニアミス、低空飛行を強いられることによる危険性が挙げられていますね。

米軍優先の管制のため、例えば嘉手納で戦闘機が次々離陸する場合、

那覇ではせっかくいい感じで離陸できるタイミングなのに、延々離陸を見合わせたりします。

また、「嘉手納ラプコン」で使用しているレーダーは古くて度々故障し、予備レーダーもないため(国内空港では考えられない)、

電源装置が故障してレーダーがダウンする等の事例が報告されるなど、ハード面の信頼性にも問題がありました。

「嘉手納ラプコン」施設の不備で管制ができなくなり、那覇空港発着の定期便が遅延したり、欠航したりということは、

これまで実際に生じてきました。

そんなこんなで「沖縄の空を我々の手に!」という強い要望がずっと続いていたのですが、

2010年、やっと「嘉手納ラプコン」は返還されたのでした。




日本の空移管の経緯

「嘉手納ラプコン」返還の経緯について書こうと思ったんですが、

その前に日本本土の空返還の経緯を大雑把ですが書いてみたいと思います。

両者のケースは非常に似ており、日本本土の空の管制移管の際の様子は、

嘉手納問題がどうして未だに引きずっているかのヒントになっていると個人的には思っています。


世界の民間機運航の法規をどう構築していくかという話し合いは連合国陣営内で第二次大戦中から既に進められており、

敵国である日本は当然蚊帳の外でした。

敗戦国となった日本に「航空禁止令」が課され、手も足も出せない中、

世界の航空運航に関する様々な法規、秩序造りは戦勝国主導であっという間に構築され、

それが地球規模で空の理として運用されたのでした。

1950年6月、GHQは「航空禁止令」の一部を解除し、これを受けて同年11月に日本人パイロット3名が

管制官になる訓練を受けるため、オクラホマ市にあるCAA研修訓練センターに送られました。

「日本の空を日本の手に取り返す」とは、もはや単に占領軍が出て行けば済むという問題ではなくなっていました。

それは、連合国間で構築された「航空管制」という概念を習得し、それに従うということでした。

この3名は翌1951年4月に資格を取得し、日本人初の航空交通管制業務資格取得者となりました。

同年9月、サンフランシスコ講和条約調印。

1952年7月、「航空交通管制に関する日本国と在日米軍との間の取り決め」(ATC合意)発効。

この取り決めでは、真っ先にこう謳われています。

「日本国は、日本領空において完全かつ排他的な主権をもちかつそれを行使する。」

それでも、「現状ではまだ日本人に航空管制業務を引き継ぐ能力がない」という理由で、

当時は依然として米軍が日本の航空管制を担当していました。

米軍の管制官から直接訓練を受け、管制移管の際実際に管制官として携わっておられた方の回想録でも、

残念ながら「一面においてそれは確かな事実であった」とあります。

アメリカ側がなかなか日本の航空管制を手放したがらないのは、一つには朝鮮戦争のことが念頭にあり、

在日米軍基地から安全確実に半島方面に航空機を飛ばすためには、日本の空の実権を握ったままでいたい。

という本音もあったようです。


米軍に支配された日本の空を取り返し、日本人が管制する-

当時の関係者にとってそれは宿願であり、願望を口にするだけなら簡単だったのですが、

実際にそれを実現するには、それが十分できるだけの日本人管制官を質、量共十分育成することが不可欠でした。

1955年7月14日付の米軍機関紙には、日本本土の航空管制についての記事が載りました。

オクラホマのCAA研修所に倣い、運輸省の下に航空局を設置し、局内に26週間のコース研修所を設置したこと、

現在航空管制コースを了えたのは92名、日本人管制官に全ての業務を引き継ぐには、341名が必要であること、

等記されていました。


こうして日本人航空管制官を育成し、国内各地の米軍基地にて実地訓練を重ね、質と量を増していったのですが、

当時訓練を受けた方の手記を見ると、教官役の米軍の管制官には心ある人物もいる一方で、

戦後日本に駐留し、航空管制を担当した米軍内でさえ、

黒人兵、日系人兵に対するあからさまな人種差別が横行しているという状況でした。

ましてや敗戦国の日本人管制官の見習が相手となると、訓練所では様々な差別問題が発生しました。

航空管制管になるためには、担当空域の地勢図、その地域ごとの細かな安全高度、空港ごとの管制方法、特例措置等々、

覚えなければならない項目が数多くあるのですが、米軍の日本に対する機密保持は尋常でなく、

これら絶対必要な資料は持ち出しはおろか、書き写しも厳禁とされ、辞書の持ち込みすら許可されませんでした。

そのため、業務の合間を縫ってひたすら暗記するしかなく、

分からない単語があると、米軍管制官の目をかすめるように手のひらに書き込むという有様でした。

それでもなんとか必要なことを覚え込み、筆記試験にパスすると、管制官の資格を得るために今度は、

レーダーを相手にした実践をひたすら重ねて腕を磨く必要があります。

航空管制は、たった10日現場を離れただけで勘が鈍ってしまい、致命的なミスを犯しそうになる職人的な世界なんだとか。

羽田等忙しい空港でバリバリ管制業務をこなすような管制官でさえ、

しばらく現場を離れると、「今の俺にはムリだ」と身がすくむ思いなのだそうです。

一人前の管制官でさえそうなのですから管制管の卵にとっては尚更で、現場での実地を積み重ねることが絶対必要です。

ところが、一人前になるためには不可欠であり、「一日も早く」と求められているというのに、

その実地訓練が必ずできるという保証がありませんでした。

訓練を担当する米軍管制官のその日の気分や感情で実践の機会が与えられるかどうかが決まるからです。

実地訓練をさせてもらえず、本来交代制であるトイレ掃除等雑用ばかり押し付けられる管制官、

神経を張り詰めて管制業務に携わっている最中、執拗に繰り返されるいやがらせ、

アメリカに批判的な雑誌を持ち込んだせいで追放されてしまった先輩格の管制官、

勤務地は当然米軍基地内となるのですが、夜間通行禁止の場所であることを知らずにそこを通ってしまったため、

憲兵隊本部に引きずり込まれ、大男たちに取り囲まれる中、真っ裸にされて荒々しい取り調べを受けた管制官。

日々彼らに向けられる横柄な態度、激しい差別、満足に仕事をさせてもらえない焦燥感、

空が日本に戻る日は本当に来るのだろうかという絶望感。

連日続く余りに理不尽な現実に耐えかねて、多くの管制官の卵が去ってしまいました。

一方で、「この空を取り返せ」の一念で耐え続けた管制官もいました。

           -「管制移管」-

日本が管制を担当することになった際しばしば用いられるその言葉は、

非常に簡潔且つスマートな印象を与えるのですが、その実態は当事者たちにとって、

耐え難きを耐え涙なしには語れぬ生々しいものであり、アメリカから空を「奪い返す」ということでした。

1956年、経済白書に「もはや戦後ではない」という言葉が躍り、流行語にまでなりましたが、

航空管制管の卵が惨めな思いをグッと堪え、闘い続けていたのはまさにその頃でした。

我々が普段当たり前のように享受しているものが、よくよく調べてみると実は先人達の大変な苦労の上に成り立っている。

というものは多々ありますが、航空管制の分野は間違いなくその中の一つです。


1957年4月、日米合同委員会航空分科会にて、2年後の1959年7月を目標期日とし、

管制権を日本側へ移管することが決まりました。

管制権全体の移管に先立つ1957年10月、大阪空港の管制権がアメリカから日本に移管されました。

管制塔が日本側に返還され、これが米軍からの初めての管制権移管でした。

1958年7月、羽田空港移管。

こうして徐々に移管が進む中、最大の難関は航空路の移管でした。

現在は所沢に「東京航空交通管制部」がありますが、

当時は、ジョンソン基地(現・埼玉県入間基地)に航空路管制を行う東京センターがありました。

この東京センターの管轄空域は、北は岩手県から南は鹿児島県と沖縄県の県境付近まで。

加えて洋上管轄区域があり、東は東京とハワイの中間付近、北はソ連、韓国、中国との間で決められた堺まで、

南はグアムとの境までという、非常に広範囲に及んでいました。

そのため、覚えなければならない量はそれまでとは桁違いであり、

ここでも日本人管制官が米軍管制官の指導の下、必死で業務を覚えていました。

1958年4月時点で、東京センターには米兵86人、日本人の航空局職員40人(このうち資格取得者は20人)

という状態でした。

管制移管の目標期日まで残りあと1年3カ月しかない中、必死で質と量を増していたのですが、

こうした時間の無い状況下でさえ、現場の米軍管制官からのいやがらせは続いており、

こうしたさ中、件の先輩格の管制官の追放がありました。

目標としていた管制移管の期日が迫る中、日本人管制官はニアミスを頻発しており、

米軍側の心ある管制官の中では、このまま引き継がせてよいものかどうか心配しており、

日本人管制官との話し合いが行われ、

当の日本人管制官の訓練生の間でも、なんとかなるさという楽観論と、

もうしばらく面倒を見て貰わないと、大変な事故が起きてしまうという悲観論に分かれていたのでした。

ニアミスはちっともなくならず、懸念を抱えたまま、その日が来ました。


1959年7月1日、日本の航空路管制を日本に移管。

サンフランシスコ講和条約が発効した1952年4月28日、日本の領土は日本に戻りましたが、

足の裏が日本の領土から離れた瞬間、空のすべては依然としてアメリカのものでした。

領土が戻ってから7年余のこの日(一部例外はあるものの)、

晴れて日本の空が日本に戻ったのでした(前夜までの雨が上がり、当日の東京センター上空は本当に晴れだった)。

日本の領土でジャンプして、足が地面から離れても、その空間もちゃんの日本のものになったのでした。

あれほど頻発し、果たしてこのまま米軍管制官が居なくなっても大丈夫だろうかと心配の種だったニアミスは、

管制移管と共に消えてしまったのだそうです。

しかし、この時依然として沖縄は米軍に占領されたままなので、当然沖縄の空はアメリカのものなのでした。

(続きます)


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