アメリカ・べセル水上機基地 [├海外の空港、飛行場]
2018年1月作成(情報は作成時のものです)

skyvector.com(中央上下に並ぶ錨マークの下の方)
アラスカ州べセルにある「べセル水上機基地」。
べセル空港の東北東約4.6kmにあります。
1967年7月開設の公共用水上機基地で、先頭のグーグルマップのマーカーの位置に水上機用ドックがあり、
ドック目の前を流れるカスコクウィム川に914mx152mの離着水エリアが設定されています。
15機が当空港を定置場にしています。
グーグルアースで"Bethel Seaplane Base"と検索すると、先頭で示したマーカーの位置から、
中州を通り越して1km以上南東の方に連れて行かれるのですが、実際にはここです。
アメリカ・べセル水上機基地
べセル水上機基地 データ
設置管理者:Public Domain
種 別:公共用
3レター:JBT
標 高:15 ft / 5 m
標 点:60°46′55″N 161°44′35″W
離着水エリア:3000 x 500 ft. / 914 x 152 m
方 位:NE/SW
表 面:水
関連サイト:
Wiki/Bethel Seaplane Base■
アメリカ・トライデントベイシン水上機基地 [├海外の空港、飛行場]
2018年1月作成(情報は作成時のものです)

skyvector.com(中央上下に二つ重なっている錨マークの下の方)
アラスカ州ニア島東岸にある「トライデントベイシン水上機基地」。
1997年8月開設のコディアク市営の公共用水上機基地で、1,341mx61mの離着水エリアが設定されており、
前記事の「コディアックリリー湖水上基地」の南南西約2.6kmにあります。
2018年1月現在、グーグルマップでは水上機が桟橋に並んでいる様子が見えます。
当空港には3,4レターがなく、FAAコードのみついています。
2013年の統計によれば、11機の単発機が当水上機基地を定置場にしており、
週平均96機の運航があり、内訳は全てエアタクシーでした。
アメリカ・トライデントベイシン水上機基地
トライデントベイシン水上機基地 データ
設置管理者:City of Kodiak Public Works
種 別:公共用
FAA:T44
標 高:0 ft / 0 m
標 点:57°46′51″N 152°23′29″W
離着水エリア:4400 x 200 ft. / 1341 x 61 m
磁方位:2/20
表 面:水
関連サイト:
Wiki/Trident Basin Seaplane Base■
千葉県・大利根飛行場跡地(水上機基地) [├国内の空港、飛行場]
2017年11月訪問 2022/1更新


撮影年月日 1941/03/31(昭16)(C51 CB 7)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成、2枚とも)
千葉県銚子市大橋町にあった「大利根飛行場」。
茨城県の利根川河川敷に現役の「大利根飛行場」がありますが、
当記事の「大利根飛行場」は、同じ利根川のずっと下流、千葉県銚子市の河口付近にあったもので、
水上機用の飛行場なので滑走路もなく、まったく別物です。
asahi.com に当飛行場関連の記事がありました(下記リンク参照)。
詳しくはリンク先をご覧いただくとして、記事によりますと、
飛行場について、時期は昭和の初期から太平洋戦争中、場所は現在の銚子大橋付近の利根川、
名称は水上飛行機専用の「大利根飛行場」、創設者は千葉県小見川町(現・香取市)出身の猿田秀文氏。
事業内容は、飛行士を目指す20歳前後の若者が各地から集まり、
常時十数人が飛行場で働きながら操縦を学んでおり、
最盛期には旧海軍払い下げの水上飛行機を7機保有していた。とあります。
で、asahi.comの記事から、当「大利根飛行場」が現在の銚子大橋付近の利根川だったことが分かったのですが、
アギラさんから当飛行場についての更に詳しい情報を頂いておりました。
転載させて頂きます。
「続銚子市史Ⅰ」によると遊覧だけでなく銚子と「佐原」間の定期輸
送もあったそうです。(佐原のどこかは未記載)三軒町三五番地(航
空年鑑には八の三六番地となっていました)清水川の東側で現在の市
役所と銚子大橋の中間に飛行場はあったそうです。大正15年10月
開設。滑走路として5万坪の河面専用許可も千葉県から得たそうです。
ですが1934年(昭和9)3月に大利根飛行場は閉鎖になりました。
これは銚子漁港改修工事で飛行場前面の川岸が埋め立てられ道路が造
られたからでした。
そのため猿田氏は昭和11年愛知県高浜町の高浜水上飛行場長となり
また昭和17年に県営千葉県魚群探見飛行場長として銚子に戻って来
ました。今度は猿田氏の故郷、小見川に近い銚子港に格納庫はあった
ようです。
アギラさんから頂いた情報によりますと飛行場のあった場所は、
「清水川の東側」、「現在の市役所と銚子大橋の中間」とあります。
からな絞り込まれますね。
アギラさん情報ありがとうございましたm(_ _)m
ということで、先頭のグーグルマップと航空写真で位置をマークしてみました。
航空写真の一部拡大版にもある建物、屋根に「大」と書きかけているように見えます。
もしかしたらこれは上空からの目印かも。と思いました。
ただし、大利根飛行場閉鎖から7年後の撮影であること、位置がかなり大橋、清水川に寄っている等、
ちょっと微妙です。
大利根飛行場の事業内容として、飛行学校ともう一つ、アギラさんからいただいた情報では、
「佐原」間の定期輸送 が挙げられていました。
これについては次の記事でご紹介させて頂きます。

撮影地点A 銚子大橋から河口方向
今から90年程前、ここで水上機が飛び交っていたんですね~。

撮影地点B 銚子大橋下から河口方向
飛行場閉鎖のきっかけとなった「埋め立てにより飛行場前が道路になった」の「道路」は多分これではないかと。
この道路の左側が川、右側が陸で、この少し先、道路の右側に飛行場施設があったはずです。
千葉県・大利根飛行場跡地(水上機基地)
大利根飛行場 データ
設置管理者:猿田秀文氏
種 別:水上機用飛行場
所在地:千葉県銚子市大橋町
座 標:N35°44′11″E140°49′30″
標 高:0m
滑走路:利根川上
(座標、標高はグーグルアースから)
沿革
1926年10月 開設
1934年03月 閉鎖
関連サイト:
ブログ内関連記事■■
asahi.com■
この記事の資料:
「続銚子市史Ⅰ」(アギラさんより)
アメリカ・コディアックリリー湖水上機基地 [├海外の空港、飛行場]
2018年1月作成(情報は作成時のものです)

skyvector.com(中央上下にくっついてる錨マークの上の方)
アラスカ州コディアック島リリー湖にある「コディアックリリー湖水上機基地」。
コディアク市営の公共用水上機用飛行場です。
前記事のコディアク市営空港の滑走路延長線上に、
水上機用に造ったのか? という位おあつらえ向きな湖があります。
640 x 76 mという離着水エリアは、ほぼ湖のサイズです。
2018年1月現在、英語版Wiki、グーグルマップにまだ出てないので、AirNavさんのリンクを貼っておきます。
また、3、4レターもないっぽいのですが、FAAコードがあります。
2013年の統計では、15機の単発機が当空港を定置場にしており、
月平均67便の運航があり、その内訳は、エアタクシー62%、ゼネアビ 38%でした。
資料やグーグルマップを探しても、特に水上機基地の中心的な桟橋、ターミナル的なものはないようで、
湖のあちこちに水上機が係留されています。素敵。
アメリカ・コディアックリリー湖水上機基地
コディアックリリー湖水上機基地 データ
設置管理者:CITY OF KODIAK PUBLIC WORKS
種 別:公共用
FAAコード:9Z3
標 高:130 ft. / 40 m
標 点:N57°48.16' / W152°22.96'
離着水エリア:2100 x 250 ft. / 640 x 76 m
方 位:NE/SW
表 面:水
関連サイト
AirNav/Kodiak (Lilly Lake) Seaplane Base■
アメリカ・コディアク市営空港 [├海外の空港、飛行場]
2018年1月作成(情報は作成時のものです)

skyvector.com
アラスカ州コディアク島北東にあるコディアク市の「コディアク市営空港」。
1962年5月開設の公共用市営空港で、754 x 12 mの舗装滑走路を有しています。
西南西10km足らずの所にある、3本の滑走路を有する軍民共用の「コディアック空港」と比べると、
規模はかなりこぢんまりとしていますが、その代わりこちらは、まさに街のど真ん中にある空港です。
上のグーグルマップを引いて見て頂けると、その特異なロケーションが分かります。
2013年の統計によれば、15機の単発機が当空港を定置場としていました。
また月平均25便の運航があり、全てゼネアビでした。
アメリカ・コディアク市営空港
コディアク市営空港 データ
設置管理者:City of Kodiak
種 別:公共用
3レター:KDK
4レター:PAKD
標 高:139 ft / 42 m
標 点:57°48′21″N 152°22′26″W
滑走路:2475 x 40 ft. / 754 x 12 m
磁方位:2/20
表 面:アスファルト/fair condition
関連サイト:
Wiki/kodiak municipal airport■
アメリカ・ポイント・トムソン離着陸場 [├海外の空港、飛行場]
2018月1月作成(情報は作成時のものです)

skyvector.com
アラスカ州デッドホースにある「ポイント・トムソン離着陸場」。
2011年9月開設の、あのエクソンモービル所有のプライベート離着陸場です。
2018年1月現在、当地の最新画像取得日は2004年のため、グーグルマップ上ではまだ滑走路は影も形もありません。
本場アメリカでさえ、14年も画像更新が滞る地域があるんですね~。
画像が更新された時、この場所に滑走路が姿を現すはずですが、オイラも忘れてそう。。。
未舗装滑走路で、1,524mx46mとそこそこの長さがあります。
滑走路の向きは、5/23 なので、羽田D滑走路と同じですね。
英語版Wikiにも項目がないため、AirNavさんのリンクを貼ってあります。
アメリカ・ポイント・トムソン離着陸場
ポイント・トムソン離着陸場 データ
設置管理者:EXXON MOBIL
種 別:非公共用
4レター:PAAD
標 高:56 ft. / 17 m
標 点:N70°8.16' / W146°17.40'
滑走路:5000 x 150 ft. / 1524 x 46 m
磁方位:5/23
表 面:砂利
関連サイト:
AirNav/Point Thomson Airstrip■
アメリカ・バレン・ポイント空軍基地 [├海外の空港、飛行場]
2018年1月作成(情報は作成時のものです)

skyvector.com(右上の◎)
アラスカ州カクトビクにある「バレン・ポイント空軍基地」。
2001年8月開設の米空軍所有の飛行場で、1,073mx30mの未舗装滑走路を有しています。
バレン・ポイント短距離レーダー・サイトを支援するための飛行場ですが、
英語版Wikiによりますと、「レーダーサイトは土壌侵食と予算の懸念から2007年に閉鎖された」とあります。
但し、飛行場はチャート、AirNavで現役として扱われています。
またAirNavでは、49 x 46 mのヘリパッドが併設とあります。
ドコにあるのかまでは情報がないのですが、サイズからすると、滑走路南側にくっついている四角ではないかと。
アメリカ・バレン・ポイント空軍基地
バレン・ポイント空軍基地 データ
設置管理者:USAF 11 AIR SUPPORT GP
種 別:軍用
4レター:PABU
標 高:18 ft / 5 m
標 点:70°10′35″N 146°51′18″W
滑走路:3520 x 100 ft. / 1073 x 30 m
磁方位:15/33
表 面:砂利
ヘリパッド:160 x 150 ft. / 49 x 46 mft/m
表 面:砂利
関連サイト:
Wiki/Bullen Point Air Force Station■
アメリカ・バダミー空港 [├海外の空港、飛行場]
2018年1月作成(情報は作成時のものです)

skyvector.com
アラスカ州デッドホースにある「バダミー空港」。
2003年3月開設のSAVANT ALASKA LLC所有のプライベート空港で、
1,554mx23mの未舗装滑走路を有しています。
SAVANT ALASKA LLC とは、アンカレッジに拠点があり、
石油・天然ガス探査、開発、生産プロジェクトの運営に従事する会社だそうです。
ここは2018年1月現在、英語版Wikiにも項目がないため、AirNavさんのリンクを貼ってあります。
アメリカ・バダミー空港
バダミー空港 データ
設置管理者:SAVANT ALASKA LLC
種 別:非公共用
4レター:PABP
標 高:25.5 ft. / 8 m
標 点:70-08-14.8800N / 147-01-49.5800W
滑走路:5100 x 75 ft. / 1554 x 23 m
磁方位:3/21
表 面:砂利
関連サイト:
AirNav/Badami Airport■
県営千葉県魚群探見飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]
2017年11月訪問 2022/1更新

撮影年月日 1948/03/02(昭23)(USA R1069 34)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
戦争末期の千葉県銚子市で、水上機による魚群探見飛行が行われていました。
■続銚子市史Ⅰ昭和前期(昭和58年2月11日発行)に「県営千葉県魚群探見飛行場」についての記述がありました。
一部抜粋させて頂きます。
p541~ 特異な魚群探見飛行事業 猿田秀文は昭和十七年から千葉県技師の身分となり、千葉県魚群探見飛行場長として開設の準備に当たった。新飛行場の格納庫は本城町地先、現県立銚子水産高等学校の西側に建設され19年に入ってから間もなく業務を開始した。(中略)銚子市本城町地先利根川を埋立てた県有地約二千坪の基地と竹製通信筒三千本は既にでき上り間口、奥行各十間、高さ二十二尺の格納庫と付属事務所の建設は今月下旬竣工の予定
この市史から、場所は本城町地先、現県立銚子水産高等学校の西側、利根川を埋立てた県有地二千坪であること、
時期は昭和19年に入って間もなくであることが分かります。
水産高校の西側なので、グーグルマップと、1948年の航空写真を見比べ、
水産高校の敷地西側の境界に赤線を引いてみました。
市史には飛行場の位置については学校の「西側」とだけあり、「西隣」とか、「西に隣接」とは書かれていないので、
すぐお隣である保証はないのですが、この赤線以西に「県営千葉県魚群探見飛行場」があったはずです。
航空写真で見ると、周辺は宅地、整備された圃場が広がっているのですが、
水産高校の西隣だけ周囲と異なっています。
それで恐らくここに、水産高校の西隣に飛行場があったのではないかと。

赤マーカー地点。

こんな感じ。
現在はすっかり整備され、会社になっていますが、
当時はここに飛行場があり、ここから水上機が飛んでいたはずです。
千葉県・県営千葉県魚群探見飛行場跡地
県営千葉県魚群探見飛行場 データ
設置管理者:千葉県
種 別:水上機用飛行場
所在地:千葉県銚子市本城町地先利根川埋立て地(現・千葉県銚子市長塚町1丁目)
座 標:N35°44′29″E140°48′18″
標 高:0m
(座標、標高はグーグルアースから)
沿革
1944年 魚群探見業務開始
関連サイト:
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
続銚子市史Ⅰ昭和前期
アメリカ・アニュー=クパーアック空港 [├海外の空港、飛行場]
2018年1月作成(情報は作成時のものです)

skyvector.com
アラスカ州クパーアックにある「アニュー=クパーアック空港」。
1981年12月開設の、Conoco Phillips Alaska,Inc.という油田を運営する会社が所有する非公共用空港です。
あ、油田ですって!(@Д@)
1,997mx46mの舗装滑走路を有しています。
2001年は1機の双発機が当飛行場を定置場にしており、
1,850便の運航があり、内訳は、ゼネアビ95%、エアタクシー5%でした。
アメリカ・アニュー=クパーアック空港
アニュー=クパーアック空港 データ
設置管理者:ConocoPhillips Alaska, Inc.
種 別:非公共用
3レター:UUK
4レター:PAKU
標 高:67 ft / 20 m
標 点:70°19′51″N 149°35′51″W
滑走路:6551 x 150 ft. / 1997 x 46 m
磁方位:6/24
表 面:アスファルト/good condition
関連サイト:
Wiki/Ugnu–Kuparuk Airport■
アメリカ・オリクトックLRRS空港(廃止) [├海外の空港、飛行場]
2018年1月作成(情報は作成時のものです)

skyvector.com
アラスカ州ポイントボローにあった「オリクトックLRRS空港」。
前記事の「CD-3 離着陸場」の東北東約38kmにあり、北極海はすぐそこ。
米空軍の空港で、1957年に建設され、1,219m未舗装滑走路を有していました。
その名の通りレーダー基地支援のため建設されましたが、現在滑走路は閉鎖されています。
そのためAirNavにも上のチャートにも出てきません。
アメリカ・オリクトックLRRS空港(廃止)
オリクトックLRRS空港 データ(運用当時)
設置管理者:US Air Force
種 別:軍用
4レター:POLI
標 高:4m
標 点:70°29′45″N 149°52′59″W
滑走路:4,020ft/1,219m
磁方位:04/24
表 面:砂利
関連サイト:
Wiki/Oliktok Long Range Radar Site■
アメリカ・CD-3 離着陸場 [├海外の空港、飛行場]
2018年1月作成(情報は作成時のものです)

skyvector.com(中央上の方)
アラスカ州ナイーキュースにある「CD-3 離着陸場」。
こんなサイボーグみたいな名称の飛行場もあるんですね(@Д@)
前記事のアルパイン離着陸場の北北東約8.8kmにあり、北極海まであと4km。
ここも周囲は原野と無数の沼、川が広がっており、陸地と面積同じくらいなんじゃないかと思えるほどです。
2007年1月開設のCONOCO PHILLIPS ALASKA INCが所有する非公共用の離着陸場で、
1,067mx52mの未舗装滑走路を有しており、すぐ西側に会社?があります。
2018年1月現在、英語版Wikiにもグーグルマップにも情報がないため、
AirNavさんのリンクを貼ってあります。
それからこの飛行場は3レターも4レターもないっぽいのですが、FAAコードは"AK20"です。
アメリカ・CD-3 離着陸場
CD-3 離着陸場 データ
設置管理者:CONOCO PHILLIPS ALASKA INC
種 別:非公共用
FAA:AK20
標 高:7 ft. / 2 m
標 点:N70°25.24' / W150°53.20'
滑走路:3500 x 170 ft. / 1067 x 52 m
磁方位:4/22
表 面:砂利
関連サイト:
AirNav/CD-3 Airstrip■
アメリカ・アルパイン離着陸場 [├海外の空港、飛行場]
2018年1月作成(情報は作成時のものです)

skyvector.com(中央下側)
アラスカ州アルパイン、ナイーキュース空港の北約15km、北極海まで13kmにある「アルパイン離着陸場」。
2000年2月開設のConocoPhillips Alaska、Inc.が所有するプライベート飛行場です。
1,526x30mの未舗装滑走路を有しており、
エプロンの敷地から先がそのまま会社の諸施設のある敷地に繋がっています。
周囲には気の遠くなるような年月を経て形成されたであろう無数の三日月湖、沼が広がり、
北極海に至る大小様々な川が蛇行しています。
連邦航空局の記録では、2007年に786名の搭乗がありました。
アメリカ・アルパイン離着陸場
アルパイン離着陸場 データ
設置管理者:ConocoPhillips Alaska, Inc
種 別:非公共用
4レター:PALP
標 高:18 ft / 5 m
標 点:70°20′39″N 150°56′41″W
滑走路:5005 x 100 ft. / 1526 x 30 m
磁方位:3/21
表 面:砂利
関連サイト:
Wiki/Alpine Airstrip■
アメリカ・ホッグリバー空港 [├海外の空港、飛行場]
2018年1月作成(情報は作成時のものです)

skyvector.com
アラスカ州ホガッツァにある「ホッグリバー空港」。
1962年8月開設のTAIGA MINING COMPANY INC.所有の非公共用空港で、
1,676mx38mの未舗装滑走路1本を有しています。
当記事作成時(2018/01)この空港は英語版Wikiに項目がなく、グーグルマップでも表示がないため、
AirNavさんのリンクを貼りました。
統計によりますと、1995年7月末までの1年間、1機の単発機が当空港を定置場にしていました。
また、125便の運航があり、その内訳は、ゼネアビ80%、エアタクシー20%でした。
アメリカ・ホッグリバー空港
ホッグリバー空港 データ
設置管理者:TAIGA MINING COMPANY INC.
種 別:非公共用
標 高:534 ft. / 163 m
標 点:N66°10.57' / W155°41.09'
滑走路:5500 x 125 ft. / 1676 x 38 m
磁方位:12/30
表 面:芝、砂利
関連サイト:
AirNav/Hog River Airport■
千葉県・習志野演習場の不時着場跡地 [├場所]
2017年11月訪問 2022/1更新

撮影年月日 1947/11/08(昭22)(USA M636-A-No2 222)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
千葉県船橋市習志野台にある陸自の「習志野演習場」。
第一空挺団の降下訓練が行われる場所です。
ここは元「習志野陸軍演習場」で、演習場内に不時着場が設定されていました。
■防衛研究所収蔵資料「航空路資料第3 関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18.8 水路部」
の地図に不時着場エリアが示されており、その通りに作図したのが先頭のグーグルマップの方形部分です。
これは他の不時着場でもよくあることですが、1947年の航空写真で確認すると、
不時着場として設定されていた場所には特に地割等設けていなかったようです。
航空写真中央で一番目立っている長方形のものは、同水路部資料に「射撃場」と記されていました。
また、拙記事「習志野離着陸場」(下記リンク参照)に2014年8月、
アギラさんからこんな気になるコメントを頂いていました。
この間、戦前の古い飛行場を調査中に昔の習志野演習場関係者からも
話が聞けました。
その人が言うには縦横短い滑走路が2つあり(地図で大雑把な場所は
聞いたのですが、、)
米軍の小型機もあったと言っていましたがいつ造られたかまではわか
らないそうです。
昭和40年ごろ(うろ覚えだそうです)に無くなったとも言っていま
した。
習志野演習場に2つあったとされる飛行場ですが
地図では分かりづらかったものが俯瞰写真を見たら縦の滑走路の場所
は分かったような気がしました。
教えてもらった滑走路の縦は地図では演習場内の道に沿っているよう
に見えましたが俯瞰写真では成田街道に近いヘリパッドの横に広い滑
走路のようにあるのが当時、縦側にあった滑走路の場所の様です。
見た感じでは今もソフトフィールドのランウエイとして使用している
かもしれません。
これに対して横の滑走路がL字型かト字型のようにあったと教わりま
したが俯瞰写真でも確認できませんでした。(本人もそこまで詳しく
は覚えてなかったようですし訊かれるとも思っていなかったようです)
昭和40年位まであった「縦と横の短い滑走路」とはどれだろうと探してみたものの、
残念ながらオイラも「これかなあ」というものは縦のものしか見つけられませんでした。
上の航空写真西側の白矢印のところにうっすら映っているものがその「縦の滑走路」なのではないかと思います。
この滑走路らしきもの、ターニングパッドも含めて450mしかなくて、本当に短いです。
アギラさん情報ありがとうございましたm(_ _)m

撮影地点。
現在はフェンスの向こう側が演習場、こちら側は宅地なんですが、
陸軍当時はフェンスのこちら側も含めてこの辺りが不時着場でした。
千葉県・習志野演習場の不時着場跡地
習志野演習場の不時着場 データ
設置管理者:陸軍
種 別:不時着場
所在地:千葉県習志野市東習志野8丁目他。習志野演習場内
座 標:N35°42′26″E140°04′54″
標 高:28m
着陸帯:610mx310m
(座標、標高、着陸帯長さはグーグルアースから)
関連サイト:
ブログ内関連記事■■
この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「航空路資料第3 関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18.8 水路部」
アメリカ・インディアン・マウンテンLRRS空港 [├海外の空港、飛行場]
2018年1月作成(情報は作成時のものです)

skyvector.com
アラスカ州の中央部、ユートピアクリークの南にある「インディアン・マウンテンLRRS空港」。
1952年5月開設、アメリカ空軍所有のロングレンジレーダー基地へのアクセス用のもので、
1,250x45mの未舗装滑走路1本を有しています。
冬期は極端な天候のためにアクセス不能になる可能性があります。
アメリカ・インディアン・マウンテンLRRS空港
設置管理者:U.S. Air Force
種 別:軍用
3レター:UTO
4レター:PAIM
標 高:1,273 ft / 388 m
標 点:65°59′34″N 153°42′14″W
滑走路:4100 x 148 ft. / 1250 x 45 m
磁方位:6/24
表 面:砂利
関連サイト:
Wiki/Indian Mountain LRRS Airport■
カスココーブコーストガードステーション [├海外の空港、飛行場]
2017年11月作成(情報は作成時のものです)
skyvector.com
アラスカ州アリューシャン列島西端、アッツ島東部にある「カスココーブコーストガードステーション」。
U.S. Coast Guard 17th Dist.所有の非公共用飛行場で、1,828x46m の舗装滑走路を有しています。
日米開戦から半年後の1942年6月、日本軍はアッツ島に上陸し、10月に飛行場を建設しました。
1943年5月29日、米軍との17日間の戦闘の末、日本軍玉砕。
英語版Wikiによれば、
「アッツ島が安全と宣言されてからわずか7日後、1943年6月7日に海軍航空施設Attuとして設立されました」
とあります。
現在では当飛行場は、「ロランステーションアッツ」としても知られており、2010年8月27日に閉鎖されましたが、
飛行場は緊急時に使用可能です。
グーグルマップで見ると、2本の滑走路が交差しているように見えるのですが、
使用可能なのは、南北方向のものだけのようです。
当空港は米国で最も孤立した遠隔地の空港の1つであり、曇り、強風、サイクロン、霧等、過酷な気象条件の地です。
カスココーブコーストガードステーション
カスココーブコーストガードステーション データ
設置管理者:U.S. Coast Guard 17th Dist.
種 別:非公共用
3レター:ATU
4レター:PAAT
標 高:88 ft / 27 m
標 点:52°49′57″N 173°10′32″E
滑走路:5998 x 150 ft. / 1828 x 46 m
磁方位:2/20
表 面:アスファルト/fair condition
関連サイト:
Wiki/Casco Cove Coast Guard Station■
アメリカ・アーレックソン飛行場 [├海外の空港、飛行場]
2017年11月作成(情報は作成時のものです)

skyvector.com
アラスカ州アリューシャン列島の西端、シェミア島にある「アーレックソン飛行場」。
アメリカ空軍の飛行場で、3,049x46mの舗装滑走路を有しています。
1943年5月、アッツ島まで僅か45kmのこの無人島に米国陸軍技術者が上陸し、飛行場の建設が始まりました。
第二次大戦中は対日最前線基地となり、冷戦期にはソ連に対する防人となるなど、時代の証人となった飛行場です。
空港の西側には、第二次大戦時に使用された飛行場が放棄され、残っています。
米軍もあの当時、前線基地では無蓋掩体壕造ってたんですね~
(英語版Wikiでは、shelterではなく、revetments【防壁】と表現されている)。
1994年に現役空軍基地としては閉鎖されたのですが、現在でも米空軍の飛行場であり、
給油目的のため、また民間機のダイバート用空港としても機能しており、NDB、TACAN、VORがあります。
実はこの島、成田~北米間の大圏コースに割と近く位置しており、滑走路も3,000m級なので、
もしものための頼りになる空港ではないかと思います。
当飛行場は、島名から「シェミア空軍基地」と呼ばれていたのですが、
1993年4月6日、現在の名称に変更されました。
これは、大戦中キスカ、アッツでの指揮に当たったウィリアム・O・エレクソン大佐を称えるものです。
FAAの統計では、「週平均23便の運航があり、全て軍用だった」とあるのですが、時期が不明です。
アメリカ・アーレックソン飛行場
アーレックソン飛行場 データ
設置管理者:U.S. Air Force
種 別:軍用
3レター:SYA
4レター:PASY
標 高:98 ft / 30 m
標 点:52°42′44″N 174°06′49″E
滑走路:10004 x 150 ft. / 3049 x 46 m
磁方位:10/28
表 面:アスファルト
関連サイト:
Wiki/Eareckson Air Station■
アメリカ・コールドフット空港 [├海外の空港、飛行場]
2017年11月作成(情報は作成時のものです)
skyvector.com
アラスカ州コールドフット集落の西北西約1.1kmにある「コールドフット空港」。
1971年1月開設のアラスカ州運輸公共施設局(DOT&PF)所有の公共用空港で、
1,220x30m の未舗装滑走路を有しています。
2016年の統計では、3機の単発機が当空港を定置場として使用していました。
また、月平均83便の運航があり、その内訳は、エアタクシー80%、ゼネアビ20%でした。
■航空会社 / 行先
Warbelow's / Fairbanks
アメリカ・コールドフット空港
コールドフット空港 データ
設置管理者:State of Alaska DOT&PF - Northern Region
種 別:公共用
3レター:CXF
4レター:PACX
標 高:1,042 ft / 318 m
標 点:67°15′08″N 150°12′14″W
滑走路:4001 x 100 ft. / 1220 x 30 m
磁方位:2/20
表 面:砂利/good condition
関連サイト:
Wiki/Coldfoot Airport■
アメリカ・エルキャピタンロッジ水上機基地 [├海外の空港、飛行場]
2017年11月作成(情報は作成時のものです)
skyvector.com
アラスカ州プリンスオブウェールズ島北部にある「エルキャピタンロッジ水上機基地」。
2005年3月開設の比較的新しい水上機基地で、前記事の「トーキーン水上機基地」の東北東約5kmにあります。
SCOTT VAN VALIN 所有の公共用空港で、2,438x107m の離着水エリアが設定されています。
ここは3レター、4レター共にないみたいです。
当水上機基地は2017年11月現在、Wikiにまだ項目がないため、skyvector のリンクを貼っておきました。
2015年の1年間に230便の運航があり、全てゼネアビでした。
アメリカ・エルキャピタンロッジ水上機基地
エルキャピタンロッジ水上機基地 データ
設置管理者:SCOTT VAN VALIN
種 別:公共用
標 高:0ft/0m
標 点:N55°57.52' / W133°15.20'
離着水エリア:8000 x 350 ft. / 2438 x 107 m
方 位:13/31
表 面:水
関連サイト:
skyvector/El Capitan Lodge Seaplane Base■
東京都・東京市飛行場(計画) [├場所]
2017年11月訪問 2022/1更新
撮影年月日 1944/11/03(昭19)(8922 C4 65)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
東京湾は早くも江戸時代から大規模な埋め立てが始まっており、
明治期には、大きな船が入れるよう浚渫も行われていました。
大正時代に入り、経済界はより大型船の航行を可能にしたいと考えていたのですが、
東京湾は遠浅のため、大規模な浚渫が必須であり、
そのためには莫大な費用がかかることから計画はなかなか進みませんでした。
そんな頃に関東大震災があり、陸路が寸断されたため、
2,000tクラスの船が東京湾から支援物資を運んだことがあります。
この出来事は、「満潮時の間隙をついて東京湾に進入した冒険的な陸揚げ」的な表現で語られています。
当時の東京湾は、2,000tクラスの船を航行させることさえ、そのくらい大変だったのでした。
そしてこの一件が停滞を打開する契機となり、1931年「東京港修築事業計画」が策定されました。
一方で、東京湾は古くから豊かな漁場であり、沿岸漁村では江戸前漁業が盛んに行われていました。
このため、「浚渫して港湾施設を整え、大型船を受け入れ可能にしよう」とする開発推進派と、
「漁場が台無しになり死活問題だ」とする地元漁民がぶつかることになります。
紆余曲折があった後、最終的に1万トンクラスの船の運用を目指して東京湾の浚渫が始まり、
浚渫土を埋め立て材とした埋立地が造成され、
こうして竹芝桟橋背面・芝浦艀溜背面・豊洲物揚場背面、9号地・8号地の一部が終戦までに完成しました。
現在「夢の島」として知られている「砂町地先の埋め立て地」も同様の経緯を経てできたものです。
「夢の島」は個人的に「ゴミの島」というイメージが強く、
てっきり海にザバザバとゴミを投棄してできたんだとずっと思っていたんですが、
浚渫事業でできた島だったんですね(///∇///)
ところで夢の島は江東区にありまして、
後述しますがこの夢の島の少し西側の港区から横浜に至る「京浜運河計画」というものがあり、
これもやはり浚渫により大型船の航行、停泊を可能とすることを目指したのですが、
同時に浚渫土を利用して埋立て地を造成し、
その埋め立て地を臨海工業地帯として活用することがセットになっていました。
一方で、夢の島のある江東区はこの計画に含まれておらず、
せっかくできたこの砂町地先の埋め立て地をどう活用しようか、という話になったのでした。
■飛行場を造ろう!
ここで話は一旦埋め立て事業とは離れるのですが、
当時は「都市計画地方委員会」という委員会(戦前の旧内務省出先機関)が全国の都道府県に設置されており、
都市計画業務を担当していました。
東京にも「東京地方委員会」があり、同委員会が入手した「ニュー ヨークの地方計画(1929年)」によれば、
ニューヨーク地方計画区域内にはなんと16もの飛行場があり、更に16を加える計画であるとのことでしたΣ(゚Д゚;)
それまで同委員会では、「一都市一飛行場で十分」との考えだったようですが、
ニューヨークの計画に倣い、飛行場計画が促進されることになりました。
余談ですが実は羽田飛行場も、「各国は国都に飛行場を完備しているのに、我が国にそれがないのは遺憾である」
とする当時の帝国飛行協会副会長の嘆願が1923年に国会に提出されたのが建設のきっかけでした。
東京とその周辺の飛行場建設には、各国の動きを強く意識していた様子がうかがえます。
「首都圏における飛行場と都市計画 - 土木学会」を参考にさせて頂きました(下記リンク参照)。
いずれも東京駅からの距離ですが、東京都の羽田飛行場(13.5km)、同立川飛行場(33km)、
埼玉県の所沢飛行場(29km)、神奈川県の追浜飛行場(41km)、
千葉県の木更津飛行場(34km)、同下志津飛行場(35km)となっています。
当時の「東京に近い飛行場」は、羽田以外だとどこも約30~40km離れていたのですね。
東京地方委員会の立てた案は、「都心から20km付近に6飛行場」というものだったのですが、
その候補地選定の過程で、冒頭の「浚渫で生まれた砂町地先の埋め立て地活用法」として、
真っ先に挙がったのが飛行場でした。
ということで、ここでやっと出だしの浚渫計画と話が繋がるのですが、
現在我々が「夢の島」として知る埋立地には飛行場が建設されることになったのでした。
青→1931年当時の既存飛行場
赤→選定された6候補地
余談ですが、このマップは同委員会の「都心から20km付近に6飛行場」という構想に従い、
選定された候補地を示したものです。
当砂町、東京羽田(現・羽田空港)拡張、調布、浦和付近、朝霞付近、船橋付近の全6力所でした。
その後船橋は逓信省により「松戸飛行場」が建設され、
東京羽田飛行場は1939年、隣接地を買収して拡張。十字型2本の滑走路を新設し、
1938年に東京(砂町)、調布、浦和の3飛行場案が承認されました。
調布飛行場は陸軍の防空拠点として建設が推進され、1941年に竣工。
浦和飛行場は首都北方の防空上の役割を期待されていたのですが、結局実現しませんでした。
そして朝霞は不急であるとの理由で除外されました。
朝霞市にある朝霞駐屯地には、「ここは元日本陸軍の飛行場だった」というまことしやかなウワサがあるのですが、
こうして実際に建設計画の候補地になったことも、もしかしたら関係しているのかもしれません。
周辺には陸軍の飛行場が多いですしおすし。
ということで6飛行場が全て建設されたら、東京周辺には軍民合わせて11の飛行場ということだったのですが、
埼玉の2飛行場計画が白紙となったため、9飛行場になったのでした。
■東京市飛行場建設計画
赤→東京市飛行場
紫→羽田飛行場
浚渫事業でできた砂町地先の埋立地を飛行場にしよう。という計画は、
1938年(昭和13年)に正式決定しました。
飛行場の名称は「東京市飛行場」で、東京羽田飛行場(現・羽田空港)と同じく水陸両用の飛行場とする計画でした。
計画によれば総面積は約251haで、3本の滑走路を建設することになっていました。
ちなみに当時の東京羽田飛行場は53haで、滑走路も1本でした。
また、飛行場新設にあたっては各国の飛行場を比較検討しており、
当時世界最大級といわれたドイツ・ベルリンのテンペルホーフ空港が140haでしたから、
それよりずっと大きいです。
この飛行場計画がいかに野心的なものか、そして委員会の本気度がうかがえます。
東京羽田飛行場は1931年に開場したのですが、
東京市飛行場建設が決定された1938年当時の羽田飛行場は逓信省管理の民間用飛行場で、
国内定期路線の他、朝鮮、中国への路線を開設していました。
東京羽田飛行場と東京市飛行場の距離は12km。
東京地方委員会の「東京にとにかくたくさん飛行場を!」という意図は分かるとしても、
既に当時立派な国際空港になっていた東京羽田飛行場がありながら、
そこから12kmの場所に敢えてもう一つ新規飛行場を建設したのでした。
■「京浜運河計画」により拡張に制限のついていた東京羽田飛行場
敢えてこの場所に新規飛行場を建設するのには、ちゃんとそれなりの理由がありました。
まずは都心部からの距離です。
東京羽田飛行場は東京駅から13.5km離れているのに対し、東京市飛行場建設予定地は東京駅から6.5kmです。
東京モノレールはまだ開業しておらず、
京急は今でこそ羽田空港への便利な路線ですが、
当時は「京浜電気鉄道穴守線」の名称で飛行場すぐ近くまで開業していたものの、
まだ東京からのアクセス便利な路線にはなっていませんでした。
そんな当時、「東京駅からたったの6.5km」という差は大きなものだったようです。
加えて、「京浜運河計画」の存在があります。
「京浜運河計画」とは、前述の通り大型船を航行させるための運河開削計画のことでした。
「京浜運河計画」は羽田飛行場開場よりずっと早い1911年に内務省から認可を受けており、
紆余曲折を経たのち、1939年東京府は総工費4,500万円をもって、
京浜運河開削と892haの臨海工業地帯用の埋め立て造成を着工しました。
この「京浜運河」は、当時本当に小さかった羽田飛行場をまるでグルリと取り囲むように設定されていました。
つまり、羽田はこれ以上の埋め立てによる拡張の余地はほとんどなかったのです。
前述の通り羽田飛行場は1939年に用地買収により拡張するのですが、
敷地いっぱいに800m余の滑走路を2本とるのがせいぜいという状況でした。
航空機の高速化、大型化に伴い、今後ますますより長い滑走路、より広大な用地が求められることは目に見えており、
これ以上拡張の難しい羽田では、帝都の空の玄関として十分機能させることは早晩困難になります。
ということで、より都心部に近く、しかも面積で羽田の約5倍、3本の滑走路を備えた東京市飛行場は、
羽田近傍に敢えて新規建設する意味のある建設計画なのでした。
着工が決まった当時は恐らく、「羽田ではなくこちらが今後の東京の空を担う大本命」と目されていたはずです。
首都の既存国際空港の拡張を阻害する形で設定され、正式に着工された運河、
そして大型船が通行できるよう浚渫した副産物として生まれた埋立地-
工業の発展が強く求められた当時の時代背景が垣間見えてきますね。
■計画中止と終戦
1938年に建設が正式決定した東京市飛行場は、1939年7月いよいよ起工式の運びとなり、
1941年の完成予定を目指して埋め立てが始まりました。
ところが1937年の日中戦争勃発後、物資が不足し始めると、建設工事は滞ってしまいます。
計画はずるずると遅れてゆき、とうとう中止に追い込まれてしまいました。
「東京港史」によれば、全区域の50%が干潮時に1~3メートルほど露出する段階で工事は終了し、
そのまま終戦を迎えます。
申し遅れましたが先頭のグーグルマップの濃い紫は、1944年当時の写真で確認できる夢の島で、
薄い紫は、「東京都市計画 東京市飛行場平面図」から作りました。
この場所にこんな感じで飛行場を造ろうとしていたんですね~。
前述の通り、東京市飛行場の総面積は251haと各文献にあるのですが、
「東京都市計画 東京市飛行場平面図」の通りに作図してみると、面積は310haとなり、数字が合いません。
「東京都市計画 東京市飛行場平面図」では埋立地の外周にかなり太い縁取りが描かれていて、
もしかしてこれは護岸的なもので、「飛行場の有効面積には含まない」ということなのかもしれません。
一方東京羽田飛行場は1940年に用地買収による拡張、滑走路新設を経て、
日本海軍の「東京飛行場」として使用されるようになります。
羽田飛行場は運河計画のせいで埋立拡張ができないのは先に書いた通りなんですが、
海軍が権力を発動すれば、なんとかなったような気もします。
東京飛行場の埋立て拡張については、海軍がその必要を認めなかったのか、
物資が窮乏してそれどころではなかったのか、はたまた海軍より運河計画の方が強かったのか不明ですが、
結局羽田が埋立てて拡張されることはなく、終戦を迎えます。
■戦後「夢の島」と名付けられたいきさつ
戦前から戦後にかけての都市計画の第一人者、石川栄耀が1946年に著した「都復興改造試案」の中で、
「将来の航空を考えれば、進駐軍が整備しつつある羽田の他に、砂町地先の海岸を埋め立てて飛行場を作り、
高速道路で都心と結ぶ必要がある」
と記しており、中止となった東京市飛行場計画の復活とも受け取れるのですが、
結局この島が飛行場となることはありませんでした。
そして「東京市飛行場」となるはずだった埋立地は、1947年の夏、海水浴場としてオープンします。
東京湾に、それも最奥の江東区に海水浴場があったなんてビックリなんですが、
高度経済成長期の前だからこそのアイデアなんでしょうね~。
「江東区南砂町地先」という味もそっけもない仮称しかついていなかったその島の海水浴場には、
「目指すはハワイのような夢のあるリゾート」として、「夢の島海水浴場」というステキな名称が与えられました。
戦後の窮乏期であったにもかかわらず、海水浴場は賑わいを見せていたそうですが、
度重なる台風被害と財政難から、わずか3年で閉鎖されてしまいます。
こうして東京湾に残っていた最後の本格的海水浴場は、「夢の島」という名前だけ残し、文字通り夢と消えました。
しばらく放置されていた夢の島でしたが、1957年にゴミの処分場となることが決定しました。
それまでの処分場だった8号埋め立て地(現・江東区潮見)が満杯になり、新たな処分場とされたものです。
■戦後の羽田
余談ですが、戦後の羽田について。
前述の通り、「京浜運河計画」が羽田飛行場の拡張を阻んでいたのですが、
現在は埋立が進んでますよね。
沖合展開後の現在の羽田空港ABCの3滑走路は全て運河計画の範囲内になっており、
D滑走路はちょっと範囲にかかってるけどギリオッケーという感じです。
つまりこんな大規模空港、本来であれば造れっこなかったのです。
終戦と共に羽田飛行場は接収を受けるのですが、
この接収こそ、今日我々の知る巨大な羽田空港を形成する契機となりました。
連合軍の占領、接収はこの「京浜運河計画」という制限をいとも簡単にとりはらい、
もの凄い勢いで埋め立てを開始したかと思うと、終戦から10か月後には2,100mと1,650m、
2本のアスファルト舗装滑走路を新設したのでした。
余談ですが、「東京市飛行場」の総面積は約251haと計画されていたのは前述の通りなのですが、
連合国により埋立てられたハネダエアベースの飛行場面積は一挙に3.5倍に拡張してしまいましたΣ(゚Д゚;)
その面積は257.4haで、「東京市飛行場」の面積を上回っています。
当初の「京浜運河計画」では、横浜から始まった運河は、
(拡張させず小さいままの)羽田飛行場沖をかすめる様に通り越して、更に東に伸びていく予定だったのですが、
米軍による飛行場の大規模な埋め立て拡張により、横浜から伸びてきた運河は、
ハネダエアベースでぶつかって行き止まりみたいな格好になってしまいました。
こうして、羽田飛行場沖を取り囲む運河計画はなし崩しになってしまい、
1980年代に始まった羽田沖合展開事業を経て現在の姿に至ります。
「これ以上の拡張ができないから」と、近くに巨大飛行場の建設が始まり、それが完成すれば、
羽田飛行場は海軍の小規模飛行場として脇役になっていたはずです。
そして戦後は東京市飛行場より遠く、見劣りのする羽田飛行場は、もしかしたら閉鎖されていたかも。
ところがその巨大飛行場予定地は海水浴場を経てゴミの島となり、
羽田は制限が解かれ、利用者数、人気共に、世界屈指の巨大国際空港へと変貌を遂げることとなりました。
まさに塞翁が馬ですね。
(ワールドベストエアポート2017年:世界第2位、利用者数2016年:世界第5位)

赤マーカー地点。
撮影地点・A

青マーカー地点。
撮影地点・B
一時は当時世界最大級のドイツの空港より1.8倍もの大きさを誇る飛行場が計画されていた夢の島。
日中戦争勃発とその後の物資窮乏から埋め立ては中止されてしまいましたが、
仮に着工があと1、2年早ければ、ひょっとすると今もここでヒコーキが飛び交っていたかもしれません。
都心から近く、アクセス抜群ですが、羽田でさえ騒音被害で地元と揉めましたから、
飛行場になったとしても、大規模な活用ではなく、調布飛行場的な位置付けになったかも。
東京都・東京市飛行場(計画)
所在地:東京都江東区南砂町地先(現・江東区夢の島)
座 標:N35°38′58″E139°49′43″
標 高:10m
面 積:251ha(2,005mx1,770m・最大値)
滑走路:3本(敷地の広さからすると、最大2,500m可)
(座標、標高、長さはグーグルアースから)
沿革
1938年 建設決定
1939年 7月起工式。1941年完成予定の予定だったが、その後中止
1947年 「夢の島海水浴場」オープン
1957年 ゴミ処分場化決定
関連サイト:
ブログ内関連記事■■■■■■
「首都圏における飛行場と都市計画 - 土木学会」■
羽田空港 D 滑走路建設に込め られた 地盤工学の知恵と技術■
<参考20> 京浜運河構想から内湾漁業の終焉へ■
東京都臨海域における埋立地造成の歴史■
東京・夢の島、名前の由来は海水浴場 空港計画も■
アメリカ・トーキーン水上機基地 [├海外の空港、飛行場]
2017年11月作成(情報は作成時のものです)
skyvector.com
アラスカ州トーキーン集落のある島から南東約10kmにある別の島(島名不明)にある「トーキーン水上機基地」。
1962年4月開設のパブリックドメイン所有の公共用水上機基地で、1,829x122m の離着水エリアが設定されています。
前記事の「ナウカティベイ水上機基地」の北北西約11.5kmに位置しています。
2015年の1年間で55便の運航があり、その内訳は、エアタクシー91%、ゼネアビ9%でした。
アメリカ・トーキーン水上機基地
トーキーン水上機基地 データ
設置管理者:Public Domain
種 別:公共用
3レター:TKI
標 高:0 ft / 0 m
標 点:55°56′14″N 133°19′36″W
離着水エリア:6000 x 400 ft. / 1829 x 122 m
方 位:NE/SW
表 面:水
関連サイト:
Wiki/Tokeen Seaplane Base■
アメリカ・ナウカティベイ水上機基地 [├海外の空港、飛行場]
2017年11月作成(情報は作成時のものです)
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アラスカ州Tuxekan(タクスカン?)島、ナウカティベイ集落の南西約2.5kmにある「ナウカティベイ水上機基地」。
「ニシンコーブ水上機基地」としても知られています。
1971年8月開設のナウカティベイコミュニティ所有の公共用空港で、
3,048x305mと、3,048x91m 2つの離着水エリアが設定されています。
2015年の統計では、単発機1機が当空港を定置場として使用していました。
また、月平均21便の運航があり、全てエアタクシーでした。
グーグルマップでは桟橋的なものも見当たらず、マイナーな飛行場のようです。
アメリカ・ナウカティベイ水上機基地
ナウカティベイ水上機基地 データ
設置管理者:Naukati Bay Community
種 別:公共用
3レター:NKI
標 高:0 ft / 0 m
標 点:55°50′59″N 133°13′40″W
離着水エリア:(方位、長さ フィート、メートル、表面)
N/S 10000 x 1000 ft. / 3048 x 305 m 水
NE/SW 10000 x 300 ft. / 3048 x 91 m 水
関連サイト:
Wiki/Naukiti Bay Seaplane Base■
アメリカ・ポートプロテクション水上機基地 [├海外の空港、飛行場]
2017年11月作成(情報は作成時のものです)
skyvector.com
アラスカ州ポートプロテクション集落の北約0.7kmにある「ポートプロテクション水上機基地」。
上のチャートにも出てますが、「ポイントベイカー水上機基地」の南南東約2.7kmに位置しています。
1966年5月開設のアラスカ州運輸公共施設局(DOT&PF)所有の公共用空港で、
1,219x305m の離着水エリアが設定されています。
2015年の統計では、月平均33便の運航があり、すべてエアタクシーでした。
■航空会社 / 行先
Taquan Air / Ketchikan
アメリカ・ポートプロテクション水上機基地
ポートプロテクション水上機基地 データ
設置管理者:State of Alaska DOT&PF - Southeast Region
種 別:公共用
3レター:PPV
標 高:0 ft / 0 m
標 点:56°19′44″N 133°36′36″W
離着水エリア:4000 x 1000 ft. / 1219 x 305 m
方 位:NW/SE
表 面:水
関連サイト:
Wiki/Port Protection Seaplane Base■
アメリカ・カコーノック空港 [├海外の空港、飛行場]
2017年11月作成(情報は作成時のものです)

skyvector.com
アラスカ州カコーノック集落の西南西約2.7kmにある「カコーノック空港」。
1986年11月開設のアラスカ州運輸公共施設局(DOT&PF)所有の公共用空港で、
1,006x23m の未舗装滑走路を有しています。
当空港の北東約2.7kmの位置に滑走路っぽいものがあります。
交差する直線はそれぞれ400m、600mあり、短いですが滑走路としては長さ、幅共にあり得るサイズです。
上のチャートのこの部分には何も記載がなく、グーグルアースの画像は2002年5月一択で確認がとれないのですが、
もしかしたら旧空港なのかも。
"Kokhanok Airport Relocation"、"Kokhanok Airport construction"でググってみたんですが、
何も引っかかりませんでした(;´Д⊂)
連邦航空局の記録によると、2007年に1,765人、2008年に1,166人の搭乗客がありました。
アメリカ・カコーノック空港
カコーノック空港 データ
設置管理者:State of Alaska DOT&PF
種 別:公共用
3レター:KNK
4レター:PFKK
標 高:115 ft / 35 m
標 点:59°25′59″N 154°48′09″W
滑走路:3300 x 75 ft. / 1006 x 23 m
磁方位:6/24
表 面:砂利/good condition
関連サイト:
Wiki/Kokhanok Airport■
アメリカ・ナンウォレック空港 [├海外の空港、飛行場]
2017年11月作成(情報は作成時のものです)
skyvector.com
アラスカ州ケナイ半島ナンウォレック集落のすぐ南側にある「ナンウォレック空港」。
「ポートグラハム空港」の西北西約5.3kmに位置しています。
アラスカ州運輸公共施設局(DOT&PF)所有の公共用空港で、564x15m の短い未舗装滑走路を有しているのですが、
Wiki(英語版・Google翻訳)によれば、
「この空港は米国のコミューター航空会社が使用する最短の滑走路とみなされています。 滑走路は1850フィートですが、運輸省は滑走路19の最初の1000フィートを閉めて、利用可能な滑走路をわずか850フィートにしています。」
とあります。
AirNavのFAA情報でも滑走路の長さについて同様の注釈がついており、
850フィートですからたったの259mですΣ(゚Д゚;)
「滑走路19の最初の1000フィートを閉めて~」の「滑走路19」とは、南北に走る滑走路の集落側(北側)なので、
全長1,850フィート滑走路のうち、南側の半分以下の長さしか使用していないことになります。
また、当空港は以前は「イングリッシュベイ空港」という名称でした。
当空港は開設年も、いつから現在の空港名に変更されたのかも不明なのですが、
Wikiには1996年撮影の当空港の写真が載っていて、それには「イングリッシュベイ空港」とあります。
それで、少なくともその頃までは「イングリッシュベイ空港」だったかと。
また、同写真には滑走路の集落側に駐機場があることが記されています。
2013年の統計では、週平均59便の運航があり、その内訳は、エアタクシー97%、ゼネアビ3%でした。
小さい空港ですが、便数は結構ありますね。
STOL機でも飛び交ってるのかしらん。
■航空会社 / 行先
Smokey Bay Air / Port Graham - Seldovia
アメリカ・ナンウォレック空港
ナンウォレック空港 データ
設置管理者:State of Alaska DOT&PF – Central Region
種 別:公共用
3レター:KEB
標 高:27 ft / 8 m
標 点:59°21′08″N 151°55′31″W
滑走路:1850 x 50 ft. / 564 x 15 m
磁方位:1/19
表 面:砂利/poor condition
*RY 01/19 N 1000 FT CLSD INDEFLY; RMNDR 850 FT SOFT.
関連サイト:
Wiki/Nanwalek Airport■
千葉県を周った話 [■旅行記]
オイラの「上司」だったKさんは、親よりやや年の離れた方だったのですが、
直接接する機会の多かった二十代の約10年間、そしてKさんが千葉に引っ越されたその後も、
オイラにとっては精神的な支えであり、大樹のような存在だったのでした。
「Kさんが亡くなった」という知らせがあったのは、急に冷え込みが強くなった昨年10月末のことで、
すっかり疎遠になってしまっていたこともあり、まさに青天の霹靂。
11月に入り、追悼式の日程も決まり、
今年はもう飛行場跡地巡りはしないつもりだったのですが、千葉の外房にあるI市で行われる式に向かう道中、
来年行く予定にしていた千葉県内の飛行場跡地をあちこち周ることにしたのでした。
3:20 自宅発。気温7℃ 曇り
最初の目的地夢の島までは55km。
いつも跡地巡りの運転中は地元FMを聞くのが常なんですが、
今回は自宅を出てから式場に着くまでの10時間以上、ほとんど何も聞かず(ニュース、天気予報は聴いたけど)、
Kさんとのあれこれに思いを致すことに。
Kさんが千葉に引っ越され、直接接することがなくなって何年も経ってからのことなんですが、
オイラが大きな挫折を経験した際、どこから聞きつけたのかわざわざ電話を掛けてくださり、
その時Kさんのから頂いた言葉は、その声と共に今もハッキリ耳に残っているのですが、
よく考えたら、それがKさんと直接交わした最後の会話でした。
決して飾らない、偉ぶらない、素朴で、気さくで、繊細だったKさん。
それでも全身から放つ雰囲気に、猫背のオイラもいつしか姿勢を正される思いだったKさん。
そんなこんなをあれこれ思い返していたら、
こうして飛行場跡地を周ることとKさんとが密接に結びついていることに、はたと気が付いたのでした。
二十代初め頃までのオイラは、戦争をタブー視しており、戦争にまつわるあらゆるものを嫌い、
見ない、聞かない、考えないことにしていました。
(でも戦闘機は当時からカッコいいと思っていた)
Kさんは、戦争には絶対に加担しないことを信条とする方だったのですが、
それでも合間の雑談の際、第一次、第二次大戦の際の世界情勢とその中の日本の振る舞い等について
いろんな話をしてくれたのでした。
戦争に類するあらゆるものを感情的に忌避し、目を背けていたオイラとは極めて対照的に、
Kさんは己の信条とは決して矛盾することなく、どちらか一方に与することなく、
非常に理性的且つ論理的に戦争を捉えておられ、その相対し方はオイラにとって、
まさに目から鱗が落ちる思いだったのでした。
全国の空港巡りをオイラが始めたきっかけはまた別の人物の影響が大きいのですが、
Kさんとの出会いがなかったら、オイラは全国の民間空港を周るに留めていたはずで、
どうしても軍との関わりが深くなる飛行場跡地を周ろうなんて、考えに上ることもありませんでした。
オイラがこんなけったいな趣味に手を染めることになったのは、Kさんから受けた影響のせいだった。
今になって気が付いたことなので、当然こんなことKさんに伝えたことはないのですが、
Kさんがこのことを知ったらなんて思うのかしらん。
今にして思えば、Kさんと行動を共にし、直接話ができたのは、たったの10年弱。
許された時間内で、もっともっといろんな話を聞いておけば良かった。
5:15 夢の島着。
早朝の時間帯なら下道でもランドまで2時間ちょいで行けるのか~。
これからひたすら動き続けることになるので、コンビニでガッツリ系の弁当、パン、お握りなど購入。
夢の島の駐車場で撮影可能な明るさになるまでちょっと仮眠して、
あとはずっと動き続けたのでした。
ビキニ環礁の第五福竜丸って、夢の島に展示施設があったんですね。
13時頃、途中の道の駅で着替えをして、40分前に式場到着。
今日は朝からずっと曇天で、時折パラつく空模様だったんですが、
式の時間が近づくにつれて空を覆う雲が一段と黒くなり、そしていつしか本降りに。
式終了後、更にもう一か所立ち寄って、見学終了。
八潮の珍来で麻婆丼を食べて自宅に向かったのでした。
21:10 自宅着
走行距離:410.0km
(おしまい)