真壁(金敷)秘匿飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]
2018年6月訪問 2023/8更新
茨城県桜川市にあった「真壁(金敷)秘匿飛行場」。
郷土史の中で、
「昭和20年1月、金敷に飛行場建設が急ピッチで進められ、地元の本村は勿論、近在の青年・在郷軍人会・常会の人々の勤労奉仕が強制された。この飛行場には、一個中隊の軍隊が駐屯したが、終戦直前に練習機が数回、爆撃機が1、2回位飛行した程度で、終末を告げたと言われる。」
とありました。
先頭のグーグルマップA地点には将門薬師堂があり、立札には一部こうあります。
「この地は、大字大国王字平といい、古代新治郡衙の南に位置し、第二次世界大戦中飛行場が設けられたことからも、その広さが伺い知れる。」
上の航空写真のほぼ中央に将門薬師堂があり、北西~南東方向に滑走路がありました。
地元農家の方によりますと、今でもビニールハウスの支柱パイプを刺すと、
ともかく滑走路だったところは地面が硬く、差がはっきり解るのだそうです。
以上、情報は再生おじさんからいただきました。
また、PUTINさんからも1945.7撮影の米軍情報をいただいておりました。
KADOIの南東2マイル、Yokotsukaの東北東2.5マイル N36-19-30 E140-03-30
4,800ftx160ft 北西~南東
2023/8/27追記:PUTINさんから更に情報頂きました。
PUTINさん大伯父が1945年4月9日から5月18日まで第160野戦飛行場設定隊の指揮下(原隊は第6航空教育隊)に入って同地で設営作業に従事しておられたのだそうです。
詳しくはコメント欄をご覧ください。
再生おじさん、PUTINさん、情報ありがとうございましたm(_ _)m
郷土史の中で、
「昭和20年1月、金敷に飛行場建設が急ピッチで進められ、地元の本村は勿論、近在の青年・在郷軍人会・常会の人々の勤労奉仕が強制された。この飛行場には、一個中隊の軍隊が駐屯したが、終戦直前に練習機が数回、爆撃機が1、2回位飛行した程度で、終末を告げたと言われる。」
とありました。
先頭のグーグルマップA地点には将門薬師堂があり、立札には一部こうあります。
「この地は、大字大国王字平といい、古代新治郡衙の南に位置し、第二次世界大戦中飛行場が設けられたことからも、その広さが伺い知れる。」
上の航空写真のほぼ中央に将門薬師堂があり、北西~南東方向に滑走路がありました。
地元農家の方によりますと、今でもビニールハウスの支柱パイプを刺すと、
ともかく滑走路だったところは地面が硬く、差がはっきり解るのだそうです。
以上、情報は再生おじさんからいただきました。
また、PUTINさんからも1945.7撮影の米軍情報をいただいておりました。
KADOIの南東2マイル、Yokotsukaの東北東2.5マイル N36-19-30 E140-03-30
4,800ftx160ft 北西~南東
2023/8/27追記:PUTINさんから更に情報頂きました。
PUTINさん大伯父が1945年4月9日から5月18日まで第160野戦飛行場設定隊の指揮下(原隊は第6航空教育隊)に入って同地で設営作業に従事しておられたのだそうです。
詳しくはコメント欄をご覧ください。
再生おじさん、PUTINさん、情報ありがとうございましたm(_ _)m
赤マーカー地点。
薬師堂の立札一部拡大
赤マーカー地点から北西方向
赤マーカー地点から南東方向
青マーカー地点から滑走路方向
茨城県・真壁(金敷)秘匿飛行場跡地
真壁(金敷)秘匿飛行場 データ
設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:茨城県桜川市大国玉
座 標:N36°19′22″E140°03′34″
標 高:47m
滑走路:1,400mx70m?
方 位:13/31
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)
沿革
1945年01月 建設
04月 9日~5月18日まで第160野戦飛行場設定隊が設営作業
関連サイト:
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この記事の資料:
郷土史
現地の説明版