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千葉県・一宮風船爆弾打ち上げ基地跡 [├場所]

   (未訪問)  



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撮影年月日1952/11/29(USA M209 40) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

千葉県一宮町にあった「風船爆弾打ち上げ基地跡」(先頭のグーグルマップ紫マーカー)。

ここは異国船に備えて砲台を築いた場所でもあり、風船爆弾の碑のすぐ側には、「加納藩台場跡」の碑もあります。

風船爆弾の打ち上げ基地は、千葉、茨城、福島の3ヵ所にありました。

当記事は、「ふ」号作戦に(基地としては)最初期から関わっていた一宮についてです。

 
昭和19年、上総一ノ宮駅から海岸に向かって引込線の建設があり、放球台、兵舎も作られたのですが、

何のために引込線を引いているのか等、住民には秘密とされ、

列車も鎧戸を閉めさせられ、海側を見る事が禁じられたのだそうです。

一宮町の公式サイト(下記リンク参照)によれば、放球台は直径10m、円形のコンクリート床であり、

ここ一宮には、12の放球台が建設されたのだそうです。

上に貼った航空写真は、「風船爆弾打ち上げ基地跡」の石碑周辺です。

円形、半円の如何にもそれらしいものが映ってますね(白矢印部分)。


風船爆弾の打ち上げは昭和19年11月から始まったのですが、

これに先立ち、昭和19年2月と3月に、当基地から約200個の実験気球が打ち上げられました。

陸軍気球聯隊から近い太平洋岸であること、輸送の便、秘匿性等からこの場所が選ばれ、

偏西風は冬期に強まることからこのタイミングの実験だったのではないかと。

現在では関連施設は全て取り壊され、上総一ノ宮駅の1番線に名残があるのみだそうです。

(どういう名残なのかは不明)

米国は風船爆弾の砂袋の砂を分析し、放球地点の一つが千葉県であることまで突き止めていたのだそうです(@Д@)

(風船爆弾に貼られたお札で場所がバレた。という話もあります)


戦史叢書に風船爆弾についての記述がありましたので、

この記事では準備段階から打ち上げに至るまでをまとめてみます。

81巻73p 
風船利用兵器について、秘匿のため頭文字をとって「ふ」号と呼んだ。
材料は我が国特有の和紙とノリ(コンニャク)であり、他の軍需品と競合しない。

「ふ」号作戦の「ふ」って、やはりというか、ふうせんの「ふ」だったんですね。

75巻279p
昭和18年8月 第九陸軍技術研究所にて風船爆弾研究開始。11月、初の試作気球完成。
昭和19年2月から3月にかけて約200個の気球を準備し、一宮海岸で大規模な放流実験を行った。
この実験は、気球の飛翔状況や高度保持に関するデータを得るためのものであり、
もちろんまだ米本国攻撃のためのものではなかったが、
それでも米本国に到達した場合の反響を期待して焼夷弾を積んだ気球を交えて放たれた。
この放流研究には陸軍省、参謀本部、兵器行政本部等から多数の見学者が集まり、
三月末現地で会議を開いて種々検討した結果、19年末から20年春にかけて大規模な「フ」号攻撃
を実施する計画
(8月までに研究を完成、10月までに準備を終わり、11月初旬から翌三月下旬にかけて攻撃を行うこと)
を決定した。
このときの実験結果につき2月23日の「大本営機密戦争日誌」は
「『フ』号は時速200粁にて概ね50時間程度を以て米本土に到達しあるが如く敵側情報にもその微候現出しあり」
と記し、眞田第一部長もまた三月末その日記に
「226個放流し順調に飛翔したるもの186個、13ヶ所に到着(情報には20ヶ所)、24時間観測しあり。
成果不確実、来年3万個作りたい。紙と「コンニャク」が要る。水素は1個につき300リットル要る。
水素の点から計算すれば2万個しか出来ぬ。現在の見透では2万個は確実。
10月迄に完成、11月から明年3月の間に放流する。アルミは300屯、水素ボンベは3万本要る。
隘路はグリセリンにある。パーム油か漁油が1万屯要る。食塩6,000屯要る。
これさえ解決すれば紙とコンニャクはできたから劇場を使い学徒動員で800屯は落とせる
(爆弾、焼夷弾、宣伝文等の内訳は参謀本部として考える)」
飛翔距離8,000粁、平均時速200粁として40時間を要する。
上空の気温は零下50度以下、気圧は地上気圧の四分の一近い。
また太陽の直射により気球内瓦斯の温度は昼夜で30度からの差ができる。
これらの条件を克服して気球を長時間平衡飛翔させるための研究が問題であった。

オイラが想像していたより、ずっと前々から具体的な計画が立てられ、周到な準備がなされた作戦でした。

81巻187p
昭和19年
9月8日 気球聯隊、同補充隊の臨時動員令達
9月25日 参謀総長隷下に入れられる
9月30日 参謀総長、気球聯隊長に攻撃準備命令

ちょっと前の記事でご紹介した千葉市にある「陸軍気球聯隊」がここで登場してます。

研究所での実験開発を経て、実行部隊に話が移りました。

この命令書には、「陸軍中央気象部長は、密に気球聯隊に協力すべし」とも記されていました。
 
81巻340p 457p
昭和19年 10月25日 参謀総長「ふ」号特殊攻撃実施命令
11月 約500個とし 5日頃迄の放球数を努めて大ならしむ
12月 約3,500個
1月 約4,500個
2月 約4,500個
3月 約2,000個
放球実施に方りては気象判断を適正ならしめ 以て帝国領土並に「ソ」領への落下を防止すると共に 
米国本土到達率を大ならしむるに勉む
機密保持の主眼は特殊攻撃に関する企図を軍の内外に対し秘匿するに在り
陣地の諸施設は上空並びに海上に対し極力遮蔽す
放球は気象状況許す限り黎明、薄暮及夜間等に実施するに勉む
今次特殊攻撃を「富号試験」と呼称す
11月1日 気球聯隊「ふ」号攻撃開始

後の記事で書きますが、実際に放たれた風船爆弾は、風に乗ってかなり広範囲に散らばりました。

「気象によく注意を払い、ソ連領に落下しないように」とあります。

「日ソ中立条約」については、「日本も頃合いを見て破棄する気だったからドッチもドッチ」

的な話もある訳ですが、少なくともこの命令書では、帝国領土と同列でソ連領にも落とさないように。

とし、「日ソ中立条約」をキッチリ順守しているように見えます。

因みに、「風船爆弾」という非常に資料性の高いサイト様(下記リンク参照)によりますと、

気球の放射地点は当初、根室、宮古、銚子が予定されたのだそうです。

但し、北海道からだと北に流れ、ソ連領侵入の危険もあったため、これは無しになったとありました。


話を戻します。

加えてこの命令書には、

気象観測のために試射が必要なら、11月以前に打ち上げても良い。その際、実弾を装着しても良い。

とも記されていました。

結構臨機応変というか、柔軟性を持たせた命令書だったんですね。

ということで、11月1日に攻撃開始となったのですが、

11月3日が晴れの特異点であることから、3基地とも11月3日打ち上げ開始となったのですが、

この年の11月3日、現地は土砂降りだったのだそうです。

前述のサイト「風船爆弾」によりますと、風船爆弾が最初に米側に発見されたのは、11月4日。

発見されたのはカリフォルニア州サンペドロの沖合100キロ地点の海上で、

発見したのはコースト・ガード(沿岸警備隊)の警備艦でした。

しかし、ジェット気流に乗ったとしても翌日に到達できる距離ではないので、

これは11月3日以前に放球された試験気球ではないかと思われる。とありました。




     千葉県・風船爆弾打ち上げ基地跡         
風船爆弾打ち上げ基地 データ
設置管理者:陸軍
種 別:気球放球基地
所在地:千葉県一宮町一宮
座 標:N35°22′12″E140°23′11″
標 高:5m
(座標、標高は国土地理院から)

沿革
1943年 8月 第九陸軍技術研究所にて風船爆弾研究開始
     11月、初の試作気球完成。
1944年 2月、3月 実験気球打ち上げ。この年の末から「ふ」号攻撃実施を決定
     9月8日 気球聯隊、同補充隊の臨時動員令達
     9月25日 参謀総長隷下に入れられる
     9月30日 参謀総長、気球聯隊長に攻撃準備命令
     10月25日 参謀総長「ふ」号特殊攻撃実施命令
     11月1日 気球聯隊「ふ」号攻撃開始
1945年 2月 この月まで打ち上げ実施。その後主力部隊撤収
2019年 4月 一宮町、風船爆弾に関する資料、証言の収集開始

関連サイト:
風船爆弾 
一宮町/風船爆弾 

この記事の資料:
戦史叢書75巻279p、81巻73p,187p,340p,457p


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千葉県・亜細亜航空学校水上班建設予定地 [├場所]

   2019年7月 訪問  



無題5.png
撮影年月日1946/02/13(USA M44-A-5VV 288) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

昭和10年、千葉県の印旛沼に水上機の飛行学校を設立する動きがありました。

現在の「オランダ風車リーフデ」の西側、千葉県水道局印旛沼取水場周辺にあたり、

国有地387坪及び埋立地415坪を中心として、

水面に向かって扇形に8万6696坪を飛行場とする計画でした。

(先頭のグーグルマップ青マーカー、航空写真の矢印の辺り)


開設しようとしたのは、東京の豊洲、そして辰巳に亜細亜航空学校を開設した飯沼金太郎氏でした。

実は飯沼氏は、旧佐倉町に陸上機の飛行場建設の構想も持っていたのですが、

農民の反対で断念した経緯があるのだそうです。

・「WEB版 航空と文化/空のパイオニア・飯沼金太郎と亜細亜航空学校」
・「東京新聞Web 佐倉出身・日本民間パイロット草分け 飯沼金太郎の軌跡追う」

の中で、当地での飯沼氏の動きが詳しく記されていました。

興味のある方はそちらをご覧くださいませ(下記リンク参照)。

「日本民間航空史話」202,203pに、「亜細亜航空学校のことなど」と題する、飯沼金太郎ご本人による寄稿があり、

この中でも、千葉県知事から占有許可が出たこと等、少しだけですが、記されていました。


計画では、当印旛沼に格納庫を建設して水上機練習生の養成、

遊覧飛行部を設けて印旛沼から銚子、東京、日光、箱根等の景勝地への遊覧飛行、

飛行機製作所を設け、飛行機の生産を行っていくというものでした。

飛行学校、遊覧飛行、機体製造と、非常に幅広い計画だったのですね(@Д@)

ところが戦時体制下の影響により、計画は断念せざるを得ない状況となってしまったのでした。


DSC_0031.jpg


浄水場の東隣は現在こんな感じ(青マーカー)。

田んぼが広がっていて、画面奥に印旛沼があります。

この周辺に航空の拠点が設けられようとしていたんですね~。



   千葉県・亜細亜航空学校水上班建設予定地       
亜細亜航空学校水上班建設予定地 データ
設置管理者:飯沼金太郎
種 別:水上機基地等
所在地:千葉県佐倉市臼井田
座 標:N35°44′22″E140°11′41″
標 高:3m
面 積:28.7ha
(座標、標高は国土地理院から)

沿革
1935年5月 22日 この日の毎日新聞千葉版に「印場湖畔に水上飛行学校」と載る
      候補地では臨時協議会、漁業関係者への意向調査実施
1936年5月 千葉県に占用許可願い提出
1937年6月 占有許可
1939年頃  国策により全国の民間飛行学校が廃止となり、印旛沼の計画も中止となる

関連サイト:
WEB版 航空と文化/空のパイオニア・飯沼金太郎と亜細亜航空学校 
東京新聞Web/佐倉出身・日本民間パイロット草分け 飯沼金太郎の軌跡追う 
ブログ内関連記事    

この記事の資料:
日本民間航空史話


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千葉県・旧陸軍気球聯隊第二格納庫跡 [├場所]

   2019年7月訪問  



無題8.png 
撮影年月日1947/09/24(USA M504 168) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

千葉県千葉市にある「旧陸軍気球聯隊第二格納庫跡」(先頭のグーグルマップ赤マーカー)。

陸軍唯一の気球聯隊で、あの風船爆弾はここで指揮していたのだそうです。

現在も格納庫が現役の倉庫として使用されています。

また外周の塀も一部陸軍当時のものなのだそうです。

当格納庫はネット上でも非常に多く取り上げられており、

許可を得て内部の非常に貴重な写真を紹介しているサイト様もあります。

そしてナント、当格納庫を建設したのは、現在の巴コーポレーションでしたΣ(゚Д゚;)

公式サイトでも格納庫が紹介されています(下記リンク参照)。

公式サイトによりますと、当格納庫構造に採用された「ダイヤモンドトラス」は創業者の発明なのだそうです。


DSC_0020.jpg


格納庫南面に巨大な扉があります。

現在は扉の前に建物が並んでいるのですが、上に貼った1947年の写真で見ると、

当時は巨大扉の前面には非常に広いスペースがあります。

恐らく、飛行船の出し入れ、離着陸に使っていたのではないかと。

また、「旧陸軍気球聯隊第二格納庫跡」ということは、第一もあったはずで、

いろいろググっても明確な場所はわからなかったのですが、

・道路を隔てた向かい側
・三角屋根で第二より大きい
・西側にあったが戦後解体

とありました。

航空写真で周辺を見ると、この条件にピッタリ当てはまる建物があるため、

これが第一格納庫ではないかと(グーグルマップ青マーカー)。


2019/8/17追記:打ち上げ基地跡をマーカーで示しました。



以下撮って来た写真をずらずらと。


DSC_0022.jpgDSC_0023.jpgDSC_0024.jpgDSC_0025.jpgDSC_0030.jpg



     千葉県・旧陸軍気球聯隊第二格納庫跡         
旧陸軍気球聯隊第二格納庫 データ
設置管理者:旧陸軍
種 別:気球格納庫
大きさ:30mx30m
所在地:千葉県稲毛区作草部町1-33-34
座 標:N35°37′47″E140°7′3″
標 高:19m
(座標、標高は国土地理院から)

沿革
1937年 建設

関連サイト:
巴コーポレーション/気球連隊第二格納庫 
ブログ内関連記事


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第一航空学校跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2019年7月 訪問  



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撮影年月日1944/10/16(8911 C1 7) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
 
千葉県船橋市に大正時代、「第一航空学校」が開設しました。

元は宗里悦太郎氏が現在の横浜市鶴見区、潮田の埋立地に設けた飛行学校だったのですが、

千葉に引っ越してきたものです(下記リンク参照)。

潮田の埋立地は出来たてほやほやで、すぐには建物建設ができませんでした。

地盤が締まるまでの3年間なら。という条件で飛行場として使っていたのでした。

この件については、鶴見歴史の会機関誌「郷土つるみ」第58号の中に詳しく記されています。

以下引用させて頂きます。


大正十五年二月、千葉県船橋の干潟飛行場に移転した。

これは潮田で活動を開始する前の約束だから、すでに手を打ってあった。

船橋での発展はさらに目ざましいものがあったが、

ここでは経営者・宗里悦三郎(ママ)のその後について簡単に書き留めておきたい。

船橋へ移ってから九年後の昭和九年五月二日、四十八歳の若さで病没した。

それまでに第一航空学校は潮田からはじまって四十一人の練習生を卒業させ、

現在在籍者九人を合わせて五十人の技術者を養成した。

その後、昭和十四年に戦争の拡大と共に民間航空は解散を余儀なくされるのだが、

それまでは未亡人宗里そのを中心に団結して航空事業を支えたのである。


ということで、横浜から船橋に移ったということは分かっていたのですが、

船橋のドコに移ったのか、具体的な位置が長いこと不明でした。

その後某サイト様に、昭和7年(1932年)10月30日発行の当地の地図が掲載されているのを知りました。

丁度先頭のグーグルマップの辺りに、「飛行學校」と記されていました。

「郷土つるみ」によりますと、飛行学校は大正15年~昭和14年まで存続していたので、

地図の「飛行學校」とは時期が重なっています。

しかも宗里氏本人がご存命中に発行された地図です。

実は当時の東京湾沿岸には、飛行学校が幾つもありました。

地図には校名の記載がなく、ただ「飛行學校」とだけ記されているので、

もしかしたら、宗里氏の第一航空学校とは別のものである可能性もあります。


この件については、

WEB版 航空と文化/空のパイオニア・飯沼金太郎と亜細亜航空学校(下記リンク参照)の中で、

「昭和11年頃の東京湾沿岸には」として、当時あった飛行学校が列挙されているのですが、

船橋市で挙げられているは、当第一航空学校だけでした。

ということで、地図に記載のある「飛行學校」=「第一航空学校」である可能性が高いと思います。

実はこの地図を見ても、「ここからここまでの範囲が飛行場」と明確には分かりません。

先頭のグーグルマップは、この地図から飛行場として使用できたであろう最大の広さで作図したものです。

実際にはもっと狭かったかもしれません。

上に貼った航空写真は、地図発行から12年後、飛行学校閉鎖から恐らく5年後のものです。

千葉街道が走り、建物が立ち並び、とても飛行場には見えないのですが、

地図発行の昭和7年当時は細い道が幾つかあるだけで、この範囲に建物も千葉街道もありませんでした。

敷地の大きさは、最大で485mx215mあります。

横浜の飛行場(636.3m×545.4m)よりはちょっと狭いんですが、この広さなら十分使用可能なのではないかと。


DSC_0018.jpg
陸橋の上から(先頭のグーグルマップ赤マーカー)。

この方向に飛行場があったはずです。




     千葉県・第一航空学校跡地         
第一航空学校跡地 データ
設置管理者:宗里悦太郎
種 別:陸上飛行場
所在地:千葉県船橋市宮本3丁目
座 標:N35°41′26″E139°59′39″
標 高:2m
着陸帯:485mx215m?
方 位:12/20
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)

沿革
1926年02月 横浜より移転
1934年05月 2日 宗里氏病没
1939年   解散

関連サイト:
WEB版 航空と文化/空のパイオニア・飯沼金太郎と亜細亜航空学校 
埼玉県、千葉県を周った話 
宗里飛行場(第一航空学校)跡地 

この記事の資料:
鶴見歴史の会機関誌「郷土つるみ」第58号


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