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千葉県・一宮風船爆弾打ち上げ基地跡 [├場所]

   2021年6月訪問 2022/1更新   



3.png
撮影年月日1952/11/29(USA M209 40) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


放球台の位置

風船爆弾の打ち上げ基地は、福島、茨城、千葉の3県に設けられました(下記リンク参照)。

当記事は千葉県一宮町にあった基地について取り上げます。

福島、茨城の基地跡と同じくここ一宮にも基地跡の碑と説明版があるのですが、

ここは異国船に備えて砲台を築いた場所でもあり、風船爆弾の碑のすぐ側には、「加納藩台場跡」の碑もあります。

風船爆弾は冬季の強い偏西風に乗せてアメリカ本土まで飛ばさねばならないことから、

昭和19年11月~昭和20年3月までの期間に放球が実施されました。

そしてこれに先立ち、昭和19年2月と3月に当一宮付近の海岸から実験気球が飛ばされました(後述します)。

一宮町の公式サイト(下記リンク参照)によれば、放球台は直径10m、円形のコンクリート床であり、

ここ一宮には、12基の放球台が建設されたのだそうです。

上に貼った航空写真は、「風船爆弾打ち上げ基地跡」の石碑周辺です。

上述の通り、風船爆弾はここ以外にも、福島県勿来、茨城県大津に放球基地が設けられました。

勿来、大津基地の当時の航空写真にはドーナツ型の放球台が写っており、

ここ一宮にも同じものが写っています。

先頭のグーグルマップには、上に貼った航空写真を参考に放球台の位置を示しました。

(赤マーカーの辺りを拡大すると、オレンジ色の〇が見えると思います)

写真から「これが放球台」というものが10個は比較的容易に見かるのですが、

当一宮基地についての種々の資料は、一宮基地の放球台の数を12としています。

この航空写真については、たくさんのサイト様が言及していて、

皆さん11個目、12個目を探すのに苦労しておられる様子が伺えます。

オイラも全く同様で、上に貼った航空写真の数字は便宜上勝手に振ったものなんですが、

1番と10番は正直「ホントにコレかなぁ」という感じで自信ないです。

周辺には「実はコレが放球台なんじゃ??」と見える箇所が幾つもあって、

サイト様によっては、オイラとは異なる場所を放球台としてカウントしておられます。

この写真以外に参考になるものがあるでなし、「ここが放球台っぽく見える(気がする)」

という主観で選んでますから、オイラが間違っていて、他のサイト様のが正しい。

ということは十分あり得ると思います。

一応、よーく見ると各放球台と放球台の間には盛んに移動したような跡があり、

この"移動痕"も1番と10番を含め、12ヶ所を選ぶ手がかりとしました。

次に、放球台の位置をグーグルマップに作図しようとしたのですが、

この写真が撮影されてから既に約70年が経過しており、

放球台周辺は区画整理が進み、道路も整備され、当時の道の多くも消滅してしまいましたし、

海岸線も大きく変化しました。

そのため、各放球台が現在のどの位置に相当するのか、位置決めにはかなり苦労しました(ほぼ1日費やした)。

当時の航空写真とグーグルマップをよーく比較してみると、

基地周辺には70年前の道路の形がそのまま残っている箇所が幾つかあります。

「ここの道路、当時のままなんじゃ?」と見える場所を一つ一つレイヤを作って慎重に確認し、

それらの道路を基準線として、放球台の位置を割り出しました。

それでも5m前後はズレがあるかもしれませんので、ご了承くださいませ。

(位置決めの要となった基準線3つは、グーグルマップに赤線で残してあります)
 

準備

風船爆弾の放球は昭和19年11月から始まったのですが、

これに先立ち、昭和19年2月と3月に、当基地周辺の海岸から約200個の実験気球が打ち上げられました。

陸軍気球聯隊から近い太平洋岸であること、輸送の便、秘匿性等からこの場所が選ばれ、

偏西風は冬期に強まることからこのタイミングの実験だったのではないかと。

現在では関連施設は全て取り壊され、上総一ノ宮駅の1番線に名残があるのみだそうです。

(どういう名残なのかは不明)

米国は風船爆弾の砂袋の砂を分析し、

放球地点の一つが千葉県であることまで突き止めていたという話があります(@Д@)

(風船爆弾に貼られたお札で場所がバレた。という話もあります)

戦史叢書に風船爆弾についての記述があり、準備段階から打ち上げまでを引用させて頂きました。

81巻73p 
風船利用兵器について、秘匿のため頭文字をとって「ふ」号と呼んだ。
材料は我が国特有の和紙とノリ(コンニャク)であり、他の軍需品と競合しない。

「ふ」号作戦の「ふ」って、やはりというか、ふうせんの「ふ」だったんですね。

75巻279p
昭和18年8月 第九陸軍技術研究所にて風船爆弾研究開始。11月、初の試作気球完成。
昭和19年2月から3月にかけて約200個の気球を準備し、一宮海岸で大規模な放流実験を行った。
この実験は、気球の飛翔状況や高度保持に関するデータを得るためのものであり、
もちろんまだ米本国攻撃のためのものではなかったが、
それでも米本国に到達した場合の反響を期待して焼夷弾を積んだ気球を交えて放たれた。
この放流研究には陸軍省、参謀本部、兵器行政本部等から多数の見学者が集まり、
三月末現地で会議を開いて種々検討した結果、19年末から20年春にかけて大規模な「フ」号攻撃
を実施する計画
(8月までに研究を完成、10月までに準備を終わり、11月初旬から翌三月下旬にかけて攻撃を行うこと)
を決定した。
このときの実験結果につき2月23日の「大本営機密戦争日誌」は
「『フ』号は時速200粁にて概ね50時間程度を以て米本土に到達しあるが如く敵側情報にもその微候現出しあり」
と記し、眞田第一部長もまた三月末その日記に
「226個放流し順調に飛翔したるもの186個、13ヶ所に到着(情報には20ヶ所)、24時間観測しあり。
成果不確実、来年3万個作りたい。紙と「コンニャク」が要る。水素は1個につき300リットル要る。
水素の点から計算すれば2万個しか出来ぬ。現在の見透では2万個は確実。
10月迄に完成、11月から明年3月の間に放流する。アルミは300屯、水素ボンベは3万本要る。
隘路はグリセリンにある。パーム油か漁油が1万屯要る。食塩6,000屯要る。
これさえ解決すれば紙とコンニャクはできたから劇場を使い学徒動員で800屯は落とせる
(爆弾、焼夷弾、宣伝文等の内訳は参謀本部として考える)」
飛翔距離8,000粁、平均時速200粁として40時間を要する。
上空の気温は零下50度以下、気圧は地上気圧の四分の一近い。
また太陽の直射により気球内瓦斯の温度は昼夜で30度からの差ができる。
これらの条件を克服して気球を長時間平衡飛翔させるための研究が問題であった。

オイラが想像していたより、ずっと前々から具体的な計画が立てられ、周到な準備がなされた作戦でした。


放球時期

風船爆弾について扱ったサイトの中には、

「風任せであるから、どの程度の効果があるかについて、

米側のリアクションに注意を払ったが、大した反応が確認できなかったため、

『風船爆弾は効果無し』と判断して作戦を途中で中止した」的な事を書いているものがあるのですが、

上記の通り攻撃開始1年前には「放球は昭和20年3月まで」と決まっており、

実際にジェット気流(偏西風の凄いバージョン)の吹く3月まで放球は実施されました。

偏西風そのものは年中吹いてるのに、どうして「3月まで」と限定されたのでしょうか?

ぷかぷかとゆっくりでも構わないからどの季節だろうと飛ばせば良い気もしますが、

夏季と比較して倍にも強まるジェット気流の吹く冬季に放球を限定したのは、

風船爆弾の側に事情がありました。

まず球皮から僅かずつガスが抜け続けますから、余り悠長に飛んでいられない。という点があります。

また上述の戦史叢書には、

「気圧は地上気圧の四分の一近い。太陽の直射により気球内瓦斯の温度は昼夜で30度からの差ができる」

とある通り、高度が上がり、太陽の直射を受けると内圧が高まるため、

破裂しないように自動的に水素ガスを放出するようになっていました。

ところが夜になると一転、気温が下がって少ししぼんでしまい、浮力が減って高度が下がってゆきます。

このままだと、ジェット気流の吹く高度帯をはずすばかりか、初日の夜に海面に落下してしまうのだそうです。

このため風船爆弾には、砂袋をたくさんつけていました。

高度計で高度を検知し、高度の下がり過ぎを防ぐためにこれを次々落下させました。

そして夜が明けると風船は再び上昇に転じます。

ジェット気流を利用しても米本土まで40~50時間かかりますから、2度3度と夜を迎えることになります。

上昇と下降を繰り返すことになり、そのたびに砂袋を落下させます。

「紙と戦争―登戸研究所と風船爆弾・偽札―」にはこうありました(下記リンク参照)。

気圧計で高度低下を感知するとバラスト(砂嚢=2.7kg×28個)を次々に自動的に投下していくシステム(高度維持装置)を組み込むことで,風船爆弾はアメリカに到達できたのですが,気球で約200kgの浮力が得られても,気球本体の重量が60~70kg,バラストだけで約90kg,その装置の重量もありますので,搭載できる爆弾の重量は上限35kgぐらいに限定されてしまいます。このバラスト投下システムがないとアメリカまで気球が届かない,しかし,バラストを積むために小型爆弾しか搭載できない,決定的な弱点があるわけです。

200kgの浮力のうち、約90kgをバラストが占めていますが、

これでもジェット気流を利用するから90kgで済んでいる訳で、

飛行時間が増えればもう爆弾を積む余地がなくなってしまいます。

長々となってしまいましたが、このように風船爆弾側の事情から放球時期は冬季に限定されました。

放球が3月で終了したのはジェット気流が利用できなくなるからで、計画的なものでした。

4月以降の放球を中止した訳ではないです。


放球

81巻187p
昭和19年
9月8日 気球聯隊、同補充隊の臨時動員令達
9月25日 参謀総長隷下に入れられる
9月30日 参謀総長、気球聯隊長に攻撃準備命令

ちょっと前の記事でご紹介した千葉市にある「陸軍気球聯隊」がここで登場してます。

研究所での実験開発を経て、実行部隊に話が移りました。

この命令書には、「陸軍中央気象部長は、密に気球聯隊に協力すべし」とも記されていました。
 
81巻340p 457p
昭和19年 10月25日 参謀総長「ふ」号特殊攻撃実施命令
11月 約500個とし 5日頃迄の放球数を努めて大ならしむ
12月 約3,500個
1月 約4,500個
2月 約4,500個
3月 約2,000個
放球実施に方りては気象判断を適正ならしめ 以て帝国領土並に「ソ」領への落下を防止すると共に 
米国本土到達率を大ならしむるに勉む
機密保持の主眼は特殊攻撃に関する企図を軍の内外に対し秘匿するに在り
陣地の諸施設は上空並びに海上に対し極力遮蔽す
放球は気象状況許す限り黎明、薄暮及夜間等に実施するに勉む
今次特殊攻撃を「富号試験」と呼称す
11月1日 気球聯隊「ふ」号攻撃開始

後の記事で書きますが、実際に放たれた風船爆弾は、風に乗ってかなり広範囲に散らばりました。

「気象によく注意を払い、ソ連領に落下しないように」とあります。

「日ソ中立条約」については、「日本も頃合いを見て破棄する気だったからドッチもドッチ」

的な話もある訳ですが、少なくともこの命令書では、帝国領土と同列でソ連領にも落とさないように。

とし、「日ソ中立条約」をキッチリ順守しているように見えます。

因みに、「風船爆弾」という非常に資料性の高いサイト様(下記リンク参照)によりますと、

気球の放射地点は当初、根室、宮古、銚子が予定されたのだそうです。

但し、北海道からだと北に流れ、ソ連領侵入の危険もあったため、これは無しになったとありました。


話を戻します。

加えてこの命令書には、

気象観測のために試射が必要なら、11月以前に打ち上げても良い。その際、実弾を装着しても良い。

とも記されていました。

結構臨機応変というか、柔軟性を持たせた命令書だったんですね。

ということで、11月1日に攻撃開始となったのですが、

11月3日が晴れの特異点であることから、3基地とも11月3日打ち上げ開始となったのですが、

この年の11月3日、現地は土砂降りだったのだそうです。

前述のサイト「風船爆弾」によりますと、風船爆弾が最初に米側に発見されたのは、11月4日。

発見されたのはカリフォルニア州サンペドロの沖合100キロ地点の海上で、

発見したのはコースト・ガード(沿岸警備隊)の警備艦でした。

しかし、ジェット気流に乗ったとしても翌日に到達できる距離ではないので、

これは11月3日以前に放球された試験気球ではないかと思われる。とありました。

DSC_0080_00001.jpg
赤マーカー地点

碑と説明版があります。

風船爆弾打ち上げ基地跡(全文)
 風船爆弾とは、和紙をこんにゃく糊で貼り合わせて
造った直径約10メートルの巨大気球で、中に水素
ガスを入れ爆弾を積んだ兵器です。太平洋戦争末期
の昭和19年(1944)秋から翌年春まで、偏西風に
乗せてアメリカ本土へ向けて飛ばしました。
打ち上げ基地は全国で3ヶ所でした。
一宮(千葉)大津(茨城)勿来(福島)に造られ、一宮には
12ヶ所の発射台があり、約2500個を打ち上げたと
いわれています。
一宮町教育委員会
平成24年3月

風船爆弾打ち上げ基地跡(全文)
 風船爆弾は、旧日本軍がアメリカ本土への攻撃のために開発したもので、
和紙をこんにゃく糊で張りあわせて作った直径10mの気球に、爆弾や焼夷
弾を吊り下げて飛ばした兵器です。この計画は「ふ」号作戦と呼ばれ、一宮、
茨城県の大津(北茨木市)、福島県の勿来(いわき市)の計3か所の打ち上げ
基地より、昭和19年(1944)の11月から翌年にかけて合計で約9,000個が
打ち上げられました。そのうち300個弱がアメリカ本土に到達したといわれ、
オレゴン州では民間人6名が犠牲になりました。
 一宮の打ち上げ基地は打ち上げのためのコンクリート台が数基据えられたと
いい、風船爆弾の資材の運搬のために、打ち上げ基地に向かって上総一ノ宮駅
より引込線(線路、現在の一宮停車線に沿う)が敷かれました。戦後、基地は
旧日本軍によって破壊されたため、現在は当時の面影は残されていません。
※実際の打ち上げ基地は看板の立てられている場所の道を挟んだ海側の一帯に
 あったといいます。


引込線

昭和19年、上総一ノ宮駅から海岸に向かって引込線の建設があり、放球台、兵舎も作られたのですが、

何のために引込線を引いているのか等、住民には秘密とされ、

列車も鎧戸を閉めさせられ、海側を見る事が禁じられたのだそうです。


2.png
撮影年月日1947/11/08(昭22)(USA M636-A-No2 306) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成。以下3枚とも)

ということで、これは現在国土地理院で閲覧できる上総一ノ宮駅の最古の航空写真です。

確かに駅から分岐し、カーブを描きつつ海岸方向に向かう引込線跡らしきものが写っています。


3.png

ということでレイヤを作り、





グーグルマップで作図すると、こんな感じ。

実は複数のサイト様で、「駅から分岐する引込線が残っている」的な内容が書かれています。

拡大すると、確かに分岐して途中で途切れている線路があります(黄色線)。

ただ、オイラには1947年撮影の航空写真の分岐の仕方と、グーグルマップに見えている分岐の仕方は、

分岐を開始する位置、その後の線路の向きがまったく別物に見えてなりません。


4.png
1/50000「茂原」昭和19年部修「今昔マップ on the web」より作成

昭和19年の地図で確認すると、確かに駅から海岸に向けて引込線が描かれているのですが、

分岐は駅の南側ではなく、北側に描かれています。

実は駅南側の分岐から更に南150m先に留置線の分岐があります(赤マーカー)。

もしかして、駅南側にある分岐(と短い線路)は、留置線跡とかもっと近年のものってことはないでしょうか?


5.png
同じく1947年の航空写真を引いてみると、こんな感じ。

上総一ノ宮駅から分岐した線路が弧を描くようにして現在の県道228号線に沿って東進し、

基地の手前で南に向きを変え、南北に並ぶ放球台に沿うように線路が続いているように見えます。

基地の手前で南に向きを変えてからは今昔マップとはちょっと形が異なるのですが、

これが引込線だったのではないかと。

ということで、この引込線っぽく見えるものを、先頭のグーグルマップに黄色で作図してあります。




     千葉県・風船爆弾打ち上げ基地跡         
風船爆弾打ち上げ基地 データ
設置管理者:陸軍
種 別:気球放球基地
所在地:千葉県一宮町一宮
座 標:35°22'07.5"N 140°23'13.6"E
標 高:5m
(座標、標高はグーグルアースから)

沿革
1943年08月 第九陸軍技術研究所にて風船爆弾研究開始
     11月 初の試作気球完成。
1944年02月、3月 実験気球打ち上げ。この年の末から「ふ」号攻撃実施を決定
     09月 8日 気球聯隊、同補充隊の臨時動員令達
     09月 25日 参謀総長隷下に入れられる
     09月 30日 参謀総長、気球聯隊長に攻撃準備命令
     10月 25日 参謀総長「ふ」号特殊攻撃実施命令
     11月 1日 気球聯隊「ふ」号攻撃開始
1945年02月 この月まで打ち上げ実施。その後主力部隊撤収
2019年04月 一宮町、風船爆弾に関する資料、証言の収集開始

関連サイト:
風船爆弾 
紙と戦争―登戸研究所と風船爆弾・偽札― 
一宮町/風船爆弾 
ブログ内関連記事
 福島県・勿来風船爆弾打ち上げ基地跡 
 茨城県・大津風船爆弾打ち上げ基地跡 


この記事の資料:
現地の説明版
戦史叢書75巻279p、81巻73p,187p,340p,457p


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千葉県・亜細亜航空学校水上班建設予定地 [├場所]

   2019年7月訪問 2022/1更新   



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撮影年月日1946/02/13(USA M44-A-5VV 288) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

昭和10年、千葉県の印旛沼に水上機の飛行学校を設立する動きがありました。

現在の「オランダ風車リーフデ」の西側、千葉県水道局印旛沼取水場周辺にあたり、

国有地387坪及び埋立地415坪を中心として、

水面に向かって扇形に8万6696坪を飛行場とする計画でした。

(先頭のグーグルマップ青マーカー、航空写真の矢印の辺り)


開設しようとしたのは、東京の豊洲、そして辰巳に亜細亜航空学校を開設した飯沼金太郎氏でした。

実は飯沼氏は、旧佐倉町に陸上機の飛行場建設の構想も持っていたのですが、

農民の反対で断念した経緯があるのだそうです。

・「WEB版 航空と文化/空のパイオニア・飯沼金太郎と亜細亜航空学校」
・「東京新聞Web 佐倉出身・日本民間パイロット草分け 飯沼金太郎の軌跡追う」

の中で、当地での飯沼氏の動きが詳しく記されていました。

興味のある方はそちらをご覧くださいませ(下記リンク参照)。

「日本民間航空史話」202,203pに、「亜細亜航空学校のことなど」と題する、飯沼金太郎ご本人による寄稿があり、

この中でも、千葉県知事から占有許可が出たこと等、少しだけですが、記されていました。


計画では、当印旛沼に格納庫を建設して水上機練習生の養成、

遊覧飛行部を設けて印旛沼から銚子、東京、日光、箱根等の景勝地への遊覧飛行、

飛行機製作所を設け、飛行機の生産を行っていくというものでした。

飛行学校、遊覧飛行、機体製造と、非常に幅広い計画だったのですね(@Д@)

ところが戦時体制下の影響により、計画は断念せざるを得ない状況となってしまったのでした。


DSC_0031.jpg

赤マーカー地点。

浄水場の東隣は現在こんな感じ。

田んぼが広がっていて、画面奥に印旛沼があります。

この周辺に航空の拠点が設けられようとしていたんですね~。



   千葉県・亜細亜航空学校水上班建設予定地       
亜細亜航空学校水上班建設予定地 データ
設置管理者:飯沼金太郎
種 別:水上機基地等
所在地:千葉県佐倉市臼井田
座 標:N35°44′22″E140°11′41″
標 高:3m
面 積:28.7ha
(座標、標高は国土地理院から)

沿革
1935年05月 22日 この日の毎日新聞千葉版に「印場湖畔に水上飛行学校」と載る
       候補地では臨時協議会、漁業関係者への意向調査実施
1936年05月 千葉県に占用許可願い提出
1937年06月 占有許可
1939年頃   国策により全国の民間飛行学校が廃止となり、印旛沼の計画も中止となる

関連サイト:
WEB版 航空と文化/空のパイオニア・飯沼金太郎と亜細亜航空学校 
東京新聞Web/佐倉出身・日本民間パイロット草分け 飯沼金太郎の軌跡追う(リンク切れ)
ブログ内関連記事    

この記事の資料:
日本民間航空史話


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千葉県・旧陸軍気球聯隊第二格納庫跡 [├場所]

   2019年7月訪問 2022/1更新   



無題8.png 
撮影年月日1947/09/24(USA M504 168) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

千葉県千葉市にある「旧陸軍気球聯隊第二格納庫跡」(先頭のグーグルマップ赤マーカー)。

陸軍唯一の気球聯隊で、あの風船爆弾はここで指揮していたのだそうです。

現在も格納庫が現役の倉庫として使用されています。

また外周の塀も一部陸軍当時のものなのだそうです。

当格納庫はネット上でも非常に多く取り上げられており、

許可を得て内部の非常に貴重な写真を紹介しているサイト様もあります。

そしてナント、当格納庫を建設したのは、現在の巴コーポレーションでしたΣ(゚Д゚;)

公式サイトでも格納庫が紹介されています(下記リンク参照)。

公式サイトによりますと、当格納庫構造に採用された「ダイヤモンドトラス」は創業者の発明なのだそうです。


DSC_0020.jpg


格納庫南面に巨大な扉があります。

現在は扉の前に建物が並んでいるのですが、上に貼った1947年の写真で見ると、

当時は巨大扉の前面には非常に広いスペースがあります。

恐らく、飛行船の出し入れ、離着陸に使っていたのではないかと。

また、「旧陸軍気球聯隊第二格納庫跡」ということは、第一もあったはずで、

いろいろググっても明確な場所はわからなかったのですが、

・道路を隔てた向かい側
・三角屋根で第二より大きい
・西側にあったが戦後解体

とありました。

航空写真で周辺を見ると、この条件にピッタリ当てはまる建物があるため、

これが第一格納庫ではないかと(グーグルマップ青マーカー)。


2019/8/17追記:打ち上げ基地跡をマーカーで示しました。



以下撮って来た写真をずらずらと。


DSC_0022.jpgDSC_0023.jpgDSC_0024.jpgDSC_0025.jpgDSC_0030.jpg



     千葉県・旧陸軍気球聯隊第二格納庫跡         
旧陸軍気球聯隊第二格納庫 データ
設置管理者:旧陸軍
種 別:気球格納庫
大きさ:30mx30m
所在地:千葉県稲毛区作草部町1-33-34
座 標:N35°37′47″E140°7′3″
標 高:19m
(座標、標高は国土地理院から)

沿革
1937年 建設

関連サイト:
巴コーポレーション/気球連隊第二格納庫 
ブログ内関連記事


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第一航空学校跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2019年7月、2021年10月訪問 2021/10更新   



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無題e.png
1/25000「船橋」昭和7年要修・昭和7.10.30発行「今昔マップ on the web」より作成(2枚とも)。

2021/9/4追記:ここは陸地ではなく「干潟」の飛行場ということが分かったため、記事と作図を大幅に修正しました。大変申し訳ありません。

千葉県船橋市にあった「第一航空学校」。

元々は横浜市鶴見区潮田にあったのですが、こちらに引っ越してきました(下記リンク参照)。

横浜市で飛行場として使用していたのは、出来たてほやほやの埋立地でした。

埋め立てたばかりですぐに建物建設ができないため、

当初から「地盤が締まるまでの3年間だけ」という条件で飛行場として使っていたのでした。

鶴見歴史の会機関誌「郷土つるみ」第58号では、約束の3年を経た後について、次のように記しています。

大正十五年二月、千葉県船橋の干潟飛行場に移転した。

これは潮田で活動を開始する前の約束だから、すでに手を打ってあった。

船橋での発展はさらに目ざましいものがあったが、

ここでは経営者・宗里悦三郎(ママ)のその後について簡単に書き留めておきたい。

船橋へ移ってから九年後の昭和九年五月二日、四十八歳の若さで病没した。

それまでに第一航空学校は潮田からはじまって四十一人の練習生を卒業させ、

現在在籍者九人を合わせて五十人の技術者を養成した。

その後、昭和十四年に戦争の拡大と共に民間航空は解散を余儀なくされるのだが、

それまでは未亡人宗里そのを中心に団結して航空事業を支えたのである。


ということで横浜から船橋に移った訳ですが、船橋のドコに移ったのか、具体的な位置が長いこと不明でした。

上に貼った今昔マップに「飛行學校」とありますね。

「郷土つるみ」によりますと、船橋の飛行学校は大正15年~昭和14年までありました。

今昔マップは「昭和7年要修」なので、飛行學校開設期間と重なっています。

しかも宗里氏本人がご存命中に発行された地図ということに。

実は当時の東京湾沿岸には、飛行学校が幾つもありました。

今昔マップには校名の記載がなく、ただ「飛行學校」とだけ記されているので、

もしかしたら、宗里氏の第一航空学校とは別のものである可能性もあります。

この件については、

WEB版 航空と文化/空のパイオニア・飯沼金太郎と亜細亜航空学校(下記リンク参照)の中で、

「昭和11年頃の東京湾沿岸には」として、当時あった飛行学校が列挙されているのですが、

船橋市で挙げられているは、当第一航空学校だけでした。

また、前述の通り当飛行学校は大正15年~昭和14年まであったのですが、

今昔マップは簡単に年代の切り替えができ、当地では大正6年測図と、昭和20年部修の地図が閲覧できます。

年代的に、飛行学校開設前と、閉鎖後になりますが、どちらの地図にも「飛行学校」はでてきません。

タイミング合ってます。


国立国会図書館デジタルコレクションに「報知年鑑.大正16年」があり、

この中に、本邦民間飛行場調〔大正15.8〕として27の民間飛行場の一覧がありました。

当飛行場関係箇所を引用させていただきます(下記リンク参照)。

使用者 宗里悦太郎
種類 陸上
位置 千葉縣東葛飾郡船橋町五日市字中の島
面積 275,450坪

ここで位置のところ、船橋町に続けて「五日市字中の島」とあります。

現在のグーグルマップには、「船橋市五日市」は出てこないんですが、

江戸時代には、海老川を挟んで東側では5の日に市が開かれたことから、五日市村と呼ばれており、

これが現在の宮本になったのだそうです(グーグルマップ作図の場所は宮本三丁目なので合ってる)。

中の島については…分かりませんでした_| ̄|○ il||li

まとめますと-

・昭和11年頃、船橋にあった飛行学校は当校のみであった
・当飛行学校開設期間と、地図記載/不記載のタイミングが合っている
・報知年鑑情報の住所、面積情報と(ほぼ)合致する

ということになり、今昔マップに示されている「飛行學校」とは、時期的に、そして住所的に考えて、

宗里氏の第一航空学校でほぼ間違いないだろう。ということになります。

それから面積のところ、275,450坪とあり、これは91.06haに相当します。


そしてここからが問題なのですが、

冒頭で引用した「郷土つるみ」第58号にはこうあります。

「大正十五年二月、千葉県船橋の干潟飛行場に移転した。」

ハッキリと船橋の"干潟"飛行場と記しています。

ところが、現地にお邪魔した2019年頃のオイラには、干潟が飛行場になるという発想がありませんでした。

そのため、「飛行學校」と記されている周辺の更地っぽい部分が約9haであることから、

「ここが飛行場だったに違いない」と思い込み、作図して記事にしていたのでした。

そもそも「報知年鑑」には面積が275,450坪≒91.06ha とあるのに、作図した面積は約9haですから、

飛行場として使えそうな更地の面積は、資料にある十分の一だったのです。

そして「飛行学校」と記されている周辺にはオイラの見る限り、

91haもの飛行場敷地があるようにはとても考えられません。

その後、黎明期には東京湾、鹿児島で干潟を飛行場として使用していた実例があることを知り、

今回の修正に至りました。

約2年間間違い情報を載せておりました。

大変申し訳ありませんでしたm(_ _)m

改めて今昔マップで「飛行學校」とある位置の干潟を囲ってみると、

92.4haになりました(先頭のグーグルマップ黄色のポリゴン)。

これはほぼ「報知年鑑」に出てくる面積に等しいため、恐らくこの部分を飛行場として使用していたのだと思います。


DSC_0040_00001.jpg


赤マーカー地点。

ということで撮り直してきました。

当時は干潟だった場所が今ではこんな感じです。




     千葉県・第一航空学校跡地         
第一航空学校 データ
設置管理者:宗里悦太郎
種 別:陸上飛行場
所在地:千葉縣東葛飾郡船橋町五日市字中の島(現・船橋市宮本3丁目)
座 標:35°40'57.8"N 139°59'20.7"E
着陸帯:1,600mx500m(不定形)
(座標、着陸帯長さはグーグルアースから)

沿革
1926年02月 横浜より移転
1934年05月 2日 宗里氏病没
1939年   解散

関連サイト:
WEB版 航空と文化/空のパイオニア・飯沼金太郎と亜細亜航空学校 
国立国会図書館デジタルコレクション/報知年鑑.大正16年(225コマ) 
埼玉県、千葉県を周った話 
宗里飛行場(第一航空学校)跡地 

この記事の資料:
鶴見歴史の会機関誌「郷土つるみ」第58号


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