樺太の飛行場、不時着場跡地 [├資料]
「陸空-本土周辺-11 飛行場記録(樺太の部) 大東亜戦争第1復員局」
というものがあり、最初に「樺太飛行場不時着場 一覧図」というページがありました。
南樺太の地図に、「飛行場」、「着手中」、「不時着場」の記号があり、
この一覧図から作ったのが先頭のグーグルマップです。
図がかなり大まかなもののため、実際の位置とかなりのズレが生じていると思います。
おおよそこの辺り。ということでご了承くださいませ。
ポーツマス条約により、第二次大戦まで樺太の北緯50度以南を日本が領有していた訳ですが、
この一覧図には、飛行場:4、着手中:2、不時着場:11 が描かれています。
また、一覧図にはなぜか出ていないんですが、同資料にはこれ以外に、
初問飛行場、塔路飛行場、小能登呂飛行場の3つの飛行場についての資料が含まれており、
この3つを合せると、日本が領有していた南北約460kmの範囲に、
飛行場:7、着手中:2、不時着場:11、合計20の飛行場、不時着場があったことになります。
着手中のうち、内路飛行場は資料内では諸施設付きの立派な飛行場として扱われており、
もう一つの名寄飛行場については、資料内には特に情報がありません。
国立国会図書館デジタルコレクションの中に「久春内飛行場」という飛行場があり、
この飛行場は、一覧表には出てこないのですが、
この飛行場の位置情報が名寄飛行場の位置と非常に近いため、
もしかしたら、久春内飛行場と名寄飛行場は同一なのかもしれません。
同資料内では、上記7飛行場と、着手中の内路飛行場について、付図と簡単な情報があり、
例によって資料を元に作図、記事化しました。
実はオイラ、恥ずかしながら樺太についての知識が皆無で、
記事化作業は、当時の樺太について知る機会となりました。
別サイト様なんですが、「南方を志願し北方の飛行場大隊勤務」という記事の中で、
当時飛行場大隊に所属しておられた方が戦中の南樺太の様子について扱われていました。
以下引用させて頂きます。
南樺太に住む日本人の心境たるや、北緯五十度を境界にソ連と接するため、
恐々としてその日を過ごしていた様子は、到底内地に住む者には想像もつかない様子で、
休日になると兵舎の門前に子供達が来て外出する兵隊をわが家に迎えに来ます。
その当時、最早配給制で不自由な生活をしているのに、
菓子や手拭等を差し出して慰労に努めてくれるような状態でした。
この状況を見て我々は「身をていしても国やこの人たちを守らねば」と痛感した次第ですが、
樺太は当時大事な石油資源を持ち、平坦な土地の大木からはパルプがとれ、
またオホーツク海は世界屈指(三大漁場の一つ)の漁獲量を誇るという日本の大きな支えでした。
来週から、資料にある7つの飛行場と1つの着手中の飛行場の記事を順にアップさせて頂きます。
新型フィット [■ブログ]
納車日、車を受け取って、そのまま行きつけの群馬のラーメン屋さんへ。
往路はアチコチ寄り道したり、安全運転支援システムの動作確認をしたりしたので、
復路では真面目に燃費を出すことに(`・ω・´)
自宅までの道は、高燃費を出しやすいのです。
「見せてもらおうか、新しいフィットの性能とやらを!」

この後、国道から生活道路に入り、最終的に自宅に着いた時には
59.0km走って、38.7km/l でした。
ハイブリッド車運転するの初めてだったんですが、
新しいフィット凄いです(☆Д☆)
この日は外気温17~19℃ で、いいお天気、お昼の時間帯で車内は暑くて、
エアコンも結構使いました。
それから三連休の初日だったせいで、モタモタする区間も数か所ありました。
今回は燃料も満タンだったし、もっと慣れて条件さえ整えば、リッター40kmは余裕で超えるはず。
あ、飽くまで「この区間では」ですけどね。
しかし一昔前は、リッター10km前後が普通でしたからね。
凄い時代になったものです。
事前にネットでいろいろ見てみたら、
「モーターの特性上、出足のトルクは2,500ccクラス(のガソリン車)並」とありました。
普段1,300ccの非力なクルマばっかし乗ってるオイラ。
アクセル操作が雑だと、つい急に飛び出したりしないかしらん。と心配だったんですが、
アクセルペダルを踏みこんでいくと、ペダルがほどほどに重いので、
不用意に深く踏み込んでしまうこともなかったです。
レビューは既に散々出てますが、新型フィットは「心地良い」がキーワードになっていて、
オイラ的には特に、モーター走行、ドアの開閉、ブレーキ、この3つの質感が非常に心地良いです。
アチコチに開発者の「心地良くしよう」という気持ちが感じられました。
エアコンのツマミの操作感がまたいいんですよ(*´∀`*)
はーずっと回してたいd( ̄∇ ̄*)☆\(--
防衛研究所に行った話 [■旅行記]
開館時間は朝の9時。
毎年この開館時間に合わせて到着していたため、
大都市東京の通勤ラッシュに巻き込まれるのが恒例でした(ノ><)ノヒー!
電車に乗るのも年に数回のオイラは、この巻き込まれだけで疲労困憊してしまうため、
今回は早目に自宅を出て、目的地までの直通電車に乗ったのでした。
8時前、市ヶ谷駅到着。
自宅からずっと座ったままで来れました。
が、それと引き換えに時間が1時間余ってしまいました。
時間までマックで過ごす事に。
2Fには、ノートPC、タブレットをカッコよく使いこなすビジネスマン多数。
流石新宿です。
普段食べつけてるマックだけど、新宿で食べるとなんか味まで違うような。。。
ということで、途中のセブンで昼食を買い、9時に防衛省の門をくぐったのでした。
閲覧申込書を提出し、5冊ずつ資料を受け取っては撮影を繰り返し、
午後3時前、19点の資料から766枚の写真撮影無事終了。
自宅に戻ったのでした。
あー撮り過ぎて首イタイ。
今回は北海道、樺太、千島方面の資料をたくさん撮りました。
現在ちまちま記事作成中です。
ということで、樺太強化月間デスヨ。
長野県・軽井沢ゴルフ倶楽部 [├場所]
2019年10月訪問 2022/1更新

撮影年月日1947/08/13(USA M407 70)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
昭和8年に18ホールが完成した「軽井沢ゴルフ倶楽部」。
上の航空写真は終戦から2年後の同ゴルフ倶楽部です。
詳しくは後述しますが、
赤で囲ったIN9ホールは昭和20年8月1日までゴルフ場として使用しており、
青で囲ったOUT9ホールは、終戦まで陸軍が使用していました。
戦後の1946年11月以降、米軍は軽井沢の主だった施設を次々と接収していくのですが、
その中には当ゴルフ場も含まれており、そのままゴルフ場として米軍に利用されました。
上の航空写真は1947年8月撮影ですから、恐らく米兵がゴルフに興じていたはずです。
■「避暑地軽井沢」111pに当ゴルフ場建設のいきさつが記されていました。
新ゴルフ場の建設
昭和四年には南軽井沢に30万坪のゴルフコース建設の話が持ち上がった。
徳川圀順や三井辨蔵らが、雨宮家の土地を購入する交渉をはじめた。
大正時代にできた長尾原の軽井沢ゴルフ場は六万坪とせまく九ホールであったために、
十八ホールの本格的なゴルフコースをつくろうというものであった。
昭和五年には三井・近衛・細川・鳩山らが発起人となり「財団法人南丘会」を組織し、
雨宮家所有の約五六万坪の土地に、一八ホールを完備したゴルフ場をつくることを企画し、
その周囲の二〇万坪は別荘地として分譲することになった。(中略)
昭和八年、軽井沢ゴルフ倶楽部の十八ホールは完成した。
新コースはどのコースからも浅間山が見え、
離山、押立山などの丘や遠くアルプスの山々迄望めるという素晴らしいコースであった。
昭和8年のオープンでも相当早いと思うんですが、大正8年開場の軽井沢ゴルフ場という大先輩があり、
軽井沢ゴルフ場が旧ゴルフ場、そして当軽井沢ゴルフ倶楽部が新ゴルフ場と称されるようになりました。
「軽井沢物語」337~338pには、終戦末期の軽井沢ゴルフ倶楽部の様子についてこうあります。
新ゴルフ(現在の軽井沢ゴルフ倶楽部)は、
十六年に三百二十二名の会員がいたのだがこの年に二十三名を除名している。
除名されたのは英米人会員だったろう。
翌年には会員二百九十七名で、入場者数三千三百六十人。
つまり、十七年の時点ではかなりの人がゴルフをしていたのだ。
そして、十八年には英米語禁止の命令に対応して、「軽井沢ゴルフ倶楽部」を「軽井沢打球会」、
ゴルフ場を「打球場」と改めた。
また、ゴルフコースを閉鎖するかどうかを検討する特別委員会も十九年に作った。(中略)
そして、この新ゴルフの記録によって、私は瞠目に値する事実を知った。
食糧難によって各地のゴルフ場は閉鎖されて畑と化したのに、
新ゴルフはインの九ホールでプレーを続けていたのだ。
アウトの九ホールは陸軍の飛行学校と食料増産のために陸軍航空本部軽井沢作業隊に貸していた。
残っていたイン九ホールを閉鎖したのは、終戦半月前の二十年八月一日であった。
これは敗戦が決定的であり、国民すべてが極限状況にいたにもかかわらず、
ゴルフを楽しんでいる優雅な人たちがいたことを裏付ける。
OUT9ホールが陸軍の飛行学校と食料増産のために陸軍航空本部軽井沢作業隊に貸していたとあります。
歴史と格式のある名門ゴルフ倶楽部も戦中はヒコーキとの関わりがあったのですね。
因みに陸軍が使用していたOUTコースの南西約1kmに陸軍の「軽井沢飛行場」がありました。
食料増産にせっせと汗を流す人々のすぐお隣では、
別資料からの受け売りですが、終戦末期の時世などとは無関係に、
お手伝いさんを従えて避暑地でゴルフに興じる特権階級-
これが軽井沢の一面ですね。
終戦と共にゴルフ場は接収されます。
接収されていた時期について、「軽井沢物語」391-392pにはこうありました。
この頃に米軍将校たちがゴルフを楽しんでいたのは新ゴルフ(現在の軽井沢ゴルフ倶楽部)である。
第八軍司令官だったアイケルバーガー中将がかなりのゴルフマニアだったのは有名だ。
そんな将校のほかに日本人も交じってプレーしていた。
戦前から米軍接収中の期間、新ゴルフの支配人をつとめた池田忠彦の妻コシナ(八十六歳)が語る。
「米軍が接収したときは草ぼうぼうのありさま。それを米兵が火炎放射器を使って焼き払い、
ゴルフ場に整備したのです。主人は引き続いて支配人をしていましたが、米兵と一緒に
英語ができる地主延之助、白洲次郎といった人たちがプレーしていました。
この頃にまだ戦前の会員はプレーできなかったのです。(中略)
新ゴルフは接収されても従業員は以前と同じ人を雇用し、
また英語がしゃべれる日本人ゴルファーは米軍将校と一緒にプレーできたのである。
白洲次郎は吉田茂と親しく、戦後、GHQと日本政府の中間役の戦後連絡局次長をつとめていた。
地主延之助は、昭和十四年から鳩山秀夫の後任として軽井沢ゴルフ倶楽部の名誉書記となっていた人物である。
旧ゴルフ場は放牧場、一部が飛行場になったのと対照的に、
新ゴルフ場は接収後の米軍によって一流のゴルフ場として維持管理されたのですね。
接収解除後のゴルフ場について、「軽井沢物語」403pにはこうありました。
新ゴルフ(軽井沢ゴルフ倶楽部)は、昭和二十六年十月三十日に米軍の接収が解除となり、
翌年四月一日より同クラブに引き継がれた。
「コースは六年間の接収中、進駐軍において相当の手入れをなし居たため、
引継ぎの際は戦争直前に比するも満足なものでありました」
と会員総会で報告している。
米軍が管理、維持をきちんと保ってくれていたので一流のゴルフコースとなっていたのである。
ということで、終戦と共に放牧場となり、ゴルフ場としては荒れ放題になってしまった旧ゴルフ場とは対照的に、
新ゴルフ場の方は、末期の時期にOUT9ホールが陸軍に使用され、
IN9ホールも終戦の年の8月1日から、恐らく接収後米軍がゴルフ場として使用するまでの間は、
閉鎖されていたのではないかと思いますが、それ以外はほぼ全期間に渡り、
一流のゴルフ場としての運営が続き、現在に至っています。


長野県・軽井沢ゴルフ倶楽部
軽井沢ゴルフ倶楽部 データ
所在地:長野県北佐久郡軽井沢町大字長倉3000
座 標:N36°19′43″E138°37′37″
標 高:960m
(座標、標高はグーグルアースから)
沿革
1929年 南軽井沢に30万坪のゴルフコース建設の話が持ち上がる
1933年 軽井沢ゴルフ倶楽部18ホール完成
1941年 会員数322。23名を除名
1942年 会員数297。入場者数3,360人
1943年 英米語禁止令に対応
1944年 ゴルフコースを閉鎖するかどうかを検討する特別委員会
末期の時期、アウト9九ホールは陸軍の飛行学校と食料増産のために陸軍航空本部軽井沢作業隊に貸す
1945年08月 1日 イン9ホールを閉鎖。戦後米軍による接収
1951年10月 30日、接収解除
1952年04月 1日、軽井沢ゴルフ倶楽部に引き継ぎ
ブログ内関連記事:
旅行記■
軽井沢の飛行場について■
旧軽井沢ゴルフクラブ6番コース(米八軍飛行場跡地)■
この記事の資料:
軽井沢物語
避暑地軽井沢
長野県・佐久市中央図書館 [├場所]
2019年10月訪問
佐久市中央図書館2Fにある「航空図書室」。
郷土出身の元パイロット原野宣喜氏から寄贈されたもので、
文字通り古今東西の航空関連の書籍がビッシリと並んでいます。
オイラはこれまで、こんなにヒコーキ関連の本が並んでいるのを見たことがありません。
飛行原理、戦記ものが充実しています。
ここの蔵書は10,000冊を超えるのだそうで、
新橋にある日本航空協会が運営する、日本で唯一の航空図書館でさえ、所蔵資料は、
単行本10,000冊(洋書4,000 和書6,000)、
逐次刊行物 200種類(洋雑誌45、和雑誌55、資料100)製本雑誌 2,000冊
ですから、これがいかに凄いことか分かろうというものです。
長野県・佐久市中央図書館
佐久市中央図書館 データ
所在地:長野県佐久市猿久保44−1
運用時間:火曜から金曜 午前9時30分から午後6時30分、土日・祝祭日 午前9時30分から午後6時
関連サイト:
公式サイト■
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