朝鮮・群山飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]
(未訪問)2022/7更新
韓国西海岸にある群山(くんさん)空港は、かつて日本陸軍の「群山飛行場」でした。
■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」
の中に当飛行場の要図があり、先頭のグーグルマップはこの要図から作図しました。
要図には、東西970m、南北1,200m方形の飛行地区があり、
その北に付属地区と付属施設、同じく飛行地区の南側に付属地区が描かれていて、
両端の付属地区を含めた南北全体の長さが1,800mとありました。
飛行場の位置については、とっかかりとなる情報が少なくて、数百メートルの誤差があるかもしれません。
同資料にあった情報を以下引用させていただきます。
区分 細部
位置 朝鮮全羅北道沃溝群沃溝面仙緑里
(群山府外南西十三粁)
積量 約八三三二二九平方米
地表の状況 一、芝草の密生良好なるも地表面下凡三十糎水位にして
排水不良雨雪直後の使用に適せざる事あり
周囲の状況 一、南北西外周に拡張の予定地を有する事要図の如し
二、西南隅に存する松林(紫泉台)台は東向着陸を妨ぐる事
大なり買収に関し軍経理部に申請中
三、其の他各方向共進入容易なり
天候気象交感 一、海岸の為朝霧を発生する事あり且海陸風の影響あり
て四六時中風向変化す
二、冬期稍に強風を伴い且降雪ありと云うも新設の為本年冬越せねば不明
格納施設 一、鉄骨一及造二計三棟の格納庫を有し中練計三十機
を収容し得
居住施設 一、分教所施設にして学生七十名収容し得且之に伴う職員
居住及事務其の他の施設完了
交通連絡の状況 一、群山駅-飛行場間十三粁にして飛行場凡そ三粁の手前浜バス
(自動車)一日二回(午前午后)運行するも交通すこぶる不便
二、道路は概ね可なるも自動車片道三十三分余を要す
三、電話(群山一一二八番)施設を有す
営外者住宅の関係 一、場内柵外に近く合同宿舎一棟(六十室)を有し更に一棟増築
二、家施官舎未だなく群山府内に求むるより他になし
其の他 記載無し
■朝鮮交通史 1041p
日本国内では航空機の進展に順応して、行政機構の設置、関連法令の制定と航空保安施設の整
備が行われていたが、朝鮮では昭和4年の日鮮満を結ぶ定期航空路の開設に伴いようやくこれに
取組むようになったが、しかも急速に整備する必要に追われた。(中略)
定期航空開始に間に合うようこれの寄航地は次のように準備されたが、朝鮮の飛行場建設に当
たり特に留意しなければならぬ要点は
(1)冬期に土壌の凍結がひどいこと
(2)梅雨季には豪雨により地盤が軟弱となったり、飛行場が冠水するおそれがあること
等があったが朝鮮内では適当な候補地を得られないので、これが選定に当たっては相当苦慮させ
られ、施工に当たっても予想以上の困難が伴った。(中略)
終戦までに整備した飛行場の概況は次の通りである。
群山飛行場 1047p
群山の海岸砂上地帯で割に平坦な地であったので昔から不時着場として使用していた。軍が飛
行場を建設することとなり軍事費を支出したが、工事設計、監督は航空課に依頼されたので、係
員を派遣して施工させた。
朝鮮・群山飛行場跡地
群山飛行場 データ
設置管理者:日本陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:朝鮮全羅北道沃溝群沃溝面仙緑里(現・全羅北道群山市)
座 標:35°54'46.1"N 126°37'20.4"E
標 高:9m
飛行地区:1,200mx970m
(座標、標高はグーグルアースから、滑走路長さは防衛研究所収蔵資料から)
関連サイト:
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この記事の資料:
朝鮮交通史
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」
朝鮮・永川飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]
2021/10更新(未訪問)
大韓民国慶尚北道永川(ヨンチョン)市にあった「永川飛行場」。
2021/10/3追記:
金 星一さんから情報頂きました。
赤マーカー地点に当飛行場の掩体壕が存在すること、またこの掩体壕は文化遺産として登録されているそうです。
教えて頂いたサイトの情報を以下引用させて頂きます(Google翻訳。下記リンク参照)。
デジタル永川文化大戦
旧永川飛行場格納庫
項目ID GC05100790
漢字の舊永川飛行場格納庫
分野の歴史/近現代、文化遺産/タイプ遺産
タイプ遺跡/建物
地域慶尚北道永川市グムホウプシンウォルリ
時代近代/日本植民地時代
執筆者イジョンジャ
[詳細]
[定義]
慶尚北道永川市グムホウプシンウォルリの日本植民地時代永川地域に戦闘用の飛行機を保持しようと建立した倉庫。
[開設]
格納庫は飛行機を保管したり、整備する目的で建立した倉庫に霊泉の格納庫は規模が小さいことから、小型戦闘機格納庫である。グムホウプシンウォルリとボンジョンリにその痕跡が残っている海抜226.8m峰西・南一帯と標高191.1m峰南側一帯に大規模飛行場が建設されたことを知ることができる。しかし、完成を控えて解放され、現在ではいくつかの基の痕跡だけが残っている状態である。
[位置]
旧永川飛行場格納庫は行政区域で、慶尚北道永川市グムホウプ新月の森の道18にある。大邱で永川?慶州につながる国道4号線に乗って永川市グムホウプを過ぎると、高架道路の下の陸橋に通じる永川市の方面の道路がある。この陸橋を通過して永川警察署に向かって行くと歩道橋が表示される。この陸橋で左折すると、慶尚北道文化財研究院[ユンソンアパートの隣]があり、直進するとすぐ右側に見ると、畑の中の格納庫が見える。
[変遷]
旧永川飛行場格納庫は日本が戦闘飛行場建設のために、全国を対象に物色していたの降雨量が少なく、気候が安定し永川地域に1945年に建設された。しかし、完成を控え、1945年8月15日解放され、建設は中断された。その後放置されたことを、この地域の住民が、現在汎用倉庫として利用している。
2004年文化庁から全国的に実施した近代文化遺産一斉調査事業の一環として、慶尚北道地域の近代文化遺産の調査を慶尚北道文化財研究院で行うことになっ知られるようになった。調査が終わって数年後格納庫の価値が認められ、登録文化財に申請を控えて、土地所有者が現状変更等の理由で残存格納庫の一部を強制的に撤去して、現在完全に残ったのは1基程度である。
[形]
旧永川飛行場格納庫は表から見ると、まるで貝が半分程度の底に埋もれているカキのように見える。正面から見ると半楕円形で生じたが内側に入って行くほど狭くなり、その先端は集められている。構造は鉄筋コンクリート組コンクリート以外の材料は見えない。これは完成を控えて中断されたために、まだ具体的な養生に使われた板材などのモクブジェがついている。入口の幅は15m、長さは14.3m、入口側床から天井までの高さは3.3mである。中に入って行くほど幅と高さが減少する。
[ステータス]
旧永川飛行場格納庫は、現在新月の森の道18の3基があるが、このうち2基毀損され、その跡だけが残っており、1だけ完全に残っている。ここでは、果樹園や畑として利用されているが格納庫は果樹園の耕作ツールを保管する倉庫として利用されている。一方、ここで南東1.5㎞のボンジョンリサテライト町松原に1基とし、現地の北西堤防内1基半壊されたまま残っている。
【意義と評価]
日本植民地時代、日本が韓国に建立した飛行場の格納庫は、複数の場所が、済州島を除けば、本土には永川のみ残存することが知られている。永川の格納庫は規模が小さいことから、小型の戦闘機を保管するために建立したものと判断される。格納庫の入り口は遺跡の価値より日帝治下の病気の歴史を大事にするという意味で歴史的価値が高いと判断される。関係当局との緊密な協力の下に保存案を立てなければならなるだろう。
洛東江の支流琴湖江沿いにあった日本陸軍の飛行場であるため、
リンク先の写真にある通り、ちゃんと陸軍型の掩体壕ですね。
飛行場との距離は直線距離で約2.7kmあり、
しかも山の陰に隠れるような位置ですから、秘匿性が非常に高いと思います。
金 星一さん貴重な情報をありがとうございましたm(_ _)m
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」
の中に当飛行場の要図があり、先頭のグーグルマップはこの要図から作図しました。
図がおおまかなもののため、数百メートルの誤差が生じている可能性があります。
おおよそこんな感じということでご了承くださいませ。
同資料にあった情報を以下引用させていただきます。
永川飛行場
位置 慶尚北道永川郡 東経百二八度四八分 北緯三五度五五分
積量 以下記載無し
地表の状況
周囲の状況
天候気象の交感
施設
交通連絡
其の他
朝鮮・永川飛行場跡地
永川飛行場 データ
設置管理者:日本陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:朝鮮慶尚北道永川郡(現・大韓民国慶尚北道永川市)
座 標:35°55'24.9"N 128°55'33.9"E
標 高:59m
滑走路:630mx340m(18/36)、750mx250m(03/21)
(座標、標高、方位はグーグルアースから)
関連サイト:
デジタル永川文化大戦/旧永川飛行場格納庫■
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この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」
朝鮮・大邱飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]
2020年9月作成 2022/7更新
韓国大邱広域市にある「大邱国際空港」。
かつては日本陸軍の「大邱飛行場」でした。
■朝鮮交通史 1041p
昭和14年現在の飛行場 として、以下記されていました。
滑走地帯(東西・南北)m 1,050 600
■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」
の中に当飛行場の要図があり、先頭のグーグルマップはこの要図から作図しました。
ここも国際空港としてすっかり生まれ変わり、当時の地割が残っておらず、周辺の河をとっかかりに
位置を出しましたので、最大1km程度の誤差が生じている可能性があります。
ご了承くださいませ。
同資料内の情報を以下引用させていただきます。
大邱飛行場
滑走路以外は砂利露出しありて地盤
良好ならず又降雨日数四日余にして軟弱
となり使用■し得ず滑走路堅硬にして
可なり
着陸に支障あり附替を要す
位置 朝鮮慶尚北道達城郡解顔面
積量 約九〇〇.〇〇〇平方米
地表の状況
中央に向い約1/250の勾配あり概ね平坦なるも滑走路外は砂利露
出し良好ならず中央より諸方向(主として南西方)に向い盲排水溝ありて滑
走路外は表面に砂利を露出す
周囲の状況
東西及南方は開濶しあるも北方は山地に近接しありて同方向の離着
陸は不可能なり
天候気象受感
盆地の特性にして夏季風向の変化多し又春■■霧の発生■■
格納施設
一二〇〇平方米二棟
居住施設
兵員収容力一〇〇名
交通連絡の状況
大邱駅より約九粁東村駅より約三粁にして道路良好にして
大邱東村間には「バス」を通ず飛行場より停留所迄約二粁余
なり電話施設あり
営外者住宅関係
合同宿舎分教所近側(飛行場■■■照)に在り
営外者官舎なし、大邱市内に於て借家なし
其の他
一、北西方の道路は人馬荷物の交通多く着陸に危険あり附替を
要す
二、稍狭きを以て更に■■西及南東に拡張するを要す
三、滑走路外は徹底的に補修するの要あり
■朝鮮交通史 1041p
日本国内では航空機の進展に順応して、行政機構の設置、関連法令の制定と航空保安施設の整
備が行われていたが、朝鮮では昭和4年の日鮮満を結ぶ定期航空路の開設に伴いようやくこれに
取組むようになったが、しかも急速に整備する必要に追われた。(中略)
定期航空開始に間に合うようこれの寄航地は次のように準備されたが、朝鮮の飛行場建設に当
たり特に留意しなければならぬ要点は
(1)冬期に土壌の凍結がひどいこと
(2)梅雨季には豪雨により地盤が軟弱となったり、飛行場が冠水するおそれがあること
等があったが朝鮮内では適当な候補地を得られないので、これが選定に当たっては相当苦慮させ
られ、施工に当たっても予想以上の困難が伴った。(中略)
終戦までに整備した飛行場の概況は次の通りである。
大邱飛行場(1043p)
昭和10年より土地買収にかかり、昭和12年1月開場した。
大邱の西方8kmに在り約20万坪の面積があった。同地区は水田地帯が多く地盤軟弱であり排
水設備には特に注意し、後日マガダム滑走路2本を又字型に建設した。昭和15年には50万坪に
拡張し大刀洗陸軍飛行学校分教場も設置されたが、日鮮を結ぶ最短距離にあったので、重要飛行
場として最後まで活用された。
■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行
の中で、「本邦定期航空現況(昭和十三年十二月現在)」として以下記されていました(6コマ)■
経営者 大日本航空株式会社
航空線路 東京-大連
区間 東京-名古屋間 毎日三往復
名古屋-大阪間 毎日三往復
大阪-福岡間 毎日二往復
福岡-大邱間 毎日一往復
大邱-京城間 毎日一往復
京城-平壌間 毎日一往復
平壌-新義州間 毎日一往復
新義州-大連間 毎日一往復
線路開設年月 昭和四年四月
■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行
の中で、「本邦飛行場一覧(昭和十三年十月現在)」として以下記されていました(8コマ)■
名 称 大邱飛行場
経営者 國
所在地 朝鮮慶尚北道達城郡解顔面□□洞
水陸の別 陸
滑走区域 東西九五〇米 南北六〇〇米
備 考 (記載無し)
■朝鮮交通史 1034p
大邱-福岡線
朝鮮海峡が敵潜水艦に蹂躙され、海上航行が不安となったので、
航空機に依る連絡の必要性を認め朝鮮と日本を最短距離である
大邱-福岡間に定期航空便を開設することとなり
昭和19年4月より毎日2往復の運航を開始したがさらに毎日3往復に
増便した。補助金は、次の通り要求してある。
京城(ママ)-福岡線 補助金
19年度補助金 1,305,000円
20年度補助金 1,417,000円
朝鮮・大邱飛行場跡地
大邱飛行場 データ
設置管理者:日本陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:朝鮮慶尚北道達城郡解顔面(現・韓国大邱広域市)
座 標:35°53'52.9"N 128°39'27.3"E
標 高:33m
滑走路:800mx145m(12/30)、700mx150m(09/27)
(座標、標高、滑走路長さはグーグルアースから、方位は地理院から)
沿革:
1944年04月 海上航行が不安となったため、福岡との定期航空便開設。毎日2往復、後に毎日3往復
関連サイト:
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この記事の資料:
朝鮮交通史
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」
朝鮮・蔚山飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]
(未訪問・2024/8更新)
韓国南東部の蔚山(ウルサン)市。
かつてここに日本陸軍の「蔚山飛行場」がありました(「蔚山空港」は北北東約5.5kmにあります)。
■朝鮮交通史 1041p
日本国内では航空機の進展に順応して、行政機構の設置、関連法令の制定と航空保安施設の整
備が行われていたが、朝鮮では昭和4年の日鮮満を結ぶ定期航空路の開設に伴いようやくこれに
取組むようになったが、しかも急速に整備する必要に追われた。(中略)
定期航空開始に間に合うようこれの寄航地は次のように準備されたが、朝鮮の飛行場建設に当
たり特に留意しなければならぬ要点は
(1)冬期に土壌の凍結がひどいこと
(2)梅雨季には豪雨により地盤が軟弱となったり、飛行場が冠水するおそれがあること
等があったが朝鮮内では適当な候補地を得られないので、これが選定に当たっては相当苦慮させ
られ、施工に当たっても予想以上の困難が伴った。(中略)
終戦までに整備した飛行場の概況は次の通りである。
蔚山飛行場(1043p)
第1期工事は昭和3年約6万坪を買収、昭和10年約4万坪拡張した。
水田地帯に造られていたので降雨期の浸水を防止するため高い堤防を築いた。600mの滑走路
では就航機の離着陸が非常に困難であったので第2期工事で拡張したのであるが、昭和12年に
は就航機がさらに大型化し、定期航空機の使用ができなくなったので定期航空の寄港地を大邱に
変更し、本飛行場は陸軍の野外飛行場として使用された。
先頭のグーグルマップは、同書1041p「蔚山飛行場概略図」から作図したものです。
また、「昭和14年現在の飛行場」として、以下記されていました。
滑走地帯(東西・南北)m 600 600
備考 陸軍用用地を含む
■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」
に当飛行場の要図があり、先頭のグーグルマップはこの要図から作図したのですが、
飛行場跡地周辺はすっかり都市開発が進み、飛行場の地割が欠片も残っていません。
また、当地は太和江の河口付近に位置しているのですが、港や湾の形も大きく変わっています。
結局基準点は、約10km離れた海岸線をとっかかりにしたため、位置の精度がかなり低いと思います。
最大500m程度のズレがあるかも。
おおよそこんな感じということでご了承くださいませ。
同資料にあった情報を以下引用させて頂きます。
判決
不時着陸に使用するを可とす
東西方向 750mx200m
南北方向 800mx200m
位置 朝鮮蔚山郡蔚山邑三山里
積量 一一二,二七六平方米
地表の状況
地盤南北方面は堅硬なるも東西方面は
時季に依り軟弱なることあり
南方半分目下工事中
周囲の状況
北側一五〇.〇米-二〇〇.〇米離れ大和江の高さ
四.〇米の堤防あり
南西側に一〇〇.〇米-一五〇.〇米に高さ八米の電
燈及電話線あり
標高五一.〇米の鶴成山あり
天候気象 交感
雨期に於て浸水することあり
施設
記載無し
交通連絡
記載無し
其の他
記載無し
■朝鮮交通史 1033p
表2 鮮内飛行場利用状況より:蔚山飛行場
昭和4年度 | 昭和5年度 | 昭和6年度 | 昭和7年度 | 昭和8年度 | ||
航空機 |
到 着
出 発
|
174
201
|
435
445
|
608
610
|
619
623
|
601
608
|
旅 客 |
到 着
通 過
出 発
|
78
43
101
|
176
673
219
|
238
1,017
254
|
216
1,425
207
|
231
1,438
259
|
貨 物
kg
|
到 着
通 過
出 発 |
13.10
86.55
9.00
|
243.49
1,536.81
23.00
|
731.75
8,287.00
102.42
|
519.55
10,458.45
236.56
|
1,382.88
13,584.23
3,422.10
|
郵便物 kg |
到 着
通 過
出 発 |
870.59
170.46
800.31
|
359.77
3,411.53
292.64
|
851.70
7,413.39
438.75
|
1,171.93
17,193.72
593.77
|
2,441.64
44,622.37
735.96
|
不定期
航空機
|
到 着
出 発 |
35
27
|
26
18
|
83
78
|
119
90
|
123
124
|
■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行
の中で、「本邦飛行場一覧(昭和十三年十月現在)」として以下記されていました(8コマ)■
名 称 蔚山飛行場
経営者 國
所在地 朝鮮慶尚南道蔚山郡蔚山邑三山里
水陸の別 陸
滑走区域 東西六〇〇米 南北六〇〇米
備 考 (記載無し)
■終戦間近の蔚山飛行場のこと
寺嶋さんから情報頂きました。
このお話の主役はNさんです。
Nさんは第9練習飛行隊・陸軍少年飛行兵16期甲を出ておられ、
終戦時、この蔚山飛行場におられた方で、
現在は寺島さんのご近所にお住まいで、
近所だったらクルマの運転されるほどお元気とのことです。
これは昭和20年2月以降のお話です。
終戦の年なので、もう戦争の敗色が濃く、物資も少なくなっていた頃です。
(1)
うるさんは、もう本当に村だった。
さびしい村。
商店があって買い物は出来たけど、寂しいところ。
(2)
川沿いに飛行場があった。
粗末な飛行場。
陸軍の飛行場は舗装がされていない。
軽い練習機が飛ぶだけの飛行場。
本州から退避してきた飛行機は、地面が良くなかったので
着陸に失敗して頭からつっこんでいる飛行機が、滑走路のはじに何機もあった。
(3)
加藤清正(熊本城を築城した人物として有名)が
朝鮮出兵の時に城を造ったという城跡にも行ったことがあるが、
何もなかった。(小高い丘)
水場の跡のようなところがあった。
(4)
練習機は、赤とんぼではなくて、黒トンボだった。
(迷彩色の深緑に塗装されていた)
(5)
飛行訓練は、燃料不足で、ほとんど行われなかった。
飛び終わった後の練習機を、リンゴ畑の中に隠すのに、押してばかりだった。
押して隠した後は、夜通しの番兵。大変だった。
(6)
給与(食事)はとても悪く、いつも腹を空かせていた。
(7)
港から物資を運ぶトラック(日産、当時の正式な呼び方はダットサンか?)
が故障してばかりで、港から米を運ぶ作業があった。つらくて大変だった。
総じて、蔚山の思い出は良くない思い出、つらい思い出ばかりで、
忘れてしまったということです。
(不思議なものですね。人間って。東航の少年飛行兵学校のことは、本当に良く
覚えているのですが、宇都宮と蔚山のことは、つらい思い出ばかりで、
忘れちゃうんですね)とのことでした。
ちなみに、この時代の写真は当時は持っておられたそうですが、
朝鮮から復員する時にすべて燃やしたそうです。
「航空隊、しかも空中勤務者だということが分かったら、どんな事があるか分か
らない」ということで、皆さん、写真は残っていません。
(それ以前に「内地」の実家とかに送った写真は、残されているようです)
寺嶋さん貴重な情報をありがとうございましたm(_ _)m
朝鮮・蔚山飛行場跡地
蔚山飛行場 データ
設置管理者:日本陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:朝鮮蔚山郡蔚山邑三山里(現・蔚山広域市南区三山洞)
座 標:35°32'39.6"N 129°20'03.2"E
標 高:8m
滑走路:750mx200m(09/27)、800mx200m(18/36)
(座標、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)
沿革
1928年 土地買収
12月 2日、開港式。滑走路南北600m。後に東西方向600m
1929年04月 1日、日本航空輸送、運航開始
1930年07月 航空無線局設置
1937年 (大邱飛行場開設)
1938年 不時着場となる。その後日本陸軍が買収
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朝鮮交通史
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」