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東京都・国産飛行機発祥の地 [├場所]

   2020年12月訪問  





東京都新宿区、首都高の高架沿いに「国産飛行機発祥の地」の説明版があります。


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(全文)新宿区指定史跡 国産飛行機発祥の地
所在地 新宿区西五軒町三十四番地 指定年月日 昭和六十年十二月六日

 この地は、明治四十二年(一九〇九)~四十三年(一九一〇)にかけて、陸軍大尉日野熊蔵(一八七八~一九四六)により初の国産飛行機「日野式一号機」が制作された林田商会(後の日本醸造機械株式会社)の跡である。
 明治時代末、飛行機が欧米各国で急速な進歩をとげている様子を見て、日野大尉はその将来性に着目し、全く独力でイギリス・アメリカ・ドイツ・フランスの文献を参考にして飛行機用発動機と機体の設計・制作に着手し、明治四十三年二月にこの地で完成した。
 一層式で翼長約八メートル、全長約三メートル、発動機は二衝程空冷式八馬力を搭載し、完成まで三ヶ月の期間と約二〇〇〇円を費やした。
 大尉はこの飛行機に自ら搭乗し、明治四三年三月十八日、戸山ヶ原で、日本で初めての国産飛行機の実地飛行試験に成功した。
 平成二十八年十二月二日 新宿区教育委員会

ライト兄弟の人類初飛行が1903年12月でしたから、僅か6、7年後にこの場所で国産機が制作されたことになります。

前記事の奈良原1号機が完成したのは、明治43年10月下旬、

そして戸山が原練兵場にて完成した奈良原式1号機の試乗が行われたのは、同10月30日。

一方、日野式一号機が完成したのは、明治43年2月、

そして戸山が原練兵場にて完成した奈良原式1号機の試乗が行われたのは、同3月18日。

制作と試乗は日野氏の方が7か月ほど先行していたのですね。



     東京都・国産飛行機発祥の地         

所在地:東京都新宿区西五軒町12-10

沿革
1909年11月 陸軍大尉日野熊蔵、この地で「日野式一号機」制作
1910年02月 「日野式一号機」完成
     03月 18日 実地飛行試験
1985年12月 6日 新宿区指定史跡指定年
2016年12月 2日 説明版設置?

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この記事の資料:
現地の説明版


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東京都・戸山が原練兵場跡地 [├場所]

   2020年12月訪問  



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1/20000「東京首都」明治42年測図「今昔マップ on the web」より作成


東京都新宿区、学習院女子大のある辺り一帯は、かつて尾張藩徳川家の下屋敷だったのですが、

明治維新で明治政府に明け渡され、跡地は陸軍戸山学校、練兵場となりました。

以前もどこかに書いた気がしますが、ココはヒコーキ的に歴史上のIFの場所です。

「飛行機の国内初飛行」は明治43年12月19日、フランス製のアンリ・ファルマン機によるもので、

国産機による国内初飛行」は、それから遅れること4ヵ月と17日後の明治44年5月5日のことでした。

西洋文化を必死で模倣する当時のことですから、国産機のが遅れるのは当然で、

寧ろ、たった4ヵ月ちょいの遅れしかなかったのか。というのが個人的な印象でした。

ところが、実はフランス製のヒコーキよりもっと早く、国産機がこの場所で飛んでいたかもしれないのです。

「南国イカロス記 かごしま民間航空史」22~27pにかけて、その事を詳しく扱っていました。

 
この記事の主役である奈良原三次は、明治37年に飛行機の研究を始め(ライト兄弟初飛行は明治36年12月)、

翌明治38年には推力に花火を使った模型飛行機の飛行実験を行います。

同年東京帝国大学工学部造兵科入学。

明治41年3月に卒業すると、海軍中技士として横須賀海軍工廠造兵部に奉職。

飛行機の研究にのめり込みます。

同明治41年7月30日 日本軍部は臨時軍用気球研究会設立すると、奈良原もこの研究会委員に加えられました。

研究会の仕事もしつつ、自作機「奈良原式1号」の製作も行っており、

奈良原式1号機の主翼骨組みなどは、主として四谷の父・繁男爵邸の庭先や玄関前で行われていたようですが、

後に臨時軍用気球研究会御用・東京飛行機製作所を新宿角筈の十二社に設立しました。

奈良原式1号機はここで製作が続けられます。

開発は順調だったのですが…

 フランスに発注したノーム五〇馬力エンジンがどこで間違ったのか、手元に届いたのはアンザニー二五馬力エンジンであった。半分の馬力ではどうしようもないと思ったが、ともかく1号機に装備して試乗してみるしかなかった。
 奈良原三次が1号機を完成するのに、二千円の費用がかかった。はなはだ高価なようだが、二か月後の十二月、徳川好敏陸軍工兵大尉がフランスから持って帰ったアンリ・ファルマン複葉機は八千三百六十三円、日野大尉のドイツ製グラーデ単葉機が五千百九十六円であったのにくらべると、国産機だけに安く仕上がったといえるだろう。

奈良原1号機が完成したのは、明治43年10月下旬でした。

そして戸山が原練兵場にて完成した奈良原式1号機の試乗が行われたのは、同10月30日。

うわさを聞き伝え大勢の見物人が押し掛けてきた。
 生前の田中良の証言(メモ書きをもとにした口頭)によると、その日アンザニー二五馬力エンジンの調子が悪く、まわってもすぐ停止してしまい、継続的に回転し出したときは夕暮れが迫っていた。
 機上に上った奈良原三次は、真剣そのものの表情で全速滑走した。田中良は、はじめから終わりまで、1号機に寄り添ってでこぼこの練兵場を駆けまわったので、息切れがした。1号機の後ろから、大勢の見物人が一緒になって追いかけた。危険きわまりない。だれも飛行機が飛ぶのを見たことはないから、羽根のはえた珍奇な自動車程度の認識しか持っていないのだ。
 しかしようやく勢いがつき、少なくとも三〇㌢は地面から離れた、と田中良は証言し「国産機が最初に飛行した歴史的なことである」といい「第1号機が飛行に失敗したと記すものがあるがこれは誤りである」というメモを残している。直接の関係者としては当然の気持ちに違いない。もし現在の飛行場のように平坦な場所だったら、あるいはもう少し高く浮揚したかも知れないが、三〇㌢程度の浮揚では、飛行というのは無理な気がする。とはいえ再発注したノーム五〇馬力が手にはいれば、絶対に飛べるという自信がついたようであった。

この奈良原式1号機、後に届いた50馬力エンジンに積み替え、奈良原の弟子がこれで練習飛行を重ねました。

注文通りのエンジンさえ届いていれば、やっぱりちゃんと飛べたのです。

前述の通り「飛行機の国内初飛行」は、明治43年12月19日、ここから4km程先の代々木練兵場のことで、

欧州まで出向いて操縦法を習得し、フランス製とドイツ製のヒコーキを購入して帰国したものによるのですが、

もしも、奈良原式1号機のエンジンが25馬力ではなく、発注通り50馬力のものがちゃんと届いていれば、

フランス製のヒコーキ初飛行より1ヵ月と20日早く国産機が飛んでおり、

代々木練兵場ではなく、ここ戸山が原練兵場が、「国内初飛行の地」として歴史に名を刻んだかもしれません。

因みに「国産機による国内初飛行」は、明治44年(1911年)5月5日、完成したばかりの所沢飛行場にて、

ノーム五〇馬力エンジン搭載の奈良原式2号機が達成したのでした。

…奈良原氏凄い。


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赤マーカー地点(2枚とも)。

跡地南側の戸山公園から。

練兵場の飛行場適地は現在完全に学習院女子大学になっています。

オイラにとってはその学校名からして、高さ50mの(見えない)壁で囲まれているように感じてしまうのですが、

ご覧の通りで塀が巡らされ、入り口では内部を撮影する不審な輩が現れないか常に警備員が目を光らせており、

中を伺うことができませんでした。

戸山公園から当時の練兵場方向を撮ったものですが、せめてもの。ということで。



     東京都・戸山が原練兵場跡地         
戸山が原練兵場 データ
設置管理者:陸軍
所在地:東京都新宿区戸山3丁目
座 標:N35°42′23″E139°42′42″
標 高:28.4m
着陸帯:東西370m 南北205m(不定形)
面 積:5.58ha
(座標、標高は今昔マップ、着陸帯長さ、面積はグーグルマップから)

沿革
1910年10月30日 奈良原式1号機試乗

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この記事の資料:
「南国イカロス記 かごしま民間航空史」


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東京都・青山練兵場跡地 [├場所]

   2020年12月訪問  



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1/25000「東京西部」大正5年測図8年鉄補・大正8.10.30発行「今昔マップ on the web」より作成


東京都新宿区と港区にまたがる明治神宮外苑。

ここに青山練兵場があり、国内の航空黎明期にはしばしばヒコーキが飛んでいました。

明治45年(1912年)、当練兵場にて5月11、12日に無料公開飛行が行われました。

白戸栄之助の操縦する奈良原式4号鳳号により実施されたものだったのですが、

帝都中心地での国産機初飛行であるばかりか、皇族の御台臨もあったのでした。

大正期に入ると、アート・スミスが当練兵場で曲芸飛行を披露しました。

その時の様子について、「南国イカロス記 かごしま民間航空史」69pには次のように記されていました。

 アート・スミスが最初に来日したのは、鹿児島にくる一年前の大正五年(一九一六年)三月十八日であった。スミスは、カーチス式複葉プッシャー(推進式)二機を持参した。二機ともカーチス式OX九〇馬力発動機を搭載した普通の型式だが、曲芸飛行にたえられるように、油送管を二本にして一本を輪にし、宙返り飛行中でも間断なく燃料補給が出来るように工夫してあった。
 来日したスミスは、四月一日から四日までかかって、千葉県国府台で丹念に機体を組み立て、試験飛行をくりかえした。青山練兵場で飛行大会が催されたのは、四月八日(土)から三日間であった。
 奈良原三次の無給助手だった伊藤音次郎は、スミスの飛行大会より三か月前の一月八日に、みずから設計製作した伊藤式恵美第1型(通称「恵美」号)で、稲毛から海上往復五十五分の帝都訪問飛行に成功し、新進飛行家として認められるようになっていた。伊藤音次郎は、一番弟子の山縣豊太郎を伴い、青山練兵場へ出かけていった。その時の模様は、伊藤音次郎日記によろう。
 『四月八日、土曜、晴風なし。(中略)昼食もぬきにして、二時の開会から第一回の宙返りを見た。話し程に思わなかった。その内、場内整理の為追出された。名刺を出そーと思(っ)たが馬鹿馬鹿しいので、もくして出た。そして第二回のを見た。垂直らせん降下はうまいと思った。横転でも、すべてないるすよりきびんであっただけ、素人受する飛び方であった』
 飛行大会当日の入場者は、二十万人を超えた。入場料は特等五円、一等三円、普通一円である。

1年後の1917年4月に再来日したアート・スミスは、

ここ青山練兵場の観衆12万人の前で再び曲芸飛行を披露しています。


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赤マーカー地点。

100年以上昔ここから練兵場が広がっていて、国産機が初お披露目を行い、

また二十万を超す観衆が見守る中、曲芸飛行大会が繰り広げられました。




     東京都・青山練兵場跡地         
青山練兵場 データ
設置管理者:日本陸軍
種 別:練兵場
所在地:東京都新宿区霞ヶ丘町、港区北青
座 標:35°40'32.7"N 139°43'07.1"E
標 高:33m
着陸帯:1,000mx550m不定形
面 積:52ha
(座標、標高、着陸帯長さ、面積はグーグルアースから)

沿革
1912年05月 11、12日無料公開飛行。奈良原式4号鳳号・白戸栄之助操縦
1916年04月 8日から3日間、アート・スミスによる飛行大会
1917年04月 25日 アート・スミスによる飛行大会

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この記事の資料:
「南国イカロス記 かごしま民間航空史」


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東京に行った話 [■旅行記]


Ⓙ自宅→Ⓑ青山練兵場跡地→Ⓒ戸山が原練兵場跡地→Ⓓ国産飛行機発祥の地→Ⓔ防衛研究所→Ⓕ写真展→Ⓖ平和台図書館、補助飛行場跡地→Ⓗ江戸川飛行場跡地→Ⓘ珍来→Ⓙ自宅


2020年2月初旬に熱海に行って以来、埼玉県内から一歩も出ておらず、

少なくとも年内はこのまま大人しくしていよう。

と思っていたのですが、12月に入ってから、急遽仕事で都内へ、翌日にもまた仕事で茨城へ、

その翌週には、新宿で開催の日本航空写真家協会2020写真展SKY MOMENTSに入賞した師匠からご招待頂き、

反動のように脱埼玉が続きました。

せっかく新宿まで行くのなら。ということで、ついでにあちこち寄ってきました(メインは写真展)。

 
3:40 自宅発

歳のせいか、もういくらでも早く起きれる。

気温-1℃

東京の日の出は6:45なので、その頃までに最初の目的地である神宮外苑に着けば良い。

そう考えての3:40出発だったのですが、途中まで進んだ所で、1時間以上早く到着しそうなことが判明。

都心のコンビニは駐車場なんてないのが当たり前だし、新宿のコインパーキングに長時間停めるのは避けたい。

ということで、都内だけどかろうじて駐車場のある、Dのマークのコンビニで朝食、昼食を購入するついでに

仮眠をとらせて頂きましたm(_ _)m


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神宮外苑到着。

広々とした道の両側には駐車車両がポツポツと。

イチョウ並木通りとなっている歩道は、未だ薄暗いうちから大勢のランナーに踏みしめられ、

分厚い真っ黄色の絨毯のようでした。


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歩いてすぐの所にあるホンダ本社ビル。

青山練兵場跡地、戸山が原練兵場跡地、国産飛行機発祥の地を見学。


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戸山公園にて。

8:10 防衛研究所隣のコインパーキング着。

ここでも冷え切った車内でしばし仮眠。

寒い…寒いよパトラッシュ…

9:00 開門に合わせて、防衛研究所へ。

防衛研究所もコロナ対策で、メールにて事前予約制になってました。

事前予約の際、閲覧したい資料も同時に予約できるようになっていて、

資料閲覧室に入ると、既に予約していた資料が準備してあり、

すぐに閲覧できました。

また、使用できるテーブルも指定制になっていて(これまでは自由だった)、

一畳程もあろうかという大きなテーブルを1人で占領して使えるようになってました。

これまでは資料閲覧室に入ったら、閲覧したい資料を用紙に記入して提出すると、

書庫?から出してくれるまで、ある程度時間がかかったので、非常にスムーズです。

このシステムはそのまま残してくれないかしらん。

資料を受け取ったら、今度は複写申請用紙に記入して、複写室で資料を撮影します。

この複写室は締め切った小部屋のため、換気が良くないのですが、
 
扇風機が設置されていて、時に強く、時に優しく、ファジーな風が室内を流れるのでした。

それはいいんだけど、強い風で資料がめくれる~Σ(;゚Д゚)

ということで12時まで資料を撮りまくり、次に本日のメインイベント、写真展に(徒歩で)向かったのでした。

師匠にいろいろ解説して頂いて写真展鑑賞後、コインパーキングに戻って、車で練馬区に移動することに。

13:30に車を出したのですが、5時間ちょい停めて、2,090円でした。

これ位の金額なら、まあアレかな。新宿だし。

練馬の図書館で下調べをして、成増飛行場の補助滑走路を撮り、日没までに間に合いそうだったので、江戸川区へ。

ギリギリセーフで無事に撮影を済ませ、本日のミッションコンプリート。

八潮市のラーメン屋さん「珍来」へ。

ここの店には、会議に出席するために近くまで来たついでに毎年数回は来ていたんですが、

その会議もリモートになったため、2020年初の来店となりました。

通い始めて20年以上になるのですが、こんなガラガラな店内は初めて。

ラーメン屋だけど、オイラは麻婆丼一択。

大好きな麻婆丼を堪能し、自宅に戻ったのでした。

おしまい。


本日の走行距離:181.1km

ということで、3月初めまで「東京強化月間」デスヨ。

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