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東京都・江戸川飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2020年12月訪問  



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1/25000「船橋」昭和7年要修・昭和7.10.30発行「今昔マップ on the web」より作成


東京都江戸川区、江戸川河川敷にあった「江戸川飛行場」。

奈良原三次と伊藤音次郎の子弟コンピが昭和10年に設置許可を得た飛行場です。

ややこしいですが、戦時中にはすぐ南側に「篠崎飛行場」がありました。

「江戸川飛行場」については、ググっても出て来ず、場所を明示した資料も見つかりませんでした。

自力でなんとかしなければなりませんのだ。

後述しますが「南国イカロス記 かごしま民間航空史」の中に場所特定の手掛かりとして、

①昭和9年(1934年)6月使用申請書提出
②千葉県・市川鉄橋の下流2km
③東京市江戸川区篠崎町の江戸川河川敷
④河川敷は、南東から北西に最長距離1,000m、幅300m(の平坦地)
⑤面積75,600坪(24.99ha)の平坦地

とあります。

①昭和9年(1934年)6月使用申請書提出 なんですが、

上に貼った今昔マップは、ちょうど昭和7年のものなで、申請書提出の2年前に当ります。

時期的に奈良原、伊藤両氏が調査して、「よし、ここにしよう」と決めたタイミングに非常に近いです。

で、この地図から条件に合う場所を探したのでした。

①~⑤の条件をザッと見たところ、候補地は上の地図に示したAとBの2か所となりました。

②千葉県・市川鉄橋の下流2km とありますが、この「市川鉄橋」というのがドレなのか確実なことは不明です。

上に貼った地図の上流側に市川駅があり、駅のすぐ西側に江戸川を渡る鉄橋があります。

これが「市川鉄橋」と仮定して話を進めますが、

A→市川鉄橋の下流2km
B→市川鉄橋の下流3km

という位置関係になります。

③東京市江戸川区篠崎町の江戸川河川敷 とありますが、

江戸川の左岸は千葉県、右岸が東京市江戸川区であるため、

右岸側の河川敷ということになります(上の地図だと川の西側)。

東京市江戸川区という条件はA,Bどちらも満たしているんですが、

江戸川区の特に篠崎町となると、上に貼った昭和7年の地図では、Bの辺りが篠崎町です。

④河川敷は、南東から北西に最長距離1,000m、幅300m(の平坦地)

この条件は、A,Bどちらも満たしています。

⑤面積75,600坪(24.99ha)の平坦地 とありますが、実際に作図して面積を出してみたところ、

A→24.9ha
B→20.4ha

となりました。

Aの方は、敷地の北側部分にちょうど水路?があり、ここを飛行場の境界とすると、ピッタリ24.9haになりました。

実はちょい南側の「笹ヶ崎」にも飛行場敷地を分断するように水路がありますが、暗渠化すればイケるかと。

Bは、この場所で平坦地としてとれる最大限の広さで作図したのですが、それでも20.4haにしかなりませんでした。

ということで、Aの部分が、①~⑤の条件のうち、

③東京市江戸川区篠崎町の江戸川河川敷 以外を全て満たしています。

(どういうこっちゃ??)と思ったのですが、同じ場所を昭和20年の地図でみたら、

Aの西側の地名が、「上篠崎町」、「北篠崎町」、「西篠崎町」となっていました。

そんな訳で、Aの部分が「江戸川飛行場」だったのではないかと思います。

「南国イカロス記 かごしま民間航空史」131pに当飛行場開設のいきさつ等出ていました。

以下引用させて頂きます。

 昭和九年(一九三四年)六月、日本軽飛行機倶楽部は、千葉県・市川鉄橋の下流二㌔のところに
ある、東京市江戸川区篠崎町の江戸川河川敷を飛行場として使いたい、という申請書を東京市に
提出した。明治四十五年五月、千葉県稲毛に民間飛行場を開場してから二十二年になる。大勢の
若者たちが、不便を耐え忍びながら干潟飛行場で訓練を続けてきた。満潮時は飛べず、干潮時と
いっても残り水の飛沫(ひまつ)をあびなければならないのだ。しかし軽飛行機が実用時代にはい
ってき、いずれはエアタクシー計画も実現したい。それには完全な飛行場がほしい。奈良原三次
と伊藤音次郎がコンビで踏査した江戸川河川敷は、南東から北西に最長距離一〇〇〇㍍、幅三〇
〇㍍、面積七万五千六百坪(二四万九四八〇平方㍍)が平坦だし、江戸川放水路開設から十数年にな
るが出水の被害もなく、地質も良好であった。
 奈良原三次と伊藤音次郎は、せっせと関係方面の説得に走りまわった。
 一年後の昭和十年六月、江戸川飛行場の設置が許可になった。それを機に、日本軽飛行機倶楽
部ではグライダー部を新設し、東京帆走(グライダー)飛行研究会と命名し、奈良原三次が会長を
兼務した。
伊藤と共に、飛行機の大衆化をはかるには、飛行機に乗る前に費用その他から、着手しやすいグラ
イダーを提供しようというのである。グライダーは、大正十一年(一九二二年)に伊藤式第1BO
型を設計製作して以来、セコンダリー、ソアラーと技術的にも進歩し、各団体で愛用されるよう
になっていた。それらを、津田沼とは異なり、満干の悩みのない常設練習場で飛ばすことが出来
るのだ。

干潟は干潟で苦労があったのですね。

「日本軽飛行機倶楽部」という初耳の倶楽部についても、「南国イカロス記 かごしま民間航空史」

の中で、124p以降次の様に記されていました。

 昭和元年(一九二六年)十二月二十六日から、伊藤音次郎は津田沼の伊藤飛行機研究所の経営指
揮を英仏留学から帰国した稲垣知足技師長にまかせ、自分は銀座二丁目に東京出張所をもうけ、
対航空局折衝と営業活動に専念することにした。
 翌昭和二年七月中旬、伊藤飛行機研究所改め伊藤飛行機製作所東京出張所の看板を見て訪ねて
きたのが、思いもかけず師の奈良原三次であった。オートジャイロ模型の写真を持参し、試作を
依頼にやってきたのだという。それにしては身なりが少しくたびれていたし、いくらか面やつれ
もしていた。そのくせ、身なりのいい取り巻きをを一人つれていた。東京飛行機製作所支配人・住
吉貞次郎の子分で、丹藤といい、伊藤音次郎には見覚えがあった。
 それはともかく、実直な伊藤音次郎は、かつての師が困窮生活の中にいても相変わらず空飛ぶ
機械に打ち込んでいる姿に感動し、いっそのこと三河島を引きはらい、今一度航空事業に手を染
めていただけませんか、と申し出た。できれば、懸案の軽飛行機倶楽部が設立されたら会長に推
挙したい、と思ったのだ。いささかの恩返しにもなるではないか。伊藤音次郎は、千葉県市川市
市川新田二四六番地に家を買い求め、奈良原三次一家に移り住んでもらうことにした。
 懸案の日本軽飛行機倶楽部というのは、次のような趣旨のものであった。
『今や航空機は国防上又文化生活上重要なる役目を帯び将来益々人生に欠くべからざるものとな
る事は今更申すまでもありません。
 欧米列国に於ては最も此航空事業に力を尽しその進歩を期し常に飛行大会、ラヂオ放送、講演
等あらゆる方法を以て普及に努力して居ります。
 航空思想の普及は最も青少年に必要であり又理解せしめ易いので烱眼なる英政府は先づ各小学
校に航空講演の巡回講話をなし且つ同乗飛行を実験せしめその安全にして愉快なる事を理解させ
て将来の基礎を作り又青少年男女の為には最も低廉なる経費と多数の時間を以て懇切に操縦術を
授け有事の際国防第一線に立つべき空の勇姿を挙国的に養成するのが目的であります。(中略)
 我帝国の位置より見て優秀なる飛行国として立たねばならぬ地勢でありながら独り航空事業の
みが一般から継子扱ひにされて居るのは財政上の障害もあらうが要するに国民の航空機に対する
理解のない為めであります』(顧問 陸軍中将・長岡外史、発起人代表 伊藤音次郎)

日本軽飛行機倶楽部が設立されたのは、昭和五年(一九三〇年)一月十五
日で、奈良原三次は陸軍中将・長岡外史、陸軍工兵大佐・徳永熊雄、実
業家・児玉静治と共に顧問に就任した。
 以後一年間に、十一人の操縦士を養成した。航空免状を取得したのはその中の六人で、二等飛
行機操縦士二人、三等飛行機操縦士四人であった。
 翌昭和六年(一九三一年)四月二十一日、倶楽部組織変更について東京・芝田村町の飛行館で初
会合を催し、代表・伊藤音次郎は常務理事となり、会長には奈良原三次が就任した。(中略)
 奈良原三次は『会報』第三号に『会長を承はりて』という文章を書いた。
『(中略)新飛行機の製作、新飛行計画等々の実施に努めませう。』
 みずから設計製作した飛行機で、つまり国産機でわが国最初の飛行に成功した人だけに、五十
五歳で会長に据えられても、決して名前だけでなく、先頭に立って航空発展のために力を尽くす
のだ。(中略)
 ともあれ日本軽飛行機倶楽部は、昭和十六年三月民間における操縦練習の打ち切りが発令され
るまでに、九十二人の免許取得者を卒業させるのだ。(中略)
奈良原三次は日本軽飛行機倶楽部発展のため積極的に動きまわっ
た。二等飛行機操縦士奨励金問題では、伊藤音次郎常務理事と共に上京し、逓信省その他に対し
熱心な運動を展開した。彼は少しも骨惜しみしなかった。

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赤マーカー地点(2枚とも)。


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今からおよそ90年ほど昔、ここでヒコーキ、グライダーが訓練に明け暮れていたのですね~。



     東京都・江戸川飛行場跡地         
江戸川飛行場 データ
設置管理者:日本軽飛行機倶楽部
種 別:陸上飛行場
所在地:東京市江戸川区篠崎町の江戸川河川敷
座 標:N35°43′08″E139°54′06″
標 高:1.4m
着陸帯:1,000mx300m不定形
方 位:14/32
(座標、標高、方位は地理院から、着陸帯長さはグーグルアースから)

沿革
1934年06月 日本軽飛行機倶楽部、東京市に江戸川河川敷の使用申請書を提出
1935年06月 設置許可

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この記事の資料:
「南国イカロス記 かごしま民間航空史」


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