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台湾・旧鹿港陸軍飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]

   (未訪問)  




台湾中部、台中市の南西に位置する鹿港(ろっこう)鎮にあった「旧鹿港陸軍飛行場」。

■防衛研究所収蔵資料「航空路資料第10 台湾地方飛行場及不時着陸場 昭和15年4月刊行 水路部」

に1/10,000の図があり、先頭のグーグルマップはこの図から作図しました。
(位置決めと飛行場敷地は、U.S. Army Map Service,/Rokkoを使用しています。下記リンク参照)

飛行場敷地の南側が非常に個性的ですね。

U.S. Army Map Serviceをご覧いただければ分かりますが、

当時は「鹿港渓」という川が蛇行しており、これが天然の境界になっていました。

資料の中にも出てきますが、この鹿港渓、かなりやんちゃだったようで、

時代により蛇行具合が激しく変化しています。

防衛研究所資料の図は、おおまかなもので、位置決めが難しいため、

飛行場敷地に関してはU.S. Army Map Serviceを使用せざるを得なかった。というのが実情です。

同資料の情報を以下引用させて頂きます。

鹿港陸軍飛行場(昭和14年8月調)
臺中州彰化郡鹿港街(鹿港街の西方約1.4粁)

所管 臺灣軍

着陸場の状況
高さ  平均水面上約4.5米。
廣さ及形状  本飛行場は南北約1,000米、東西約500米の南北方向に細長
き地区(総面積約50萬平方米)にして南側は鹿港渓の氾濫の為常に不規則なる
地形を成す・着陸地域は場の略東半部概ね図示の長さ南北約650米、東西約300
米の長方形地区なり(付図参照)。
地表の土質  細砂を混ずる黒色粘土。
地面の状況  本場は鹿港渓河口近くに在り場内北側及南側に高さ約0.7米
の草密生する外殆ど全面に芝を生ず・凸凹箇所は僅少にして概して平坦なり
・付近一帯は鹿港渓に向ひ極めて緩徐なる下り傾斜をなす・地表の硬度は普通
なるも降雨後は表面稍軟弱となる傾向あり・場の東西両側に沿ひ南流する溝渠
あり南側は鹿港渓を控ふるも場内の排水良好ならず・平坦地なるを以て降雨の
際は雨水滞溜し一帯に湿潤軟化す・満潮時豪雨ある時は付近一帯浸水すること
あり昭和7,8年頃鹿港渓大出水反乱の際飛行場全面に浸水したることあるも
減水後半日にして離着陸可能なりしと謂ふ。
適当なる着陸方向  北(冬季)、南(夏季)。
着陸上注意すべき點  付近一帯は河川反乱浸水し河岸の形状変化し付近地
表軟弱となり不斎地を生ずることあるを以て着陸の際注意を要す・鹿港街より
場の北側を西方鹿港製鹽株式会社に通ずる高さ約1米の臺車軌道あり。
施設  格納庫、航空標識等なし。

周囲の状況
山岳、丘陵及水田  本場は鹿港渓の北岸に在りて当河口と鹿港市街との間
に位し付近一般に廣濶なり即ち東側は鹿港市街に近接するも北側は水田及塩田
連なり西方は塩田を隔てて海に接し南側は鹿港渓を隔てて水田となり周囲概し
て廣濶なり・場の北東方約17粁に大肚山丘陵ありて北方に連互し最高標310
米なり又東方約13粁に八掛山陵あり。
樹林  場の南方鹿港渓の南岸及付近小径に沿ひ木□黄の防風林あり河岸の
ものは高さ約3米あり。
堤防  場の西側排水溝に平行し堤防あり高さ約1.2米なり塩田との境界を
成す・場の北側に鹿港街と製塩工場とを連絡し飛行場の北側境界線を成す土堤
あり・場の南方鹿港渓北岸に土留あり。
河川及沼地  南側に清流する鹿港渓あり河幅約30米にして満潮時には竹
筏(テツパイ)飛行場南方付近まで辛うじて潮航す・場の南西方約200米塩田と接
する付近は旧流域を認めざるも土質軟弱なりと謂ふ・場の東側に鹿港街の北側
を廻り南流し鹿港渓に注ぐ掘割あり・鹿港街の西側諸處に多数の灌漑用溜池
(埠)あり。
建築物  場の東北東約0.7粁に白色屋根の鹿港製塩株式会社工場あり。
電線  場の東側より東方鹿港街に至る電話線あり其の他付近に在る電線は
離着陸に支障なし。
着目標  鹿港街、縦貫線、鹿港渓、大肚渓、塩田、鹿港製塩株式会社(白
屋根)。

地方の状況
軍隊  臺中第3大隊(臺中市千城町)北東方約16粁。
憲兵  臺中憲兵分遣隊(臺中市千城町)北東方約16粁。
警察署  彰化警察署(彰化市彰化)東方約8粁。
派出所  鹿港水上派出所(彰化郡鹿港街)北東方約0.5粁・鹿港警部派出
所分室(彰化郡鹿港街)北東方約1.1粁。
役場  鹿港街役場(彰化郡鹿港街)東方約0.8粁。
医療  鹿港街に避病院1、医院約10あり(昭和13年鹿港街々勢一覧)。
宿泊  鹿港街にある旅館数不明なるも嘗て歩兵約500名市街に宿営せしこ
とあり。
清水  場の東側付近に井戸あり土民の言に依れば飲料に適すると謂ふ・其の
他供給方法としては鹿港街より運搬することを得。

交通運搬及通信
鹿港街より四囲に対する交通は彰化に軽便鉄道及自動車、員林に軽便鉄道を有
する外3方に道路を有するも軽便鉄道は製糖用にして発車間隔大なるを以て利
用価値少く主に貨物の運搬は牛馬車を用ひ街内の交通は人力車を主用す。
鉄道  彰化駅(縦貫線)東方約7.5粁・明治鹿港駅(明治製糖線)東方約
2粁
乗合自動車  鹿港街より彰化市街に至る鹿港自動車株式会社の乗合自動車
の便あり1日約15乃至30分間隔を以て運転す最寄停留所迄約0.6粁あり。
道路  飛行場の東側より鹿港街を経て彰化及臺中市街に通ずる幅約10乃
至11米の道路及鹿港街の南東側より員林に至る道路あり共に自動車類の運航
可能なり。
泊地  鹿港泊地は濁水渓の河口沖合に在り支那型船に依り対岸の厦門、福
州等と貿易を為す付近海岸は卑低にして距浜約2.5浬迄低潮に干出し泥沙堆擴
延す北方に1水道あり支那型船は此の水道に入りて錨泊するも其の過半数は低
潮に膠着す而して鹿港街とは小舟にて交通す。
車馬  鹿港街に自動車32、自転車1,950、人力車21、臺車170、牛車116、
「リヤカー」6,212あり(昭和13年鹿港街街勢一覧)。
電信及電話  鹿港郵便局(彰化市鹿港街)東方約1.1粁、電信及電話を取
扱ふ。

気象
測候所  臺中測候象(臺中市大正町)北東方約16粁・航空気象を観測せず。
地方風  最多風向は9月より翌年5月までは北東風、6月より8月迄は南西
風即ち冬季は北東風、夏季は南西風なり・昭和5年至同10年6箇年間の統計
に依る月別(1)最多風向及(2)平均風速次の如し。(以下データ省略)
天候  10月頃より翌年2月頃迄は概して晴天にして3月頃より9月頃迄は
雨天多し・昭和5年至10年6箇年間の統計に拠る月別(1)快晴日数(2)曇天
日数、(3)降水日数次の如し。(以下データ省略)
統計に拠れば暴風期は1月及10月なり霧は1,10,11月雷雨は6,7,8月多し。
地方特殊の気象  冬期季節風は北東風にして10月頃より翌年3月頃吹続
し概して風強く雨少し。

其の他
本飛行場は大正8年頃警察飛行班の練習飛行場として使用せしことあり最近は
昭和14年6月陸軍此地に於て現地戦術を実施したることありと謂ふ・目下臺
灣軍司令部経理部の管理に属し北部の土堤を陸軍用地と民有地との境界とす




■防衛研究所収蔵資料「飛行場記録 内地(千島、樺太、北海道、朝鮮、台湾を含む) 昭和十九、四、二〇調製 第一航空軍司令部」

に1/10,000の要図があり、上のグーグルマップはこの要図から作図しました。

恒風 冬季:北北東 夏季:南西 と書き込みがありました。

以下情報を以下引用させて頂きます。

位置
 臺中州彰化郡鹿港街
地表の状況
 滑走地区東西五六〇米、南北一一〇〇米土質
 は粘土質にして乾燥せば固きも湿気ある場合
 は軟弱なり
 表面一面に短き芝あり
 排水極めて不良にして特に北側は湿地状態なり
 降雨後は使用困難
周囲の状況
 北及西方の外周道路は高さ一、五米にし
 て離着陸に注意を要す
 また南側鹿港渓左岸の樹木は約十米にして
 相当障碍あり
天候気象の交感
 冬季は風速極めて大にして十米に及ぶことあり
 比高低き為降雨の影響大なり
交通連絡
 彰化駅より西方約十五粁乗合自動車
 の便あり
其の他
 (記載無し)

こちらも、位置決めと飛行場敷地は、U.S. Army Map Serviceを使用して作図しています。

このU.S. Army Mapは、1945年の米軍による偵察写真から作成されたものだと思うのですが、

ROKKŌ LANDING STRIP(ABANDONED) とあります。

ABANDONED:放棄された

ということで、他の資料から確認がとれないのですが、U.S. Army Map Serviceの表記が正しければ、

末期の時期には使用していなかったことになります。

まあ資料でも川の氾濫、排水でかなり苦労した様子が伺えますしね。



     台湾・旧鹿港陸軍飛行場跡地         
・鹿港陸軍飛行場(昭和14年8月調べ) データ
所 管:臺灣軍司令部経理部
種 別:陸軍陸上飛行場
所在地:台臺中州彰化郡鹿港街
座 標:24°03'30.7"N 120°25'18.2"E
標 高:4.5m
面 積:50ha
飛行場:1,000mx500m
着陸地域:650mx300m
(座標はグーグルアースから。他は資料から)

・鹿港陸軍飛行場(昭和19年資料) データ
種 別:陸上飛行場
所在地:臺中州彰化郡鹿港街(現・台湾彰化県鹿港鎮東石里)
座 標:24°03'30.7"N 120°25'18.2"E
標 高:3m
滑走地区:560mx1,100m
(座標、標高はグーグルアースから。他は資料から)

沿革
1919年 この頃警察飛行班の練習飛行場として使用
1939年 6月 陸軍が現地戦術実施
1945年 8月 終戦。その前に放棄?

関連サイト:
U.S. Army Map Service,/Rokko 
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「飛行場記録 内地(千島、樺太、北海道、朝鮮、台湾を含む) 昭和十九、四、二〇調製 第一航空軍司令部」
防衛研究所収蔵資料「航空路資料第10 台湾地方飛行場及不時着陸場 昭和15年4月刊行 水路部」


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台湾・台中(西屯)飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]

   (未訪問)  




台湾台中市北屯区にあった「台中(西屯)飛行場」。


「盟軍記載的二戰臺灣機場」(下記リンク参照)によれば、

当飛行場は連合軍によりMAD(Medium Bomber Airfield:中爆撃機飛行場)に分類されています。

■防衛研究所収蔵資料「飛行場記録 内地(千島、樺太、北海道、朝鮮、台湾を含む) 昭和十九、四、二〇調製 第一航空軍司令部」

に台中(西屯)飛行場1/40,000の要図があり、先頭のグーグルマップはこの要図から作図しました。

明確な基準点となるものが見つけられなかったため、この辺りにこの位の大きさの飛行場があった。

という程度のものです。

要図には、

恒風:北(六、七月除く) 恒風:南(六、七月) とあり、

滑走地区(1番大きな四角)の東隣りの四角に「付属地区」と書き込みがなされ、

なぜかこの四角に大きく×が描かれていました。

同資料の情報を以下引用させて頂きます。

位置
 台中州大屯郡西屯庄
滑走地区
 滑走地区東西一、二〇〇米、南北一、四〇〇米
 西南方に約三百分の一の勾配あり
 概ね平坦にして良好なり
 舗装滑走路の施設を要す
付属施設
 格納庫三棟あり 燃料庫、材料庫あり
 収容兵員約六〇〇〇の兵舎あり
 給水、水道設備あり、修理場あり
 其の他屏東陸軍航空支廠台中分廠あり
飛行場
 東西三方高地なるも離着陸に支障なし
気象
 交感尠し
交通通信 航法施設
 台中駅西北方七粁
 台中並びに清水に通する道路あり
 固定無線電信所あり
其の他
 (記載無し)

飛行場は戦後中華民国空軍に使用され、軍民共用飛行場時代を経て、閉鎖されました。

南北方向に1,600mの舗装滑走路があったのですが、

現在は再開発が進み、ここに立派な空港があったとは、もう全く見分けがつきません。

グーグルアースの過去画像を見ると、2012年11月までは飛行場当時の姿を見る事が出来ます。




     台湾・台中(西屯)飛行場跡地         
・台中(西屯)飛行場(昭和19年資料) データ
種 別:陸上飛行場
所在地:台湾台中州大屯郡西屯庄
座 標:24°10'57.8"N 120°39'54.9"E
標 高:113m
滑走地区:1,200mx1,400m
(座標、標高はグーグルアースから。他は防衛研究所資料から)

・台中水湳飛行場(2010年廃止時) データ
所 有:中華民国交通部民用航空局/国防部空軍司令部
運 用: 民用: 中華民國交通部民用航空局、軍用:中華民国空軍
種 別:軍/民共用飛行場
3レター:TXG
4レター:RCLG
所在地:中華民国台中市西屯区水南里河南路第2区間
座 標:24°10′55″ N 120°39′23″ E
標 高:102m
面 積:250ha
滑走路:1,600mx30m
磁方位:18/36
(標高、滑走路長さはグーグルアースから。他はWiki/臺中水湳機場から)

沿革
1911年    開場
1945年08月 終戦1946年04月 中華民国空軍第3航空機工場設立
1954年11月 「空軍第二供給地域局」と航空産業開発センターに再編成される
1971年    軍民共用空港になる
1996年02月 1日「台中空港」と改称
2004年03月 5日 青泉空港に移転。民間空港閉鎖
2010年11月 8日 軍用飛行場閉鎖

関連サイト:
盟軍記載的二戰臺灣機場(21コマ) 
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「飛行場記録 内地(千島、樺太、北海道、朝鮮、台湾を含む) 昭和十九、四、二〇調製 第一航空軍司令部」


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台湾・台中(公館、豊原)飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]

   (未訪問)  



無題5.png
(国立国会図書館ウェブサイトから転載)官報. 1937年02月18日 


台湾中部台中市にある国際空港「台中国際空港」。

元々は台湾総督府により建設された「台中(公館)飛行場」でした。


「盟軍記載的二戰臺灣機場」(下記リンク参照)によれば、

当飛行場は連合軍によりFAD(Fighter Airfields:戦闘機飛行場)に分類されていました。

■防衛研究所収蔵資料「航空路資料第10 台湾地方飛行場及不時着陸場 昭和15年4月刊行 水路部」

に1/17,000の地図があり、先頭のグーグルマップはこの図から作図しました。

(位置決めには、アジ歴:「飛行連隊及航空支廠設定の場合を顧意し台中飛行場建物位置選定に関する意見の件」 

の地図を使用しました)

図によれば、付属施設は飛行場敷地西側にまとめられ、縦一列に並んでおり(青マーカー)、

北から順に、物置、州倉庫、厠、高層気象観測所、動力室、水槽、油庫、日航出張所、州工事事務所とあります。

また敷地のすぐ外側に給水槽がありました。

同資料の情報を以下引用させて頂きます。

臺中飛行場(昭和14年6月調)
臺中州大甲郡沙鹿庄公館及豊原郡大雅庄埔子(土+乾) (豊原街の西方約9粁)
所管 臺中州

着陸場の状況
高さ  平均水面上約192米。
廣さ及形状  本飛行場は約1,200米平方の面積より北東隅の一部(南北約
700米東西約500米)を缺如したる東西、幅南北各約1,200米の略L字型地
(総面積109萬平方米)なり・着陸地域は概ね図示の如く長さ南北約900米、更
に南部に於て東側に約150米を加へ其の幅約200米を有する南北に細長きL字
型地区なり(付図参照)。
地表の土質  砂を混ずる赭粘土。
地面の状況  本場付近一帯は北西より南東に略1/87の下り勾配即ち北方よ
り南方に、西方より東方に向ひ下り傾斜(勾配約1/100乃至1/300)を成すも概ね
起伏なき平坦且堅硬地なり・殆ど全面に芝密生するも飛行場北側付近は裸地
なり・場の北側裸地及南東側の盛土地区付近一帯の地表は概ね軟弱なり(付図
参照)・排水施設としては場の略中央部を東西に貫く簡単なる排水暗渠1條あ
り且周囲には南側を除き小規模なる簡易排水路を繞らし前者に連絡し排水極め
て良好なり・夏季炎天続くときは地面に小亀裂を生じ易きも離着陸に支障なし
又豪雨続きの際は表土に多少凸凹を生ず・南東部の盛土地区は土砂の流失程度
比較的大にして幾分耐力減少すと謂ふ・芝密生しあり砂塵飛揚することなしと
謂ふ。
場内の障碍物  着陸場内にはなし。
適当なる離着陸方向  北(主として冬季)又は南(主として夏季)。
離着陸上注意すべき點  離着陸の際は西寄地区(建築物敷地前面)の使用
を可とす。
施設  臺中州工事事務所(高さ約5米)、大日本航空株式会社臺中出張所
(高さ約6米)、会社油庫(高さ約4米)、動力室、高層気象観測場(高さ約15
米工事中)、州倉庫(高さ約3米)給水槽(高さ約2.5米)、物置(高さ約4米)
吹流柱(高さ約12米)等あり。

周囲の状況
山脈丘陵  本場は臺灣平野(西部平野)の中部に在る臺中盆地の北西端に
在り西方には南北に走る大肚山の丘陵を控へ東方には前記平野を隔てて臺灣脊
梁山脈縦走す而して西方より右回りに北東方に至る間は大肚山系に属する比較
的平坦なる高臺にして更に北東方より右廻りに南方に向ひ多少の下り勾配を成
せる廣濶なる水田地あり・場の北東方約2粁には209米の高地あり又南西方
約5.5粁には大肚山の最高點(310)在り。
並木  公館付近より東方に通ずる諸道路及縦貫道に沿ひ高さ約2乃至6米
の並木あり。
樹林  飛行場付近一帯の樹木は常盤木(相思樹)にして畠と畠との境界に
在りて防風林をなし高さ約2乃至3米程度なり・場の南東端埔子(土+乾)付近に高さ
約7米の竹林あり。
河川  場の北方約6粁には大甲渓あり其の源を中央山脈に発し諸渓流を収め
て西流し下流の沖積地にては亂流して海に注ぐ・場の東方に灌漑用水路あり。
電線  場の北端を距る約0.5粁縦貫道に沿ふ高さ約8米の高圧電線及普通
電線あり又場の南西方道路に沿ひ高さ約6米の普通電線あり・場の西側に場内
に通ずる高さ約6米の電線あり・場の西側排水溝付近に高さ約6米の電柱、東
側格納庫北方に北東方に架する高さ約5米の電柱あり。
着目標  臺中市、豊原街、縦貫(海岸)線及中央線、縦貫道路、大肚山。

地方の状況
軍隊  臺灣歩兵第1連隊第3大隊(臺中市干城町)南東方約15粁。
憲兵  臺中憲兵分隊(臺中市干城町)南東方約15粁。
警察署 大甲郡警察課(大甲郡清水町)西方約6粁・豊原郡警察課(豊原
群豊原街)東方約8.5粁。
派出所   公館警察官吏派出所(大甲郡沙鹿庄公館)西方約1.4粁・神岡警
察官吏派出所(豊原郡神岡庄神岡)東方約1.5粁・大雅庄警察官吏派出所(豊
原郡大雅庄大雅)南方約4粁。
役場  大雅庄役場(豊原郡大雅庄大雅)南方約4粁・沙鹿庄役場(沙鹿庄
沙鹿)南西方約8.5粁。
医療  臺中市内に臺灣総督府立臺中医院(入院患者収容員数計150)南西
方約9.5粁、私立平安病院及臺中衛戌病院あり病室其の他設備完備す・昭和12
末調査に拠れば上記以外に医院17(入院患者収容員数計約175)及開業医45あ
り。
宿泊  臺中市街に完備せる旅館多数あり。
清水  場の東側を北東より南西に流るる小渓より給水「タンク」に導き所
要の箇所に給水す(河水は水量豊富水質稍良好なりと謂ふ)。
応急修理  臺中市老松街に浅沼鉄工所あり一時的応急修理程度ならば可
能。
航空需品  臺中市橘街に「ガソリン」類販売店あり少量ならば補給し得。

交通運輸及通信
鉄道  清水駅(縦貫線)北西方約7粁・沙鹿駅(縦貫線)西方約9.5粁。
乗合自動車  場の南西方道路(臺中-清水)を運行する老松自動車商会経
営の乗合自動車(1日約36回運転)及北方豊原至清水間を通行する明星自動車
会社経営の乗合自動車(1日24回運転)の便あり随所に停車す。
道路  場の北側を東西に通ずる豊原至清水間の縦貫道は幅約15米、南西側
を通ずる臺中至清水間の道路は幅約11米にして共に自動車類の運行可能なり。
河海及海運  場の北北西方約15粁に大安港あり大安渓の河口に位し支那
型船の泊地なり河口前面は干出堆にして水深は距岸1浬にして急に9.1乃至
14.6米に増加す大安港と其の南東方約6粁の大甲街との間には製糖会社の私
設鉄道あり又場の西方約10粁に在る梧棲港は小なる河口に位し干出州を成し
且つ磯浪ありて上陸困難なり支那型船は高潮に乗じ入り低潮に膠着す貨物は大
型の竹筏を以て運搬す梧棲より縦貫線迄は約3.5粁にして此の間軽便鉄道及自
動車の便あり本港は明治30年1月特別輸出入港に指定せられ支那型船に依り
対岸の厦門、福州汕頭等と貿易を為す。
車馬  昭和12年12月末現在の調査に拠れば沙鹿庄管内に乗用自動車15、
自転車577、牛車31、荷車107あり又昭和13年度調査に拠れば大雅庄管内に
乗用自動車1、自転車1,376、人力車4、牛車57、荷車111あり・昭和11年調査
に依れば臺中市内に自転車5,928、人力車139、牛馬車209あり。
運送店  昭和11年11月の調査に拠れば臺中市内に国際通運株式会社臺中
出張所其の他運送店約10あり・豊原街に約2、清水街に約3及沙鹿庄に約1運
送店あり。
電信及電話  飛行場事務所構内に電話の設備あり・臺中郵便局(臺中市□
町)南東方約15粁、清水郵便局(大甲郡清水庄)北西方約6粁、沙鹿郵便局
(大甲郡沙鹿庄)南西方約7.5粁・共に電信及電話を取扱ふ。

気象
測候所  臺中測候所(臺中市大正町)南東方約15粁、毎日1回午前10時
頃航空気象を観測す・場内に高層気象観測所(工事中)あり。
地方風  9月より翌年5月までは北風多く6月より8月迄は南風にして弱し。
大正15年至昭和10年10箇年間の統計に拠る月別(1)最多風向、(2)平均風速
次の如し。(以下データ省略)
天候  10月頃より翌年4月頃迄は概して晴天にして6月頃より9月頃迄は
雨天多し・大正15年至昭和10年10箇年間の統計に拠る月別(1)快晴日数、
(2)曇天日数、(3)降水日数次の如し。(以下データ省略)
5月より9月頃迄電雷多し。
地方特殊の気象及天気予察法の俚諺
1.冬季  低気圧が揚子江流域、黄海南部及南部東海などに在りて季節風衰
微せる際は濃霧の発生著し・高気圧支那東海に移動し黄海日本海を蔽ひ本島付
近の気圧傾度緩慢となり季節風衰へたる場合は稍濃密なる霧の発生すること多
し・霧の発生回数は冬季に多く夏季は極めて少し。
2.夏季  颱風本島東部海上に存在する頃は地形上風力弱く天気良好にし
て其の影響少けれども本島北東部沿岸に差掛りし頃より次第に曇天勝ちとなり
少雨を催すも風力は以前微弱なり・颱風北部海上を西北西に通過する際或は北
部陸上を北西に進行し北部海上に出る頃初めて雨勢加はり風向南偏するに至り
て豪雨となるを例とす・颱風南部海上を西進し東沙島方面に進行せし頃当地付
近に副低気圧発生し熱風現象を起し10数時間に亘り蒸暑きことあり又熱風現
象中は暴風警報中にも拘らず天候極めて良好なり・熱風著しく顕著ならざると
きは下層雲来り時々細雨のあることあり。
3.其の他  3,4月の候南支那香港付近に小低気圧現はれ北東又は東北東に
進行し汕頭又は厦門方面に差掛る頃より当地方の風は南西に変り雷鳴轟き相当
の降雨あるを例とす・颱風東沙島方面より北上する場合亦同じ現象を顕はす・
場の南西方が曇るときは雨となる前兆なりと謂ふ。

其の他
本飛行場は昭和11年12月20日公共用陸上飛行場として臺灣総督府より設備
を許可せられたるものなり・臺灣島内循環定期航空路の中間飛行場にして大
日本航空機株式会社の輸送機発着し旅客機及郵便物の輸送を行ひつヽあり目下毎
日東西廻各1回発着す・飛行場東方屈曲部付近に海運臨時建築諸施設あるも格
納庫を除き建築物は近日撤去の予定なりと謂ふ。



■防衛研究所収蔵資料「飛行場記録 内地(千島、樺太、北海道、朝鮮、台湾を含む) 昭和十九、四、二〇調製 第一航空軍司令部」

にも当飛行場の要図がありました。

1,200m四方の正方形で、北東側が700mx500mの大きさで欠けているという基本的な形は変わりません。

ただし、先の昭和14年調の図では飛行場敷地西側にまとめられていた付属施設が、

東側の「付属設備」にそっくり移っています(オレンジのシェイプ)。

そして元々諸施設の並んでいた場所は、1,200mx200mの「仮舗装地帯」と記されています。

そしてこの「仮舗装地帯」を含める形で、南北方向、東西方向に「滑走地区」が設定されています。

同資料の情報を以下引用させて頂きます。

位置
 臺中州豊原郡大雅庄埔子□(土+乾)大田郡沙鹿庄公館(臺北市□北十□粁)
滑走地区
 滑走地区南北1,200mx900m東西1,400mx500m(900x700)
 赤土にして地盤堅固平坦にして芝密生しあり
 各機種の離着陸に支障なく降雨後も概ね使用に
 差支へなし
 舗装
付属設備
 格納庫二棟自動車一 倉庫五
 本部一 兵舎(収容力約一、〇〇〇名)
 燃料庫及弾薬庫各数棟
 給水(水道)施設及電燈設備完備しあり
 □□夜間標燈あり
飛行場
 東南方付近に部落あり西方約一、五粁に比高五
 〇米の高地あるも支障なし
 其の他は畑地にして飛行に支障なし
気象
 恒風は概ね北風にして夏季南西風稍多し
 雨は六、七月最も多し
 気象影響を受くること□し
交通通信
 公館より清水-臺中-豊原に良道あり
 通信所(送受信所)あり
其の他
 昭和十七年四月海軍に返納せり





原日軍臺中飛行場機槍堡(サイト:台中市文化資産處から。下記リンク参照。赤マーカー地点)

1940年、日本軍によって建設された"機関銃砦"。

防空施設であり、現在は台中市文化資産處の所有となっています。

基部は直径約10メートル、高さ約6~9メートル、壁面には長方形の窓があります。



     台湾・台中(公館)飛行場跡地         
・台中(公館)飛行場(昭和14年6月調) データ
所 管:臺中州
種 別:公共用陸上飛行場
所在地:臺中州大甲郡沙鹿庄公館及豊原郡大雅庄埔子(土+乾)
座 標:24°14'58.0"N 120°37'16.4"E
標 高:192m
面 積:109ha
飛行場:1,200mx1,200mのL字型地形
着陸地域:900mx550mのL字型地形
(座標はグーグルアースから。他は資料から)

・台中(公館)飛行場(昭和19年資料) データ
設置管理者:日本海軍
種 別:海軍陸上飛行場
所在地:臺中州豊原郡大雅庄埔子□(土+乾)大田郡沙鹿庄公館
座 標:24°14'58.0"N 120°37'16.4"E
滑走地区:南北1,200mx900m東西1,400mx500m(900x700m)
(座標はグーグルアースから。他は資料から)


・台中国際空港(現在) データ
設置管理者:通信省民間航空局/軍
種 別:軍民共用
3レター:RMQ
4レター:RCMQ
所在地:中華民国台中市沙鹿区
標 点:24°15′54″ N 120°37′15″ E
標 高:203m
滑走路:3,659mx61mコンクリート
方 位:18/36
(公式サイト/中国語版Wikiから)

沿革
1936年12月20日 公共用陸上飛行場として臺灣総督府より設備許可
1942年04月 海軍に返納
1945年08月 終戦
1950年   台湾省政府、台中公館飛行場を青泉飛行場に改名と発表
1954年  米華相互防衛条約に従い米軍台湾協防司令部(USTDC)設立
1958年 米軍戦闘機駐屯

関連サイト:
TAIWANAIRBLOG/台中飛行場西跑道 
盟軍記載的二戰臺灣機場(21コマ) 
空港公式サイト 
台中市文化資産處 
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「航空路資料第10 台湾地方飛行場及不時着陸場 昭和15年4月刊行 水路部」
防衛研究所収蔵資料「飛行場記録 内地(千島、樺太、北海道、朝鮮、台湾を含む) 昭和十九、四、二〇調製 第一航空軍司令部」


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台湾・鳳山飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   (未訪問)  




台湾の高雄市にあった鳳山(ほうざん)飛行場。


「盟軍記載的二戰臺灣機場」(下記リンク参照)によれば、

当飛行場は連合軍によりMLG(Medium Bomber Landing Ground:中爆撃機着陸場)に分類されていました。

■防衛研究所収蔵資料「飛行場記録 内地(千島、樺太、北海道、朝鮮、台湾を含む) 昭和十九、四、二〇調製 第一航空軍司令部」

に要図があり、先頭のグーグルマップはこの要図から作図しました。

後述しますが、鳳山飛行場の2本の滑走路は段階的に拡張したようで、600mから始まり、

資料から確認できる最終的な長さは、おおよそですが、1,500mと1,400mに達しています。

そのためだと思うのですが、【鳳山飛行場】で検索すると、

微妙に異なる図が幾つかヒットします(特に滑走路交差部の形が違う)。

というか、全体から見ればオイラの作図の方が異端なんですが、

防衛研究所の昭和19年資料では2本とも1,200mx200mとしているため、

この資料の通りに作図してあります。

画像検索するとすぐにいろんな形の鳳山飛行場が見つかりますので興味のある方はご覧くださいませ。

防衛研究所の昭和19年要図では、恒風:北北西(滑走路方向) と記されていました。

同資料の情報を以下引用させて頂きます。

鳳山飛行場
位置
 高雄州鳳山郡大寮庄
滑走地区
 滑走地区 東西一、二〇〇米 南北二〇〇米
      東西二〇〇米 南北一、二〇〇米
 地盤は粘土質にして乾季には良好なるも雨季軟弱となし北
 方の煉瓦会社煙突並に海軍無線塔に注意を要す
付属施設
 格納庫、燃料庫、給水、宿舎なし
飛行場
 付近水田にして開闊なり
気象 
 雨季飛行場軟弱となる
交通通信 航法施設
 潮州線後庄駅より東南約六〇〇米
 高雄-屏東街道に接す
其の他
 屏東飛行場の場周に当り離着陸に注意を要す

 
当飛行場について、手持ちの情報は現在のところこれだけです。

アジ歴、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、目ぼしいものは出てきません。

一方、地元台湾では日本が建設した飛行場についての記事がとても多くヒットします。

グーグル翻訳を使ってそれらの記事を拝見すると、

この鳳山飛行場で実際に飛行機が離陸したところを見たことがなく、

竹細工の飛行機を駐機させてあり、実際にこれらが空襲の標的になった点に触れているものがありました。

オイラが閲覧した範囲では、当飛行場は「疑似」飛行場であるというのが地元では定説になっているようです。

一例としてあるサイト様では、80歳になるおじいさんの証言として、

子供だった頃に先生に引率され、鳳山飛行場で2時間の草むしりをした
竹細工の飛行機が銀色に塗られ、日の丸が描かれた
飛行場は無人で、実際に飛行機が離陸するところを見たことが無い
戦後、ここは飛行場に適していないため、最終的に廃止になった

とありました。

「鳳山飛行場は実機のためのものではなく、疑似飛行場である」

この定説に異を唱えている地元サイト様が1つだけありました。

同サイト様の記事を一部引用します(Google翻訳)。

米軍の航空写真の撮影時間は、実際には終戦(1941-1945)に限定されており、実際には、台湾に関する「部外者」の間接的な知識しか表せません。データは日本からのものでなければなりません。言い換えれば、アメリカの空中データまたは文書は補助データとしてのみ使用する必要があります。重要な情報は、日本のアーカイブおよび履歴データから開始し、空港の設立の背景とコンテキストを確立すると同時に、航空開発全体のコンテキストに配置する必要があります。この方法でのみ、その存在の戦略的重要性を見ることができます。言い換えれば、空港を調査して属性を決定するために外部画像のみを使用する場合、それは誰かの写真を見て、彼の静的な外観だけを知っているが、彼の動的な過去、性格、好み、または専門知識を知らないようなものです。理解、それは一方的な推測と理解かもしれません。台湾への空爆を研究するための研究テーマとして米軍を利用する場合でも、軍事に関する専門知識を十分に持ち、アーカイブの利用の優先順位を明確にし、米軍のデータの限界を理解し、重要視する必要があります。(中略)

中荘、大寮、高雄にあるこの空港については、多くの人が紹介や調査を行っており、この空港は変で、かつてないかもしれない、あるいは敵を誘惑するための「偽の空港」だと誰もが思っています。データによって制限されますが、おそらく当時の画像データでしか説明できませんでした。しかし、軍事体制に戻り、その時の日本陸軍空軍の組織の変化と実際の作戦を考えれば、より完全な全体像をまとめることができるかもしれません。 1944年に出版された本「SouthernFlyingTeam」によると、この空港は当時陸軍によって実際に「疑似飛行場」と呼ばれていました。そうです、彼の「疑似」は米軍を欺くために使用されなかっただけですが、その他の重要な兵役。機能と目的。この目的は、実際には陸軍飛行場旅団の演習空港として使用されることであり、隣接する陸軍屏東航空工場の鳳山燃料貯蔵所(陸軍ステップスクールの裏丘にあります)と密接に関連しています。後で)。言い換えれば、この「疑似空港」は1930年代後半に建設されました。したがって、もちろん、最も初期の主な目的は、戦争の終わりに敵を欺くために使用されることではありません。

要約すると、

「鳳山飛行場は疑似」というのが定説ではあるが、当飛行場の建設は1938年にはほぼ終了しており、

当時は米軍の目をごまかす必要などなかった。

日本の資料をきちんと調べないと、その飛行場の真実は分からない。

ということになるでしょうか。


冒頭に引用した防衛研究所の資料は、昭和19年に調製されたものですが、

「疑似」飛行場を匂わすような文言は出てきません。

1,200m滑走路を2本も擁する疑似飛行場なんて、(オイラの知る限り)内地にも無いですしね。

前出:防衛研究所資料の「其の他」の項目に「屏東飛行場の場周に当り離着陸に注意を要す」とあります。

当飛行場から約7kmの所に屏東飛行場がありました(こちらの方が規模がずっと大きい)。

仮に鳳山飛行場が疑似飛行場だったとしたら、こんな注意喚起は不要のはずです。


その後更に地元のサイトを調べていたら、この辺の疑問を一気に解決する非常に詳しい資料を見つけました。

太平洋戰爭下日本陸軍於高雄地區的機場整備與航空隊部署(下記リンク参照)というサイトです。

以下関係する部分を要約します。


鳳山飛行場は民間飛行場として1937年9月に着工しました。

その後南方の戦闘状況に対応して島内の新旧飛行場を改修する計画がなされ、

大本営は1941年6月までに、鳳山、潮州、佳冬、恒春を陸軍飛行場として整備する決定をしました。

9年18日、満州に駐屯していた新たに再編された第4飛行場設定隊と第9飛行場設定隊が高雄に到着。

鳳山飛行場の建設を開始するために2チームが第4飛行グループに編成されました。

当時飛行場設定隊は、約80~90名の軍人と部下で構成されていました。

鳳山、宜蘭、小港、八塊等、日本では珍しいV字形が採用されたのは、

周囲に拡張可能な土地が不足していたためでした。

飛行場敷地は、近くの地形、集落、鉄道、道路、川、谷の障害物によって制限を受けます。

風山飛行場の場合、2本の滑走路の間には岡山西(江山村)があります。

これは隆起し周囲よりも高くなっており、この場所を避けるために滑走路がV字型になりました。

開戦前の段階で、設営隊は風山飛行場の建設に3ヶ月しか従事しなかった可能性があり、

滑走路の長さはわずか600mでした。

これは潮州、佳冬、恒春等新設飛行場の中でも最短であり、飛行に適していません。

このため太平洋戦争が始まったとき、鳳山飛行場に使用の記録はありませんでした。

1944年4月現在、風山飛行場の両滑走路は1,200mx200mに延長されていました。

飛行場施設には、格納庫、燃料貯蔵所、給水施設、寮が含まれます。

開放的な水田に囲まれ、眺望は良いものの、

土質は乾季に使用できる粘土ですが、雨季は土壌が弱く、離着陸が難しいです。

また、近くに煙突と海軍の無線塔があり、飛行の支障となります。

屏東空港にも隣接しているので、着陸するときは注意が必要です。

このように、鳳山空港が長期間使用されていない理由は明らかです。

元々この場​​所が選ばれたのは、陸軍が交通動脈を保護するためでしたが、

飛行場については考慮すべき多くの要因があります。

土質の点では、飛行場には土壌が適しています。

小さな砂利は離着陸時に機体や航空機の翼に跳ね返って損傷するため、砂利は適していません。

また、粘土質土壌は降雨時に軟化するため不適切です。

さらに離着陸時には障害物を避けるために、飛行場周辺の高さを制限する必要があります。

一方、鳳山飛行場の土壌は粘土質であり、飛行場西側は通信塔や煙突に塞がれており、

東側も屏東飛行場に近く、互いに干渉します。

南北は山岳地帯に面しており、飛行の安全性に問題があり、飛行場として理想的な場所ではありません。

1944年8月、太平洋艦隊と太平洋艦隊合同司令部は、蓄積された情報データに基づいて、

鳳山飛行場がダミー飛行場であると判断しました。

当時、2本の滑走路は2,800フィートと3,300フィートに延長されていました。

避難経路は飛行場の中央にあり、65フィートの航空機の砦が5つあり、格納庫や兵舎は見られませんでした。

1944年3月6日、5機の日本の飛行機が駐機していましたが、それらは偽の飛行機であるはずでした。

次に、風山空港を放棄または偽の空港として直接マークします(9月10日)。

戦闘後、米国の鳳山飛行場の調査は継続されました。

1945年1月29日までに、2つの滑走路は、4,850ft×600ft、4,500ft×600ftに延長されました。

とありました(Google翻訳)。


元々鳳山飛行場は1937年に民間飛行場として着工したものの、実は同資料内では、

高雄の民間航空は1939年に岡山空港に離着陸した。鳳山空港の問題は終わったように見えた。 1940年の終わりには、海軍の岡山空港と陸軍の嘉義空港だけが台湾で唯一の飛行場であり、比較的良好な状態でした。

とあります。

「岡山空港」とは、当時の海軍高雄飛行場のことだと思います。

海軍高雄飛行場は1939年開場でした。

せっかく鳳山飛行場を民間飛行場として建設したのに、同じ高雄市内の海軍飛行場が民間航空に使用されたのですね。

そして鳳山飛行場は民間航空が飛来することもなく時間が経過し、

その後大本営の指示により陸軍飛行場として転用工事が始まったのですが、

土質の問題、屏東飛行場と空域が干渉してしまうこと、高度制限等から実際の運用にはいろいろと難があった。

ということのようですね。

それでも、運用実績はないにも関わらず当初600mだった滑走路はその後拡張され、

1,500m、1,400m級にまでなっています。

鳳山飛行場は「本物の」飛行場として建設されたものの、

同じく陸軍の屛東飛行場の補助飛行場、若しくはイザという時のための不時着用としての性格が強くなり、

米軍や地元の方からは「疑似」飛行場と映った。

ということなのかもしれません。

地勢的に飛行場に向いておらず、囮の飛行機を置いていたら、そりゃ「疑似」と捉えられても仕方ないのかも。




     台湾・鳳山飛行場跡地         
鳳山飛行場 データ
設置管理者:日本陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:台湾大寮区高雄市
座 標:22°38'15.9"N 120°24'07.7"E
標 高:14m
滑走路:1,200mx200m 2本(08/26)、(14/32)
(座標、標高、方位はグーグルアースから。滑走路長さは防衛研究所資料から)

沿革
1937年09月 民間飛行場として着工
1938年    ほぼ完成

1941年06月 大本営、この月までに鳳山を陸軍飛行場として整備と決定
     09月 18日 第4、第9飛行場設定隊が高雄に到着。滑走路600m
1944年04月 この頃までに両滑走路は1,200mx200mに延長
     08月 米軍は鳳山飛行場をダミーと判定。滑走路は853m、1,005mに延長(写真判定だから?)
1945年01月 29日 この頃までに滑走路は、1,478m×182m、1,371m×182mに延長

関連サイト:
太平洋戰爭下日本陸軍於高雄地區的機場整備與航空隊部署 
盟軍記載的二戰臺灣機場(21コマ) 
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「飛行場記録 内地(千島、樺太、北海道、朝鮮、台湾を含む) 昭和十九、四、二〇調製 第一航空軍司令部」


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台湾・新竹飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]

   (未訪問)  




台湾の新竹(しんちく)市にある新竹空軍基地。

かつては日本海軍の「新竹航空基地」でした。

「盟軍記載的二戰臺灣機場」(下記リンク参照)によれば、

当飛行場は連合軍によりMAD(Medium Bomber Airfield:中爆撃機飛行場)に分類されています。

また、連合軍は新竹を5本の滑走路で1位にランクされました。

そしておそらくこれが原因で、新竹は1945年以降、米軍の爆撃の最大の標的となり、

爆撃日数は台湾のすべての空港の中で第1位にランクされた。とあります。

先頭のグーグルマップは、U.S. Army Map Service,/Shinchiku から作図しました(下記リンク参照)。

マップには、いかにも海軍型の有蓋掩体壕が幾つも描かれており、作図に含めたのですが、

グーグルマップで確認すると、作図した以外にも有蓋掩体壕が幾つも現存しています。

日本海軍型ではない有蓋掩体壕も幾つもあり、

これは後の時代に駐留米軍か、台湾軍により建設されたのでものではないかと思うのですが、分かりません。

■防衛研究所収蔵資料「飛行場記録 内地(千島、樺太、北海道、朝鮮、台湾を含む) 昭和十九、四、二〇調製 第一航空軍司令部」

に情報がありました。以下引用させて頂きます。

新竹海軍飛行場
位置(記載無し)
滑走地区(記載無し)
付属施設(記載無し)
飛行場(記載無し)
気象(記載無し)
交通通信 航法施設(記載無し)
其の他 海軍飛行場

新竹市政府サイト様に飛行場についての説明がありました(下記リンク参照)。

以下一部抜粋させて頂きます。
「新竹海軍飛行場は日本統治時代の1937(昭和12)年に建設されました。当時「新竹の穀倉」と呼ばれた吉羊崙庄、沙崙庄、崙仔庄、竹囲などの集落があった約470ヘクタールの土地が徴用されることになりました。元の住民たちは、飛行場付近に移転させられることになり、それは、今の成功路、延平路二段虎山などのエリアに当たります。(中略)台湾は、日本本土と南洋の中継点であり、新竹は中国大陸に最も近い位置にあったため、防衛上重要視され、陸、海、空の部隊が配属されることになりました。神風特攻隊(桜花特攻機部隊)の本部も新竹に置かれるようになりました。支援施設としては、南進の給油地として、第六海軍燃料廠新竹支廠、第六燃料廠化学工廠、海軍第六燃料廠油庫が新竹に設置され、その重要度は高まりました。第二次大戦中には、新竹市は連合国の空襲に遭い、投下された弾薬量は23,402トンと、台湾で最大の被害を受けた都市となりました。このように新竹の戦略的地位は高く、第二次大戦後に中華民国に接取された後も、同飛行場は、新竹空軍基地として用いられることとなりました。」




     台湾・新竹飛行場跡地         


・新竹海軍飛行場(1945年米軍地図から) データ
設置管理者:日本海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:台湾新竹市
座 標:24°49'36.4"N 120°56'22.9"E
滑走路:1,300mx80m(05/23)、1,400mx80m(05/23)、1,100mx90m(13/31)、1,000mx70m(13/31)
(座標、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)

・ 新竹空軍基地(現在) データ
設置管理者:中華民国空軍
種 別:陸上飛行場
3レター:HSZ
4レター:RCPO
所在地:台湾新竹市北区
座標:24°49′25.9″ N 120°56′50.9″ E
標 高:26m
滑走路:3,644mx45m?
方 位:05/23
(中国語版、英語版Wikiから)

沿革
1936年05月 19日 日本海軍航空基地
1945年08月 終戦
1946年    中華民国空軍
1950年   米空軍(1979年まで)
1998年01月 1日 民間空港開港(旅客機事故により8ヵ月後閉鎖)

関連サイト:
新竹市政府サイト 
盟軍記載的二戰臺灣機場(21コマ) 
U.S. Army Map Service,/Shinchiku 
ブログ内関連記事■       

この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「飛行場記録 内地(千島、樺太、北海道、朝鮮、台湾を含む) 昭和十九、四、二〇調製 第一航空軍司令部」

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