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台湾の飛行場 [└日本統治時代の飛行場]

台湾観

ということで、2021年3月22日から始まった台湾強化月間、これにて終了です。

毎週月曜日に台湾の飛行場を1つずつアップした訳ですが、

アップしたその日に閲覧数が30~40になってました。

それだけの方が毎週月曜日に見に来て下すったんですね。

お付き合いいただきまして、ありがとうございましたm(_ _)m


学生時代歴史が大嫌いで、余りに無知なオイラは、

日本統治時代から終戦を経て現代に至る台湾の歴史の一端について、記事作成の過程で学ぶ機会を得たのですが、

掩体壕等当時の遺構が台湾各地で展示施設化していたり、中にはこうした遺構がよく見えるようにと、

わざわざ建物を撤去するケースまであり、当時を懐かしむ手記も多数拝見しました。

一方で、日台間には霧社事件に象徴される凄惨な歴史も存在しており、

当時に関して、現在でも日本に対する否定的な意見が存在するのもまた事実。

「台湾は親日国だよね~(o ̄∇ ̄o)」などという単純な関係では決してありませんでした。

台湾についての情報量が格段に増えたことにより、台湾観を得る機会に恵まれました。

これだけでも、台湾の飛行場を記事化して良かったと思います。


錯綜する情報

台湾の飛行場記事を作り始めた時、オイラの手持ちの資料は、

防衛研究所収蔵資料「航空路資料第10 台湾地方飛行場及不時着陸場 昭和15年4月刊行 水路部」
防衛研究所収蔵資料「飛行場記録 内地(千島、樺太、北海道、朝鮮、台湾を含む) 昭和十九、四、二〇調製 第一航空軍司令部」

の2資料だけでした。

この2資料では台湾について、合計22の飛行場が扱われており、

当時日本軍が台湾に造った飛行場はこれで全てだと思っていました。

ところがこれがとんでもない勘違いで、その後実際に記事作成を進める過程で、

未知の飛行場が出るわ出るわで、最終的に70まで達したのでした(XДX)


当時の台湾総督府、日本軍が台湾全島に建設した飛行場の全体像は、実は未だつかめておらず、

研究途上の分野となっています。

オイラの独断で言わせていただければ、その最大の理由は、

当事者である日本側に全体を網羅する系統立てた資料が存在しない(残っていない)ことです。

1つの飛行場に限って見れば、日本側に非常に詳細な資料が残っているケースもあるにはあるのですが、

「台湾の飛行場全体」という観点で言えば、連合軍(主に米軍)の作成した資料、航空写真が、

質、量共に日本側の資料を遥かに凌駕しています。

終戦時に膨大な資料を焼却処分した側と、そんな必要まったくなかった側。

(ちょっと違うけど)まさに「歴史は勝者によって作られる」ですね。

ところが連合軍作成資料は文字通り世界中に散逸してしまっており、

あちこちの国に出掛けて行って断片情報を収集、解析しなければなりません。

その飛行場がいつ、誰によって、どんな規模で建設され、その後どんな変遷を辿ったのか、

判断の拠り所とすべき資料がこの有様ですので、情報が混乱する元となります。

様々な資料を比較することにより、特定の資料に間違いがあることが明らかになったケースもあります。

地元台湾、日本、連合軍で飛行場の名称が異なっていることも混乱に拍車をかけています。

これら紙媒体に加えて、地元の方の証言もあります。

実際に現地で見てこられた方の証言は非常に貴重なのですが、

軍機の外からその方の目で見た部分に限られており、既に80年近い時間経過という問題もあり、

資料と食い違うことが多々あります。


飛行場の主体が台湾総督府から陸軍、海軍に移管したり、陸軍と海軍の間でも移管、共用があったり、

飛行場の隣接地に新たに滑走路が建設されるケースが多数あるのですが、

それが元の飛行場の拡張なのか、別個の新飛行場と見なすべきのか、

はたまたそれが本物の飛行場なのか、囮の飛行場なのか、

建設途中で中止したのか、計画だけで終戦を迎えたのか等々、

一次資料に不備があるため、資料の取捨選択、解釈の違いが様々な二次資料を生み出します。

こうしたことから、それぞれの飛行場の基本情報について意見が統一されていないどころか、

終戦までに日本は台湾に一体幾つの飛行場を造ったのかでさえ、資料によりまちまちです。

台湾全島の飛行場リストを掲げた資料は複数あるのですが、

飛行場の数は統一しておらず、オイラの知る限り最多は74です。

これ以外にも、「〇〇にも飛行場があったとする地元の方の伝承がある」等、

噂レベルまで含めるなら、飛行場の数は更に増えます。

日本国内だって、末期に建設された秘匿飛行場の情報はかなりあやしいですからね。

事程左様に情報が錯綜しているため、

オイラとしては、拙ブログが誤情報の発信源になって迷惑をかけてしまうことを避けようと考え、

・出典の確かな資料で紹介されていること
・且つ複数の資料から確認がとれる情報であること

この条件に合う飛行場だけを記事にしたつもりです。

そんな訳で、拙ブログ内ではこれで台湾編は一応終了なのですが、

これは、「現時点でオイラの知りうる限り確かな情報を全て出し尽くした」ということです。

今後も新たに情報が入手できれば、記事の追加、修正をし続けようと思います。


唯一無二

前述の通り本家日本側に、台湾に建設した飛行場に関する系統立てた資料が存在しません。

そのため当時の飛行場の全体像を解明すべく、

(日本ではなく)台湾の大学、諸機関が国費で米国公文書館、日本の防衛研究所等に赴き、

資料の収集、解析を行っています。

台湾の各サイト様内で、防衛研究所収蔵資料からの引用がしばしば見受けました。

漢字だらけの黒々とした記事の中に、ひらがな混じりの資料がでてくると、なんだか不思議な感じがします。

台湾の戦時中の飛行場情報が世界中の大学、公文書館、図書館に散逸してしまっている訳ですが、

日本の戦時中の飛行場情報も、同様に世界中に散逸してしまっています。

日本でも、外邦図調査のため米国公文書館、資料を収蔵している諸外国の大学に赴くことはありますが、

当時の飛行場に的を絞ってこれだけの規模の調査というのは、オイラの知る限り行っていません。

勝手に名前出して申し訳ないですけど、わざわざ飛行場資料を求めて米国まで赴いた方は、

オイラはPUTINさんという個人(チーム?)以外知りません。


文字通り世界中から収集してきた膨大な資料について、台湾では解析、比較、議論がなされており、

台湾の様々なサイト様にてその一端を垣間見ることができます。

拙記事作成の過程で、これらサイト様にはたびたびお世話になったのですが、

これらのサイト様を拝見してつくづく感じたのは、全体像を解明しようとするその熱量でした。


拙ブログでは、一連の「日本統治時代の飛行場」シリーズとして、千島、樺太、朝鮮、台湾、

それから現在中国に取りかかっていて、

1つ1つの飛行場について、必ず現地語でその飛行場について検索するのですが、

地元サイト様に出てくる内容の圧倒的大多数(98.5%・オイラ脳内調べ)は、

「日本軍がここに飛行場を建設したせいで大変な被害を被った。1945年の勝利で飛行場を取り返した」

という内容で占められています。

他地域では、母語のWikiに飛行場記事があればマシな方で、

その飛行場についての唯一の情報が防衛研究所の資料のみ。

なんてことはザラです。

恨み節を書くお気持ちは理解しますし、台湾にもそうした記事はあります。

そんな中、客観的に飛行場の姿を捉えようとする視点で書かれた記事数で、

台湾は唯一無二の突出した存在です。


上の方で「台湾の資料は内容がまちまちで混乱する」的なことを書きましたが、

これって、他地域とは比較にならない程の情報量だからこそ、比較、議論が可能である。

ということの裏返しなんですよね。

特に TAIWANAIRBLOG様はグーグルマップ上に非常に精密な飛行場の作図を載せておられ、

管理者の張維斌先生に問い合わせたところ、この作図の掲載許可について快諾頂き、

拙ブログ内で随分使用させていただきました。


台湾編に取りかかったのが2021年2月7日、70の記事作成が全て終了したのが、2021年6月30日。

「本当にありがとうございました」とメールしたところ、

「どういたしまして。お役に立ててうれしいです。台湾にワクチンを寄付してくれた日本に感謝します。」

という返信を頂いたのでした。


一連の台湾シリーズ作成で大いに参考にさせて頂いたサイト様を以下列挙します。

本当はまだまだご紹介したいサイト様があるのですが、

台湾編は、こうした地元サイト様の貴重な情報がなければ、決してつくれませんでした。

日治下臺南永康機場的時空記憶 
盟軍記載的二戰臺灣機場 
太平洋戰爭下日本陸軍於高雄地區的機場整備與航空隊部署 
U.S. Army Map Service/Formosa (Taiwan) City Plans 
飛行場の測候所 
TAIWANAIRBLOG 

最後になりますが、張維斌先生はじめ、多数のサイト管理者様に深く感謝申し上げます。

ありがとうございました。

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TOKI AIR、ATR72-600型初号機受領 [├雑談]


TOKI AIR サイト内から作成

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@フランストゥールーズ:TOKI AIR1号機(TOKI AIR株式会社 Twitterから。2枚とも)


10月10日、TOKI AIRはついに初号機を正式に受領しましたね。

「受領した」といっても、機体メーカーである仏ATRがアイルランドの航空機リース会社NAC

(ノルディック・アビエーション・キャピタル)を通じて、TOKI AIRに引き渡した。

ということで、実際に初号機が日本に飛来するのは、11月初旬、

そして2023年3月下旬以降の就航を目指しているのだそうです。

ここからはリース料が発生しますから、もう待ったなしです。

いよいよこの段階まできたんですね~。


TOKI AIRの拠点となる新潟空港は、羽田の北約274kmに位置しています。

オイラとしましては、TOKI AIRに「羽田バイパス」の役割を担って欲しいと期待しております。

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台湾・歸仁飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]

   (未訪問)  




台湾 台南市 帰仁(きじん)区にあった日本軍の「歸仁飛行場」。

現在は中華民国陸軍の飛行場になっています。

■「歸仁機場(歸仁飛行場)的歷史-陸軍歸仁輕航基地」というサイト様(下記リンク参照)に地図があり、

先頭のグーグルマップはこの地図から作図させて頂きました。

同サイト様には当飛行場についての詳しい解説もあり、それによりますと、

昭和19年(1944年)に設置された特攻機の出撃基地。

「農地を埋めて飛行場を建設することにより、日本軍の食糧と体力を奪うことを目的に、

連合軍側の人物が日本軍に潜入してこの飛行場を造らせたのだ」

未確認ながらこんな民間伝承がある。

とのことです。


また、十字滑走路の長さについては、1,800m、1,280m等、幾つかの数字が並んでいるのですが、

実際に作図して長さを測ってみると、飛行場の南北方向の長さは1,600m、

いかにも滑走路っぽい部分の長さが1,070mしかありませんでした。

■「盟軍記載的二戰臺灣機場」(下記リンク参照)によれば、

連合軍は当飛行場を、MAD(Medium Bomber Airfield:中爆撃機飛行場)に分類しています。

これは、4,500ft(約1,370m)以上の滑走路を備えていることが条件です。

とあります。

地図をそのまま作図するとこの条件を満たしていないことと、

上述の通り滑走路の長さについて様々な数字が存在することから、

もしかしたらオイラが作図に使用した地図は、

「ここにこんな形の滑走路アリ」という記号のようなものか、かなりアバウトなものかもしれません。




     台湾・歸仁飛行場跡地         
歸仁飛行場 データ
設置管理者:日本軍
種 別:陸上飛行場
所在地:台湾台南市帰仁区七甲里
座 標:22°58'46.6"N 120°17'04.2"E
標 高:18m
滑走路:1,800m(18/36)、1,280m(09/27)
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
1944年 設置

関連サイト:
歸仁機場(歸仁飛行場)的歷史-陸軍歸仁輕航基地 
盟軍記載的二戰臺灣機場(21コマ) 
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台湾・二林飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]

   (未訪問)  




台湾彰化県二林(じりん)鎮にあった「二林飛行場」。

先頭のグーグルマップは、

■飛行場の測候所/前進二林飛行場! から作図させて頂きました(下記リンク参照)。

同サイト様によれば、当飛行場は1944年6月に農地を収用し、日本海軍によって建設されました。

また、付属施設はないとのことです。

■「盟軍記載的二戰臺灣機場」(下記リンク参照)によれば、

連合軍は当飛行場をMLG(Medium Bomber Landing Ground:中爆撃機着陸場)に分類していました。




     台湾・二林飛行場跡地         
二林飛行場 データ
設置管理者:日本海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:台湾彰化県二林鎮中西里
座 標:23°53'24.7"N 120°20'57.8"E
標 高:10m
飛行場:1,500mx1,150m(不定形)
滑走路:1,500mx100m
方 位:18/36
(データはグーグルアースから)

沿革
1944年06月 15日 収用

関連サイト:
飛行場の測候所/前進二林飛行場! 
盟軍記載的二戰臺灣機場(21コマ) 
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台湾・宜蘭(南)飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]

   (未訪問)  




台湾北部、太平洋側に位置する宜蘭(ぎらん)県。

与那国島から最も近く、南部山岳地帯は2,000mを優に超えるため、

多分与那国から肉眼で見えているのはこの辺りではないかと。

宜蘭には、北、南、西と、3つの宜蘭飛行場がありました。

先頭のグーグルマップは、U.S. Army Map Service,/Giran から作図しました(下記リンク参照)。

青マーカーの辺りから北東に延びているのが、最も古い「宜蘭(北)飛行場」。

その南東側にあるのが、V字滑走路の「宜蘭(南)飛行場」。

西側にちょっと離れているのが「宜蘭(西)飛行場」です。

この記事ではV字滑走路の「宜蘭(南)飛行場」について取り上げます。


■太平洋戰爭下日本陸軍於高雄地區的機場整備與航空隊部署(下記リンク参照)にはこうありました。

鳳山、宜蘭、小港、八塊等、日本では珍しいV字形が採用されたのは、

周囲に拡張可能な土地が不足していたためでした。

飛行場敷地は、近くの地形、集落、鉄道、道路、川、谷の障害物によって制限を受けます。

■「盟軍記載的二戰臺灣機場」(下記リンク参照)によれば、

当飛行場は連合軍によりMAD(Medium Bomber Airfield:中爆撃機飛行場)に分類されていました。


有蓋掩体壕、もしくはその地割が(オイラが数えた範囲で)9ヶ所現存しています。

特にその中の1つは「員山機堡」として整備され、記念館も併設しています(青マーカー)。

先頭のグーグルマップをご覧いただきますと、誘導路がそのまま現在まで道路として残っている部分が多いですね。

また誘導路に沿ってウサギの耳がたくさんあります。

これはU.S. Army Map Service,/Giran の描き方を見ると、駐機場ではなく無蓋掩体壕だと思うのですが、

(オイラが見た範囲では)1か所だけ、この地割が残っています(赤マーカー地点)。

現地で見てみたい~。


元々飛行場だった部分、滑走地区がかなり拡張され、西側が鋭く斜めになってますが、

これは作図の参考にしたU.S. Army Map Service,/Giran が見切れているせいです。


在台日本人向けTAIPEInavi/特攻隊飛行跡地(宜蘭市)というサイト様によれば、

宜蘭市内には南北、そして西にも軍用飛行場が建設され、民間機は北飛行場に限られていたこと、

南飛行場は1941年に建設されたこと等記されていました。

また「宜蘭飛行場」で画像検索すると、南飛行場の2本の滑走路が東側で結合してV字型になっている

ものが多数出てきます。

U.S. Army Map Service,/Giran では、南飛行場の北側の滑走路について、

「1944年10月工事中」と記されており、この後工事が続いて結合してのではないかと。




     台湾・宜蘭(南)飛行場跡地         
宜蘭(南)飛行場 データ
設置管理者:日本陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:台湾宜蘭県宜蘭市建業里
座 標:24°43'56.4"N 121°45'00.5"E
標 高:7m
滑走路:1,700mx200m(09/27)、1,600mx70m(05/22)
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)

沿革
1941年    南飛行場建設
1945年08月 終戦

関連サイト:
盟軍記載的二戰臺灣機場(21コマ) 
U.S. Army Map Service,/Giran 
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