山口県・和佐基地跡地 [├国内の空港、飛行場]
2024年5月訪問
撮影年月日1947/03/12(昭22)(USA M114 54)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
山口県大島郡周防大島町和佐海岸。
大戦末期、ここに海軍の「和佐基地」がありました。
基地を設営し、浜辺で水上機の訓練を実施したのですが、ここは非常に特異な基地でした。
当基地については、ブログ大日本者神國也■ の盡忠報國様から送って頂いた情報で初めて知りました。
以下、送って頂いた資料から一部引用させて頂きます。
盡忠報國様、貴重な資料をどうもありがとうございましたm(_ _)m
六三一空の訓練状況
「晴嵐」の航空隊六三一空は、十九年十二月十五日、鹿島空内に開隊したが、先にも述べたように、「晴嵐」は横空水上機班で実験飛行中だったので、開隊時には「晴嵐」の配属は一機もなかった。
二十年一月はじめには、実験機二機を含め「晴嵐」は四機となった(中略)
さて、呉空における六三一空の飛行訓練はこうしてはじめられたが、呉空は山が迫っているなど空域が意外に狭く、水偵ならまだしも、高速、高性能な「晴嵐」「瑞雲」の訓練には不向きであった。
事実、藤村昌一、園田直両上飛曹の「瑞雲」が空中事故を起こして殉職するという状況だったので、訓練適地を他にもとめることになり、福永飛行長と浅村飛行隊長が空から探した結果、瀬戸内海屋代島の和佐海岸を選定した。このため、私たち六三一空基地要員も早速、連絡船で和佐に渡り、海岸周辺の民家数軒を借り受け、三月五日、にわか造りの基地を設営した。
かくて、二、三日後、有泉司令は軍令部の藤森参謀に電話を入れ、「瀬戸内海屋代島の和佐に訓練基地を設けた。訓練状況を見て欲しい」
と連絡したので、同参謀は直ちに呉に出向き、呉空から出迎えの「晴嵐」で和佐に飛び、訓練状況を視察した。
視察後、藤森参謀は有泉司令に、「『晴嵐』の着水状態が悪いなあ」
と言ったところ、司令は笑いながら、「そうなんだ。しかし、あんまり着水せんでもいいからなあ。(実戦では大型爆弾を積むためフロートを着けないで発進し、帰投時は胴体着水して機体は海没放棄、搭乗員だけを収容することに
なっていたことを意味する)、でも、ひっくり返ってはいかんなあ」
と答えたあと、「立派に決行するよ」
と決意を述べた。(中略)
一方、屋代島の和佐基地は呉空にかわる適地として選ばれた水上機基地だったが、当然のことながら和佐の海岸は砂浜のため、「晴嵐」がエンジンをふかすと砂が舞い上がり、これが機体の組み立てジョイント部分に入り込み、再三トラブルを起こすなど、和佐海岸も「晴嵐」の訓練基地としては不適当であった。
また、三月十九日には米艦載機による呉軍港急襲があったし、二十七、三十日の両日には、B29により瀬戸内海西部海域一帯におびただしい投下機雷が敷設され、この時期、瀬戸内海はすっかり危険海面に一変し、「潜水空母」の訓練どころではなくなっていた。
ということで、ここは「晴嵐」の訓練のために使用された基地でした。
「潜水空母」などという、まるでSFの世界の架空兵器のような、当時世界最大の潜水艦「伊四百」。
「晴嵐」は、そこに搭載される水上攻撃機だったのですね。
乗りものニュース:「潜水空母」伊四百型はなぜ生まれ、何を残した? 旧海軍、乾坤一擲の「秘密兵器」■
にて「伊四百」について分かり易く扱われていました。
赤マーカー地点周辺
大戦末期、ここで「潜水空母搭載型水上攻撃機」という、世界に類を見ない水上機の訓練が行われていたのですね。
しかしキレイな砂浜と海です。
山口県・和佐基地跡地
和佐基地 データ
設置管理者:海軍
種 別:水上機基地
所在地:〒742-2518 山口県大島郡周防大島町和佐
座 標:33°54'54.6"N 132°22'51.3"E
(座標はグーグルアースから)
沿革
1945年03月 5日 訓練基地として選定。周辺の民家数軒を借り受け、基地設営
27日,30日 瀬戸内海西部海域一帯に大量の投下機雷が敷設され、危険海面となる
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