熊本県・熊本北秘匿飛行場(高遊原飛行場)跡地 [├国内の空港、飛行場]
2024年5月訪問
熊本県菊池郡大津町。
先頭のグーグルマップ、西側にスクロールして頂くと、すぐ熊本空港の滑走路になっています。
この地域は「高遊原」(たかゆうばる)と呼ばれる溶岩台地(標高150~200m)であり、
ここに「熊本北秘匿飛行場(高遊原飛行場)」が建設されました。
■九州の戦争遺跡 85p
熊本北秘匿飛行場
阿蘇郡西原村所在。戦史叢書に記載の「熊本北」飛行場と想定でき、小字名から「高遊原」飛行場とも呼称。菊池郡菊陽町戸次、菊池郡大津町岩坂との境、現熊本空港東端部付近に所在します。
1945年4月頃、原野を拓き陸軍直営部隊で造営された模様で、現空港滑走路東端付近から、東西方向に平坦な原野を全長700mにわたり利用し、周辺にはそば畑・すすき野が拡がっていました。
1945年7月頃、駐機所には鉄網を敷設し全金属製低翼固定脚単座の九七式戦闘機3機が常駐していました。
当時旧制大図中学校は三菱の熊本製作所の学校疎開工場となり、重爆撃機飛龍のエンジンカバー部品等を3年生が製作し、下級生は大図飛行場や本飛行場の造営等に学徒徴用されていました。
熊本北飛行場滑走路周辺部には燃料秘匿のため一穴にドラム缶2本が埋設されました。また大図中学校行動に秘匿されていたドイツ製練習機(四式基本練習機)の複数機を分解し、馬車に乗せ本飛行場に運んだとの証言もあります。
本秘匿飛行場は7月、第30戦闘飛行集団の配当飛行場となりますが、常駐部隊等は確認できていません。
防衛庁防衛研修所戦史室 編『本土防空作戦』,朝雲新聞社,1968. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3448989 (参照 2024-07-10)(400コマ)
防衛研究所/戦史史料・戦史叢書検索-横断検索で【熊本北】と検索したところ、1件だけヒットしたのが、
上に貼った「付図第五 航空総軍有線通信網図(昭和二十年七月十日における)」でした。
「筑後」とか「玉名」とか飛行場名があるので、
すぐ上のグーグルマップにプロットしてみました。
(おおよそですが)それぞれの飛行場の位置関係をちゃんと示していますね。
「熊本北」が「太刀洗」と破線で結ばれており、これは備考に「未完成電話回線」とありました。
また、西南西に大きな丸で「熊本」がありますが、
これは陸軍熊本飛行場(後の旧熊本空港)との位置関係をきちんと示しています。
飛行場の具体的な位置について上記資料には、
「現空港滑走路東端付近から、東西方向に平坦な原野を全長700mにわたり利用し」
とあります。
1947年の航空写真で、説明にある部分を探したところ、
パッチワークのような田畑の中に、滑走路っぽい真っ直ぐな地割があり、
その通りの線を拾って作図し、長さを測ってみたところ、753mx33mでした。
当飛行場の位置情報については、探してもこれ以上出てこないため、
多分ここにあったのではないかと。
熊本県議会事務局 編纂『熊本県議会史』第7巻,熊本県議会,1994.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3025507 (参照 2024-08-21)■
昭和41年12月定例熊本県議会 一般質問から。
これは完全に余談ですが。
前述の通り、熊本北飛行場は高遊原台地に建設されたため、高遊原飛行場とも呼ばれました。
戦後約二十年を経て、空港を熊本市内からココ高遊原台地に移設しよう、という話になった時、
再びこの名称が登場したのでした。
国立国会図書館デジタルコレクションで【高遊原飛行場】と検索すると、
熊本空港を指して、この「高遊原飛行場」という名称を用いる事例が幾つもヒットします。
赤マーカー地点。
滑走路方向
熊本県・熊本北秘匿飛行場(高遊原飛行場)跡地
熊本北秘匿飛行場(高遊原飛行場) データ
設置管理者:陸軍
種 別:陸上秘匿飛行場
所在地:熊本県菊池郡大津町岩坂
座 標:32°50'42.5"N 130°52'36.3"E
標 高:191m
滑走路:753mx33m?
方 位:08/26
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)
沿革
1945年04月 この頃陸軍直営部隊により造営されたと思われる
07月 この頃、駐機所には鉄網を敷設し九七式戦闘機3機が常駐
関連サイト:
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
九州の戦争遺跡
熊本県・東山公園 殉空の碑 [├場所]
2024年5月訪問
熊本県玉名郡和水町にある東山公園。
ここに「殉空の碑」があります。
小さな公園ですが、駐車場とトイレが整備されていて、赤矢印の所から登っていきます。
この写真だと緑のスロープのように見えますが、
太平洋戦争も終局を迎えた昭和二十年八月八日午前十時沖縄より北九州方面の攻撃に向かうボーイングB29爆撃機の大編隊の眞只中に敢然と単機迎撃をかけた大村海軍航空隊所属石塚少尉搭乗の紫電戦闘機が此の地の上空で壮烈なる散華を遂げた
当時此の地は黄楊・這松の群生する原野であつたが遺体捜索に当つた村人達によつてねんごろに荼毘に附され遺骨は後日遺族のもとに手厚く引き渡された
戦後昭和二十一年九月十六日地元浦部及び萓原地区の青年団員の手で此処戦死の地に墓碑が建立されたが爾来四季廻り時流れて三十有余年此の地も農業の近代化によつて蜜柑の植栽が進み本町の一大オレンジベルト地帯を形成し往時の面影は一変した
なかんずく基幹農道の建設計画に伴ない墓碑の移転を余儀なきに至らしめるに及び町内在住の旧海軍飛行予科練習生出身生存者有志相計り七生報国悠久の大義に殉じた
同海軍少尉の冥福を心より祈りつゝ此処三加和町明治百年記念公園の一隅に遷置せるものである
ここに三十三回忌悲傷の日を迎えるに当り縁起を記す 合掌 昭和五十三年八月八日 三加和町内居住旧海軍飛行予科練習生 生存者有志一同
熊本県・東山公園 殉空の碑
東山公園 殉空の碑 データ
所在地:熊本県玉名郡和水町
座 標:33°05'23.8"N 130°36'23.1"E
標 高:258m
(座標、標高はグーグルアースから)
沿革
1945年08月 8日 石塚少尉、B29に単機迎撃
1946年09月 16日 墓碑建立
1978年08月 8日 墓碑遷置、墓誌設置
関連サイト:
ブログ内関連記事■
長崎県・大村海軍航空隊跡地 [├国内の空港、飛行場]
2024年5月 訪問
1/25000「武留路山」大正13年測図「今昔マップ on the web」から作成。開隊から2年後
撮影年月日1948/01/19(昭23)(USA M743-1 36)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
「佐世保航空隊設備訓令工事2(6)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050615400、大正11年 公文備考 巻133 土木32(防衛省防衛研究所)(上3枚とも)
沖に長崎空港を望み、南西に陸上自衛隊 竹松駐屯地、そして住宅地と商業施設が広がるこの場所に、
「大村海軍航空隊」がありました。
また、「大村海軍航空隊」の南側に隣接して、当時は「第21海軍空廠」があり、
現在は、海上自衛隊 大村航空基地等になっています。
福重ホームページ様に当航空隊を分かり易く扱ったページ■ があり、
先頭のグーグルマップはこのサイト様と上に貼った航空写真から作図させて頂きました。
■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」
基地名:大村空 最寄駅ヨリノ方位距離:大村線竹松駅W2 建設ノ年:1923 飛行場 長x幅 米:1400x1100芝張 主要機隊数:小型練9.0 主任務:教育 隧道竝ニ地下施設:居住1000名、指揮所、電信所、燃料庫、爆弾庫、倉庫、工業場 掩体:小型有蓋5 小型隠蔽100
基地名:大村基 最寄駅ヨリノ方位距離:大村線竹松駅W1 建設ノ年:1944 飛行場 長x幅 米:上記共用 主要機隊数:中型2.0 主任務:作戦 隧道竝ニ地下施設:上記共用 魚雷同時調整12本 同格納庫150本 掩体:中小型隠蔽100
■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調
「大村空開隊(T11.12.1)(大11建)」
資料にある通り、大正11年開隊と国内屈指の歴史と規模を誇る基地でした。
赤マーカー地点。
当時はここから奥に向って航空隊敷地が広がっていました。
(おまけ)
赤マーカー地点付近で180°回頭すると、海上自衛隊 大村航空基地。
当時は「第21海軍空廠」でした。
青マーカー地点。
飛行場跡地から程近い場所に下原口公園があり、有蓋掩体壕が遊具として整備されています。
以下ずらずらと。
長崎県・大村海軍航空隊跡地
大村海軍航空隊 データ
設置管理者:海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:長崎県大村市富の原2丁目
座 標:32°56'32.4"N 129°56'13.0"E
標 高:11m
飛行場:1,400mx1,000m(芝張) ※1100m×1200m(後に1,600m×1,400mに拡張等諸説あり)
(座標、標高はグーグルアースから。飛行場広さは各資料から)
沿革(新編大村市史 第4巻 (近代編)351p~)
1922年12月 1日 開隊
1937年08月 南京に渡洋爆撃実施
1940年11月 15日 実用機教程練習航空隊指定
1944年08月 1日 戦闘航空隊(草薙部隊)開隊
1945年03月 この頃特攻隊(神剣隊)編成開始
05月 5日 大村海軍航空隊解隊
08月 終戦
関連サイト:
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
新編大村市史 第4巻 (近代編)
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」
防衛研究所収蔵資料「終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調」
長崎県・針尾送信所跡
2024年5月訪問
撮影年月日1962/05/21(昭37)(MKU627X C7 3)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
長崎県佐世保市針尾中町にあった「針尾送信所」。
※当記事は現地の説明版を参照させて頂きました。
針尾送信所の無線塔は、電波を発信するアンテナを支える主塔として建てられたもので、
高さ450フィート(137.16m)の鉄筋コンクリート造3基から構成されています。
各無線塔は、1000尺(303.03m)の正三角形に配置されており、
一、二号塔は大正7(1918)年10月、三号塔は大正8(1919)年12月から工事が始められ、
一号塔から順に大正11(1922)年4、5、7月に完成しました。
工事費は93万6,822円で、設計・監督は佐世保鎮守府建築科技師の吉田直氏によるものです。
これは1基当たり約50億円に相当するのだそうです。
三号無線塔。
頂部 外径:10フィート(3.048m) 厚さ:9インチ(22.86cm)
底部 外径:40フィート(12.19m) 厚さ:30インチ(76.2cm)
鉄筋コンクリート技術は1890年代にフランスで発明され、1895年頃日本に導入。
当時の海軍は、佐世保市をコンクリート建造物の「実験と実践の場」として考えていたようで、
当無線塔建設にもこの技術が採用されました。
実際の建設の際、塩分の少ない川砂や砂利を布でふいて使い、時間をかけた丁寧な施行が行われました。
塔の表面は、建設後100年を経ても型枠の跡が鮮明に残り、顕著な劣化が見られないほどです。
このことは、鉄筋コンクリート技術が国内に導入されてから僅か20余年でこの品質を実現したということであり、
高品質の鉄筋コンクリートの構造物として残されてきた貴重な構造物となっています。
三号無線塔入口
アンテナケーブルの振動を吸収する重錘(防振装置)やケーブルの維持管理用のウインチが残されています。
基礎部 直径:80フィート(24.38m) 厚さ:3フィート(91,5cm)
頂上に一辺18m正三角形、重さ9トンの簪が設置されています。
電信室
一辺300mの正三角形に配置された無線塔の中心に建設されました。
「ニイタカヤマノボレ」はここから送信したとの説がありますが、
現在までのところ、そのことに関する史料は見つかっていません。
1997年まで海上保安庁が使用していたのだそうです。
アーチ状の屋根構造になっていますが、
この上に大量の砂と土砂を乗せて、爆発の衝撃を吸収する耐爆構造なのだそうです。
一号無線塔(上2枚とも)
コンクリートの打設作業は1回につき、4フィート6インチ(1.3717m)で進められ、
100回目で450フィート(137.16m)に達する計算で建設されたのだそうです。
2022年12月、市文化財課は送信所の長期保存に向け、劣化状況や耐震性を検証する調査を始めました。
(以下リンク先2つの記事から)
長崎新聞/なぜ倒れない? 136メートルの無線塔 佐世保の針尾送信所 建設100年、基礎の仕組みが判明2023/09/02■
NHK/旧日本軍「針尾送信所」の「無線塔」基礎部分を特別公開2023/9/4(動画あり)■
この調査は、一号無線塔の基礎部を直接確認するため、深さ6mの掘削を含むものでした。
その結果、地中に埋まる基礎部は"皿をひっくり返したような形"になっていて、
深さ6m、地表部分直径12m、底部分直径24の鉄筋コンクリート製。
基礎の下は凝灰岩と呼ばれる岩盤で、これは「九州で一、二を争うほど」の強度であり、
この強度に優れた岩盤だったからこそ、この場所が選ばれたと考えられるのだそうです。
この岩盤を手作業で平たんにし、更に薄いコンクリートで水平にし、
その上に"皿をひっくり返したような形"の基礎を乗せて土を盛り、
その圧力で現状を保っていることが判明したのだそうです。
強度の優れた岩盤の上にこうした構造の基礎が築かれたため、
100年経ってもびくともしない状態を保っているのだそうです。
佐世保市文化財課の方はインタビューで、
高さ137.16mの巨大な無線塔と比較すると、僅か6mの基礎部はかなりきゃしゃな感じだが、
100年前の技術者たちが「このきゃしゃな基礎でいいんだ」と計算して作っている。
今後100年、200年後の人たちにどう残し続けるのか、
調査でわかった成果をもとに工事・修理をしていきたい。
という内容を語っておられました。
長崎県・針尾送信所跡
針尾送信所 データ
設置管理者:海軍
所在地:長崎県佐世保市針尾中町
座 標:33°04'00.8"N 129°45'05.2"E
標 高:54m
(座標、標高はグーグルアースから)
沿革
1918年10月 1,2号塔工事開始
1919年12月 3号塔工事開始
1921年 事務所、兵舎建設
1922年04月 1号塔完成
05月 2号塔完成
07月 3号塔完成
11月 竣工、開局
1948年 佐世保海上保安部針尾送信分室開設。海軍施設を引き継いで使用
1954年 海上自衛隊発足。施設を共同使用
1975年 無線塔頂部の簪(空中線支持構造物)撤去
1997年 海上保安庁の無線施設更新。役目を終える
2009年 市、基礎の形や地中の土を調べるためボーリング調査
2013年03月 6日 国重要文化財指定
2022年 12月 市、基礎部掘削調査
2023年 9月 掘削した基礎部分の特別公開実施。その後埋め戻し
関連サイト:
ながさき旅ネット/針尾送信所 針尾無線塔■
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
現地の説明版