徳島県・金磯海岸 [├場所]
2024年5月訪問

1/25000「立江」大正6年測図「今昔マップ on the web」から作成
徳島県小松島市金磯町金磯海岸。
大正12年、日本航空輸送研究所の井上氏は、ここに飛行機の格納庫を建設しました。
■徳島市史 第3巻 (産業経済編・交通通信編)753p
徳島において航空思想を普及し民間飛行士を養成するため、大正十二年徳島市大字富田浦町字東富田(現秋田町)に出張所を開設、勝浦郡小松島町金磯海岸に総工費一万5000円をもって、飛行機三機を収容できる格納庫を建設し、張三等飛行士を教官に任命した。
水上機による民間定期航空路線開設が大正11年でしたから、その翌年のことです。
「航空思想を普及し民間飛行士を養成する」という目的だったんですね。
因みにお隣の横須の海岸には定期便の水上機基地がありました。


赤マーカー周辺
徳島県・金磯海岸
金磯海岸 データ
設置管理者:井上長一
所在地:徳島県勝浦郡小松島町(現・小松島市金磯町)金磯海岸
座 標:33°59'46.5"N 134°36'21.4"E
(座標はグーグルアースから)
沿革
1923年 現秋田町に出張所開設、金磯海岸に格納庫建設
関連サイト:
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この記事の資料:
徳島市史 第3巻 (産業経済編・交通通信編)
徳島県・日本航空輸送研究所津田川口着水場跡 [├国内の空港、飛行場]
2024年5月訪問


1/25000「徳島」大正6年測図「今昔マップ on the web」から作成(2枚とも)
大正時代、ここに日本航空輸送研究所の「津田川口着水場」がありました(先頭のグーグルマップ赤マーカー)。
コトバンク/津田川口番所跡■ によれば、
「津田川口は海上交通の要衝で、徳島城下に近かったことから重視され、同所に番所が設置されたものと思われる。」
加えて、1600年代の文献に登場するとありました。
由緒ある場所なのですね(@Д@)
■徳島市史 第3巻 (産業経済編・交通通信編)751p
1 堺徳島間の民間航空路開設
板野郡一条村出身の民間飛行家井上長一は、航空思想の普及・航空界の進歩発展を促進するとともに民間航空事業を営むため、大正十一年大阪府堺市大浜海岸に日本航空輸送研究所を創立、航空輸送の業務・民間飛行士の養成・空中写真の撮影・空中宣伝などの航空業務を開始した。
航空輸送業務については、とくに郷里徳島への航空路開設に力をそそぎ、しだいに四国九州などにも延長していた。堺・徳島間の輸送計画はつぎのようなものであった。
一 毎日午前九時に堺市大浜海岸を出発、和歌山県和歌ノ浦海岸・徳島
市津田川口を経由して勝浦郡小松島町小松島海岸に着水する
二 拡張予定航空路は、堺大浜海岸を出発し、神戸・明石・高松を経由
して徳島に着水する
三 輸送業務の開始は大正十一年十一月十五日とする。毎日一往復し、
所要時間は、堺大浜海岸・和歌ノ浦海岸間五二㌖を三三分、和歌ノ
浦海岸・徳島市津田川口間五七㌖を三七分、徳島市津田川口・小松
島海岸間一四㌖を一〇分で飛行する
四 使用飛行機は、伊藤式水上飛行艇・横廠式水上複葉機・ソツピース
式水上複葉機・モーリスファルマン式水上複葉機などとする
五 飛行機の操縦は、一等飛行士西村英雄・二等飛行士久保田亀之助・
二等飛行士井口実・三等飛行士張徳昌・長尾三等飛行士があたる
六 輸送の運賃は、堺大浜海岸・和歌ノ浦海岸間を乗客一人二〇円・貨
物一封度(ポンド・約四五三・五九グラム)一〇銭、和歌ノ浦海岸・徳
島市津田川口・小松島海岸間を乗客一人二〇円・貨物一封度一
〇銭、徳島市津田川口・小松島海岸間を乗客一人一〇円・貨物
一封度五銭とする
七 設備は、各着水場に格納庫を各一棟、各格納庫に揮発油・各種
の油その他応急修理設備を置く
大正十一年十一月十五日、堺大浜海岸において堺・和歌山・徳島間の定期航空路の開航式が盛大に挙行された。式後西村一等飛行士の操縦する横廠式水上複葉機が、第一便として徳島に向けて飛立った。津田川口の風波が高いときは新町川の三ツ頭付近に着水することもあった。
定期航空路開設後一年間の輸送状況は、飛行回数六七回、飛行時間一九二時間五〇分、飛行距離二万三一四〇㌖、輸送貨物四トンであった。毎日一往復の運航にしては飛行回数が極めて少ないが、水上飛行機のために風波の強いとき機体が動揺して着水することができず、欠航したからであろう。定期航空路は上図の堺・東京間、堺・高松・松山・別府間、堺・徳島・高知・松山間、堺・白浜間、堺・福岡・朝鮮・満州(中国東北地区)などがつぎつぎに開設されていった。
「津田川口(赤マーカー)の風波が高いときは新町川の三ツ頭付近(青マーカー)に着水することもあった。」とあり、
上に地図を貼りましたが、三ツ頭は津田川口の上流約2kmにありました。

赤マーカー地点。
津田川口付近


青マーカー地点(上2枚とも)。
徳島県・日本航空輸送研究所津田川口着水場跡
日本航空輸送研究所津田川口着水場 データ
設置管理者:井上長一
種 別:水上飛行場
所在地:徳島県徳島市津田本町1丁目
座 標:34°03'10.3"N 134°34'44.2"E
(座標はグーグルアースから)
沿革
1922年11月15日 路線開設
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この記事の資料:
徳島市史 第3巻 (産業経済編・交通通信編)
徳島県・徳島航空学校跡地(再興) [├国内の空港、飛行場]
2024年5月訪問

1/25000「徳島」昭和9年二修「今昔マップ on the web」から作成
前記事の続きです。
四三聯隊練兵場(現蔵本公園)の一隅に開校した「徳島航空学校」でしたが、
昭和7年の上海事変勃発により、練兵場の訓練が激しくなり、廃校してしまいました。
その後について、同資料内に続けて記されていました。
■徳島市史 第3巻 (産業経済編・交通通信編)760p
もと徳島航空学校の教官であった一等飛行士岩田源一は、昭和十年九月十一日、沖洲町高洲海岸付近の市有地に、
トタン葺平屋建、間口一〇間、奥行八間、高さ二三間半の格納庫および臨時飛行機離着陸場を建設して徳島航空学校
を再興、中川二等飛行士らと民間飛行士の養成にあたった。この時の練習生須見能大・糸田川一は、のちに二等飛
行士として民間航空界に巣立って行った。沖洲飛行場の完成後は、これを使用して養成にあたると共に善通寺・坂出
などの航空大会に参加した。岩田源一もまた民間航空の開拓に尽力した徳島の先覚者である。
廃校から恐らく3年後の昭和10年、航空学校を再興したのですね。
臨時飛行機離着陸場の建設地について、「沖洲町高洲海岸付近の市有地」と記しています。
但し、これ以上場所特定の情報は記されていませんので、自力で考えることになりますのだ。
上に貼ったのは、航空学校が再興される前年の沖須町の地図なので、
「ここにしよう!」と場所選定した当時そのままと考えて良いでしょう。
市史では先ず、用地は「市有地」とあります。
後に開港することとなる沖洲飛行場用地は、「全用地を久米寅七が所有」していました。
ですので、沖洲飛行場用地(上の地図で赤く囲った「町洲沖」の東側一帯)は除外。
次に、航空黎明の当時は、海岸の砂浜、干潟が離着陸場に使用されることがありましたが、
当地は干潟の表示になっていません。
また、「海岸」ではなく「海岸付近」とありますので、海岸からちょっと内陸側ということに。
砂浜は除外。
町内は、乾田、水田、集落等広がっていますが、赤矢印の部分、用途の示されていない細長い地割があります。
海岸からちょっと内陸側にあり、長さは最大で720mとれますので飛行場としての大きさも申し分なし。
ということで、消去法とその大きさ形から、ここが臨時飛行機離着陸場となった市有地ではないかと思います。
沖洲飛行場用地の埋立が完了したのが昭和13年でしたから、
それまでの3年ほどの間ここを使ったのではないかと。

赤マーカー地点。
飛行場方向
徳島県・徳島航空学校跡地(再興)
徳島航空学校(再興) データ
設置管理者:徳島航空学校・岩田源一
種 別:陸上飛行場
所在地:徳島県徳島市南沖洲4丁目
座 標:34°03'34.0"N 134°35'21.9"E?
標 高:1m
面 積:6.7ha
滑走帯:720mx120m(不定形)?
方 位:02/20?
(座標、標高、面積、滑走帯長さ、方位はグーグルアースからの推定値)
沿革
1932年 満州事変。恐らくこの年に徳島航空学校廃校
1935年 9月11日、徳島航空学校再興
1938年 沖洲飛行場埋立て工事完了。
関連サイト:
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この記事の資料:
徳島市史 第3巻 (産業経済編・交通通信編)
徳島県・四三聯隊練兵場(徳島航空学校)跡地 [├場所]
2024年5月訪問

1/25000「徳島」昭和9年二修「今昔マップ on the web」から作成(2枚とも)。
徳島県徳島市庄町にある蔵本公園。
かつてここには四三聯隊練兵場があり、練兵場の一隅には「徳島航空学校」がありました。
■徳島市史 第3巻 (産業経済編・交通通信編)758p
(二)徳島航空学校の設立
民間飛行家横山友象は、航空思想を普及し民間飛行士を養成するため、徳島航空学校の設立を計画、小幡徳島県知事、青山二二旅団長ら県内有志の後援を得て、大正十五年六月徳島市寺島町に創立事務所を開設し、年内開校を目指して諸般の準備をすすめた。そして間もなく名東郡加茂名町の四三聯隊練兵場(現蔵本公園)の一隅に徳島航空学校を開校すると共に徳島市寺島町字稲田跡に事務所を開設した。
徳島航空学校は、民間飛行士の養成と併せて航空思想を普及するため次のような事業を行うことにしていた。
一 飛行機操縦士および機関士の養成
二 自動車技術者の養成
三 空中撮影による地形の測量
四 非常事変に於ける通信連絡飛行
五 魚群、難船、山火事の発見及び海洋山林事件の捜査飛行
六 旅客貨物郵便物の空中輸送
七 航空気象学の研究
八 各種宣伝ビラ散布及宣伝飛行
九 航空知識の普及を目的とする高等曲技飛行の実施
十 同乗遊覧飛行 同乗飛行は一般休日と定め、同乗券は一二円とする
徳島航空学校の本科飛行機操縦生は、剣山号・徳島号など四機を使用して訓練を重ねた。学校創設以来既に飛行回数二一四回に達した富岡町樫野喜久雄・坂東町岩田源一・松茂村石田貞夫・岡田博文・門田秀夫らは、昭和三年第一期生として卒業した。岩田源一は、岐阜県各務ケ原において三等飛行士試験に合格、昭和五年には埼玉県所沢飛行学校において二等飛行士試験に合格して、母校の教官となり後輩操縦生の指導にあたった。
昭和二年五月八日、徳島県・徳島市・歩兵第四三聯隊・徳島商業会議所・徳島市消防組・帝国飛行協会・帝国在郷軍人会・各新聞社の後援の下に、鮎喰川原において関西航空ページェント大会が開催された。航空思想の普及宣伝のため総経費一万余円をもって計画されたこの航空大会では、当時一流の民間飛行家といわれた片岡・遠藤・和田・石野・張・乗池・横山らの各一等飛行士をはじめ、女流飛行家木部シゲノ、阪妻プロ俳優原田龍治、ドイツ人ジョーヘッゲーらが、つぎつぎに妙技を披露し、さらに歩兵四三聯隊将兵と空陸攻防戦を展開するなど数万の観衆を魅了したという。
上記資料内で「鮎喰川原で開催された関西航空ページェント大会」について触れていますが、
練兵場すぐ近くを流れてますね。
鮎喰川はあるのですが、大会が開催された「鮎喰川原」については、場所を特定することができませんでした。
上の地図は、鮎喰川の中でも特に川原が広々としている部分です。
練兵場も近いし、もしかしてこの広々とした川原が大会会場になっていたのかも。
(場所がキチンと特定できれば別記事にするところなんですが、練兵場とも関りがあるので、ここに含めました)
昭和二年十月一日、新たに自動車科を設けて、自動車運転手の養成に乗り出した。コンクリート舗装の練習場を新
設し、シボレー・フォードなど一〇数台の自動車を使用したので、練習生が殺到した。しかし、昭和七年、上海事変の勃発によって練兵場における兵士の訓練が激しくなったので、廃校のやむなきにいたった。
ということで、上海事変の勃発により練兵場の間借りができなくなってしまいました。
約10年間の使用で廃校となってしまったのですが、
しかし徳島航空学校はこれで完全に終了した訳ではありませんでした。
(続きます)


徳島市史編さん室 編『徳島市史』第3巻 (産業経済編・交通通信編),徳島市教育委員会,1983.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9575283 (参照 2024-07-13)(上2枚とも)

赤マーカー地点。
美しく整備の行き届いた蔵本公園。
今から100年程昔、ここ四三聯隊練兵場でヒコーキが飛び回っていました。
徳島県・四三聯隊練兵場(徳島航空学校)跡地
四三聯隊練兵場(徳島航空学校) データ
設置管理者:横山友象
種 別:陸上飛行場
所在地:徳島県徳島市庄町
座 標:34°04'28.7"N 134°30'53.6"E
標 高:5m
面 積:12.3ha
飛行場:400mx330m(不定形)
(座標、標高、飛行場大きさはグーグルアースから。面積は市史から)
沿革
1926年06月 創立事務所開設。その後徳島航空学校開校、事務所開設
1927年05月 8日 鮎喰川原にて関西航空ページェント大会開催
1928年 第一期生卒業
1932年 廃校
1935年09月 11日 沖洲町高洲海岸付近の市有地にて徳島航空学校再興
関連サイト:
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この記事の資料:
徳島市史 第3巻 (産業経済編・交通通信編)
中四国九州・4 [■旅行記]
Ⓐ北熊本SA→Ⓑ美東SA→ⓒ八幡PA→Ⓓ高松中央IC→Ⓔ屋島飛行場跡地→Ⓕ四三聯隊練兵場(徳島航空学校)跡地→Ⓖ徳島航空学校跡地(再興)→Ⓗ三ツ頭付近→Ⓘ日本航空輸送研究所津田川口着水場跡→Ⓐ金磯海岸→Ⓑ淡河PA→ⓒ長島PA
4日目
3:10 起床
3:55 北熊本SA出発
さらば九州。

6:25 美東SAにて肉うどんの朝食と給油。
9:30 八幡PA
11:10 高松中央IC
四国上陸。
昨年10月「屋島調査中さん」から情報頂き、12月に県立香川図書館にて屋島飛行場の航空写真を撮影しました。
自宅に戻って航空写真をじっくり見ると、オイラのこれまでの作図が間違っていたことが判明。
屋島飛行場の作図をやり直して、今回改めて滑走路端の撮影をしに来たのでした。
その後、新たに徳島県内で場所が特定できたヒコーキ関連の箇所にお邪魔しました。
15:05 徳島県の金磯海岸を撮り終えたところで、今回の旅行で予定していた全ての撮影終了。
さあ自宅に戻ろう。
15:30 給油
朝給油したばかりなので、本当はまだまだ行けるのですが、
ここで満タンにすれば、もう高速のSAで高い給油をせず、余裕で自宅まで戻れるはず。
四国から神戸に入ったところで、大阪の周辺まで酷い渋滞。
もろにGW中なので渋滞は覚悟してたんですが、今回の旅行中、ここが唯一の大渋滞でした。
17:35 淡河PA
20:20 長島PA着
20:45 寝る
おやすみなさい
本日の走行距離:725km
(続きます)
「屋島飛行場跡地」は既存の記事に写真追加してあります■