徳島県・徳島航空学校跡地(再興) [├国内の空港、飛行場]
2024年5月訪問

1/25000「徳島」昭和9年二修「今昔マップ on the web」から作成
前記事の続きです。
四三聯隊練兵場(現蔵本公園)の一隅に開校した「徳島航空学校」でしたが、
昭和7年の上海事変勃発により、練兵場の訓練が激しくなり、廃校してしまいました。
その後について、同資料内に続けて記されていました。
■徳島市史 第3巻 (産業経済編・交通通信編)760p
もと徳島航空学校の教官であった一等飛行士岩田源一は、昭和十年九月十一日、沖洲町高洲海岸付近の市有地に、
トタン葺平屋建、間口一〇間、奥行八間、高さ二三間半の格納庫および臨時飛行機離着陸場を建設して徳島航空学校
を再興、中川二等飛行士らと民間飛行士の養成にあたった。この時の練習生須見能大・糸田川一は、のちに二等飛
行士として民間航空界に巣立って行った。沖洲飛行場の完成後は、これを使用して養成にあたると共に善通寺・坂出
などの航空大会に参加した。岩田源一もまた民間航空の開拓に尽力した徳島の先覚者である。
廃校から恐らく3年後の昭和10年、航空学校を再興したのですね。
臨時飛行機離着陸場の建設地について、「沖洲町高洲海岸付近の市有地」と記しています。
但し、これ以上場所特定の情報は記されていませんので、自力で考えることになりますのだ。
上に貼ったのは、航空学校が再興される前年の沖須町の地図なので、
「ここにしよう!」と場所選定した当時そのままと考えて良いでしょう。
市史では先ず、用地は「市有地」とあります。
後に開港することとなる沖洲飛行場用地は、「全用地を久米寅七が所有」していました。
ですので、沖洲飛行場用地(上の地図で赤く囲った「町洲沖」の東側一帯)は除外。
次に、航空黎明の当時は、海岸の砂浜、干潟が離着陸場に使用されることがありましたが、
当地は干潟の表示になっていません。
また、「海岸」ではなく「海岸付近」とありますので、海岸からちょっと内陸側ということに。
砂浜は除外。
町内は、乾田、水田、集落等広がっていますが、赤矢印の部分、用途の示されていない細長い地割があります。
海岸からちょっと内陸側にあり、長さは最大で720mとれますので飛行場としての大きさも申し分なし。
ということで、消去法とその大きさ形から、ここが臨時飛行機離着陸場となった市有地ではないかと思います。
沖洲飛行場用地の埋立が完了したのが昭和13年でしたから、
それまでの3年ほどの間ここを使ったのではないかと。

赤マーカー地点。
飛行場方向
徳島県・徳島航空学校跡地(再興)
徳島航空学校(再興) データ
設置管理者:徳島航空学校・岩田源一
種 別:陸上飛行場
所在地:徳島県徳島市南沖洲4丁目
座 標:34°03'34.0"N 134°35'21.9"E?
標 高:1m
面 積:6.7ha
滑走帯:720mx120m(不定形)?
方 位:02/20?
(座標、標高、面積、滑走帯長さ、方位はグーグルアースからの推定値)
沿革
1932年 満州事変。恐らくこの年に徳島航空学校廃校
1935年 9月11日、徳島航空学校再興
1938年 沖洲飛行場埋立て工事完了。
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この記事の資料:
徳島市史 第3巻 (産業経済編・交通通信編)