朝鮮・潭陽飛行場跡地(推定位置) [└日本統治時代の飛行場]
2024年9月 記事作成(未訪問)
本土航空作戦記録 (文書名: Japanese Monographs = 日本軍戦史 ; Monograph No. 23) (ボックス番号: 3) ■
※この記事は、寺嶋さん、ブログ:大日本者神國也の盡忠報國さん■ から頂いた史料、情報でできていますm(_ _)m
大正末期か昭和初期頃、広島県から開拓団が入植し集落を設けました。
ここにかつて日本陸軍の「潭陽飛行場」がありました。
この飛行場のことは、寺嶋さんから情報を頂くまで存在すら知りませんでした。
寺嶋さんのお父様は、陸軍平壌飛行場にて99式襲撃機の訓練を積み、
昭和20年5月5日、特攻隊(振武247隊)の隊員となり、
同年7月、潭陽飛行場に進出し、出撃命令を待ちながら終戦を迎えました。
潭陽飛行場の配備は99式襲撃機6機のみだったのだそうです。
■ドコにあったのか
お父様の残されたメモには潭陽飛行場について、「南鮮地区、光州から5~6kmの場所」とあり、
早速【潭陽飛行場】で検索してみたのですが、かろうじて名称が出てくるのがせいぜいで、位置情報は皆無。
そのため、「南鮮地区、光州から5~6kmの場所」という情報のみで位置の絞り込みを始めたのでした。
地図で確認すると、光州の北に潭陽(上のグーグルマップ黄マーカー)が隣接しているという位置関係です。
光州の中心地(当時光州飛行場があった。青のヒコーキマーカー)
から潭陽との境界(赤のライン)までは約13kmあります。
つまり、光州の中心地から5~6km程度では、光州から出ることすらです(XДX)
このテの話ではあるあるなのですが、光州のドコを起点としているかが不明です。
また、直線距離で5~6kmではなく、
「道を歩いて5~6km」という可能性もあります(水路部作成の資料でこういう表現があった)。
飛行場の名称は、その土地の地名からとられるのが普通なのですが、周辺の地名が使用される場合があります。
「光州から5~6km」と、こうも近い距離となると、もしかして本当は光州にあるのに、
「光州飛行場」は既にあるから、潭陽寄りということで「潭陽飛行場」なのかも。
仮にそうだとすると、光州まで捜索範囲を広げなければなりません。
「光州から5~6kmの場所」という情報しかないのに、これでは捜索範囲が広大過ぎて皆目見当つきません。
うーむ困った。
ここで一度位置の絞り込みは暗礁に乗り上げたのですが、
寺嶋さんのお父様と共にこの飛行場で特攻隊員として終戦を迎えたY氏という方がおられ、
寺嶋さんがY氏にインタビューした音声データを頂きました(後述)。
このインタビューの中で、Y氏は「飛行場は潭陽にあった」とハッキリ述べておられました。
ということで潭陽飛行場は、光州と潭陽の境界線から、潭陽方向に6kmの範囲内(黄色ライン)のドコかにあったはず。
これも後述しますが、その後盡忠報國さんからも情報、史料をご提供頂き、
頂いた史料を元にいろいろ検索したら、
潭陽飛行場を含む、朝鮮半島の各飛行場を示したかなりしっかりした地図が見つかりました。
(この図は無断転載不可のため、リンク貼っておきます■)
レイヤを作って確認したところ、この地図に示されている各飛行場位置はかなり正確だったので、
この地図から潭陽飛行場の位置を導き出したところ、
その場所は光州ではなく、やっぱり潭陽でした(赤のヒコーキマーカー)。
おおよその場所が分かったところで、Googleマップで改めてこの地域を見てみると、
北に潭陽、南に光州、その間には広々とした平野が広がっており、この平野の東西に丘陵地帯があります。
平野の東西幅はおおよそ5km程度。
ということで、光州との境界線から北に6km、東西幅5kmの平野部。
飛行場はこの範囲内のドコかにあったはず。
滑走路の長さは1,500mx60m、未舗装の転圧滑走路と情報頂いたのですが、向きが不明です。
但し、滑走路の向きを推測するには手掛かりがあって、飛行機は風上に向って離着陸するのが基本。
ですので飛行場建設の際、その場所の恒風を調べ、恒風方向に滑走路を設定します。
当時ココから南西約18kmにあった光州飛行場の滑走路の向きは真北。
因みに、当時の光州飛行場の南西約4kmに現在は軍民共用の光州空港があり、ここの滑走路は北北東方向です。
また、潭陽から光州を越えて南西約70km先にある木浦市の恒風は真北で、滑走路は当時も現在も北です。
このように、恒風は広く同じであるため、滑走路の向きは広い範囲で似通っていることが多いです。
それで、潭陽飛行場の滑走路の向きも同様に、北~北北東方向であった可能性が高いと思われます。
次に、潭陽飛行場は平野部のドコにあったのかについてですが、
先ほどのY氏はインタビューの中で、「潭陽飛行場は秘匿飛行場である」と述べておられます。
また、この飛行場は昭和20年6月下旬時点で未完成の状態でした。
平時なら、広々とした平野の真ん中に建設するかもしれませんが、
末期に秘匿飛行場として建設されていますから、滑走路そのものが目立たぬように、
付属施設を隧道に設けて見つからないように、そして着陸したヒコーキを素早く隠せるように、
(内地の秘匿飛行場がしばしばそうですが)丘陵地帯に隣接した場所を選ぶはず。
では、東西どちらの丘陵地帯に寄せて建設したのでしょうか。
平野の東側には、そこそこの大きさの川(川幅300m超の箇所もある)が縦横に蛇行しています。
川が近くにあると排水に便利である反面、
台風等で川が氾濫→飛行場に浸水→泥濘化 となると、使用可能な状態に戻すには大変な労力と時間を要し、
橋が流されてしまうと、ヒコーキが隠せず空襲から無防備になったり、飛行場の位置がバレてしまったり、
隠蔽しているヒコーキを滑走路に移動させるのが困難になるかもしれません。
ということで、当初は川のない西側の丘陵地帯側で飛行場適地を探しました。
条件としては、南北方向に1,500mx60mの平坦が十分にとれて、
滑走路の左右、延長線上に飛行の支障がないこと。
付属施設、ヒコーキの秘匿等、運用面を考えると、できるだけ丘陵地帯に近づけたい。
こうした諸条件で、グーグルアースで標高の変化を見ながらアチコチ探したのですが、
西側の丘陵地帯側は離着陸の障碍になりそうな丘が点在するのと、
南北方向の勾配がきつくて、どうしても適地を見出せませんでした。
それで川が多いけど東側に場所を移し、可能な限り水害の影響が少なくて、
丘陵地帯へのアクセスが便利そうな場所を探しました。
こちら側は西側と比べてビックリするほど平坦です。
(前述の"かなりしっかりした地図"でも、潭陽飛行場は平野の東側に位置していた)
ということで、多分にオイラの妄想を含む怪しげな予想なのですが、
先頭のGoogleマップはそんな感じで作図しました。
飽くまでオイラの予想ですので、最大で5km程度ズレているかもしれません。
ご了承ください。
「公開してこそ集まる情報もある」に期待しておりますm(_ _)m
■沖縄特攻?
この飛行場の役割について考察します。
こちらもオイラの妄想全開ですので、話半分でお読みください(←これ重要)。
こうしてオイラが記事を公開する目的は、
先人がどんな飛行場を建設したのか、正確な情報に近づくことですので、
異論、反論その他諸々、お待ちしておりますm(_ _)m
寺嶋さんのお父様を含む6名は、平壌飛行場で特攻隊員の任を受けて潭陽飛行場に進出し、
出撃命令を待ったというのは前述の通り。
特攻といえば沖縄のはず。
実際、寺嶋さんのお父様の原隊である平壌飛行場からは、一足先に編制された特攻隊があり、
昭和20年4月と5月に沖縄に出撃しています。
ところがいろいろ調べるにつれ、潭陽飛行場からの沖縄特攻には疑問点が出始めました。
99式襲撃機の航続距離は、Wikiによれば1,060km。
■戦史叢書87巻付表第二 日本陸軍機諸元性能表
によれば、99式襲撃機の行動半径の項目で、200kg爆弾搭載という条件で400km+1時間、
若しくは燃料満タンという条件で600km+1時間 とあります。
潭陽から沖縄北端までカタログスペック上は飛べる距離なんですが、これは巡航速度、巡航高度での理想的な数値。
本来の搭載は200kg爆弾なのですが、
特攻機となった99式襲撃機は、250kg爆弾を搭載できるよう改造されるケースが多かったのだそうです。
記事内では250kg爆弾搭載前提で話を進めましたが、
コメント欄にて寺嶋さんからその倍の500kg爆弾であったと情報頂きました(詳しくはコメント欄をご覧ください)。
500kg爆弾を搭載するとどうなるか、いろいろ妄想してみました。
※数値は主に、Wiki/99式襲撃機、戦史叢書87巻付表第二 日本陸軍機諸元性能表からのものです。
99式襲撃機の自重:1,873kg、全備重量:2,920km
なので、その差が1,047kgあり、この1,047kg分イロイロ搭載できます。
従って離陸性能だけ見れば、500kg爆弾は余裕で搭載可能です。
但し、99式襲撃機の爆装は180~200kgとして設計されていますから、
500kgは想定を遥かに超える重量物の吊り下げとなるため、
ハードポイント周辺(と恐らく主翼取り付け部分)の補強が必須だったはずで、この補強は自重の増加につながります。
(その分イロイロ搭載できる重量が減る)
99式襲撃機の燃料タンク容量:608L、比重:0.7とすると、満タン時のガソリン重量は426kgになります。
ここに500kg爆弾、パイロットを含めると、おおよそ1,000kgとなりますから、
500kg爆弾搭載時でも、満タンに近い状態で離陸可能だったかと。
次に500kg爆弾搭載時の航続距離についてですが、
99式襲撃機の航続距離は、カタログスペックでは、1,000km超になっています。
但し飛行中の燃費は常に一定なのではなく、燃料を消費するごとに重量が軽くなるため、
時間経過と共に燃費はどんどん良くなってゆきます。
一例ですが、長距離便のB747が最大離陸重量で離陸し、巡航に入った直後は、
必要推力が約24tであるのに対し、目的地に近づく頃には燃料を100t以上使い果たして軽くなっているため、
必要推力は16t程度まで下がっています(推力を約3割落とせるので、その分燃費良くなる)。
99式襲撃機も同様で、飛行中徐々に燃費が良くなってゆき、結果として1,000km超の航続距離となっているはず。
ところが500kg爆弾搭載時、この爆弾の重さはどれだけ飛んでも変わりません(先述した補強した分の重量増も同様)。
つまり、飛ぶごとに燃費が良くなる割合が小さいことになります。
加えて、胴体下にかなり大きなものを吊り下げることによる空気抵抗の増加もあります。
ということで、500kg爆弾を搭載した場合、
例え燃料がほぼ満タンだったとしても、航続距離は短くなったはずです。
(追記ここまで)
重い爆弾を吊り下げると重量増と空気抵抗で航続距離が短くなるのに加え、
潭陽飛行場から沖縄はほぼ真南の方角なので、
上空では偏西風の影響があり機体は常に東へ東へと流され続けるため、みかけの距離はもっと延びます。
「上空では」偏西風の影響があるなら、高度下げればいいじゃん。
と思いますが、そんな心配をするまでもなく敵のレーダー探知を避けるためには、
目標海域に近づくにつれ高度を下げなければなりません。
高度を下げると今度は空気密度が高くなるため空気抵抗が増大し、燃費は悪化します。
高度を上げれば偏西風で距離が延び、下げれば空気抵抗が増えて燃費悪化。いずれにせよ厳しいです。
950kmとは、飽くまで潭陽飛行場から沖縄本島北端までの直線距離。
実際の出撃では沖縄近海にいるであろう米艦隊を捜索し、
直掩機や、戦艦からの激しい対空砲火といった重層防御をかいくぐりつつの高機動飛行を強いられます。
これは知覧飛行場の話になってしまうのですが、
知覧から沖縄特攻に出撃したのは大半が九七式戦闘機だったのだそうです。
九七式の航続距離は627km、知覧から沖縄本島北端までは約540km。
この数字だけ見れば飛べそうですが、
250kg爆弾を抱えた状態ではとても燃料が足りず、
両翼に増加用タンクを吊るしたのだそうです。
実際、出撃した特攻隊員の手記を見ると、九州からの出撃にもかかわらず、
「待ち構える米軍の直掩機、戦艦を避けるため大回りを強いられ、燃料ギリギリ」
といった内容が見受けられます。
(知覧から沖縄は南西の方角となるため、偏西風に対して向かい風成分が大きくなる点も大きかったはずです)
このように、原隊である平壌飛行場から見れば、潭陽飛行場は沖縄まで約430km近づいてはいるのですが、
430km近づいたところで、ここから沖縄特攻をするのは相当厳しいです。
果たして辿りつけるのだろうか。なんて燃料の心配をするよりも、
九州には立派な陸軍飛行場が幾つもありましたから、全国の特攻隊がそうであったように、
九州の飛行場を中継すれば済む話(一例ですが、平壌飛行場から大刀洗飛行場まで約760km)。
実際、知覧特攻平和会館■ によれば、陸軍特攻機の出撃飛行場の北限は、山口県の小月飛行場であり、
朝鮮半島から沖縄特攻に出撃した機は1機もありません。
先ほどもチラッと触れましたが、Y氏のインタビューの中で、「平壌の101部隊で特攻隊が四中隊編成された」
という話が出てきます(後述)。
この「平壌の101部隊」とは、Y氏と寺嶋さんのお父様も所属しておられた99式襲撃機の部隊です。
先ほどは、
平壌飛行場からは、一足先に編制された特攻隊があり、昭和20年4月と5月に沖縄に出撃しています。
としか書きませんでしたがこの特攻隊、実は平壌飛行場から直接沖縄に出撃したのではなく、
振武73は4月6日に、振武72は5月27日に、どちらも鹿児島の万世飛行場から特攻出撃しています。
とすると、潭陽に秘匿飛行場を建設した意図って、何でしょう?
平壌からわざわざ潭陽に特攻隊を進出させた意味って、何でしょう?
■1,500mx60mの転圧滑走路を潭陽に建設するということ
前述の通り、潭陽飛行場は未舗装の転圧滑走路でした。
転圧滑走路と聞くと、なんかローラーでゴロゴロ往復すれば完成する簡単なものを想像するかもしれませんが、
地盤によっては、滑走路面の底部に大きな石を敷き詰め、土を被せて突き固め、更に小さな石を敷き詰め…と、
何層も地盤改良が必要な場合があり、実際全国の転圧式滑走路建設では、
連日千人単位、地元周辺の子供たちまで集めて、
来る日も来る日もひたすら山や川から土や石を運び、並べていったという話は、
調べれば全国各地にいくらでも残されています。
工期は半年、1年はザラで、時にはそれ以上になることも。
余談ですが、朝鮮半島の北部は土地がやせていて農業には不向きであり、
逆に南部は肥沃で農業に適した土地であったため、
日本政府としては、朝鮮半島の北部は工業中心、南部は農業中心で開発の方針でした。
半島を一まとまりで考えられるからこその役割分担ですね。
半島南部に位置する潭陽も例にもれず畑地が広がる場所でした。
飛行場建設の観点からすれば、肥沃な土地の地盤改良には余分な苦労を要したはずです。
(地盤改良に手ごろな大きさの石が大量に必要だったとすれば、やっぱり川の近くが飛行場適地だったかも)
このように、転圧式の滑走路建設は余りに多くの時間と労力がとられる場合があるため、
陸海軍共に、もっと簡単に滑走路建設ができないものかと研究を重ね、
数々の速成舗装滑走路を考案したほどでした。
(「基地設営戦の全貌 : 太平洋戦争海軍築城の真相と反省」二、茂原飛行場の急速設営実験 参照■)
末期には全国で一斉に秘匿飛行場が建設されましたが、
滑走路の長さは600m~800m、幅は30m~60m程度のものが多かったです。
これらと比較すると、潭陽飛行場の 1,500mx60mは、滑走路の面積が2~3倍になります。
潭陽飛行場は、第百七十五野戦飛行場設定隊が昭和20年4月13日~8月14日まで、
緊急設定作業に従事しているのですが、こんなに長く留まるのも道理ですね。
Wikiによれば、99式襲撃機は離陸滑走距離:165m、着陸滑走距離:276m。
250kg爆弾を搭載すれば滑走距離はもっと延びるのでしょうが、ここまで長い滑走路が必要とは思えません。
全国で一斉に秘匿飛行場を建設していた時期、沖縄まで辿りつけるのか微妙な場所に、
小型の滑走路であれば、2、3本は作れそうな滑走路を建設し、短距離離陸可能な特攻機を6機だけ駐留。
そして結局特攻出撃はないまま終戦。
やっていることがご時世的に余りにちぐはぐな印象で、繰り返しになってしまいますが、
戦争末期、この潭陽という場所にこんな大規模な滑走路をわざわざ建設した必然性とは何でしょう?
平壌からわざわざ潭陽に特攻隊を進出させた意味って、何でしょう?
長々と書いてしまいましたが、これがオイラの感じた疑問点でした。
飛行場建設計画に関しては、当時の内部資料がアジ歴で多数閲覧可能です。
(例:「米子集中飛行場敷地買収の件」 アジ歴 C01007174600 参照)
飛行場建設には、多くの部署、階級のたくさんの裁可が必要であり、
残された文書からは、ここに飛行場を建設する必然性についてのプレゼンが行われ、
かなりリアリスティックな判断が下された様子が伝わってきます。
(慎重を期して建設しても相手のある事ですから、せっかく建設した飛行場を自ら破壊する場合もありますけど。沖縄とか沖縄とか沖縄とか)
沖縄特攻という観点で考えるなら、ここ潭陽に飛行場を建設するのはかなり微妙な気がするのですが、
ここにこの規模の飛行場を建設しなければならないという、何か相当の必然性が必ずあったはず。
盡忠報國さんからご教授頂いた史料にこの疑問に対する答えがありました。
■「第五航空軍決號作戦計画の大綱」
本土航空作戦記録 (文書名: Japanese Monographs = 日本軍戦史 ; Monograph No. 23) (ボックス番号: 3)(以下枚4とも)■
これは「第五航空軍決號作戦計画の大綱」と題する史料で、盡忠報國さんからご教授頂いた史料です。
「第五航空軍」とは、この時期朝鮮に展開した日本陸軍の航空軍。
「決號作戦」とは、本土決戦に関する日本陸軍案。
ですので「第五航空軍決號作戦計画の大綱」とは、
本土決戦の際、朝鮮に展開する日本陸軍機はこう闘うべし。
また、この計画に沿った戦闘が実行できるよう準備すべし。
ということです。
内容は以下の通りでした。
第五航空軍決號作戦計画の大綱
第一 方針
一、敵上陸船団の来攻に際しては之を洋上に補足し全力を以て撃滅に努
む
上陸船団に付随する機動部隊に対しては状況により一部の精鋭部隊
を以て奇襲し之を制圧若くは牽制す
二、敵機動部隊が単独で来襲する場合は之との決戦を避け後方機動及分
散遮蔽等に依り極力損耗を避く
状況により一部の精鋭部隊を以て奇襲し出血を図る
第二 指導要領
三、作戦諸準備の既成時期を六月下旬其の完成時期を七月末とす
四、敵の上陸正面を済州島及群山付近並に群山以北地区に分ち済州島及
群山正面に対する作戦準備を主とす
五、敵上陸船団の来襲作戦に万りては第六航空軍(九州)及第十三飛行
師団(支那)と密に連繋す
六、上陸船団の来攻に先立つて行はれる敵機動部隊の来襲に対しては決
戦を避け広く北鮮及南満の飛行場を利用して適時後方機動を行ひ或
は飛行場内に於て徹底した分散遮蔽を行ひ極力損耗を避く
然し敵機動部隊に乗すべき隙を発見した場合は機を失せず一部の精
鋭な特攻隊を以て之を奇襲し得る如く準備す
七、敵上陸船団の来攻に際しては極力之を洋上に補足し撃滅するに努む
この際の主攻撃目標は大型船舶とす
攻撃戦法左の通り
統一攻撃 戦闘隊指揮官に特攻隊をも指揮せしめて戦闘隊の強力
な援護の下に敵の警戒網を突破し船団上空に殺到し特
攻攻撃を行ふ
強力なる主戦法とす
奇襲攻撃 一部の精鋭な特攻隊を以て統一攻撃に連繋し或は単独
で天候明暗の度等を利用して奇襲的に特攻攻撃を行ふ
本戦法は精鋭なる特攻隊のみとす
協同攻撃 戦闘隊と特攻隊とを協同進攻せしむ統一攻撃に類似す
るも特攻隊の性能悪く且其の規模小なりとす
「カミツキ」攻撃 主として練習機特攻隊を海岸近くの秘匿飛行場に潜伏
せしめ全く敵の不意に乗じて離陸せしめ海岸近く近接
する船団を攻撃す
一般攻撃 特別攻撃に対し爆撃銃(砲)撃を以て船舶舟艇等を攻撃す
攻撃要領は当時の状況に依り変化するも統一攻撃を主体とし之に各
種戦法を配合併用して反復執拗に行ふ
八、上陸船団に付随する機動部隊に対しては第六項に準するも状況に依
り統一攻撃及奇襲攻撃に依り之を制圧牽制す
第三 飛行部隊作戦兵力及展開配置
九、飛行部隊の作戦兵力付表の如し
十、飛行部隊の展開配置要図第一、第二及第三の如し
日本側は本土決戦を昭和20年秋以降と見ており、
米国は6月29日、九州進攻作戦日を11月1日と正式決定していました■
第五航空軍の来歴その他については、戦史叢書に簡明にまとめられており■
その一節にはこうあります。
「朝鮮方面の飛行場は、昭和二十年初頭ごろにおいては内地航空部隊の対米作戦のための後方機動飛行場ないしは内地、大陸連絡のための航空路用飛行場として使用され、作戦飛行場としての準備は不十分であった。」
こうした状態でしたから、「第五航空軍決號作戦計画の大綱」第三項には、
「作戦諸準備の既成時期を六月下旬其の完成時期を七月末とす」
とあり、本土決戦に備えて朝鮮内に点在する飛行場の準備を進めたのでした。
「第五航空軍決號作戦計画の大綱」の内容を見ると、
全体を通して、敵艦隊を「上陸船団」と「機動部隊」の2つに分類しており、
「上陸船団」に対しては、「上陸を決して許さず、洋上にて全力で撃滅せよ」としているのに対し、
「機動部隊」については、「逃げろ隠れろ兵力を失うな」が基本指針。
第六項では「広く北鮮及南満の飛行場を利用して適時後方機動を行ひ」とあります。
朝鮮半島の南端から当時の満州の境界までは約750kmも離れていますから、
これはもう大自然の脅威の如くの勢いであり、
日本側がいかに兵力損耗に神経をとがらせていたか分かります。
機動部隊への攻撃が許可されているのは、基本的に「精鋭部隊」、「精鋭な特攻隊」のみ。
しかも上陸船団に対しては「撃滅」という言葉が使われているのに対し、
機動部隊に対しては、「奇襲」「制圧」「牽制」「出血」「隙」といった表現が並びます。
本当に徹底していますね。
「真正面からまともにぶつかって、こちらが一方的に損失を被る事態は絶対に避けなければならない
こちらの損害は最小限に抑えつつ、何度も攻撃を仕掛ける中で勝機を見出し、着実に敵戦力を削げ」
オイラ個人としては、そんな風に受け取れます。
ではこの決號作戦計画の中で、潭陽飛行場はどんな立ち位置だったでしょうか。
最後の第十項で、「飛行部隊の展開配置要図第一、第二及第三の如し」とあります。
要図第二 飛行部隊展開配置(済州作戦時)
要図第三 飛行部隊展開配置(群山作戦時)
アジ歴グロッサリー/第58軍(砦)済州島 解説■ にこうあります。
「済州島が作戦上の要衝とみなされたのは、米軍がこの島を足がかりに朝鮮・九州に上陸すると予想されて以降である。」
第四項にはこうあります。
「敵の上陸正面を済州島及群山付近並に群山以北地区に分ち済州島及群山正面に対する作戦準備を主とす」
このように日本側は本土決戦の際、米軍は直接九州に上陸作戦を開始するのではなく、
先ずは済州島か群山付近に上陸する可能性が高いと考え、準備を進めていたことが分かります。
上に貼った2枚の図はそれぞれ、米軍の上陸先として、済州島と群山を想定したものです。
いずれの場合でも、潭陽飛行場は最前線に位置しており、作戦に組み入れられています。
因みに、井桁マークは飛行場を示す記号なんですが、〇で囲ったものと、そうでないものがあります。
これは備考で、〇で囲ったものは既設飛行場、〇ついてないものは、「新設(設定中ヲ含ム)」と説明されています。
この図は1945年6月下旬のもので、
潭陽飛行場は〇がついてないので、昭和20年6月下旬の時点でまだ完成していなかったようです。
第九項「飛行部隊の作戦兵力」
この表は朝鮮に配備された作戦可能な日本陸軍機の全機をどう配備するかを示したもので、
ここでは特に赤で囲った潭陽飛行場を含む飛行師団(53FDK)に注目します。
(記号説明は「本土防空作戦 (戦史叢書) 部隊符(記)号一覧表(主として陸軍航空、防空関係)■」から。表の他の記号もこちらで確認できます)
左から順番に先ず、一 の下に . が付いているのは、「直協偵察飛行部隊」を示す記号で、これが10機、
続けて、
「所属特攻隊」:20隊
「機種」:△、レン
「機数」:120
とあります。
△は「襲撃飛行部隊」を示す記号で、表全体でここでしか使われていません。
つまり朝鮮にある99式襲撃機は本土決戦の際、
全機最前線で特攻機として使用するつもりであったということです。
寺嶋さんのお父様含む99式襲撃機6機が平壌から潭陽飛行場に進出したのも、この計画に沿ったものと思われます。
恥ずかしながらオイラは、「特攻=沖縄」という発想しかなかったのですが、
本土決戦の際、練習機だけでなく作戦機までこんなに特攻機にする計画だったのですね。
間接的にとはいえ、お名前を知った人物がこうして明確に特攻側に組み入れられているというのは、
上手く言えませんけど、心情的に直視し難いものがあります。
それから△の下にレンとあります。
備考欄に、「レンは練習機を示す」とありました。
それでこれが、「第五航空軍決號作戦計画の大綱」でいうところの「練習機特攻隊」だったはず。
「練習機特攻隊」の戦法は、
海岸まで接近してきた船団に対し、海岸近くの秘匿飛行場から練習機を特攻させるというもの。
米側にとっては、存在に気が付いたらもう至近にいることになるため、
対応する時間を可能な限り与えない、という意図なんでしょうね。
潭陽飛行場を含むグループの中で「海岸近くの秘匿飛行場」という条件に当てはまるのは、
木浦と済州島ではないかと思います(潭陽飛行場は50km以上内陸なので、「海岸近く」に該当しない)。
冒頭書いた通り、寺嶋さんのお父様は、陸軍平壌飛行場にて99式襲撃機の訓練を積みました。
その訓練の様子については、寺嶋さんから頂いた情報を平壌飛行場記事■ に掲載させて頂きましたので、
詳しくはそちらをご覧頂きたいのですが、
実施した訓練には特殊飛行、急降下爆撃と共に、2機、若しくは3機編隊での超低空飛行が含まれており、
必要なら、なんと高度2~3mで飛んだのだとか(@Д@)
Wiki:一式陸上攻撃機(パブリックドメイン)
これはその筋では有名な一式陸攻の超低空飛行の様子です。
右端を超低空で飛んでいる機体、オイラの計算だと高度4.7m(計算が間違っていたらゴメンナサイ)。
99式襲撃機は高度2~3mまで下げたということですからこれより更に低く、凄まじいの一言に尽きます。
川での超低空飛行訓練では「車輪から水しぶきが上った」なんて逸話が残るほど!!(@Д@)
(99式襲撃機は固定脚なので飛行中も車輪出しっぱなし)
まさに超々低空飛行のスペシャリスト集団ですね。
■秘匿飛行場としての潭陽飛行場
■戦史叢書第19巻 本土防空作戦529p
「と」号機は作戦準備間所属戦隊の飛行場に秘匿配置し、出撃に当たっては別の「と」号機専用の秘匿飛行場を使用することが考えられた。飛行部隊常駐飛行場は「と」号機出撃時、敵機に制空されてその時機を失することが考慮されたからである。
秘匿飛行場とは、「と」号機(特攻機)専用の飛行場とありますね。
特攻機は常駐飛行場に秘匿しておくのが基本ですが、
イザ出撃という時になって、制空をとられて離陸できないという事態に陥らぬよう、
いよいよというタイミングで特攻機を事前に秘匿飛行場に移動させておき、確実に発進させる。
という考え方のようです。
赤文字は飛行場の建設年です(済州島飛行場はキチンとした資料が見当たらなかったためおおよそ)。
木浦飛行場は建設年が不明です。
木浦飛行場は第一滑走路と第二滑走路があり、2つある井桁マークはそのことを示しているのだと思います。
群山飛行場は元々定期航空便の寄港する飛行場でしたし、
済州島飛行場と、東側に隣接する秘匿飛行場は、既に米軍に位置がバレているとして、
更に新たな飛行場建設に取りかかったのだそうです(後記事で紹介します)。
ということで、群山飛行場と済州島飛行場は既に米軍にバレバレと思われ、
実際に上陸作戦を仕掛ける際、米軍は当然制空権を握って、
これら飛行場から日本軍機を離陸させないようにすることが予想されます。
そうはさせじと日本側は、これらバレバレの飛行場から潭陽飛行場に事前に特攻機を移動させておく計画だったはず。
こうして直前に移すのがそもそも秘匿飛行場の狙いでしたから、本土決戦前の潭陽飛行場は、
「こんなに立派な規模の飛行場なのに、たったの6機だけ」の状態で良かった訳です。
余談ですが飛行場用地選定の際、艦砲射撃を避けるため「どの海岸線からも50km以上内陸」
という条件が考慮されることがあったそうです。
潭陽は米軍の上陸が予想された群山、済州島の両方に近い場所にあり、
丘陵地帯が近いですから秘匿、遮蔽に有利であり、どの海岸線からも50km以上内陸なので艦砲の心配もありません。
実際に本土決戦となり、位置がバレている飛行場が爆撃され使用不能となった場合、潭陽に不時着させる等、
最前線の切り札的飛行場として重用されたはずです(ここは米軍側にバレてないことが前提ですが)。
誰もが納得するような必然性がないと、飛行場建設の裁可は通らないと書きましたが、
この潭陽という場所に、わざわざ通常より大きな秘匿飛行場を建設する必然性は十分にあったと思います。
前述の通り「第五航空軍決號作戦計画の大綱」第三項には、
「作戦諸準備の既成時期を六月下旬其の完成時期を七月末とす」
とあり、同年7月、寺嶋さんのお父様含む隊員は潭陽に進出したのでした。
という訳で、「第五航空軍決號作戦計画の大綱」の中で潭陽飛行場に与えられた役割、
ちょうど作戦準備期間というタイミングで、
超々低空飛行の襲撃機スペシャリスト集団である隊員が潭陽に進出したことからすると、
特攻隊員という立場で潭陽には来たものの、沖縄は既に特攻する時期を逸しており、
そのまま終戦を迎えてしまったのではなく、
彼らは本土決戦に備えて潭陽に待機中であり、終戦を知らされるその瞬間まで、
出撃命令が出れば、敵艦目掛け、すぐにも特攻攻撃をする覚悟であったのだと思います。
■その他関連資料など
潭陽飛行場 関連部隊
以下盡忠報國さんから頂いた情報です(個人名は伏せさせて頂きました)。
・第二百三飛行場大隊(隼一九三七五・飛行場の管理、防衛担当)
昭和20年2月25日、第四教育飛行隊(柏)において編成、3月7日、門司出港、
3月17日、湖北省蕪湖に到着、5月24日、蕪湖出発、6月1日、潭陽飛行場着、
9月2日、停戦。
10月14日、釜山出港、萩にて第一次復員、11月1日、釜山出港、博多にて
第二次復員。
・第百六十八獨立整備隊(隼一七三三九)
昭和20年3月15日、済南において編成、3月20日、漢口に移駐、5月18日、漢口出発、
4月3日、潭陽到着。
10月17日、停戦に伴い麗水出発、18日、山口県萩市到着、第一次復員、11月14日、麗水出発、
15日、博多到着、第二次復員。
・第百七十五野戦飛行場設定隊(靖一五一五〇)
昭和20年3月27日、朝鮮において編成、4月4日、第二次編成完結、11日、西氷庫駅出発、
12日、太田面大崎里到着、13日~8月14日、潭陽飛行場の緊急設定作業に従事。
10月17日、停戦に伴い内地復員。
・第二百四十七振武隊(振武第二百四十七部隊)
九九式襲撃機 6機
空中勤務者:F伍長、T伍長、Y伍長(ほか3名不明)
昭和20年6月、第五十三航空師團の担当で第二十三錬成飛行隊(平壌)において編成され
第六航空軍(福岡)隷下に編入、7月26日、第五航空軍(京城)隷下に編入
(以下記載なし・・・第五航空軍隷下に編入され潭陽に配備と思われる)
『続逓信事業史資料拾遺』第1集,郵政省大臣官房秘書課広報室,1964. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2503450 (参照 2024-08-17)■
ここでは昭和20年7月20日過ぎの出来事として、「潭陽飛行場」が登場します。
■Y氏インタビュー
前述した通り、寺嶋さんのお父様と共に平壌飛行場で訓練を積み、特攻隊の任を受け、
潭陽飛行場にて終戦を迎えたY氏の13分50秒間のインタビュー音声データを頂きました。
以下そのテープ起こしを掲載させて頂きます。
※寺嶋さんからは、「経年の記憶の風化(?) 思い違い 勘違い そのあたりは差し引く必要はありそうです。」
と注釈頂いております。
それでは早速。
昨日も年賀状が来とったですけどね、
朝鮮の平壌でも汽車に乗り遅れた人がおるんですよね。
一番最後のもう、とにかく一番最後だったんですよ。
平壌を立つ南西に向かう汽車というのが。
私たちはそれに乗っとったんですよ。
それに乗り遅れた人がおるんですよ。
その人昨日年賀状来とったけどソ連に五年間抑留されとった。
寺嶋と俺とで反対するのを嫁さんが聞かなかったんよ。
それでもう、痛烈に覚えとりますよ。寺嶋と俺とで。
私は潭陽(たんよう)という秘匿飛行場がありましてですね、
潭陽と言って、潭陽牧場とか、潭陽の果樹園とか、
ものすごく大きなそういうとこがとれる所なんですよね。
そこがですね、日本人の百姓しよる家が五軒あるんですよ。
ほだら一軒の家にですね、こうぐるーと取り巻いているんですよ、こうして。
ここの人が日本人の人ですよ。
取り巻いているのが朝鮮の人ですよ。
この人たちが全部田地田畑は耕しよると。
明治の終わりか大正の初めに広島県から若い人だけ二十何名ここに住み着いたんですよ。
青年が開拓団として。
みんなやっぱりもうきついとかなんとかで、寒いとかね。
広島と違うんですからね。
帰ってしまったけれども結局ここにその四軒残っとるちゅうわけですよ。
この四軒残った一軒がうちの私の家ちゅうわけですよ。
だから相当開拓しとるんですよ。
水田でも何でも作っとる。
それから牧場、それから果樹園、もの凄くいっぱい作っとる。
だから取り巻いた家が十一軒あったですけどね、
そこの人たちが全部で百姓しよるという訳で、
私たちはそこにおったんですよ。その家に。
潭陽と言うと、私は覚えてるけど、寺嶋が「おいYよ」と言う訳ですよ。
「魚釣り行こう」と言う訳ですよ。
「魚食いもせんのに釣ってからどうするかお前」
溜池なんですよ(笑)
だから海の魚じゃないんですよね。
食いもせんのに最初のうちは行きよったんですよ。
面白いもんじゃからね。
ところがそういうその魚釣りをするという戦況というのは、そんなもんじゃなかったんですよ。
もう、死ぬか、生きるか、何日生き延びるか、いつ死ぬかちゅう時の魚釣りですからね。
だから俺達がそこに行く、そこに出発するまでにはですね、
うちの平壌の101部隊で特攻隊が四中隊編成されたんですよ。
一個中隊12機だから48機ですよね。
その48機が出た後に私がポッと入った訳です。
その時は既に私たちは247隊ですよね。
ここに247隊と書かれてあるでしょ。
247隊ですけどね、その前に、その、誠…あれは31だったかな、31、
それから誠71、振武72、振武73というのが編制されたんですよ。
ところが、私達に情報が入ってきたのは、
振武73と振武72が沖縄で突っ込んだんです。
ということは、じゃあ先に行った奴は、24機は、もう早う先死んどるなあちゅうことだったんですよ。
そんな情報入らないんですよね。
そういう状況の中の魚釣りなんですよ。
そんな、その、私達が魚釣るとかじゃないんですよ。(今のレジャー感覚とは違うというニュアンスか?)
それで「魚釣りなんか行けるか…」
「俺が行こうと言うのになんで来んか」という訳ですよ寺嶋の奴は(笑)
というのはですね、命令が来んでしょ?
今話しよるのは八月の十六日の話ですよ。
ずっと前からそこにおったですからね。
もうその、みんな、その、振武七十三なんてのは編成されてから一週間で皆死んだんですよ。
それで俺達は全然命令が来ないんですよ。
命令がくれば死ぬんですけどね。
ごほう(御報?)がいいんだけども、その頃のその、
今私が77歳の年齢でもの言ってますけどね、
感じとしてはその頃は18か19位でしょ。
その頃のその精神状態ですからね。
私が話しよるのは、77で話しよる。
その時は18か19だった。
やっぱほら、焦りっちゅうか、なんかこう命令がこんなあとかいうようなちょっとした焦りがあってですね、
最初のうちはやいこらやいこら言うてやりよったけれども、酒でも飲みよったけど、
酒も飲まんごとなってきた。
死というものと向かい合ってますからね。
ほたら、その時ですね、そこの人がスイカを持ってきてくれたんですよ。
晩方だったですがね。
陽がもう、太陽が向こうに沈む。
「じゃあスイカでも食べようかね」と言うて、
家にばーと座ってから足をぶらぶらしながらスイカ食べよってた。
ほでもう、陽が、もうそろそろ陽が落ちるなあちゅう頃だったですけどね、
ちょっとハッキリと覚えとらんけど、
とにかくサイドカーがですね、向こーの方からサイドカーが、
ばーと走ってきよるんですよ。
皆こう、スイカ食いよったけど一瞬皆黙ってしまった
流石に隊長さん、「出撃準備!」ちゅうて、
もう分かるんですね、もうサイドカーが来よるんじゃから。
飛行場はまだ遠くにあったんですよ、私たちがおる所から。
なにしろ8月16日の話ですけどね、
だからもうスイカ食うのパッと止めてからもう、飛行服に着替えてですね、
皆やっぱりもう そういうふうには準備はしておりましたからね、
気持ちの上でも。
ほで、並ぼうとしよったです。
サイドカーに乗っとった曹長さん、下士官じゃ一番上の階級ですね、
飛行場大隊の飛行場管理しよる曹長さんですよね。
私ら空中勤務者でなしね、その人がもうサイドカーから飛び降りてから、
「違う! 違うんだ! 違うんだよ! 違うんだ! 違うんだ!」
何事かと思って話したら、「戦争負けた」と。
そんぐらい情報が無い所。
戦争は15日負けてるんですからね。
しかも16日の晩方なんですよね。
-それ聞かれた時はどんな感じですか?
18,19位の時の、その、私今言えと言われてもですね…私は…
最初はウソや というような感じだったですね。
黙っとったですけどね、嬉しそうな顔でもせんし、
感動した覚えもないし、黙って…どうですかね…私が考えるのは…
大きな感激とか感動とかちゅうのはあまり無かったように思いますけどね。
なんか分からんわけです極端に言ったら。
今まで戦争は勝つ勝つもう信じてきたものが
いっぺんにポッとやられてから…そういうような感じやったですかねえ。
聞かれても、ちょっとやっぱり…
瞬間的には何が何だか分からなかったんじゃなかろうかなと思いますね。
それからやっぱりその、ちょっと4、5分位経ったらやっぱり、先ず悔しかったですね。
悔しかった。
それと同時に今度は助かったちゅう気持ちが確かにそれもありましたね。
死なんでいいんだちゅう、今まで死ぬ死ぬ死ぬというその、
死というものと向かい合ってきた人間から、今から生きられるという、
なんか、嬉しかったですね。
戦争負けたとか勝ったとかより、とにかく、そういうような…なんか嬉しかったですね。
負けた、悔しい、悔しいという反面、どっかにやっぱ、どっかに、
今考えれば…ハッキリした…各人いろいろですからねぇ、受け止め方いろいろ…
それでそこにですねそんなしておりましてですね、負けた言うたらですね、
そこの家にですね、朝鮮の人たちがガヤガヤガヤガヤ入ってくるんですよ。
そしてその、「タンスと何は俺が取る」とか聞いたら「何て話しよんね」と奥さんに聞いたら、「このタンスは俺が取る」「いやこれは俺が取る」
とか言うてから、
今までその家の前にずーっとお世話になった人たちがそんなこと話しよる。
「兵隊さんいつまでおられますか」
と言うから、「分からんけどおられるだけおりますよ」と。
そこの主人は現地抽出? で塹壕掘りに招集されとるんですよ。
子どもさんが二人おられて、奥さんがおって、じいちゃんばあちゃんが。
そのじいちゃんばあちゃんが大正の初めか、位から来て…
だからじいちゃんが「ウチの嫁はウチ方田地田畑がどこまであるか、
分からんとですよ」と言うたですよ。
水田がどこまであるのか、果樹園がどっからどこまでが自分のものか分からないんですよ。
子どもが二人おっても分からんくらい広いんですよ(笑)
そしてですね、その、そんなしよったからやっぱり戦争負けて、
今から考えればどんな気持ちで過ごしてたか、よう記憶ないですけどね、
「とにかく戦争負けたんだったら、このまま内地に帰ろう」
という訳ですよ。
寺嶋と私が「おい寺嶋、このまま雁ノ巣飛んだら早いぞ」ちゅうて、
戦争負けたんじゃから。
そしたら他の人は雁ノ巣がどこにあるか分からん訳ですよ
いや戦争する部隊の方から原隊に戻って来いちゅう、そういうような命令が来たという訳で、
原隊、朝鮮の平壌ですよ。平壌から出てますからね。
平壌まで帰ること要らんじゃろ。
潭陽は一番南ですよ。
末期の状況、敗戦の報に接した際の心境を、決して巷に広がるステレオタイプの表現に頼るのではなく、
当時の心境をありのまま言語化しようとされている点が非常に貴重だと個人的には感じました。
潭陽は現在も変わらず、何キロも先まで美しい畑地が広がっており、集落が点在しています。
記事冒頭で書きましたが、大正末期か昭和初期頃、広島県から入った開拓団が畑地を広げ、集落を設けました。
日本人開拓団が形成した集落がどの場所だったのか、現在も残っているのか、知る由もありませんが、
その名残は現代まで残っています。
寺嶋さん、ブログ:大日本者神國也の盡忠報國さん、貴重な史料、情報をありがとうございましたm(_ _)m
朝鮮・潭陽飛行場跡地(推定)
潭陽飛行場(推定) データ
設置管理者:日本陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:大韓民国全羅南道潭陽郡
座 標:35°15'46.4"N 126°57'13.5"E?
標 高:32m?
滑走路:1,500mx60m
方 位:18/36?
(座標、標高、方位はグーグルアースから)
沿革
1945年
4月03日 第百六十八獨立整備隊 潭陽到着
4月13日 第百七十五野戦飛行場設定隊 潭陽飛行場の緊急設定作業に従事(8月14日まで)
6月01日 第二百三飛行場大隊 潭陽飛行場着
7月26日 第二百四十七振武隊、第五航空軍(京城)隷下に編入。この頃潭陽飛行場に配備
8月15日 終戦
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