青森県・木ノ下飛行場(木ノ下平臨時飛行場)跡地 [├国内の空港、飛行場]
2023年6月訪問

地図:A『八戸』五万分一地形圖 Image from the Map Collections courtesy Stanford University Libraries, licensed under a Creative Commons Attribution-Noncommercial 3.0 Unported License. Stanford University. 【図幅名】 八戸 【測量時期】 大正2年測図■

地図:B 測量年1944(昭19)(50000 55-9-5 八戸)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
青森県内に「木下」なる飛行場があるということは、15年近く前から知っていたのですが、
どうしても場所を特定できず、「ミサワ航空史」のおかげでやっと位置、詳細情報が知れましたm(_ _)m
■「ミサワ航空史」26pの中で、
「木ノ下飛行場のあった木ノ下平付近の地図」として、現在の木ノ下の地図に円が描かれていました。
先頭のグーグルマップは、この円と当時の地割を加えたものです。
木ノ下飛行場は昭和13年に完成し、昭和15年と16年の2年間定期航路が開設されていました。
地図:Aは大正2年測図。
地図:Bは昭和19年測図ですから、定期航路廃止から3年後のものです。
地図:Aと地図:Bの赤丸周辺の地割を比較すると、特に目立った変化がありません。
つまり、大正2年~昭和19年までの31年間、この周辺の地割はほとんど変化していないということで、
定期航路が開設していた昭和15年~16年当時も、こんな地割だったはずです。
「ミサワ航空史」に飛行場の面積が出ており、30万坪(≒99.17ha)とあります。
上の円の範囲でピッタリの広さの地割を探したのですが、
どうしてもしっくりくる地割を見つけることができませんでした。
実は同書の年表には、「昭和13年12月23日 木ノ下飛行場が竣工 140町歩」とあります。
140町歩≒138.8haなので、「30万坪」より更に大きくなります。
赤マーカーから東北東方向に広々と目立つ細長い地割がありますね。
仮にこの地割の中に滑走路を設けたら。ということで作図したのが黄色のシェイプです。
因みにこのシェイプの面積は64.3haなので、同資料に出てくる数字からすると、
実際にはこれの1.5~2倍強の面積だったことになります。
仮にこんな形だったとすると、滑走路の長さは1,350mx420~590m。
札幌の飛行場は当時800m足らずと思われ、仙台は終戦時に1,210mでしたから、
1,350mというのは、長さとしては十分と思います(雪のことは知らないけど)。
以下、「ミサワ航空史」に記されている木ノ下飛行場についての記述を引用させて頂きます。
木ノ下平臨時飛行場の竣工
昭和5年9月24日、立川陸軍飛行隊が北海道の陸軍演習参加に当たって、再び大正13年夏のときと同様に、木ノ下地区を臨時飛行場として使用した。その後、同年10月9日にも飛来している。これは北海道への往復の中継地として使用されたのである。
翌6年6月20日には、地元紙・東奥日報が弘前8師団の航空隊が設置される計画があることを報じている。「8師団航空隊は木ノ下平に設置か 陸軍機5機飛来して実地調査」という見出しで、次のような報道を掲載している。
「軍制改革に伴う8師団航空隊設置に関し、先に上北郡下田村古間木付近がその場所として有望視されているとの事に最近八戸に於ても同市付近の蒼前平付近を候補地として運動を開始したと伝えられているが、来る20・21日の両日に亘り、航空本部より陸軍機5機が古間木付近の木ノ下平に飛来することになったが、航空隊設置の前提としての実地調査とみられ・・・木ノ下平は従来陸軍機の着陸地として陸軍当局に重視され、且つ古間木駅にも近く・・」
しかし、この計画は実現しなかった。日本陸軍としては、この地の牧野を借用することになったが、その将来性を認識しながらも、予算がつかず遂に買収を行うことはなかった。
陸軍としては、昭和11,12年と例年のように、耐寒飛行テストのため、七戸平野方面での雪上飛行テストを行い、小川原沼付近は飛行場として注目されていた。そして、この場所が、昭和13年7月に、所沢-立川航空隊間の本州・北海道連絡飛行の臨時着陸飛行場として、木ノ下平が注目されることになったのである。事前調査が、この年夏にあって、この年に北海道での陸軍演習があったとき、臨時飛行場として使用されることになった。使用機は、陸軍が長年使用しているフランス製サルムソン2A2複葉機(陸軍名・乙式一型偵察機)に雪橇を装着した冬季装備した陸軍機であった。この耐寒飛行テストには、当時陸軍航空大尉であったあの「航研機」(昭和13年・世界周回航続飛行記録樹立機)の主操縦士・藤田雄蔵の姿もあった。積雪時以前に現地の事前調査にも訪れていた。
昭和13年12月15日、木ノ下飛行場が完成した。民間航空の東京-札幌間空路の冬期間向け飛行場で、夏期間は青森油川飛行場を使用するというものであった。東京・仙台・札幌間の空路を結ぶ民間定期航空路開拓の使命を帯びて開設された新しい空港が、上北郡木ノ下平(古間木駅東方約1里付近、向山駅東側近く)で竣工式が行われた。それは、12月22日午後0時から新築の格納庫内で挙行された。当日の模様を地元紙・東奥日報は次のように伝えている。
「冬の東北・北海道定期航空路開拓の使命を帯びて開設された新しい空の港、上北郡木ノ下平臨時飛行場(古間木駅東方約1里)竣工式は22日午後0時から新築の格納庫内で挙行された。
主なる来賓は左の通り
県知事代理大橋県道路主事、航空局岩崎青森飛行場長・太田航空会社青森出張所主任・猪狩青森測候所長・中田秀雄気象台盛岡支所長、田畑県土木技師、長尾三本木警察署長、岩橋三本木土木出張所長、柏崎下田村助役、杉山六戸村助役、佐藤古間木駅長・苫米地古間木郵便局長、菅木ノ下小学校長、付近消防組幹部、牧野組合員、渡辺無線技手外駐在員や地元関係者らが出席した。開式陳告後、皇居遥拝、国歌斉唱、田中木ノ下気比神社神職の修跋式外行事(ママ)があり太田、岩崎、知事代理などの玉ぐし奉奠あって式を終え祝宴に移った 岩崎場長の挨拶があり盛宴であった」
とある。
見渡す限りの平坦な草原地帯であった飛行場用地30万坪は牧野組合から借用し、格納庫(132坪)と事務所・住宅(43坪)があって、古間木局33番の電話、無線施設も備え付けられていた。
地元紙・東奥日報は、翌14年1月17日に行われた試験飛行を次のように伝えている。
「札幌-木ノ下平間定期旅客機の試験飛行は、17日空の難所津軽海峡を一気に飛び越え見事成功した 旅客機は6人りユニバーサル・スーパーAB00機で、操縦は空のエキスパート亀居飛行士 河内技師 宮本無線技師の外に航空会社の下山国内課長が搭乗員激励のため同乗 この日午前10時15分おりからの快晴を利して札幌飛行場を離陸したが、風やや強く風速10mの空を快翔 苫小牧通過南方目指して津軽海峡を一気に突破 太平洋無着陸横断飛行で名高い青森県三沢村淋代海岸伝えに木ノ下飛行場へ飛び午前11時28分見事なる操縦で無事着陸したもので 同機は雪上飛行に備えて橇を据付けてある」
同機は、午後1時半に離陸して札幌に向った。風速17mの逆風だったため2時間25分もかかって札幌に着き、帰路は1時間12分であった(ママ)。こうして試験飛行は成功した。
本格的定期航路は、昭和15年6月15日から開始されたが、戦時体制強化の時代に入り、この民間定期空路は、同16年10日(ママ)をもって航路廃止となった。
これは同書14,15pにあるくだりなんですが、
三沢では大正時代から耐寒、雪上飛行テストが続けられていたんですが、
単に「耐寒、雪上飛行テストに向いている」というだけでなく、
非常に古くから飛行場として「他の例が無いほど適地」と評されており、
これが今回の飛行場建設へと繋がりました。
ということで、木ノ下飛行場は昭和13年12月に完成し、昭和15年6月から本格的に開始となったのですが、
札幌-東京間の定期航空路は、昭和12年4月から始まっており、
札幌は現在門柱だけが残っている札幌第一飛行場、青森は油川飛行場、
そして仙台は現在の霞目飛行場が使用されていました。
青森については、油川飛行場で定期便が始まったのに、後になってわざわざ「冬期用の飛行場」を造ったのですね。
油川と木ノ下は直線距離で65kmも離れています。
油川は青森市中心部に隣接しており、利便性は高かったはず。
木ノ下の本格的な使用は昭和15年からですが、その前年の昭和14年9月には、
油川に着陸できなかった旅客機が木ノ下飛行場に着陸するという一幕もありました。
本格的な使用が昭和15年6月からで、翌年路線廃止ということは、
木ノ下飛行場が「冬期用の飛行場」本来の目的で使用されたのは、昭和15年の一冬限りだったんでしょうか。
ところで気になる点なんですが、
記述の中で、木ノ下飛行場の位置について、
「新しい空港が、上北郡木ノ下平(古間木駅東方約1里付近、向山駅東側近く)で竣工式が行われた」
「上北郡木ノ下平臨時飛行場(古間木駅東方約1里)竣工式は22日午後0時から新築の格納庫内で挙行された」
とあります。

地図:C『三沢』五万分一地形圖【測量時期】 大正3年測図/『八戸』五万分一地形圖 Image from the Map Collections courtesy Stanford University Libraries, licensed under a Creative Commons Attribution-Noncommercial 3.0 Unported License. Stanford University. 【図幅名】 八戸 【測量時期】 大正2年測図■
古間木駅は、1961年に三沢駅に改称して現在に至ります。
で、「古間木駅東方約1里(≒3.92km)」付近とある訳ですが(紫マーカー地点)、
これは「向山駅東側近く」とは明らかに違う場所です。
「向山駅東側近く」は、飛行場のあった場所で納得なんですが、
「古間木駅東方約1里」というのは、ちょっとどうなんでしょうか。
「古間木駅南東方約1里」なら、赤丸にかなり近い位置まで届くんですが。。。
せっかくお歴々が参集して開港を祝った木ノ下飛行場でしたが、1年ほどで路線は廃止となってしまいました。
その後、飛行場がどうなったかについて、同書には出ておらず、ネットで検索しても分からずじまいです。
実は木ノ下飛行場が竣工した昭和13年、村有地を海軍飛行場(後の三沢基地)用地として売却することが議決されており、
三沢の飛行場についての話は、一気にこの海軍航空基地にもっていかれてしまいます。
戦時下の影響が日増しに強まっており、航路再開など当面見込めないでしょうし、
木ノ下飛行場の用地は元々牧野組合からの借用でしたから、早々に解約してしまい、
本来の用途に戻ったのでしょうか。

当時ここから北海道へ、東京へと旅客機が飛んでいたと思うのですが…。
青森県・木ノ下飛行場(木ノ下平臨時飛行場)跡地
木ノ下飛行場 データ
管理者:航空局?
種 別:民間飛行場?
所在地:青森県上北郡おいらせ町向山東
座 標:40°38'10.8"N 141°23'39.9"E?
標 高:39m?
面 積:99.17ha(138.8haともあり)
滑走路:1,350mx310m?
(座標、標高、滑走路長さはグーグルアースから)
沿革
1924年 夏 立川陸軍飛行隊が北海道の陸軍演習参加に当たり木ノ下地区を臨時飛行場として使用
1928年07月 16日 立川陸軍飛行隊の4機が三本木木ノ下平に着陸。翌日旭川へ出発
25日 旭川から復路の1機が三本木町沖山原野に不時着、飛行不能となる
1930年09月 24日 立川陸軍飛行隊が北海道の陸軍演習参加に当たり木ノ下地区を臨時飛行場として使用
10月 9日 立川陸軍飛行隊、北海道への往復の中継地として使用
1931年06月 20日 東奥日報、弘前8師団の航空隊設置計画を報ずる
1937年04月 1日 日本航空輸送、フォッカー・スーパーユニバーサル機による札幌-東京間の定期航路開始
1938年01月 17日 木ノ下・札幌間試験飛行実施
12月 15日 木ノ下飛行場完成。22日竣工式
1939年01月 17日 試験飛行実施
09月 15日 東京・札幌間定期航空旅客機 青森に着陸出来ず木ノ下飛行場に着陸。乗客3名
1940年06月 15日 本格的定期航路開始
1941年 航路廃止
関連サイト:
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
ミサワ航空史(2015年1月31日発行)
淋代陸軍飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]
2023年6月訪問

撮影年月日1948/05/15(USA M1011 128)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

1938年11月10日撮影


国立国会図書館デジタルコレクション(上3枚とも)Bulletin No. 143-44, September 1944. survey of Japanese airfields in Empire area. Report No. 3-h(1), USSBS Index Section 6 (文書名:Records of the U.S. Strategic Bombing Survey ; Entry 46, Security-Classified Intelligence Library. 1932-1947. 65 ft = 米国戦略爆撃調査団文書 ; 各種日本関係情報) (課係名等:Intelligence Branch ; Library and Target Data Division) (シリーズ名:CINCPAC-CINCPOA: Surveys, air target maps and air information summaries)■
青森県三沢空港の東にあった陸軍の「淋代飛行場」。
情報が極めて少ないミステリアスな飛行場です。
上に貼った英文は、おおよそですが、こんな感じかと。
淋代飛行場は本州東北部に位置しており、
三沢飛行場の1~2マイル以内にあるとされている
1930年、飛行場は6,500ftあり、国内最高の飛行場の一つでした。
現時点では、主に海軍の不時着場および水上機の停泊地として使用される
と考えられています。
滑走路の数、長さ、表面、諸施設などに関する情報は入手できません。
写真の質が悪いため、規模についての情報を知ることはできません
この飛行場は時々フルマキ(古間木のことか?)として知られています。
■「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」
の中で、「淋代陸軍飛行場(淋代牧場)三沢市」として紹介されています。

滑走路方向


滑走路方向

飛行地区方向
青森県・淋代陸軍飛行場跡地
淋代陸軍飛行場 データ
設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:青森県三沢市三沢向平
座 標:40°42'04.1"N 141°24'50.8"E
標 高:17m
滑走路:900mx160m(04/22)、900mx170m(13/31)
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)
関連サイト:
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」
岩手県・見前滑走路(進駐軍滑走路)跡地 [├国内の空港、飛行場]
2023年5月訪問
岩手県盛岡市を走る国道四号線に終戦直後、米軍の「見前滑走路」が建設されました。
この情報は、盛岡でステイホーム中さんから頂きました。
盛岡でステイホーム中さん情報ありがとうございましたm(_ _)m
教えて頂いた情報は、
「戦後、GHQが盛岡市南部の国道4号線上に「見前滑走路」を設置し、軍用セスナ機が往来していましたが、わずか400メートルほどでした。」
というもので、埼玉県民のオイラにとっては分からないことだらけだったんですが、
マップで確認すると、盛岡市内を走る国道四号線の南端部に「西見前」、「東見前」という地名があり、
その北側、住所的には「見前」でなくなるんですが、学校や公民館等の施設名に「見前」が付く地域まで含めると、
その範囲は国道四号線の沿線3km以上に及びます。
この3km以上の範囲から400mの滑走路区間を絞り込まねばならないのですが、
ググってもサッパリ情報がないため、盛岡市立図書館のレファレンスサービスを利用させて頂きました。
盛岡市立図書館様からご紹介頂いたのは、
「都市化と農協・見前の長い道―見前農協創立40周年記念― 見前農業協同組合発行 1988年」
という書籍でした。
ちょっと長いんですが、以下関係個所を抜粋して引用させて頂きます。
84p
一、進駐軍滑走路
長く虚しい戦争は終った。打ちのめされた虚脱感のみ残る村に、ぼつぼつ復員兵が戻ってきた。しかし見前村の戦争は、まだ終わっていなかった。八月十五日の終戦の日からちょうど一カ月経った九月十六日、米軍落下傘歩兵第五十二連隊二,八〇〇名が盛岡に進駐し、上田の盛岡高等工業学校(今の岩手大学工学部の前身)を接収して兵舎とした。
(中略)そして十日後には、米軍飛行機(連絡用)の離着陸滑走路を見前村に求めたのである。そこは、大寺田茶屋から和野橋間の国道(四号線)利用した応急の滑走路で、直ちに土木工事が始まった。国道の松並木は、戦争末期に松根油をとるため大半は切り倒されていたが、残された根を片づけ両側の草地を整備して、国道東側には吹流しを立てた。
まさに国道は滑走路であった。
十月なかば米軍飛行機が飛来し、初めて滑走路に降りた。青い眼のアメリカ兵など戦争中も見ることのなかった村人たちはただ恐れおののいたが、恐いもの見たさに遠巻きをして見ていた。
飛行機は一週間に一度ぐらい飛んできて、和野のムトウ酒店前で待っていたジープが、盛岡公園下のアメリカ軍政部(今の教育会館のところ)や上田の落下傘部隊に向けて、連絡に走っ
た。
滑走路を使う時は国道は縄を張って通行禁止となり、着陸した飛行機は再び離陸するまで国道の傍に置かれた。この間、MPや警察官が厳重な見張りをした。
飛去する飛行機は小型の複葉機が多かったが、どこから飛んできてどこえ飛んで行くのか誰も知らなかった。
「大方、仙台あたりだべ」「いや、東京から直接来るんだべさ」人々は勝手に想像したが、冬になると滑走路の除雪に部落一同が動員され、国道の上を飛行機が離着陸できるように鏡のように掃いた。滑走路が通行止になる間は、人々は両側の雪原を渡って歩いたが、ズボズボ踏み込んでよく転んだ。
飛行機が来る日は、子供達は学校をサボって滑走路に集まった。いま見前農協の課長クラス以上の年配は、みんなそうして大きくなったガキ大将たちだ。
86p
この年(昭和26年)秋の文化の日「カッソーロ」には名前も「平和の翼」と名づけた飛行機が飛ぶ予定で、参観者約五,〇〇〇人が集まったが(当時の見前村の人口より多い)、強風のため五日に延びた。ところが五日も風のため飛行機は再度着陸に失敗した。
それほどこの辺は広々と開けた水田地帯で、西方はるかの東北線の線路からさえぎるものはなく、いったん西風が吹くと、大火になったり飛行機が着陸不能となったりした。
87p
いまこの滑走路の両側にはびっしりと会社、工場が建ち並び東側は都南病院やワマヤボール、西側は永大産業や一戸マーケットなどの大きな建物があるので、昔のように強風にさられれることもなくなった。
この米軍滑走路が最後に使われたのは、都南村合併の前年、二十九年の秋である。
この日米軍機四機が見前滑走路に着陸したが、そのことは事前に知らされていて、村人たちは飛行機の見納めに続々集まってきた。藤沢現組合長もその一人だったが、「これで滑走路の使命も終った。思えば長い戦争だった」
と感慨一入のものがあったという。
今から思えば、三十数年前までこの国道に飛行機が離着陸したなんて夢のような話しである。しかし実際に「見前滑走路」は存在し、青い眼の米軍飛行兵がこの辺を闊歩していたのだ。
いまでも地区の老人たちは、和野の北端と南端の間の国道四号線を「カッソーロ」と呼んでいる。
滑走路について、非常に具体的に触れられていますね。
で、この資料から滑走路についていろいろ考えますのだ。
■滑走路のあった期間
資料によりますと、昭和20年9月16日に進駐があり、進駐から10日後に滑走路建設の要請がありました。
直ちに工事が行われ、1番機の着陸が10月半ばでしたから、
進駐から約1ヵ月後にはもう滑走路として運用開始したことになります。
最後の使用が「昭和29年の秋」とありますから、国道四号線が米軍の滑走路として使用されていた期間は、
1945年10月半ば~1954年秋までの約9年間、ということになります。
結構長いこと使用していたんですね。
■滑走路のあった場所
ご紹介頂いた本には、ドコが滑走路だったかについて、様々な情報が載せられています。
まず、「国道(四号線)」を利用したとあるわけですが、
滑走路としての使用が終了した1954年から、この記事をアップする時点で既に69年も経過していますし、
この書籍自体、発行から既に35年が経過しています(2023年現在)。
ということで、そもそも滑走路だった頃の国道四号線は、現在の国道四号線と同じなのかを確認しました。
この周辺の国道四号線はバイパスなどなく、当時から線形も変化なし。
ということで、現在の国道四号線上に滑走路があった。ということになります。
更に、滑走路として使用していた区間には現在、
「東側は都南病院やワマヤボール、西側は永大産業や一戸マーケットなどの大きな建物がある」
とあります。
「ワマヤボール」と「一戸マーケット」の2つはググっても見つからなかったのですが
国道四号線東側に都南病院(赤マーカー)、そして西側に永大産業(紫マーカー)がありました。
都南病院と永大産業は四号線挟んで斜め向かいという位置関係ですね。
国道四号線の少なくともこの範囲は、滑走路として使用していたということで確定です。
但し、都南病院~永大産業の範囲は、最大でも100mちょいしかなく、400mにはまだまだ足りません。
それで次に、この範囲を含めて、ドコまで滑走路として使用していたか推測します。
この部分の直線がどの程度続いているかなんですが、
都南病院前から南側は約300mの直線が続き、
一方、都南病院前から北側は、約650mの直線が続きます。
ということで、合計950mの「直線区間」の中に400mの滑走路があったはず。
上記資料では国道を滑走路とするための土木工事として、
「残された(松並木の)根を片づけ両側の草地を整備」したとあります。
1948年の航空写真で見てみると、この950mの直線区間の北側部分は、
道の両側に木や建物がズラリと迫っている箇所が多いです。
当時この区間の道路幅は約6mでした(後述)。
資料には、飛来したのは「小型の複葉機が多かった」とあります。
機種までは記されておらず、オイラも大戦当時の米陸軍が使用した複葉機は1つしか知りません。
ボーイング・ステアマン モデル75:Wikiから
10,000機以上生産された複葉練習機、ボーイング・ステアマン モデル75です。
複葉機は、必要な翼面積を2枚に分けて上下に重ねるため、同じ翼面積の単葉機と比較して、
全幅が相当短くなるはずなんですが、それでもモデル75の全幅は9.81mありました。
幅6m道路で、両脇に木や建物がズラリと迫っていては、まったく寸法が合いません。
一方、950mの直線区間の南側部分は、道路の両側が整備されてキレイに何も無い状態です。
上に貼った1948年の航空写真のそれぞれの位置に、都南病院と永大産業を書き加えましたが、
この2つの建物がある「滑走路確定」の場所は航空写真で確認すると、
「道路の両側が整備され」ているように見えます。
上述の通り、国道四号線が滑走路として使用されたのは、1945年10月半ば~1954年秋までの約9年間なのですが、
この周辺で地理院の航空写真で閲覧可能なのは、1947年、1948年、1952年で、
滑走路として運用している時期に3回撮影が実施されたことになるのですが、
いずれの年の写真でも、この区間の両側はクリーンな状態が維持されています。
また、上記資料では「大寺田茶屋から和野橋間」が滑走路とあります。
よそ者のオイラはこれだけでは一体ドコのことやらサッパリなんですが、
これも地元図書館のレファレンスサービスで教えて頂きました。
和野はかなり範囲が広く、この周辺を含んでいるのですが、
上に貼った航空写真の四号線北側部分、川を越した箇所から両側が整備された状態が始まっているように見えます。
ググっても確認できなかったのですが、この川を越す橋、これが「和野橋」なんじゃないでしょうか?
「都南病院」と「永大産業」を含む、間違いなく滑走路跡として特定できる部分を含め、
・直線であること
・道路の左右がきちんと整備されていること
・橋から始まること
これらの条件を満たす区間の長さを測ってみると、418mでした。
これは盛岡でステイホーム中さんから頂いた「わずか400メートルほど」という情報とも合致します。
最後に滑走路として使用していた当時の道路幅なんですが、
上に貼った1948年の航空写真を引き伸ばしてレイヤを作って確認したところ、
白く写っている道路の幅は6m、左右の整備されている部分まで含めると、17mでした。
先頭のグーグルマップはこれを反映して作図しています。
資料にも「この辺は広々と開けた水田地帯で」とある通り、この400m区間に限っては、
国道の東西どちら側も水田地帯が広がっており、本当に広々しています。
この区間なら、全幅10mを超える機体でも、充分運用可能だったのではないかと。
ということで、滑走路は多分ここだったのではないかと思います。
ところで、これだけの広々とした幅があれば充分運用可能。と書いておいてアレなんですが、
「運用可能」というのは飽くまで小型機に限っての話であり、
長さ400m、幅6m("着陸帯"含め17m)というのは、一般的な滑走路としては相当短く、狭いです。
滑走路の長さがたった400m程度でしたから、離着陸速度が遅く、翼面荷重の低い(重量の割に主翼が大きい)
機体でないとここの滑走路は使えません。
「小型の複葉機が多かった」とあるのも道理です。
但し、着陸速度が遅く、重量の割に主翼が大きい機体ということは、
それだけ風に煽られ易く、横風に弱いということです。
盛岡でステイホーム中さんからも、「西風が強い」というご当地事情を教えて頂いていたんですが、
上述の資料の中では、「強風のせいで5日に延期」とか、「着陸失敗」といった表現が見られます。
着陸できるのか、無事着陸できたとして、今度は離陸できるのか、
天気図と睨めっこしながら関係者は相当気をもんだでしょうし、パイロットは神経をすり減らしたはずです。
話は変わりますが、同資料には、駐機中のヒコーキの大きな写真が掲載されています。
支柱付き高翼単葉(主翼下面に大きく"US ARMY")、単発固定ピッチのプロペラ、固定脚尾輪式の機体で、
多分セスナL-19と思います。
セスナL-19 By U.S. Army - U.S. Army photo from the official U.S. Department of the Army publication Vietnam Studies - Airmobility 1961-1971. Washington D.C. 1989 [1] photo [2], Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=9545770
「滑走路(昭和20年代)」とキャプションがついており、
恐らく国道四号線脇の草地に駐機している場面ではないかと。
機 種 | 全幅(m) | 自重(kg) | 翼面積(㎡) | 翼面荷重(kg/㎡) | 出力(hp) | 最大速度(km/h) |
モデル75 | 9.80 | 876 | 27.7 | 48 | 220 | 200 |
セスナL-19 | 10.97 | 732 | 16.2 | 68 | 213 | 185 |
一式「隼」 | 10.837 | 1,975 | 22 | 117.7 | 1,150 | 548 |
二式「鍾馗」 | 9.45 | 2,106 | 15 | 184.67 | 1,450 | 615 |
三式「飛燕」 | 12.00 | 2,630 | 20 | 173.5 | 1,175 | 560 |
四式「疾風」 | 11.24 | 2,698 | 21 | 185.24 | 2,000 | 650 |
上記2機種と日本陸軍戦闘機の比較。
(型式により数字が大きく異なる場合がありますので、「おおよその目安」ということでご了承ください)
全幅は似たり寄ったりですが、それ以外の数字が全然違いますね。
二式「鍾馗」は「1,500m滑走路でも止まりきれずに衝突」なんて記録が残る一方、
L-19なんて、離着陸滑走距離170m~180mですからね。
L-19は自重僅か732kgで、これは軽自動車で現在主流のトールワゴンが1,000kg前後であるのと
比較すると、如何に軽いか分かります(最軽量車種はダイハツのミライース:650kg)。
滑走路の長さがたったの400mですからこういう機体でないと離着陸できず、
この飛行場にこの機体は、必然の組み合わせということですね。
資料とさせて頂いた書籍には、機体の近くに軍服に身を固めた3人の米兵が写っているのですが、
アメリカンソルジャー達よりもずっと機体に近い所にお母さんや子供達はじめ大勢群がっており、
柵もロープもなく、機内を覗き込んでいる元祖ヒコーキマ〇ア様らしき姿もあります。
現代の航空祭等では、自衛隊機でさえロープを張って同じ日本人を必要以上に近寄らせない。
という措置が取られることもあることからすると、余りの無警戒振りが不思議な感じなんですが、
分別をよく弁えた当時の方々だからこそ、この無警戒振りが成立するのでしょうか。
資料には、「駐機中の機体は厳重に警備された」とあるんですが……(o ̄∇ ̄o)
(画角の外ではMPや警察が目を光らせていたりして)
資料には、
終戦直後の進駐と滑走路の存在により、「見前村の戦争は、まだ終わっていなかった」とあり、
滑走路の閉鎖を受け、「これで滑走路の使命も終った。思えば長い戦争だった」
という一節があります。
進駐は様々な形で地元の方々に暗い影を落としたのでしょうが、
それでも写真に写る機体の前の草地に腰を下ろして遊んでいる母子の姿には、ちょっと救われる思いです。
レファレンスサービスで貴重な資料と情報を頂きました盛岡市立図書館兵庫様、どうもありがとうございました。
赤マーカー地点。
黒マーカー地点。
岩手県・見前滑走路(進駐軍滑走路)跡地
見前滑走路(進駐軍滑走路) データ
設置管理者:米軍
種 別:連絡用飛行場
所在地:岩手県盛岡市西見前、東見前
座 標:N39°38′27″E141°10′7″
標 高:110m
滑走路:418mx6m?
方 位:16/34
(座標、標高、方位は地理院から、滑走路長はグーグルアースから)
沿革
1945年09月 16日 米軍落下傘歩兵第五十二連隊2,800名盛岡に進駐
26日 米軍、見前村に連絡用滑走路要求。直ちに工事開始
10月 中旬、初飛来
1951年11月 3日 「平和の翼」機、強風のため飛行5日に延期。参観者5,000名。5日も強風のため着陸失敗
1954年 秋、最終飛行。滑走路閉鎖
関連サイト:
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この記事の資料:
「都市化と農協・見前の長い道―見前農協創立40周年記念― 見前農業協同組合発行 1988年」
岩手県・花巻の不時着陸用滑走路跡地 [├国内の空港、飛行場]
2023年5月訪問
正式名称不明のため、拙ブログでは便宜的に「花巻の不時着陸用滑走路」とさせていただきます。
ご了承ください。
この「花巻の不時着陸用滑走路」情報は、いちろうさんに頂きました。
いちろうさん貴重な情報をありがとうございましたm(_ _)m
頂いた情報をこちらにそのまま引用させて頂きます。
不時着陸用滑走路のことですが、今90歳くらいの元教員の方の証言で、裏付け資料を探そうと思っていて、そのままにしています。この方は当時の花巻農学校に通っていて、通学路となっていた道路が滑走路だった、と聞いていました。花巻農学校は現在の花巻市文化会館のところにありましたが、ここから北へ一直線の道があります。戦後の米軍航空写真でもその軌跡がはっきり残っています。距離にして900メートルで、後藤野が使えない場合の滑走路とその先生は聞いています。とりさんが訪れた防空監視哨の近所です。何か関連があるのかもしれません。
by いちろう (2020-12-23 09:05)
「後藤野が使えない場合の滑走路とその先生は聞いています」
とのことですが、後藤野飛行場はここから南西約10.5kmにある陸軍の飛行場でした。
後藤野以外の飛行場としましては、ここから南約21kmに同じく陸軍の「金ヶ崎飛行場」があるのですが、
この2つ以外だと、ここから40~50km先になってしまいます。
それで、「後藤野が使えない場合の~」というのは妥当な線と思います。
近隣にある飛行場がどちらも陸軍でしたから、ここも恐らく陸軍の管轄だったんじゃないでしょうか。
また、頂いた情報では「距離にして900メートル」とありますが、
先頭のグーグルマップでは、当時花巻農学校(黄マーカー)から北に伸びる道路を突き当りまで線を引いています。
この場合、長さ1,840mになりますので、900mだったとすると、長さはこの半分ということになります。
滑走路方向。
上に貼った1947年の航空写真と比較すると、「そのままの形で残っているのはこの直線道路だけ」
と言っても過言ではないくらい、周辺の道路は様変わりしています。
岩手県・花巻の不時着陸用滑走路跡地
花巻の不時着陸用滑走路 データ
設置管理者:陸軍?
種 別:不時着陸用
所在地:岩手県花巻市若葉町2丁目
座 標:39°23'18.6"N 141°06'03.6"E
標 高:95m
滑走路:900m?
方 位:18/36
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)
関連サイト:
ブログ内関連記事■
愛知県・稲永新田の水上機飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]
2023年5月訪問 2023/8更新

1/25000「蟹江」大正9年測図・大正13.7.30発行「今昔マップ on the web」より作成
鹿児島のこういちさんからのご指摘で、記事を全面的に修正しました。
詳しくはコメント欄をご覧ください。鹿児島のこういちさんありがとうございましたm(_ _)m
愛知県名古屋市港区には大正時代、愛知時計電機の水上機飛行場がありました。
資料:A 報知新聞社 編『報知年鑑』大正15年,報知新聞社,大正13-15. 国立国会図書館デジタルコレクション(参照 2023-05-11)(183コマ)■
これは国立国会図書館デジタルコレクション「報知年鑑 大正15年」
「本邦民間飛行場調〔大正14・8調〕」の一部。
資料:B 報知新聞社 編『報知年鑑』大正16年,報知新聞社,大正13-15. 国立国会図書館デジタルコレクション(参照 2023-05-11)(225コマ)■
もう1つ、こちらも同じく国立国会図書館デジタルコレクション「報知年鑑.大正16年」
本邦民間飛行場調〔大正15.8〕の一部。
時期 | 管理人 | 使用者 | 種類 | 位置 | |
資料:A | 大正14.8 | 愛知時計電機株式会社 | 水上 | 名古屋市南区稲永新田地先名古屋港水面 | |
資料:B | 大正15.8 | 青木鎌太郎 | 水上 | 名古屋市南区稲永新田地先(名古屋港内) |
2つの資料をまとめるとこんな感じ。
資料:Bの使用者である青木鎌太郎氏は愛知時計電機の社長さん。
そして位置については、「名古屋市南区稲永新田地先」まで同じ。
このことから、この2つの資料は同一の飛行場を指していると思います。
ではドコにあったのか。
ということになるのですが、残念ながらネットではこれ以上の情報がないため、
オイラの独断で探すことになりますのだ。
資料にある位置情報としてそれぞれ、
・名古屋市南区稲永新田地先名古屋港水面
・名古屋市南区稲永新田地先(名古屋港内)
とあります。
上に貼った大正9年測図の地図に大きく「區南」とある通り、
当時ここは名古屋市南区だったのですが、名古屋市南区は昭和12年に港区になります。
そして当時この周辺は広く「稲永」でした。
ということで、この辺りの海面が離着水エリアに設定されていたのではないかと。
車道部分を含め、道路の右側は当時海でした。
この道路の右側から沖に向って離着水エリアだったと思うのですが…
愛知県・稲永新田の水上機飛行場跡地
稲永新田の水上機飛行場 データ
設置管理者:青木鎌太郎
種 別:水上飛行場
所在地:名古屋市南区稲永新田地先(名古屋港内)
座 標:35°05'17.5"N 136°52'09.6"E
(座標はグーグルマップから)
沿革
1925年 この頃愛知時計電機の水上機飛行場があった
関連サイト:
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