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鹿児島県・喜界航空基地(喜界ヶ島航空基地)跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2024年4月訪問 2024/5更新  



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撮影年月日1946/04/19(昭21)(USA M57 139) 終戦翌年
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

鹿児島県喜界島(きかいじま)の西側、北岸にあった海軍の「喜界航空基地(喜界ヶ島航空基地)」。

本土と沖縄の途上にある海軍航空基地であったため、末期には特攻機の中継地となりました。

この島の名称は古来様々あり、そのためか海軍作成の資料でもこの島の航空基地を指して、

確認できるだけでも「喜界航空基地」、「喜界島航空基地」と表記が分かれています。


■戦史叢書「沖縄方面海軍作戦」p100

十九年一月八日、佐鎮命令による航空基地
整備要領は次のとおりで、従来と違って明らかに作戦基地として
整備が進められた。

施設名 喜界島
工事要領等 小型機0.五隊使用可能の如く、滑走路長さ最小限一,〇〇〇mに拡張す
記事 昭和一八年官房機密第二八三三号訓令に依り施行

防衛庁防衛研修所戦史室 編『沖縄方面海軍作戦』,朝雲新聞社,1968. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9581812 (参照 2024-05-15)

■防衛研究所収蔵資料:「海軍航空基地現状表(内地の部)」(昭和二十年八月調)

位置 鹿児島県大島郡
基地名 喜界ヶ島
建設ノ年 1944
飛行場 1,200x300 800x270 芝張
格納庫 〇(施設あるも数量不明)
収容施設 200名
工場倉庫 〇(施設あるも数量不明)
主要機隊数 小型機
主任務 作戦
掩体 小型18


■喜界町誌485p-
六 太平洋戦争(途中から)
沖縄戦が開始されると奄美大島は日本本土防衛の最前地点となり、海軍飛行場のある喜界島は特攻機の中継基地となった。

1 海軍喜界島飛行場
 中里海岸を整備して東西に長い海軍不時着飛行場が完成したのは一九三一(昭和六)年で、時々海軍機が飛来するようになり、石垣積みの露天格納庫を設け、一九四三(昭和十八)年頃までは不時着飛行場として利用されていた。南方の戦局が悪化し、敵の進行速度が速くなると、一九四四(昭和十九)年五月、海軍佐世保鎮守府司令部は設営隊(宮本部隊)を編成して喜界島へ派遣し、飛行場拡張工事を命じた(その頃、請負会社星野組も来島し工事した)。
 両町村の動員係は集落毎に人夫を割当て、国民学校、青年学校生徒も勤労奉仕作業に参加し、拡張工事は急速に進められた。完成した飛行場は幅二〇㍍、長さ一〇〇〇㍍東西南北二つの滑走路があり、どの方向からも離着陸できるようになった。
 飛行場周辺には戦闘指揮所(鉄筋コンクリート造りの地下壕、屋上は見張所)や掩体壕、弾薬庫、燃料庫などが宮本部隊の手によって造られ、一九四四(昭和十九)年九月には、飛行場を守る戦闘部隊である巖部隊(海軍南西諸島航空隊)喜界島分遣隊が駐屯するようになった。
 当時、巖舞台に所属していた整備兵宮原清三氏(島中出身)によると、昭和二十年三月末から敵機の来襲が頻繁になり、特攻機が出撃できない時もあった。その時は飛行場の反対側に位置する志戸桶集落南部海岸の草原に設営された模擬飛行場に、竹と藁で編んだ模擬飛行機を並べ、吹き流しを立て、恰も本物の飛行場であるかのように装い、敵機が此処を攻撃している間に特攻機を出撃させたことも度々あり、約百機の特攻機をこの飛行場から見送った。その約九割は帰ってこなかったという。

2 軍作業の動員
(1)飛行場の整備、掩体壕、誘導路作業
 飛行機を格納する掩体壕は飛行場から一~二㌖離れた水天宮山の麓や、赤連・池治集落の丘の麓にも造られ、誘導路で結ばれていた。(赤連の掩体壕二か所には終戦まで飛行機が格納されていた)

693p-
3 航空
(1)旧海軍喜界島飛行場
 現在の喜界空港はかつての旧海軍飛行場の跡地に再興された空港である。同飛行場は終戦時には二本の滑走路を持つ奄美諸島では最大級の海軍飛行場で、県本土から沖縄に出撃する特攻機の重要な中継基地であった。
 同飛行場は昭和六年、旧海軍の仮設飛行場として建設され、場内には石垣で囲った露点格納庫を備えて居た。戦争の気配が濃くなった昭和十二年から十三年にかけて拡張整備され、昭和十九年には更に拡充された。そして特攻機の中継基地として利用されたため、米軍の爆撃、機銃掃射も熾烈を極め、多大な被害を島にもたらして戦争は終わった。その後、飛行場は米軍の爆撃の跡を残したまま、民間空港として再出発するまでの十数年間放置されていた。
跡地に建設された喜界空港には昔を思い出させるものは残っていないが、中里集落の一角に残っている「戦闘指揮所」の跡と、スギラビーチの東端の道沿いに平成八年、戦中喜界島海軍基地に駐屯していた従軍有志によって建立された「海軍航空基地戦没者慰霊之碑」は、激しかった日本海軍と米軍の攻防の歴史を物語るかのようである。

 
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運輸省大臣官房文書課 編『運輸』4(2),運輸故資更生協会,1954-02. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2275022 (参照 2024-04-22)


戦後の喜界航空基地跡は、米国民政府の管理となり、農耕地となったのでした。


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黒マーカー地点。

中里戦闘指揮所跡。

町誌には「鉄筋コンクリート造りの地下壕、屋上は見張所」とありましたが、

外観は非常に不思議な形をしており、素人のオイラにはどこが見張所なのかさえ分かりません。

その特徴的な外観を以下ずらずらと。


DSC_2685_00001.jpgDSC_2686_00001.jpgDSC_2695_00001.jpgDSC_2691_00001.jpgDSC_2690_00001.jpgDSC_2693_00001.jpgDSC_2697_00001.jpgDSC_2698_00001.jpgDSC_2701_00001.jpg


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赤マーカー地点。

海軍型掩体壕がキレイに残っていました。

南国の強烈な紫外線と潮風に曝されながら、よくこんなに良好な状態が保てるものだと不思議な程でした。

以下ずらずらと。


DSC_2704_00001.jpgDSC_2706_00001.jpgDSC_2709_00001.jpgDSC_2710_00001.jpgDSC_2711_00001.jpgDSC_2713_00001.jpgDSC_2712_00001.jpg


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紫マーカー地点。

海軍航空基地 戦没者慰霊之碑


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碑文(全文)
 喜界島海軍基地は、昭和十九年、国土防衛の最前線基地として拡張整備され、七月
海軍 巌部隊が常駐することになった。
 翌二十年、米軍沖縄上陸後は、戦争遂行上の最重要戦略基地として、連日連夜にわたって米軍機の猛爆撃を受けながら、特攻機の整備出撃に多大の貢献をした。しかし、この間莞爾として沖縄に向け飛び立ち、遥か征って帰らざる壮途につかれた若き勇士たちをはじめ、巌部隊員で特攻機の出撃準備中の整備兵防空防衛の任務遂行中の砲台員等で戦死された人達も多かった。ここに基地開設五十周年にあたり、これら戦死者の霊を慰めるとともに、永久の平和を祈念して慰霊碑を建立するものである。
平成六年 月 旧海軍航空基地戦没者慰霊之碑建立期成会 会長 海軍主計大尉 関根廣文 外会員一同
碑建立発起人代表 宮原清三 協賛会会長、喜界町長 野村良二 喜界町町民一同

碑文周辺に置いてあるのは、航空基地当時の舗装面だったりするのでしょうか。




     鹿児島県・喜界航空基地跡         
喜界航空基地 データ
設置管理者:海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:鹿児島県大島郡喜界町
座 標:28°19'18.7"N 129°55'45.7"E
標 高:4m
面 積:138.8ha
滑走路:1,200x300 800x270 芝張(「海軍航空基地現状表(内地の部)」)、1,000mx20m 2本(喜界町誌)
(座標、標高はグーグルアースから。滑走路長さは防衛研究所資料と町誌から併記)

沿革
1931年    海軍不時着飛行場完成
1937年    翌年にかけて拡張整備
1944年05月 飛行場拡張工事。2本の滑走路、戦闘指揮所、掩体壕、弾薬庫、燃料庫等建設
     09月 巖部隊(海軍南西諸島航空隊)喜界島分遣隊駐屯
1945年03月 末から敵機頻繁に来襲
     08月 15日 終戦。戦後基地跡は米国民政府の管理となり、農耕地となる
1994年    碑建立

関連サイト:
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この記事の資料:
現地の説明版、碑文
喜界町誌
防衛研究所収蔵資料:「海軍航空基地現状表(内地の部)」(昭和二十年八月調)


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鹿児島県・徳之島飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2024年4月訪問  



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撮影年月日1965/10/20(昭40)(MKU653X C27 5) 運航開始から3年半。私設飛行場当時
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撮影年月日1978/07/24(昭53)(CKU777 C11 8) 北側の新滑走路供用開始まであと3ヵ月余り
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撮影年月日1990/10/28(平2)(KU905X C21 5) 滑走路南端部分拡大。ランウェイナンバーが残ってる
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撮影年月日2003/01/22(平15)(CKU20023X C6 5) Xがペイントされた
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成。上4枚とも)
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『運輸公報』(628),運輸省大臣官房,1961-10-06. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9645632 (参照 2024-04-22) 
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『運輸公報』(648),運輸省大臣官房,1962-03-02. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9645648 (参照 2024-04-22)

鹿児島県徳之島にあった徳之島飛行場。

先頭のグーグルマップをご覧の通りで、現在の徳之島空港の滑走路と南側で交差してますね。

東亜航空が1960年に場外飛行場として建設し、後に県に移管、拡張して運用が続けられました。

「一民間航空会社が飛行場を建設、運用する」という、現代の感覚ではちょっと考えられない生い立ちですね。

上に2枚、縦長の『運輸公報』貼ってますが、なんでわざわざこんなものを貼ったかと言いますと、

県公式サイト、町誌等見ても、「東亜航空の場外飛行場」的な表現になっていて、正式名称が不明でした。

いろいろ検索して、運輸省に対し正式に「徳島飛行場」として申請、許可を得ていたのが分かったのでした。

話を戻しますと、その後の需要増に対応するため、新規でジェット化対応の2,000m滑走路建設が計画されます。

現在の滑走路がまずは1,200mで供用開始する1978年までは、この滑走路が徳之島の空の玄関でした。


■「徳之島空港 新滑走路完成とジェット機乗入れ」と題するサイト様 (東亜国内航空航空部作成)

の中で、飛行場を建設した当事者である東亜航空(当時)が記事を載せています。

これによれば、

「昭和34年12月東亜航空が滑走路長300mx20mを有する場外施設飛行場を建設し、セスナ機による遊覧飛行を開始した」

ことが、徳之島空港の始まりであると記しています。

後述しますが、徳之島町誌、天城町誌、県の空港サイト等では、

翌昭和35年以降の1,000m超の滑走路建設から沿革が始まっているのですが、

それ以前にもっと小さな滑走路があったのですね。

上に貼った1965年(昭和40年)撮影の滑走路、よく見ると滑走路と着陸帯の北半分が、

やけにモザイク模様になっているのが気になるのですが、

もしかしたら既存の300m滑走路を活かして延長したからなのかもしれません。


■徳之島町誌(1970年) 406p-
空路の開設
 徳之島の空路の開設は、東亜航空が独立でもって空港建設からはじめたのである。東亜航空は徳之島の将来性
に眼をつけて、たまたま同系列資本の奄美パイン株式会社が、すでに、徳之島に進出していたこともあって、空
路開設に踏み切ったのである。島内には、いくつかの候補地があったが、結局、天城町浅間のいまのところに決
定したのである。それ以前、徳之島には、昭和十九年から陸軍が、いまの空港のすぐ上の平地に二〇〇〇メート
ルの滑走路を持つ飛行場を建設したが、これは、戦後政府から県をとおして、すでにこのときにはもとの地主に
払い下げられていたので、これをふたたび空港にすることはムリであった。そのため、その近くの塩田のあとを
整理して、いまの空港を建設したのである。これは、鹿児島県にはただひとつの民間空港であって、昭和三七年
二月七日から使用された。滑走路は一二〇〇メートルの第三種空港の規模である。
 奄美空港は、昭和三十九年までないので、このころは、鹿児島から奄美までの空路は、喜界島まで一六人乗りの
デハビランド・ヘロン一一四型が飛んできていた。徳之島空港の開場とともに、このヘロンが、鹿児島から喜界
島を経由してやってきはじめたのである。このヘロンは、その後、東亜航空で改造されてタウロンとよばれるよ
うになったが、これが、一日一便やってきたのである。このころは、島の人たちは飛行機を利用することなどは
とてもできる相談ではないと思っていた。ところが、就航後まもなく亀津の人の横浜にいる兄弟が危篤になっ
た。これまで、島外にいる人が危篤になれば、もう生きて会えることはまったくないのも同じであったのであ
る。ところが、このとき、空路を利用して、その日のうちに横浜について、生きて会えたというので、あらため
て空路の便利さが強調されるようになったのである。
 その後、奄美空港開設とともに、四〇人乗りのコンベア二四〇型がやってくるようになった。そして、昭和四
〇年から日本航空機製造の六〇人乗りYS一一型が、一日二回「おおらで奄美」とやってきているのである。こ
の空路の開設は、はじめ東亜航空では相当の負担であったが、その後の観光ブームともあいまって、いまでは、
よい営業成績をあげている。空路はいまでは、島の人たちの下駄がわりになってしまって、よく利用されている
し、それにもっともよいことは、本土との時間距離が短縮されて、島の開発に大きなよい影響をあたえているこ
とである。この空港は昭和四四年には、鹿児島県に買収されて、第三種空港となった。

なんで一民間航空会社が飛行場の建設に手を出すのか?

という非常に気になる点について、ここで記されています。

徳之島の将来性、同系列資本の会社が既に進出していたから。ということだったんですね。


■天城町誌(昭和53年発行)112p-

徳島空港
 徳之島空港は、天城町浅間の元陸軍飛行場の下海岸、サンゴ礁の堡礁の上につくられている。昭和三十五年、東京の不二サッシ系の東亜航空株式会社が大島で初めて民間飛行場をつくった。
 滑走路は、浅間の湾屋川下流のサンゴ礁の裾礁から北西へ伸びる堡礁の上に、フロント幅員八〇m、滑走路一二〇〇mを舗装して、塩浜海岸にターミナルをつくって昭和三六年一二月八日、運輸省航空局、鹿児島保安所の完工検査を受けて、手直しもなく完成した。
 同年十二月十六日から試験飛行を行ない、翌三十七年三月より旅客機が飛び始めたが、初めの間はヘロン機で十五人乗りであったが、四十三年よりYS11型六五人乗りが一日二往復している。
 昭和四十八年鹿児島県が買い上げて、滑走路やターミナルを拡大整備、第三種空港に格上げして、滑走路を六〇〇m延長して一八〇〇mに、また滑走路のフロントを九〇mに拡大し、五七年度を目標にジェット機の売込テストなどが行われている。
 徳之島空港の利用者は年々ふえて、四九年度は十一万八七八八人の利用者があった。

幅員について、県サイトと東亜国内航空航空部作成サイトでは30mとあるのに対し、

町誌では80mとあります。

先頭のグーグルマップは、上に貼った1965年の航空写真から作成したんですが、

滑走路幅:36m、着陸帯幅:73mでした(作図に誤差出てるつぽい)。

町誌をよく見ると、長さについては「滑走路一二〇〇m」と記しているのに対し、

幅員については「フロント幅員八〇m」と記し、「フロント」がついています。

こうしたことから、町誌の80mというのは、着陸帯を指しているのだと思います。


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南日本新聞社 編『鹿児島年鑑』昭和36年版,南日本新聞社年鑑編集部,1960. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9769564 (参照 2024-04-21) 


東亜航空が1,200m滑走路の建設許可を貰った年の年鑑です。

「浅間飛行場」とありますね。

【浅間飛行場】でググると、陸軍の浅間飛行場ばかりがズラリとヒットするのですが、

戦後間もない頃の書籍では、東亜航空が建設した飛行場を指して、

「浅間飛行場」、「徳之島浅間飛行場」という表記が見られました。

また、民間航空会社が建設を進める飛行場ではあるのですが、

島内他の町とも一致協力して国と県に援助を要請という雰囲気だったんですね。
 

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『十年の歩み』,南西糖業,1976.5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11955206 (参照 2024-04-17) 

「徳之島空港」とキャプションついてます。

現行滑走路の供用開始が1978年、この書籍は1976年発行なので、旧滑走路を使用した最終版の風景。

ワイエスにTDAのロゴマーク!!

時代ですね~。


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『かごしまの建設事業』昭和51年版,鹿児島県土木部,1976. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9669523 (参照 2024-05-14)




当時の滑走路の南端部分が一部残っています。

跡地を見てきました。


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黄色マーカー地点(以下3枚とも)。

滑走路南端から滑走路方向。

奥にフェンスが見えますが、あのフェンスから先は現空港敷地内として区切られてます。

ここで180°回頭すると、


DSC_2633_00001.jpg

DSC_2634_00001.jpg
こんな感じ。

舗装面が崩れてますね。

そのおかげで「サンゴ礁の上に建設された」というのがよく分かります。


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ペイントが一部残ってました。

上に貼った1978年の航空写真には、

新滑走路への移行まであと3ヵ月に迫った旧滑走路がカラーで写っているのですが、

ペイントは全て白色です。

一方、2003年の航空写真では、Xマークのオレンジで目立っています。

ということで、このいい感じにかすれて残っているオレンジ色のペイントは、使用不可を示すXと思います。


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赤マーカー地点。

フェンスの向こうに旧滑走路が伸びてます。

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青マーカー地点。

当時のターニングパッド東隣りに現在はVOR/DMEが設置されていて、旧滑走路をちょっと見下ろすことができます。




     鹿児島県・徳之島飛行場跡地         
・徳之島飛行場(1962年供用開始当時) データ
設置管理者:東亜航空
種 別:場外飛行場
座 標:27°49'49.0"N 128°52'51.5"E
標 高:4m
着陸帯:1,200mx80m
滑走路:1,080mx30m
方 位:18/36
(座標、標高、方位はグーグルアースから。着陸帯、滑走路長さは町誌から)

・徳之島空港(1973年県移管当時) データ
設置管理者:鹿児島県
種 別:第3種空港
3レター:
4レター:
座 標:27°49'49.0"N 128°52'51.5"E
標 高:4m
滑走路:1,200mx30m
方 位:18/36
(座標、標高、方位はグーグルアースから。滑走路長さは県サイトから)

沿革
1959年12月 東亜航空、300mx20mの私設場外飛行場建設。セスナによる遊覧飛行開始
1960年11月 15日 飛行場設置許可。1,200mx80m(→町誌)
1961年05月 東亜航空、建設着手
     12月 8日 運輸省航空局、鹿児島保安所の完工検査。16日から試験飛行
1962年   NDB設置
     02月 23日 供用開始(R/W 1,080m×30m)(→県サイト)
     03月 運航開始。東亜航空DH.114ヘロン就航(15人乗り)
1964年07月 3日 奄美大島線開設。CV-240型機
1968年    使用機材YS-11型機に変更(65人乗り)。1日2往復
1969年   鹿児島県、飛行場の買い上げを決定
1970年10月 24日 設置者の地位継承許可 東亜航空(株)→鹿児島県
1971年12月 28日 県、運輸大臣に1200m延長設置許可申請(YS-11対策)
1972年01月 27日 空港設置許可
1973年02月 27日 第3種F級空港政令指定。県に移管。滑走路1,800mx90mに拡張(→町誌)
     06月 1日 供用開始(R/W1,200m×30m)(→県サイト)
1975年02月 14日 航空灯火設置許可(昼間照明)
     08月 8日 県、運輸省に設置変更許可申請(2,000m滑走路建設)。28日、公聴会
     10月 18日 空港施設変更許可(R/W2,000m×45m)
1976年07月 東亜航空、鹿児島線開設(YS-11型機)
     08月 10日 航空灯火供用開始(昼間照明)
1978年07月 24日 航空灯火変更許可(LLZ対応)
     11月 3日 空港施設変更供用開始(1期R/W1,200m×45m)

関連サイト:
鹿児島県/徳之島空港 
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この記事の資料:
徳之島町誌(1970年)
天城町誌(昭和53年発行)


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鹿児島県・浅間飛行場(徳之島北飛行場)跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2024年4月 訪問  



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撮影年月日1947/05/13(昭22)(USA M1001 112) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
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国立国会図書館デジタルコレクション/


鹿児島県の徳之島、天城村淺間に建設された陸軍の「浅間飛行場(徳之島北飛行場)」。

マップをご覧の通りで現在の徳之島空港よりも少し内陸にありました。


■徳之島町誌(1970) 186p-
第九節 徳之島陸軍飛行場
 戦時中、陸軍飛行場は天城村浅間の現在の旅客飛行場の東側南北にわたり滑走路を作り、同町岡前たんぼの南
北の丘陵下に掩体壕と滑走路、松原の北の山の手へ滑走路と掩体壕建設計画途上、終戦で中止となった。この飛
行場の影響は徳之島全島に及ぶので、ここに集録する。

1.浅間飛行場
 昭和十八年、戦局は悪化し南方各島嶼各作戦は敗退を続け、インド・ビルマ作戦も後退を続けていた。敵の進
攻速度は速くなり、フィリピン、台湾、沖縄、奄美と本土への飛び石伝いの島々の防衛強化がさけばれてきた。
同年十月八日、航空本部熊本支所長一行十二人が徳之島に来た。一行は平土野に泊り、九日は上田利光天城村長
ら幹部を帯同し、浅間部落一帯を視察、十日は瀬龍部落一帯を視察し、安藤俊良技師、太宰見習視官ら三人を残
して、一行は沖縄県平島に出発した。
 十月十二日には安藤陸軍技師を主任として鹿児島県より派遣された藤崎修技手、天城村碇山昌明土木技手等が
浅間部落一帯の測量をはじめた。測量が終ると土地買収が始まった。土地は宅地は一畝歩で七十二円、畑は一等
地五十四円、二等地三十九円、三等地二十一円であった。家屋の転居料は倉、牛馬豚舎含めて、最高五千円、最
低三、四百円のものもあった。数十年、数百年、先祖代々住みなれた宅地家屋の移転は平和な住民にかなり苦痛
であった。値上げなどを要望すれば、国家総動員法で没収されると公言し、住民はしかたなく異議もできないま
ま移転でごった返した。買収した地域は浅間部落の通称、福殿地より幅員六十二メートル、浅間原を北に、川津
辺部落の半田川に至る南北千五百メートルの滑走路と海岸線にいたる約七十九町歩の宅地や農地であった。

2.二千二百人徴用命令
 十一月二十五日、陸軍の野村潔主計少尉、佐々木曹長らが下士官と技術員、軍属など十数名を引率して十島丸で
亀徳港に数十屯に及ぶ糧秣を荷揚げし、更に二十六日は御用船にて平土野港に数十石の材木を荷揚げした。これ
ら資材は浅間湾屋港に運び込まれ、野村少尉ら幹部は川口延男宅に、下士官・軍属は浅間青年会場を宿舎として飛
行場建設をはじめた。十一月二十八日、野村少尉は徳之島四ヶ町村長と青年学校長を亀津に招集して飛行場建設
の趣意説明を行ない人夫供出を命じた。命令によると人夫は亀津町四百五十人、伊仙村六百人、東天城村四百三
十人、地元天城村は八百人、合計二千二百八十人の人夫割当て命令であった。また各町村青年学校は男生徒全部
を一ヶ月交替として天城村と東天城村を一班、亀津町と伊仙村を二班として編成し、命令一下、何時でも出動さ
れる如く準備待機せよとのことであった。更にまた天城村に対しては、村内の馬車は薪用材運搬班、大工と石工
は建築班、事務炊事用半として六十名の男女を確保しておくように命じた。また天城村の岡前、阿布木名(天城
と改称)、兼久の三小学校は人夫宿舎に充当するよう命ぜられた。
 これら労務者と青年学校生の待遇については陸軍経理部から天城村は自宅通勤とし、東天城村、亀津町、伊仙
村の労務者は天城村の三小学校舎に収容することになり、賄つきとすることになり、労務賃金は賄つきで普通男
子一日一円五拾銭、大工と石工は二円、自宅通勤労務者は一円八拾銭、同大工と石工は二円三拾銭、女子はその
仕事の内容によって八十銭から一円十銭までとし、青年学校生徒は伊仙、亀津、東天城の出身者は賄つきで一日
五十銭、天城村青年学校生徒は自宅通勤として一日八十銭を支給すると下達された。また勤務時間は午前六時現
場集合、人員点検報告の上、宮城遥拝して七時作業開始、午後六時まで昼食一時間、午前午後十五分ずつの休憩
時間をもうけた。なにしろ午前六時現場集合のため飛行場より遠い学校や部落宿泊者たちは午前三時、四時に起
きて朝食、五時に家を出て徒歩で作業指定現場に向かわないと間に合わないので最初の間は大変つらい仕事であ
った。
 十一月三十日軍命令が天城村に出され、十二月一日より百人ずつの人夫を二日間にわたりだすべきことを命じ
た。人夫は午前六時湾屋港到着、資材上陸のため仮桟橋を設けた。これら資材は岡前、前野の山林から杉材や松
材が所有者の許可なく切り出され、苦情をもってくれば総動員法で処分されると公言され、全部泣き寝入りとな
った。十二月三日から天城村立青年学校に出動命令が下り、益田豊成校長以下職員と男生徒四百人が建設現場に
出動した。工事は野村少尉、太宰見習視官等が直接指揮し、松岡福二兄弟の屋敷より、西の方は宮村永峰の畑、
納芳義美の屋敷の東側、島利栄の屋敷の東側一帯の窪地で、鬱蒼たる畑の周囲の蘇鉄、槇、榕樹、柑橘類の林木
の伐採、抜根を命じた。

3.人夫出動す
 更に青年学校生徒に続いて、人夫出動命令が十二月六日より天城村、他の三ヶ町村には十二月八日より出動す
べき命令がでた。各町村総動員係は小学校卒業の男女から満六十才までの人夫を動員し、人夫の代理出夫は認め
たが病気以外の者は認めず、割当て通り全村民がその出動することになった。これら村外からの労務者は、色あ
せた毛布に日用品を入れ色あせはてた作業着を着て、古い鍬、みつまた、山刀、斧など作業用具を携帯して遠く
伊仙、亀津、東天城村から徒歩できて岡前、天城、兼久の三小学校や各部落青年会場に分宿、あるいは大きい個
人宅に宿泊して飛行場建設に従事した。
 作業は工具が当時既に鉄不足で買えなくなっていたため、ほとんど全部の労務者のもっている鍬、みつまた等
はすべて古いものばかりで作業能率はあがらず、また航空本部も陸軍航空本部徳之島出張所という看板に似ずわ
ずかに数十条の「トロ」用レール、三十数台のトロ、百四台のリヤカーに、中古トラック五台にすぎない有様

で、土工作業器具がないため伐採、抜根、運搬等みな原始的人力に頼る以外に方法がなく、額に玉なす汗をふき
つつ、乏しい配給生活に耐えつつ作業はすすめられた。
 昭和十九年一月から沖永良部、与論両島から三百余名の労務者が応援に来た。悪化しつつある戦局に備えて工
事は突貫作業となり、各現場は競いたち、三月十日の陸軍記念日頃には大体の荒工事を終わり、砂糖黍畑は変じ
て一望坦々たる運動場のようになった。
 また同時に、飛行場外に駐屯する陸軍飛行中隊の兵舎敷地の整備も済み、兵舎、練兵場、倉庫、中隊本部等の
礎石コンクリート設備も終わり仮事務所のバラック建て三十坪余も完成した。航空本部では三月十日陸軍記念日
に、四ヶ町村長ら三役及び全島の小学校長、青年学校長を飛行場、南側の湾屋川下流の川原に招き、起工式をあ
げ必勝を祈る祝宴を開いた。五月に入り飛行場はほとんど落成し、各所に地積一反二畝、三方に二メートルから
三メートルの堤防を築き、一ヶ所より飛行機の出入りできる掩体壕を二十数ヶ所設けた。このうち岡前たんぼの
南側山沿いに滑走路をまわし、通過所を設け、更にたんぼの北側にも同様に掩体壕を作る計画をすすめたが、完
成せぬうちに終戦となった。六月に入り飛行中隊本部、事務室、整備室、倉庫、便所に至るまで完成し、出入門
と歩哨小屋も完成し、場内には守衛を置いて巡視させるほどになった。六月には第六師団経理部長一行の徳之島
巡視が行なわれ、飛行場の完成に伴なって試験飛行を済ませ、毎日数機の飛行機が離着陸するようになった。

大変な苦労の上に建設された飛行場なのですね。


■伊仙町誌 271p
によれば、終戦間もない9月18日のこと、米軍大佐が50人ほどの兵士を引き連れて徳之島に上陸、

島内視察をしたのですが、ちょうど浅間飛行場を視察しているところに、

双胴双発の戦闘機がきて飛行場を爆撃し、約10分ほどで飛び去ったのだそうです。

大佐は怒って、沖縄の米軍本部に連絡。

翌日には参謀総長付法務長官、法務官らが調査に訪れるというハプニングがあったのだそうです。


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運輸省大臣官房文書課 編『運輸』4(2),運輸故資更生協会,1954-02. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2275022 (参照 2024-04-22) 


上に貼ったのは、「還ってきた奄美群島の運輸交通事情」と題する記事の一部です。

奄美群島が日本に返還されたのは、1953年12月24日のことでした。

その直後の奄美群島の飛行場について、現状と要望が記されています。

この当時、奄美群島にあった陸上飛行場は(水上機基地は奄美大島の古仁屋基地)、

日本陸軍が建設した「徳之島飛行場」、日本海軍の「喜界飛行場」の2つだけで、

どちらも破壊され、現在は米国民政府の管理となり、農耕地として貸し付けられているとあります。

こうした波乱万丈の経緯を経て、現在があるのですね。


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紫マーカー地点。

特攻平和慰霊碑の由来
 この地は 旧陸軍飛行場の跡でありさる太平洋戦争における本土防衛最後の砦として 沖縄決戦に出征する紅顔可憐な特別攻撃隊の中継基地となり数多くの若き勇士が 莞爾として翼をつらね 暗雲急を告げる南の空へ飛び立ち 逝いて帰らざることとなりし思い出深きところである
 これら丈夫の 至情至純に満ち溢れし精神を顕彰し 悠久空しく散華せる御霊の とこしえに安らかにあられんことを請い願い 以って祖国日本の永遠の平和と発展を望むは まさに国民の総意といえよう
 天城町では このゆかりも深き 旧飛行場跡に 御遺族 有志の願望に答えるべく 内外からの浄財により 特攻平和慰霊碑を建立して 御霊を幾久しく鎮めまつり その御遺徳を後世に永く伝え 併せて 日本民族の平和と隆盛を祈念するため いささか由来を述べ碑文とする 昭和五十年八月十五日 天城町特攻平和慰霊顕彰会会長 天城町長吉岡為良


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碑のすぐ前に伸びている滑走路跡の道路。

滑走路方向。

先頭のグーグルマップで確認して頂いた方が話が早いのですが、

碑は、滑走路北端、そして中心線に位置しています。

ここから離陸滑走を開始し、離陸後少し右旋回すれば、僅か100余km先には沖縄。


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灰マーカー地点。

滑走路方向。


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説明板拡大(天城遺産/陸軍浅間飛行場跡 にて閲覧できます。先頭のグーグルマップもここから作図させて頂きましたm(_ _)m)


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赤マーカー地点。

滑走路南端から滑走路方向。


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中学校の校庭側から小道に入ってゆくと、説明板があります。

(天城遺産/陸軍浅間飛行場跡 にて閲覧できます)


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黒マーカー地点。

無蓋掩体壕跡(の1つ)。

民家があり、撮影方向が限られるのですが、緑の部分が無蓋掩体壕のはず。

画面向って右側に入口があります。

写真からでは伝わりませんが、土地の高低差を巧みに利用しています。


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黄色マーカー地点。

補助滑走路北方向。


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同じく黄色マーカー地点。

補助滑走路南方向。


DSC_2613_00001.jpg
青マーカー地点。

誘導路跡。西方向。


DSC_2614_00001.jpg
同じく青マーカー地点。

誘導路跡。東方向。



     鹿児島県・浅間飛行場(徳之島北飛行場)跡地         
浅間飛行場(徳之島北飛行場) データ
設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:鹿児島県大島郡天城町浅間
座 標:27°49'59.2"N 128°53'18.7"E
標 高:16m
面 積:99.2ha
主滑走路:1,500mx62m
着陸帯:1,525mx275m
方 位:18/36
補助滑走路:850mx25m
方 位:01/19
(座標、標高、方位はグーグルアースから。面積は運輸省大臣官房文書課 編『運輸』から)

沿革
1943年10月 8日 航空本部熊本支所長一行12人来島。翌日、天城村長ら幹部を帯同し浅間部落一帯を視察
        12日 浅間部落一帯の測量開始。その後土地買収
    11月 25日 陸軍、亀徳港に数十屯に及ぶ糧秣を荷揚。翌日平土野港に数十石の材木荷揚。建設開始
        28日 陸軍、徳之島四ヶ町村長と青年学校長を亀津に招集。計2,280名の人夫招集命令
1944年01月 沖永良部、与論両島から300余名の労務者が応援に来る
     03月 10日 大体の荒工事終了。起工式
     05月 飛行場ほぼ完成。無蓋掩体壕20数基建設
     06月 第六師団経理部長一行による巡視。飛行場完成により試験飛行
1945年08月 15日 終戦。米軍による占領統治
     09月 18日 米軍による視察中、爆撃を受ける
       その後、飛行場は米国民政府の財産管理官の管理下に置かれ、農耕地として貸し付けられる
1953年12月 24日 奄美群島返還
1975年08月 15日 特攻平和慰霊碑建立

関連サイト:
ブログ内関連記事■       

この記事の資料:
現地の碑文、説明板
徳之島町誌(1970)
伊仙町誌(1978)


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鹿児島県・徳之島空港(徳之島子宝空港) [├国内の空港、飛行場]

   2024年4月訪問  



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撮影年月日1978/07/24(昭53)(CKU777 C11 7) 新滑走路(1期1,200m)供用開始まであと約3ヵ月
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撮影年月日1985/01/22(昭60)(KU844X C2  5) 2,000m滑走路供用開始から約5年
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成。上2枚とも)
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SkyVector.com

鹿児島県徳之島にある徳之島空港(徳之島子宝空港)。

徳之島の北部西海岸に位置しており、サンゴ礁を埋め立てて建設された空港です。

現行の滑走路は、需要増、ジェット化に対応するため、

それまでの滑走路から若干位置と角度を変えて新たに建設されたものです。

1978年、第一期として1,200mの新設滑走路で供用開始し、

1980年、第二期では更に800m延長して2,000mとし、ジェット化を果たしました。

これは鹿児島県内の離島空港としては初のことでした(奄美空港のジェット化は1988年)。
 

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建屋の奥にもデッキが続いています。


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建屋の横を通り、奥の展望デッキへ。


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奥のデッキはこんな感じ(上2枚とも)。


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金網が張られており、覗き窓は無し。


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     鹿児島県・徳之島空港(徳之島子宝空港)         

    ビュー:☆☆★★★  
屋上に広々とした無料展望デッキあり。
滑走路側は、空港としては非常に珍しい金網に囲われ、覗き窓無し。ベンチ、双眼鏡等無し


    施設:☆☆☆★★  
ターミナル前に無料駐車場あり
レストラン、土産品、売店あり


    マニア度:☆★★★★  
ターミナル北側にある運動公園が撮影スポットに向いている(らしい)


    総合:☆☆★★★  
空港について公式に扱っているサイトは、国交省、鹿児島県の「県内の空港」のみ。地元自治体や空港独自のサイトは見当たらず


徳之島空港 データ
設置管理者:鹿児島県
種 別:地方管理空港
3レター: TKN
4レター:RJKN
所在地:鹿児島県大島郡天城町
標 点:北緯27度50分11秒東経128度52分53秒
標 高:2.3m
面 積:52.6375ha
着陸帯:2,120m×150mC級
滑走路:2,000m×45mLA-2
方 位:01/09
誘導路:270.6m×23m,144.7m×18m
エプロン:120m×85m,110m×70m(SJ-2,プロペラ-2)
駐車場 214台
照明施設 進入灯,進入路指示灯,夜間着陸用灯火一式
無線施設 VOR/DME,LOC,RAG
運用時間 8時30分~19時30分(11時間)
(主に県サイトから)

沿革
1975年10月 18日 空港施設変更許可(R/W2,000m×45m)
1978年11月 3日 空港施設変更供用開始(1期R/W1,200m×45m)
1980年06月 1日 空港施設変更供用開始(2期R/W2,000m×45m)
        航空灯火変更供用開始(夜間照明)
        東亜国内航空、DC-9型機就航、新空港ターミナルビル完成
1981年06月 15日 航空灯火変更供用開始(進入灯)
1983年12月 東亜国内航空からの路線移管により日本エアコミューターが奄美線開設(Do228型機)
1989年06月 7日 航空灯火変更許可(R/W灯等)
1990年07月 1日 航空灯火変更供用開始(RCLL,TWCL)
1991年06月 1日 航空灯火変更供用開始(RTHL,REDL,RCLL)
1992年04月 2日 航空灯火変更許可(PAPI,RAI)
1993年03月 5日 航空灯火変更供用開始(PAPI,RAI)
1995年07月 日本エアコミューター、伊丹線開設(サーブ340型機→休止)
1999年06月 24日 航空灯火変更許可(地上型灯器型式変更)
2001年07月 12日 航空灯火変更供用開始(地上型灯器型式変更)
2002年10月 1日 運用時間延長(8時間→10時間)
2009年06月 20日 第一航空、那覇線開設
     09月 11日 中華航空、台北便運航(初の国際チャーター)
2012年02月 26日 開港50周年記念式典に合わせ、「徳之島子宝空港」の愛称を制定
2019年10月 27日 運用時間延長(10時間→11時間)

関連サイト:
鹿児島県/徳之島空港 
国交省/徳之島空港(40コマ) 
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この記事の資料:
全国空港ウォッチングガイド

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鹿児島県・沖永良部空港(えらぶゆりの島空港) [├国内の空港、飛行場]

   2024年4月訪問  



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SkyVector.com
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撮影年月日1977/10/18(昭52)(CKU778 C5B 9) 開港から8年。1,200m滑走路
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成。以下3枚とも)
(音が出ます。揺れが酷くてすみません。着陸は5:12~)


鹿児島県沖永良部島の北東に位置する沖永良部空港(えらぶゆりの島空港)。


■全国空港ウオッチングガイド
エアポートレビュー 1969年の開港から長らく1,200メートル滑走路とYS-11のコンビネーションで運用されてきた沖永良部空港だが、1998年度からサーブ340型機のペイロード制限緩和のためとDHC-8型機就航に備えた滑走路舗装強度強化が実施され、2005年度には1,350メートル滑走路が供用を開始した。日本エアコミューターの最後のYS-11運航は2006年9月30日、沖永良部発鹿児島行き3806便だった。

■福岡管区気象台要報(福岡管区気象台, 1982-03) 209p~
沖永良部空港 沖永良部測候所
SW風:山越え気流のため、風下側に弱いTURBが発生することがある。
台風や冬期の季節風の強風時を除けば、離着陸困難となった例はほとんどない。

地形および気象の概要
ア.空港は隆起サンゴ礁からなる平坦な島の北端に位置し、海抜28mである。
 空港の南西方になだらかな丘陵がひろがり、丘陵の高いところは246mである。
イ.気候は海洋性で、風向や気温の日変化は極めて小さく、風の局地性はほとんどない。


■沖永良部空港 回顧誌(昭和61年12月発行)

沖永良部空港の沿革
 沖永良部島は鹿児島から南に535kmの南西洋上に浮ぶ孤島(49.3km,面積94.51平方㎢)
年の平均気温22度、島の交通は海路にのみ頼る外ない状態でこれらの解消には航空路を開設、本
土との時間差を短縮し、島の発展を高めようと当時の町長、武田恵喜光氏の日夜献身的な御努力と国
頭地区住民の空港立地に対する絶大なる御理解と御協力をいただき、奄美群島振興特別措置法に基
づく事業として整備事業が進められた。
 又、島民御一同様の空港立地に対する意欲的な願望が適えられた。

昭和40年度空港立地調査開始
昭和41年3月14日 飛行場設置許可申請
昭和42年3月16日 空港設置に関する公聴会
昭和42年6月15日 空港設置許可
昭和42年7月 4日 工事に着工
昭和44年3月11日 工事が完成
昭和44年4月21日 大阪航空局沖永良部空港出張所開設
昭和44年5月 1日 供用開始 (開港)

 当時の東亜航空株式会社(現東亜国内航空)のDH114ヘロン機が奄美大島と沖永良部島間に
不定期便として運航が開始された。その後は同社の機種はYS-11型機となった。

 昭和47年2月11日
 沖永良部←→鹿児島空港間に奄美経由の定期便の開始を経て鹿児島直行一往復、奄美経由一往復の
計2往復4便の就航をみるに至った。
 昭和49年1月3日 航空保安施設としてNDBが誕生
 昭和49年8月30日 VOR TACAN誕生
 空の燈台とも呼ばれる施設が誕生、それぞれ供用開始された。
 昭和51年8月1日 進入角指示燈 末端識別燈 供用開始
 航空機の離着陸に必要な進入角指示燈(VASIS)及び末端識別燈(REIL)航空機に進入
方位を指示する閃光燈(瞬間的に煌く光を出す)が設置され、供用開始、航空機の安全運航に大き
く関与された。
 鹿児島、沖永良部間2往復4便、奄美、沖永良部間に一往復就航となった。
 昭和54年8月10日 南西航空 初就航
 与論経由那覇空港、毎週月・水・金、運航両県の交流を共に深め、経済の発展に寄与している。
 昭和54年10月3日 空港管理事務所新設
 昭和54年10月29日 照明制御操作盤移設
 昭和54年10月30日 移転
 航空代理店内での空港管理業務も終止符を遂げた。
 昭和56年8月20日 滑走路嵩上工事(グルーピング)
 昭和58年12月10日 日本エア.コミューター初就航

 赤字に悩む東亜国内航空の奄美路線、二地点間旅客輸送(不定期航空運送事業)として、奄美空
港を拠点に喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島を日本エア.コミューター株式会社(東亜国内航
空と地元14市町村の出資、第三セクター方式)がドルニエ228-200型19人乗りの小型機
で運行開始、昭和59年度の利用率は58.5%、60年度は52.0%上々のスタートである。

 昭和58年12月23日 予備発電設備工事着工
 進入角指示燈及び末端識別燈に対する予備発電(商用停電時)設備の建設が進められた。
 昭和59年2月20日 工事完成
 昭和59年2月22日 試験終了
 昭和59年5月2日 供用開始
 商用停電時の予備発電として航空機に対する離着陸の安全運航に大きく甦る。

 
 沖永良部は農業の島。空港周辺はさとうきび畑が多い。製糖期シーズン(12月20日より明年
の4月10日頃まで)に入ると、昔と違って収穫したきびを吊上げクレーンで積荷して、工場に搬
入する。沖永良部経済を支える大事な産業である。これまでは航空機が進入寸前吊上げクレーンを
使用していた場合もあった。これは管理者としては、とても厳しい仕事である。私も空港周辺地主
の方なり、地区担当員に説明かたがたお願いにあがる。定期便の月ダイヤ表を配布して、航空機の
到着時間帯をはずし、朝夕積荷するよう協力願っている。説明文とは次のとおりである。「運輸省
航空法第2条第8項第9項の規定によると、滑走路標点より高さ45米・半径1,800米が水平表
面とされています。水平表面とは航空機が着陸の際衝突を避けるために、一定の場周経路を旋回し
て進入するので、その安全を確保するために必要な空域です。又、航空機が進入着陸寸前にクレー
ン車を使用していると転移表面にかかります。着陸帯中心(標点)より航空機の進入両方向それぞれ
600米、高さ45米となっています。転移表面とは、航空機が着陸のため進入を誤った時、脱出
の安全を確保するため必要な安全地帯となっています」。このように協力を戴き、今後のジェット
化に対し、滑走路の拡張問題も抱え、地元の皆様とは仲よくして行かなければならない。


空港管理日誌
 昭和56年X月X日 天気晴
 午前6時起床、ここ南の沖永良部島は早春の陽気が流れる気持ちの良い朝だ。今日も絶好のフラ
イト日和になりそうだ。
 一番機が着陸するまでにチェックしなければならない管理業務が待っている、午前7時30分空
港に出勤。
 午前9時30分の運用開始までの間に空港内、諸施設に異常はないか点検を行う、私のチェック
ルートは先ず、①駐車場に放置車両がないか(前日から引続き駐車された車は登録番号を記録する)
②エプロン内に危険物が落ちていないか、③滑走路内に危険物が落ちていないか、舗装に異常カ所
がないか、標識は明確であるか、④着陸帯に欠損カ所はないか、特に雨の後等は着陸帯法面にも欠
壊カ所がないか入念に点検する。⑤航空保安照明施設の点検についてはVASISの窓を開け、
REILのガラスを拭く、最後に照明の点灯試験を終えると9時頃になる、運用開始OK、異常な
しをCABに連絡する。
 定期便が着陸するのは11時05分である、それまで別に小型機、臨時便等の着陸も予定されて
いないので、CABと連絡を取りながら着陸帯の草刈り作業を実施する。
 草刈り作業については、航空機の発着の合間を見図らっての作業に付き、計画どおりになかなか
はかどらない。しかし空港は常に最良の状態に維持し航空機の安全就航に供すべきであり、常に最
善を尽すよう心がけている。
 15時40分定期最終便出発後は、又着陸帯の草刈り作業を再開、17時30分終業点検として
何時もの通り、滑走路、エプロン、場周柵の破れカ所の有無等点検、VASIS(進入角指示灯)
の窓を閉じ、駐車場の見廻りを終え、管理日誌を記載し、1日の日課を終了し家路に付く。
 以上は私が沖永良部空港管理事務所に着任以来、5年近くの間における毎日の日課であります。
空港管理業は、外部から想像する以上に大変な仕事だと思います。大袈裟な云い方かも知らないが、
航空機1機全乗客乗員の命を、我々が預っていると云っても決して過言ではないと思います。否そ
の心構えがなければ、空港管理は到底勤まらないと思います。
 航空機は他の交通機関に比べ格段に高速であり、便利だが、反面危険な面もあります。
 即ち我が国の航空機事故の約半数が、離着陸時に起きていると聞きます。従って、このような利
便性の高い交通機関の安全運航を確保するために、運行管理者(CAB)、航空会社(エアライン)
施設管理者(県、管理事務所)が一体となり、それぞれの職分ごとに最大限の努力が必要だと思い
ます。
 私共、空港施設管理者としては、常に空港が正常な整備状況の下で供用出来るよう、点検、管理
に努め、少くとも空港施設の管理点検の不備によるトラブルがあってはならないと念じております。


9.png
これは上に貼った1,200m滑走路当時の滑走路の北側エンド部分を拡大したものです。

ターニングパッド、西側だけ広がった形状ですね。

この部分のレイヤを作って確認したところ、

b.png
撮影年月日2022/03/03(令4)(CKU202112 C3 30) 

こちらは1,350mに拡張後の滑走路の同じ場所(青マーカー)。

ここだけ舗装が飛び出してますが、1,200m当時のターニングパッドとピッタリ重なりました。

白矢印部分、この斜めになってる角度こそ、旧ターニングパッド跡の証。

滑走路は延長しただけでなく、拡幅もしたのですね。

(滑走路東側のちょっと高くなってる所から300mmで飛び出た部分を探したけど分からなかった)


DSC_2561_00001.jpg
黄色マーカー地点。

VOR


DSC_2564_00001.jpg


DSC_2565_00001.jpg
灰マーカー地点。

R/W04側

以下エプロン横(黒マーカー)から。


DSC_2568_00001.jpgDSC_2569_00001.jpgDSC_2570_00001.jpg
以下ターミナル内外。


DSC_2572_00001.jpgDSC_2573_00001.jpgDSC_2574_00001.jpgDSC_2575_00001.jpg


DSC_2584_00001.jpg
展望デッキへは、ターミナル向って左端にあるこのドアから。


DSC_2577_00001.jpgDSC_2576_00001.jpg
奥にあるのは双眼鏡ではないです。カメラ?


DSC_2578_00001.jpgDSC_2579_00001.jpgDSC_2580_00001.jpgDSC_2581_00001.jpgDSC_2582_00001.jpgDSC_2583_00001.jpg
以下滑走路反対側(赤マーカー)から。


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最後、離陸するヒコーキを追っていくとどうなるか、ちゃんと考えてなかったため、こんな写真に(つД⊂;)




     鹿児島県・沖永良部空港(えらぶゆりの島空港)         

    ビュー:☆☆☆☆★  
屋上に無料展望デッキあり。
滑走路側は高いフェンスが張られているが、細長い窓が設けてあり、エプロン、滑走路全域見渡せる


    施設:☆☆☆☆★  
ターミナル前に無料駐車場あり
こじんまりしたターミナル。売店あり。スタッフの方は皆さん気さくで親切でした


    マニア度:☆☆☆☆★  
周辺は撮影スポットに恵まれている


    総合:☆☆☆☆★  
南の島の小さな空港


沖永良部空港 データ(昭和61年当時:主に沖永良部空港回顧誌から)
設置管理者:鹿児島県
種 別:第3種空港
所在地:鹿児島県大島郡和泊町国頭地内
標 点:27°25′35″N 128°42′23″E
標 高:27.81m
面 積:204.975㎡
着陸帯:1,320mx90m
滑走路:1,200mx30m
方 位:04/22
誘導路:70mx18m
エプロン:7,000㎡(YS-11型用2バース)
駐車場:2,249㎡(127台)
照明施設:進入角指示燈、滑走路末端識別燈
無線施設:NDB,VOR,対空通信施設、テレタイプおよび自動中継装置
気象施設:雲高計、無線模写受画装置、一般気象観測器一式
ターミナルビル:RC1階建、304㎡(町,民) 手荷物検査場48.51㎡

・沖永良部空港 データ(現在:主に県公式サイトから)
設置管理者:鹿児島県
種 別:地方管理空港
3レター:OKE
4レター:RJKB
所在地:鹿児島県大島郡和泊町
運用時間:8時30分~18時30分(10時間)【4月1日~9月30日】 
     8時30分~17時30分(9時間)  【10月1日~3月31日】
標 点:27°25′54″N 128°42′20″E
標 高:26.8m
面 積:398,351㎡
着陸帯:1,470m×150m(E級)
滑走路:1,350m×45m(LA-4)
方 位:04/22
誘導路:62.5m×18m
エプロン:165m×70m(プロペラ-3)
駐車場:120台
照明施設:昼間着陸用灯火1式
無線施設:VOR,TACAN,RAG

沿革
1965年度   空港立地調査開始
1966年03月 14日 飛行場設置許可申請
1967年03月 16日 空港設置に関する公聴会
     06月 15日 空港設置許可
     07月  4日 着工
1969年03月 11日 完成
     04月 21日 大阪航空局沖永良部空港出張所開設
     05月 1日 開港。東亜航空DH114ヘロン機にて、奄美大島不定期便運航開始。後にYS-11型機に変更
       31日     第3種空港政令指定
1972年02月 11日 鹿児島線、奄美経由の定期便を経て鹿児島直行1往復、奄美経由1往復化
1974年01月 3日 NDB供用開始
     08月 30日 VOR、TACAN供用開始
1975年02月 14日 航空灯火設置許可(昼間照明)
1976年08月 1日 進入角指示燈、末端識別燈供用開始。鹿児島線2往復4便、奄美線1往復化
1979年08月 10日 南西航空初就航。与論経由那覇線、毎週月・水・金運航
     10月 3日、空港管理事務所新設。29日、照明制御操作盤移設。30日、移転
1981年08月 20日 滑走路嵩上工事(グルーピング)
1983年06月 15日 航空灯火変更許可(予備電源)
     12月 10日 日本エアコミューター初就航。ドルニエ228-200型にて奄美線
     12月 23日 航空灯火(予備電源)着工
1984年02月 20日航空灯火(予備電源)完成。22日試験終了
     05月 2日 航空灯火(予備電源)供用開始
1988年07月 日本エアコミューター、鹿児島線開設、YS-11就航(日本エアシステムから路線移管)
1992年04月 2日 航空灯火変更許可(PAPI)
1993年03月 5日 航空灯火変更供用開始(PAPI)
1999年03月 19日 空港施設変更許可(R/W1,350m×45m)
2002年08月 30日 空港施設変更許可(Q400就航に備えた滑走路等強度変更)
2005年05月 12日 空港施設変更供用開始(Q400就航に備えた滑走路延長1,350m×45m,滑走路等強度変更)
2008年03月 エアードルフィン、那覇線就航(セスナC208型機)
2016年02月 13日 愛称「えらぶゆりの島空港」決定記念セレモニー

関連サイト:
沖永良部島観光サイト 
鹿児島県/沖永良部空港 
国交省/沖永良部空港(41コマ)
ブログ内関連記事

この記事の資料:
福岡管区気象台要報(福岡管区気象台, 1982-03)
沖永良部空港 回顧誌(昭和61年12月発行)
全国空港ウォッチングガイド


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