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愛媛県・栗野浦の仮設飛行場跡地 [├場所]

   2023年12月訪問  



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撮影年月日1947/10/07(昭22)(USA R516-2 1) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

愛媛県八幡浜市栗野浦。

大正末期の時期、栗野浦の埋立地に仮設飛行場が設けられました。

八幡浜市誌(昭和六二年三月三十一日)1284pの中に、

大正十五年一〇月、民間飛行機、初めて栗野浦埋立地に着陸

とありました。

八幡浜市誌:合併10周年記念版.第1巻 (歴史編)150p に以下記されていました。

四 八幡浜と飛行機
前年秋に大洲肱川河原を離陸した陸軍の陸上機が、栗野浦の埋立地の仮設飛行場に着陸を試み、新川岸に車輪を引っかけて失敗した。新川が干潮時で、陸地に見えた操縦士のミスであった。


仮設飛行場の設けられた時期について、「前年秋に」とあります。

これは前文から恐らく大正15年(1926年)と思われます。

仮設飛行場の位置については、「栗野浦の埋立地」「新川」とあります。

2つの資料に栗野浦埋立地への飛来について記しているのですが、

「大正十五年一〇月、民間飛行機、初めて」
「前年(恐らく大正15年)秋に 陸軍の陸上機」

とあり、同時期の話であり、同一の出来事かもしれないのですが、

片や民間飛行機、片や陸軍の陸上機とあり、異なっています。

当時は軍用機を民間に払い下げるケースが非常に多かったため、これだけだとなんともいえません。

また、場所については、

一方が「栗野浦埋立地」としているのに対し、

もう一つは「栗野浦の埋立地」だけでなく、「新川岸」とも記しています。

栗野浦の埋立地は複数あるため、この2つは全く別の場所という可能性もあります。

まあヒコーキが非常に珍しい当時のことですから、同じである可能性が高いのではないかと思いますが、

これだけだと明確に判断つきません。


マップだと「千丈川」という表記の方が圧倒的に多いんですが、千丈川=新川で、

新川の河口付近一帯の左岸側が「栗野浦」という地名です。

あいにく地理院の地図だと縮尺の関係で、大正時代の「栗野浦」の埋め立て具合がよく確認できないのですが、

愛知県生涯学習センター/データベース『えひめの記憶』 

にこんな説明がありました。

八幡浜市は、宇和島市に比べてはるかに平地に乏しく、流域のせまい新川の片口に立地している。このため市街地は明治以後三五回におよぶ海岸の埋め立てによって広がってきたといってよい(図3―17・表3―41参照)。

前のページ には(図3-17)があり、

「八幡浜の埋立事業」として、時代ごとにどのように埋立られていったかが図示されています。

特に栗之浦の埋立については、新川の河口部分(造船所の辺り)と、新川左岸が細く長く埋め立てられた様子が

示されており、埋立はどちらも「大正・昭和時代(1913-83)」とあります。

これは実際に図を見た頂かないと分からないと思うのですが、

まず造船所一帯が埋立られ、次いで新川左岸が細く長く埋め立てられたという順番のはず。

ということで栗之浦の埋立地は、

現在の造船所一帯と、新川左岸沿いの細長い部分に大別できます。

で、このどちらかが仮設飛行場になったはずなのですが、

新川左岸沿いの埋立部分は余りに細過ぎて、オイラ個人としては、仮設飛行場とされたのは、

現在の造船所一帯ではなかったかと思います。

当時のヒコーキは、滑走路の長さよりも、常に風上に向って離着陸できる幅の広さの方が重要なので。


(図3-17)によれば、埋立が実施された期間は、大正・昭和時代(1913-83)なので、

70年の間にこうなった訳ですが、

上に貼った1947年の航空写真と比較すると、1947年以降も埋立が続いたのが分かります。

ということで、(図3-17)と1947年の航空写真から、仮設飛行場当時の埋立はこんなだったのではないか。

と作図したのが先頭のグーグルマップの黄色のシェイプです。

最大でも200m程度の直線しかとれないのですが、大正期のヒコーキならなんとかなるはず(弱)

DSC_1911_00001.jpg
赤マーカー(沖の橋)。

造船所。




     愛媛県・栗野浦の仮設飛行場跡地         
栗野浦の仮設飛行場 データ
所在地:愛媛県八幡浜市栗野浦
座 標:33°27'22.0"N 132°25'07.3"E
飛行地区:130mx130m(不定形)
(座標、飛行地区長さはグーグルアースから)

沿革
1926年秋 仮設飛行場が設けられる

関連サイト:
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この記事の資料:
八幡浜市誌:合併10周年記念版.第1巻 (歴史編)


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島根県・北浜防空監視哨跡 [├場所]

   (訪問不可)  



島根県出雲市にある「北浜防空監視哨」跡。

現在跡地周辺一帯はユーラス新出雲ウインドファームの用地になっており、立ち入りができません。

2013年3月 出雲市教育委員会から報告書がが出されました。

これは風力発電建設に伴い、2007年度に実施した北浜防空監視哨跡の発掘調査の報告書で、

【出雲市文化財調査報告書 北浜防空監視哨跡 高島城跡】で検索すると閲覧できます。

この報告書から監視哨関連を以下抜粋させて頂きました(詳しくは直接報告書をご覧ください)。

 太平洋戦争末期には、十六島町の北側の半島稜線上に防空監視哨が建設された。主に西から進入してくる敵機を哨戒することが目的であり、学生たちが監視の任務にあたった。くしくも現代では、北浜防空監視哨から東へ3.3キロメートルの半島稜線上に、航空路監視レーダーが建設されており、今は昔と違い、航空機の安全航行の監視を担っている。

 当初は聴音壕のある尾根上に風力発電施設、建物跡に管理用道路を通す予定で、北浜監視哨跡全体が取り壊される計画だったため、現地保存できるよう計画変更をお願いした。

 聴音後は、尾根の最上部の標高212mの地点に築かれたコンクリート製の構造物である。保存状態について観察したところ、ほとんど劣化をしておらず、良好な状態を保っていた。外径は3.7m、内径は3mあり、深さは2.2mある。外壁の構築法をサブトレンチで確認したところ、10cmx6cmのコンクリートブロックが互目の積み方であると判明した。壕の内壁はモルタル仕上げがされている。

 小ブロックを二重に積み上げ、その間を空洞にして、飛行機の爆音を反響しやすくした構造になっている可能性が高い。

 床面はコンクリート敷きである。床面の壁に沿いに高さ50cm、長さ80cm、幅30cmの方形の台座が設けられている。監視員の腰掛であり、東西南北4方にあるのは、敵機の飛行方向に関する的確な情報を探知するためであろう。

 北浜防空監視哨は、昭和16年(1941)に設置され、終戦まで監視体制がとられていた。勤務は哨長1名、副哨長3名、哨員18名で構成され、哨長は不定期であった。勤務は副哨長1名に哨員の6名を1班とした3班編成で、3交代制の24時間勤務であった。勤務内容は立哨2名、通信2名、休息2名の2時間交替の繰り返しであったようである。哨員は北浜、西田、鰐淵3地区の16歳から18歳の男子で、青年学校の生徒が勤務に当たっていた。

 聴音壕は戦後60有余年経っているにもかかわらず、保存状態が良好であった。佐香と小田の監視哨のものと構造・規模が同じであることから、同一の設計図を基に施工されたと考えられる。


二重構造、腰掛の位置等、思いもよらぬ工夫がなされていたのですね。




     島根県・北浜防空監視哨跡         
北浜防空監視哨 データ
所在地:島根県出雲市十六島町1486-1ほか
座 標:35°28'09.5"N 132°45'03.8"E
標 高:212m
(座標はグーグルアースから。所在地、標高は資料から)

沿革
1941年 設置。終戦まで監視体制がとられる


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鳥取県・皆生海軍省通信隊通信壕跡 [├場所]

   2023年12月訪問  



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撮影年月日1947/10/07(昭22)(USA M515-6 33) 

出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

鳥取県米子市皆生 国道431号線から少し入った所にある「皆生海軍省通信隊通信壕跡」。

鳥取県米子市教育委員会発行の「米子市指定史跡 旧海軍美保航空隊飛行機用掩体」 

というパンフレットの中に、「米子市に残る主な戦争遺産一覧」

があり、ここに「皆生海軍省通信隊通信壕 米子市皆生5丁目 長さ 2150、幅 400、高さ 45」

と記されていました(ここで正式名称知った)。

美保基地はここから西北西約12kmにあります。


DSC_1659_00001.jpgDSC_1664_00001.jpgDSC_1665_00001.jpg




     鳥取県・皆生海軍省通信隊通信壕跡         
皆生海軍省通信隊通信壕 データ
設置管理者:海軍
所在地:鳥取県米子市皆生5丁目7
座 標:35°27'01.3"N 133°21'28.4"E
(座標はグーグルアースから)

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鳥取県・日野川空港跡地 [├場所]

   2023年12月訪問  



無題1.png
測量年1934(昭9)(5万地形図 108-12-7 図名米子) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 


鳥取県米子市内を流れる日野川。

地元サイト様情報ですが、かつてこの日野川の河川敷に「日野川空港」がありました。

サイト様によりますと、

昭和9年、日野川河川敷が100m程整地され、20日間ほど飛行機の飛来があり、

周辺から見物人があつまり、店が出る賑わいになった。

この飛来は、米子に飛行場を作るための調査飛行と思われる。

とのことでした。

昭和9年は、米子市、松江市、新潟市で国際飛行場の誘致合戦が行われた年なので、時期的にはこれと合致します。

 
「日野川空港」は日野川の河川敷にあった。とは言うものの、河川敷は両岸に細長く続くため、

なんとか場所を絞り込まねばなりません。

上に貼った地図はちょうど昭和9年測量のものであり、

サイト様に記されている地名からすると、当時の河川敷内で適地は、上の地図のAとBと思われます。

既に90年近く経過しており、現在とは河川敷の形が大きく異なりますね。

Aでも長さ600mあり、広さは十分なのですが、

前述の地元サイト様にて、「てっぺんまで登って(飛行機の)見学した」とされる記念碑

(紫マーカー・少し移設したらしい)との位置関係からすると、Bの可能性が高いように思います。

Bは少し屈曲しますが、最大で1,300mx220mの広さがあります。


DSC_1652_00001.jpg
赤マーカー地点。


DSC_1655_00001.jpg
青マーカー地点。

個人的にはここから奥に向っての河川敷内に滑走路が設けられたと思うのですが…




     鳥取県・日野川空港跡地         
日野川空港 データ
種 別:調査用仮設飛行場?
所在地:鳥取県米子市古豊千?
座 標:35°24'51.4"N 133°22'08.7"E?
標 高:13m?
飛行地区:約100m
方 位:15/33?
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
1934年 20日間ほど飛来あり

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鳥取県・YS-11の胴体跡地 [├場所]

   2023年12月訪問  




9.png
撮影年月日2021/06/01(令3)(CCG20211 C5 21) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

鳥取空港の滑走路西端すぐ近くに長いことYS-11の胴体が置いてありました。

【鳥取県 YS-11】等で検索すると、多数の記事がヒットします。

…が、オイラがお邪魔した2023年12月には、キレイさっぱり無くなっていました。

(少なくとも2023年3月まではココにあったらしい)

一足遅かった!! つД`)・゚・。・゚゚・*:.。

ではなぜここにYSの胴体があったかというと、事故を起こして廃棄となったのでした。

事故調から133Pの調査報告書が出ており、閲覧できます 

事故について一言でまとめると、「離陸時に機首上げができずオーバーランしてしまった」ということです。

調査報告書にザっと目を通してみたのですが、

おおよそ次のようなことでした(詳しくは直接報告書をご覧ください)。


事故の概要

事故が発生したのは、昭和63年(1988年)1月10日。

事故機は美保飛行場発 大阪国際空港行き 東亜国内航空670便のYS-11型機(JA8662)でした。

胴体は永く鳥取空港近くに置かれていたのですが、事故が起きたのは、美保飛行場(米子空港)だったんですね。

同機は9時34分、美保飛行場R/W25から離陸滑走開始したのですが、

V₂コール後も機首上げができず、R/W07側過走帯の末端からオーバーランし、中海に突入してしまいました。

この事故で乗客8名が軽傷、機体は中破しました。

なぜ機首上げができなかったのか。

V₂コールの後、操縦輪を握っていた副操縦士の「重いなぁ」という音声が記録されています。

操縦輪を引き、機首上げ操作をしたにもかかわらず、機首は上がりませんでした。

直ちに離陸断念操作に移ったものの、機体は滑走路内で止まりきれず、中海に突入してしまいました。


なぜ機首は上がらなかったのか

ではなぜ機首上げ操作をしたのに、機首は上がらなかったのでしょうか。

結論から言うと、当時の気象状況からくる昇降陀の動作不良でした。

事故発生当時、YS-11は就航から20余年経過していたのですが、

実はYS-11型機、寒冷時の運航中に今回の事故と類似した昇降陀の異常事例が十数軒報告されています。

異常事例のうち12件は、今回の事故と同様に離陸滑走時に発生しています。

異常事例発生時に共通していたのは、

・10月~2月で冬期がほとんど
・空港の気象状況は、しゅう雪(止み間のある雪、みぞれ混じりも含む)又は降雪後の曇り
・全天が雲に覆われている状況
・雪質:湿り雪
・気温:1℃~-2℃

というものでした。

全ての事例を通じ、エプロンでの飛行前点検、及び離陸滑走直前のコントロール・チェックでは、

昇降陀は正常に作動していました。

ところが、離陸滑走の終期に近い速度付近で、昇降舵作動に異常を認知しています。

(操縦士は、「昇降陀が重い」「動かない」「動きが悪い」「効きが悪い」等表現している)

そして離陸を中止してエプロンに引き返す途中、及び、エプロンでのチェックでは、

昇降陀の作動は、正常な状態に回復しています。

直前まで正常に動作していたのに、肝心の機首上げの時だけ動作不良を起こし、

すぐまた正常に戻る。

不思議ですね。

まるでワイエスが「離陸したくない」という意志を持っているかのようです。

事故調では、他機種を含めて、同種事例についての照会をICAO、NTSB、FAA、NASAに行ったのですが、

いずれも資料には記載されていないとの回答でした。


今回の事故に話を戻します。

事故当時は気温1℃ 露点温度-1℃。

天候は弱いしゅう雪(止み間のある雪)で、滑走路面はウエット。

8時の時点で、R/W07側、滑走路中央に積雪なし、R/W25側の滑走路には1mmのスラッシュがありました。

事故報告書にはこの「スラッシュ」という言葉が度々登場するのですが、

同報告書内で「水分を含んでいる雪で、踏みつけたり蹴ったりするとハネが上がる状態の雪」(9コマ)

と説明しています。

出発前の整備士、機長によるエプロンでの点検の時点では、主翼上、水平尾翼上に明らかな積雪はなく、

防氷作業は実施されませんでした。

離陸開始約9秒前に実施したコントロール・チェックでも特に異常はなし。

ところが、Vʀで機首引き起こし操作を行ったものの、エレベータ・コントロールが重くて動きません。

V2に達しても機首上げが困難であったため、離陸断念操作に入ったと推定されています。

後に行われた凍結に関する模擬風洞試験の結果から同報告書内では、

水平安定板には水、スラッシュが付着していたと考えられ、

地上走行時(約3分間)、そして特に離陸滑走時(約24秒間)、プロペラ後流の影響もあり、

水、スラッシュの一部で凍結、氷着が進行したと考えられる。

水平安定板、昇降舵、タブ表面にこれらの現象が起ると、

操舵力の増大、気流の乱れ、ヒンジ部の固着の可能性がある。

と結論されています。


なぜ止まれなかったのか

事故機は離陸滑走開始から約370mの地点でV₁、470mの地点でV₂がコールされ、

600mのちょい手前からはタイヤ痕跡が付き始めています。

現在は2,500mなのですが、当時の滑走路は1,500mで、更に60mの過走帯がありました。

つまり事故機は、滑走路長の半分に満たないところからブレーキをかけ始め、

そこから滑走路の残り900m、更に60mの過走帯を減速に費やしても止まりきれず、

そのまま中海に突入してしまったことになります。

このため、YS-11型機の離陸断念時の特性に関する資料を得る目的で、

秋田空港にて実機による飛行試験を実施しています。

秋田空港での実機による試験の際、

離陸断念時、スロットル・レバーを全開位置から全閉位置へ操作するのに要した時間の平均値は、

3.6秒(最短1.6秒~最長4.8秒)でした。

これは、スロットル・レバーを急激に絞った場合のエンジン・ガスタービン温度の急激な上昇を危惧して、

計器を注視しながら操作を行う必要があるためです。

これ以外にも、ターボプロップ機特有の問題があり、素早い減速はなかなか難しい事情があります。

このため報告書では、

滑走路内に停止できなかったことについては、離陸断念時の速度が大きかったこと並びに滑走路面にスラッシュがあったこと、主脚分担重量が小さかったこと等によるブレーキ効果の現象があったことの関与が考えられる。

とあります。

他の記述も総合すると要するに、操縦士の操作(スロットル全閉、ブレーキ)は適切であったと思われ、

この条件下では、止まりきれなかったのはやむを得なかったと考えられる。

と結論されています。

車みたいに、「危ない!!」と思ったら即ブレーキペダルに踏みかえ。とはいかないんですね。


事故後に講じられた措置

運輸省航空局は定期運航各社に対し、

運航、整備関係の諸規定の遵守の徹底を図る等、万全を期するべきであるとの通達しました。

東亜国内航空の行った改善措置は、

冬期運航時の安全確保に関して運行、整備関係者に対し注意喚起の実施
メンテナンスマニュアル「航空機の某除雪・防除氷・防除霜」の一部改訂、作業を行う気象条件等を明確化
またこれと関連して、「水平尾翼の防氷措置」の発行、「航空機の防除雪氷について」の一部改訂
昇降舵タブ・ヒンジ部の凍結防止のためのグリース塗布の項を追加
フライト・コントロールの離陸前点検の方法を明確化

等がありました。

YS-11は北海道でも普通に飛び回っていました。

冬の道内といえば、-10℃、-20℃は当たり前。

事故機だって、当日上空10,000ft、-20℃を降下し、米子空港に着陸しています。

そんな低温と比べたら、1℃なんて余裕っしょ。

報告書を読みながらそんなことを考えていたんですが、

昇降陀の動作には影響を及ぼすはずのない水とスラッシュが、

地上走行、プロペラ後流が当たるという条件変化で、

たちまち凍結して重大事故の原因になってしまったのでした。

これが粉雪だったら簡単に吹き飛ばされるでしょうし、

この微妙な雪質と気温が曲者だったんですね。


まとめ

「インターネット航空雑誌ヒコーキ雲」という神サイト様に当機についての記事があり 

事故当時、解体、船具店の事務所等に使用していた当時の非常に貴重な写真が掲載されています。

また、頭部は川崎市にある「電車とバスの博物館」に展示されています。


タキシング中のヒコーキが動翼をパタパタさせるのは、空港では当たり前に見る光景ですが、

こんな事故例があったのだと知ると、決して疎かにはできない重要なチェックなんですね。

実機を使って試験をしたり、風洞実験をしたり、これが製造者(国)の責任ということなんでしょうか。

 
事故調から調査報告書が出たのは、事故発生から9ヵ月後のことでした。

報告書全体を通して、当時の状況、物証の収集と分析、再現実験、専門家からの意見収集等、

丹念な調査、考察が多岐にわたって実施されており、これだけの期間を要したのも納得です。

あらゆる可能性を1つ1つ検証してゆくため、報告書が出るまで数年かかることもあるのだとか。

こうやってキチンと事故原因の究明と対策を決める方がいて、

その対策を日々実践する方がいて、そんな積み重ねの上に今があるのですね。

DSC_1649_00001.jpg

キレイさっぱり。



     鳥取県・YS-11の胴体跡地         
YS-11の胴体 データ
所在地:鳥取県鳥取市伏野
座 標:35°31'39.2"N 134°08'58.6"E
(座標はグーグルアースから)

沿革
1988年01月 10日 事故発生
1989年02月 10日 抹消登録、解体。その後胴体は鳥取空港近くに置かれる
2023年12月 消えていた

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