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朝霞訓練場離着陸場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2016年12月訪問 2022/2更新  


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①撮影年月日1946/02/13(昭21)(USA M44-A-5VT 37) 接収から5ヵ月後。まだ滑走路無し
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成。以下5枚とも)
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②撮影年月日1947/12/29(昭22)(USA R741 132) 滑走路出現

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②白矢印部分拡大
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③撮影年月日1979/11/14(昭54)(CKT794 C4A 12) 細長い舗装滑走路になる。

 

埼玉県朝霞市膝折と新座市新座市新塚にまたがる「陸上自衛隊朝霞訓練場」。

ここに戦後~1980年代半ばまで小さな滑走路がありました。

現在の朝霞駐屯地、元々は日本陸軍予科士官学校であり、朝霞訓練場はこの士官学校の演習場でした。

そして終戦の年早々、士官学校、演習場とその周辺、川越街道の反対側も含めて接収を受け、

「キャンプ・ドレイク」 となりました。

①の航空写真(1946年2月撮影)にはまだ滑走路はないですが、次に閲覧可能な1947年5月撮影の写真

(USA M300 8)から滑走路が写ってます(この写真は鮮明でないので使いませんでした)。

ということでこの小さな滑走路は、1946年3月~1947年5月の間に建設されたことになります。

先頭のグーグルマップ水色のシェイプ(435mx34m)は、②の航空写真から作図しました。

 

板橋ハ晴天ナリ。様から頂いた情報

・キャンプ・ドレイクで撮影された輸送機の写真がある
・ベトナム戦争当時、傷病兵や戦死兵がベトナムから輸送され、ここからヘリで米軍野戦病院のある王子まで送られた

との情報を頂きました。

ということで③の航空写真で見ると、一気に見違えましたね。

ベトナム戦争(~1975年)当時の航空写真だと分割したものになってしまうため、

便宜的に1979年の航空写真を貼っていますが、滑走路、周辺の地割は基本的に1975年のままです。

白矢印~白矢印までで545mx12mなのですが、赤矢印まで目一杯直線部分を使うと、650mになります。

余談ですが、軽井沢では、終戦後に米軍将校とその家族がセスナ機で東京から訪れました。

軽井沢に設けられた滑走路は標高1,000m近くにあり、

標高が高いとエンジン出力と揚力が低下するため余分に長い滑走路が必要なんですが、

それでも使用されたのは450m滑走路でした(下記リンク参照)。

それからすると、545mあれば大きな輸送機はムリでも小さい輸送機なら運用できたんじゃないでしょうか。

 

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④撮影年月日1979/11/14(昭54)(CKT794 C4A 13) 

佐藤様から頂いた情報頂

航空路図誌・低高度版(防衛庁 1980年1月発行)に以下情報あり
北緯35度47分00秒、東経139度35分57秒。
長さ1148ft幅39ft。方位04/22。L-19型機オンリーの条件付き

との情報を頂きました。

赤矢印はこの資料通りの座標位置なのですが、この周辺に滑走路らしきものは見当たりません。

この座標情報のうち、経度の秒の部分を、57→13 とし、

北緯35度47分00秒、東経139度35分57秒。
北緯35度47分00秒、東経139度35分13秒。

とすると、白矢印部分になります。

長さ1148ft幅39ft は、メートルに換算すると、350mx12m となり、

これは白矢印の直線部分と比較すると、長さは余裕で範囲内に収まり(545mx12m)、幅はピッタリ一致します。

方位も同じ。

ということで、同資料が示しているのはここのことで、秒の部分は誤植ではないか。

というのがオイラの個人的な意見です。

また佐藤様からは、

同誌1988年7月発行版には当該滑走路が登場しないこと、
L-19型機は1986年に退役していることから、1980年半ばごろに目的替えとなったのではないか。

と情報頂きました。

Wiki:朝霞駐屯地 にも、

かつては「朝霞訓練場離着陸場」の名称で小型の連絡機(L-21 パイパーなど)の発着に用いられていた
周辺住民には「朝霞の飛行場」等と呼ばれていた
現在は中央観閲式会場として使用

とありました。

ということで、戦後早々の時期~1980年代半ばまで、米軍、自衛隊の小型機に使用されていたのでした。

板橋ハ晴天ナリ。様、佐藤正孝様、貴重な情報ありがとうございましたm(_ _)m 


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(敷地外からですが)一応滑走路南側


     埼玉県・朝霞訓練場離着陸場跡地      

朝霞訓練場離着陸場 データ
設置管理者: 防衛庁
種 別:陸上飛行場
所在地:埼玉県朝霞市、新座市
座 標:N35°47′00″E139°35′13″?
標 高:40m
滑走路:350mx12m(佐藤さんより情報:L-19型機オンリーの条件付)
方 位:04/22
(標高はグーグルアースから)

沿革
1945年 終戦。接収され、キャンプ・ドレイクとして整備される
1946年 この頃滑走路建設される(435mx34m)
1970年 この頃拡張工事(最大650mx12m)
1980年代半ばに廃止 

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コメント 12

こけもも:

実は有事の際には滑走路として使うのかも・・・。
by こけもも: (2016-06-10 22:00) 

an-kazu

りっくんランドのイベント(じゃなくても)時に
聞いてみたらいかが?

振武臺記念館に資料室があるので・・・
と思ったのですが、しばらく見学できないようです。


by an-kazu (2016-06-11 08:38) 

佐藤正孝

ご無沙汰しています。朝霞訓練場の観閲道ですが、当初は滑走路として造られたようです。陸上自衛隊航空部隊内部機関誌「航空と安全」の昭和62年(1987年)5月号に掲載していて、そこに書かれている諸元では滑走路長350m幅15m、方位18/36となっています。ちなみに防衛庁(当時)が昭和55年(1980年)1月に発行した航空路図誌・低高度版には駐屯地内に存在したと思われる滑走路が載っていました。諸元は北緯35度47分00秒、東経139度35分57秒。長さ1148ft幅39ft。方位04/22。L-19型機オンリーの条件付きです。同誌昭和63年(1988年)7月発行版には出ていません。ちなみにL-19型機は1986年に退役しています。以上のことから1980年半ばごろに目的替えとなったのではないでしょうか。では。
by 佐藤正孝 (2016-06-12 11:23) 

佐藤正孝

先ほど書きましたことで訂正と削除をします。改めて写真や地図をチェックしたところ駐屯地内に滑走路の存在は見られませんでした。そして「航空と安全」に書かれていた方位18/36ですが、見た目の進入方向なのかもしれません。方位を測定し直すを04/22が妥当と思われます。航空路図誌は実際にパイロットが使用するものなので、そのデータに偽りはないでしょう。先に検証すべきことをせず、すみませんでした。

by 佐藤正孝 (2016-06-12 13:38) 

me-co

実は、この周辺に関係先がありまして(汗)少し知ってる場所なので、「(@@;え~っ!滑走路があったの?」と驚いた次第ですが、否定されちまったのですね。
でも、「現状でどうなのか?」に固って回答しているような気がしますね。
「少し知ってる場所」ということもあり、興味持ったんでウィキ見たら・・・「旧…離着陸場」ってありますよ。
by me-co (2016-06-12 22:23) 

とり

皆様 コメントありがとうございますm(_ _)m

■こけもも:さん
レス遅れてスミマセン。
>有事の際
それはあり得ますね~。

■an-kazuさん
イベント時に中に入ってこういう非常にマニアックな質問をするやり方は様々なサイトでお見かけするのですが、
即答できる方にお会いできるかどうかはタイミング次第のようです。
ということで、陸上自衛隊広報センター(りっくんランド)にメールしてみたのでした。
それでも佐藤さんからのコメントで非常に具体的な内部資料を教えて頂いたので、
再度お尋ねしてみようと思います。
>振武臺記念館に資料室
ここで調べたら一発なんでしょうけどね~。
(1980年台も扱っているかは不明ですけど)

■佐藤正孝さん
こちらこそご無沙汰しております。
丁寧なコメントありがとうございます。
教えて頂いた緯度経度情報ですが、経度の秒の部分だけ57でなく15なら、
バッチリ「観閲道」の位置なんですけどね~。
この部分だけ誤記ということはないのかしらん。
「標点は必ずしも滑走路の位置とは限らない」とはいえ、これはちょっとズレ過ぎな気が。。。
自衛隊内部情報を頂きましたので、後日改めて問い合わせをしてみます。
非常に貴重な情報をありがとうございましたm(_ _)m
それから、以前コメント頂いていた洲崎の埋立地、先週の水曜日にやっとお邪魔して来ました^^

■me-coさん
おお、関係先がありますか。
実はオイラもここの官舎内に仕事で月一ペースでお邪魔しております。
>ウィキ
本当だ!
なんかもう元・離着陸場で間違いない感じですね!
佐藤さんのコメントも合わせて、「現状でどうなのか?」に固っての回答のように思えてきました。
by とり (2016-06-13 21:47) 

昔近所に住んでいた者

2000年前後ですが、滑走路として使用できそうな舗装道路?は存在していましたが、大型車両の駐車場になっていたので滑走路として使用するつもりは無いんじゃないかな。駐車してある車両をどければ200馬力程度の機体はすぐに降ろせそうでした。

 コメントにもありましたが、儀典・閲兵用の広くて平な舗装してある場所が都内(埼玉だけど)にあると便利だから舗装引っ剥がして練兵場にする必要もないだろう、という程度の管理状況だと思います。実際その”滑走路”のすぐ横は匍匐前進なんかの訓練をする練兵場ですから。
by 昔近所に住んでいた者 (2022-02-13 16:55) 

とり

■昔近所に住んでいた者さん
こちらもコメントありがとうございます。

当地は戦後接収され、キャンプ・ドレイクとして整備されました。
航空写真で年代を追って確認すると、1947年から滑走路らしきものが出現します。
記事に追加しましたが、1947年の航空写真には、滑走路脇にヒコーキが駐機しているのが映っています。
コメント欄にて佐藤さんから頂いた情報のうち、滑走路の長さはほぼ1947年の航空写真に映っている滑走路と一致しています。
Wiki:朝霞駐屯地 もご確認ください。

以上の点から、当滑走路は戦後米軍の連絡機用として建設され、1980年代までそのまま離着陸場として登録が
残っていたと考えます。
ということで、拙記事では現役の離着陸場ではなく、朝霞訓練場離着陸場「跡地」として扱っております。
滑走路跡地の現状については、いただいたコメントにほぼ同感です。
by とり (2022-02-13 19:24) 

板橋ハ晴天ナリ。

こんにちは。
ずいぶん前ですが、米オークションサイトe-bayにてキャンプ・ドレイクで撮影されたとキャプションのある輸送機の写真が出品されていました。地元の方が書いた本に、ベトナム戦争時代に王子に米軍野戦病院が置かれ、傷病兵や戦死兵がベトナムから輸送され、ここからヘリで王子まで送られたとあります。地元では賃金の高い”死体洗いのバイト”があったことも伝わっています。10数年前に閲覧式で中に入ったことがありますが、パレードが行われた道は、今でも飛行機が離発着できそうな幅と長さの舗装路で驚きました。
by 板橋ハ晴天ナリ。 (2022-02-19 11:24) 

とり

■板橋ハ晴天ナリ。様
「輸送機」、「ベトナム戦争」
そんな時代があったのですね。
全く存じませんでした。
明日よく調べて記事に反映させて頂きます。
非常に貴重な情報をありがとうございました。
by とり (2022-02-19 18:40) 

板橋ハ晴天ナリ。

とり様
メールが機能していないようなのでここに書きますが、洲崎飛行場についての資料画像を送りますので、空メールをください。
by 板橋ハ晴天ナリ。 (2022-02-19 20:09) 

とり

■板橋ハ晴天ナリ。様
メール受け取りました。
貴重な情報をありがとうございました。
by とり (2022-02-20 03:34) 

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