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豊後北(大野、千歳)飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2013年10月訪問 2021/11更新  


無題6.png
撮影年月日1947/04/05(昭22)(USA M198-2 97) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

大分県‎豊後大野市‎千歳町にあった「豊後北飛行場」。

この飛行場は、 Tさん、PUTINさんのおかげで位置特定することができました。

Tさん、PUTINさん、どうもありがとうございましたm(_ _)m

地名からだと思うのですが、「大野飛行場」、「千歳飛行場」とも呼ばれました。

■防衛研究所収蔵資料:「飛行場記録 第12飛行師団司令部」(陸空-本土周辺-120)昭和二十年九月十七日

の中に「豊後北飛行場記録」と「要図」があるのですが、そこでは滑走路が東西方向に描かれています。

PUTINさんからも、滑走路の方向は「ほぼ東西」と教えて頂いていたのですが、

1947年の航空写真でどんなに目を凝らしても東西方向にそれらしい地割は発見できず、

上の通り北東~南西という、まるで異なる方向にそれっぽい地割が白く浮き出ています。

ともかくこの航空写真の白っぽい地割に従ってグーグルマップ上に作図して測ってみたら、

1,620mx60mでした。

上記資料、そしてPUTINさんから頂いた情報によれは、滑走路長は「1,500mx60m」。

かなり近い数字なので、「要図」とは方向がかなり異なってしまうのですが、これが滑走路なのではないかと。

航空写真では滑走路両端とも境がイマイチ不鮮明なのですが、資料の1,500mが正確なら、

滑走路はグーグルマップで囲った範囲内にあったのではないかと思います。

上記資料を引用させて頂きます。

防衛研究所収蔵資料:「飛行場記録 第12飛行師団司令部」(陸空-本土周辺-120)昭和二十年九月十七日

豊後北飛行場記録
判決
畧、小型機の使用に適す

飛行地区
滑走地区 一五〇〇x六〇 灰性土転圧
舗装路 なし
土質 灰性土壌
地表面の状況 表面張芝にして地耐力稍□可なり
周辺障碍物の有無 白□山之なり
  
付属地区
誘導路 約三〇〇〇x四~五
宿営 洞窟式宿舎(三〇〇名収容可)他は三角兵舎若干あり 
夜間着陸設備 なし
動力線 なし
電灯線 なし 但し宿営地にはあり
給水 宿営地には水道あるも飛行場には給水施設なし

其の他
東風及び西風なり(風向)

 

D20_0079.jpg

赤マーカー地点。

この方向に滑走路が伸びていたはず。

なだらかな草原が続いています。

上記「要図」には、「滑走路は中央付近より逐次下勾配にして~」と記されていました。

 

2018/7/15追記:地元千歳町に生まれ育ったYoheyさんからコメント頂きました。

ご高齢の方から当飛行場についてたくさんの話をお聞きになっておられ、

滑走路は白鹿山(はくろくさん)の北側に伸びていたこと、滑走路の両脇には塹壕のような窪みが掘られていたこと、

また非常に興味深い点として、滑走路の中央部にはところどころに穴が掘られていて、

敵の航空機が離着陸できないように電信柱のような棒を差し込めるようになっていたのだそうです。

飛行場とバレないように、若しくは使用不可と見せかけるように、

様々な工夫を凝らして偽装したという話は全国で聞きますが、こんなこともしていたんですね(@Д@)

当地は鹿道原(ろくどうばる)と呼ばれる台地で、その周囲は、大野川の浸食による河岸段丘が形成されているため、

段丘崖には数多くの防空壕が掘られ、掩体壕もいくつか作られていたようです。

先頭のグーグルマップで見ると、滑走路の北西に常満寺(じょうまんじ)という寺がありますが(紫マーカー)、

その北西側の道路沿いに掩体壕のコンクリート製の基礎(高さ約1.5mの台形で、互いが少し内側に傾斜して埋没)

が2個出てきたのだそうです。

また、掩体壕の基礎が見つかった道路は、軍命で急ごしらえで作られたため、

ほとんど土地の登記もされていなかったようであるとのことです。

無題2.png
撮影年月日1947/04/05(昭22)(USA M198-2 97) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

常満寺付近のアップ。

「常満寺の北西側の道路沿いに掩体壕~」とのことで、滑走路から伸びる誘導路が映ってないかしらん。

と期待したんですが、道路は幾つも映っているものの、「コレだ!」と自信をもって言えるものはないです。

この航空写真のドコかに掩体壕があったと思うのですが。。。

 

また、平成21年の5月には滑走路南端と柴山八幡社の中間にある防空壕から、

100kg爆弾が6発発見され騒動になったのだそうです。

爆弾以外にも銃弾(恐らく小銃弾)もかなりの数が備蓄されていたようで、

弾頭をコマの芯にして遊んでいたら学校から禁止令が出たという複数の証言があるのだそうです。

弾薬は飛行場近くの谷や、東側を流れる大野川に捨てたとのことだそうで、

実際に大野川から爆弾が発見されたことがあったそうです。

 

また、Yoheyさんから「千歳村誌」の転記も頂きました。

昭和20年3月27日。突然、陸軍将校が村役場を訪れ、長靴のまま村長室に入った。間もなく、助役、収入役が村長室に呼ばれた。
「軍の機密事項である。鹿道原に飛行場を建設する。事は急を要する。国家危急の時である。2カ月で完成させなければならない。」と通告があった。同じころ三重町にも飛行場建設の話が進められ、三重町役場にも幾度か出頭した。(中略)
完成後、練習機が4機着いた。着いた飛行機を松林に入れるため村人が動員された。
当時柴原小学校教師であった○○は、そのころ小学生を連れて鹿道原に甘藷畑の草取りに行った時、たまたま若い少年飛行士に会った。飛行士は18、19歳の若い伍長であった。松林に入れた飛行機を草や木でおおっていた。飛行機の中にはドラム缶が入れてあった。若い飛行士は、「明日は出撃かも知れない。このドラム缶は燃料で、往復分はない」と言い、芋の草取りを手伝い、そのあと子どもたちと相撲をとったりして遊んだという。


当時、千歳村には井田、柴原の2校の小学校があり、現在の中学校の位置には青年学校があったそうです。
これらには、飛行場建設の為に多くの兵隊が駐屯しており、特に、柴原小学校には昭和20年4月から7月上旬まで「島根県松江の175工作部隊約400名が駐屯して宿舎とした」と記録されています。また、「この工作部隊は7月中旬、博多港を輸送船で出向後間もなく魚雷攻撃を受け沈没、全員死亡した」との記録も。

「千歳村誌」に出てくる飛行場の完成後に到着したのは練習機が4機についてですが、

増槽代わりのドラム缶を積んでいるところを見ると、「赤トンボ」93式中間練習機あたりではないかというのが、

Yoheyさんの推測です。

上記「千歳村誌」では「完成後、練習機が4機着いた。」とありますが、同じくYoheyさんから頂いた情報では、

「飛行場についての情報ですが、当時の方の証言によると、複葉の帆布張りの練習機が2機配備されたが、着陸しただけで飛び立つことはなかったそうです。」

というものもあります。

D20_0085.jpg

千歳中学校(青マーカー)裏手、運動場脇にあるローラー。

飛行場跡に当時使用したローラーが保存しているケースは幾つかありますが、

いずれもコンクリート製で、鉄製のものは初めて見ました。

日本青年団新聞(2015年4月号)に当飛行場とこのローラーのことが触れられていました。

軍人の他に地域の小中学生が建設に動員され、蟻の行列のように近くの河から石が毎日のように運ばれたこと、

2,000m滑走路が完成したが、すぐ終戦をむかえ、ここから飛び立つことはなかったこと、

滑走路は畑地に戻され、練習機等は焼き払われたため、建設に使用されたローラーだけが残ったこと

等記されていました。

先生たちの間で「ほったらかしなのはどうか」という話があるのだそうです。

このローラーについてもYoheyさんからコメント頂きました。

「中学校にある鉄製のローラーについてですが、現在中学校がある場所には、かつて製糸工場があり、その工場から出た石炭の燃えカスが校庭の一角に山積みされていたものを、水はけが悪かった校庭の土壌改良のために散布したとのことです。数学の先生がおおむねの体積を計って「何cmの厚さで敷き詰める」と計算し、そして、生徒を動員して鹿道原に遺棄されていたローラーを中学校まで持ってきて転圧に使ったと聞き及んでいます。」

てっきり、飛行場建設し使用されたものが終戦と共に打ち捨てられてそのまま…だと思っていたんですが、

なんと、遺棄されていたものをここまで運んできて校庭の土壌改良のために使った実績があるんですね!

サビサビで草のからまるローラーにそんなストーリーが秘められていたとは。。。

Yoheyさんたくさんの情報ありがとうございましたm(_ _)m 


      大分県・豊後北(大野、千歳)飛行場跡地     
転圧式で一応完成したのですが、離着陸は数回だけだったのだそうです(Tさん情報)

豊後北(大野、千歳)飛行場 データ
設置管理者:旧陸軍
種 別:軍用飛行場
所在地:大分県‎豊後大野市‎千歳町柴山‎
座 標:N33°02′23″E131°36′35″
標 高:137m
滑走路:1,500mx60m
方 位:05/23
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
1945年03月 27日、陸軍将校が村役場を訪れ、飛行場建設を通告
    04月 7月上旬まで島根県松江の175工作部隊約400名が柴原小学校に駐屯
2009年05月 飛行場近くの防空壕跡から100kg爆弾6個見つかる

関連サイト:
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
千歳村誌(Yoheyさんから)
日本青年団新聞(2015年4月号)
防衛研究所収蔵資料:「飛行場記録 第12飛行師団司令部」(陸空-本土周辺-120)昭和二十年九月十七日


コメント(11)  トラックバック(0) 
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コメント 11

Takashi

ツタの巻き付いたローラーがいい感じですね。
これも当時使われていたローラーなんでしょうか。
by Takashi (2013-10-28 21:55) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。m(_ _)m

■Takashiさん
いい感じですね~^^
Takashiさんならどんな撮り方をされるのでしょうか。
これは当時使われていたローラーと思います。
当校にお邪魔してお尋ねした際、
「戦時中建設に使用したローラー」としてこのローラーを案内されました。
by とり (2013-10-29 05:44) 

Yohey

はじめまして。
突然のコメント失礼いたします。
この度、貴殿のブログを拝見し、驚きを禁じえずコメントさせていただきました。
当方、この千歳町に生まれ育った者で、子どもの頃から飛行場の話は聞き及んでいたものの、ご高齢の方からの証言だけでは具体性に欠けるので、常々「何か資料が見つからないものか」と思っていたところです。
軍の資料と戦後の航空写真を拝見し、長年探し求めていた宝物を発見したような気持ちになっています。
滑走路の地割については、幼少の折からの話では、白鹿山(はくろくさん)の北側に伸びていたことのことですので、写真のとおりだと思います。
また、他にも、滑走路の両脇には塹壕のような窪みが掘られていたこと。滑走路の中央部にはところどころに穴が掘られていて、敵の航空機が離着陸できないように電信柱のような棒を差し込めるようになっていたことなど。
この場所は鹿道原(ろくどうばる)と呼ばれる台地で、その周囲は、大野川の浸食による河岸段丘が形成されているため、段丘崖には数多くの防空壕が掘られ、掩体壕もいくつか作られていたようです。
Googleの地図上に常満寺(じょうまんじ)という寺がありますが、その北西側の道路沿いに私の父が工場を建てた時に、掩体壕のコンクリート製の基礎が2個出てきたのを覚えています。子どもの背丈ぐらいですので1.5mぐらいの台形で、互いが少し内側に傾斜して埋没していました。(ちなみに、その道路も軍の命令で、急ごしらえで作られたため、ほとんど土地の登記もされていなかったようです。)また、平成21年の5月には滑走路南端と柴山八幡社の中間にある防空壕から100kg爆弾が6発発見され騒動になりました。
中学校にある鉄製のローラーについてですが、現在中学校がある場所には、かつて製糸工場があり、その工場から出た石炭の燃えカスが校庭の一角に山積みされていたものを、水はけが悪かった校庭の土壌改良のために散布したとのことです。数学の先生がおおむねの体積を計って「何cmの厚さで敷き詰める」と計算し、そして、生徒を動員して鹿道原に遺棄されていたローラーを中学校まで持ってきて転圧に使ったと聞き及んでいます。
いろんな話がありますが、やはり、飛行場の存在を示す資料がなければ、どの話も具体性に欠ける点があったのですが、貴殿のブログを見つけることができて本当に幸運でした。
今後は、艦載機の機銃掃射を受けたことがあるようですので、貴殿の資料を手掛かりに米軍の資料も探してみようと思っています。

長文、大変失礼いたしました。
by Yohey (2018-07-07 00:16) 

とり

■Yoheyさん 
はじめまして。
こうして地元の方からコメント頂けると、やっていて良かったと思います。
またこの度はたくさんの貴重な情報もありがとうございます。
当飛行場に掩体壕があったとは存じませんでした。
滑走路に棒を刺す穴を設けて敵機着陸の妨害をするという話は初耳です。
なにぶんよそ者ですので、資料で確認できなければ何も分からない状態です。
また何か情報がありましたら、是非よろしくお願い致します。
機銃掃射の件、判明するといいですね。
もし宜しければ、防衛研究所で撮影した当飛行場の資料(不鮮明なもの1枚のみ)を
何らかの仕方でお送り致しますので、必要でしたらお申し付けくださいませ。
by とり (2018-07-07 16:04) 

Yohey

こんばんは。
ご返信ありがとうございます。
防衛研究所で撮影されたという写真には興味がありますが、「豊後北飛行場記録」であれば、わざわざお手を煩わせることはありませんが、他の資料であれば是非拝見させていただきたいと存じます。
防衛研究所については、貴殿のブログを読んで初めて知った次第で、飛行場の記録を探す端緒になったと思っています。

ところで、飛行場についての情報ですが、当時の方の証言によると、複葉の帆布張りの練習機が2機配備されたが、着陸しただけで飛び立つことはなかったそうです。
また、先日のコメントに記載した爆弾以外にも銃弾(恐らく小銃弾)もかなりの数が備蓄されていたようです。
というのも、弾頭をコマの芯にして遊んでいたら学校から禁止令が出たという話を複数の方から聞いています。
なにせ精度が高いのでよく回るんだそうです。
小銃弾を失敬してきて、薬莢の部分を持って、弾頭の側面を石などの硬いものにあてて、少しずつ回しながら根気よく押しつけていると、弾頭を締め付けている薬莢の口の部分が緩んできて「ポロッ」と、そして火薬が「サッ」と出てくると。
あぶないことをしてたものですね。

なお、弾薬は飛行場近くの谷や、東側を流れる大野川に捨てたとのこと。
実際、大野川からも爆弾が発見されたこともありましたので、話の信ぴょう性は高いと思います。
by Yohey (2018-07-08 23:21) 

とり

■Yoheyさん 
おはようございます。
残念ながら「豊後北飛行場記録」しか手持ちがありません。
お役に立てず申し訳ございません。
今回もまた非常に貴重なお話を聞かせてくださり、感謝です。
いただいた情報を今週末記事に反映させて頂きます。
どうもありがとうございました。
by とり (2018-07-10 06:19) 

yohey

こんばんは。
今日、豊後大野市役所千歳支所にある小さな図書館で「千歳村誌」を紐といてみました。以前から、飛行場の関する記述があったことは覚えていたのですが、記録を再度確認したところ先日投稿した内容に誤りがありましたので訂正いたします。
飛行場の完成後に到着したのは練習機が4機だそうです。
また、当時の村役場の助役の証言に興味深い記述がありましたので転記いたします。

昭和20年3月27日。突然、陸軍将校が村役場を訪れ、長靴のまま村長室に入った。間もなく、助役、収入役が村長室に呼ばれた。
「軍の機密事項である。鹿道原に飛行場を建設する。事は急を要する。国家危急の時である。2カ月で完成させなければならない。」と通告があった。同じころ三重町にも飛行場建設の話が進められ、三重町役場にも幾度か出頭した。(中略)
完成後、練習機が4機着いた。着いた飛行機を松林に入れるため村人が動員された。
当時柴原小学校教師であった○○は、そのころ小学生を連れて鹿道原に甘藷畑の草取りに行った時、たまたま若い少年飛行士に会った。飛行士は18、19歳の若い伍長であった。松林に入れた飛行機を草や木でおおっていた。飛行機の中にはドラム缶が入れてあった。若い飛行士は、「明日は出撃かも知れない。このドラム缶は燃料で、往復分はない」と言い、芋の草取りを手伝い、そのあと子どもたちと相撲をとったりして遊んだという。

当時、千歳村には井田、柴原の2校の小学校があり、現在の中学校の位置には青年学校があったそうです。
これらには、飛行場建設の為に多くの兵隊が駐屯しており、特に、柴原小学校には昭和20年4月から7月上旬まで「島根県松江の175工作部隊約400名が駐屯して宿舎とした」と記録されています。また、「この工作部隊は7月中旬、博多港を輸送船で出向後間もなく魚雷攻撃を受け沈没、全員死亡した」との記録も。

練習機については、増槽代わりのドラム缶を積んでいるところを見ると、「赤トンボ」93式中間練習機あたりではないかと推測しています。

ブログのネタとしてお使いいただければ幸いです。
by yohey (2018-07-10 23:05) 

とり

■Yoheyさん 
こんばんは。
またまた詳細な情報をありがとうございました。
by とり (2018-07-11 19:18) 

とり

■Yoheyさん 
おはようございます。
頂いた情報を記事に反映させて頂きました。
貴重な情報をたくさんいただき、どうもありがとうございました。
by とり (2018-07-15 07:25) 

T

新殿辺りを機銃掃射され、若い女の子が亡くなられたそうです。滑走路脇に飛行機が暫く放置されていて、周りに銃弾が散乱しててそれを駒の芯にして遊んだとか。
by T (2019-05-18 07:31) 

とり

■Tさん
早速ありがとうございます。
コメント編集させて頂きました。
貴重な情報をありがとうございました。
by とり (2019-05-18 07:33) 

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