千歳飛行場(千歳着陸場、千歳第一航空基地) [├国内の空港、飛行場]
2013年6月訪問、2022/1更新
1/50000「千歳」昭和10年修正「今昔マップ on the web」より作成
(昭和17年10月27日撮影)高度700米 方位NW
(昭和17年10月27日撮影)高度1,000米 方位E
(昭和17年10月27日撮影)高度400米 方位N
(昭和17年10月29日撮影)高度1,500米 方位SW
1945年(昭和20年)5月調査資料添付地図 Translation No. 63, 8 May 1945, photographs of airfields of Karafuto-Hokkaido and Aomori. Report No. 3-d(52), USSBS Index Section 6■ (国立国会図書館ウェブサイトから転載。上4枚とも)
撮影年月日1944/10/30(912M59 C4 40)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
SkyVector.com
北海道千歳市、新千歳空港に隣接する「航空自衛隊千歳基地」。
千歳村民が新聞社の社有機を間近に見たいということで造成した「千歳着陸場」が前身となりました
(先頭のグーグルマップ水色のポリゴンの小さい方)。
その後旧海軍の「千歳飛行場」、「千歳第一航空基地」として拡張され、
米軍による接収、返還を経て現在の姿になっています。
東西冷戦時から北の防空の最前線基地の役割が与えられており、政府専用機のベース基地でもあります。
■村営「千歳着陸場」
千歳村民が造成した「千歳着陸場」が前身であることは前述の通りなんですが、
この「千歳着陸場」の位置、大きさについての情報が錯そうしているようで、
後で詳しく出てきますが、地元市史でも着陸場の位置に関して異なる証言があること、
また「今日まで着陸場の延長・幅員は定かではない」とあります。
先頭のグーグルマップ、ナンノコッチャと思われるかもしれませんが、
水色の方は、千歳市空港公園に設置してある説明版から作図しました。
大小が重なっていますが、小さい方が初めてヒコーキが飛来した「大正15年時点の着陸場」、
大きい方が「昭和10年時点の飛行場」です。
そして赤の方は、上に貼った昭和10年の今昔マップから作図しました。
(水色の小さい方はさておき)どちらも昭和10年の「千歳着陸場」としていますから、
後に移設した。とか2つあった。とかではなく、ここでも位置情報の錯そうが見られます。
一体どちらが正しいのか…。
後述しますが、地元市史では大正15年に造成した着陸場の大きさについて、
2つの数字が登場します。
・一一〇間、幅六〇間(約二〇〇㍍!×約一一〇㍍・約六七〇〇坪)
・幅五十間長さ百五十間(七千五百坪)
というもので、単位をメートルとヘクタールで揃えると、
・200mx109m≒2.18ha
・273mx91m≒2.48ha
となります。
一方、先頭のグーグルマップの大正15年の着陸場(説明版から作図)したものの長さと面積は、
117mx55m≒0.64ha
となります。
まあこれはオイラが目測で作図してますから誤差が随分あると思うんですが、それでもかなりの開きがあり、
三者三様の大きさになってしまいました^^;
「千歳着陸場」について、新千歳市史通史編上巻729p以降で記されています。
長いですが、以下引用させて頂きます。
千歳村長山田旦、郵便局長中川種次郎、村議渡部栄蔵は室蘭街道沿い、千歳市街地南方のサンナシ(エゾノコリンゴ)沢に仮植されていたアカマツの苗木を盆栽用に取りに出かけた。その際、樽前山の度重なる噴火による降灰で農業の低生産地であった広大な火山灰地の活用方法として飛行場にでもならないものかと話をしたという。このことを渡部は大正五年のこととし、(中略)
大正五年は千歳村で飛行場の建設が話題に上った最初である。本邦初飛行からわずかに六年、いまだ人々に飛行場の概念はなく、飛行機は速度が速いだけの危険な乗り物というのが一般的な認識の時代で航空交通もいまだ誕生していなかった。
飛行場の誘致
航空交通がいまだ芽生えず、また、多くの村民が実物の飛行機を見たこともないなか千歳村は飛行場の誘致活動を始めた。
初めて逓信大臣に対して国設飛行場設置の請願をなしたのは大正十二年のことだった。翌十三年には江別出身で北海道六区(札幌支庁)選出の岡田伊太郎(政友会)を紹ママ介議員とする『北海道千歳郡千歳村字「ママチ」ニ航空場設置ノ件』が提出され採択された。七月八日開催の第四十九回帝国議会衆議院の『請願委員第三分科(陸軍省、海軍省及逓信省所管)会議録(速記)第一回』によれば、十二年の請願を受け逓信省が現地調査を行ったことが政府委員から答弁されている。採択にいたる会議録は次のとおりであった。
○波多野政府委員只今議題ニナリマシタ北海道ノ千歳原野ニ飛行場ヲ設置セラレタイト云ウコトノ請願ニ付キマシテハ-比件ニ付キマシテハ、昨年以来千歳村長カラ二回モ逓信大臣宛ニ別ニ請願ガ提出ニ相成ッテ居リマス(略)比千歳ノ原野ハ、面積ノ広大ナルコト(略)地価ノ低廉ナルコト過等ハ私共ガ相当大面積ノ飛行場ヲ造ルニ付キマシテハ、余程便利ナ点デアリマスルケレドモ、比地方ノ気象其他ノ状況ヲ調査致シテ見マスルト云フト、一年間ヲ通ジテ暴風ノ日数ガ相当ニ多イ、又瓦斯モ相当ニ多イト云フヤウナ、多少考フベキ点モアリマスルシ、又交通運輸ノ便カラ申シマスルト云フト、鉄道トノ距離モ一寸アリマスルノデ、是等ノ点モ飛行場ト致シマシテハ余程考慮ヲ要スル点デアリマスル(略)マダ確定タル方針モアリマセヌノデアリマスルカラ、逓信省ト致シマシテハ、比「ママチ」原野ヲ将来東北、北海道方面ニ飛行場ヲ設ケマスル場合ニ有力ナル候補地ノ一トシテ、十分ナル是カラ先ノ研究調査ヲ継続致シタイト云フ考ヲ持ッテ居リマス(略)○岡田委員(略)尚鉄道トノ距離ガ離レテ居ルト云フコト鉄道ト鉄道トノ間ニ挟マッテ居ルト云フコトデアリマス、併ナガラ離レテ居リマス其間ヲ閉ママヅベク砿業鉄道ガ敷設最中デアリマスカラ、其不便ハ除カレル訳デアリマス、(略)ドウカ御採択願ヒタイノデアリマス〔「採択々々」「異議ナシ」ト呼フ者アリ〕
○淺川主査採択ニ御異議ナイト認メマス、採択ト決シマシタ国内で定期航空路が開設されるのが昭和四年、北海道の定期航空用飛行場が札幌と帝国議会で可決されたのは七年のことだった。(中略)
着陸場建設の発端
北海道鉄道が大正十五年八月二十二日(「鉄道省文書」では二十一日)に開業した直後、小樽新聞社の社員が千歳村役場を訪れた。用務は「今般鉄道の開通した千歳において小樽新聞社が主催、約三〇〇人の参加者を募って孵化場(執筆者注・国費北海道水産試験場千歳支場)見学後、神社山で昼食会を開く予定がある。ついては役場に湯茶の接待をお願いしたい」というものであった。役場はこの申し入れを受け入れることとし「千歳の特産物であるヤマブドウ、じゃがいも、そして三平汁をごちそうしましょう」と応えた。当時の千歳村には食堂がなく最大の歓待であった。当時の村長は第五代の川合新三郎だった。この対応に感激した新聞社員は「小樽新聞社には、購入したばかりの飛行機がある。当日、列車が千歳に到着するのにあわせ千歳上空に派遣、謝恩の意味を込め宣伝のビラを撒きましょう」と提案した。飛行機は興行の対象だった時代、千歳の上空まで飛んでくるのであれば、着陸して間近に見せてもらいたいと頼み込んだ。途方もない申し入れであった。飛行機が着陸するには着陸場が必要であるし、役場を訪れた社員の一存で決められる問題でもなかった。社員は帰社後に役場の意向を社と飛行士(操縦士)に伝えることを約束して帰っていった。
着陸場の建設
小樽新聞社員が千歳村役場で観楓会の相談に来た日から数日後(九月二十七日前後)、小樽新聞の操縦士が社員とともに千歳に来た。自動車に乗りながら札幌から千歳への航空路を予想し周辺の地形を頭に入れた。この地形を見ながら飛ぶ方法を陸軍式の陸地航法という。さらに、操縦士は飛行機を無事に着陸させるための場所の選定と造成方法の指導に当った。この操縦士が一等飛行機操縦士技倆証明書を持つ酒井憲次郎であった。小樽新聞社航空部には酒井以外に操縦士は在籍していなかった。着陸場として、渡部が最初に示した千歳神社近くの畑は背後に山があり、十分な滑走距離が取れないことから適当ではなかった。室蘭街道の鉄道寄りも千歳川に近く、地盤が軟弱のうえ街道沿いの家屋が障害となった。市街地に適当な場所がなく、困り果てた渡部はサンナシ沢周辺の廃棄されたアカマツの苗圃を思い出した。周辺は平坦で広大な火山灰地であった。
操縦士を案内したところ地盤は飛行機の離着陸に適しているが、伐採した後の根株が二、三坪にひとつあり抜根整地しなくてはならないといい、また面積的には七〇〇〇坪から九〇〇〇坪が必要であるという。とりあえず長さ一一〇間、幅六〇間(約二〇〇㍍!×約一一〇㍍・約六七〇〇坪)を着陸可能な状態にするからということで話し合いがついたと、渡部は田畑記者に着陸場の広さについて口述する。
着陸場を造らなければならない。村民の労力奉仕を仰ぐこととし、着陸場建設の村民大会が開催された。議題は「着陸場を造るか否かの件」。提案説明は次のとおりであった。「もし札幌へ活動写真を見に行くとすれば、汽車料金の往復に昼食を加えれば一回三円はかかる。一日の出面賃が一円二〇銭として二日、一戸から一人整地作業をしてくれれば珍しい飛行機を見ることができる、着陸場を造成するか否か」というものであった。提案は村民の賛同を得た。鋸、鍬によって整地作業が進められたが、青年団、婦人会、小学生までもが参加して飛行機を見るための抜根などの労働に耐えた。作業の指導的役割を果たしたのは、サンナシ沢で飛行場でも作ろうかと話をした三人であった。着陸場建設の日付は不明であるが、二日間で一五〇人の動員があった。これらが、渡部が田畑記者に語った着陸場建設の経緯であった。不明という飛行場建設の工期を、小樽新聞の記事などからみると次のとおりである。
十月十五日付二面
千歳駅頭に緑の歓迎門清流に独木船を浮べる旧土人近づいた本社観楓会
目下着陸場の見分につき航空部員が千歳に出張充分調査しているから北海機の飛行と千歳着陸についても両三日中に決定する筈である
七面
いよく明後日紅葉の千歳村へ繰り込む本社観楓会員気勢を添える北海第一号機
本社飛行機の訪問飛行は前報の如く航空部員が出張実地調査の結果会場千歳神社を距る十町程の防風林内に飛行機の着陸場として絶好の地のある事が判ったので愈々札沼沿線の飛行思想普及を兼て天候に支障なき限りは本社北海第一号機を酒井飛行士操縦野中機関士同乗して札幌飛行場を出発し千歳村仮飛行場に着陸することに決定した
十月十七日付
観楓会員を熱誠こめて歓迎する千歳村民千歳神社会場の準備全く成る飛行場の設備完成
飛行場は青年団員が遠きは八里先から来集して(略)飛行機到着の際は村から花輪を飛行士に贈呈する等同村としては熱烈な誠意を以て歓迎準備を整えて居る
着陸場の建設について長都の井上賀一(明治三十四年生まれ)と釜加の前田利次(大正元年生まれ)の興味深い話がある。平成元年に、渡部が創業した山三ふじやの依頼による座談会においてのものであり、同年に同社から発行された千歳文庫2・林元一著『千歳維新-飛行場を造った人達-』に収録された。座談会には『増補千歳市史』を編纂した長見義三も助言者として同席し、司会と記録は守屋憲治が担当した。
司会 飛行場の建設にかかわった方からお話をお伺いしたいと思います。
前田 あの時は十四歳でした。恵庭の松陰学校の高等科を卒業した年でした。〔私は買ってもらったばかりの自転車で森君と一緒に行きました。十月の上旬は現在と違って品種改良が進んでいなかったから、米、燕麦、大豆、小麦をはじめ多くの作物が収穫の真っ最中でした。家では年少で農作業の足しにならない私を作業に出しました。〕(略)
前田 〔作業は大人が鍬で倒したとげのある若木を場外に運ぶことでした。〕かなり暑い日でした。井上さん、全戸奉仕は一日でしたか、二日でしたか。
井上 二日だよ。
前田 皆さんは、二日出ましたが、作業が残ったんです。それで、出れる人は出てくれませんかということで、その後三日間木掘りに出た記憶があります。暑い日ばかりで、運んであった水がおいしく飲んだものです。十四、五人の人が残りの作業をしました。確か四十五銭をもらったように覚えています。アンパンが十銭で十二個きましたからありがたい金額でした。
井上 人生の中で一番の思い出が飛行場造りですね。あの頃は二十四だった。自転車にクワをくくりつけて二日間出ました。〔集合場所は出来たばかりの千歳駅で、役場の人の長い話の後、現場に行きました。〕私の作業は芝を掘った穴を埋める作業だったよね。掘った芝を片付ける人は別にいた。
司会 掘った根株はどうしたんですか。
井上 燃やしたんですよ。
司会 着陸場の転圧はしたんですか。
前田 しなかったね。(略)
井上 しなかった。狭い場所だもの、やっていたら見ているよ。
(〔〕は座談会後の聞き取り)
十五日付二面記事は着陸場の完成検査のため酒井操縦士が訪千することを報じるが後記事であり、七面記事は検査に合格したことを報じている。十七日は観楓会当日である。十五日付七面記事は遅くとも前日に書いていることと思われるが、このことから着陸場の完成は十四日以前となり、全戸奉仕の二日間に前田のいう三日間を加えると九日前後に村民が動員されたと考えられる。ちなみに九日は土曜、十日は日曜日で動員に適したものだった。井上と前田のふたりは、その後の拡張工事には参加していないので記憶に交じりがない。着陸場建設作業の一部に賃金が支払われた事実があった。渡部は転圧のために一㌧のセメントローラーを作り馬に牽かせたとするが(『趣味のチトセ郷土史』)、井上と前田は否定している。渡部が『趣味のチトセ郷土史』を語る三年前、昭和二十六年十月二十四日付の北海道新聞に渡部は次のように語っている。
(略)早速村の中心部落(この戸数僅か百戸)の人々に集まってもらい部落会を開いて鳩首協議したところ(略)こうなれば早いもので幅五十間長さ百五十間(七千五百坪)の面積を整地しようと言うことにたちまち衆議一決、村民はじめ小学生、男女青年団、在郷軍人など四百人がともかく総出で約二日間というもの汗だくで工事し、その結果同十月樽新機サムソン(ママ)無事着陸。千歳毎日新聞と北海道新聞への口述では次の点で相違がある。飛行場建設を決めた村民大会を部落会としている。着陸場の延長一一〇間を一五〇間(二七〇㍍)、幅員六〇間を五〇間としている。作業延べ動員数一五〇人を四〇〇人としている。作業日数二日を約二日としている。勤労奉仕に触れられていない。作業日数約二日は前田の話と符合する。昭和十二年、海軍航空基地の設置決定時に千歳村が建設の経過を公式にまとめた『千歳飛行場沿革』には着陸場の面積のみが「三万坪」と記載されている。一七四間(三一七㍍)四方に相当し興農園耕地と同規格である。今日まで着陸場の延長・幅員は定かではない。当時、着陸場は滑走路状の矩形ではなく、あらゆる風向きに対応するべくほぼ正方形が一般的だった。
十七日の観楓会当日は雨で訪問飛行は延期となった。
勤労奉仕
「千歳飛行場は村民の勤労奉仕で造られた汗の結晶である」と語られる。『趣味のチトセ郷土史』において「勤労奉仕」「尊い汗」という言葉が用いられているからである。(本項の傍点は本文、引用ともに執筆者)また、「全戸奉」と実動員数の乖離から動員計画はどのようなものであったのかについての資料を未だ見出し得ない。『千歳飛行場沿革』には次の記載がある。本村ノ施設多々アル中ニ最近世間ニ知ラルヽニ至リシ千歳飛行場ノ発達概況ヲ陳フレハ左ノ如シ(略)
越ヘテ大正十四(ママ)年ニ至リ小樽新聞社飛行機ハ航空思想ノ普及宣伝ノタメ各地ニ飛行中ナルヲ以テ本村カ適地ナリトシテ計画シタル現在ノ地ニ一度試験的ニ着陸セラレンコトヲ請ヒタルニ幸ヒ快諾ヲ得タルヲ以テ有志ハ在郷軍人青年団員ト協力シ奉!仕!的!ニ地ノ整備ヲ急キ僅カニ三万余坪ノ地ヲ画シテ飛来ヲ待ツコトヽシタリ之レ即チ九(ママ)月ノ候トス
小樽新聞の観楓会、村民大会の記載がなく、広大な火山灰地であるサンナシ沢に盆栽用の木を取りに行ったときの話が「適地ナリトシテ計画シタル地」、村民の勤労奉仕が「奉!仕!的!」と表現されている。
『千歳飛行場沿革』によると、昭和九年の飛行場建設工事には外注工事がなく村民の「労力奉仕」のみで拡張が行われたというが一五七〇円が支出されている。また、十年の航空特別演習時の拡張工事は村民の「勤労奉仕」のみにては特殊作業などが出来ないこと、工期に間に合わないことから雇上人夫を使って完成させたとある。
昭和十一年の陸軍特別大演習時の飛行場拡張工事で、工事費に一万円の資金が必要になり村費と有力企業の寄付で賄ったと説明がある。また、飛行場から遠隔のため拡張工事に参加できずに村道修理に従事した村人は、支給された賃金を千歳村陸軍飛行隊設置速成会に寄付した。
二里以上の部落の人たちは往復に時間をとられ、また事実上、作業に参加するのが困難であったのでそうした部落では村道の修理作業に出動、もらった資金を期成会のほうへふりむけ、協力してくれました。
『千歳飛行場沿革』では昭和十一年の拡張工事について「陸軍特別大演習ヲ機会トシ第三期計画ヲ樹テ全村民ノ勤労奉仕ヲ基調トシテ」と計画性を強調、飛行場史に連綿性を持たせている。
北岡体一が昭和五十年に記した『五十年前の千歳と千歳飛行場発祥』では、大正十五年当時のサンナシ沢を「火山灰地で平坦で樹木が少なく、あっても若木の所」と表現し、先述の前田の発言と符合する。後に千歳市社会福祉協議会会長となる北岡は当時十三歳で千歳尋常小学校高等科一年だった。サンナシ沢周辺は廃棄された苗圃であり、カシワなどの根株はなく天然更新の若木があった程度と推察できる。
高等科一年一四人、二年二四人、尋常科五、六年四七人の児童が、アリが手や足や服の中まで入って刺すのに耐え着陸場造りを手伝った。このように海軍進出前の飛行場が、四度に亘っての村民の手作りに近い「汗の結晶」といっても過言ではないだろう。
着陸場の位置
着陸場の位置について『趣味のチトセ郷土史』には「現在の航空飛行隊の庁舎(執筆者注・米軍200ビル)の手前、昔の室蘭街道の左側、...小芝山」とあり、『増補千歳市史』には「現在の千歳飛行場内にあったサンナシの沢...」とある。小芝山もサンナシ沢も飛行機の離着陸に適した地名ではなく行き着くための目標だった。一帯はアイヌ語でヌプノシケ(野の・まん中)と呼ばれる原野で、着陸場はヌプノシケ(サンナシ)沢の市街側にあった。
着陸場は、現在の南千歳駅から航空自衛隊千歳基地旧管制塔を見通し、旧室蘭街道と交差した地点の鉄道側にあったと言い伝えられてきた。着陸場の位置について中村啓治郎は「着陸場ができた頃、まだ六歳でしたが、家のそばだったのでよく覚えています。私の家は炭焼きでした。着陸場は室蘭街道を苫小牧に向かって左側にあり、通路は火防線を利用していました。室蘭街道からどのくらいあったかまでは定かではありません。火防線から少し苫小牧寄りに水準点があり、なぜ道端にお墓があるのかと思いましたよ」と証言した。
中村の証言と海軍が千歳に進出する以前の地形図、さらに昭和十一年頃に作製された『千歳飛行場周辺要覧(地図)』を参考に着陸場の位置を探ると、これまで言われてきた地点ではなく200ビルの東方、西側滑走路との交点(海軍主滑走路北端)附近にあったと思われる。
一番機の着陸
大正十五年十月二十二日、早朝から村人が徒歩や自転車に乗って陸続と着陸場に集まった。東部の竜丑内(現・新川)で農業を営んでいた関井久蔵(明治二十五年生まれ)は四時間ほど馬に揺られて正午前に着陸場に着いた。
午後一時過ぎ、酒井操縦の小樽新聞社機は澄み切った秋空のもと、大勢の歓迎陣が待ち受けるなか西北の方向から進入してきた。着陸場上空では人々の歓呼に応えるかのように旋回しビラを撒いた後、市街地側から大地をなめるように緩やかな角度で進入、着陸した。
着陸場造成に級友らとともに参加した北岡は、飛行機が着陸場の三分の一も使わずに本当にフワリと降りるのを見た。機体は白銀色、スマートな液冷エンジン単発の複葉機で上翼上面、下翼下面及び機体側面に登録記号J-TAWA、垂直尾翼には日本国籍を示すJが記されていた。登録記号の前方には小樽新聞社の社章である鳳凰がデザインされ、その上に「北海」の二文字、下にはNo1と記され飛行機が北海第一号であることを示していた。
一番機の飛来は観楓会の開催された十月十七日に行われる予定であったが雨天のため延期、二十二日に実施されたものである。十月二十三日付小樽新聞四面に当日の様子が詳しい。
空の珍客に千歳村民の喜び
きのふ午後一時二十分着いた北海号機
〔千歳電話〕二十二日早朝から澄み渡った天空に軽快な白雲さへ浮べて一入秋の情緒を深めた絶好の飛行日和である晴れやかに燃へさかる紅葉を散らしては流れ去る風光明媚の千歳碧流も去る十七日における観楓会の名残をそぞろ偲ばせて雅趣深く秋の空に澄み渡って居た。この日千歳村民に対する謝恩飛行を兼ねて千歳飛行場開きのため札幌飛行場を出発した我社北海一号機は午後一時十五分紺碧の空に上層雲を突破って防風林の西北隅遥かに其の機影を現はし一点又一点見る見る中に勇姿の拡がりは千歳飛行場の上空を圧してしまった。一周又一周謝恩の熱意をこめた我社の宣伝ビラ数万枚を木の葉のようにばら撒きつゝ見事な旋回飛行を秋の光に映へ散らせながら待ちに待った千歳村民の好意に酬ひるため土の匂いのまだ新鮮な千歳飛行場へ午後一時二十分無事着陸した。
地上に起る万歳の声熱狂する村民蝟集
之より先我社北海一号機着陸を見んとして早朝から飛行場の修理に当った消防団青年団其他有志によって弥が上に完全に仕上げられた我千歳飛行場の周囲には朝まだきから押寄せた千歳近郊よりの観覧者で人の渦を巻停車場より飛行場への道端には逸早くも機敏な大道商人が客を呼ぶなど、時宛かも慶長天皇御歴代親告の大祭であったため河合(ママ)千歳村長中川郵便局長を始め恵庭村渡辺部長小野小学校長消防組頭森林主事など官民有志百余名に及び千歳恵庭広島遠くは沼の端苫小牧より一般観覧者五千に達し近村小学校生徒二千を加へ其間盛装を凝した婦人会処女会員が目も鮮やかに彩るなど無慮一万に近き人垣は飛行場の周囲に動揺めき流れ之が整備の為に選ばれた消防隊青年団員等の諸君は声を嗄して場の警備に忙殺されるなど見るからに熱狂する飛行場気分に唆られながら今しも鮮やかに着陸した空の征服者の上に万歳の声を浴びせながら観衆の瞳は矢を射る様に集まった。
更に札幌へ帰還飛行 三時二十分離陸
斯て場の中央に雄姿を横へた飛行機より酒井飛行士野中機関士宮古写真班ママの諸氏が莞爾として降立ば河合千歳村長、中川郵便局長、本社田中航空部長の中央に進み出て交々固き握手を交はしながら今日の栄ある訪問飛行を祝し合ひ次いで可憐なる河合(ママ)トシ子嬢は洋装軽やかに秋風に吹かせながら目に余る大花環を捧げて酒井飛行士の面前に捧げ折柄雲間を流れ出る秋の陽光赫として此栄ある謝恩飛行を祝福するが如く千歳原頭に輝き渡った之より後れ馳せ参じた本社嘉納編集長と共に係員一同の心からなる午餐により午後二時河合(ママ)村長先づ搭乗者席に立って本日の訪問飛行に対する謝辞を述べ千歳飛行場完成を祝し、次で嘉納編集長は機上に立って本社を代表して観楓会並に飛行場組織に対する深甚なる謝意を表し併て航空思想の宣伝及本社定期航空協会の趣旨を簡単に説明し代って田中航空部長約三十分間に渡って航空界の歴史、飛行機の利用法につき語り最後に酒井飛行士は北海第一号機の性能飛行機の利用等を丁寧に説明し終わって直ちに官民有志消防隊、青年団、係一同記念の撮影を為し点火準備数回爆音物凄く酒井、野中、宮古の三氏搭乗午後三時二十分鮮かな離陸振りを見せ万歳を連呼して別れを惜しみ最後に観衆に旋回飛行して敬意を表しながら夕陽映え渡る札幌の空遥かに機を没し去ったが、三時四十五分無事着陸の知らせがあった。
北海第一号が千歳に着陸する三日前、酒井は千歳の空にあった。十九日午前四時から午後一時十五分までの間に樽前山は八回の噴火を記録した。酒井操縦の北海第一号は午後一時二十七分興農園耕地を離陸、高度二八〇〇㍍で空中取材を敢行した。外気温はマイナス八°Cだった。見出しは「爆発の樽前山本社北海号機飛ぶ小雨交じりの密雲を衝いて雄飛午後二時六分札幌へ」と勇壮なものだった。
北海第一号の機種
一番機・北海第一号の機種は、小樽新聞掲載の写真を見るに外観的特長から海軍一〇年式二号艦上偵察機(艦偵)である。本機は三菱内燃機製造製で、同社の招きで来日した英国ソッピース社ハーバード・スミス技師以下のスタッフが、一〇年式艦上戦闘機を大型・複座化した形で設計した我が国初の本格的艦偵だった。しかし、性能不足で大正十二年以降は練習機に改造されるとともに民間に払い下げられた。野沢正編著『日本航空機総集・三菱篇』に次の記載がある。
海軍一〇式偵察機(2MR1-2MR3)
【設計製作過程】(略)ランブラン式冷却器付のものを一〇式二号と称した。2MR2:操縦席を前方に移動し、2MR1の前面蜂巣式冷却器を胴体下ランブラン式に変えたため、前方視界が広くなった。【製作機数】(各型合計)一五九機【一般構造】単発、複葉、翼・胴体:木製骨格、羽布張り【動力】三菱ヒ式三〇〇馬力、水冷式V8型気筒【寸法】全幅一二・〇m、全長七・九m民間機R-22練習機【解説】海軍一〇式二号艦上偵察機を民間用練習機に改造したもの。新聞社の連絡通信機にしたものや(略)、RT3A2と称された大毎機もあり(略)。【性能】最大速度一九〇㎞/h、実用上昇限度六五〇〇m、航続力三・五h
北海道航空の先駆者上出松太郎はランブラン式冷却器付のR1もあり外観のみの判断はできないという。2MR2は社内呼称でMは三菱、Rは偵察機Reconnaissance planeの頭文字であり、先頭の2は三菱の設計順、末尾の2は二号を表わす。発動機ヒ式とはイスパノスイザを指す。酒井の一等飛行機操縦士技倆証明書・操縦士免状の記・飛行機欄「三菱式R二、二型」と、『日本航空機総集・三菱篇』の「R-22」は同一機種で、「、二」と「22」末尾2は民間改造機の意味との解釈が至当である。「十年式艦偵」とは制式年に機種名をつけた大正十年の命名基準によるもので昭和二年には「一〇式艦偵」と改称され、十年以降は「C(艦偵)1M」の記号が与えられた。
千歳村民は小樽新聞社機の機種などに頓着がなかった。現在、軽飛行機をセスナというように、当時は民間機を見ればサルムソンという時代であった。しかし、渡部栄蔵は記憶を頼りにサルムソンを「サムソン」と、さらに、戦前における北海道最後の定期民航機であるエンボイ(三菱ひなずる型)を「インホイ」としている(『趣味のチトセ郷土史』)。上出松太郎は、昭和四十年代中頃から酒井機をサルムソンと誤り信じきっている千歳の人々に三菱式(製)であることを事あるごとに説いた。しかし、市役所も市民も「三菱製とは信じ難い」と頑なだった。三菱製と認識されたのは五十年代に入ってからのことである。
新千歳市史通史編上巻は、781pから「第五章 日中戦争と海軍航空隊」が始まります。
この中でも千歳村の飛行場のその後について多くの記述がありました。
783p
千歳村と飛行場
昭和四年二月、国営飛行場として設置方を貴衆両議院に請願、衆院で通
過採択されたが、実現するに至らなかった。
村は千歳村陸軍飛行隊設置練成会を組織し、九年九月十五日創立総会を
開催した。会則、予算工事施工計画及び方法を決定、作業に要する労力は
村民の勤労奉仕であったが、村費を七四〇円支出した。九月二十八日に
第一期工事として五万坪の整備に着手した。当初目的の五万坪に及ばない
が四万5000坪を十月二十三日までに完成した。同月二十八日、新飛行
場で開場式を、また千歳小学校で竣功祝賀会を催した。
同年冬、のち航空自衛隊初代千歳基地司令になる中島正が雪上訓練(ス
キー飛行の開発)の基地を探すため千歳を訪ねている。「飛行所といって
も、只ののっぱらで雪の上にウサギの足跡が無数にありました。ここで二枚羽
根の戦闘機の脚の車をスキーに代えて訓練した」(中島正「千歳基地二十五
周年に当って思うこと」)。
十年二月、千歳村は陸軍飛行隊設置の陳情請願を行った。八六〇人の署
名捺印があった。
同年三月九日、陸軍航空特別演習の計画責任者である航空本部員青木
大尉が千歳を訪れた。青木大尉は同年秋、津軽海峡を挟んだ航空攻防演習
するため道内の演習地適地調査に来道していた。
同年三月二十五日に陸軍飛行隊設置の請願が採択になった千歳村は、こ
の陸軍航空特別演習を陸軍飛行隊誘致の絶好の機会と考えた。
このための第二期拡張工事は、同年四月四日に着手勤労奉仕のほか、一部
請負に付し、雇上人夫を使役し六月六日、予定どおり完成した。第一期
四万五〇〇〇坪を合せ10万三六二〇坪の飛行場になった。
第三四回陸軍特別演習が北海道で実施されることを知った村は、飛行場
の拡張整備のため、第三期計画を立て、全村民の勤労奉仕を基本として約
六万八〇〇〇坪の工事に十一年五月十日着手、六月二十日、これを完成さ
せた。拡張面積は最大規模で六万八〇〇〇坪以上の工事面積となった。千
歳飛行場は拡張工事で面積十七万ニ〇〇〇坪で北海道最大の飛行場面積に
なった。(中略)
第一期工事後の昭和9年10月28日、祝賀会が行われたとありますが、
これについては同 800pにこうありました。
十月二十八日には千歳村の要請による北海タイムス社機北斗の竣功祝賀
訪問飛行が行われ、札幌・北二十四条から飛来した。飛行機は北海の同型
機、操縦士は上出松太郎であった。上出は「千歳村飛行場開き」のビラ
を撒き、体験搭乗を行った。
上出氏が祝賀訪問飛行を行ったとありますが、なんとこの上出氏、再び飛行場に招待を受けることになります。
新千歳市史通史編下巻393p
61年8月10日に千歳飛行場会場と千歳線開業60周年の記念事業として
「昔を偲ぶ集い」が真新しい新千歳エプロンの一角で開かれた。(中略)
昭和9(1934)年の千歳飛行場開きに北海タイムス社機「北斗」で着陸した
北海道民間航空の祖・上出松太郎を招待した。
市史には、同じく「昔を偲ぶ集い」に複葉機で訪れたパイロットと共に、
並んで花束を受ける上出氏の写真が掲載されていました。
粋な事しますね^^
半世紀を経て大きく変貌した飛行場は、上出氏の目にどう映ったのでしょうか。
話を戻します。
こうして千歳村としては、陸軍の飛行場を誘致しようと、
請願にとどまらずに演習を機会として第三期に至る拡張工事を行ったのですね。
ところが、陸軍誘致を目指して拡張された着陸場に思わぬ転機が訪れます。
第三項 海軍航空基地決定の経緯
821p
米国アラスカ・ダッジハーバー軍港からアリューシャン列島沿いに南下
する米国艦隊に対して艦隊決戦に先立ち、日本近海洋上において航空機の
雷撃で迎え撃つための基地を北海道に設置、雷撃によって半壊した米国艦
隊に対して連合艦隊が艦隊主力決戦を行おうとするのを邀撃思想という。
航空機に関しては邀撃のため雷撃を担え、完全武装で四〇〇〇㌔から六
〇〇〇㌔の長距離飛行が可能で、かつ洋上索敵哨戒能力を有し陸上基地か
ら発進する海軍機・大型陸上攻撃機(陸攻)の充実整備を計画の柱とした。
(中略)
海軍と北方海域
北方海域は地政学的に大圏航路で米国に至近であるが、気象の制約を受
けやすいということから、昭和十年頃迄は海軍部内でも関心がもたれて
いなかった。(中略)
根室は霧の発生が多く視界不良であり、ただ単に米本土に至近と言う利点
があるだけで通年運用する飛行場の建設地点としては適当ではないという
ものだった。
このことから海軍は、北海道に航空隊を有する大規模な航空基地を建設
する場合は、霧の発生が少ない北見山地と日高山脈の西、北海道西部でな
ければならないと決めた。昭和十年の暮れのことであった。
十二年二月二十四日、軍令部次長から海軍次官に対して十三年以降に実
施すべき軍備充実内容に関する件が具申され、建設時期が明示された。
昭和十四年度末までに左の如く整備す
北海道西部に飛行場の新設
アリューシャン列島沿いにやって来る米艦隊に対応する航空基地を建設する必要が生じました。
距離だけ考えれば、根室に基地建設という流れになるのですが、
霧という気象上の制約から、北海道西部に目が向けられ、
「昭和14年末までに西部のどこかに新設」が発案されました。
海軍は早速候補地の選定に入ります。
823p
第四項 海軍航空基地の建設
海軍飛行場適地調査
北海道西部の海軍航空基地適地を選定する調査は、昭和十二(一九三七)
年四月に海軍省から大湊海軍航空隊に下命された。調査を担当したのは、
陸攻操縦士の楢貝譲治大尉と戦闘機操縦士の小福田租中尉だった。
小福田晧文(旧名・租)の「指揮官空戦記」に適地調査の記述がある。
北辺の地にも、遅い春が訪れかける昭和一二年四月中旬、海軍省からの命
令で、北海道と青森県南部に、海軍航空隊を新設するため、「飛行場適地調
査」の指示がきた。
司令から、攻撃機パイロットの楢貝大尉と戦闘機の私が、その仕事を命ぜ
られた。まず北海道石狩川平野一帯をめざし、石狩川の下流付近を精査したが、
地形、地質、気象、交通、その他所有条件を満たすような場所はなかなか
見つからなかった。
やむなく、少し方向を変え、札幌東南方の千歳村を訪れた。ちょうどその
ころ、村はずれに六百メートル四方くらいの不時着場があり、その付近を精
査し、さらに南の苫小牧方面を、約一週間にわたり、目ぼしいところを探し
歩いた。
結局、現在の千歳飛行場を第一候補として、細部調査の上、報告書を提出
した。とくに、調査に当っては、当時の千歳村役場の人たちの親切な協力
が、いまなお印象に残っている。
小福田は適地調査の様子を、「航空自衛隊千歳基地二十五年史」にも「適
地を求めて」として寄稿している。
いちおう地域を「石狩川流域」「苫小牧地区」及び中間の「千歳付近」の
三つに分け、(略)ともかく札幌に行き、道庁、市役所及び測候所等にあい
さつを兼ねて資料を入手、その足で石狩川に向かいその堤防に立ちました。
広々とした開かつ地ではあるが低地で地下水位が高く、石狩川はん濫の問題
や(略)全域がりっぱに開拓された田地である等の関係から候補地としては、
保留としました。
次に南にくだって苫小牧地域…というより勇払平野でした。調査の結果こ
の地域の不適格性は、一言でいえば「地質と海霧の進入」でありました。特
に地質は本州等ではみられない一種の「古代凍土」とも呼ぶべきもので(略)。
現地に着くまでは漫然と石狩、苫小牧、千歳の順に有力候補地と考えていま
したが調査が進むにつれ飛行場とは、「広くて平たんな土地さえあれば良い」
というものではないことがわかってまいりました。
そして次は最後の候補地石狩(川)の支流、千歳川のほとりの千歳村役場
を訪れたのです。村役場はへき地のうちぶれた建て物であったが役場の人た
ちは、いろいろ親切に説明、助言してくれ二ヵ所の候補地を提示し案内して
くれました。その一つは、明治のころの創業で日本最古の(略)「木村パン」
の農場でありました。(略)
ともかく見渡す限りの平たん、かつ整備された大農場で飛行場への転換は
簡単に思われましたが、農場の責任者の口ぶりからは取得はなかなか難しそ
うに感じ、その旨報告書に述べておきました。
次は千歳村から遠くないところにある、飛行場らしき場所につれて行かれ
ました。六百m四方の平たんな草地で四囲は林に囲まれていました。
当時、要求された滑走路の長さは、だいたい1500m程度であったので
すが、この付近であれば拡張の余地もあり、その他の諸条件も悪くなく、特に
地質等も我々素人ながら「適」と判断しました。
このようにして約一週間にわたる道西地区の調査を終わって大湊に帰りま
した。結局第一候補として千歳地区が採用となり後日、千歳海軍航空隊とし
て造成開隊されることとなったのです。
海軍にとって北海道西部の中でも、また千歳地区の中でも飛行場建設の
適地性が高くなかった「飛行場らしき場所」が、地形、地質など諸条件が
他地域よりも高く航空基地の第一候補地になった経緯がよくわかる。海軍
航空基地の建設が、着陸場を現在の航空自衛隊千歳飛行場・新千歳空港へ
とつなげ千歳航空史を連綿とさせているが、諸条件の産物だった。
檜貝大尉と小福田中尉の調査報告から一ヵ月ほど後、大湊空飛行長少佐
の須田桂三が来千した。飛行場を視察した後、千歳村役場を訪れ飛行場の
記録を閲覧した。少佐は「海軍が千歳に航空基地を造るとしたら土地を寄
付するか」と質問、「了」という回答を得て大湊に帰隊した。(中略)
こうして千歳が第一候補地に選ばれました。
「元々日本軍の飛行場があった場所は、空港として最良地である」的な話は時々耳にしますが、
千歳飛行場は、道内でも選りすぐりの場所だったのですね。
調査を実施したのが昭和12年の4月中旬で、それから僅か3か月も経たない7月7日に、あの盧溝橋事件が発生しました。
このことが、基地建設にも影響を与えることになります。
822p
日中戦争と海軍戦備・千歳航空基地決定
(中略)
八月二十一日、海軍軍令部は戦備考査協議会を設置、翌日には「日支事
変並に之に関する今後の事態に対応する戦備促進の件商議」(引用者注・商
議=協議)を申し入れた。
航空基地・現に実施中または所要施設の急速整備に務む 千歳 元山(「戦史叢書29」)
二十三日、第一回の戦備考査協議会が開催された。方針として作戦に必
要な戦備を整備し、第三国の干渉に備えるため海上作戦に必要な戦備の一
部を促進する。このため主として南洋・千島方面の施設の急速整備に努め
ることとした。この第一回協議会の打ち合わせ事項「覚」として千歳航空基地
建設が決定された。
新設を要するもの 元山 千歳(北海道) (「戦史叢書31」)
(中略)
日本は当初、戦闘の不拡大を方針としたが戦局は次第に拡大、戦闘の進
展に伴い十月二十五日軍令部総長は海軍大臣に対して、対支作戦は現状兵
力を維持し第三国の干渉に備えることとし、航空兵力は③計画(後述)を
繰り上げ整備、航空基地の整備について「支那事変に関する第二次戦備促進
に関する件商議」を申し入れ建設期限が明らかにされた。
元山、千歳、敷香(樺太)は昭和十三年九月までに整備完了する
中型陸上攻撃機使用可能とする (「戦史叢書31」)
航空基地の新設場所が明確に「千歳」と決まり、基地の作戦目標も明示されました。
元々は、アリューシャン列島沿いにやって来る米艦隊に対応するため、「昭和14年末までに西部のどこかに新設」
という案だったのですが、支那事変、第三国の干渉に対応を迫られるという情勢変化により、
「昭和13年9月までに整備完了する」となり、航空基地の建設計画が1年以上も早められました。
早速建設に向けた動きが始まります。
航空基地の建設 824p
昭和十二年七月には航空本部員が精査のため千歳を訪れた。九月には海
軍から千歳に海軍航空基地建設決定の文書が役場に来簡した。九月下旬に
は測量隊が入り、十月十八日に起工式が挙行された。(中略)
千歳村が寄付した一三〇町歩では海軍の計画面積に不足した。海軍は千
歳村農会長の高橋為次を海軍嘱託に任じ約四五〇町歩を買収、総面積は六
〇〇町歩に近い広大なものとなった。この結果、室蘭街道は基地を斜めに
縦断することとなり、十一月に北海道鉄道線と平行に移設された。(中略)
千歳航空基地の概要は、総面積約五八〇町歩のうち約二三〇町歩を整
地、直角交差する二本の長さ一二〇〇㍍、幅八〇㍍のアスファルト舗装滑
走路、耐弾造の爆弾庫のほか、電信所、防空砲台、司令部、居住施設を有
するとされた。(中略)
785p
十二年初頭、海軍航空隊の設置が決定され直ちに用地買収、立木の伐採、整
地など造成工事が着手された。それとともに海軍の建設先遣隊の軍人、工事に
携わる工事関係者が千歳村に流入してきた。(中略)
典が催された。航空隊の勢力は、陸上攻撃機一隊、艦上戦闘機二隊から編成
され、配置機数は四八機であった。(中略)
803p
昭和十二年四月十日発行の帝国飛行協会「本邦民間飛行場図」に千歳飛
行場の記述、諸元を見ると次のとおりとなる。面積については、昭和十年
の第二期拡張・陸軍航空特別演習時の数値となっている。
海軍が航空基地建設に着手する直前の千歳飛行場の概況である。
所在場所 北海道千歳郡千歳村大字千歳字ママチ一三八七
飛行場管理者 北海道千歳郡千歳村 千歳村陸軍航空設置速成会
千歳飛行場位置図(略) N.42度48分14秒 E.141度40分18秒
面積及地形-総面積一三二〇〇〇〇平方米(四〇〇〇〇坪)の内
離着陸場三四一九〇〇平方米(一〇三六二〇坪)
地形平坦、土壌火山灰地にして地盤固く付近に何等の障害物なし
恒風 春夏は南風、秋冬は北風
格納庫 なし
其他の航空施設 吹流し及び航空標識「チトセ」あり
交通連絡 北海道鉄道千歳駅を距る二五〇〇米、千歳市街を距る一六〇〇米
千歳市街には乗合自動車及び「トラック」あり
通信連絡 千歳市街に 三等郵便局(電信、電話)あり
観測設備 なし
燃料 千歳市街に家庭用小売商あるのみ
注意すべき障害物 なし
其他
825p
軍令部の早期完成要求にもかかわらず、開庁が昭和十四年十月に遅延し
た理由として北海道の厳しい冬季の気候が影響した。
また、急速整備のため、直角交差する長さ一二〇〇㍍、幅八〇㍍の滑走
路を当初設計していたが、千歳の卓越風を理解したのか北海道鉄道線と並
行する南北滑走路一本を先行整備することとした。苫小牧・沼ノ端では北
風、南東風以外に南西風とばらつきがあるが、千歳は年間を通じてほぼ南
と北の風が卓越し、四月から十月にかけては南からの風が卓越することが
知られている。千歳地方の東西に山岳部があるためである。(中略)
826p
千歳航空基地の秘匿性を高める略号はJ地とされているが、T地が正し
い。これは敗戦時に軍関係の一切の書類が焼却処分され、「戦時行刑実録」
が各刑務所の調査報告によって記述されていることによる。Tとは千歳の
アルファベット頭文字である。
883p
昭和十七年三月発行の水路部軍極秘9100号『海軍航空基地資料 第
1』は、昭和十五年二月までに蒐集した航空隊と水路部の調査資料によっ
て、現状のまま使用できる航空基地を一覧としたものである。施設図、位
置図、気象データ、空中写真などが収録されている。
千歳海軍航空隊(北海道千歳郡千歳村)
北緯四十二度四十九分 東経百四十一度三十九分
面積及地形-十九万五千平方米
東西に対し百五十分一西下りにして南に対しては水平
種類-陸上機用
地方風-地上 夏は南北風、冬は南北及び西風、一般に風力弱し
上層 不詳
地方特殊の気象-夏は一般に海霧多し(朝夕最も多く日中は晴るる事多し)
九・十・十一月快晴多し
十二月より翌年三月末頃まで積雪あり平均一米
滑走路面及長、幅、條数-瀝青舗一二〇〇米x八〇米(二条)
他に北、西、南の三方に舗装運■路を有す
航空標識-無線方位指示設備あり(未完成)
通信連絡-
離着陸特殊操縦法-離着陸時右旋回
排水良否-地質火山灰にして雨水排水良好 但し解雪地面凍結し滞水する
ことあり 主滑走路両側に排水路あり
観測設備-航空気象観測の設備あり(未完成)
照明設備-場周灯、障害物指示灯あり(未完成)
目標-北海道鉄道、樽前山
給油及応急処理-給油設備あり 応急修理可能(隊内工作施設未完成)
障碍物-場周は一乃至二米位の雑木林にして離着陸時特に障害となるも
のなし
交通連絡-千歳駅より徒歩にて二十五分、自動車交通可能
「バス」の連絡なし
其の他-舗装以外は全部植芝、転圧しあり
(昭和十四年十一月調)
917p
(昭和十九年)十月二十六日に陸軍が撮影した空中写真が残されている。第一千歳の滑
走路、誘導路のアスファルト部分は、迷彩塗装が施されていた。また、司
令部庁舎の南西に第二エプロンが新設され格納庫が一棟増設されているこ
と、縦滑走路南端に誘導路を結ぶターニングパッドが新設され滑走路が二
〇〇㍍延長されていることが判る。この時点で第二エプロン、ターニング
パッドともに迷彩は施されてはいない。
924p
千歳空襲
昭和二十年六月(中略)北海道は大型カメラを装備したB-29回増の写
真偵察機F-13に侵された。マリアナ諸島から爆走B-29では北関東が飛
行玄界であったが、爆装荷重がなく増槽装備のF-13は北海道も飛行圏内
だった。(中略)二十九日には千歳を含む道央南部が一機に偵察された。(中略)
日本本土の航空基地を偵察した結果については「分散配置が不十分で密
集した明確な攻撃目標となる広い長方形の地域にある」と『米陸海軍合同
諜報調査報告書』にある。第一千歳もさまにそうで、飛行地区の北端西
側に施設が密集していた。
昭和20年6月末に偵察機が飛来し、翌7月15日に空襲があったのでした。
そして終戦、米軍の進駐を受けます。
952p
緑十字飛行は定期運航が主であったため、北海道の飛行場は札幌北二十
四条の札幌第二飛行場だったが第一千歳にも飛来した。北海道航路は、九
月二十日から十月七日までの月、火、木曜日に飛来し、九日を持って禁止
された。飛行禁止は連合国軍の進駐によって、米軍の独自運行が可能になっ
たからであった。
952p
B-29が千歳に初めて着陸したのは、敗戦の翌日十六日のことで第一基地
でした。司令部庁舎から見て滑走路右手に駐機していました。乗組員は全員
が機内に宿泊し、翌日、サイパンに飛び去りました。ソ連軍の動きを偵察に
北海道まで来たのが、機体に何らかの異常があり、不時着したのではないか
と思っています。米国人特有の功名心からの行動とも考えられます。この後
も何度かこうしたことがありましたが、司令部庁舎に宿泊し、夜は町内の料
亭につれて行き接待しました。米兵も喜んでいました。
■新千歳市史通史編下巻
4p
北海道空襲で米軍は「この命令において優先される目標は航空機、飛行場、艦
船、鉄道施設の順である」と徹底し、上陸部隊への航空攻撃を封じること
を最優先とした。しかし、北海道において最も整備された航空基地である
第一千歳、第三千歳と建設中の第二千歳に実質的な攻撃を加えていない。
千歳の飛行場を無傷で手に入れるという、日本占領後に向けての特別の意
図があったからである。
8月15日、第二基地の滑走路2500x75㍍が完成を見ている。そして
慌ただしく占領軍が訪れる。8月16日4発大攻「連山」のために建設された第
2基地に南太平洋方面から飛来したB-29重爆撃機が着陸。一時期、道内
におけるB-29用飛行場として使われた。
(終戦翌日に飛来したB-29が着陸したのが第一なのか第二なのか、情報が錯そうしてます)
新千歳市史通史編下巻
990p
航空軍は23年3月31日には司令部を千歳から飛行場施設工事を終えた三
沢に移し飛行隊も2日後に移動、7月にはF-80戦闘機に換装し占領米軍
初のジェット部隊となった。三沢移駐は千歳がソ連に所在する航空基地に
至近であることが理由といわれる。航空機の性能が向上するなか少しでも
ソ連領から離れ、予想される攻撃から邀撃(=要撃・迎撃)の時間を稼ぐ
ことに移駐の目的があった。25年の朝鮮出撃迄一部が千歳に派遣されて
いたと考える。
新千歳市史通史編下巻
998p
滑走路の改良 昭和25(1950)年5月から28年10月の滑走路延長・
誘導路新設工事(第903空軍設営隊管理、大林組施工)を米空軍「千歳
第1飛行場配置図/6000分の1」から読み取ると次のとおりである。
・ランウェイ(滑走路)
全長9000?x幅員150?をコンクリート舗装(既存滑走路全長
3933?を北側1418?、南側3649?延長)
・ショルダー(路肩)
既存滑走路部分片側51?(滑走路改良外の残置舗装部分)、延長滑走路部
分 片側75?を両側に設定
・オーバーラン(過走帯)
北側延長滑走路端から500?、南側延長滑走路端から1000?を設
定、幅員300?
・タクシーウェイ(誘導路)
改良 駐機場南端-海軍設定横滑走路西端~既存滑走路南端
新設 北園長滑走路北端から駐機場北/南延長滑走路西側-平行誘導路
・航空保安施設設置場所
GCA(着陸誘導管制)=鉄道線路側旧横滑走路上・交点寄り/UHF=
旧横滑走路東端付近
米軍機のジェット化に伴い、滑走路延長工事その他が実施されました。
新千歳市史通史編下巻
373p
道内ではどこの飛行場が民間航空用となるのかが
関心事になった。道都札幌への利便を考えると日本陸軍が戦時中に建設し
た丘珠の札幌第一飛行場か有利であったが、千歳も町勢の伸張を考えると
負けられない勝負で両者の間で激しい競願、誘致合戦となった。
千歳町はGHQに対して「北海道千歳町に在る千歳飛行場を日本国内航
空運送事業の開始にあたって航空会社に使用せしむるよう懇請する」と願
い出た。また、国内航空事業を構成する海外会社にも同様の要請を行った。
さらに、昭和25年11月24日には山崎町長をはじめ議会関係者が上京、内閣
総理大臣、関係省庁に千歳を北海道の民間航空用飛行場とする陳情活動を
精力的に行った。両社ともに滑走路延長は1200㍍であった。札幌は戦
前の実績をもとに運動し、千歳は積雪量の少なさと通年風向きが南北に卓越
することなど気象条件の優位性をデータをもってアピールした。(中略)
開設にあたっては極力、現在米軍使用
中の飛行場の利用を懇請し必要な予算措置を速やかに講ずるとした。
5月10日に航空庁長官からの4日付「東京-札幌間航空路の開設につい
て(通知)が来簡、「2 使用飛行場について 北海道における使用飛行
場は、現在の施設の状況からさしあたり千歳飛行場の使用を予定していま
す」と通知されたが、恒久的な空港の整備については27年度以降に具体化
していくこととあった。丘珠との誘致合戦は30年代前半まで続けられた。
戦後の北海道の空の玄関口の座を巡って丘珠と(結構な期間にわたる)誘致合戦があったのですね。
結果次第では丘珠に違った未来が十分あり得た訳です。
新千歳市史通史編下巻
995p
第45師団の2個歩兵連隊、砲兵部隊、戦車大体など1万5000人を第
一千歳の兵舎だけに収容することはできず野営地が必要となった。これま
で漠然とママチ川上流部といわれていたが、200ビル南西方向1.4㌔
にある700,900地区西側に街区を設定し大型幕舎を張って収容した。
また、これまで使われていなかった第二千歳(現・東千歳)の連山滑走路
西側誘導路沿いにもクォンセット・ハットを多数建設した。設営に従事し
た土建会社の労働者は5000人を数えたという。営門付近には現在も使
用中の鉄製高架配水槽を建設、敗戦時に撤去された第二千歳専用線が再敷
設され、第一、第二千歳ともにキャンプ・ストロングと呼ばれた。
また、連山滑走路東側は弾薬集積地区となり無蓋掩体壕内のプレハブが
弾庫となって延長10㌔に及ぶ管理道路とフェンスに囲まれた(S30・2~
48・8東千歳弾薬支処)。ほかに弾庫としては、第一基地では専用線終点
の海軍築造弾薬庫、滑走路東側誘導路地区(現・政府専用機格納庫一帯)、
さらに青葉丘にあった防空砲台跡が集積地区となった。
朝鮮と地形、気候が似ている周辺の山野における32週の訓練が計画され、
終了後は敗色の濃い朝鮮に出動しなければならなかった。州兵は恐怖心か
ら酒と女に享楽を求め、九州など全国からピーク時には3700人の「パ
ンパン」(娼婦)などと呼ばれた売春婦が集まった。1ドル360円の単
一為替レート(S24・4実施/米兵ドル円交換所=千歳町役場内)で大金
を握った兵で満ちた市街の異様な雰囲気は、オクラホマ景気と呼ばれ今に
語り継がれている。
これは朝鮮戦争時、昭和26年5月頃の話なんですが、北海道の拠点空港の誘致合戦と共にこんな時代背景もありました。
新千歳市史通史編下巻377p
昭和26年10月25日から日航の暫定就航が始まったが、(中略)
初飛来の26日は1機で日本本土を縦貫しなければな(らな)かった。
運行ダイヤによると、もく星は羽田を午前7時30分に離陸、伊丹を経由し
板付に到着、復路を飛行し午後2時50分羽田に戻り、休む間もなく千歳へ
の乗客・貨物を乗せ3時45分に離陸、千歳には日没後の6時20分に着くこ
とになっていた。さらに、40分後の7時には千歳を出発し、9時40分羽田
に帰着し1日の飛行を終えた。
羽田-千歳間は2時間40分を要した。大人1人の運賃は2割の通行税を
含んで26年4月時点の大卒公務員(現・上級職)初任給の2ヵ月分に近似
する1万200円と高額だった。また、搭乗手続きのため札幌・日通支社
内の市内営業所への集合時間は飛行機出発時刻の1時間50分前とされ、日
航連絡バス(中央バス貸切車)に乗らなければ基地のゲートを通過するこ
とができず基地内発着の不自由さをかこった。札幌市内-千歳飛行場間の
バス運賃は搭乗者50円、送迎者は135円で所要時間は70分だった。
新千歳市史通史編下巻382p
(昭和30年頃)この当時、ジェット戦闘機基地でありながら北海道側の拠点空港となり
つつあった千歳飛行場には2700㍍の滑走路が一本あるだけだった。
航空自衛隊はマッハ2級のF-X次期主力戦闘機、民航においても大型
4発旅客機の就航が確実視され、空自機と民航機が輻輳する危険性と4発
旅客機に対応できる強度をもつ新滑走路の整備計画が具体化された。
新千歳市史通史編下巻385p
当時、1日10往復程度の旅客機に対して航空局、航空会社ともにターミ
ナルビル施設の必要性に逼迫した感を有していなかった。
千歳の民航地区ターミナル建設の端緒は次のとおりである。
(略)昭和32年6月当時の山崎町長が上京し、林航空局長、今井管理部長、
関口技術部長同席でその必要性を要請したが、その際、局長から、「北海道
空港の整備をいままで放置していたことは誠に申し訳ない、早急に現地を調
査させて整備したい」とのべられ、また日航松尾副社長もターミナルは日航
で建設することは困難であるが、地元千歳が会社組織で建てられるのであれ
ば出資するし、その他できるだけのご協力はするとの言葉添があり、直ちに
ターミナルビル設計計画に着手し、敷地の選定、会社設立などの諸準備が進
められた。
新千歳市史通史編下巻
1044p
新滑走路の必要性 敗戦後、米陸空軍に接収、提供されていた千歳飛行
場であったが、昭和34(1959)年7月20日には飛行場地区が日本に返
還となり名実ともに日本の飛行場になりエプロンが拡張された。
当時の滑走路は25年から28年にかけ米空軍がジェット戦闘機用として、
1200㍍を2700㍍級に延長した現在の副(西側)滑走路があるばか
りであった。空自にとっては北海道内における唯一のジェット戦闘機基地
であり、民間航空にとっては対本州航路の北海道側の拠点空港であったこ
とから1本の滑走路では心もとないものがあった。
また、33年当時、空自にとってはマッハ2級のF-X次期主力戦闘機の
選定、導入が決まっていたし、民航においても大型旅客機の就航が確実視
されていた。速度の大きく違う戦闘機と旅客機が輻輳する危険性と、在来
滑走路では大型旅客機に対する強度が不足し安全な着離陸ができないこと
が危惧された。このようなことから新滑走路の整備計画が具体化した。新
滑走路の計画当時は主(東側)滑走路という呼称ではなく平行滑走路とさ
れていた。
ということで、滑走路をもう一本追加することになったのでした。
ここで戦後の千歳飛行場の航空写真を並べてみます。
撮影年月日1947/09/04(昭22)(USA M458 115)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
終戦から2年後の様子。まだ1,200m。
撮影年月日1953/05/06(昭28)(USA M159 27)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
米軍機ジェット化対応2,700mに延長。
撮影年月日1962/06/13(昭37)(MHO623X C14 12)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
平行滑走路が新設されました。
上巻22p
35年頃から利用者が急激に増加し、40年には千歳-羽田間の利用者数は国鉄の
それを上回るに至った。(中略)
36年に平行滑走路、誘導路、エプロン、翌年には照明施設、通信施設等
民間空港に必要な施設が整備されていった。(中略)
36年10月30日、北海道空港(株)が創立された。ターミナルビルは38年3月
29日、民間航空専用地域に設定された滑走路の東側に完成した。
「座席提供数世界一」と謳われる超高需要路線はこうして形成されていったのですね。
41p
アンカレジ市と姉妹都市提携
提携の経緯 昭和43(1968)年3月13日に米国アラスカ州アンカレ
ジ市が、北海道の千歳、函館、帯広のいずれかと姉妹都市提携を結びたい
という情報がアラスカ航空を経由して全国市長会に事務局を置く国際親善
都市連盟(現・自治体国際化協会)にもたらされた。全国市長会はアンカ
レジと国内都市の類似性と共通点から千歳を最適とした。
米田市長は姉妹都市提携を前向きに進めることで3月16日に議員協議会
の承認を得、4月13日にはアラスカ航空を介してアンカレジに伝えたとこ
ろ、アンカレジ市議会はすぐさま22日に千歳との姉妹都市提携を決議、千
歳市議会も6月20にアンカレジとの姉妹都市提携を決めた。
6月25日には米田市長とサリバン市長が姉妹都市提携の記念通話を行い、
アンカレジを知るASAチトセ副司令官ブランド中佐も同席した。
姉妹都市の提携調印は44年4月21日、アンカレジ市内ウェストワードホ
テル(現・ヒルトン・アンカレジ)で行われた。(中略)
選択の理由 姉妹都市提携に関する盟約書は、-ともに空港都市-の言
葉で始まっている。アンカレジは第一次世界大戦の頃迄は単なる船着き場
に過ぎなかったがアラスカ鉄道の建設を契機に交通の要衝となった。千歳
も第一次世界大戦の頃迄は街道沿いの一寒村に過ぎなかったが北海道鉄
道の開業が交通の要衝の始まりという共通点があった。第二次大戦勃発の
昭和14年に日本は北方防衛の要として千歳に海軍航空基地を、対して米国
は15年にアンカレジに北米防空の拠点エルメンドルフ航空基地を開設、
ともに北太平洋を挟んで軍事都市として発展した歴史を有していた。
姉妹都市提携が持ち上がった43年当時、エルメンドルフは空軍基地とし
て、千歳は航空自衛隊基地としてともに軍民共用の空港だった。アンカレ
ジ空港は北回り欧州線の重要な経由地・国際空港であり、千歳は大圏航路
で欧米に至近な国際空港を目指す国内基幹空港、ともに26年の開港という
めぐり合わせであった。-ともに空港都市-の共通点が両市を姉妹都市と
して結び付けた。
24p
米軍基地の閉鎖
昭和45(1970)年8月17日、在日米軍司令部は「千歳に駐留する米
軍クマ基地を明年6月30日付をもって、全面閉鎖する。このため、ここに
勤務する日本人従業員を段階的に明年3月末までに解雇する」旨を発表し
た。
軍の直接雇用を含めた1000人を数える日本人従業員の多くが長い期
間にわたって勤めた中高年齢者であるため、離職対策は容易ではなかった。
平均年齢が44.7歳、意向調査の結果では65㌫が千歳に家を持ち、自宅か
らの通勤を希望している。市では離職者救済を図りながら、恒久的対策と
して工業団地の造成、企業誘致を本格的に検討し始める。
62p
米軍千歳基地完全閉鎖
昭和20(1945)年、終戦からまもなく連合国軍として米軍は海軍千
歳航空基地に進駐し、27年のサンフランシスコ平和条約調印後も在日米
軍として駐留を続けた。朝鮮戦争の勃発により26年にはオクラホマ州兵
部隊からなる第45歩兵師団が千歳に送られ、市街地人口よりも多い1万
5000人もの米兵が駐留した。駐留米兵により千歳の経済は大いにうる
おい、オクラホマ景気と呼ばれた。29年8月に挑戦戦争が休戦となると10
月には陸上部隊の大部分が千歳から撤退した。30年代になると陸上・航空
自衛隊への移管によって米軍はさらに縮小され、第3地区(現在の東千歳
駐屯地の一部)に集約された。残った主要な部隊は通信を主な任務とする
陸軍第12保安野戦部隊(ASAチトセ)である。ASAチトセの基地の名
称はクマ基地と付けられた。
38年9月の移動以降は44年まで規模に大きな変化はなかった。44年7月
時点で米兵1420人、軍属35人が配属されていた。ところが45年8月17
日、在日米軍統合司令部からクマ基地を46年6月30日付で全面閉鎖すると
突然通告があった。米ソデタントによる米国防予算の削減や対アジア外交
方針の転換などが背景にあった。予定より前倒しされ、46年3月31日、離
別式が行われクマ基地は閉鎖された。クマ基地の閉鎖に伴い、基地内で働
いていた日本人要員814人が解雇された。このほか軍人などに個人的に
雇われていたハウスキーパーや関連業者約200人を含め、1000人規
模の離職者が生じることになり、道は北海道駐留軍関係離職者対策本部を、
市は千歳市クマ基地閉鎖対策本部を設置して離職者対策にあたった。
クマ基地閉鎖のあと第3地区は米空軍に引き継がれ、47年には第1地区
でOTH(超水平)レーダーの運用が始まった。49年3月の時点で73人
の軍人と15人の軍属が駐留していた。50年3月にはOTHレーダーの運用
を停止し、同年6月30日をもって米軍千歳基地は完全閉鎖、終戦直後の進
駐に始まる千歳駐留米軍の30年の歴史に幕を下ろした。
新千歳市史通史編下巻
1047p
主滑走路南方移動の始まり 昭和46(1971)年6月1日、東雲町、
朝日町、青葉丘、日の出丘の町内会有志8人が戦闘機騒音の軽減と地区の
空洞化を憂慮し、滑走路南方への延長、公共施設移転反対の運動を進める
ため署名運動を始めることになった。これが滑走路南方移動2000㍍の
端緒であった。
1048p
(1973年)8月29日、防衛庁は滑走路を2000㍍南方に移動する方針を決定、第
1期として49年度から3ヵ年計画で1000㍍南方に移動すると発表した。これ
までも滑走路の南方移動に反対していた苫小牧市は、この決定に対して勇
払、沼ノ端、植苗地区の騒音公害が拡大するとして防衛庁及び防衛施設庁
と千歳市に文書をもって反対の態度を表明した。
36Rエンド西側。
イーグルが飛んでこないかしらん。としばらく待っていたのですが、こちら側に離着陸する航空機はなし。
あちら側では盛んに民間機の離着陸が続いていました。
北海道・千歳飛行場
千歳飛行場 データ設置管理者:防衛省
4レター:RJCJ
空港種別:共用飛行場
所在地:北海道千歳市平和無番地
座 標:N42°47′40″E141°39′59″
標 高:27m
滑走路:
1926年 千歳着陸場当時:200mx110m
1945年 千歳第一航空基地当時:1,200mx80m(アスファルト)、1,500mx80m(アスファルト) 「日本海軍航空史」より
現在: 3,000m(18L/36R) 2,700m(18R/36L)
沿革
1923年 逓信大臣に対し国設飛行場設置の請願。請願を受け逓信省が現地調査実施
1924年07月 千歳村字「ママチ」ニ航空場設置ノ件採択
1926年09月 小樽新聞社員が千歳村役場を訪れ、観楓会接待依頼。役場は快諾。着陸場選定
10月 9,10日頃、千歳村民による全戸奉仕。「千歳着陸場」造成。
22日 小樽新聞社・北海第一号機着陸
1927年08月 26日 北海タイムス・北斗第五号機(永田操縦士)飛来
1929年02月 国営飛行場設置を貴衆両議院に請願。衆院で通採択されたが、実現に至らず
1932年07月 「空輸計画を伴う飛行場建設の儀に付請願」として国設飛行場建設請願
1933年02月 陸軍飛行場設置請願書提出
1934年09月 15日 千歳村陸軍飛行隊設置練成会創立総会開催
28日 飛行場建設第一期工事。5万坪の整備に着手
10月 23日 45,000坪完成
28日 新飛行場で開場式、千歳小学校で竣功祝賀会を催す
同年冬、後に空自初代千歳基地司令になる中島正がスキー飛行の開発基地を探して千歳を訪問
1935年02月 千歳村、陸軍飛行隊設置の陳情請願
03月 9日 秋に実施する陸軍航空特別演習の計画責任者が千歳を訪問。道内の演習適地調査実施
25日 陸軍飛行隊設置の請願が採択。千歳村は陸軍航空特別演習を誘致の絶好の機会と捉える
04月 4日 第二期拡張工事
06月 6日 第二期拡張工事完了。第一期45,000坪と合せ計103,620坪となる
この年の暮れ、海軍は北海道に大規模な航空基地を建設する場合、霧の影響のない西部と決める
1936年05月 10日 第三期拡張工事(第34回陸軍特別演習のため)
06月 20日 68,000坪分の拡張工事完成。計172,000坪で北海道最大の飛行場面積となる
12月 第七師団経理課長、航空本部員が陸軍飛行隊設置適地調査のため千歳村に訪れる
1937年02月 24日 軍令部次長、海軍次官に対し、昭和十四年度末までに北海道西部に飛行場新設と具申
03月 第七師団経理課長、航空本部員が陸軍飛行隊設置適地調査のため再び千歳村に訪れる
04月 中旬、海軍が北海道西部地区に飛行場設置調査のため千歳村を訪れ、細部調査実施
05月? 大湊空飛行長少佐来千。飛行場視察、役場にて飛行場記録閲覧
07月 航空本部員が精査のため千歳を訪れる
09月 海軍省は千歳飛行場を海軍航空基地と正式に決定。決定文書が役場に来簡。下旬測量隊入る
10月 18日 起工式挙行
25日 支那事変を受け、「千歳は昭和十三年九月までに整備完了」と決まる
1939年08月 26日 世界一周機「ニッポン」飛来
10月 1日 開隊
11月 5日 開隊式挙行
1945年06月 29日 写真偵察機F-13飛来
07月 6日 霞ケ浦航空隊の特攻要員移駐、訓練開始。15日 空襲を受ける
08月 15日 終戦。16日 B-29が第一基地に着陸。その後、P-51を装備した米陸軍戦闘機部隊進出
09月 9日 千歳航空基地を直轄する大湊警備府の占領調印が陸奥大湊湾上の特務艦で行われる
10日 道内抑留俘虜の救出班がC-46で第二千歳に飛来。千歳は俘虜移送の拠点となる
戦闘機部隊と入れ替わりにB-29を主力とする長距離機が飛来、北方方面を偵察飛行
1946年02月 20日 厚木に進駐していた第49戦闘航空軍が千歳に司令部を置く
1947年05月 12日 逓信省航空保安部千歳支所開設
1948年03月 31日 米航空軍司令部、飛行場施設工事を終えた三沢に移る。飛行隊も2日後に移動
1950年12月 12日 運輸省航空庁管轄となり、札幌航空保安事務所と改称
1951年05月 22日 政府は日本航空に営業免許を下付し、千歳飛行場を北海道空港に指定
10月 25日 日航機による羽田線暫定就航開始
11月 1日 正規ダイヤによる運行開始。16日 ターミナルビル竣功
1953年07月 27日 朝鮮戦争停戦協定締結
1954年08月 23日 千歳飛行場から飛行機による還幸啓
09月 ソウル郊外金浦のK-14からF-86戦闘機部隊が移駐
1957年04月 米戦闘爆撃飛行隊が三沢に移動
05月 航空自衛隊第2航空団先遣隊、北海道防空引継ぎのため移駐
06月 町長が上京し、航空局長、日航副社長らにターミナル建設の必要性訴える
07月 13日 道議会にて「千歳空港の整備方についての請願書」可決
08月 民間、自衛隊共用使用開始。第2航空団本隊の移駐完了
09月 2日 千歳基地発足。管制分遣隊と気象分遣隊編成
24日 米空軍、「千歳基地に駐留する飛行隊の業務を近き将来、停止する」と発表
10月 16日 道議会にて「北海道空港整備に関する意見要望書」可決。各大臣、衆参議長に提出
1958年01月 防空と空自指導に当たっていた米飛行隊帰国(米空軍部隊は6月末までに全面撤退)
04月 28日 撤退した米空軍に代わって空自がアラートに就く
05月 13日 空自初スクランブル
12月「千歳空港を北海道空港および国際空港として早急に整備することについての請願」道議会に提出
1959年05月 2日 千歳を拠点空港・第1種空港指定しその整備促進についての請願、衆参両院で採択
07月 20日 飛行場地区、米軍から返還される
1960年 この頃から利用者が急激に増加する
08月 13日 東側滑走路着工
1961年06月 29日 防衛庁が管理する飛行場として告示
07月 4日 管制塔建設工事
09月 飛行場東側で民間航空専用地域整備工事着工
10月 30日 北海道空港(株)創立。同年誘導路、エプロン整備
11月 26日 東側滑走路完成(2,400mx45m)
12月 1日 東側滑走路供用開始(2,700m)。19日、共用飛行場となる(航空法第56条第5項)
20日 管制塔完成(高さ27m)
1962年01月 1日 管制業務が運輸省から防衛庁に移管
03月 完成した管制塔にて管制業務開始
04月 26日 ターミナルビル基礎工事開始
05月 14日 地鎮祭。市役所にて祝賀会。15日、ターミナルビル建設工事着手
1963年03月 29日 ターミナルビル完成。30日、新民間航空地区施設完成祝賀会
04月 1日 千歳空港ターミナルビル供用開始。札幌航空保安事務所、ターミナルビルに移転
06月 8日 空自初のレーダー進入着陸誘導管制装置(RAPCON)完成
1964年09月 9日 国内聖火空輸特別機YS-11試作2号機 全日空「聖火」飛来
1965年 千歳-羽田間の利用者数が国鉄を上回る
05月 札幌航空保安事務所を千歳航空保安事務所と改称
1966年06月 16日 レーダー進入着陸誘導管制装置(RAPCON)運用開始
1967年10月 千歳航空保安事務所が東京航空局千歳空港事務所と改称
1968年09月 7日 日航機による還啓
1969年04月 21日 アンカレジ市と姉妹都市の提携調印式
1970年08月 17日 米軍、千歳クマ基地を来年6月30日全面閉鎖、日本人従業員を来年3月末までに解雇と発表
10月 ターミナルビル3階建て増改築竣功
12月 28日 東側滑走路、国内3番目の3,000m延伸
1971年03月 31日 離別式。クマ基地閉鎖(跡地は米空軍に引継)。日本人1000人規模の離職者
06月 1日 地元町内会有志が滑走路南方への延長、公共施設移転反対の署名運動を始める
1972年 米軍、第1地区でOTH(超水平)レーダー運用開始
02月 1日 飛行場面監視レーダー(ASDE)運用開始
06月 2日 東側主滑走路拡幅工事のため閉鎖(45m→60m・B747就航予定のため)
12月 20日 東側主滑走路拡幅工事完了
1973年08月 29日 防衛庁、滑走路を南方に2,000m移動する方針と1期工事として1,000m移動を発表
09月 17日 南方移動期成会解散
1974年09月 30日 第2種空港指定
12月 1日 東亜国内航空、丘珠から千歳に拠点移す(乗継利便性向上、ジェット化のため)
1975年03月 OTHレーダー運用停止
06月 30日 米軍千歳基地完全閉鎖
09月 2日 新千歳空港のエプロン、誘導路工事着工
11月 10日 新千歳空港の工事安全祈願祭、着工祝賀会
1976年10月 5日 西側副滑走路のオーバーレイ舗装工事(主滑走路閉鎖、ワイドボディ機に対応するため)
12月 第2到着ターミナルビル完成
1977年07月 末日、西側副滑走路のオーバーレイ舗装工事終了
12月 23日 滑走路の南方移動第1期工事竣工(1,000m)
1978年06月 1日 主滑走路閉鎖
11月 30日 南方移動関連の全工事終了
12月 1日 主滑走路供用再開
1979年03月 19日 飛行管理情報システム(FADP)運用開始
12月 市長、市議会にて残る1,000m移動問題の棚上げを示唆
1980年07月 1日 ターミナルレーダー情報処理システム(ARTS)運用開始
1981年07月 第3ビル竣功
1982年03月 30日 管制塔空域監視レーダー(ASR)運用開始
1987年 政府、政府専用機の導入決定
1988年06月 20日 新管制塔(70.6m 世界第二位・当時)、国内初の東西両面管制の運用開始
07月 20日 新千歳A滑走路供用開始。新千歳空港開港(千歳空港ターミナルビルは92年6月末まで使用)
1989年03月 22日 来道中の北海道開発政務次官「政府専用機の駐機場所は新千歳が有望」と発言
1991年02月 総理府に政府専用機準備室が設けられる
03月 28日 新千歳空港内に政府専用機用格納庫着工
11月 14日 政府専用1号機、空自千歳飛行場に到着(2号機は20日到着)
1992年04月 10日 政府専用機、防衛庁に移管。臨時特別航空輸送隊編成
07月 23日 政府専用機用格納庫完成
1993年02月 政府専用機初運航実施
06月 1日 特別航空輸送隊第701飛行隊編成
2014年08月 政府専用機、B777-300ERを後継機に選定
2016年07月 29日 政府専用機後継B777-300ER初号機、エバレット工場にて進空
この記事の資料:
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」
新千歳市史通史編上巻
新千歳市史通史編下巻
ここまで来たら、F-15を見たいって思いますよね。
札幌へ向かう電車の中からチラッと政府専用機を見ましたよ。
by Takashi (2013-09-12 20:03)
皆様 コメント、nice! ありがとうございます。m(_ _)m
■Takashiさん
Σ(゚Д゚;)政府専用機! オイラまだ見たことないんですよ。
いーなーいーなーいーなーいーなーいーなーいーなーいーなーいー
by とり (2013-09-13 05:31)