第一航空学校跡地 [├国内の空港、飛行場]
2019年7月、2021年10月訪問 2021/10更新
1/25000「船橋」昭和7年要修・昭和7.10.30発行「今昔マップ on the web」より作成(2枚とも)。
2021/9/4追記:ここは陸地ではなく「干潟」の飛行場ということが分かったため、記事と作図を大幅に修正しました。大変申し訳ありません。
千葉県船橋市にあった「第一航空学校」。
元々は横浜市鶴見区潮田にあったのですが、こちらに引っ越してきました(下記リンク参照)。
横浜市で飛行場として使用していたのは、出来たてほやほやの埋立地でした。
埋め立てたばかりですぐに建物建設ができないため、
当初から「地盤が締まるまでの3年間だけ」という条件で飛行場として使っていたのでした。
鶴見歴史の会機関誌「郷土つるみ」第58号では、約束の3年を経た後について、次のように記しています。
大正十五年二月、千葉県船橋の干潟飛行場に移転した。
これは潮田で活動を開始する前の約束だから、すでに手を打ってあった。
船橋での発展はさらに目ざましいものがあったが、
ここでは経営者・宗里悦三郎(ママ)のその後について簡単に書き留めておきたい。
船橋へ移ってから九年後の昭和九年五月二日、四十八歳の若さで病没した。
それまでに第一航空学校は潮田からはじまって四十一人の練習生を卒業させ、
現在在籍者九人を合わせて五十人の技術者を養成した。
その後、昭和十四年に戦争の拡大と共に民間航空は解散を余儀なくされるのだが、
それまでは未亡人宗里そのを中心に団結して航空事業を支えたのである。
ということで横浜から船橋に移った訳ですが、船橋のドコに移ったのか、具体的な位置が長いこと不明でした。
上に貼った今昔マップに「飛行學校」とありますね。
「郷土つるみ」によりますと、船橋の飛行学校は大正15年~昭和14年までありました。
今昔マップは「昭和7年要修」なので、飛行學校開設期間と重なっています。
しかも宗里氏本人がご存命中に発行された地図ということに。
実は当時の東京湾沿岸には、飛行学校が幾つもありました。
今昔マップには校名の記載がなく、ただ「飛行學校」とだけ記されているので、
もしかしたら、宗里氏の第一航空学校とは別のものである可能性もあります。
この件については、
WEB版 航空と文化/空のパイオニア・飯沼金太郎と亜細亜航空学校(下記リンク参照)の中で、
「昭和11年頃の東京湾沿岸には」として、当時あった飛行学校が列挙されているのですが、
船橋市で挙げられているは、当第一航空学校だけでした。
また、前述の通り当飛行学校は大正15年~昭和14年まであったのですが、
今昔マップは簡単に年代の切り替えができ、当地では大正6年測図と、昭和20年部修の地図が閲覧できます。
年代的に、飛行学校開設前と、閉鎖後になりますが、どちらの地図にも「飛行学校」はでてきません。
タイミング合ってます。
国立国会図書館デジタルコレクションに「報知年鑑.大正16年」があり、
この中に、本邦民間飛行場調〔大正15.8〕として27の民間飛行場の一覧がありました。
当飛行場関係箇所を引用させていただきます(下記リンク参照)。
使用者 宗里悦太郎
種類 陸上
位置 千葉縣東葛飾郡船橋町五日市字中の島
面積 275,450坪
ここで位置のところ、船橋町に続けて「五日市字中の島」とあります。
現在のグーグルマップには、「船橋市五日市」は出てこないんですが、
江戸時代には、海老川を挟んで東側では5の日に市が開かれたことから、五日市村と呼ばれており、
これが現在の宮本になったのだそうです(グーグルマップ作図の場所は宮本三丁目なので合ってる)。
中の島については…分かりませんでした_| ̄|○ il||li
まとめますと-
・昭和11年頃、船橋にあった飛行学校は当校のみであった
・当飛行学校開設期間と、地図記載/不記載のタイミングが合っている
・報知年鑑情報の住所、面積情報と(ほぼ)合致する
ということになり、今昔マップに示されている「飛行學校」とは、時期的に、そして住所的に考えて、
宗里氏の第一航空学校でほぼ間違いないだろう。ということになります。
それから面積のところ、275,450坪とあり、これは91.06haに相当します。
そしてここからが問題なのですが、
冒頭で引用した「郷土つるみ」第58号にはこうあります。
「大正十五年二月、千葉県船橋の干潟飛行場に移転した。」
ハッキリと船橋の"干潟"飛行場と記しています。
ところが、現地にお邪魔した2019年頃のオイラには、干潟が飛行場になるという発想がありませんでした。
そのため、「飛行學校」と記されている周辺の更地っぽい部分が約9haであることから、
「ここが飛行場だったに違いない」と思い込み、作図して記事にしていたのでした。
そもそも「報知年鑑」には面積が275,450坪≒91.06ha とあるのに、作図した面積は約9haですから、
飛行場として使えそうな更地の面積は、資料にある十分の一だったのです。
そして「飛行学校」と記されている周辺にはオイラの見る限り、
91haもの飛行場敷地があるようにはとても考えられません。
その後、黎明期には東京湾、鹿児島で干潟を飛行場として使用していた実例があることを知り、
今回の修正に至りました。
約2年間間違い情報を載せておりました。
大変申し訳ありませんでしたm(_ _)m
改めて今昔マップで「飛行學校」とある位置の干潟を囲ってみると、
92.4haになりました(先頭のグーグルマップ黄色のポリゴン)。
これはほぼ「報知年鑑」に出てくる面積に等しいため、恐らくこの部分を飛行場として使用していたのだと思います。
赤マーカー地点。
ということで撮り直してきました。
当時は干潟だった場所が今ではこんな感じです。
千葉県・第一航空学校跡地
第一航空学校 データ
設置管理者:宗里悦太郎
種 別:陸上飛行場
所在地:千葉縣東葛飾郡船橋町五日市字中の島(現・船橋市宮本3丁目)
座 標:35°40'57.8"N 139°59'20.7"E
着陸帯:1,600mx500m(不定形)
(座標、着陸帯長さはグーグルアースから)
沿革
1926年02月 横浜より移転
1934年05月 2日 宗里氏病没
1939年 解散
関連サイト:
WEB版 航空と文化/空のパイオニア・飯沼金太郎と亜細亜航空学校■
国立国会図書館デジタルコレクション/報知年鑑.大正16年(225コマ)■
埼玉県、千葉県を周った話■
宗里飛行場(第一航空学校)跡地■
この記事の資料:
鶴見歴史の会機関誌「郷土つるみ」第58号
■an-kazuさん
nice! ありがとうございます。m(_ _)m
by とり (2019-08-08 19:46)
埋め立て地の範囲ってどれくらいだったのでしょうね。
千葉街道が敷地の中を通るとこが気になります。
ウィキペディアで千葉街道を検索したら
江戸時代、大神宮下で分岐し佐倉街道と成田街道に分岐とありました。
ちょうど学校跡地の予想敷地の端にあたりません?
埋立ての境界域がどこかわかれば、敷地がどこだか確定しそうですよね(≧▽≦)
by 鹿児島のこういち (2019-08-09 09:25)
■鹿児島のこういちさん
Wikiまで調べてくだすったのですねm(_ _)m
この記事の中で「埋立地」と書いているのは、当船橋市のことではなく、
船橋市に移転する前の、神奈川県にあった飛行学校敷地のことです。
分かり難くてすみません~
ざっと調べた範囲では、船橋市の埋め立ては戦後始まりました。
国土地理院では、船橋の明治36年測量の地図が閲覧できますが、
飛行学校敷地周辺の地割は、昭和7年の地図と変化ありませんでした。
http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1439258&isDetail=false
by とり (2019-08-10 08:13)