八丈島空港(第一八丈島航空基地) [├国内の空港、飛行場]
2013年7月訪問 2021/11更新
撮影年月日1949/03/25(昭24)(USA M1250 52)■ 終戦から4年。放置されたままの飛行場
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
撮影年月日1965/07/16(昭40)(KT656X C12 4)■ 第三種空港化から3年後。エプロンは南側
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
SkyVector.com
東京都八丈町にある「八丈島空港」。
元々は海軍の飛行場でした。
■防衛研究所収蔵資料:海軍航空基地現状表(内地の部)
では、基地名として、「第一八丈島」、「第二八丈島」、「第三八丈島」という項目が並んでいます。
■防衛研究所収蔵資料:航空基地-115 海軍航空基地位置図
には、「八丈島航空基地」として八丈島全図を示した1/50,000の青図があり、
ここで現空港の位置にある飛行場には「第一」と記されています。
それで当記事ではこれらの資料に則り、現空港の位置にある飛行場のことを、
「第一八丈島航空基地」若しくは「第一」として話を進めさせていただきます。
先頭のグーグルマップは、上に貼った1949年の航空写真から作図しました。
オイラの主観で線を引いたものですのでご了承くださいませ。
ところで1949年の航空写真、よく見ると2本の滑走路があるように見えます。
後日自宅に戻ってから八丈島町役場の教育課の方に教えて頂いたのですが、
「第一」は途中で設計変更が行われたのだそうです。
どうして途中で造り直しをしたかについては、「岩盤、風向きの等の問題が考えられる」。とのことでした。
そうお聞きして改めて航空写真を眺めてみると、2本の滑走路のうち北側の滑走路は、
東側はキレイな線が引けている(白矢印部分)のに対し、
西側では真っ直ぐな線が引けていない箇所(赤矢印部分)があります。
誘導路も途中で作るのを止めている感じですね。
造り直しの理由として、岩盤、風向きを挙げて頂いたのですが、
グーグルアースでそれぞれの滑走路の方位を測ってみたところ、
北側:71.12°
南側:64.06°
となり、その差は7.06°でした。
日本軍は飛行場を建設する際、地元気象台、測候所に過去数十年分の風向風速をはじめ、
気温、天気等詳細なデータ提出を求め、実際に現地でも観測を実施した記録があります。
日本気象学会によれば、八丈島測候所は明治39年(1906年)創立で、
以来一日も欠く事なく気象観測が継続されている。とありました。
「第一」で誘導路や滑走路の大規模な建設が行われたのは1944年なので、
この時点で既に40年近い気象データがあり、建設時にはこれを参照したはずです。
にもかかわらず、滑走路、誘導路共にせっかくここまで造ったところで、
風向きが理由で僅か7°差で新たに滑走路、誘導路を作り直すというのは、ちょっと考えられません。
横風用滑走路ならもっと角度つけますしね。
オイラとしましては、岩盤等、地面の問題だったのではないかと。
赤矢印部分で岩盤等どうにもならない問題が発生したため、この部分を回避せざるを得ず、
既に造成の進んでいる滑走路東側部分を極力活用しつつ造り直しをしたのではないか。と思いました。
理由がなんにせよ、せっかくここまで造ったのに作り直したのは非常に勿体ないのですが、
現在空港で使用している滑走路は、途中で中断してしまった部分を仕上げる形で造られていますので、
戦後から現在まで長い目で見れば、当時の労力は決して無駄ではなかったんじゃないかと。
北側の誘導路もかなりの部分がそのまま道路として現在も使用されています。
また当時滑走路だった部分は、着陸帯や不思議な出っ張りとして今日でもそのまま残っています。
戦中に完成した滑走路を戦後そのまま拡張整備する。というケースは全国で広く見られるますが、
わざわざ中断してしまった部分の工事を再開する形で現在の空港が造られてますから、
問題さえクリアできれば、当初案の方がやっぱり優れていた。ということなんでしょうね。
それからこれも教育課の方に教えて頂いたのですが、
当時の飛行場の掩体壕の基礎だけ現存しているのだそうで、
民家の畑にあり、地元でもあまり知られていないのだそうです。
誘導路上にポコポコある掩体壕を上に貼った1949年の航空写真、ちゃんと実際の写真でよーく見ると、
確かに壁のようなものが見える箇所があります。
このいずれかが基礎だけ現存しているのかも。
ということで、作り直し案件についてぐだぐだ述べましたが、
ここからは「第一」建設のいきさつについてです。
前記事で書いた通り、「八丈島の戦史」によれば、
八丈島では1921年(大正10年)飛行場用地が決まり、翌年にかけて用地買収、測量が行われ、
1923年(大正12年)には2機の飛行機が飛来しました。
この八丈島の元祖飛行場が現空港の北東にある元祖飛行場だったのですが、
後に海軍では「もっと大きな飛行場を」という話が持ち上がります。
この件に関連し、アジ歴で昭和二年五月十四日付の日米新聞が閲覧できます(下記リンク参照)。
八丈島に大飛行場
海軍省の調査完了す
海軍当局は兼ねてから八丈島に大飛行場を設置する為め調査中の處
今回完了したるを以て近く準備に取りかかる筈
1921年(大正10年)、飛行場用地が三根に決定してから6年後の1927年(昭和2年)、
「大飛行場の調査が完了」とあります。
実は、元祖飛行場と「第一」の関係性、そして「第一」がいつ建設されたのか、
ググってみてもハッキリせず、当ブログでも明確にできていなかったのですが、
「はちじょう2020 東京都八丈町勢要覧」にはこうありました(下記リンク参照)。
現在供用されている八丈島空港は、
元々は、1927(昭和2)年に海軍飛行場として建設され、
1944(昭和19)年に増設された場所にあり、
特攻機が飛び立ったこともある。
このように、日米新聞で「昭和2年に海軍大飛行場の調査終了」とあり、
「はちじょう2020」には「現空港は元々昭和2年に海軍飛行場として建設」とあることから、
現空港の位置に海軍飛行場が建設されたのは、1927年(昭和2年)と思います。
1927年(昭和2年)5月に大飛行場の調査が終わった訳ですが、
同年9月28付の日米新聞にはこうあります(下記リンク参照)。
八丈島の飛行場
二十九日落成式
横須賀鎮守府司令長官以下駆逐艦灘風で参列
横須賀飛行隊も参加
八丈島の飛行場落成式は二十九日挙行する事となり横須賀鎮守府
司令長官以下二十八日駆逐艦灘風にて出発の予定であるが
横須賀飛行隊からも数台の飛行機参加の筈である
調査終了から僅か4か月後にはもう落成式!!(@Д@)
たった4ヵ月で落成式ですから、「大飛行場」と言いつつ、
1949年の航空写真で確認できるものよりはかなり小規模だったんでしょうね。
沿革にまとめましたが、飛行場完成後には横須賀鎮守府管轄の航空隊の飛来がありました。
こうして元祖飛行場の南西に新しくて大きな飛行場が完成したことにより、
いつからそう呼ばれることになったのか不明ですが、
元祖飛行場は後に軍が作成文書で「旧飛行場」と称されるようになりました。
アジ歴には「海軍用地使用の件」として、こんな文書が残っています(下記リンク参照)。
昭和四年一月二十一日
静岡県知事
横須賀鎮守府司令長官殿
「八丈島飛行場使用方依頼の件」
飛行機に依る魚群の発見捜査試験
先年ご承認を経て伊豆八丈島飛行場を根拠とし実施したところ、成績相当
見るべきもの有ったため、本年もまた先年同様実施したいので、
昭和四年四月一日から八月十日までの使用期間をご承認いただきたい
また、使用機を格納すべき一時的仮小屋を建設したいので、これも併せて
ご承認いただきたい
昭和四年一月二十九日
横須賀鎮守府司令長官
静岡県知事殿
海軍に於て支障ある場合は使用を停止すること
仮小屋其の他の設備については、事前に位置、構造等承認を受けること
使用地を破損したる場合は海軍の指示に従い速やかに無償修補すること
使用終了の際は直ちに其の旨通報の通報のこと
静岡県が魚群探査のために飛行場使用の許可申請をしていたんですね。
「先年も実施したところ~」とある通り、「伊豆諸島東京移管百年史」には、
「昭和3年7月7日、静岡県水産試験場魚群偵察機白竜号飛来」とあります。
完成翌年にはもうこんな使い方までしていたんですね。
ここから時は流れ、一気の終戦前の話になります。
Aircraft Action Report No. 1 1945/02/16 : Report No. 2-d(36): USS Hornet, USSBS Index Section 7(国立国会図書館ウェブサイトから転載)■
(この地図はPUTINさんから教えて頂きました。PUTINさんありがとうございましたm(_ _)m )
こちらは(前記事の使い回しですが)1945年2月16日実施の米軍戦闘報告書に添付されている地図。
つまりは米軍側が掴んでいた八丈島の飛行場情報です。
旧飛行場も、そして「第一」も、その存在をしっかり把握されていたのかと思いきゃ、
旧飛行場が黒塗りで"AIRSTRIP"とあるのに対し、
「第一」(と、西海岸側の飛行場)は"POSSIBLE AIRSTRIPS" なんですね。
「使用可能」とか「着陸場の可能性」とかそういう意味なんでしょうか。
旧飛行場の後に「もっと大飛行場を」ということで「第一」が造られ、
後の記事で書きますが、末期に旧飛行場は分散置場というのが主任務と化し、
不時着程度というのが実態でしたから、本当はむしろ「第一」のがメインのはずなんですが。。。
それから、この地図が添付された報告書に関連する話なんですが。
この戦闘報告書は、空母ホーネットを発艦した航空隊が作成したもので、
1コマ目に Take off:Date 16 February 1945
とあることから、前述の通り空襲の実施日は 1945年2月16日 で間違いないのだと思います。
オイラは上手く読み取れないんですが、「航空施設付近に爆弾を投下した」的な内容がレポートされています。
一方、「伊豆諸島東京移管百年史」には、「三根飛行場付近に数個爆弾が投下される」とあり、
日付は、1945年2月15日 とあります。
単なる日付のミスか、連日空襲があったのか不明ですが、
内容的には「飛行場付近に爆弾投下」で同じとなっております。
「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08011054500、八丈島警備隊 引渡目録 (防衛省防衛研究所)」
これは、 アジ歴/「八丈島警備隊 兵器軍需品引渡目録」に添付してある地図(下記リンク参照)です。
先のものが米軍から見た八丈島の飛行場であるのに対し、こちらの図は日本側の八丈島飛行場情報。
第二復員局作成のもので、日本側から米軍に渡した資料のため、日本語と英語が混在しています。
それぞれの飛行場が "AIR FIELD" 、"FORMER AIR FIELD"として区別されていますね。
同資料内では両飛行場について、日本語では「飛行場」、「旧飛行場」と区別されています。
詳しくは沿革にまとめましたが、荒れたままになっていた飛行場に終戦から7年後に朝日新聞機の飛来があり、
その後村営飛行場開設を経て徐々に拡張整備が進み、現在に至ります。
ターミナル東側にある「八丈島空港・航空路監視レーダー事務所」と、
「東京愛らんどシャトルターミナル」
空港駐車場からもエプロンが良く見えました。
ターミナル内部
ターミナル内部
展望デッキ入り口
デッキから見た左側
正面
右側。
恵まれた撮影環境ですね。
東京都・八丈島空港
ビュー:☆☆☆★★
展望デッキ無料。フェンス低く撮影の障害無し
施設:☆☆☆★★
こぢんまりとした分かりやすいターミナル。駐車場無料
マニア度:☆★★★★
空港外周に撮影に適した場所探せず。八丈富士中腹から空港全体が見下ろせる
総合:☆☆★★★
・第一八丈島航空基地 データ
設置管理者:海軍
種 別:陸上飛行場
滑走路:
1,200mx200m(06/28)
1,500mx100m(07/25)→建設中止
(滑走路長さはNO NAMEさん、防衛研究所資料から。方位はグーグルアースから)
・八丈島空港 データ
設置管理者:東京都知事
3レター:HAC
4レター:RJTH
空港種別:地方管理空港
運用時間:8:00-18:00(10時間)
所在地:東京都八丈支庁管内八丈町
標 点:N33°06′54″E139°47′09″
標 高:91.7m
面 積:76ha
滑走路:2,000m×45m
磁方位:08/26
エプロン(バース数) 小型ジェット用2、小型機用1
航空管制周波数
・航空路管制
東京コントロール(関東南Bセクター) 125.90 134.15
・飛行場アドバイザリー
八丈島レディオ 118.70 126.20
沿革(「伊豆諸島東京移管百年史」、「八丈島の戦史」、「全国空港ウォッチングガイド」から)
1927年05月 14日付の日米新聞にて「海軍、大飛行場の調査終了」と報じられる
09月 28付の日米新聞にて「本日落成式」と報じられる
10月 04日 八丈島海軍飛行場開場式。飛行機2機と飛行艇初着陸。島民挙げて歓迎
飛行場は三根村の無償管理下に置かれる
以来毎年のように横須賀鎮守府管轄化の各航空隊が飛来し発着練習、哨戒演習実施
1928年07月 07日 静岡県水産試験場魚群偵察飛行機白竜号飛来
1931年11月 22日 飛行場拡張工事落成祝賀会
1932年04月 19日 館山航空隊基地約100名来島。翌日雷鳴の中飛行演習敢行
1機は着水して神湊に引き揚げ。21日演習中止
1934年02月 22日 館山航空隊所属機、神湊沖に墜落。搭乗員3名救出
03月 22日 横須賀機6機飛来。うち1機が三根荒地付近に墜落
1936年01月 18日 23cmの大雪。三小では児童を飛行場に連れて行き雪合戦
10月 18日 青ヶ島近海に海軍機墜落
1937年 飛行場は開設以来三根村の無償管理下にあったが、この年から横須賀海軍航空隊の直接管理化に
1943年11月 この頃海軍は新飛行場の設定を急いでいた
1944年03月 第20野戦飛行場設定隊が竹芝から船で八丈へ
大賀村の村立病院(現七島信用組合のあたり)を本部として来島翌日から作業開始
昼夜兼行で作業した結果、半年後には滑走路、エンタイゴウ、誘導路既成
1945年02月 15日 三根飛行場付近に数個爆弾が投下される
1952年 朝日新聞社の飛行機朝風が軍が設けて荒れたままになっていた八丈飛行場に着陸
三根小の児童たちが珍しさの余り見学
1954年03月 村営場外離着陸場として開設
04月 青木航空の東京不定期便認可
05月 05日 朝日新聞社機飛来がきっかけとなり青木航空が正式に就航開始
1955年04月 日ペリも就航(DH104/DH114型機)
1958年12月 都が飛行場建設に着手。景気上昇に伴い、観光地として脚光を浴びるようになったため
1962年05月 01日 第三種空港として供用開始(滑走路1,200m)。全日空、藤田航空東京線開設
1963年08月 18日 藤田航空ヘロン機、八丈富士に激突。乗員3人、乗客16人全員死亡
事故後藤田航空は全日空に吸収され、11月から東京~八丈島は全日空専用路線となる
(青木航空→1956年、日本遊覧に社名変更→1960年、藤田航空に改名)
1967年07月 飛行場変更(誘導路60mx12.5m、エプロン8,400㎡、飛行場347,430㎡)供用開始
1968年10月 飛行場変更(誘導路60mx18m、エプロン10,628㎡)供用開始
1970年05月 全日空、名古屋線開設(F-27型機)
1972年06月 1,500m滑走路供用開始
07月 航空灯火供用開始(進入角指示灯、滑走路末端識別灯)
1973年09月 航空灯火供用開始(飛行場灯台、進入路指示灯、滑走路灯、滑走路末端灯、滑走路距離灯、
過走帯灯、誘導路灯、風向灯)
1980年03月 ILS供用開始
1982年03月 ターミナルビル完成
04月 1,800m滑走路供用開始(誘導路85mx23m、エプロン15,300㎡、飛行場703,778㎡)、
航空灯火(滑走路中心線灯、誘導路中心線灯)供用開始、全日空737型機就航(ジェット化)
1985年12月 全日空名古屋線休止
1988年05月 全日空からエアーニッポンにYS-11便の路線移管
1989年04月 全日空からエアーニッポンに737型機の路線移管
1990年06月 航空灯火変更(VASIS→PAPI)供用開始
1993年08月 東京愛らんどシャトル就航開始
2000年 エアーニッポンのボーイング737-400型機(アイランドドルフィン)が八丈島路線専用として就航
2004年09月 2,000m滑走路供用開始(飛行場763,241㎡)
2005年10月 条件付で料金が往復で約4,000円引き下げ
羽田線1日4往復のうち、1往復が大島空港経由に変更
2009年09月 30日 八丈島~大島線運休
2013年02月 07日 管制保安業務及び事務所業務が2013年4月1日付で、羽田へ移管告示
これに伴い、八丈島空港はレディオ空港からリモート空港へと移行
遠隔対空通信施設(RAG)は東京飛行援助センター(FSC)の管轄
関連サイト:
公式サイト■
東京都港湾局/八丈島空港■
国土交通省東京航空局/八丈島空港■
アジ歴/飛行場落成式■
アジ歴/八丈島に大飛行場(3p)■
はちじょう2020 東京都八丈町勢要覧■
アジ歴/海軍用地使用の件■
アジ歴/八丈島警備隊 兵器軍需品引渡目録(6コマ)■
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この記事の資料:
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