ハネダエアベース(1945~1952) [├国内の空港、飛行場]
2016年3月訪問 2022/1更新
撮影年月日 1946/04/09(昭21)(USA M99-A-5 35)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
前記事の続きです。
前述の通り、日本飛行学校(と対岸に建設された「三本葭飛行場」)が開設された羽田の地は、
10年の空白期を経て再び日の目を見ることとなり、1931年に「東京羽田飛行場」として再スタートを切りました。
その後拡張、名称の変更を遂げるのですが、終戦と共に米軍に接収されてしまいます。
米軍は海老取川以東を強制立ち退きにしました。
大田区のサイトによれば、約3,000人が強制退去させられたのだそうです。
上の写真、終戦の翌年1946年のものですが、大規模な造成工事を行っている様子がよく分かりますね。
「東京飛行場」時代の十字型滑走路の痕跡が辛うじて残るのみで、
「東京羽田飛行場」時代の300m滑走路は、もうすっかり塗り潰されてしまいました(;´Д⊂)
それでも、格納庫等関連施設群、鴨猟場の辺りはほとんどそのまま残っています。
うんと内陸部である群馬県の帝国飛行協会所有の小さな小さな飛行場でさえ、
わざわざ飛んで行って機銃掃射で徹底的に壊滅させたのからすると、
帝都海軍飛行場の建物群がキレイな状態で終戦を迎えたのは、非常に不思議です。
初めから占領後に使用するつもりだったのでしょうか。
撮影年月日 1947/07/24(昭22)(USA M376-No2 7)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
そして終戦から2年後。こんなことになっておりますΣ(゚Д゚;)
滑走路右下が見切れてますが、この年は羽田の写真が沢山撮られているものの、全体を映したものがないんですよね^^;
日本海軍の「東京飛行場」は、当時の国内の他の飛行場と比較しても特別大きなものではなかったのですが、
一気に大規模化したのもさることながら、どこまでも続く細長い滑走路、平行誘導路、
滑走路端にペイントされたランウェイナンバー等、
すっかり現代の飛行場かと見紛うばかりの変貌ぶりです。
戦勝国主導の"グローバルスタンダード"ってヤツですね。
蛇足ですが、欧米列強は戦後の航空界の覇権を握るべく、
時に協調し、時に相手を出し抜こうと極秘裏に事を進め、
既に終戦前の早い時期から、あらゆる分野で猛烈な勢いで次々手を打っていました。
この写真で見る限り、建物群は戦時中のものをそのまま流用しているケースが多いようですが、
三角形の鴨猟場は潰されて駐機場になってしまいました。
日本海軍当時の滑走路はもう跡形もありません。
鴨猟場の南側の地区もすっかりエアペース化してしまいましたね。
■「全国空港ウォッチングガイド」によれば1946年6月にはもう工事が完了しており、
工事内容としては、2,100mと1,650mという、2本のアスファルト舗装滑走路新設、
エプロン、駐機場、管制塔、事務所、宿舎等の建設が含まれています。
一部完全に海面だった部分を埋め立てての飛行場造成ですから凄いです(@Д@)
…なんだか、まざまざと見せつけられる思いです。
■「羽田空港 D 滑走路建設に込め られた 地盤工学の知恵と技術」
というサイトに非常に興味深い記事がありました(下記リンク参照)。
要約しますと、終戦まで羽田飛行場は「京浜運河計画」の関係で拡張ができず、東京の空の玄関たる国際空港は、
現在の夢の島に建設予定の「東京飛行場」が大本命であった、というものです。
「京浜運河計画」は1911年8月に初めて認可され、紆余曲折を経た後、
1939年に東京府は工費4,500万円をもって京浜運河開削と892haの臨海工業地帯用の埋め立て造成を着工しました。
計画の全体についてはググって頂くとして、この「京浜運河」は、
できたばかりの羽田飛行場の沖をグルリと取り囲むように計画されていたため、これ以上の拡張に制約がついていました。
羽田の飛行場の東側に島がありましたが、羽田飛行場とこの島を隔てた東貫澪も、
「京浜運河計画」の運河として設定されていました。
また、この島の更に東側も「京浜運河計画」の太い運河として設定されています。
この 「京浜運河計画」は、羽田空港沖合展開後の現在のABCの3滑走路全てを包含し、
D滑走路だけが運河の範囲外という規模のものでした(一部引っかかってるけど)。
要するに、羽田飛行場には海側に拡張の余地が全くと言って良い程ありませんでした。
飛行場などよりも、運河と臨海工業用地の埋め立て事業が優先された訳で、これについて同サイトでは、
「当時は工業の発展が強く求められた時代背景がある」と解説されています。
この運河計画のせいで羽田は拡張の余地がなく、一方で航空機の大型化は飛行場の面積の拡大を必要としました。
加えて羽田は都心から15kmもあったことから、
より都心に近接した砂町(現・夢の島)に大規模な飛行場が計画されました。
「15km(も)離れている」という感覚が、「…エ?」という感じなんですが、
羽田から15kmだと、皇居の北側の辺りになります。
この場所まで砂町からだと9kmなので、確かに近いです。
ところが連合軍は羽田を接収してこの 「京浜運河計画」の制限をいとも簡単にとりはらい、
上の航空写真にある通り、羽田と東側の島を隔てた東貫澪をあっさりと埋立てて滑走路を建設してしまいました。
これにより計画されていた運河計画は崩れてしまい、羽田の飛行場面積は一挙に3.5倍に拡張したのでした。
終戦と共に即接収され、大規模拡張を受けた「ハネダエアベース」は、1958年に全面返還されます。
それでも、それまでの間米軍の軍用機で飛行場が占拠されていたのかというとそんなことはなく、沿革にまとめましたが、
早くも1947年にあのパンナムが世界一周路線を開設し、コンステレーションが飛来したのを皮切りに、
ノースウエスト、フィリピン航空、カナダ太平洋航空、英国海外航空、スカンジナビア航空、
タイ太平洋航空等の航空会社が、コニーの他、DC-4、DC-6等で続々と飛来し、路線開設してゆきます。
日本も徐々に制限が解除され、1951年に日本航空がチャーター機運用を開始、
その後定期便運航路線を徐々に開設してゆき、
ついに1952年には米軍より運営移管を受け、運輸省所管の「東京国際空港」に名称変更することになります。
「東京国際空港」については、次の記事で。
東京都・ハネダエアベース
設置管理者:米軍
種 別:軍用
所在地:東京都大田区
座 標:N35°33′19″E139°45′43″
面 積:257.4ha
A滑走路:2,100m×45m(15/33)
B滑走路:1,650m×45m(04/22)
(座標はグーグルアースから)
沿革
1945年09月 接収。拡張工事。
1946年06月 工事完了。2,100m、1,650m滑走路新設、エプロン、駐機場、管制塔、事務所、宿舎等。米1307部隊駐屯
1947年06月 パンナム、世界一周路線開設。コンステレーション到着
07月 ノースウエスト航空、DC-4で乗り入れ
1949年01月 フィリピン航空、DC-6で乗り入れ
09月 カナダ太平洋航空、DC-4で乗り入れ
10月 パンナム、サンフランシスコ線開設
11月 英国海外航空、乗り入れ
1951年04月 スカンジナビア航空、DC-6Bで乗り入れ
05月 タイ太平洋航空、DC-4で乗り入れ
08月 日本航空がフィリピン航空からチャーターしたDC-3「金星」到着
10月 日本航空、ノースウエスト委託運航で戦後初の定期運航開始
1番機はマーチン202。東京~大阪~福岡線就航
11月 日本航空、札幌線、大阪線開設
12月 KLM、コンステレーションで南回り欧州線開設。国内旅客用ターミナル完成。
民航空運公司(台湾)、DC-4で乗り入れ
1952年06月 カンタス航空、DC-4で乗り入れ
07月 米軍より運営移管。滑走路2,133m、1,676m。東京国際空港に名称変更。運輸省所管となる。
関連サイト:
「序 調査の目的と範囲-大田区ホームページ」(pdf)■
羽田空港 D 滑走路建設に込め られた 地盤工学の知恵と技術■
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この記事の資料:
「日本民間航空史話」
「全国空港ウォッチングガイド」
「東京100km圏の戦時飛行場 関東飛行場の地歴図集」
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