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広島市東練兵場着陸場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2015年10月訪問 2021/12更新  


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1/25000「広島」大正14年測図「今昔マップ on the web」より作成
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撮影年月日 1945/07/25(昭20)(USA 5M335 9534) 

出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 


広島県広島市東区、広島駅北側に広がっていた「広島市東練兵場」。

この練兵場内には、時期は不明なのですが着陸場が設定されており、

広島県での初飛行も当練兵場でした。

■「南国イカロス記 かごしま民間航空史」50p には、その時の様子について 次のようにありました。

 地方巡回飛行がはじまったのは、それから間もなくのことである。興行催地の選定と交渉は、
すべて鳥飼繁三郎支配人によって行われた。鳥飼は、自分の郷里・広島県を皮切りに、九州、四
国での興行を取り決めてきた。奈良原式4号鳳号は分解して貨車に積み込まれ、奈良原三次は福
島ヨネを同伴し奈良原飛行団の人たちと共に貨客車連結の客車におさまり、稲毛駅を出発、西下
した。
 広島に着いたのは十月二十七日である。会場の東練兵場で鳳号を組み立て、白戸栄之助が試験
飛行をした。ところが不整地のため、着陸のときでこぼこした地面に足をとられ、脚支柱を折り、
プロペラの尖端をいためてしまった。考えてみると、白戸栄之助は整備された所沢陸軍飛行場で
育ち、障碍物のない稲毛飛行場でしか飛んでいないのである。むろん練兵場慣れをしていたとこ
ろで、こんな事故を完全に防ぐ手だてはなかっただろう。
 白戸栄之助は慎重を期して自在に飛ぶことを避け、練兵場の東端から西端へ、高度一〇〇㍍
で直線往復飛行のみを行い、着陸地点をあらかじめ調べ、同一地点でのみ離着陸を行うことにし
た。

 鳳号の広島での興行第一日目は、大へんな人出であった。なんといっ
ても広島県人にとって、飛べる飛行機を見るのははじめてだったので
ある。一〇〇㍍の高度を保って、練兵場の東端から西端へ直線往復飛行をするだけだというのに、
熱狂的に拍手に迎えられて一行は戸惑い気味でさえあった。しかも初日に同乗した中国新聞の記
者が、一㌻全面をさいて書き立てたので、さらに人気がたかまった。
 第二日目、鳥飼繁三郎が十五、六歳のイガグリ頭の少年と、その父親をつれてきて奈良原三次
はじめ飛行団の人たちに紹介した。鳥飼の実兄・山縣百太郎と、その長男・豊太郎であった。豊
太郎のたっての願いで鳳号の同乗飛行が許され、東端から西端へ一往復した。豊太郎は「将来は
飛行家になりたいと思います」とハキハキと上気した面持ちでいった。その山縣豊太郎は三年後
に上京し、折から伊藤飛行機研究所を設立した伊藤音次郎の、門下生第1号になるのである。し
かもそれから三年後の大正八年五月十日、山縣豊太郎は東京奠都(てんと)五十年記念飛行大会で、
洲崎埋立地上空において民間初の二回連続宙返りに成功し、天才飛行家ともてはやされるように
なるのだ。

■防衛研究所収蔵資料:「昭和10年11月 刊行 中国及四国地方不時着陸場 水路部」

に着陸場の地図があり、先頭のグーグルマップはそこから作図しました。

同資料の情報を以下引用させて頂きます。

広島東練兵場(昭和10年2月調)
広島県広島市北東部

着陸場の状況
高さ 平均水面上約3米。
広さ及形状 本練兵場は長さ東西約900米、幅南北約400米にして着陸地
域は其の略中央部の長さ東西約700米、幅南北平均約150米の東西に長き図示
の地区なり(付図参照)。
地表の土質 尋常土。
地面の状況 練兵場内各場端付近に多少の凸凹あるも着陸地域及其の付近
一帯は地表堅硬なる平坦地なり・殆ど全面に疎なる芝を生ず・平坦なるを以て
排水概して良好ならず降雨後地表稍軟弱と為る地区あるも各種飛行機の離着陸
に支障なし・北東隅付近場内に湿地あり・場の略中央部に南北に通ずる幅約2
米の道路あるも離着陸に支障と為らず。
場内の障碍物 着陸地域内にはなし・場の北西隅より内方約120米に高さ
約12米の松の独立樹あり・北端中央部に鉄条網あり・東端略中央部に内務省
材料置場あり・南東側の東部に訓練用の壕4あり。
適当なる着陸方向 東又は西。
施設 場の北西方約800米二葉山(133.7)山頂の東側に在る高さ約6米の
柱上に吹流を常時掲揚しあり。
其の他
軍用機及民間機は本練兵場を着陸場として屡使用す・本練兵場は民間定期航空
路の不時着陸場なり。
 

当練兵場で軍用、興業等の目的で、萱場式オートジャイロ、グライダーや軽飛行機等が飛んでいました。

ここは広島県内での初飛行の地でもあるのだそうです。

■「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)

には、廣島高等工業學校(当時)に滑空部があり、「廣島市東練兵場」を滑空場として使用していたとありました。

この情報はアギラさんから頂きました。アギラさんありがとうございましたm(_ _)m

県立広島商業でも、毎週日曜日に滑空部の訓練をしていたという記録も残っています。

「広島市練兵場」があるということは、当然西練兵場もあります。

西練兵場は約2km西にあり、広島城と原爆ドームの間に位置していたのですが、

東西の練兵場が両方とも飛行場として使用されていたとするサイト様と、

東の方が広いので、もっぱら東が飛行場に使用されたとするサイト様があります。

もしかすると、時代による違いもあったのかもしれません。

現在のところ、西練兵場でヒコーキが飛んでいたとハッキリ確認することができておりません。

米軍作成の地図:JAPAN CITY PLANS 1:12,500 の HIROSHIMA(下記リンク参照)では、

上図囲った部分がおおよそ「東練兵場と軍用飛行場」と記されています。

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青マーカー地点。

東練兵場に騎兵隊の敷地が隣接しており、碑がまとまって設置してありました。

D20_0044.jpg

赤マーカー地点。

碑の近くから練兵場方向

現在このエリアは大規模再開発事業の真最中。


      広島県・広島市東練兵場着陸場跡地     

広島市東練兵場着陸場 データ

設置管理者:陸軍
所在地:広島県広島市北東部(現・広島市東区光町他)
座 標:N34°23′56″E132°28′49″
標 高:3m
着陸帯:700m×150m
(座標はグーグルアースから)

沿革
1935年    この頃着陸場があった
1945年10月 この頃滑空訓練実施

関連サイト:
JAPAN CITY PLANS 1:12,500/HIROSHIMA    
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)
防衛研究所収蔵資料:「昭和10年11月 刊行 中国及四国地方不時着陸場 水路部」
「南国イカロス記 かごしま民間航空史」


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