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台湾・鳳山飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   (未訪問)  




台湾の高雄市にあった鳳山(ほうざん)飛行場。


「盟軍記載的二戰臺灣機場」(下記リンク参照)によれば、

当飛行場は連合軍によりMLG(Medium Bomber Landing Ground:中爆撃機着陸場)に分類されていました。

■防衛研究所収蔵資料「飛行場記録 内地(千島、樺太、北海道、朝鮮、台湾を含む) 昭和十九、四、二〇調製 第一航空軍司令部」

に要図があり、先頭のグーグルマップはこの要図から作図しました。

後述しますが、鳳山飛行場の2本の滑走路は段階的に拡張したようで、600mから始まり、

資料から確認できる最終的な長さは、おおよそですが、1,500mと1,400mに達しています。

そのためだと思うのですが、【鳳山飛行場】で検索すると、

微妙に異なる図が幾つかヒットします(特に滑走路交差部の形が違う)。

というか、全体から見ればオイラの作図の方が異端なんですが、

防衛研究所の昭和19年資料では2本とも1,200mx200mとしているため、

この資料の通りに作図してあります。

画像検索するとすぐにいろんな形の鳳山飛行場が見つかりますので興味のある方はご覧くださいませ。

防衛研究所の昭和19年要図では、恒風:北北西(滑走路方向) と記されていました。

同資料の情報を以下引用させて頂きます。

鳳山飛行場
位置
 高雄州鳳山郡大寮庄
滑走地区
 滑走地区 東西一、二〇〇米 南北二〇〇米
      東西二〇〇米 南北一、二〇〇米
 地盤は粘土質にして乾季には良好なるも雨季軟弱となし北
 方の煉瓦会社煙突並に海軍無線塔に注意を要す
付属施設
 格納庫、燃料庫、給水、宿舎なし
飛行場
 付近水田にして開闊なり
気象 
 雨季飛行場軟弱となる
交通通信 航法施設
 潮州線後庄駅より東南約六〇〇米
 高雄-屏東街道に接す
其の他
 屏東飛行場の場周に当り離着陸に注意を要す

 
当飛行場について、手持ちの情報は現在のところこれだけです。

アジ歴、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、目ぼしいものは出てきません。

一方、地元台湾では日本が建設した飛行場についての記事がとても多くヒットします。

グーグル翻訳を使ってそれらの記事を拝見すると、

この鳳山飛行場で実際に飛行機が離陸したところを見たことがなく、

竹細工の飛行機を駐機させてあり、実際にこれらが空襲の標的になった点に触れているものがありました。

オイラが閲覧した範囲では、当飛行場は「疑似」飛行場であるというのが地元では定説になっているようです。

一例としてあるサイト様では、80歳になるおじいさんの証言として、

子供だった頃に先生に引率され、鳳山飛行場で2時間の草むしりをした
竹細工の飛行機が銀色に塗られ、日の丸が描かれた
飛行場は無人で、実際に飛行機が離陸するところを見たことが無い
戦後、ここは飛行場に適していないため、最終的に廃止になった

とありました。

「鳳山飛行場は実機のためのものではなく、疑似飛行場である」

この定説に異を唱えている地元サイト様が1つだけありました。

同サイト様の記事を一部引用します(Google翻訳)。

米軍の航空写真の撮影時間は、実際には終戦(1941-1945)に限定されており、実際には、台湾に関する「部外者」の間接的な知識しか表せません。データは日本からのものでなければなりません。言い換えれば、アメリカの空中データまたは文書は補助データとしてのみ使用する必要があります。重要な情報は、日本のアーカイブおよび履歴データから開始し、空港の設立の背景とコンテキストを確立すると同時に、航空開発全体のコンテキストに配置する必要があります。この方法でのみ、その存在の戦略的重要性を見ることができます。言い換えれば、空港を調査して属性を決定するために外部画像のみを使用する場合、それは誰かの写真を見て、彼の静的な外観だけを知っているが、彼の動的な過去、性格、好み、または専門知識を知らないようなものです。理解、それは一方的な推測と理解かもしれません。台湾への空爆を研究するための研究テーマとして米軍を利用する場合でも、軍事に関する専門知識を十分に持ち、アーカイブの利用の優先順位を明確にし、米軍のデータの限界を理解し、重要視する必要があります。(中略)

中荘、大寮、高雄にあるこの空港については、多くの人が紹介や調査を行っており、この空港は変で、かつてないかもしれない、あるいは敵を誘惑するための「偽の空港」だと誰もが思っています。データによって制限されますが、おそらく当時の画像データでしか説明できませんでした。しかし、軍事体制に戻り、その時の日本陸軍空軍の組織の変化と実際の作戦を考えれば、より完全な全体像をまとめることができるかもしれません。 1944年に出版された本「SouthernFlyingTeam」によると、この空港は当時陸軍によって実際に「疑似飛行場」と呼ばれていました。そうです、彼の「疑似」は米軍を欺くために使用されなかっただけですが、その他の重要な兵役。機能と目的。この目的は、実際には陸軍飛行場旅団の演習空港として使用されることであり、隣接する陸軍屏東航空工場の鳳山燃料貯蔵所(陸軍ステップスクールの裏丘にあります)と密接に関連しています。後で)。言い換えれば、この「疑似空港」は1930年代後半に建設されました。したがって、もちろん、最も初期の主な目的は、戦争の終わりに敵を欺くために使用されることではありません。

要約すると、

「鳳山飛行場は疑似」というのが定説ではあるが、当飛行場の建設は1938年にはほぼ終了しており、

当時は米軍の目をごまかす必要などなかった。

日本の資料をきちんと調べないと、その飛行場の真実は分からない。

ということになるでしょうか。


冒頭に引用した防衛研究所の資料は、昭和19年に調製されたものですが、

「疑似」飛行場を匂わすような文言は出てきません。

1,200m滑走路を2本も擁する疑似飛行場なんて、(オイラの知る限り)内地にも無いですしね。

前出:防衛研究所資料の「其の他」の項目に「屏東飛行場の場周に当り離着陸に注意を要す」とあります。

当飛行場から約7kmの所に屏東飛行場がありました(こちらの方が規模がずっと大きい)。

仮に鳳山飛行場が疑似飛行場だったとしたら、こんな注意喚起は不要のはずです。


その後更に地元のサイトを調べていたら、この辺の疑問を一気に解決する非常に詳しい資料を見つけました。

太平洋戰爭下日本陸軍於高雄地區的機場整備與航空隊部署(下記リンク参照)というサイトです。

以下関係する部分を要約します。


鳳山飛行場は民間飛行場として1937年9月に着工しました。

その後南方の戦闘状況に対応して島内の新旧飛行場を改修する計画がなされ、

大本営は1941年6月までに、鳳山、潮州、佳冬、恒春を陸軍飛行場として整備する決定をしました。

9年18日、満州に駐屯していた新たに再編された第4飛行場設定隊と第9飛行場設定隊が高雄に到着。

鳳山飛行場の建設を開始するために2チームが第4飛行グループに編成されました。

当時飛行場設定隊は、約80~90名の軍人と部下で構成されていました。

鳳山、宜蘭、小港、八塊等、日本では珍しいV字形が採用されたのは、

周囲に拡張可能な土地が不足していたためでした。

飛行場敷地は、近くの地形、集落、鉄道、道路、川、谷の障害物によって制限を受けます。

風山飛行場の場合、2本の滑走路の間には岡山西(江山村)があります。

これは隆起し周囲よりも高くなっており、この場所を避けるために滑走路がV字型になりました。

開戦前の段階で、設営隊は風山飛行場の建設に3ヶ月しか従事しなかった可能性があり、

滑走路の長さはわずか600mでした。

これは潮州、佳冬、恒春等新設飛行場の中でも最短であり、飛行に適していません。

このため太平洋戦争が始まったとき、鳳山飛行場に使用の記録はありませんでした。

1944年4月現在、風山飛行場の両滑走路は1,200mx200mに延長されていました。

飛行場施設には、格納庫、燃料貯蔵所、給水施設、寮が含まれます。

開放的な水田に囲まれ、眺望は良いものの、

土質は乾季に使用できる粘土ですが、雨季は土壌が弱く、離着陸が難しいです。

また、近くに煙突と海軍の無線塔があり、飛行の支障となります。

屏東空港にも隣接しているので、着陸するときは注意が必要です。

このように、鳳山空港が長期間使用されていない理由は明らかです。

元々この場​​所が選ばれたのは、陸軍が交通動脈を保護するためでしたが、

飛行場については考慮すべき多くの要因があります。

土質の点では、飛行場には土壌が適しています。

小さな砂利は離着陸時に機体や航空機の翼に跳ね返って損傷するため、砂利は適していません。

また、粘土質土壌は降雨時に軟化するため不適切です。

さらに離着陸時には障害物を避けるために、飛行場周辺の高さを制限する必要があります。

一方、鳳山飛行場の土壌は粘土質であり、飛行場西側は通信塔や煙突に塞がれており、

東側も屏東飛行場に近く、互いに干渉します。

南北は山岳地帯に面しており、飛行の安全性に問題があり、飛行場として理想的な場所ではありません。

1944年8月、太平洋艦隊と太平洋艦隊合同司令部は、蓄積された情報データに基づいて、

鳳山飛行場がダミー飛行場であると判断しました。

当時、2本の滑走路は2,800フィートと3,300フィートに延長されていました。

避難経路は飛行場の中央にあり、65フィートの航空機の砦が5つあり、格納庫や兵舎は見られませんでした。

1944年3月6日、5機の日本の飛行機が駐機していましたが、それらは偽の飛行機であるはずでした。

次に、風山空港を放棄または偽の空港として直接マークします(9月10日)。

戦闘後、米国の鳳山飛行場の調査は継続されました。

1945年1月29日までに、2つの滑走路は、4,850ft×600ft、4,500ft×600ftに延長されました。

とありました(Google翻訳)。


元々鳳山飛行場は1937年に民間飛行場として着工したものの、実は同資料内では、

高雄の民間航空は1939年に岡山空港に離着陸した。鳳山空港の問題は終わったように見えた。 1940年の終わりには、海軍の岡山空港と陸軍の嘉義空港だけが台湾で唯一の飛行場であり、比較的良好な状態でした。

とあります。

「岡山空港」とは、当時の海軍高雄飛行場のことだと思います。

海軍高雄飛行場は1939年開場でした。

せっかく鳳山飛行場を民間飛行場として建設したのに、同じ高雄市内の海軍飛行場が民間航空に使用されたのですね。

そして鳳山飛行場は民間航空が飛来することもなく時間が経過し、

その後大本営の指示により陸軍飛行場として転用工事が始まったのですが、

土質の問題、屏東飛行場と空域が干渉してしまうこと、高度制限等から実際の運用にはいろいろと難があった。

ということのようですね。

それでも、運用実績はないにも関わらず当初600mだった滑走路はその後拡張され、

1,500m、1,400m級にまでなっています。

鳳山飛行場は「本物の」飛行場として建設されたものの、

同じく陸軍の屛東飛行場の補助飛行場、若しくはイザという時のための不時着用としての性格が強くなり、

米軍や地元の方からは「疑似」飛行場と映った。

ということなのかもしれません。

地勢的に飛行場に向いておらず、囮の飛行機を置いていたら、そりゃ「疑似」と捉えられても仕方ないのかも。




     台湾・鳳山飛行場跡地         
鳳山飛行場 データ
設置管理者:日本陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:台湾大寮区高雄市
座 標:22°38'15.9"N 120°24'07.7"E
標 高:14m
滑走路:1,200mx200m 2本(08/26)、(14/32)
(座標、標高、方位はグーグルアースから。滑走路長さは防衛研究所資料から)

沿革
1937年09月 民間飛行場として着工
1938年    ほぼ完成

1941年06月 大本営、この月までに鳳山を陸軍飛行場として整備と決定
     09月 18日 第4、第9飛行場設定隊が高雄に到着。滑走路600m
1944年04月 この頃までに両滑走路は1,200mx200mに延長
     08月 米軍は鳳山飛行場をダミーと判定。滑走路は853m、1,005mに延長(写真判定だから?)
1945年01月 29日 この頃までに滑走路は、1,478m×182m、1,371m×182mに延長

関連サイト:
太平洋戰爭下日本陸軍於高雄地區的機場整備與航空隊部署 
盟軍記載的二戰臺灣機場(21コマ) 
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この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「飛行場記録 内地(千島、樺太、北海道、朝鮮、台湾を含む) 昭和十九、四、二〇調製 第一航空軍司令部」


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