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逓信省印旛地方航空機乗員養成所、印旛(草深)飛行場跡 [├国内の空港、飛行場]

   2013年1月訪問 2021/10更新  


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撮影年月日1946/02/13(USA M44-A-5VV 273) 

出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

千葉県‎印西市にあった「逓信省印旛地方航空機乗員養成所、印旛(草深)飛行場」。

地名から「草深(そうふけ)飛行場」とも呼ばれています。

まずは逓信省の乗員養成用飛行場として開設されたのですが、

戦局が押し迫り陸軍の帝都防衛用飛行場となりました。

後述しますが先頭のグーグルマップは、上に貼った航空写真、現地の図、防衛研究所収蔵資料を参考に作図しました。

大いに参考にさせて頂いた現地の図にはこんな説明が付されています。

養成所区域
陸軍航空基地区域
施設区域 養成所(本部)本館・講堂・生徒舎・教室・飛行指揮所・格納庫・
     組立工場・整備工場・燃料置場
掩体壕(36基) 昭和57年11月の調査で確認されたもの
       うち、保存され見学できるもの(1基)
そのほか 椎の木(西の原南街区公園)

飛行場位置図*この位置図は関連資料から推定したものです。 

ということで、先頭のグーグルマップで四角から西側に飛び出した赤色のポリゴンが「養成所区域」、

また図に示されている掩体壕は赤丸で、保存されている掩体壕は青マーカー、椎の木は緑マーカーで示してあります。

現在飛行場跡地の特に北側は、国道、鉄道が走り、大型商業施設、集合住宅、高層団地が立ち並び、

すっかり様変わりしました。

一方、南側には昔ながらの田園風景がまだまだ残っており、

飛行場の地割、無蓋掩体壕が現存します。


■防衛研究所収蔵資料「関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18年8月刊行 水路部」の情報を引用させて頂きます。

第6 印旛航空機乗員養成所飛行場(昭和18年2月調)

管理者 航空局。
位置 千葉県印旛郡船穂村大字草深。
   (布川町の南方約6.5粁、北緯35°47′8、東経140°9′5)。
種別 非公共用陸上飛行場。。

着陸場の状況
高さ 
 平均水面上約25米。
広さ及形状
 本場は長さ北東-南西1,000米及北西-南東1,000米の正方形地域なり・
 着陸地域は概ね図示の各周辺より各約100米の地区を除きたる内方地域を
 最適とす(付図参照)。
地表の土質
 主として火山灰土壌
地面の状況
 地表は凸凹起伏なき平坦地なるも西側付近は西方へ1/400、東側は東方へ1/200
 の下り勾配を有し全般的に北より南へ1/800の下り傾斜を為す・処々に植芝
 発生するも移植後1箇年内外にして且使用甚しき為生育不十分にして全体
 の約2割程度なり、其の他は火山灰質の禿地なるを以て季節風強吹する際
 は風塵甚し・排水良好にして午前降雨あるも午後晴天となる時は使用可能
 なり・冬季霜柱の発生を見るも日照と共に解消し暫時地表稍軟弱となる・
 舗装滑走路の施設なし。
場内の障碍物
 なし。
適当なる離着陸方向
 北西又は南東(恒風方向)を最適とするも其の他何れの方向も可能なり。
離着陸上注意すべき点
 南西方約300米に高さ25米の森林あり、注意を要す。
施設
 格納庫(間口80米、奥行50米、高さ10米)1・本部庁舎・整備工場1・
 木工場1・発動機工場1・発動機試運転場1・鍍鎔工場1・機械工場1・
 電気計器工場1・油庫1・宿舎5棟・食堂・自動車庫・見張所等あり。
 昼間標識 吹流1あり。
 夜間標識 照明設備なし。

周囲の状況
森林
 付近一帯は概ね平坦にして至近に障碍となる山岳なし・本場は元森林地な
 りしを伐採施設せるものなるを以て周囲は一般に樹木多きも何れも低く高
樹林は南西方約300米に在る草深神社境内の森林にして高さ25米に達す。
建築物
 場の西端建物敷地に格納庫(高さ10米)及其の他の付属建物以外に障碍と
 なるべきもの周囲になし。
着目標
 印旛沼、格納庫、吹流。

地方の状況
軍隊
 付近に陸軍防空隊駐屯す。
警察署及役場
 木下警察署(木下町)北方約7粁・船穂村役場(船穂村大字船尾)南西方約
 4.5粁。
医療
 場内に医務室あり・木下町に医院3あり。
宿泊
 北方約7粁の木下町に旅館2(収容員数計50)あり。
清水
 場内に完備せる給水設備あるも水質良好ならず。
応急修理
 場内修理工場にて一時的応急修理程度ならば可能なり。
航空需品
 場内に練習機用の航空用燃料及潤滑油を貯蔵す。

交通、運輸及通信
鐡道
 木下駅(成田線)北方約6粁。
乗合自動車
 木下町より津田沼町に至る乗合自動車便あり、最寄停留所は天王前(西方
 約1粁)なり。
道路
 西方約1粁に木下街道(木下町至津田沼町間)あり、乗合自動車運行す・
 場の西端より此の街道に連絡する飛行場専用道路あり。
湖沼
 南東方約7粁に印旛沼あり、対岸佐倉町方面に連絡する人馬用渡船場あり。
運送店
 北方約6粁の木下駅前に木下合同運送店あり、貨物自動車数輛を常備す。
電信及電話
 船穂郵便局(電信及電話取扱)南西方約2粁・場内事務所に電話(木下113
 番)あり。
気象
測候所
 中央気象台布佐出張所(布佐町)北方約6粁。
地方風
 夏季は南又は南西風、冬季は北西乃至北北西風なり、日中屡10米内外の
 北西風(空風)強吹することあるも日没と共に凪ぐを常とす。
 4月中は南西風、10月中は北乃至北東風卓越す。

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

にも当飛行場の要図がありました。

上の水路部資料の図では、飛行場は四角なのですが、こちらの要図ではかなり拡張したものになっています。

図がかなり大まかなもので、航空写真と比較しながら線を拾いましたので、間違いが多々あると思います。

同資料の情報を以下引用させていただきます。

飛行場名  印旛
位 置   千葉県印旛郡船穂村
規 模   要図(東西2000 南北2000)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 七五〇名分
 格納施設 掩体 有蓋六棟 無蓋五六ヶ所
摘 要   施設官有

D20_0032.jpg

赤マーカー地点。

西の原公園南側にある「平和の碑」。

逓信省印旛地方航空機乗員養成所跡
陸軍飛行第二十三戦隊印旛飛行場跡
通称 草深飛行場跡 

と記されています。

裏面に碑文がありました。

草深野のあゆみ(全文)
 往古、印旛沼の畔に谷津を抱きし原野あり、草深野と名づく。そが谷津に開墾の鍬が入れられしは凡そ三百三十年前のことにて、開墾に従事せし先人よく過酷なる労働に耐え、豊穣の地となせり。惣深新田と称す。里人、早春には野に出て山菜を摘み、風の音に秋来たりなば、金波を漂わす水田に入りて鎌を振るう。四季は移ろい、凛たる寒気に包まれし野に雄鹿の声渡り大晦となりぬ。時は緩やかに流れ連綿として代を重ねたり。そが草深野に激動の時代を予感させし槌音響きたるは昭和十三年のことにて、逓信省印旛地方航空機乗員養成所の創設行わる。大志を抱きたる若人集い訓練に励む。しかるに軍靴の響き日増しに高く、昭和十八年十月、拡張工事に着手。翌十九年十月、帝都防衛の任に当たるべく陸軍飛行第二十三戦隊配備され、熾烈なる空中戦に挑みたる。雄々しき丈夫、勇躍銀翼を煌めかせ飛翔せしが帰還せざる者また多し。昭和二十年八月、幾多の尊き人命を奪いし第二次世界大戦終結せし後、飛行場跡地に開拓団入植し開墾に取り組みたる。その辛苦筆舌に尽くしがたし。されど不屈の闘志と団結力により、耕地は徐々に拡大し草深野は肥沃の地となりぬ。昭和三十年代後半に至り、国家政策として大都市周辺部に大規模なる新住宅地の造成が進められ、その一環として千葉北部地区宅地開発事業、即ち、「千葉ニュータウン事業構想」が発表されしは、昭和四十一年のことなり。爾来三十有余年、草深野は活気に漲り笑顔溢るる市街地へと変貌しつつあり。今般、印旛(草深)飛行場跡に有志の発意をもちて、多感なる往時に思いを馳せ、かつ恒久の平和を祈念せんと平和の碑を建立するにあたり、草深野の変遷をここに刻み後世に伝うるものなり。平成十五年十月吉日 印旛市長 海老原栄選文 印旛飛行場跡地記念碑建設委員会

これまで見てきた碑文の中で飛び抜けて格調高いです。

D20_0041.jpg

 

(以下2021/10の追記分です) 

DSC_0066_00001.jpg

DSC_0062_00001.jpg

碑の隣に説明版が新たに設置されました。

DSC_0056_00001.jpg

図と説明は、ネットでは調べてもなかなか出てこない非常に貴重なもので、

今回この図を参考にして作図の修正をさせていただきました。

以下説明を引用させていただきます。

(全文)
印旛地方航空機乗員養成所
陸軍飛行第23戦隊
 印旛飛行場

 昭和17年(1942年)、この地域(現在の印西市原、西の原及び草深周辺)に印旛地方航空
機乗員養成所として飛行場が設置されました。このような航空機乗員養成所は、全国で15ヶ
所ほど設けられた施設で、旧逓信省航空局により、民間の航空機乗員養成所として計画され
たものです。
 昭和19年、太平洋戦争の戦況悪化によって拡張され、旧陸軍航空基地と兼用となり、首都
防衛のため陸軍飛行第23戦隊が配備されました。
 部隊は、首都上空の迎撃のほか、硫黄島や北九州などに派遣され、隊員の一部は特別攻撃
隊として出撃しました。終戦時には、50機ほどの機体が配備されていたといわれています。
 飛行場には、約2,000mの滑走路3本に加え、格納庫や飛行指揮所、射撃場などの付属施
設、空襲時に飛行機を隠す掩体壕や誘導路などが整備されていました。
 戦後は、入植者による開拓が行われ、その大半が農地となりましたが、施設の一部は開拓
事務所や鉄道教習所となり、その後、昭和24年から昭和60年までは、印旛少年院として利用
されました。

 現在では、千葉ニュータウン事業などによる開発に伴い、当時の面影を残すものはほとんど残されていませ
んが、掩体壕や敷地内に植えられていた椎の木などが、往時の姿を今に伝えています。掩体壕は、現在1基が
保存され、見学することができます。
 また、傍らにある「平和の碑」は、この飛行場の存在を後世に語り継ぐとともに、恒久の平和を祈念して、関
係者や地元有志の尽力により、平成15年に設置されたものです。

参考文献
●印養誌出版委員会1977『わが青春―印旛航空機乗員養成所』
●山本忠良1979『草深野開拓』
●飛行第二十三戦隊印旛会編1987『飛行第二十三戦隊想い出の記:帝都防衛』
●印西町石造物調査会1987「消えゆく掩体壕」『印西町の歴史』第三号
●小林実ほか編1997『印旛の空:長浜清・陸軍特別攻撃隊員の
 記録と印旛航空機乗員養成所五期生の回想』

DSC_0072_00001.jpg

青マーカー地点。

無蓋掩体壕がフェンスで囲われて保存されていました。

設置されている説明版を以下引用させていただきます。

掩体壕(全文)
 正面に見える構築物は、掩体壕と呼ばれる戦争遺跡です。掩体壕とは、飛行場に駐機
する軍用機を上空の敵機から守るために造られた格納庫で、昭和20年、太平洋戦争末期
に、米軍による本土空襲が激しくなる状況の中で、全国の軍用飛行場に構築されました。
掩体壕には、コンクリート製の有蓋型と、現状で屋根がなく、土塁状の形状の無蓋型が
存在します。
 印西牧の原駅一帯には、昭和16年から昭和20年にかけて逓信省航空局の印旛地方航空
機乗員養成所(通称 印旛飛行場)が所在し、昭和19年頃から、乗員養成所は陸軍の軍
用飛行場として使用され、首都防衛の任を果たしていました。滑走路周辺には、規模
が横幅約20m、高さ約3mほどの無蓋型の掩体壕が多数存在し、小型の軍用機ならば、
ほぼ1機格納できる大きさです。
 現在では、千葉ニュータウンなどの開発が進み、当時の姿を見ることはできませんが、
掩体壕はこの地域に、印旛飛行場があったことを示す貴重な文化財です。

DSC_0075_00001.jpgDSC_0076_00001.jpg

DSC_0079_00001.jpg

掩体壕の背後は道路を隔ててこんな感じ。

当時はここも飛行場敷地で、3本の滑走路のうち、南北方向の滑走路の南端に位置していました。

周辺では宅地開発が進み、ランドセルの子供達がぞろぞろと下校中。

それでも、戦後に飛行場を開拓した跡はまだまだ残っていました。


      千葉県・印旛航空機乗員養成所飛行場(草深)飛行場跡地     

印旛航空機乗員養成所(草深)飛行場  データ
設置管理者:航空局、旧陸軍
種 別:非公共用陸上飛行場
所在地:千葉県印旛郡船穂村大字草深(現・印西市‎西の原)
座 標:N35°47′08″E140°09′05″
標 高:25m

沿革
1938年    逓信省印旛地方航空機乗員養成所創設
1943年10月 軍用飛行場として南北2,000m、東西2,000mに拡張工事
1944年10月 陸軍飛行第二十三戦隊配備
1945年08月 終戦。 開拓団入植
1966年    千葉ニュータウン事業構想
2003年10月 平和の碑建立

関連サイト: 
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この記事の資料
現地の碑文、説明版
防衛研究所収蔵資料「関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18年8月刊行 水路部」
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」


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コメント 6

鹿児島のこういち

もともと開墾して農地として頑張ってきた所なんですね。今、元の畑に戻ったのに、開発が進んでるのですね。時代は流れていくのですね。

by 鹿児島のこういち (2013-06-05 07:21) 

Takashi

飛行場とは直接関係ありませんが、埼玉県民の私には、草深(そうふけ)は読めません。
千葉って簡単に読めない地名が多いですよね。
by Takashi (2013-06-05 20:09) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。m(_ _)m

■鹿児島のこういちさん
昔ながらの風景のすぐ隣にアーバンライフ。
著しい対照でした。

■Takashiさん
オイラも読めませんでした。
地名って難しいですね^^;
by とり (2013-06-06 05:41) 

多田光利

私は印旛地方航空機乗員養成所に入所したものですが、途中退所した
者でその後の同期生の消息を知りたいのですが・・・・
by 多田光利 (2015-06-18 12:55) 

とり

■多田光利さん いらっしゃいませ
生憎そうしたコネがないのですが、アテがありますので尋ねてみます。
分かっても分からなくても必ずここに結果報告致しますので、
少しお待ちくださいませ。
それから、公園に碑がありますので、‎印西市役所の都市整備課に問い合わせてみると何か分かるかもしれません。
by とり (2015-06-20 09:13) 

とり

■多田光利さん 
お待たせ致しました。
お二人の方に当たってみたのですが、残念ながら、直接のご回答をすることが出来ません。
お役にたてず申し訳ありません。
ただ、お一人の方から、
「逓信省乗員養成所や民間航空の歴史を記した書籍の収集や出版もしている『日本航空協会』なら何かツテが有るかも知れません。」
というお返事を頂きましたのでお伝え致します。
by とり (2015-06-22 21:02) 

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