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東京都・武蔵製作所の引き込み線跡 [├場所]

   2023年7月訪問  



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撮影年月日1944/11/07(昭19)(8921 C6 132) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成。上2枚とも)


前記事の中島飛行機武蔵製作所から中央本線武蔵境駅に引き込み線がありました。

上の航空写真、赤矢印で指しているのが引き込み線です。

先頭のグーグルマップはこの航空写真と、武蔵野市作成の説明板の引き込み線図を比較しつつ作図しました。

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赤マーカー地点。

ぎんなん橋


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ぎんなん橋の傍らに説明版がありました。

武蔵野の戦争の記憶を訪ねて(全文)
中島飛行機 武蔵製作所 工場引き込み線 橋台跡

 現在の都立武蔵野中央公園らか市役所あたりまでには、かつて戦前の日本を代表する航空機メーカーであ
った中島飛行機株式会社武蔵製作所という軍需工場がありました。
 工場は、昭和13(1938)年から20(1945)年まで稼働し、零戦や隼などの軍用機のエンジンを生産
していました。この工場への物資輸送のため、武蔵境駅から工場まで引込線が敷設されました。戦争末
期、工場はアメリカ軍による激しい空襲を受けましたが、その際、この引込線や隣接する境浄水場も被
弾しました。
 戦後、昭和26(1951)年、工場跡の一角に「東京スタジアムグリーンパーク野球場」が開設され、プ
ロ野球観戦などの観客輸送のため、引き込み線は敷き直され、三鷹駅からの国鉄「武蔵野競技場線」として
生まれ変わりました。しかし、間もなく野球場は閉鎖され、引き込み線も昭和34(1959)年に廃止になり
ました。
 その後、玉川上水から北側は、「グリーンパーク遊歩道」として、また南側は「堀合(ほりあわい)遊歩道」
(三鷹市)として生まれ変わりましたが、この場所には、コンクリート製の橋台だけが残されました。平成
24(2012)年、都道の建設に伴い、橋台の上に「ぎんなん橋」が設置されました。
 この橋台跡は、工場への引き込み線の遺構で唯一残った戦争遺跡です。

この橋台は現存しているのですが、オイラは見落としてました。

超ガックシ_| ̄|○ il||li

ブログ:MacとCameraの言いたい放題2で見れます 

an-kazuさんありがとうございましたm(_ _)m


説明板に記されている通り、戦時中この引込線も被弾しました。

戦後、工場跡の一角に球場が作られ、「観客輸送のため、引き込み線は敷き直され」とありますが、

これは被弾部分を修復したこともあるのでしょうが、

武蔵境駅に繋がっていたのを、お隣の三鷹駅に線路を付け替え、

それから工場敷地内を走る線路も観客に都合の良いように、球場近くに線路の付け替えをしました。

その後、球場は閉鎖され、ほどなく引き込み線も廃止され、線路跡は遊歩道として整備されました。

工場用引き込み線敷設
   ↓
被弾、終戦
   ↓
武蔵野競技場線として敷き直し
   ↓
球場閉鎖、路線廃止
   ↓
線路跡を遊歩道として整備

線路目線で時系列にするとこんな感じ。


ということで、線路跡の一部が現在も遊歩道になっているのですが、

戦時中工場用に使用されていた線路跡も、戦後敷き直された線路跡も、

どちらも遊歩道になっています。

このため、元競技場用線路だった遊歩道のことを「ここは元工場用線路だった」と見なす等、

ネット上では一部、情報が錯綜しています。




     東京都・武蔵製作所の引き込み線跡         
武蔵製作所の引き込み線 データ
所在地:東京都武蔵野市、三鷹市

沿革
中島飛行機武蔵製作所への物資輸送のため引込線敷設
1945年08月 終戦
1951年04月 武蔵野競技場線開業
     05月 東京スタジアムグリーンパーク野球場竣工(1シーズンで閉鎖)
1952年    武蔵野競技場線休止
1956年    球場解体
1959年11月 武蔵野競技場線廃止
2012年    橋台の上にぎんなん橋設置

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現地の説明板


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東京都・中島飛行機武蔵製作所跡地 [├場所]

   2023年7月訪問  



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撮影年月日1944/11/07(昭19)(8921 C6 132) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
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1/25000「吉祥寺」昭和20年部修「今昔マップ on the web」から作成 


東京都武蔵野市。

ここに中島飛行機武蔵製作所がありました。

日本の軍用機用エンジンの約3割を賄う、一大軍需工場でした。

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赤マーカー地点。

通りからひょいっと入ってすぐの所に中島飛行機武蔵製作所工場 正門跡の説明版があります。


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武蔵野の戦争の記憶を訪ねて(全文)
中島飛行機 武蔵製作所 工場正門跡
 現在の市役所から都立武蔵野中央公園にかけて、戦前の日本を代表する航空機メーカーであった中島飛行機株
式会社のエンジン製造工場であった武蔵製作所という巨大軍需工場がありました。敷地面積は、約56万㎡、東京
ドーム約12個分の広さでした。この工場では、約5万人の従業員が働き、日本の軍用機用エンジンの約3割ほどを
生産していました。このため、第二次世界大戦末期には、アメリカ軍の爆撃機B29によるマリアナ諸島からの日
本本土最初の攻撃目標となり、終戦までに合計9回もの爆撃を受けました。死者は、工場の従業員だけでも200
名以上、負傷者は、500名以上といわれており、周辺の一般住民にも多くの犠牲者が出ました。
 現在、高齢者総合センターがあるこの場所は、当時、工場の正門入口があった場所です。(右写真参照)中島飛
行機は、1938(昭和13)年、陸軍専用工場の「武蔵野製作所」(写真右側)を、この地へ進出させ、この場所に
工場の正門が作られました。その後、1941(昭和16)年に武蔵製作所の西隣に海軍専用工場の「多摩製作所」
が完成し、1943(昭和18)年、両工場は合併を経て、中島飛行機武蔵製作所「東工場」、「西工場」とそれぞれ名
称が変わりました。
 当時、この正門から出入りできる社員は、工場の幹部クラスだけと言われており、一般の従業員は、別の入口
から、工場敷地内に数キロメートルにおよび張り巡らされていた地下道を通り各職場に通っていました。


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説明版一部拡大


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青マーカー地点。

武蔵野中央公園内にある「中島飛行機武蔵製作所 爆撃照準点」


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(一部拡大)

Ⅰ(全文)
ここは、東洋一といわれた航空機エンジン工場=中島飛行機武蔵製作所の跡地であり、マリアナ諸島からの日本本土空襲の最初の目標となった場所です。

 この都立武蔵野中央公園の場所には、戦時中、中島飛行機武蔵製作所という東洋一といわれた航空機エンジン(当時は「発動機」と呼ばれました)の大工場がありました。零式戦闘機(通称「零戦」)や一式戦闘機「隼」のエンジンもこの工場で製造されていました。そのために、先の大戦末期の1944(昭和19)~1945(昭和20)年にかけて、アメリカ軍によって激しい空襲を受けました。
 アメリカ軍は、1944(昭和19)年7月にマリアナ諸島サイパン島を占領し、そこに大型爆撃機B29の基地を築きます。そして、同年11月24日には、同島から日本本土空襲を開始しました。その最初の目標が、この中島飛行機武蔵
製作所でした。それ以後、この工場は合計で9回の空襲を受け、工場内だけで200名以上の犠牲者、工場をはずれた爆弾によって周辺の地域でも数百名の市民が巻き添えとなりました。
 この説明板のある場所は工場のほぼ中心にあたり、空襲の際には「爆撃照準点」(Aiming Point)として、たびたび標的となりました。

-中島飛行機株式会社‐
 ここに工場を開設したのは、中島飛行機株式会社という戦前日本の航空機製造のトップメーカーでした。同社は、群馬県出身の海軍機関大尉であった中島知久平(1884-1949年)が、兵器としての航空機に注目し、その開発・製造には民間企業の創設が必要であるという考えから海軍を辞め、1917(大正6)年に郷里で飛行機研究所を創設したことに始まります。やがて、太田製作所(陸軍・機体組立)、小泉製作所(海軍・機体組立)など群馬県を中心として、おもに東日本に展開しました。東京では、1925(大正14)年に、エンジンの設計・製造のため、東京製作所(後の荻窪製作所)が開設されたのが最初です。
 同社は、日中戦争(1937~45年)、太平洋戦争(1941~45年)にともなって急成長を遂げます。同社の代表機は、九七式艦上攻撃機、一式戦闘機「隼」、二式戦闘機「鍾馗」、四式戦闘機「疾風」、夜間戦闘機「月光」などです。その他に、三菱重工業株式会社が開発した「零戦」も、エンジンはすべて中島飛行機で製造され、機体も3分の2が中島飛行機で製造されました。太平洋戦争期には、中島飛行機株式会社と三菱重工業株式会社の2社で日本の航空機全製造機数の6割以上を製造しました。

-中島飛行機武蔵製作所について-
 1937(昭和12)年、日中戦争の始まるこの年、軍部は航空機各社に対して増産を要求します。中島飛行機では、当初、東京製作所の拡張を検討しますが、周辺地域の市街地化のため断念し、北多摩郡武蔵野町に新工場を建設することとなります。


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Ⅱ(全文)
-中島飛行機武蔵製作所について-
<陸軍専用工場・武蔵野製作所(のちの東工場)>
 こうして、1938(昭和13)年に北多摩郡武蔵野町西窪(現緑町)に、最初に開設されたのが、陸軍専用の発動機工場
である武蔵野製作所です。この場所が選ばれたのは、まとまった広い土地が得られることのほか、青梅街道を使えば
荻窪にも近く、陸軍所沢飛行場や群馬県の機体組立工場への輸送にも便利だったからです。
 武蔵野製作所の開設当初の建物は、時計塔を備えた本館など一部を除き、鉄骨スレートぶき、鋸屋根の平屋建て
の建物であり、面積は12万㎡の大工場でした。後に工場の北側には、地下1階地上3階一部4階の鉄筋コンクリート
造りで近代的な建物の組立工場や、北西側には、発動機の試運転工場が増設されます。
 これらの工場建物は、地下道でつながれていました。これは工員たちが効率的に移動するためと、生産工程で
排出される切子(きりこ)などの廃棄物を地下に落し、電気トロッコで回収するためでした。

<海軍専用工場・多摩製作所(のちの西工場)>
 一方、多摩製作所は、1941(昭和16)年に海軍専用工場として、武蔵野製作所の隣接地である北多摩郡武蔵野町関前(現八幡町)に作られました。地下1階地上3階一部4階の鉄筋コンクリート造りの近代的建物でした。建坪は5万3千㎡ながら、総床面積は23万㎡に及びました。建物は、東西に翼を広げるように、6棟が中央部で連結され、流れ作業で部品を製造し、組み立てていくシステムになっていました。中央部には、大型のエレベーターも設置されていました。

<両工場の合併・武蔵製作所>
 武蔵野製作所と多摩製作所では、それぞれに、同じ「栄」型エンジンが盛んに製造されていましたが、陸海軍の間での秘密保持のため、二つの工場は壁で仕切られ、技術の開発から資材の調達に至るまで、別の組織として運用されていました。
 しかし、戦局の悪化する1943(昭和18)年末には、「行政査察」の結果、合併が命じられます。こうしてできたのが武蔵製作所です。合併後は、武蔵野製作所が東工場、多摩製作所が西工場と呼ばれました。
 なお、1945(昭和20)年4月、重要軍需産業の国営化の方針に基づき、中島飛行機株式会社は「第一軍需工廠」となり、武蔵製作所は「第十一製造廠」となりました。

<働いていた人は4万5千人とも、5万人とも>
 合併によって工場に働く従業員は、数万人に達しました。その中には、国家総動員法に基づく国民徴用令で動員された徴用工や、少年工として農村などで採用された青少年も多数いました。さらに、1944(昭和19)年4月になると、学徒勤労動員が本格的に始まり、中島飛行機武蔵製作所にも、大学、専門学校、中等学校などから学生・生徒が続々と動員されました。最終的には、約40校、数千人に達したと推定されます。
 最盛期を迎えたこの頃、中島飛行機武蔵製作所には、「一機でも多く、戦地に」という掛け声の下に、4万5千人から5万人が、2交代あるいは3交代で働き、24時間体制で操業していました。


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Ⅲ(全文)
-B29のマリアナ基地配備と日本本土空襲-
 一方、アメリカ軍は、1944(昭和19)年6月半ば、日本の南、約2,400㎞に位置するマリアナ諸島サイパン島に上陸し、7月には占領しました。続いて、アメリカ軍は、グアム島、テニアン島も占領し、これらの島々に大型爆撃機B29の基地を建設します。
 B29は、4つの高出力エンジンを備え、1万mの高高度でも飛行できる性能を持ち、マリアナ諸島から発進して、宮城県以南の日本本土を爆撃し、再びマリアナ基地に戻ることができる航続能力を備えていました。原爆の投下を行ったのも、この爆撃機です。
 アメリカ軍はサイパン島占領後、1944(昭和19)年10月頃には基地を整備し、B29の配備を開始しました。11月になると偵察機を飛ばし、日本本土の詳細な空中写真を撮影します。こうして、1944(昭和19)年11月24日には、マリアナ基地配備のB29が、最初に日本本土で空襲を行ないました。この空襲の第一目標が中島飛行機武蔵製作所でした。

<9回に及んだ空襲>
① 高高度精密爆撃=初期の空襲(4回)
 1944(昭和19)年11月24日の初めての空襲では、工場内だけでも57名が犠牲となり、負傷者も多数に及びました。12月3日には第2回の空襲があり、この空襲でも60名が犠牲になりました。特に12月3日には勤労動員の学生・生徒も十数名が亡くなり、また武蔵野町でも、この日、初めて市民の犠牲者が出ました。
 空襲は、その後、12月27日(第3回)、翌年1月9日(第4回)にもありました。
 これら4回の空襲は、「高高度昼間精密爆撃」といって、高度約1万m上空から、目標である工場を狙って爆弾を投下する方法で実施されました。しかし、実際には精度が悪く、工場の破壊という目標には遠く及ばないものでした。

② 海軍航空母艦から発進した小型機による空襲
 1945(昭和20)年2月半ば、アメリカ軍は、日本本土から南に約1,250kmに位置する硫黄島への上陸作戦を実施します。この作戦に当たり、海軍航空母艦(空母)に搭載された多数の小型の爆撃機(艦載機という)によって、関東地方のおもな軍事施設および軍需工場が激しく攻撃されました。その数は1千機といわれ、2月16~17日の2日間にわたって行われました。
 中島飛行機武蔵製作所でも、2月17日に3隻の空母から発進した63機の爆撃機によって、低い高度から爆弾やロケット弾を投下されました。そのため、この日だけで、工場内で80名が犠牲となったほか、建物も大きな損害をうけました。これは9回の空襲の中で最大の損害でした。
 アメリカ軍の空襲は、この作戦が契機の一つとなって大きく転換していきます。すなわち、B29による空襲も高度が下げられ、爆弾も大量化、大型化していきます。3月10日、東京下町に対する空襲(東京大空襲)は、夜間に低高度から市街地に対して、大量の焼夷弾を使った空襲であり、多くの市民が犠牲になりました。


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Ⅳ(全文)
-B29のマリアナ基地配備と日本本土空襲-
③ 激しかった4月の空襲
 中島飛行機武蔵製作所をはじめとする多摩地域の軍需工場に対しても、4月に激しい空襲が立て続けに行われました。まず、4月2日の未明に、低高度から大量の爆弾が投下されました。しかし、工場内では、運動場(現在の武蔵野陸上競技場)から武蔵第一青年学校(前中島飛行機株式会社武蔵野青年学校。現武蔵野市立第四中学校)にかけて落下しただけで、ほとんどの爆弾は、広く北多摩東部の畑地や市街地に落ちました。そのため、現在の練馬区、西東京市を中心として、多くの市民が犠牲となりました。
 4月7日および12日は、硫黄島から戦闘機P51の援護をともなってB29が飛来し、昼間に中高度から大型の1トン爆弾が多数投下されました。7日は工場内に集中しましたが、12日は工場を大きく逸れ、田無駅北側の市街地で多数の犠牲者を出したほか、関前高射砲陣地に落下し、兵士や作業員が多数犠牲となりました。

④ 原爆模擬爆弾と最後の空襲
 その後、中島飛行機武蔵製作所に対する空襲は、しばらくありませんでしたが、4月以降は、硫黄島からP51戦闘機が飛来するようになり、各地で機銃掃射が行われるようになります。6月には沖縄戦が終結、いよいよアメリカ軍の日本本土への上陸=「本土決戦」が迫る中、全国各地の都市が、焼夷弾の空襲を受けるようになります。また、これと並行して、軍需工場などへの空襲も激しさを増しました。
 7月末からは、原爆投下の為の特殊部隊によって、原爆の投下訓練とデータの収集のため、全国で約50か所に原爆模擬爆弾(パンプキン爆弾)が投下されました。原爆模擬爆弾とは、長崎型原爆と同じ形の爆弾で、そこに通常の爆薬を充填したものです。7月29日、そのうちの1発が中島飛行機武蔵製作所をめがけて投下されました。しかし、目標をはずれて、現在の西東京市柳沢に落下し、農作業中の女性と子どもが亡くなりました。

 1945(昭和20)年8月6日、広島に原爆が、同9日、長崎に原爆が投下されます。その間にも、全国各地で激しい空襲が繰り返されていました。しばらく空襲のなかった中島飛行機武蔵製作所にも、8月8日、西工場を狙った空襲が行われました。鉄筋コンクリート3階建ての西工場の3棟目東側は、この空襲で完全に破壊されました。しかし、この日の空襲でも、工場をはずれた爆弾が関前などに落下し、大勢の市民が犠牲となりました。
 なお、空襲が始まると、工場疎開も行われました。疎開先は、浅川(現八王子市)や大谷(栃木県)のような地下工場を主としながら、産業大学(現一橋大学)、興亜専門学校(現亜細亜大学)などの学校の施設や町工場などでしたが、
工場の分散や資材不足で生産能力は著しく低下しました。


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Ⅴ(全文)
-戦後の歩み-
 1945(昭和20)年8月15日、日本は降伏し、長い戦争は終わりました。武蔵製作所は、激しい空襲のため、工場として再開されることはありませんでした。しかし、鉄筋コンクリート造りの建物は、多くが改修され、再利用されます。東工場で増設された北側の組立工場は、1950(昭和25)年に移転してきた電気通信省(電電公社を経て、現
NTT株式会社となる)「電気通信研究所2号館・3号館」となりました(2001(平成13)年解体)。また、武蔵第一青年学校(旧武蔵野青年学校)校舎は、慶応大学医学部による一時利用を経て、1953(昭和28)年には、武蔵野市立第四中学校の校舎(旧校舎)となります。西工場は、サンフランシスコ平和条約で駐留を続けた在日米軍立川基地のための住宅「米軍住宅グリーンパーク」となりました。
 東工場の工具工場の一角にあった変電室は、1956(昭和31)年に建設された都営武蔵野第二アパートの管理事務所棟として再利用されました(この説明版の場所に建っていましたが、2015(平成27)年に解体)。現在はこれらすべてが姿を消しています。
 中島飛行機武蔵製作所の跡地は、東工場部分は都営アパートに、西工場部分は都立武蔵野中央公園や都立武蔵野北高等学校、東工場北側の組立工場やエンジン試運転場は、NTT武蔵野研究開発センタなどに生まれ変わっています。また、工場の敷地では、現在UR都市機構武蔵野緑町パークタウンや武蔵野市役所がそれに該当します。武蔵野
陸上競技場は、中島飛行機武蔵製作所の運動場でした。なお、UR住宅の場所は、「東京スタジアム・グリーンパーク」という野球場が作られましたが、砂ぼこりがひどく、1951(昭和26)年の短い期間だけ実働し、廃止されました。

 西工場は、1953(昭和28)年に米軍住宅グリーンパークとして改修の上、利用されますが、返還を求める東京都と都民の運動が実り、1973(昭和48)年に返還が決定、1977(昭和52)年に解体され、1989(平成元)年に都立武蔵野中央公園として開園されました。原っぱのままの広大な公園は、市民の要求が実ったものです。
 子どもたちの歓声があふれる、この公園からは、工場の大きさを感じるだけで、激しい空襲を想像することはほとんどできません。この公園は、戦争から平和への時代の移り変わりを象徴するものといえるでしょう。
資料提供 武蔵野市


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爆撃照準点の隣にありました。


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     東京都・中島飛行機武蔵製作所跡地         
中島飛行機武蔵製作所 データ
設置管理者:中島飛行機→国
所在地:東京都武蔵野市八幡町、緑町
座 標:35°43'06.7"N 139°33'37.8"E
面 積:56ha
(座標はグーグルアースから。面積は説明板から)

沿革
1937年 武蔵野製作所の新設決定
1938年 陸軍専用の「武蔵野製作所」開設。太田、東京(荻窪)、田無の各製作所と共に軍の管理工場に指定
      多摩製作所新設決定
1941年 武蔵製作所の西隣に海軍専用の「多摩製作所」完成
1943年 両工場は合併し、中島飛行機武蔵製作所「東工場」、「西工場」と名称変更
1944年 4月 学徒勤労動員が始まる
     11月24日 B29による初空襲(高高度昼間精密爆撃)
     12月3日 2回目の空襲(高高度昼間精密爆撃)
     12月27日 3回目の空襲(高高度昼間精密爆撃)
1945年 1月9日 4回目の空襲(高高度昼間精密爆撃)
     2月17日 5回目の艦爆による空襲
     4月2日 6回目の空襲(低高度爆撃)
     4月7日 7回目の空襲(1トン爆弾による中高度爆撃)
      12日 8回目の空襲(1トン爆弾による中高度爆撃)
     重要軍需産業の国営化の方針に基づき、「第一軍需工廠第十一製造廠」となる
     7月29日 (パンプキン爆弾投下)
     8月8日 9回目の空襲
      15日 終戦
1950年 東工場で増設された北側の組み立て工場が電気通信研究所2号館・3号館となる
1953年 武蔵野青年学校校舎が慶応大学医学部による一時利用を経て武蔵野市立第四中学校校舎となる
     西工場が米軍住宅グリーンパークとして改修される
1973年 米軍住宅グリーンパーク返還決定
1977年 米軍住宅グリーンパーク解体
1989年 米軍住宅グリーンパーク跡地に都立武蔵野中央公園開園

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東京都・中島飛行機東京工場跡地 [├場所]

   2023年7月訪問  



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撮影年月日1944/10/16(昭19)(8911 C2 73) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
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1/25000「吉祥寺」昭和2年修正「今昔マップ on the web」から作成 


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東京都杉並区桃井3丁目にあった「中島飛行機東京工場」。

エンジンメーカーとしての地位を確立した「寿」、零戦や隼に搭載された「栄」等、

航空機エンジンを開発、生産しました。

現在は公園、団地等になっています。


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赤マーカー地点。

公園の一角に碑が建立しています。


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ロケット発祥の地(全文)
 戦後間もない昭和28年、旧中島飛行機から社名を変えた富士精密工業は東京大学生産技術研究所(現、文部科学省宇宙科学研究所)の指導を受け、ロケットの開発に着手した。2年後の昭和30年にはペンシルロケットの初フライトに成功し、これが日本のロケット第1号となった。
 爾来、約半世紀、富士精密工業は、プリンス自動車工業、日産自動車、アイ・エイチ・アイ・エアロスペースと変遷を重ねたが、ロケット技術は脈々と後進に受け継がれ、現在の日本の主力ロケットを生み出す原動力となった。ロケット開発の拠点たる日産自動車荻窪事業所は平成10年5月に群馬県富岡市へ移転したが、跡地は再開発されることになった。
 この地の生み出した創造的意義に鑑み、ここに記念碑を建立し、往時を偲びつつ、宇宙開発の更なる発展を祈念するものである。平成13年11月


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     東京都・中島飛行機東京工場跡地         

中島飛行機東京工場 データ
所在地:東京都杉並区桃井
座 標:35°42'45.9"N 139°36'25.1"E
面 積:
(座標はグーグルアースから)

沿革
1925年 東京工場開設
1930年 「寿」を開発
1931年 中島飛行機株式会社に商号変更
1936年 「栄」を開発
1938年 太田、武蔵野、田無の各製作所と共に軍の管理工場に指定
1945年 4月 中島飛行機は第一軍需工廠に移管。東京工場は同工廠第23製造廠となる
     8月 終戦処理命令により、第一軍需工廠は解散。富士産業に商号変換
1950年 富士産業(株)から第2会社15社が分離・独立富士精密工業(株)(旧東京工場)発足
1955年 ペンシルロケット初フライトに成功
1961年 富士精密工業(株)は、プリンス自動車工業(株)に商号変更
1966年 日産自動車(株)と合併。同社荻窪工場開設
1998年 日産自動車(株)荻窪工場は、群馬県富岡市に移転
2011年 区立桃井原っぱ公園開園

関連サイト:
すぎなみ学倶楽部 
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東京都・ホンダウエルカムプラザ 青山 [├場所]





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guchiさんにイベント情報をお知らせ頂き、最終日に滑り込みでお邪魔してきたのでした。

受付のおねーさんに「撮っちゃいけないものはありますか?」とお尋ねしたところ、

「是非なんでも撮ってください」(にっこり)とのことで、免罪符を得たオイラはいろいろ撮ったのでした。


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平日、しかもオープン間もない時間帯だったからなのか、すいてました。

(極力人が入らない瞬間狙ってますけど)

最新モデルから歴史的なエンジン、海外の珍しい車やバイクなど、いろいろ展示されてました。

特にオイラが気になったものだけアップします~。


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「自転車に小型エンジン付けた」って、どんなだろうと思ってたんですが、

やっと現物見れた。


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ウイングマークといえばホンダバイクの代名詞ですけど、こんなデザインがあったんですね(@Д@)


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ホンダジェットのエンジン


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eVTOL用ガスタービン発電機。

左側の円筒がガスタービンで、


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手前側が発電機。

今日はeVTOLとガスタービン発電機さえ見れれば、他は見れなくてもいいと思ってました(しっかり全部見たけど)。

現在世界中で開発が進められているeVTOLはほぼバッテリー+モーターの組み合わせのため、

航続距離は100km前後なのですが、市場が求めているのはもっと航続距離の長いものだそうです(ホンダ調べ)。

ホンダのeVTOLはガスタービン発電機+モーターの組み合わせで航続距離は400km程度。

クルマと飛行機の間を目指すのだそうです。

型式証明取得のためだけに1,000億円の資金が必要になるのだそうで、

雨後の筍状態のベンチャー企業にとっては、これが大きな障壁となる一方、

コア技術と型式証明取得のノウハウを既に持つホンダは十分勝機があると考えているのだそうです。

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