福岡県・九州飛行機香椎製作所のスベリ跡 [├国内の空港、飛行場]
2024年5月 訪問
雑餉隈、板付と共に九州飛行機の主力三工場の一つでした。
当製作所については、「わかりやすい郷土の歴史講座」■で非常に分かり易く解説されています。
それによれば、雑餉隈の九州飛行機本社工事場だけでは生産がとても間に合わなくなり、
ここ香椎に巨額の国費を投じて工場を建設し、対潜哨戒機「東海」、零式三座水上偵察機等を製造したのだそうです。
また、工場海側のスベリについても触れ、
「水上偵察機を海に下ろす為のもの」と説明しています。
対潜哨戒機「東海」
零式水上偵察機。
愛知航空機設計。
総生産数:1,423機のうち、ほとんどが当工場で作られたのだそうです。
スベリは製作所南側の博多湾に面していました。
黄マーカー地点。
香椎製作所 南西角から。
ここから奥に向って駐車場側がずーっと工場敷地でした。
車道側が博多湾たい。
ここから奥に向って約80mは「サニーガーデンズ千早店」の駐車場なんですが、
その先に「福岡運輸支局」の白っぽい建物があります。
車道の反対側に渡って、あの白っぽい建物の方に行ってみます。
赤マーカー地点。
はい。反対側に渡って、奥に約80m進みました。
今立っている場所は完全に博多湾の海面たい。
ここは「サニーガーデンズ千早店」と「福岡運輸支局」の境界でもあります。
で、オイラの作図が正しければなんですが、
「福岡運輸支局」からこちら側に向って青線の所からスベリが設けられていました。
こちら側の歩道を歩いて、更に奥に進みます。
青マーカー地点。
更に約50m奥に進んで、振り返って撮りました。
今立っている場所は完全に博(以下省略)
完成した零式水上偵察機が、このスベリを使って次々進水したんですね~。
福岡県・九州飛行機香椎製作所のスベリ跡
九州飛行機香椎製作所のスベリ データ
設置管理者:九州飛行機
所在地:福岡県福岡市東区千早3丁目10 香椎浜団地3号線
座 標:33°39'06.2"N 130°26'01.9"E
標 高:0m
滑走台:40mx35m
(座標、標高、滑走台長さはグーグルアースから)
沿革
1942年 製作所完成
関連サイト:
ブログ内関連記事■
福岡県・多々良航空基地跡地 [├国内の空港、飛行場]
2024年5月 訪問
撮影年月日1947/03/07(昭22)(USA M105 59)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
福岡県福岡市東区にあった海軍の「多々良航空基地」。
ここも長いこと明確な場所が不明だったのですが、
PUTIN様から以下2点情報を頂きました。
■「航空特攻戦備」第2期
方面 佐世保
牧場 多々良
滑走路 二八×一〇〇〇NE
縣郡村 福岡、筑紫 春日村
記事 既成
■佐世保施設部担当の各飛行場について
件名:佐世保施設部管区航空基地緊急整備推進隊報告
(前略)
(二)新設基地(別紙位置図参照)
多々良基地
概位:現九州飛行機会社南側道路ヲ利用
工事概要:在来道路(巾員二八米)ヲ更ニ一〇米拡張シ之ニ伴ナフ電源ノ移設、飛行機隠匿場、組立場新設
「現九州飛行機会社南側道路ヲ利用」とあります。
九州飛行機の工場は(オイラの知る限り)、板付、香椎、雑餉隈、和白、筑紫郡原田にありました。
福岡県内に複数あったんですね。
また空襲が激しくなると、これ以外にも疎開工場が複数作られました。
香椎と和白以外の工場の正確な位置が不明なんですが、
地名としての「多々良」からそれぞれの工場のある地名までの距離は、
香椎工場 2.8km
和白工場 6.9km
板付 7.5km
雑餉隈工場 10.0km
筑紫郡原田(原田駅) 24.4km
となり、香椎工場が突出して多々良に近いです。
それで資料にある「現九州飛行機会社」とは、香椎工場を指すと考えました。
上に貼った航空写真が九州飛行機香椎工場です。
現在はすっかり埋め立てが進んで内陸ですが、当時は博多湾に面していたんですね。
上述の史料では、
・会社南側にある道路
・1,000mx28mの直線がとれる
とありますので、この条件から多々良飛行場は、
香椎工場東側に沿って走る現国道3号線のことではないかと思いました。
史料によりますと、「在来道路(巾員二八米)」とあります。
上に貼った航空写真の赤矢印部分の太さがちょうど28mです。
(現在の国道3号線は歩道部分まで含めて約30m)
そして香椎工場沿いの現国道3号線は、約1,150mの直線です。
史料の条件も満たしているため、今のところここが「多々良基地」なのではないかと。
1/25000「福岡」昭和25年三修「今昔マップ on the web」から作成。2枚とも
実はこの直線道路の南側、ちょっと折れた先にも約1,000mの直線道路があります。
「現九州飛行機会社南側道路」と言えば、こっちの方がよりらしい気もします。
グーグルアースで確認しましたが、勾配は両者問題なし。
それでもオイラとしましては、工場に隣接する東側部分が滑走路ではないかと思っています。
直線道路の西側に「名島火力発電所」があります。
この発電所は、大正9年~昭和35年まで運転していました。
この発電所は石炭火力発電所だったため、大量の石炭を運び入れる必要があり、引込線が敷設されました。
この引込線が直線道路の中央辺りで交差しています。
また、上述の史料では「更ニ一〇米拡張シ」とあります。
「28m道路を拡幅して38mにせよ」ということなんですが、
直線道路の南側には「名島橋」(結構長い)もあります。
国交省福岡国道事務所/名島橋の紹介■ によれば、
昭和8年3月完成。全長:204.1m 全幅:24.0m
とあります。
ヒコーキの滑走に支障ないように道路と線路を交差させるのも、
幅24mの橋を長さ204.1mに亘って38mに拡幅することも、
可能ではあるのでしょうが、ここにコストを注ぎ込むよりは、
大人しく工場の東側を使った方が現実的なのではないかと。
赤マーカー地点。
滑走路方向
福岡県・多々良航空基地跡地
多々良航空基地 データ
設置管理者:海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:福岡県福岡市東区千早
座 標:33°39'04.4"N 130°26'15.4"E
標 高:3m
滑走路:1,000mx38m
方 位:02/20
(座標、標高、方位はグーグルアースから。滑走路長は史料から)
関連サイト:
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
佐世保施設部管区航空基地緊急整備推進隊報告
渡辺 洋二『異端の空 太平洋戦争日本軍用機秘録
福岡県・直方基地(直方牧場)跡地 [├国内の空港、飛行場]
2024年5月 訪問
撮影年月日1947/04/26(昭22)(USA M279 59)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
福岡県直方(のおがた)市。
ここに海軍の「直方基地(直方牧場)」がありました。
末期の時期、特攻用に急造された秘匿飛行場の1つです。
「直方飛行場」なるものがあることは以前から分かっていたのですが、
情報が錯綜しており、位置の絞り込みがなかなかできませんでした。
以下、関連資料をずらずらと。
■「航空特攻戦備」第2期
出典:「航空特攻戦備第2期」(防衛省) http://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/Viewer?id=1000559686&bid=0050050941 (22コマ)を加工して作成
方面 佐世保
牧場 直方
滑走路 五〇×六〇〇NNW
縣郡村 福岡、遠賀 頓野村
記事 応急滑走路 七-一二既成
この資料から 北北西方向 600mx50mの滑走路であることが分かりますね。
■『海軍施設系技術官の記録』刊行委員会編『海軍施設系技術官の記録』(私家版、1972年)
関係する部分を引用させて頂きます。
「六月に入り、佐鎮から、遠賀川附近に緊急発進用の滑送路を一ヶ月で設営せよと命令が出た。一ヶ月で作れと云う滑走路は長さ七〇〇米で、幅二〇米位だったと思う。これと共に一〇〇kg爆弾(引用者註-正しくは250kg爆弾。防研史料より)の格納用隧道と、飛行機を格納する場所と、その誘導路である。
富士の裾野で、実地演習はしていたが、現実となったのである。隊長は自動車を駆って遠賀川方面に乗り込んだ。先ず図上で、遠賀川の日ノ出橋上流の河川敷を選んだ、色々と調査したが、増水時には、水没の恐れがあり附属施設の設営にも具合が悪るい、特攻機が飛び立てなかったら軍法会議ものでる。
止むを得ぬ、田圃を潰ぶそうと云う事になり、遠賀群小屋瀬地区で、初夏のうららかな田圃に目星をつけた、最後的兵器である特攻基地の建設が初められたのである。毎日、数千人を動員し、隊員も主力を投入して、一ヶ月余りして、どうにか飛び上れる滑送路は出来上った。滑送路の上に田圃の形のように草を植えた箱庭を並べて、滑送路の形を蔽していたのであるが、戦後、米軍の日本軍基地の図集に乗っていたと云う話に、自笑せざるを得なかった。毎日頭上を航空写真を撮る米軍機が、ゆうゆうと飛行機雲をなびかせて、飛んで居たのであるから止むを得ない結果だったと思う。終戦になり、これらの作業地に対する補償を査定して、約二〇万円の支払金を、直方市長に渡した相山中尉(引用者註-この体験記の筆者)は、翌る年その地を尋ねて見たら、元の田圃になっており、戦争の爪跡は殆んど残っていなかった。」
これは当飛行場を実際に造った方の手記です。
関係する部分だけ要約すると、
「6月、遠賀群小屋瀬地区の田園を潰して指示通り1ヶ月余りで完成。戦後すぐ元の田園に戻った。」
■佐世保施設部担当の各飛行場について
件名:佐世保施設部管区航空基地緊急整備推進隊報告
直方基地
概位:直方市北方
工事概要:在来田畑ヲ整地 (ママ)圧シ飛行機隠匿場及組立場新設
ここでも「田畑ヲ整地」とあり、付属施設の計画もあったようです。
■米軍史料
飛行場名:NAOKATA(米軍史料によくある地名の読み間違いだと思われる)
位置:直方の北1マイル、植木の南東1マイル
座標:N33-45、E130-44
滑走路の長さ:2700フィート X 150フィート 北北西から南南東向き
格納庫等:なし
航空機用掩体等:滑走路の西側に沿って存在する
航空機:確認できず
写真撮影日:1945年8月7日(第3写真偵察戦隊1945年任務番号385)
(2700フィート X 150フィート≒823mx46m)なので、滑走路の長さと向きは海軍資料とほぼ一致しています。
上記4点はPUTIN様から情報頂きましたm(_ _)m
■あさんからの情報
直方秘匿飛行場
33.767565,130.727814周辺。空中写真と地図見ただけなのですが…
戦前の地図には特に区割りはなさそうですが、USA-R211-43などの戦後の航空写真から矩形の田畑が出現してます。
区画整理(圃場整備)かもしれませんが一応。
実はこの考察が凄かったのです(後述)。
■防衛研究所収蔵資料:航空基地 4 「海軍航空基地現状表(内地の部)」
最寄駅よりの方位 距離 筑豊本線直方駅 市の北方
建設の年 1945-7
主要機隊数 小型機
主任務 発進
隧道並に地下施設 工事中
掩体 分散
掩体等、付属施設も計画されていたのですね。
以下、直方市立図書館様から頂いた情報
■雑誌「西日本文化 2011年8月号」17p
「墜落B29と捕虜搭乗員 直方での目撃証言による再現」(牛島英俊/著)に「旧長島
橋の上流側には海軍特攻隊の滑走路が急造されたほど開けた土地である」
前記事とも関連しますが、当基地は「旧長島橋の上流側」とあります。
■B29の植木墜落を伝える会 2013 B29 墜落炎上セリ 昭和20年3月 B29植木墜落の記録
13コマ~
「B29墜落事件を思う -感田から見た墜落の一部始終-」と題して橘邦巳氏の手記が掲載されており、
その一部に当飛行場が触れられていました。
戦争末期の出来事に、も一つ忘れてはならない事がある。それは撃墜事件の前だったか後だつたか、はつきり記憶していないが、我が村落の田圃の中に、海軍航空隊の飛行場が出来た事だ。
飛行場と云っても滑走路が一本出来ただけだが、場所は遠賀川の堤防から東へ四、五十メートルぐらい離れて、堤防に沿う様に、凡そ千メートルかそこらの短い物だつたが、今の様に機械化されていない時代だ。モッコ等を担いでの作業は大変だったそうだ。勿論村人達も使役に駆り出されての話だ。
実家の下の田圃にも、高さ五、六メートルくらいの蒲鉾型をした格納庫が出来た。然し、いずれも、滑走路から発着する飛行機を見た事もないし、又、格納庫に出入りする飛行機も見ないまま終戦になつた。
B29の墜落は3月末でした。
当基地の建設は同年6月と思われますので、撃墜事件の数か月後ということに。
この手記は57年も後に記されましたので、この程度曖昧になるのは当然ですよね。
要約すると、
「遠賀川の堤防から東へ四、五十メートルぐらい離れて、堤防に沿う様に、凡そ千メートルかそこらの短い物」
位置特定につながる非常に具体的な情報ですね。
1/25000「木屋瀬」昭和13年測図「今昔マップ on the web」から作成
1/25000「木屋瀬」昭和25年三修「今昔マップ on the web」から作成
情報を頂いた皆様、本当にありがとうございましたm(_ _)m
上の2枚は、「おおよそこの辺り」と思われる同じ場所の地図なんですが、時代が違います。
それぞれ昭和13年、昭和25年の地図なので、
「滑走路建設前」「建設後(戦後畑に戻した後)」ということになります。
ここは資料に出てくる「木屋瀬地区」で、「遠賀川」が流れています。
北が河口方向であり、資料に出てくる「中島橋の上流」とは、中島橋の南側一帯ということに。
中島橋の上流に沿って、資料にある通り、「広々とした田圃」が広がっています。
田圃が飛行場に変えられ、戦後すぐに田圃に戻されたとする史実とも合ってますね。
この周辺のどこかに飛行場が造られたはずなのですが、
オイラが特に注目したのは昭和25年の地図の赤矢印部分でした。
1/25000「木屋瀬」昭和25年三修「今昔マップ on the web」から作成
道路と堤防で細長い地割になってますが、長辺は600mであり、
この長さは防衛省資料にある滑走路長さとピッタリ同じです。
短辺は、堤防から破線が120mあります。
地元目撃者の方の手記にある通り、「遠賀川の堤防から東へ四、五十メートルぐらい離れて」いて、
防衛省資料にある通り、滑走路長さが600mx50m、方位NNWとすると、
ココの地割に長さも向きもピッタリ収まります。
ということで、種々の条件に当てはまることから、恐らくココだったのではないかと。
そしてこの場所は、あさんが特定した場所なのでした。
あさんは以前にも、「何もなかった場所に、飛行場建設後、(滑走路らしき)何かが出現している」
という今回同様の手法で軽井沢飛行場の位置を特定されたのでした。
赤マーカー地点。
ここから奥に向って滑走路だったはず。
黄マーカー地点
滑走路中心線から滑走路方向
福岡県・直方基地(直方牧場)跡地
直方基地(直方牧場) データ
設置管理者:海軍
種 別:秘匿飛行場
所在地:福岡県直方市感田
座 標:33°46'01.6"N 130°43'35.0"E
標 高:7m
滑走路:600mx50m
方 位:15/33
(座標、標高、方位はグーグルアースから。滑走路長さは資料から)
沿革
1945年06月 着工
07月 完成
08月 終戦。畑地に戻る
関連サイト:
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
『海軍施設系技術官の記録』刊行委員会編『海軍施設系技術官の記録』(私家版、1972年)
佐世保施設部担当の各飛行場について
米軍史料
防衛研究所収蔵資料:航空基地 4 「海軍航空基地現状表(内地の部)」
雑誌「西日本文化 2011年8月号」
福岡県・B29墜落地点 [├場所]
2024年5月訪問
撮影年月日1947/03/11(昭22)(USA M117 85)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
昭和20年3月27日深夜、テニアン島北飛行場を離陸した102機のB29が来襲、爆撃と機雷投下を実施。
対する日本軍は対空砲火と戦闘機により迎撃。
これにより10機以上のB29を撃墜したとされており、
このうちの1機が福岡県直方市植木町に墜落したのでした。
このことは、
B29墜落炎上セリ■ と題するサイト様に詳細が記されています。
B29墜落地点について記されている部分を以下引用させて頂きます。
(6p)B29が墜落したのは、植木と小屋瀬をむすぶ旧中島橋(全長四一〇メートル)下流の河川敷であった。ここは遠賀川と犬鳴川の合流点にあたり、橋の上流側には海軍特攻機の滑走路が急造されたほどひらけた地形である。「橋の欄干をかすめるように墜落した」との証言とあわせて、B29はここに不時着を試みた可能性もある。
ここで出てくる「海軍特攻機の滑走路」が「直方飛行場」で、約1,500m上流に位置していました。
同資料には墜落地点についても写真付で紹介されており、その場所に行ってきたのでした。
墜落当時の中島橋は架け替えにより撤去されてしまいました。
現在の中島橋は、平成元年に完成した新橋。
ちょっと上流側に架けられました。
橋の上から墜落地点方向。
福岡県・B29墜落地点
B29墜落地点 データ
所在地:福岡県直方市植木
座 標:33°46'40.3"N 130°42'59.9"E
標 高:3m
(座標、標高はグーグルアースから)
関連サイト:
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山口県・和佐基地跡地 [├国内の空港、飛行場]
2024年5月訪問
撮影年月日1947/03/12(昭22)(USA M114 54)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
山口県大島郡周防大島町和佐海岸。
大戦末期、ここに海軍の「和佐基地」がありました。
基地を設営し、浜辺で水上機の訓練を実施したのですが、ここは非常に特異な基地でした。
当基地については、ブログ大日本者神國也■ の盡忠報國様から送って頂いた情報で初めて知りました。
以下、送って頂いた資料から一部引用させて頂きます。
盡忠報國様、貴重な資料をどうもありがとうございましたm(_ _)m
六三一空の訓練状況
「晴嵐」の航空隊六三一空は、十九年十二月十五日、鹿島空内に開隊したが、先にも述べたように、「晴嵐」は横空水上機班で実験飛行中だったので、開隊時には「晴嵐」の配属は一機もなかった。
二十年一月はじめには、実験機二機を含め「晴嵐」は四機となった(中略)
さて、呉空における六三一空の飛行訓練はこうしてはじめられたが、呉空は山が迫っているなど空域が意外に狭く、水偵ならまだしも、高速、高性能な「晴嵐」「瑞雲」の訓練には不向きであった。
事実、藤村昌一、園田直両上飛曹の「瑞雲」が空中事故を起こして殉職するという状況だったので、訓練適地を他にもとめることになり、福永飛行長と浅村飛行隊長が空から探した結果、瀬戸内海屋代島の和佐海岸を選定した。このため、私たち六三一空基地要員も早速、連絡船で和佐に渡り、海岸周辺の民家数軒を借り受け、三月五日、にわか造りの基地を設営した。
かくて、二、三日後、有泉司令は軍令部の藤森参謀に電話を入れ、「瀬戸内海屋代島の和佐に訓練基地を設けた。訓練状況を見て欲しい」
と連絡したので、同参謀は直ちに呉に出向き、呉空から出迎えの「晴嵐」で和佐に飛び、訓練状況を視察した。
視察後、藤森参謀は有泉司令に、「『晴嵐』の着水状態が悪いなあ」
と言ったところ、司令は笑いながら、「そうなんだ。しかし、あんまり着水せんでもいいからなあ。(実戦では大型爆弾を積むためフロートを着けないで発進し、帰投時は胴体着水して機体は海没放棄、搭乗員だけを収容することに
なっていたことを意味する)、でも、ひっくり返ってはいかんなあ」
と答えたあと、「立派に決行するよ」
と決意を述べた。(中略)
一方、屋代島の和佐基地は呉空にかわる適地として選ばれた水上機基地だったが、当然のことながら和佐の海岸は砂浜のため、「晴嵐」がエンジンをふかすと砂が舞い上がり、これが機体の組み立てジョイント部分に入り込み、再三トラブルを起こすなど、和佐海岸も「晴嵐」の訓練基地としては不適当であった。
また、三月十九日には米艦載機による呉軍港急襲があったし、二十七、三十日の両日には、B29により瀬戸内海西部海域一帯におびただしい投下機雷が敷設され、この時期、瀬戸内海はすっかり危険海面に一変し、「潜水空母」の訓練どころではなくなっていた。
ということで、ここは「晴嵐」の訓練のために使用された基地でした。
「潜水空母」などという、まるでSFの世界の架空兵器のような、当時世界最大の潜水艦「伊四百」。
「晴嵐」は、そこに搭載される水上攻撃機だったのですね。
乗りものニュース:「潜水空母」伊四百型はなぜ生まれ、何を残した? 旧海軍、乾坤一擲の「秘密兵器」■
にて「伊四百」について分かり易く扱われていました。
赤マーカー地点周辺
大戦末期、ここで「潜水空母搭載型水上攻撃機」という、世界に類を見ない水上機の訓練が行われていたのですね。
しかしキレイな砂浜と海です。
山口県・和佐基地跡地
和佐基地 データ
設置管理者:海軍
種 別:水上機基地
所在地:〒742-2518 山口県大島郡周防大島町和佐
座 標:33°54'54.6"N 132°22'51.3"E
(座標はグーグルアースから)
沿革
1945年03月 5日 訓練基地として選定。周辺の民家数軒を借り受け、基地設営
27日,30日 瀬戸内海西部海域一帯に大量の投下機雷が敷設され、危険海面となる
関連サイト:
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